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日本仏教と百日紅の花

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仏教はインドで生まれました。
そして、沢山の人の功績で、中国から日本に伝わりました。
ベトナムやタイに伝わった仏教(小乗仏教)とは少し異なりました。
風土や既存の信仰(文化)の違いが影響したのでしょう。
でも、「お釈迦様の一生を説き、誰でも『仏』になれるのだ・・・。その方法とは・・・。」
と言った教えは変わらないようです。
ですから、お釈迦様の一生を絵巻物にした「絵因果経」は様々な国、民族に共通する大事な教えです。
 
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                                 絵因果経、お釈迦様は何時でも樹下においでです。
 
             
絵因果経を見ると、総ての画面に樹が描かれて、お釈迦様は何時も樹下においでです。
大樹の樹下は心が落ち着き、木のパワー(ピラミッドパワー)が得られたのでしょう。
ムユウジュ(無憂樹)はお釈迦様がその木の下で生まれたとされます。
菩提樹はその樹下で悟りを開いたと言わます。
そして沙羅樹はお釈迦様がその木に囲まれて滅されたと言われています。
仏教の三大聖樹です。
 
でも、熱帯の国インドの木が中国、日本で生育している訳ではありません。
無憂樹と言っても・・・・・・、その木はどんな木なのか・・・・・・、布教するためには聖樹を具体的に指し示さなくてはなりませんでした。
王国の美しい庭園(ルンピニー)で、摩耶婦人が無憂樹の赤い花を「まー、綺麗!」と手折ろうとしました。
手を挙げられた、その腋の下からゴータマ・ シッダッタは産まれました・・・・。
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             摩耶夫人が無憂樹の花を折ろうと腕を伸ばすと腋の下から子が産まれました。(法隆寺蔵)
 
日本ではインド菩提樹は「桑の木」、沙羅は「白雲木、または夏椿」・・・・、
そして無憂樹は「百日紅」と思いました。
ですから、これらの木は多くお寺さんには植えられています。
とりわけ、百日紅はお盆の季節に咲く花です。
どちらのお寺さんでも大切に育てられています。
「猿滑り」と言われる所以のツルツルとした木肌、幹のくぼみは摩耶夫人の腋の下のようにも見えます。
 
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   鎌倉大町の本興寺の百日紅(2008年)
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   同じ本興寺の名物、百日紅。約1ヶ月眺め続けましたが、これが最も花が多い状態です。(2011年8月28日)
 
鎌倉の寺に百日紅を求めて行脚する人は随分居ます。
私も、そんな一人です。
そんな花好き同士で情報交換します。
 
「何処のお寺の百日紅が咲き出した・・・」に始まり
「あそこの寺の百日紅は勢いが増した・・・」
「○寺には紅白の百日紅が見事だ・・・・」
でも、今年は、
「英勝寺はだめでした。海蔵寺は少しはましだが・・・・」
「本覚寺を除いて鎌倉は全敗だ・・・・」
「本興寺は本堂の屋根の葺き替えを終えたので・・・・期待したが花数が少ない」
「補陀洛寺はスス病にやられて、花が咲かなかったようだよ・・・・」
 
今年の百日紅が不冴えなのは天候不順が影響したのか?
今年、鎌倉の百日紅は惨憺たる状況のようです。
でも、街路樹など若い木はそれなりに咲いているので、
古樹、大樹の花が冴えなかったようです。
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  補陀洛寺の名物百日紅、今年は殆ど咲かず。全体に黒ずんでいるのはスス病にかかったため。
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  葉っぱ、枝、全身に黒い煤が付いたようになっています。樹勢は衰え花は付きません。
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              百日紅にアブラムシ等が付いた症状。 樹勢が落ちてスス病が追い討ちをかける。
 
 
そこで、三浦や小田原にも百日紅を求めて出かけてみました。
 
小田原の大雄山最乗寺(道了尊)は曹洞宗の古刹です。
南足柄に鬱蒼と茂る森林の奥に奥にと石段を登ります。
その本堂に脇に百日紅があります。
家内と昨年も見上げました。
「やはり、お寺に百日紅は良いなあ・・・!」眺めました。
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                               大雄山最乗寺(道了尊)の本堂前の百日紅の花(2010年撮影)
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                         今年の最乗寺の百日紅(2011年8月30日)
 
学生時代に日本の文化研究会に属し、ちょうど今頃京都に合宿していました。
鍋底のような暑さの中、青蓮院から知恩院、真如堂に向かいました。
何処のお寺にも百日紅が見事に咲いていて、枯山水の庭に散っていました。
また、築地塀の上に花の梢が見上げられました。
「京都の夏は百日紅だな・・・?」思いました。
最後の目的は清水寺、三寧坂の茶屋でかき氷を頂、熱した体を冷やしました。
かき氷は百日紅のようでした。
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                       鎌倉岩瀬大長寺の百日紅。和尚さんが丹精されています。
 
今年の最乗寺の百日紅は寂しい花数でした。
特段病気ではないのですが・・・・、やはり天候不順の所為でしょうか?
 
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                                              かき氷は百日紅の花のようです。
 
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街路樹として植えられた百日紅は見事に咲きました。木の若さ、勢いが花をつけたのでしょう。それにしても「紅色」でない「百日紅」が増えました。白、ピンク、藤色様々です。此花はライラックのようです。
もう「百日紅」と書いて「さるすべり」と読むのは無理なようです。
 
 
 
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明神ヶ岳「長泉院」の石仏

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箱根外輪山の主峰は明神ヶ岳でありましょう。
大文字が焼かれます。
西に金時山、東に明星ヶ岳を従えます。
昔も今も、相模平野から仰ぎ見れば、神々しい霊山でありました。
 
明神ヶ岳の山麓にある寺の筆頭は大雄山最乗寺です。
一般に「道了尊」と言われ、相模の国では慕われています。
道了尊とは開山「了庵慧明禅師」の渾名のようなもの、昨年は禅師の600年忌で賑わいました。
その東、2.5キロ程の山中に長泉院があります。
更に東には総世寺があります。
何れも、曹洞宗のお寺さんです。
何れも明神ヶ岳に発する渓流の湧き出す処にあります。
古代杉が鬱蒼と茂っています。
その下闇に長い参道が続きます。
その突き当りが古刹です。
 
でも、長泉院を訪れる人は全く居ません。
山川出版の「神奈川県の歴史散歩」には、最乗寺や総世寺の記述は沢山ありますが、
長泉院は名前すらありません。
歴史家の目には”たいしたものがない”お寺なのでしょう。
でも私の関心は「路傍の石仏」です。
本に出ていないお寺には「美しい石仏」が祀られている事が良くあります。
期待に胸躍らせて、村道から参道に入ります。
 
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 長泉院の参道を入ると直に「屋根のついた橋」があります。棟の上に竜が祀られて「竜門橋」とも呼びましょう。
 川の淵にお地蔵様が祀られ、橋の向こうは霊域を示しているようです。このお地蔵様は3頭身の穏やかなお姿 です。山上の石仏と同じ石工の技だと思われます。
 
酒匂川の支流に狩川、その又先の支流が「矢佐芝川」です。
長泉院は矢佐芝川の源流にあります。
参道を登ると「屋根つき橋」が架けられています。
屋根の上には「竜」が祀られています。
此処は西相模の水神様なのでしょう。
平野には二宮尊徳が整備した耕地が広がっています。
相模平野のお米も、相模湾の魚も、源流はこの水神にあります。
全国何処にでもある水神様の風景です。
 
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                               奥が長泉院の総門、その西側には石仏がお座りです。
 
寺の案内が掲示されています。
概要は以下のとおりです。
6世紀前半には黄色大権現(金毘羅様のご分身)が祀られていました。
その寺(神社)に鎌倉時代には建長寺18世「東明慧日禅師」が入られました。
以来、高僧の徳を慕って立派なお坊さんが入りました。
1416年、上杉禅秀の乱が勃発すると、当地の豪族大森頼春が平定、自らも小田原城の城主になります。
頼春の息子大森氏頼は僧侶になり、清泉院を建立、
さらに当地に移築して「長泉院」として、大森一族の菩提寺にします。
この後大森氏は北条早雲によって滅ぼされます。
しかし、長泉院は北条氏政、豊臣秀吉など為政者によって加護されます。
 
長い参道の奥に総門、四脚門(山門)がありました。
門の周りには紅葉や竹林が囲んでいます。
そして古代杉が門も本堂も方丈も見下ろしています。
永平寺と同じような、身も引き締まる霊気が満ちています。
「このお寺は良いなあ・・・」感じられます。
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                            青い楓に囲まれた長泉院の四脚門、紅葉も期待させます
 
門の西側が土手です。
其処に石仏が並んでいます。
苔生していますので・・・、何が書かれているか定かではありません。
16番、とか32番とか刻まれていますので・・・・・。
でも、80番台まであります。
石仏は観音様に限りません。
大日如来が目立ちます。
地蔵菩薩もあります。
馬頭観音様が一番多いでしょうか?
 
「此処は金毘羅様の霊場であった所・・・・、ならば四国88霊場」を祀った石仏なのかも知れません。
相模の人は遠い四国まで霊場めぐりは出来ません。
でも、自然の恵みに感謝しています。
そこで、この金毘羅様の霊地に石仏を建立し、地元でも巡礼が出来るようにしたのでしょう。
 
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                 横広がりのある、三頭身の石仏は同一人(集団)の石工の技でありましょう。
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                         土手側に並んだ石仏群。特徴のある穏やかな表情です。
 
石工の技法を見れば、一人の石工(または石工集団)の技のようです。
一般に石仏は仏様の立ち姿、座姿を刻んでいるので縦長が普通です。
でも、この石仏は横幅が十分あります。
縦長は何処かせわしないような・・・・、急き立てられる感じがしますが、
横長画面がゆったりした仏様に見せているようです。
小さな石仏でも、大きな気がする・・・・・・、それが石工の技でしょう。
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   石仏には霊場の番号と寄進者の村名、名前が刻まれています。これは弘法大師(又は地蔵菩薩)でしょう。
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こちらは大日如来
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薬師如来
 
 
頭上の楓は未だ真っ青です。
一枝染まっているのは、気が早いのでしょうか・・・、それとも焚き火で傷んでしまったのでしょうか?
でも、紅葉になったらまた見事でしょう。
苔生した石仏に、また別の表情を見せてくれることでしょう。
標高から見れば「箱根塔の沢」程度でしょうから、11月も後半でしょう。
今から楽しみです。
 
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                                   馬頭観音(写真では良く分かりませんが)
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                                                     十一面観音
 
 
 
 
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大雄山の「講札」の美しさ

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箱根外輪山の主峰「明神ヶ岳」の東山麓には曹洞宗の古刹が並んでいます。
昨日はそのひとつ「長泉院」を案内しました。
「一寸寄って見ようや・・・・」
軽い気持ちで、家内と参詣したのでしたが、
霊気漲る境内と、夥しい石仏に時間の経つのも忘れてしまいました。
 
長泉院から林間道路を西に走ると約2キロで大雄山最乗寺(道了尊)の参道にぶつかります。
近くに最乗寺の仁王門があり、「3丁目」と記されています。
不確かではありますが、伊豆箱根鉄道大雄山線(小田原から発する参拝電車)が1丁目で、
山に登るに従って、仁王門が3丁目、此処から「天狗の小道」が始まります。
小道は本堂まで約3キロ、老杉の下を延々と続いています。
数年前、小道に沿ってアジサイを植えました。
自然豊かな別天地ですが、アジサイにウィールスが発生したとのことで、
病気のアジサイは伐採して焼却、新たに昨年植え替えられました。
気持ちよく、楽しく小道を登っていただくには、苦労もあるようです。
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                最乗寺、山門から本堂への石段(写真は昨年了庵慧明600年忌)
 
参道の終点が山門下、22丁目茶屋があります。
バスも此処が終点になります。
山門から500mほど渓流に沿って登れば,最乗寺の本堂にでます。
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                           渓流の沿って登ります。今は玉アジサイの見ごろでした
 
私たちの目的は本堂横の百日紅の花でしたが、今年は花つきが悪く、残念至極でした。
鎌倉も、横浜も百日紅の老木は花が付きませんでした。
まあ、綺麗な年もあれば、花が付かない年もあります。
木が長年生きてゆくための知恵も隠れているのでしょう。
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            本堂前の百日紅(昨年撮影、今年は花つきは悪かったのでした)
 
大雄山最乗寺には二つの側面があります。
一つは曹洞宗の「禅道場」としての側面です。
了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師は相模国大住郡糟谷の庄(現在の伊勢原市)に生まれます。
藤原姓の地頭でありました。
ところが乱世の無常に虚しさを覚え出家します。
能登総持寺の峨山禅師をはじめ多くの師の指導を受けます。
相模の国に帰り、曽我の里に竺土庵を結びます。
禅師の夢に一羽の大鷲が現れます。
自分の袈裟をつかんで足柄の山中に飛び大松(袈裟掛けの松)の枝に掛けてしまいます。
その啓示によって山中に大寺を建立を発念、大雄山と号します。(応永元年(1394)3月10日)
 
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             道了尊(修験者)が最乗寺を建立します。その神業から大天狗として崇拝されました
 
修験者の「道了尊」は 了庵慧明禅師が大雄山を拓く話を聞き、
三井寺園城寺から馳せ参じます。(空を飛んだと言い伝えられます)
修験者の力を結集して、大伽藍の実現を果たします。
御真殿の前に大天狗、小天狗が並んでいますが、大天狗とは道了尊のこと、
小天狗は従った修験者の事でしょう。
天狗(修験者)達は、山麓の大樹を切り倒し、岩を組んで大伽藍を実現しました。
その、獅子奮迅の活躍ぶりは、まさに神業だった事でしょう。
短期間の間に、大伽藍を実現しました。
神々しく壮大な寺を見上げた人々は驚きの声を発しました。
「これは人間技ではない、天狗の仕事だ!」
天狗は大雄山を建てられた・・・・・、厚い信仰を集めます。
 
関東各地で「大雄山講」が組織されます。
地域の農民や商工業者が大雄山への信仰を核に結びついて、1年間一生懸命働きます。
そして、御礼を込めて「大雄山」に詣でます。
信者達を迎える施設は充実していました。
麓には数多くの宿坊があります。
そして参道には茶屋がありました。
此処で一服して、霊山の空気を胸いっぱい吸い込んで、また坂道を登るのでした。
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     18丁目茶屋の前、伊豆箱根鉄道の路線バスが登ってきました
 
私達は腹もすいたので、初めて18丁目茶屋に入りました。
売れ筋は「麦とろ定食」(1250円)のようです。
蕎麦に魅力を感じて「とろろ蕎麦」にしました。
名物の自然薯を使った「とろろ」をつけて食べる「笊蕎麦」です。
茶屋には私達のほかに1組居るだけで、淋しい状況です。
壁には2年前に書いた「加山雄三」の色紙がかかっています。
湘南に育った人は「大雄山」に熱い思いを抱いているものです。
南足柄に下れば、美味しいお店も数多くありますが、矢張りこの茶屋に入る習慣があるもでしょう。
 
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             魚河岸(築地場内)の講札(昭和25年)が掛かった店内
 
店先の壁には沢山の「講札又は講中札、最下段に説明)」がかかっています。
私がカメラを向けていると主人が声をかけてくれました。
「この茶屋は昭和17年火災で焼失してしました。先代はこの講札を命懸けで持ち出しました。
こちらは、昭和13年のものです。
 
「神田」と書かれているのは築地魚市場場内の講です。
講札は昭和25年作られましたが、
最後に来られたのは昭和60年でした。
江戸時代から神田市場をはじめ様々な講があって、立ち寄ってくださったものでしたが・・・・・。
もう講札を見て寄って下さるお客さんは居ませんが・・・・・・。
 
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 右から「有明講」「品川寿司協同組合」「足立雄山講」などの講札が掛かった店内。品川寿司組合の札が昭和1 3年のものだそうです。今も南品川には寿司屋さんが軒を並べています。
 
講札は「信仰」が絆になっていた時代の証拠なのでしょう。
富士吉田には「富士山講」の講札が残されていますし、身延山にも、金毘羅山にも・・・・、
夥しく美しい講札を見ることが出来ます。
 
テーブルにはとろろ蕎麦が用意されていました。
乾麺(蕎麦)を湯がいて笊蕎麦です。
真っ黒な蕎麦汁にタップリとろろ汁が盛られています。
蕎麦好きの私には少し物足りませんでしたが・・・・・、
昔ながらの茶屋でいただけるのは有難いことです。
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                                                 とろろ蕎麦
 
 
私の祖父(周三)の師は最乗寺の管主織田雪巌禅師だったと聞きます。
祖母も父も事あることにこの寺に出かけていました。
どんな相談や指導を受けていたのか分かりませんが、
何度かこの茶屋の暖簾を潜った事でしょう。
 
 
   補注:講札(講中札)
 江戸時代の信仰をともにする人たちの集まりを「講」と言いました。構成員は信仰を共にするとともに、一緒に旅 行するなど「楽しみ」も共有していました。特に一人旅は危険を伴いましたので、グループで旅行しました。江戸 の人たちに人気があったのは「大山」で、その先の大雄山や江ノ島まで周遊する事が流行ったようです。彼ら  は宿坊や旅籠や茶屋等に掛かっている「講札」を目安にしていました。「●○会社指名宿坊」の看板のような役 割が ありました。そのデザインが簡潔で美しいことから近年見直されてきたと思われます。
 身延講の講札は以下に書きました。
 
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「幽霊の正体見たり枯れ尾花」(幽霊文化論②)

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古川柳に
    幽霊の正体見たり枯れ尾花 があります。
誰でも一度は二度経験したことがあるでしょう。
遠目に見たら、「幽霊が立っている。風に吹かれて、自分をじっと見ている・・・」
背筋に冷たいものが走り、髪の毛が恐怖で立ってしまった。
でも、待てよ・・・・、よくよく見てみれば、「何だ、正体は枯れススキじゃないか!」
 
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                                             箱根石仏群、賽の河原
 
最近は脳科学が進んで来ています。
私の薄い学では、次のように理解します。
宵闇の中「枯れススキ」を見た瞬間、視覚は脳に伝わり、脳から「海馬」に伝わります。
海馬では「ススキの残像」を検索、似た影像として「お前の前に居るのは幽霊だ!」報告します。
こうして、「幽霊が出た!」思うのですが・・・・・・、
自分は人に恨まれる筈はない・・・・、思って冷静になれば、正体が判ります。
枯れススキを幽霊に見間違えたのだ・・・。
 
海馬は脳のICメモリーのようなもの、一生の経験や知識、文化などが様々なファイルに積み込まれています。
特に「時代感覚」とか「時代の死生観」「倫理観」なども刷り込まれています。
ですから、「幽霊だ!」判断は、その人の経験の他、時代感覚、文化によって随分違います。
 
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   地獄草子(京都国立博物館・国宝)死者は獄卒に切り刻まれる図。こうした絵が人達の脳(海馬)にプリントさ   れ、夢にも現れました。特に臨死体験をした人が、地獄を見てきた・・・・、と報告しました。
 
今昔物語に素敵な幽霊の話があります。
巻27は「本朝世俗編」で、平安末期から鎌倉時代の世俗的な話を綴っています。
過半が幽霊や妖怪のお話です。芥川龍之介の「鼻」など多くの奇談も含まれて居ます。
その25話です。
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   餓鬼草子、卒塔婆にかけられた水を飲む餓鬼達、今日の施餓鬼行事につながる風俗が描かれています。
   餓鬼は人間の目には見えません。死んだ霊です。
 
【死んだ妻を抱く話】
京都に身分は低いが美しい妻と暮らしていた侍が居ました。
その主人が地方の国司に任命されました。
男は地方に赴任せざるを得ません。
ところが転任の身支度を世話する女が出現しました。
そこで妻を捨てて、新しい女を妻にして、地方に旅立ちました。
 
任期を終えて京都に戻ると、男は急に前の妻が恋しくなりました。
旅装束のまま前の妻の家に行きました。
門は開いたままで、庭には浅茅が生えて、とても人が住んでいるとは思えませんでした。
でも、一人で嬉しげに妻が出迎えてくれました。
 
男は妻を抱きながら話しました。
「悲しい思いをさせて相済まなかった。明日には家を修理しよう。家人も召し使えよう・・・」
そうして、夜明け前に眠りにつきました。
 
翌朝、男は降り注ぐ光で目を覚ましました。
隣で寝ている妻は骨と皮のミイラでありました。
驚いて、隣家に確認します。
「其処の家の女はどうしましたか?」
すると、隣家の主人は答えました。
「隣の方は長年連れ添った夫に捨てられて、夫は遠い国に行ってしまいました。
様々な男が言い寄っていたようでしたが、他の男には目もくれずに・・・、嘆き悲しんでいました。
ところが今年の夏にとうとう息絶えてしまいました。
誰も野辺送りを出してあげる人も居なくて・・・・、そのままになっていますよ・・・・」
 
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 優しい、美しい妻は幽霊になって、夫を迎えました。「如意輪観音」を見るとこの妻を思い起こします。
 
この話は江戸時代上田秋成の「雨月物語/浅茅が露」になります。
 
 
今昔物語にも、その前の編纂された「日本霊異記」にも幽霊譚は数多くでてきます。
兄弟や夫に殺されて、幽霊になった話も数多くあります。
どの幽霊も生前は「正直者」で「美しく」「知的」でもあって、悲しむべき人物でありました。
人に捨てられたり、殺されたりするのですから・・・・、実に気の毒であります。
でも、怨霊にもなりません。
(怨霊は将門や道真のような公人、力のある、男性に限られました。
源氏物語の六条御息所は死霊になって人を取り殺しますが、これも公人だからでした。市井の人には幽霊になるパワーがありませんでした。)
 
人が死んで、幽霊になって仇を討つのは江戸時代になってからでした。
古代から中世にかけて、幽霊は人間に決して危害を与えません。
幽霊はこの世に執着を残しているので現れますが、
その目的を達成したり、自分の至らなさを指摘されると直ぐに消えてしまいます。
愛すべき、同情すべき存在でした。
 
この時代畏怖すべきは怨霊であり、妖怪でした。
 
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                  霊界との通路は穴か井戸、ですから、幽霊は井戸から現れます。
 
この頃には、「幽霊になって愛する男性と結婚する話/冥婚譚/妹背山、通盛など」があります。
幽霊と結婚する話は、江戸時代の「心中もの」に発展すると思われますし、
「幽霊になって仇をなす」四谷怪談などの怪談ものに発展します。
「心中もの」や「怪談」の隆盛には、背景に個性とが自我意識の発展があります。
 
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   鎌倉のパワースポットと言われる「小坪トンネル」
 
平安時代、鎌倉時代の「死生観」や「幽霊観」が多くの僧侶によって語られ、絵にも、説話にもなりました。
それが、海馬に堆積していて、様々な形の幽霊になって現れました。
また、臨死体験(心臓や呼吸は停止したが、脳は活性している体験)をした人も、
海馬に堆積された死生観が映像になって現れました。
 
自分は三日間死んでいたが、それは閻魔大王に呼び出されたからだ。
蘇生してから、その原因や審判の様子、罪人の責め苦の様子・・・・・、などを報告しました。
それは、地獄草子に描かれた映像や僧侶の話、説話にも一致していました。
何のことはない、今まで見てきた地獄絵、聞いた話、それらのが海馬にっ刷り込まれていたから、
臨死体験中に海馬から映像データが送られたのでした。
 
 
時代によって、幽霊は変わっています。
近代になって、人間の個性が大事になってくると、幽霊は飛躍的に怖いものになりました。
人間の個性が解き放たれた時から、人間の本性が勝手気ままに動き出したからでしょう。
人間は底無しに「悪になりきれる・・・」知りました。
「金の為」「愛の為」人を殺しました。
「殺された人は幽霊になって仕返しをする」
それは、自分が殺されたら・・・・、仕返しをするだろう。
自然な推測でした。
近世になって、幽霊が俄然怖い、人間の本質に迫る存在になりました。
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    穴は霊界との通路と思われていました。
 
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」はもう一歩進めれば、
「幽霊の正体見つめてみれば、己自身」
なのでしょう。
 
「ジャパンホラー」が世界で評価されている事実は、この1500年に及ぶ「文化の年輪」があるからです。
 
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                               風化して壊れた石仏、これも文化の年輪です。
 
    補足:この夏「幽霊の文化論」を略書き上げました。
       ブログにはエッセンスを書いています。
       論理的に飛躍が無い様に注意していますが、読み直すと・・・、検証データが不足していて,独善的な       感がします。まあ、我慢して下さい。読切で面白味も出したいので・・・。
 
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夕顔を憑き殺した霊(幽霊の文化論③)

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源氏物語にも幽霊と思われる死霊・生霊が登場します。
多分、日本人が最初に書表わした幽霊でしょう。
幽霊の主は六条御息所でした。
源氏物語の前半4帖に「夕顔」があります。
先ず、夕顔の話を追います。
 
 
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  夕顔の花、4時頃に花弁を開きます。(東慶寺)
  白州正子は「絹のハンカチのような花弁が開くさまを見たい」と夕顔の蕾の前に椅子を出して見詰め  たそうです。でも、花は正子の視線を感じてか花を開かず、蕾のまま散ってしまいました。
  4度も試したのに・・・、
  「花が咲くのは秘め事で・・・・見られたら咲けないのだろう」と結んでいます。(随筆集夕顔から)
 
 
 (夕顔のあらすじ)
源氏17歳夏。源氏は見舞い外出の折に、垣根に咲く夕顔の花に目を留めます。
源氏が取りにやらせたところ、屋敷の住人が和歌で返答しました。
その知性的な女性に興味を抱いた源氏は身分を隠して彼女のもとに通います。
その女性も身分を明かしません。源氏は逢瀬の度に彼女にのめりこんでいきました。
ある時、逢引の場所として寂れた某院に夕顔を連れ込みます。
ところが、深夜に女性の霊(六条御息所か物の怪か判然としません)が出現して源氏に恨み言を述べます。
すると、夕顔はそのまま人事不省に陥り、明け方に息を引き取ります。
まるで、夕顔の花が散るように。
ところで、六条御息所の霊は再三登場します。
彼女を説明します。
 
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      徳川美術館蔵、源氏物語絵巻(国宝)、夕顔の断裁は未発見だそうです。これは柏木
 
(六条御息所とは)
16歳で東宮妃となるが、20歳で東宮は亡くなりました。
東宮の死後、年下の源氏と恋愛関係に陥ります。
源氏は、美しく気品、教養も知性はあるものの、矜持の高い彼女をやがて持てあますようになります。 一方御息所は源氏を独占したいと渇望します。でも、誇り高い御息所は本心を押し殺して振舞います。
この自己抑圧が、物語の中で御息所は生霊として登場させます。
その強い嫉妬心が生霊として現れ、源氏の愛する女君達(夕顔・葵の上/夕霧の母)に仇を為します。又死霊としても出現して、紫の上や女三宮に憑依します。
 
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                                六条御息所、上村松園作 
 
源氏物語は日本文学の伝統「色好み」の代表作で、
前には伊勢物語,後には井原西鶴を生みます。
平安時代、貴族の生き様や価値観を示していたと思われます。
古代の「色好み」の特徴は以下のとおりでしょう。
 
(1) 「色好み」には年齢差や身分の違いは関係ありませんでした。
恋情に任せて、生の感情に委ねて行動する「美的遊戯」にこそ価値を認めていました。
源氏が身分の高さや、権力や、財力をひけらかさず、市井の女性に夢中になる姿こそ、「王朝美学の理想」でありました。
(2)貴族は恋の逢瀬に場所を選びませんでした。寂れた建物で逢瀬を交わす事も憚りませんでした。
「恋は盲目」地で行った源氏でしたが、逢瀬の場にした廃家には往々にして悪霊が棲んでいるもの。夕顔は悪霊にとりつかれて死にました。(紫式部は廃屋で逢うなんて・・・、非難はしません。最近の若い人が電車の中でキッスなどしていると、これは伝統と思ってしまいます。)
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   白い藤袴の花、夏には 白い花が目立ちます。夕暮れ(逢魔ヶ時)目だって、蛾など夜の昆虫を誘う    からでしょう。こんな時間に如何に「色好み」とは言え、廃屋で密会するのは遣りすぎです。
 
平安時代後半(平家が盛んであった頃)に今昔物語が編纂されます。
その巻2716話に源氏物語の夕顔に類似した話が載っています。
でも今昔物語の作者の方が遥かに理性的であり、常識的です。
(あらすじ)
ある男(官吏)が親しくなった女の所を訪問します。
仲立ちの女に「部屋に通してくれ」言うと、
「今日は田舎の知人が上京しているので、部屋は塞がっています」と断られます。
そこで、女を連れ出して無人のお堂に入ります。二人は寂しいお堂で睦みます。
ところが深夜に不思議な女が現れます。
恐怖で男も女も自宅に逃げ帰ります。
ところが、女は自宅に着くと茫然として病人のようであったが、
間もなく息を引き取りました。
 
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             此方も夏の夕暮れから咲き出す「烏瓜の花」、レースを思わせます。
 
今昔物語の作者は「無人の古いお堂等で逢引してはいけない」と戒めています。
源氏物語では「色好みの情趣」として評価されているのに・・・・。
貴族階級と一般人とは受け止めが違うのでした。
そして、今昔物語の作者の理性的な判断こそ新たに力を持つ「武士階級」の生き方で、
中世を切り開いて行くと思われます。
 
共通するのは「無人の古いお堂」には悪霊が棲んでいる、
それが女に災いする・・・、と信じられていたのでした。
 
今でも、不倫で、如何わしいホテルなどで密会すると、隣の部屋からマジックミラーで覗かれたり、天井からビデオで撮られられるかも知れません。
ちゃんとしたホテルを選ぶのが識見でしょう。
これは物騒な現代人の感覚、古代京都も都には「色好み」を徹底できるほど「安心・安全」だったのかも知れません。
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  「酔芙蓉の花」白い花が桃色に染まって、まるでお酒に酔ったようだから・・・、   この名がついたのでしょう。でも「恋芙蓉」も適当だと思います。昨日まで意識   もしなかったのに、突然の恋心で色付いてしまいました。(宝戒寺にて)
 
六条御息所が「前東宮妃」という社会的な地位が高く、独占欲や嫉妬心が強いことから生霊となり、更に「死霊」になって源氏の女性たちに災いしました。
多くの女性は「夫に裏切られても辛抱する、そして幽霊になっても夫を待つ」
そんな姿であったと思われます。その具体例は昨日書きました。
 
人が恨みを残して死んで幽霊になって、復讐する・・・・、
そんな形が出てくるのは江戸時代になってからでした。
 
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  此方は白いジンジャーの花(生姜の仲間) 東慶寺にて
 
夕顔の花は下記で書いたことがあります。
 
 
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飴屋の幽霊(幽霊の文化論4)

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日本の中世には「幽霊」が多く現れてきます。
文化史上にも特筆すべきは「夢玄能」に現れる幽霊でしょう。
もう一つ、説話に「飴屋の幽霊」があります。
この話は全国各地にあり、どれも殆ど同じストーリーですが、ここでは国東(大分)のお話を紹介します。
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       遠江の本興寺の「幽霊飴」 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45137761.htmlで報告しました。
        幽霊飴は「小夜の中山」「京都」など全国各地で商われています。
 
【飴屋の幽霊の話】
店じまいも終えた雨戸を叩く音がします。
主人はいぶかしく思いましたが戸を開くと、若い女が居ました。
「飴をください」
1文銭を出します。主人は数個の飴を売ってあげました。
翌日の晩にも来ました。
「飴を売ってください」
とうとう、7日目の晩に「これで飴に換えてください」と言って羽織を出しました。
主人は飴を羽織と交換してあげました。
翌日、少し湿っていた羽織を店先で乾かしておきました。
すると、通りかかりのお大尽が店に入ってきました。
「この羽織は先日亡くなった娘の棺桶に入れておいたものだが、何処で手に入れたのか?」
尋ねます。
 
飴屋の主人から話を聞いたお大尽は驚いて娘を埋めた墓場に行きます。
新しい土饅頭の下から赤ん坊の泣き声が聞こえます。
急いで墓を掘り起こしてみます。
すると娘の亡骸が産まれたばかりの赤ん坊を抱いていました。
頭陀袋に入れた三途の川の渡し賃の6文銭は無くなっています。
赤ん坊は飴をなめています。
お大尽は
「娘は墓の中で産まれた子供を育てるために幽霊になってでたのであろう。この子は私が育てる」
と言って抱き上げました。
この子は通幻寂霊(1322~1391)と言う曹洞宗の高徳の僧(総持寺5世)になりました。
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                            安田米斎画 「子育て幽霊」
 
仏教にも、日本の自然観にも「輪廻の思想」は色濃くあります。
「生まれ変わり」の話は良くあります。
「死後出産」して幽霊になって子育てする・・・・・、話は「究極の生まれ変わり」といえましょう。
 
死んだ者が「子供のために冥界から幽霊になって立ち返る」のでした。
 
夢幻能では矢張り死者が「愛のため、幽霊になって思い出の地に現れます。(定家・井筒・二人静など)
そして、旅の僧に幽霊は自分の思い(穢れない愛情)を聞いてもらい、満足したように闇の中に消えるのです。
(此方は別途書く予定です)
 
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                         井筒(竹久夢二画)
 
幽霊になってでる人は共通しています。優しい事、美人であること、
そして「自分の為と言うよりは、他人のため、家族のため」を思います。
其処が特徴です。
とりわけ、飴屋の幽霊は子供が高僧になって社会を人を助けます。
大乗の考えに拠っています。
 
因みに、力の強い人、権力者が冥界から現世に現れる場合は「怨霊」になります。
「気が弱くて、遠慮しながら」現世に戻ってくるから「幽霊」になってしまうのです。
愛すべき霊なのでした。
 
中世の幽霊は「愛のため、家族のため、社会のため・・・・」に、現世に強い思いを残しているので現れます。
「自分の恨みを晴らすため幽霊になる・・・」のが近世(江戸時代)です。
 
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                   風化して骸骨のようになってしまった石仏(六浦上行寺)
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愛してましたから幽霊になりました(幽霊の文化論5)

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昨日は「飴屋の幽霊」を紹介しました。
今日は、能にみる幽霊を紹介します。
能は現在能と夢幻能に大別されます。
現在能は現代劇で主人公(シテ)が現実世界の人物で、対話的に話が展開してゆきます。
これに対して夢幻能は時代劇で、神、鬼、亡霊などが主人公(シテ)になります。
旅僧など(ワキ)が歴史や文学にゆかりのある土地を訪れます。
そこに亡霊(シテ)などが化身の姿で現れます。
そして、生前の姿で登場して思い出を語り、舞を演じます。
ワキの夢に現れるので「夢幻能」と呼ばれてます。
世阿弥が考えた能の様式です。
室町時代の自然観、死生観をベースにしています。
夢幻能の主人公(シテ)に幽霊が登場します。
時代の「幽霊観」は私達の知っている幽霊とは大分違っています。
 
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                                  夢幻能の代表・二人静の舞台(YAHOO百科事典から)
 
代表的な死者の霊(幽霊)が登場する夢幻能を紹介します。
【井筒】
「井筒」は伊勢物語の「井筒井」を素材に世阿弥が作った夢幻能です。
旅の僧が井筒井の故事のある大和の石上に宿を取ります。
すると、幽霊(在原業平の妻)が現れます。
幽霊は優しかった業平の思い出が忘れられずに、この世に留まっていたのでした。
思い出の丸い井戸に顔を映します。
この話は下記に書いたことがあります。
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                道祖神「井筒井」(長野県東筑摩郡)幼馴染が井戸に映る二人の顔を見る
 
【定家】 
「定家」は百人一首の選者藤原定家と恋人式子内親王との秘めた恋を素材にしています。
金春禅竹の作です。
旅の僧が京都都千本の辺りで時雨に遭ってしまいます。
鄙びた家(時雨亭)で雨宿りしていると若い女が現れます。
女は僧を式子内親王の墓に案内します。
式子内親王の霊が現れます。
霊は定家の愛の執着が蔓(定家蔓)になって苦しめると訴えます。
僧が式子内親王の亡霊の話を聞いてあげて、お経を上げると亡霊は成仏できると喜び、
お返しの舞を舞います。
そして、再び蔓の絡んだお墓に消えてゆきました。
 
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                                  式子内親王(百人一首)カルタから。
 
 
                                           
【二人静】
吉野の勝手明神の正月神事で、若菜を摘んで神様に供える風習がありました。
菜摘み女に向かって、一人の女がすすり出て言います。
「吉野に帰られるのでしたら言付をお願いします。私の罪深さを哀れんで経を書いて弔ってください。」
菜摘み女が名を尋ねると跡形もなく消えてしまいました。
 
この、不思議な出来事を菜摘み女は神職に報告します。
でも、菜摘み女が報告するうちに顔付きも言葉も変わってしまいます。
神職が「貴方は何方ですか?」質すと、
「私は静です」答えます。
静御前の霊が菜摘み女に憑いた事が判りました。
 
「それでは、私がねんごろに弔うから舞を見せて欲しい」頼みました。
すると女は静御前が昔勝手明神に奉納した舞の衣装を宝殿から取り出しました。
女が舞おうとすると、いつの間にかもう一人の静御前が現れます。
憑依した静御前,亡霊の静御前,二人の静御前が舞うのでした。
世阿弥の「二人静」は、死を前に「義経への愛」を歌った事を素材にしたものでしょう。
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
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   能「二人静」の名を戴いた「二人静」の花。(軽井沢I君の別荘で撮影)
 
 
紹介した夢幻能は何れもシテが女性で、
愛し愛された人への思いを絶つ事ができずに、幽霊になって現世に現れます。
 
男性がシテの夢幻能も数多くあります。
「生田/いくた・敦盛の戦記」「敦盛」「碇潜/いかりづき・平知盛」などがそれです。
何れも平家物語に素材を求めた能で、戦いに負けたことや、落命したことを悔やんでいるのではありません。
敦盛は熊谷次郎直実を恨んでいないこと、平知盛は死に際の美しさを確認して満足気です。
 
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                    歌川芳員「源義経・平知盛、逢霊図」(波間に平知盛の霊が出現)
 
 
何れの幽霊も現世に対して同じような「思い」を残しているため、成仏出来ずに現世に現れます。
女性の場合は「私の愛の深さを知ってください」
男性の場合は「私が美しく潔く散っていった事実を後世の記憶に留めて置きたいから・・・・」
その為に、幽霊になって現れます。
 
幽霊になって出るほど「愛が純粋であった」
幽霊になって出るほど「美しい死に際であった」
そんな目的でした。
地獄の審判をする「閻魔大王」もそんな幽霊を認めている節があります。
敦盛の場合は地獄の獄卒に催促されます。
 「現世で思いを伝えたら早く地獄に戻って来い!」
 
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                         優しい表情の観音様
 
こんな幽霊です。
それが、江戸時代になると、「金の為に」 「出世の為に」女が裏切られ、殺されます。
女は恨みを果たすため幽霊になって出てきます。
人々はこうした幽霊を「講談」「浄瑠璃」「歌舞伎」「浮世絵」等で喝采します。
幽霊に同情します。
でも、「自分には心の何処かに残忍性があって、幽霊に仕返しに遭うかもしれない」
そんな自覚が生じてきています。
こんな自覚が「中世」と「近世」を分かつポイントでした。
 
だからこそ、近世の幽霊は怖いものになります。
中世の幽霊は時代が求めた「美しい生き方」でありました。
観客が舞台で確認した「芸【舞】の花」であったと言えましょう。
 
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                                       静御前(菱田春草)
 
 
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怨恨を晴らす為幽霊になります(幽霊の文化論6)

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昭和20年代、どの家でも蚊帳を吊って夏を過ごしました。
蚊帳に入ると、海の底に沈んだようで楽しみでした。
布団に入ると、祖母が幽霊の話をしました。
勿論、祖母の話ですから「飴屋の幽霊」のような説話が多かったのでしたが・・・・。
「今、二人で蚊帳を吊っただろう・・・、4隅の最後に吊った隅は何処かな?其処から幽霊が出るよ・・・」
私は最後に蚊帳を張った隅を見ます。
蚊帳の外には結界を恨めしげに見やる幽霊が・・・・・、
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                    歌川国歳「小兵次」、蚊帳から覗く幽霊. 
蚊帳の役割は蚊を防ぐ事です。
でも、その中に入った安心感は「結界」を張られているように思ったのでしょう。
だから、三人で張った蚊帳や、最後の吊った隅に幽霊が出る・・・・、そんな話が出たのでしょう。
人は囲まれていると安心します。
「結界」もその一つでしょう。
放たれると、心配でなりません。
 
 
 
江戸三大幽霊と言えば「番町皿屋敷のお菊」「東海道四谷怪談のお岩」、そして「眞景 累ヶ 淵」の累(かさね)であります。どれも、実話を素材に鶴屋南北が歌舞伎に作り上げたものです。
能の世阿弥の位置に歌舞伎の鶴屋南北があります。
此処では、「累ヶ 淵」を紹介します。
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      葛飾北斎画、四谷怪談の話題の場面「提灯通し(提灯が燃えて、中からお岩の幽霊が飛び出       す)」を描いた。
 
累(かさね)と助の亡霊】
この歌舞伎は
4代目鶴屋南北が文政6年(1823)に発表したものでした。
下総国岡田郡羽生村(茨城県水海道市)に「累」という、醜い女が住んでいました。
この女には先祖伝来の田畑がありました。
その田畑に目ががくらんだ与右衛門は入り婿になります。
与右衛門は、ひそかに累を殺そうと決意します。
与右衛門は、累を川の中へ突き落とし、首を絞めて殺します。
そして、累の死体を同村の法蔵寺に運び葬りました。

累の財産を得た与右衛門は、新しい女房を迎えます。
しかし女房は相次いでなくなり、ようやく6人目の女房との間に娘が一人生まれました。
菊と名付けたましたが、娘が13歳になった年に、その母も死んでしまいました。
菊に金五郎という婿をとって与右衛門の老いの助けとしました。
 
翌年菊が煩い、口から泡をふいて苦しみながら訴えます。
「わたしは菊ではない。そなたの妻の累だ。26年前、よくもわたしを責め殺したな。地獄から訪れて菊の体に入れ替わり、おのれを責め殺すのだ!」
と与右衛門につかみかかって来ました。
必死の思いで与右衛門は、法蔵寺に逃げ込みました。
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      左「女房・かさね」を<5>岩井半四郎。右「与右衛門」を5代目松本幸四郎が演じるポスタ        ー。(演劇博物館)

怨霊をなだめようとする村人に対し、累の死霊は石仏一体の建立を求めました。
村人がその要求を入れても、死霊は菊から去ろうとしません。
祐天上人(目黒の祐天寺の開山)が、この累の話を聞き、累の霊を成仏させました。

累の死霊も成仏したと人々が安堵していましたが、菊がまた
も死霊に悩まされていると言います。
祐天上人が再び駆けつけて、菊にとりついた死霊に正体に問いました。
すると「助」と名のる子供の霊があらわれました。
61年前、累の父の先代与右衛門が、醜い連れ子の「助」を川の中へ投げ込んで殺したこと、
また翌年生まれた女の子が、累であったことなどが明らかになりました。
天上人が、十念を授けると、
助の霊もついに成仏をとげたという。
 
目黒祐天寺の本堂横には大絵馬が掛かっています。
「累ヶ 淵」の故事を伝えています。
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祐天寺の巨大絵馬
 
中世の幽霊に比べると、以下が特長であり、時代が進んでいることが分かります。
1、幽霊の原因が財産に目がくらんで、家内を殺した事実にある。
2、幽霊は恨みを果たすため、加害者を何処までも追い詰める。
「累ヶ 淵」の場合は祐天上人の法力によって加害者は殺されないが、
多くの場合殺すまで追い回します。
 
文化文政時代(19世紀)になりますと、商工経済は発展していました。
町人は貨幣の力を持って、武士を圧倒し、農民も新田開発を成功させていました。
「社会は人間の努力次第で変わるものだ、問題は自分自身の主体的に働きかけ」にある、
考えるようになりました。
支配的な封建思想や、仏教思想を覆す合理的な考え方が生まれます。
社会や秩序を批判する考え方、実践哲学も尊ばれます。
心学の石田梅岩、農本主義ともいえる安藤昌益、報徳思想の二宮尊徳などがその代表でしょう。
何れも、主体的に社会や自然に働きかけて、より豊かな収穫や収益、生活を実現しようとします。
 
丸山真男は19世紀のこうした考え方を『日本政治思想史研究』に著しました。
19世紀になって、日本人の社会に対して考え方が大変革しました。
運命的な家で生まれたのだから、この秩序の範囲内で生きる他無い」と考えられてきたものが、
「運命と諦められていた社会関係を自分自身の側から把握し、変革をトライした」と。
我が国近世も西欧と同じく、
「主体性を自覚した人間が社会に働きかけることを意識した」ところから始まります。
近代化の準備は19世紀には用意されていた・・・・、丸山氏の研究成果でした。
 
 
上記は社会観の変革でしたが、死生観にも、幽霊にも大変革を起こし、
前述の「累ヶ 淵」の特長のようになりました。
 
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          応挙の「お雪」、応挙の幽霊は高名で「落語の道具屋」では軸の幽霊が出て来て、お           酌をしてくれます。こんな美女なら・・・・、
 
 
 
古川柳に次があります。
  講釈師、冬は義士、夏はお化けで飯を食い
 
浄瑠璃に、歌舞伎に、浮世絵に、講談に「幽霊もの」がもてはやされました。
円山応挙の幽霊がもてはやされ、一幅の幽霊の軸で御茶屋が繁盛して、落語にもなりました。
幽霊の絵のあるお寺も人気になりました。
歌舞伎などでは「もっともっと、恐いものを見せたい・・・」工夫を凝らします。
平和な時代、夏には「恐いものが見たい・・・」思いもあったでしょう。
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               四谷怪談の見せ場「戸板返し」の図、天保2年(1832)
              伊右衛門が戸板を引き上げるとお岩の怨霊があらわれる。
 
家などの束縛から解放されて自由になった人間は、改めて自分自身を見つめざるを得ませんでした。
心の中を見つめると、其処には
「金のためなら人を殺す」「愛が醒めれば家内も殺す自分」がいることを自覚しました。
だから・・・・、「若しかしたら自分自身が累ヶ淵の与右衛門になるかもしれない」思いながら、
怪談を見つめました。
「家」と言う「結界」から解き放たれて「個」となった人は、
「近世と言う名の十字架」を背負ったようなものでした。
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戸板を裏返しすると無念の形相の小兵に変わる。 
 
鶴屋南北から高々200年の現代です。
ジャパンホラーは近年ハリウッドでリメイクされ、一層評価を高めています。
文化作品は民族の歴史文化が深いほど、その重なりが多いほど奥行きが出来ます。
今後、様々な作品が発表されることでしょう。
幽霊文化は、日本が世界一強い分野であると思います。
 
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鮨崎英朋 画
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野分に耐えた、浜萓草の花

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TV画面では、紀伊半島に長く居座った台風12号の惨禍を報じています。
死者、行方不明者を合計すると100人を越えそうな気配です。
被災された方々にお悔やみ申し上げます。
 
私が好きな天川村も十津川村も、土石流が民家や道路をズタズタにしてしまいました。
円空仏は大丈夫だったかな?
丹生川上神社は川に面しているから・・・・・、心配だな・・・・・、思います。
 
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  台風の後の由比ガ浜の風景。海の家を撤去する人、ゴミを清掃している車両、夏を懐かしんでいる人、様々   な思いが交錯しているようです。手前の草原に浜萓草やハマユウの花が見えます。
 
横浜・鎌倉の辺りは一時突風が吹き抜け、バケツをひっくり返したような雨が降りました。
柏尾川の緊急サイレンも鳴っていました。
でも、台風はコースを外れましたから、大きな被害も生じませんでした。
 
台風一過、青い空が期待されるのですが、未だ曇天です。
「浜辺で貝でも拾おうか・・・・」、家内を誘って出かけました。
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       由比ガ浜の浜萓草の花。向こうのマンションが逗子マリーナです。
 
由比ガ浜の海の家は今が撤去作業中です。
海水浴で生じたゴミと、大波で打ち寄せられた海草など漂流物で、砂浜は汚れています。
重機が出てゴミの収集をしています。
海の家の職員がゴミを掻き集めています。
この夏を偲んでか、砂浜で寝そべっている男女も居ます。
 
今年の海水浴も、今年は大震災の陰を被っていたようです。
太陽の下で生を謳歌する・・・、訳には行きませんでした。
遊んでいても、心のどこかに東北の事が映像が残っていて・・・・・、心底遊べませんでした。
 
逗子の浜辺には太陽の季節記念塔が立っています。
「我が国には、そんな時代もあったかな・・・・!」
思い起こされます。
 
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    野分で浜萓草は花を飛ばされたようです。また数日で花数が増えるでしょう。
    初秋の青空にオレンジ色の花が映えます。
 
今日の私達の目的地は佐島港の「天神島」です。
貝を拾うのには絶好地です。
それに、海鳥も、砂浜植物も観察できます。
 
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    何時もは天神島は白い砂浜ですが、台風が過ぎると真っ黒な海草で埋められていました。
 
 
つい、1ヶ月前までは「スカシユリ」が咲いていました。
今は浜萓草(はまかんぞう)が咲いています。
浜に咲く「萓草」だから、この名があるのでしょう。
野原に咲く「萓草」だから「野萓草」、藪に咲くから「藪萓草」と言うのでしょう。
でも、野萓草や藪萓草と少し違います。
葉っぱが常緑で、厚いのです。
総ては砂地に適応しているのでしょう。
 
花の咲くのも、浜萓草は2ヶ月くらい遅いようです。
そして、オレンジ色も多少濃いようです。
更に、花弁が一重でキスゲのようです。
尾瀬に咲くのはニッコウキスゲです。
「夏の思い出」に出てきます。
 
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  天神島の浜萓草の花、花が上向き、葉が常緑で厚い事・・・・・、総ては過酷な砂浜に適応した特徴です。
 
 
ニッコウキスゲの花は横向きに咲きますが、浜萓草は上向きに咲きます。
それに、オレンジ色が濃いように思います。
夏の初めに咲くのがキスゲで、夏の終わりから初秋に咲くのが浜萓草でしょう。
色が濃いのは秋の花の特長です。
 
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   海の彼方に見えるのが江ノ島、その手前に逗子の海岸があって、
   「太陽の季節」「桜貝の歌」が描かれた海岸です。
 
萓草とは中国の名、万葉の日本人は「忘れ草」と呼びました。
余りに美しいから悲しいことを忘れさせてくれるから・・・・・、とも言われるようです。
花は一日で散ってしまい、翌朝はまた新しく蕾が開くから・・・・、とも言われます。
でも、忘れ草では「勿忘草」など別の花と混同してしまうので、萓草とお堅い名前で呼ばれているのでしょう。
勿論、日本人には和名の「忘れ草」の方が適当なように思います。
 
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天神島にはもう数人が夢中で貝を拾っています。
お若いカップルは「桜貝」を探しているようです。
浜辺から眺めれば逗子の海岸が見えます。
あそこで創作されたのが「桜貝の歌」です。
   うるわしき桜貝一つ、去り行ける君に捧げん・・・・・・。
 
この海には桜貝が随分拾えました。
台風の後なら拾えるかも知れません。
 
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                     天神島の砂浜。紫色のチョコの塊のようなものは珊瑚。
                     様々な貝がありますがお目当ての桜貝は見つかりませんでした。
 
 
私達も砂浜を探してみました。
でも、なかなか探せません。
壊れた破片すら見つかりません。
代わりに、さんご礁の破片が転がっています。
 
海が暖かくなったから、さんご礁が増えたのでしょう。
で・・・・・、桜貝が見つからなくなってしまったのかも知れません。
 
桜貝も、忘れ草も「夏の思い出」に相応しい自然の贈り物のようです。
 
イメージ 9
      天神島の浜萓草の花は今が今年最後の見頃のようです。実はこの外にも様々な花が咲いています。

 
 
 
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柏尾川の「生き物実態調査/平成23年」

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台風が過ぎて、日差しは夏でも、湿度が下がって空気は秋の気配です。
今朝は、柏尾川が気持ちよさそうだ・・・・、出かけました。
つい二日前、増水して警報が鳴っていたのに、もう水嵩は下がって、水は澄んでいます。
水金梅の花も改めて咲き始めました。
もう10日もすれば、土手に彼岸花が咲く始めることでしょう。
 
川べりにパラソルが立っています。
何かな? 見れば、「調査」と書かれた幟が立てられています。
そうか、「柏尾川の生き物実態調査」をしているのか・・・。
前回が平成20年の秋、3年毎に行われるものです。
私は、土手を下って、調査作業を見つめます。
作業員は3人、一人が魚を、もう一人は水生昆虫を、そして女性の一人が記録員です。
見物人は私ともう一人、作業を見つめます。
 
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   柏尾川で生き物の実態調査をする人のパラソル
イメージ 4
                   調査の様子。川底の砂を掘って、水生昆虫を調べます
 
先ず、3年前のこの地点の実態調査報告の要点を整理しておきます。
1、調査の目的
 水質は一般にDO(dissolved oxygen:溶存酸素)やPHであらわされます。
 また、水質が良ければ多種多様な生物が多く生息します。化学的な水質とあわせて、生物の生息する実態を  調査することによって、河川の水質を調べることになります。
2、調査地点(高島橋下流地点の特長)
 境川(柏尾川はその支流)引地川水系の中にあって、最も生物の種類・数が多いのが特徴です。DOやPHは他 地点と変わらないのに、生物の種も数も多いのは川岸が植物で覆われているからです。
 川岸の水生植物が沢山の水生動物を育んでいます。
3、捕獲方法
 主として投網で魚を捕獲、手網で水生昆虫を捕獲しました。
3、調査結果 (筆者がサモライズ)     
魚の名
採取数
平均長(cm)
平均体重(g)
4
15.9
36
カワムツ
1
5.1
2.5
オイカワ
58
7.6
6.7
ウグイ
1
6.8
4.3
1
48
1300
1
37.4
1400
ボラ
1
10.9
28
マハゼ
1
10
14.6
カワムツ
4
5.7
13.8
 
私は柏尾川を観察してきて、この三年間、水質は一貫して良くなってきていると思っています。
また、年々野鳥も増えてきています。カワセミなど日常茶飯に見られます。
既に、川鵜や鷺の数は多くなり過ぎた感があり、幾つか害を及ぼしていると危惧されています。
これも川に生物が増えてきた結果であると思います。
イメージ 6
                     柏尾川では川鳥が年々増えています。
 
投網に掛かった魚を急いで桶に入れます。
二度、三度投網が終われば、いよいよ調査です。
素人が前回調査に比べて気がつくのは以下の点です。
1、鮎が圧倒的に多い。
 樽の上から見たのでは鮎とオイカワとは区別がつきません。
 体側を見れば鮎は白くて綺麗です。一方オイカワは斑模様があります。
 前回調査ではオイカワが圧倒していたのに、今回は鮎が最も多いのでした。
  
イメージ 1
     大半が鮎です(60台)
イメージ 2
    飛び跳ねて計測を妨げる鮎
 
2、前回見つからなかった魚が目立つ(種が増えている)
 具体的には、うなぎ、川アナゴ(4匹) フナ等大物が目立ちました。
 私は「川アナゴ」は始めて見ました。ツートンカラーの「いなせな」さかなです。
 
イメージ 7
  大きなウナギが白っぽいのは大格闘したから、最後は「炭酸水」に入れられて大人しくなりました。最後は勿   論川に返してもらいました。ウナギの上に居るのが「川アナゴ」です。
イメージ 8
    川アナゴ
イメージ 9
   フナ、背びれを数えたら14節ありました。フナの種類を特定するのだそうです。
イメージ 10
    ボラ、もう群れを成して遡上してきています。
 
次々に聞きなれない魚の名を呼んで、記録紙に書かれてゆきます。
前回調査を超えるのは先ず間違いないでしょう。
調査員も、見物する私達も笑顔になります。
幸いに柏尾川には漁業権は設定されていません。
釣も自由ですし、投網も可能です。
私の子供の頃のように、川で遊ぶ子供が増えてくることでしょう。
 
 
 
調査は31地点だそうです。
この何でも知ってる調査員に、小学生を指導して、実態調査させたらいかがでしょうか?
 
戸塚小学校の生徒も、東戸塚小学校の生徒も柏尾川の清掃を毎年行っています。
清掃するのは田圃に稲を植えるようなもの、
収穫するのは・・・・「生き物実態調査」でしょう。
子供たちの笑顔も破裂すると思います。
 
東戸塚小学校の鈴木校長は故郷が群馬ですから・・・・、
きっと賛成してくれそうな気がします。
川遊びや、生物を観察する楽しみを心底ご存知のようですから。
思いつきました。
 
イメージ 11
調査員の記録紙を覗きました。
 
イメージ 12
魚影が濃くなったので鷺が増えました
イメージ 3
水金梅(手前)の花陰で水生昆虫を調査する人
 
 
 
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初秋の風と「紅葉葵の花」

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秋来ぬと 目にはさやかに見えねども
    風の音にぞ 驚かされぬる (古今集 藤原敏行)
 
未だ暑い日が続くものの、空気が軽くなって、
頬をなでて爽やかに吹き抜けてゆくと「もう秋だなあ・・・」思わせてくれます。
イメージ 2
         今日の話題「紅葉葵」の花、鮮明な紅色に目が惹かれます。
 
夏から秋への季節の変わり目には一日花が目立ちます。
芙蓉の花も、ムクゲも、朝顔も、そして紅葉葵も、朝に花が咲いて、夕には萎んでしまいます。
夕顔や、白粉花は日暮れ時に咲き出して、日が昇るとお終いです。
 
春に咲いた「鉄線」は、秋が近づくとまた思い出したようにポツリ、ポツリ咲いています。
春の花に比べれば、秋の花は小さいし、葉も疲れています。
でも、秋のうらびれた姿の方が目に留まります。
鉄線の名は中国由来、和名は「かざくるま」です。因みに洋名はクレマチス。
何れも植物の特長を言い表したもの。
蔓が鋼のワイヤーのようだから鉄線と言うでしょうが、即物的な感じがします。
一方和名の「かざくるま」には風情と愛情に満ちています。
 
イメージ 3
       朝顔も秋こそ身頃です。勿論秋の季語です。
 
 
もう2週間もすれば金木犀が咲き出すでしょう。
名前は木肌が「犀/サイ」に似ているから付けられたものでしょう。
中国名は植物の姿を言い表すことが多いようです。
日本人は花の姿を言い表します。
多分、金木犀は「金星」を、銀木犀は「木星」を想って居るのではないでしょうか?
だから、特段「和名」を用意しなかったように想像します。
 
鎌倉の路地には「紅葉葵」が目立ちます。
紅葉葵は宿根草です。
春先に四つ目垣に芽吹きました。
家人も通行人も、此処には紅葉葵が咲く・・・・、気をつけて通りました。
背丈が人並みに伸びて、夏の終わりに咲き出します。
花びらが五枚で、葉っぱが5つの深い裂け目があるので、紅葉の名があるのでしょう。
勿論、子供の手を「もみじ」と呼ぶのを思い起こしています。
イメージ 1
                             鎌倉長谷の道筋に咲く紅葉葵の花
紅葉葵は中国名を「紅蜀葵」と言います。
蜀とは「三国志」の名です。
蜀の軍旗は映画でも必ず「紅」です。
赤心(せきしん)とは赤子のように純粋な真心を言います。
三国志の主人公「諸葛孔明」はじめ蜀軍の人達の志を表す紅色なのでしょう。
 
イメージ 4
       お地蔵様と紅葉葵の花、もうじきコスモスも咲き始めます。(鎌倉手広の鎖大師で)
 
紅葉葵が真っ青な空を背景に咲いています。
秋風に花弁を揺らします。
私は「かざくるま」を想い起こします。
乳幼児が遊ぶ「かざくるま」に似ているからです。
花が風を受けてクルクル回る訳ではありません。
でも、紅葉葵の花は乳幼児が喜ぶ「かざくるま」に似ています。
 
イメージ 6
    鎌倉由比ガ浜通りで
 
何時ごろから、日本人は水子供養に「かざくるま」を奉じるようになったのか、知りません。
「かざくるま」自体は平安時代にはあって、
子供が無病息災に成長する事を祈った玩具だったと伝えられています。
でも、墓地に奉じるようになったのは、多分文化文政、天保時代まで下ることでしょう。
かざくるまは時代劇の祭りの屋台で売られていたりします。
かざくるまを貰った子供はあどけなく喜びますが、その後不幸に見舞われます。
この頃から、一般人の玩具に売られていたのでしょう。
 
子供が亡くなった・・・・、遊んだ玩具も持たせてあげたい・・・・・、
そんな親心でお墓に「かざくるま」を奉じたのでしょう。
 
でも、「かざくるま」には玩具以上の意味が込められているように思います。
数年前のヒット曲「千の風になって」がありました。
   ”千の風 に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています. 秋には光になって ・・・・・”
歌われました。
 
イメージ 5
                                       お地蔵さんに「かざくるま」はお似合いです。
 
子供が亡くなりました。
親の悲しみは止め処も無く深いものがあります。
土饅頭の前でハラハラ流す涙は止まりません。
乾きだした涙をサット風が渡りました。
風に亡き子の面影を感じ、驚いて風を追ってみます。
でも、風は目に見えません。
 
霊も目に見えません。
でも、風は肌に感じられました。
「かざくるま」があれば、風は目に映ります。
霊も確かめられます。
 
イメージ 7
墓地に奉じられた「かざくるま」
 
もう何年かすれば、東北沿岸には大きな風車が立ち並ぶことでしょう。
勿論、原発に代わって自然エネルギーを求めて・・・・。
でも、2万人を超える霊が「かざくるま」をまわすことでしょう。
また、そのご家族も「かざくるま」と思って仰ぎ見ることでしょう。
 
出来れば、即物的なデザインではなく、美しいデザインであって欲しいものです。
 
イメージ 8
 
イメージ 9
四つ目垣と紅葉葵、向こうの甍は鎖大師の本堂です 
                
 
 
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庚申塔を探す楽しみ(三浦三戸村にて)

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毎朝、パソコンに向かってブログを書くようにしています。
今は5時半、ようやく夜のしじまが開けようとしています。
十三夜の月が残っています。
それにしても、夜明けが随分遅くなりました。
もうじき、秋分の日です。
 
ここ数日私の脳裏にプリントされた石仏があります。
中々、よく出来た石仏です。
そして、見ていて楽しい石仏です。
 
イメージ 1
      大根を蒔く用意を進める三浦の畑。向こうの森の先に三戸の民宿村があります。
      今日の話題は三戸村への道筋に祀られている庚申塔です。
 
三浦半島の先端、城ヶ島に向かう海岸通りを進むと、初声町の交差点があります。
その先は曲がりくねった坂が続いて、京浜急行の終着駅「三崎口駅前」に出ます。
この辺りが最高地点で、更に進めば坂道を下って、マグロの漁港「三崎」に続きます。
三崎口の名は、此処を降りたらその先が「三崎の町」ですよ・・・・、そんな意味でしょう。
 
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     三戸海水浴場になっている砂浜。静かな入り江は家族向け海水浴に最適でしょう。
 
駅前交差点には、「民宿のある村三戸海岸」の案内があります。
三崎口から真西の方向です。
台地は一面が畑です。
今はスイカを終えて、大根の種まき準備を進めています。
一面が黄色い関東ロームの土です。
ロームを耕して、給水パイプを張り巡らして、名産のスイカと大根を栽培しているのです。
西の方に雑木林が見えてきます。
その林の下が民宿村です。
 
民家は坂の下に、海岸線に沿って出来ています。
黒崎と小網代湾の間に砂浜が続いています。
この鄙びた海水浴場が庭先ある・・・・、それが売り物の民宿なのでしょう。
勿論、地場の魚が食べられます。
加えて、夕焼けが美しいのだそうです。
富士山はどの方角ですか?
窺えば、真正面だそうです。
4月24日頃にはダイヤモンド富士が見られて、カメラマンが集まるのだそうです。
 
イメージ 11
  三浦台地を大規模な畑に区画整理した際に合祀されたと思われる庚申塔。青面金剛像は右端が宝暦5年(17  55年)左端が萬延1年(1860年)、古い順に並んでいます。どれも邪鬼を踏みつけ、ショケラを吊るして、意匠は  共通していますが、少しづつデザインが異なります。宝暦の庚申塔を基本にして、後世に刻んだ人が個性を   加えたのでしょう。
 
民宿村に入る道の辻に庚申塔が見つけました。
家内と車を降ります。
「こんなところに庚申塔が集められているよ!」
台地の耕地整理をしていて、路傍に祀られていた庚申塔をこの辻に合祀したのでしょう。
でも、真新しい榊が奉じられています。
祠に収まっている訳ではありませんが、大切にされているようです。
鑿跡も鮮やかで、破損も無く、大変に良い状態にあります。
イメージ 13
          宝暦5年(1755)の庚申塔。基壇に力士像のような邪鬼が青面金剛を持ち上げています。体に塗          られた朱が残っています。
          その周囲に三猿が散りばめられています。「言わ猿」が最大で、「聞か猿」はとても小さく描かれ          ています。憤怒相の青面金剛の左第三手にはショケラ(半裸の女性像)が吊るされています。
 
字塔が1基と、青面金剛像が4基であります。
江戸時代になると、市井では庚申信仰が盛んになります。
信仰の主尊が青面金剛でした。
町人にとっても、農民にとっても最も恐ろしい存在は・・・・、
地獄の裁判長「閻魔大王」でしょうか?
それとも、憤怒の表情の「不動明王」でしょうか?
北天の神「毘沙門天」かもしれません。
 
これ等恐ろしい仏神を掻き集めて最も怖ろしい神(仏)を考えつきました。
それが青面金剛でありました。
 
江戸時代も生活の単位は1ヶ月でした。
その間に自分自身が善行を重ね、家族や地域のため行動したかが問題です。
やましい行いや考えをしなかったか・・・・・、気になります。
1ヶ月の行動成果を天に居る青面金剛が裁きます。
裁きの判断素材(データ)を報告するのが「三尸(さんし)の虫」でした。
 
三尸(さんし)は人間の体の中に住む回虫のような虫で、庚申の晩、体から抜け出して青面金剛に報告します。
「この人は良い人のように振舞いましたが・・・・、実は隠れてこんな邪悪な行いをしました。」
報告されたもうお終いです。
青面金剛の裁きは、何時降りるか分かりません。
明日、我が身に下るかも知れません。
若しかしたら、自分の家族や子孫に下されるかも知れません。
(閻魔大王は死後地獄に堕ちる裁きをしますが、青面金剛は生きている間に裁きをします。本人が死んでしまえば家族や子孫が裁かれます)
だから、庚申の夜は皆で夜なべして騒いで、三尸が体から抜け出さないようにしました。
青面金剛には自分の邪悪な行為を「見ない」「聞かない」「言わない」事にしました。
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    最も新しい萬延1年庚申塔。青面金剛の足が細くて、お顔も瓜実で宝暦像に比べて力強さに欠けているよ    うに思います。ショケラも痩せ顔です。
 
こうした信仰を絵で説明しました。
日輪と月輪を描くのは一日中・・・、の意味でしょう。(上記写真の上部に描かれています)
鶏は朝を告げます。
三匹の猿は「悪い報告はしない」意味。
そして、邪鬼とショケラは・・・・・、後で説明しましょう。
 
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   光照寺前の庚申塔群、此方はスダジイの巨木の下ですから、苔生しています。でも、良い状態でした。
 
三戸村の中に「光照寺/浄土宗」がありました。
その門前にも庚申塔が合祀されています。
此方は最も古いのが享保4年(1719)から、安政年間(1850年代)最も新しいのが萬延1年(1860)でした。
 
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              東大寺戒壇院、広目天像、その足下に邪鬼がいます。庚申塔の邪鬼意匠のルーツです。
 
【邪鬼】について
日本人の最も親しんでいる邪鬼は東大寺戒壇院四天王像の足下に蠢く邪鬼でしょう。
とりわけ「広目天」の鋭い眼差しは憂いに満ちています。
眼差しは私達凡人の心の底を見据えていて・・・・「困ったもんだ」呟いているようです。
人間の心の底には天邪鬼が潜んでいます。
時々、突然に顔を出して人を困惑させます。
丁度、お釈迦様が菩提樹下で悟りを開こうとしている時、邪魔をした「悪神」のように。
 
青面金剛の足下に邪鬼を置いたのは、天平の昔の四天王を見たからでしょう。
そして、邪鬼に共感も湧きました。
誰の心の襞にも潜んでいる・・・・、そんな自覚もあったでしょうし・・・・・、
「人間らしさも邪鬼のなせる業だ」、思っていたことでしょう。
だから、ことさら大きく邪鬼を描いて見せました。
こんなに大きく邪鬼を描く仏像は初めてでした。
近世だから、「人間の心には常に魔物が棲んでいる」自覚が進んでいました。
そして自制を教えました。
 
イメージ 4
      三戸村の庚申塔の邪鬼。これが伝統的なデザイン。でも指が4本。戒壇院のは3本と記憶しています。
        
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此方は萬延1年庚申塔の邪鬼、豚のような顔,指は5本になっています。迫力を欠き、愛らしい表情です。
イメージ 6
此方は光照寺門前の庚申塔。邪鬼は仰向けで、顎を踏まれています。
 
【ショケラ】について
ショケラについては2説あります。その一つが「三尸の虫」説です。
庚申の夜、体から抜け出して青面金剛に1ヶ月間の行動報告をします。
此方は少数派でしょう。
虫であるのに女性の姿である必要はありません。
まして下半身は襦袢で、上半身は裸です。
加えて長い髪を青面金剛にムンズと掴まれています。
苦しさで体をねじったり、苦痛に歪んだ表情もしています。
もう一つの説は邪神です。
人間を色香に惑わす豊満な女体を持つ神です。
その前身は「シバ神」とも言われます。
菩提樹の下で瞑想に耽るお釈迦様の膝に上に上って、豊満な体を押し当てて悟りの邪魔をします。
豊饒の神でありますが、一方では色欲の捕虜にされかねます。
 
イメージ 7
     宝暦5年、庚申塔のショケラ。豊満で、全身着物を着ている。苦痛で顔を歪めています。
 
鎌倉や横浜の庚申塔にはショケラは殆ど描かれません。
10基に一つ程度でありましょうか?
しかし、三浦の庚申塔は大概ショケラが大きく描かれています。
青面金剛は6本も手があって、それぞれに持物を持っています。
殆どが毘沙門天の持物と同じです。
でも、左第3手のショケラだけは青面金剛だけに見られます。
 
売春は歴史が始まって以来存在していると聞かされます。
平安時代末期、鴨川の川原には筵を持った売春婦が居たそうです。
鎌倉時代の絵巻物(一遍上人絵巻など)にはそうした人が描かれています。
でも、江戸時代のそれは激しいものがありました。
 
江戸の吉原、京都の島原のような遊郭は別格でした。
相模第二の都市「浦賀」には遊郭が5軒もあって、客を奪い合いました。
遊郭に行けない人には湯女(浴場でのサービス)がありましたし、
宿屋の飯盛り女は夜の愉しみにも応じてくれました。
岡場所も川原にも夜鷹と言われる娼婦が筵を持って客待ちしていました。
 
これ等は売春を職業にしている人の事です。
自由な恋愛の場所も数多くありました。
お金持ちは「出会い茶屋」や屋形船を使いました。
庶民は蕎麦屋や鰻屋の二階は逢引の場所として利用しました。
    我っちは鰻より穴子の方が好きです。
なんて言う輩も頻発しました。
 
イメージ 8
            青面金剛に髪を掴まれ、吊るされたショケラ像、こけしの様な顔立ちです。
 
浦賀のお大尽も、漁民も、農夫も夫々に心配があったでしょう。
倅が少しくらい「女遊び」が過ぎても、自制さえしてくれれば大目に見よう。
でも、身代を潰されては困る、程ほどにして欲しいものだ・・・・。
そんな想いが「ショケラ」に為ったと思います。
鎌倉や横浜は未だ農村共同体で、それほど女色に溺れる危険が少なかった・・・・。
だから、ショケラは描かれなかった。
でも、浦賀一帯の青面金剛にはショケラが目立つように描かれた・・・、そう考えます。
 
イメージ 9
                 光照寺門前の青面金剛像の膝にしがみ付いたショケラ。此方は上半身裸。
                 上半身裸が一般的です。
イメージ 10
青面金剛の隣には聖観音像が立っています。瞼が重たくてふくよかで、美しい観音様です。
      多分、青面金剛と同じ頃に同じ石材を使って同じ石工が刻んだものでしょう。
青面金剛は怖い、観音様は優しい仏像です。一緒に並ん叱ったり、励ましたりした事でしょう。
 
 
 
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湘南の「サンセットビーチ」

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昨日は三浦半島東南端にある三戸浜の庚申塔を報告しました。
三戸村ではなんと言ってもビーチが特長でしょう。
 
三戸浜に入った時思いました。
「此処はハワイの裏オアフのような所だな・・・・!」
オアフ島の東南には、ワイキキの浜辺があって、高層のホテルやショッピングセンターが続いています。
観光客の大半は表オアフで過ごします。
島の中央を走る山脈をぬければ、ノースショアー、
景色は一変して、寂れてしまいます。
でも、海が本当に好きな人が集まって来ます。
西に向かえば台地の上にパイナップルのプランテーションが広がり、
台地が崖でストンと切れて、サンセットビーチが広がります。
大きな波が打ち寄せますので、波乗りに興じる人が集います。
そして、夕焼けが見事です。
 
イメージ 2
                                  三戸浜の端(黒崎より)の磯は岩場です。
 
 荒海や佐渡に横たう天の川 (芭蕉)
天の川が出る前には、夕焼けが見事です。
 暑き日を海にいれたり最上川  (芭蕉)
 
特に良寛上人が生まれた出雲崎辺りは、
断崖の下に北国街道、出雲崎の家並みが黒く沈んで、前方に佐渡の島影、
波間を照らして陽が沈みます。
私は「日本一のサンセットビーチ」だと思っています。
 
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             三戸浜の海岸沿い、廃船が草陰に覗いていました。静かな浜辺です
 
三戸浜の住人が言います。
此処は世界一のサンセットビーチだよ。
正面に富士山が見えて、
4月の後半には、ダイアモンド富士が見えるんだよ。
       (富士山の頂上に陽が落ちるので、ダイアモンドのように見えます)
 
佐渡の島影に変わって富士山があれば、夕焼けは更に引き立つのかも知れません。
そんなロケーションは東伊豆か三浦半島のこの辺りしか見られないのでしょう。
 
イメージ 1
    後記するBEACH-BUMの風景。(同施設のHPから。夕焼けの写真が多く出ています)
 
民宿村から黒崎の先端に向かうと断崖は海に迫ってきます。
車もすれ違えない程の狭い道です。
辻辻に小さな案内板が掛かっています。
BUMとは「怠け者・ぐうたら」の意味ですから、ビーチ三昧、と言った意味でしょう。
先端に向かえば必ず「ビーチ三昧な施設」の前に出てしまいます。
此処には「世界一の夕焼け」・・・・・、一寸大げさな(?)看板が出ています。
 
クルーザーが置かれていて、
立派なレジャーカーが駐車しています。
真っ白い建物は二階建て、1階がレシトラン、広いサンデッキの向こうが海です。
サンデッキにはプールがあって、水深が5メートル、アクアラングの教室も併設されています。
此処で宿泊(1泊2食8500円)して、BEACH-BUMになって下さい・・・・、
そんな提案でしょう。
裏オアフ島一帯はそんなライフスタイルです。
 
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BEACH-BUMのフロント。正面がホテル・レストラン。右がアクアラングの教室
    
私は、家内と冷たい飲み物で一服させていただきました。
最近、塗り変えたのでしょう、白いデッキは気持ちが良いものです。
子供が数名駆け回っています。
若いお父さんお母さんはバーベキューに夢中です。
生ビールが美味しそうです。
 
イメージ 4
                 ビーチマムのレストランからデッキを見渡す。
                 デッキの左右の端にバーベキューパーティーをするコーナーがあります。
 
 
白いサンデッキに続いて、真っ青なプール。
 
子供がプールの上も歩けると勘違いしたのでしょうか・・・・?
「ドブーン」落ちてしまいました。
お父さんもお母さんも慌てることなく、抱き上げて・・・・・・、
また、バーベキューを愉しみます。
子供は濡れたまま・・・、そのうち乾くさ・・・、思っているのでしょう。
 
 
秋も深まったら、夕焼けを見に三戸浜に来てみたいものです。
 
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   真っ白に塗り替えたばかりのサンデッキ、この右手の男の子がプールにドボンしてしまいました。
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      浜辺で貝を拾う親子
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          岩場には天然のプールがあって、子供達はシャツの上からライフジャケットを着て、お風呂に入          るように、水と遊んでいました。きっとお魚や蟹も一緒でしょう。
 
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小林秀雄の墓標「鎌倉時代の五輪塔」

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白洲正子の随筆を読んでいたら「小林秀雄の墓」の話が出てきた。
小林秀雄のお墓は北鎌倉の東慶寺にある。古風な五輪塔である。
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       今日の話題は「小林秀雄の墓」の五輪塔です。
 
 
白洲正子の娘が小林秀雄の次男に嫁いでいる。
二人は親戚であり、文筆家であり、相互に教え合った・・・・、多面的な関係にあったのでした。
小林秀雄夫妻が京都の白洲正子を訪れ、「塔が欲しい」と伝えた。
3人で京都の骨董店を巡ったのだそうだ。
正子は15年前と書いており、随筆が発表されたのが平成5年であるから、
昭和55年の出来事であったわけである。
 
小林は「犬のお墓にするのだ」ボソボソ言って、正子に骨董屋探しに同行してもらったのだそうだ。
そこで、鎌倉時代の美しい五輪塔を見つけたのだった。
 
その後、五輪塔は小林秀雄の庭(鎌倉の雪ノ下、八幡宮の裏)に置かれていたのだが、
昭和583月小林が亡くなると、その墓標になっていたのだそうだ。
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  小林秀雄の旧宅、左は鶴岡八幡宮の裏山で八幡宮寺の僧堂の跡
 
私は正子の文章が気になって、改めて東慶寺に墓を参った。
東慶寺の墓地は鬱蒼と樹木が茂る谷戸にある。
路地の左右に小さな区画の墓地がある。
形も広さもてんでばらばらである。
正子は気さくな住職に相談して「それでは此処で・・・」
清水が流れる脇に眠っていただくことにしたのだそうだ。
小林秀雄は昭和58年3月に亡くなったので、住職とは「井上禅定」師だったのであろう。
序に卒塔婆には「華厳院評林文秀居士」の戒名が書かれている。
老師が眉を曲げながら、「小林秀雄」を言い表そうと苦労されたのであろう。
「厳」には厳格な人、と言う意味と合わせて「気難しい人」の意味があるように思える。
 
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   東慶寺の墓地、右手前が和辻哲郎の墓、小林秀雄の墓は入り口近く(写真右奥)にある。
 
深く生した苔が墓地全体を覆っていて、小林秀雄が苦労して探した五輪塔(墓標)が置かれている。
故人の高い知性が偲ばれる美しいお墓である。
 
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   岩波茂雄(岩波書店創業者)の墓、近代的な五輪塔です。鎌倉時代の五輪塔は地震で倒壊する欠点があり   ので江戸時代には角塔になってしまいます。
   五輪の意味を追求しながら、倒れ難い、洗練されたデザインです。
 
 
五輪塔は時代によって変遷してゆきます。
日本刀が鎌倉時代が最も秀でている・・・、言われるように、
五輪塔も鎌倉時代が評価されています。
 
五輪塔の歴史は弘法大師空海に遡ります。
平安時代、弘法大師が密教を伝えます。
密教では「自然界は五色から成り立っている」として
青、黄、赤、白、黒の五原色で幟や不動明王を顕します。
 
更に、万物は『地・水・火・風・空』の5つの要素から成り立つと説きます。
各々は、地が四角、水は円、火は三角、風は半月、空は宝珠の形をしています。
大日如来を中心に四方を4如来が位置しています。
色や形を如来や方角との関係を示すと下表のようになります。
これを立体曼荼羅であらわしたのが東寺金堂でした。

仏教五大要素
方角
方角にあてはめた如来(智恵)
中心
大日如来(法界体性智)
西方
阿弥陀如来(妙観察智)
南方
宝生如来(平等性智)
北方
不空成就如来 (成所作智)
東方
阿閦如来(大円鏡智)

 
平安時代末期になると、五輪塔は墓標として使われ始めます。
そして、鎌倉時代には禅宗と共に宋国の石工が技を伝えます。
四角はまだしも、5つの形を削りだすのは石工の技が求められました。
 
重源が東大寺の勧進に、忍性の社会事業に精をだします。
五輪塔は寄進者に授けました。
寄進者は五輪塔を墓標としました。
こうして鎌倉時代に五輪塔の基本型が出来上がりました。
シンプルで、素朴で、力強いのが鎌倉時代の特徴でした。
 
それが時代が下るにつれて、5つの形のバランスが崩れ、装飾が加わり、
三角が傘型になったりします。
更に、「妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」の名号や梵字が刻まれたりしました。
鎌倉時代の五輪塔の表面には何も刻まれません。
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             前田 青邨夫妻の墓標。平成の五輪塔ですが余計なものも無く五輪自体は古風で美しい。
             画伯が絵を書いて、石工が忠実に刻んだものと想像します。
 
イメージ 13
東慶寺開基「覚山尼五輪塔」、地塔の下の座布団のような石は遺骨を納めるもの。
こうした形が鎌倉時代の基本型と考えられます。
 
小林秀雄の墓標は円石の前面に如来仏が刻まれています。
この如来が元々刻まれていれば、この五輪塔は江戸時代のものでしょう。
骨董屋が仕入れた五輪塔に手を加えたのかも知れません、
小林秀雄が購入した塔に刻ませたのかもしれません。
私は後者ではないか、と想像します。
 
また、正子は次のように書いています。
「小林さんのお墓は鎌倉時代の美しい五輪塔で、四方に仏様が彫ってある」
私は「五輪塔に四方仏が刻まれている、ではどんな形になるんだろうか?」
混乱してしまいます。
「小林さんのお墓には前面に如来坐像が彫ってある」が正しい文章になります。
 
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                         東慶寺の四方仏/五輪塔の丸い部分に四方仏を刻む事は難しい。
 
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             五輪塔の前面に如来が彫りだされています。左右、背後には何か彫ろうとした跡             があります。梵字かもしれません。
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                          小林秀雄墓標五輪塔の右側面。梵字のようにも見えます。
 
昭和40年頃、ニキビ顔の私が東慶寺の墓地で「鈴木大拙」の五輪塔(墓標)を見つけました。
生前でしたから、誰しも目を留めました。
そして、その骨太で端正な姿に師を彷彿させました。
特に丸型の前面に書かれた墓標名に目を留めました。
「大拙居士」「青蓮大姉」と刻まれていました。
ご夫婦のお名前でしょう。
大禅師の奥様を知っている人は少ないでしょう。
でも、お二人揃っていると、教えられるものがあります。(前田青邨夫妻の墓標も同じでした)
名詞のような形です。
小学校生が左の胸に名を書いたハンカチを吊るします、それを思い起こしました。
東慶寺に埋もれる人は先人のお墓に参った事でしょう。
そして、「自分のお墓はこんな風にしよう・・・」思う事でしょう。
大拙の五輪塔は大きな影響を及ぼし、多くの五輪塔に真似されました。
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         鈴木大拙師のお墓。丸い塔の前面にご夫妻の名前が内裏雛のように刻まれています。
 
小林秀雄も大拙の五輪塔を見た事でしょう。
そこで、「自分なら如来を刻もう・・・」思ったのでしょう。
 
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               此方は哲学者の西田幾太郎の五輪塔、「寸心居士」と彫られています。
 
                   
 
私は気になります。
鎌倉時代のお墓の主はどう思ったでしょうか?
 
ある時、盗人が来て墓標を盗んでゆきました。
そして、京都の骨董屋の店先に並べられました。
昭和50年、墓標はインテリに買われてしまいました。
そして、鎌倉の石屋の預けられ、顔に如来を書き加えられました。
インテリの墓標になりました。
 
あの世で、鎌倉時代の主に会ったら、小林秀雄は何と言うのでしょうか?
「私は貴方の墓標とは知らずに買いました。善意の第三者です」
とでも言うのでしょうか・・・・・?
 
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         此方は和辻哲郎の墓に祀られた阿弥陀如来。
         和辻氏の墓標はシンプルな角塔で「和辻哲郎」と飲み刻まれています。
 
小林秀雄は親友「中原中也」の恋人「長谷川泰子」に言い寄ります。(ゆきてかえらぬ)
「あなたは中原とは思想が合い、僕とは気が合うのだ・・・」
当時の中也は同志社の学生でした。
女優志願の泰子は東京に憧れ、秀雄を選択します。
中也は深く傷つきます。
 
戦後多くの知識人が戦前の言動を批難されます。
小林秀雄もその矛先にありました。
秀雄は言い開きします。
「頭のいい人は(戦争責任を)たんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」
 
そんな小林秀雄ですから、1000年も前の墓標を自分の墓標に書き換えても特段意に介さなかったのでしょう。
先人の墓石をリサイクルして自分の墓石にする・・・・、そうした感覚は常人には理解できないものがあります。
 
 
小林秀雄代表作は「無常ということ」だと思います。
西行に多く筆が割かれています。
 
でも、二人は逆の位置にあった人物のように思います。
万物は「地水火風空」流転、輪廻するから「無常」なのでしょう。
西行は自らの身を無常に置き、言葉に書き留めました。
だから、今も私達は感動します。
秀雄は無常から身を遠くに置いているから・・・、書けたのでしょう。
批評家は西行と同じように「無常」の実相を見詰めて、苦しんでいては仕事になりません。
 
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     早朝の東慶寺墓地。猫がお供え物を探して歩いていました。
     右奥の13重の石塔は前田青邨画伯の「筆塚」。この墓場は文人が多く眠っているので筆塚の意義もある     のでしょう。
 
 
 
 
  
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三渓園で「お月見」

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9月12日は中秋の満月です・・・・・、今年は何処でお月見をしようか?
横浜本牧の三渓園に出かけることにしました。
 
17世紀はじめ、京都では桂離宮が建立されました。
「お月見」の施設だったそうです。
同時期に紀州徳川家が巌出御殿(水辺の別荘)を建立しました。
これを明治の富豪「原三渓」が買い取って、現在地に移築しました。(聚楽第の遺構と言う説もあるそうです)
 
戦国の時代が終わって、平和を愉しみ、自然に浸たる余裕が出来た時代だったのでしょう。
原三渓さんのお陰で私は、桂離宮には行けないけれど、三渓園には行かれます。
そして今晩は「三渓園でお月見・・」企画もあって、夜遅くまで入れますし、筝曲も演奏されます。
三渓園が横浜市民の施設に移管されたお陰です。
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            夕暮れの三渓園のシンボル三重塔。手前はススキ。
            三重塔に月がかかるのは深夜の零時頃でしょう。 
  
満月は月・地球・太陽が一直線に並ぶと見られます。
毎月見られるわけですが、特に旧暦の8月の満月は「秋の真ん中に出る満月」で、特別な意味がありました。
そこで「十五夜」「中秋の名月」と呼び、様々な行事を行いました。
太陽が真西に沈むと同時に、月が真東の空に上ります。
 
月は京都では東山の、清水さんの上に上ります。
奈良なら、三笠山の上に上ります。
興福寺や薬師寺の五重塔(三重塔)の水煙の上に掛かるお月様は見事です。
古代から日本人はお月見をして、月に祈ってきました。
 
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   突き当りが三渓園の主屋「臨春閣」です。其処の第三室「天楽の間」が筝曲の演奏会場です。
 
農業も、漁業も太陰暦で営まれてきます。
「十五夜・お月見」は農作物の収穫の時期に当たります。
古来望月(満月)を拝する信仰がありました。
満月は豊饒のシンボルであり、月光には神霊が宿っていると信じられていました。
お月様のお陰で豊作になった・・・・・、感謝し、来年も豊作を期待しました。
そこで、収穫を終えたばかりの里芋を供えました。(芋名月)
豆や栗もとれました。(豆名月・栗名月/十三夜)
収穫を感謝して歳神様にお供えしました。
元気な男の子はお供え物を戴きました。
上手に盗むことは楽しみでもありました。
ハロウィンはカボチャですが、日本は団子や芋でした。
(女の子が団子を盗むことは憚れました。お腹に歳神様が入って/妊娠したら困る、と考えたからでした。この風習は全国的に行われていたと思います。)
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    伝統的なお月見のお飾り。「歳神」にお供えしている事が判ります。(各家で行う新嘗祭です)
 
平安時代になると、宮中でも十五夜行事が行われ始めます。
それは律令制が進んだこと、中央の貴族が荘園での豊作を祈願した事があったでしょう。
農業神事が田舎から宮中に浸透して行きました。
(この段、良く中国での十五夜行事が日本に伝わった・・・、と言われます。私はそのようには考えません。律令制が全国各地に及び、地方と都の距離が縮って、地方の風習が中央に及んだ、と考えます。何故なら中国と日本の十五夜行事が全く違うからです。例えば中国では月餅(げっぺい)を供えますが、日本では団子を三角に積み上げます。三角は霊に供える形です。)
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                   中華街のある横浜、中国スタイルのお月見飾りをしていました。
                   日本は団子、中国は月餅をお供えします。
 
6時過ぎ、三渓園に入りました。
もう、広い園内には沢山のお月見客が居ます。
カメラを、池の向こう、山の上の三重塔に向けてセットしています。
塔にかかる満月を狙っているのでしょう。
私は、内苑の臨春閣に向かいます。
 
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 臨春閣の数奇屋建物、左から「琴棋書画の間/障壁は狩野探幽」 中央が「天楽の間/狩野安信」 右端が   「瀟湘の間/狩野常信」が雁行形に並んでいます。普段は入れない芝生に腰掛けて演奏を聞きます。
 筝曲と秋の虫が鳴いていました。女性は生足は避けたほうが良いです。蚊が出ます。
 
臨春閣(重要文化財)は池に張り出した数奇屋建築です。
その第三屋「天楽の間」が筝曲の発表会場です。
私達は池越しの芝生の上に腰掛けて演奏に耳を傾けます。
「天楽の間」は狩野の障壁に囲まれ、その欄間には「笙と笛」など本物の楽器があしらってあります。
紀伊徳川家もこの部屋で音曲を演奏し、紀ノ川とその上に上る月を楽しんだ事でしょう。
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 筝曲演奏風景。クラリネットやギターが入っていました。選曲も編曲も新しいものでした。
 襖絵は狩野安信、芦原から飛び立つ雁が描かれています。真ん中の欄間に嵌っている笙が有名です。
 
筝曲演奏の司会者が挨拶します。
「私は照明に照らされています。
お客様の姿は暗闇で見えません。
でも、沢山の方々に聞いていただいているようです。
私の位置からは三重塔が仰ぎ見られます。」
満月も顔を出してくれたようです。
お客は振り返って、月を仰ぎ見ます。
 
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  臨春閣から見た満月。月は塔の上を越えて西にぬけて行きます。
  室内からは池に映る月、天空の月が楽しめる事でしょう。
 
矢張り、原三渓は桂離宮を意識してこの内苑をデザインしたのでしょう。
池越しに松や紅葉の林があって、その梢の先に満月が見られる・・・、
池の水面にも月が見られる・・・・。
桂離宮と同じです。
でも、桂離宮には三重塔は見えません。
 
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三重塔は燈明寺にあったものです。(重要文化財)
燈明寺は京都と奈良の境、木津川のほとり、笠置にありましたが、廃寺になっていました。
この川を見下ろす高台には岩舟寺、浄瑠璃寺、海住山寺など名塔が並んでいます。(何れも重文)
多分、山と川のある景色が塔を欠かせないようにしているものと思います。
農夫は朝家をでて、一日中、川の畔で働きます。
働き終えて、家路に戻ろうと振り返ります。
すると、家の方に三重塔(海住山寺は五重塔)が見えます。
寺が、仏が見守っていてくれた事を思います。
そして、棚田を畦を家路に急ぎます。
東の山の端に月が上ります。
 
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      天瑞寺寿塔覆堂【重要文化財】の扉彫刻。天女が弓を持っています。光の関係で良く見えました。
 
木津川は笠置から更に奥には入ると月ヶ瀬に続きます。
燈明寺三重塔は三渓園に移築されて、可哀想ですが・・・・・、
でも、私達横浜市民は身近に美しい塔を仰ぎ見られます。
勿論、木津川にあった方が美しいに決まっていますが・・・・。
 
それやこれや・・・、一切合切・・・・・、お月見は美しい風習です。
美習は美しい自然の中で、美しい建物で、鑑賞し、後の世にも伝えたいものです。
 
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【追記】
このブログで三渓園の四季を綴っています。
臨春閣の事は「三渓園に惜春の想いを・・・」で書きました。
「三渓園に惜春の想いを・・・」http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45006550.html
「三渓園春草廬のおもてなし・・・」 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44399002.html
[秋を耳でも楽しむ・・・・・・三渓園聴秋閣] http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/28167370.html
「蓮の花にかけた日本人の想い(三渓園にて)」 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/23368655.html
「今年の紅葉は最高に美しかった(三渓園 )」その2) http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/9078350.html
「今年の紅葉は最高に美しかった(三渓園)」  http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/9034569.html
「三渓園の紅葉/桂離宮に行けないまでも」http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/7255724.html
 
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    7時過ぎ、大池の向こうに三重塔、満月は筆者の左の山の上にありました。ライトアップも今晩までです。
 
 
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相模の民家(日本民家園の北村家母屋)

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家内の誘いで川崎生田の「日本民家園」に出かけることにした。
私が最初に同園に行ったのは開園早々の昭和42年のことで、まだ大学生でした。
私は当時から「街道歩き」が好きで未だ絵を描いていましたから、民家を良く見ていました。
川崎で重要な民家(伊藤家住宅)の保存問題が生じて、近隣の民家が集められたのでした。
でも、私が見たのは4件、相模・武蔵の民家でした。
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     川崎生田緑地の日本民家園。正面が登戸の清宮家住宅 。奥が秦野の「北村家住宅」
 
高度成長期を経て民家は存続に危機にありました。
私の住む戸塚も、隣の保土ヶ谷も宿場町の面影が残っていました。
私の生家も茅葺屋根で土間がありました。
土間が先ず無くなり、板敷きになりました。
台所の流し台は石で作られていましたが、タイル張りになり、ステンレスに代わり、システムキッチンに変遷しました。
釜戸も鎌倉石の積み上げで二つありましたが、ガスに代わり、レンジが付きました。
土間が無くなって、子供部屋が増えました。
我が家には4人の子供が居ました。
電灯が蛍光灯に代わり、様々な家電品が入り便利になりました。
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      筆者の生家、右手の庫裏を残して関東大震災で倒壊しました。
      現在瓦葺の様に見えますが、茅葺の上からトタンを被せたものです。茅葺の長所は失          われました。(写真は祖母の葬儀です)
 
関東大震災では本堂(生家)や長屋門は倒壊しましたが、
茅葺の庫裏だけは歪みもしませんでした。
理由は明解でした。
本堂は空間が広く、屋根瓦が重かったのです。地震の揺れに弱かったのでした。
庫裏は茅葺でしたし、柱が多いので揺れに強かったのでした。
 
当時、全国的に民家が消えようとしていました。
鎌倉でも龍宝寺がお檀家の石井家の母屋を、覚園寺が手広の内海家の母屋を引き取りました。
(何れも重文)
川崎では市が引き取って生田緑地に民家園を開設しました。
 
イメージ 4
       今日の話題は北村家住宅(相模の秦野・重要文化財)。日当たりの良い南面した住宅です。
 
川崎市は重工業都市の顔と田園都市の顔を持ち合わせています。
川崎市は東西に細長く、南北を多摩川と鶴見川に挟まれています。
臨海部は大きな埠頭で囲まれています。内陸は大工場が並んでいます。
西に向かうと多摩丘陵に続きます。
突端が生田緑地で、向丘遊園地や専修大学などが立地しています。
この辺りからは緑が深い住宅地が開けています。
 
たった4戸しかなかった民家が33戸にも増えていました。
また、7戸は国の重要文化財でありました。
「日本民家園」名に恥じない業容に成長してきました。
川崎市は良い試みをした・・・、評価されます。
 
でも「日本民家園」と言うのは適当でないような気がします。
何といっても「民家」と言えば「奈良の大和棟民家」「京都の町屋」が重要です。
美しいことと、時代が中世(室町時代)にまで遡ります。
此処日本民家園は近世(江戸時代初頭)までしか遡れません。
正しくは「東日本民家園」でしょう。
 
33戸も説明することは大変です。今回は北村家を案内します。
 
イメージ 5
   北村家、右寄りの入り口から入ります。敷居を跨げば土間です。
   左に長い縁側が続きます。左端に十五夜のお飾りがありました。障子があって、朝晩は雨戸を閉    めました。 
 
東日本の民家は大半が茅葺です。
でも、風土によって形が大きく違います。
山形田麦俣の「兜屋根」は豪雪対策で、南部の曲がり屋は「馬と同居」していたから、更に五箇荘や高山の合掌つくりは「家族共同体」の結束の強さから・・・・・、様々な形をしています。
生活や家族、究極には風土に適した形になっています。
 
私の育ったのは相模の民家です。
相模の民家も特徴があります。
シンプルな長方形の寄棟屋根です。
部屋は土間があって、田の字の形に間仕切りされています。
土間は台所であり、深夜に行う作業場でありました。
 
北村家住宅は相模の(秦野市堀山下)の名主の家でありました。
解体作業に際して柱のホゾから墨書銘が発見され、貞享4年(1687)の建築であることが判りました。
大工は近在の大工でありました。(「貞享四年月吉日 相州堀山下村 大工者鍛冶谷村理兵衛 平沢村源兵衛」「当村木引七兵衛」「貞享四年丁卯二月吉日 大工当流理兵衛」)
地域の人が建てて、地域の人が使った・・・、その人の生業や共同体内の地位があって・・・・、
要するに庶民の文化を表していることに価値があるのです。
 
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 北村家の土間、二口の竈が切ってあり、湯を沸かし、蒸篭を蒸しています。竈は鎌倉石を積んで関   東ロームの粘土で固めています。
 土間から広間に上がります。広間は竹のスノコを張っています。板戸の奥が「ヘヤ」 になります。

 
北村家は南に向けて建てられています。
相模の名主の分家で、百姓代クラスの家でした。
ですから近在の百姓が頻繁に相談に来たことでしょう。
お客はやや右側の入り口から入ります。
敷居をまたげば広い土間に出ます。
土間には竈があります。流し台も在ります。端には味噌樽も置かれています。
土間の役割は第一に台所であります。
そして、深夜には縄を編む作業場になります。
加えて、主人(百姓代)に挨拶する玄関の役割があります。
 
土間は広間に面しています。
主人は広間で来客を迎えます。そして囲炉裏に誘います。
広間は和竹のスノコが張られています。
案内には「板の間にして床を張るのには金がかかるので、安い竹を張った」書かれていました。
これは誤りで、「夏涼しく、床下下から腐ることが無いよう、通風効果があったから」と考えた方が妥当でしょう。
メコン川流域、ベトナムやタイに行けば竹で床を張った家が一般的です。
囲炉裏には火が入っていて、お茶を入れて、客をもてなします。
客の目の前、長押の上には神棚があります。
神棚には「歳神さま」が祭られています。
お隣は大黒様でしょう。
竈には竈荒神か秋葉様が祭られていた筈です。
我が家も同じでした。
土間に立てば八百万の神様に囲まれていました。
お客はこの家が我が家と同じ神様を祀っていることを知り安心します。
 
お檀家が土間に立って、「大黒様おいでですか?」
聞かれると、「母なら畑に居ます、呼びますか?」
応えました。
でも、「大黒様なら、其処の大黒柱の上においでです」
一度は言いたい、思っていました。
イメージ 7
  土間から広間を見上げる。土間に凸凹があるのは手入れがしていないから。私の生家では子供が   凸凹の土間の表面を鍬で均して、塩を撒きました。この作業を「三和土(たたき)」と呼びました。広間  の奥は南側が「オク/座敷」北側が家族の寝所「ヘヤ」に続きます。
  柱は梁の入る構造上重要な部分は欅材が使われています。竈の右奥にあるのが 大黒柱です。長   押に注連縄が張られています。左から歳神様、大黒柱の向こうに祀られていたのは大黒様です。竈  の正面に竈荒神(又は秋葉様)が祀られていたと思われます。
 
広間の南側には縁側が広がっています。
縁側との境には障子がはめられています。
中央一間に格子窓(シシマド)があります。
その両側から縁側を通って直接庭に出入りできます。
広間の奥には「オク(デイ)」と呼ばれる座敷があります。
簡略なものながら床の間がつき、その隣は観音開きの仏壇が設えてありました。
ですから、オクは主人や客の寝室であり、仏間でありました。
 
イメージ 8
  「オク」。畳が敷かれ主人の寝所、仏間でもあります。右手前に観音開きの仏壇    が、奥右に床の間が設えてあります。丁度15夜でしたので、古風なお飾りが用意   されていました。
 
オクの北側には「ヘヤ」があります。
此方もオク同様に畳が敷かれています。家族の寝室でありました。
ヘヤには天井が張られていません。屋根の構造材「梁」が見えます。
広間とヘヤの間はオシイタ(押板)が設えてあります。
お客は土間から広間に上げられても、オクは見えますが、ヘヤは見えませんでした。
家族のプライベートは押し板一枚で保たれていました。
ヘヤには押入れがありました。
イメージ 9
 ヘヤから広間に出る。和竹をスノコに敷いてありました。ヘヤだけが板戸(押し板)で 囲われプライベートが守られていました。ヘヤで家族が寝ました。布団等をしまう押 入れもありました。 
 
以上が部屋割で、上から見れば「田の字」になっています。
シンプルだから最も強靭だったのでしょう。
強靭さは用材にも現れています。
柱材は胡桃を主としていますが、梁を支える重要な部分には欅材が使われています。
床や雨風に濡れる部分には栗材が使われています。
「適材適所」と言う言葉は民家から出来たのでしょう。
構造は標準的な四方下屋造。
小屋組は扠首に棟束を併用し、束同志を貫で緊結する古式な構造です。
 
イメージ 10
 長押に祀られた達磨さんは「歳神様」の寄代と考えたのでした。両目の入った達磨さ んが並ぶと、長年の繁栄が偲ばれます
 
 
以上のように、北村家住宅は開放的な造りになっています。
百姓代として沢山の人の出入りがあったからでしょう。
押入や棚の造り付け、障子の全面的使用など、私の生家と殆ど変わりません。
合理的に作ろう・・・・、とするとシンプルになりました。
均整のとれた外観は民家、更には「民芸」の上質な美しさを示しています。
 
 
 イメージ 3   荒壁、縁側、程よい庇、障子戸、家の内と庭との「間」が最も美しく、
   日本の民家の真骨頂だと思います。
 
 
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座禅場の酔芙蓉の花(円覚寺にて)

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今町では酔芙蓉の花が盛りです。
芙蓉の花は白か赤ですが、
酔芙蓉は朝咲いた頃は純白で、陽の盛りにピンクに変わり、夕方には赤く染まります。
そして、晩から翌朝にかけて花は萎んでポトン落花してしまいます。
綺麗だけれども儚い「一日花」です。
色が一日で大きく変化するから、お酒に酔ったようだ・・・・、として「酔芙蓉」の名を戴いたのでしょう。
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                今日の話題は酔芙蓉です。写真は何れも鎌倉円覚寺です。
 
日本画の上村松園は女性で最初に文化勲章を受賞しておいでです。
大正11年の業績に「楊貴妃」があります。
制作に際して「芙蓉の花に似た美しい楊貴妃を描こうとした」書いています。
 
帝展の方も大分出品しなかったので今年は思い立って……(中略)画題は「楊貴妃」それもあの湯上りの美しい肌を柔らかな羅(うすもの)に包んで勾蘭(こうらん/手すり)に凭れながら夢殿の花園を望んで見ると言った構図です。(中略)
極気品の高いものにして全体羅の中に玉の様な肩先から白い胸の辺り少し湯上りのぽっと紅潮した皮膚が見えて居ると言った風で……傍には侍女が一人います。(中略)
(白楽天の)長恨歌には深い懐かしみを持って居りました。
何時か一度はそれを描いてみたいと思って居りました。
(中略)猶詩には春寒とありますがこれは夏の時候に改めるつもりです。
 楊貴妃の服装についてはこの間中博物館へ通っていろいろ古い参考品を出して頂いて見て来ました。
日本で申せば天平から奈良朝、あの時代の衣装や調度建築の様式で行く考えです。
白楽天は楊貴妃の美しさを「芙蓉のかんばせ」と表しています。平安時代から我が国でも芙蓉の花が栽培されていました。
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   上村松園画伯作「楊貴妃」、酔芙蓉の花を楊貴妃のイメージで描きました。 出典YAHOO
 
鎌倉の寺寺でも酔芙蓉の花が見事に咲いています。
瑞泉寺は純白の芙蓉が本堂を囲むように咲いています。本堂と庫裏を繋ぐ渡り廊下があります。
その花頭窓の向こうに酔芙蓉の花が咲いています。
 
円覚寺にも酔芙蓉は其処此処に咲いています。
一番見事なのは選仏場の南側、道場の壁に沿って数株の酔芙蓉が植えられています。
日当たりが良いし、他に邪魔する建物や木が無いので見事に咲いています。
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   選仏場(座禅道場)の南側に酔芙蓉が植えられています。
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 朝方は咲いたばかりの白い花と、散り際に萎んでしまった赤い拳が同時に見られます。
 
花陰に入って潅木を見上げます。
真っ青な空に、選仏場の茅葺屋根、緑の葉っぱに真っ白い花。白い花の芯には朱色がさしています。
そして、萎んだ花は拳のように丸まっています。拳がポトン、地面に落ちます。
 
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        萎んで散った酔芙蓉、一日花ですから、それに美しいので「無常」を知らされます。
 
選仏場とは座禅の道場です。
奥に薬師如来が立っておいでです。
その前に板間が左右に広がっています。
その上で座禅に励む、そして我も仏にならん・・・・と只管座禅に打ち込むように・・・、そんな施設です。
最も円覚寺らしい施設です。
 
選仏場の壁には高低二箇所に窓があります。
れんじ窓越しに光を堂内に取り込むように出来ています。
下のレンジ窓からは落花した酔芙蓉の花が見える筈です。
 
何で修行の場所に最も艶かしい花を育てるのだろうか?
修行の邪魔になりはしないだろうか?
若い雲水さんには「湯上りの楊貴妃は刺激が強すぎる」思うのですが・・・・。
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  円覚寺の座禅道場「選仏場」、右隣に「居士林」 があります。此方が在家の方の座禅道場です。
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  選仏場の内部。薬師如来も前で座禅に打ち込みます。左の羽目板の背に酔芙蓉が咲きます。
 
曹洞宗のお坊さんが古来の教えを現代語でダイジェストして、「修証義」をまとめました。
その序文に「無常」が書かれています。
命は露のようで何時落ちるか(死ぬか)分かりません。「命は光陰に移されて暫くもとどめ難し。紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし。」
「少年の日の若々しい顔は何処に行ってしまったのか、捜し求めても跡形もありません。」
 だから、時間を惜しんで修行に励みなさい・・・、と。
 
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    この観音様の目の先に「田中絹代」さん、「開高健」さんのお墓があります。
 
酔芙蓉の美しさは1日でお終いです。
昨日レンジ窓の向こうで酔芙蓉の花は艶やかに咲いていました。
でも、今朝その花は地面に落ちています。また新しい花が咲いていますが、今晩にはまた落花してしまう事でしょう。
「無常(命)は憑(たの)み難し」
この禅の教えを最も端的に顕す花が「酔芙蓉」なのでしょう。
だから、瑞泉寺にも円覚寺にも酔芙蓉が育てられているのでしょう。
 
私は上村松園さんの楊貴妃を改めて眺めます。
形の良い乳房が描かれています。乳首が朱に染まっています。
楊貴妃の生涯を記す事は不要でしょう。それこそ「無常」そのものでした。
 
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      中央が選仏場、その向かいが講堂です。円覚寺は何時上っても、背筋を正される「道場」です。
 
 
 
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新蕎麦、入りました

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町を歩いていると「新蕎麦、入りました」看板が目に付く季節になりました。
私は「新蕎麦」の言葉には弱いのです。ついつい、暖簾を潜ってしまいます。
「何で、誰が、こんな美味いものを考えついたんだ!」感服します。
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     私の町の「蕎麦打ち教室」、今年も予定されています。親爺にに人気です。
 
私のサラリーマン時代、最初の上司(課長)は昭和37年の卒業でした。
外回りで誘われました。「君、一服してゆこうよ!」
普通は「喫茶店」でコーヒーを想像します。
ところが課長は蕎麦屋が一服の場所でした。
都心は何故か蕎麦屋が多かったのです。
加えて、「小諸蕎麦」などチェーン店が目立ってきていました。
私が課長になったら、上司は部長になっていました。
ですから、蕎麦屋通いはズット続いていました。
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    蕎麦打ち教室、出来上がったら順番に戴きます。一度に茹で上がらないのです。
    新蕎麦で部屋には良い香りが充満します。
 
多分、蕎麦はチベット高原がルーツで、騎馬民族と共に朝鮮半島から日本に伝わったのでしょう。
焼畑農業の主要な雑穀だったと思われます。
蕎麦文化は裏日本に盛んなのはその関係ではないでしょうか?
青森の「津軽蕎麦」、山形の「板蕎麦」、新潟の「へぎ蕎麦」、長野の「信州蕎麦」「戸隠蕎麦」、福井の「おろし蕎麦」、島根の「出雲蕎麦」などなど。
勿論表日本にも名物蕎麦はありますが、裏日本が優勢なように思います。
蕎麦には田舎、鄙びた印象があります。
山形や新潟の田舎道を走っていると、突然に農家の庭先に「蕎麦あります」看板が立っています。
嬉しくなって入ってしまいます。
蕎麦は農家の寄り合いで、ご馳走でした。
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           蕎麦の花は白と赤があります。やせ地に育ちます。
           カロリーが少なくミネラルを多く含んだ美容・健康食です。
 
蕎麦は足腰が強い事が重要です。
今や大相撲はモーゴールに占拠されてしまった感があります。
横綱白鵬や大関日馬富士の二枚腰を見ていると、
「蕎麦のルーツだから、軟い日本人力士」じゃ適わない、思ったりします。
でも、日本人とは同じモンゴリアン、日本人以上に日本人の姿をしています。
  (モンゴールの蕎麦を食べて見たいものです)
 
脱北者が9人能登半島沖で発見されました。
朝鮮から船で沖合いに出れば日本に漂着するのでしょう。
彼らの祖先が日本に蕎麦を伝えたのでしょう。
粉に挽いて、団子にこねて、蕎麦掻きにして食べていました。
その蕎麦を、麺にしたのは江戸時代、お茶室のおもてなしに考えたのだそうです。
それが、江戸の町のファーストフードとして大流行しました。
江戸勤めの役人が故郷に持ち帰って、郷土色豊かな蕎麦が全国に広がりました。
日本の食文化は江戸時代、江戸や京都、難波の町で出来上がりました。
それが地方に伝播し、風土に合わせて様々な味がオンされました。
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           蕎麦畑には昆虫が集まります。
           虫も美味しい事、滋養に富んでいる事を良く知っているのでしょう。
 
韓国料理にはチジミも冷麺も蕎麦粉が入っているようです。
でも、「蕎麦の香りを楽しむ」そんな感じはありません。キムチ同様に複雑な味を楽しみます。
ですから、「新蕎麦の冷麺をどうぞ!」そんな呼びかけは無いでしょう。
日本人は「新しいもの」を大切にして、「素材そのものの味」を大切にします。
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        此方はアカバナの蕎麦 。蕎麦は麦やジャガイモ等との二期作で栽培されます。
 
鎌倉と藤沢の境に「そば処 旬彩房 貴乃家」があります。
我が家からは遊行寺に行く道筋にあります。
「新蕎麦入りました」ポスターに誘われて、また入りました。
何故か、芋焼酎が並んでいます。
尋ねると「蕎麦には焼酎」が合う。
「蕎麦焼酎より芋の方が美味しい」と確信しているのでした。
私は蕎麦には日本酒と確信していますが。
芋焼酎の臭さは蕎麦の香りと喧嘩する・・・、心配なのですが。
蕎麦も様々、人も様々、所詮は好き嫌いかもしれません。
 
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                 藤沢渡内のそば処 旬彩房 貴乃家」の新蕎麦
 
 
中に「晴耕雨読」名の芋焼酎が置かれていました。
 (製造は有限会社佐多宗二商店/鹿児島県 揖宿郡頴娃町別府4910番地).
レッテルが貼られて、漢詩が書かれています。
これが、如何にも日本人が作った漢詩で、韻が踏んであるとは思えません。
出来が悪くても「思い」は充分に伝わってきます。
私は、蕎麦を楽しみながら「晴耕雨読」を読み上げます。
「人生中年過 戴仕事重責 一時忘浮世 人生最高楽 非栄達贅沢 齧煎豆罵倒 歴天下英雄 呑晴耕雨読」
 
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「何だ!我が身を代読した積もりか!」
苦笑いです。
焼酎を飲んで、雨の日は本に親しんでも、耕す土地はありません。
もう、晴耕雨読も出来ないのが現実です。
焼酎の味も涙っぽくなってしまいます。
 
 
NHK/TVの「おひさま」はそろそろ最終幕が近づいてきました。
安曇野の蕎麦屋さんは専用の蕎麦畑も耕して、美味しい蕎麦を打っているようです。
 
蕎麦屋「貴乃家」は若夫婦とお婆ちゃんの三人の経営です。
「おひさま」を髣髴させます。(若尾文子のように綺麗ではありませんが)
若旦那に聞いて見ました。
「新蕎麦、香りが良かったが、何処で収穫されたのか?」
すると、「今、国産は総て北海道ですよ」
北海道は何処かね?聞けば
幌加内(ほろかない)から美瑛の辺りでしょう。
私の瞼に蕎麦畑の丘陵が浮かんできます。遠くに十勝岳が浮かんでいます。
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         幌加内の蕎麦畑、出典はYAHOOブログからお借りしました。同ブログは次です。
        こんな「美畑の蕎麦」なら美味い筈だ。
 
 
 
 
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奥の細道と「萩の花」(瑞泉寺にて)

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鎌倉二階堂の瑞泉寺を上りました。
渓流に沿って長い坂を登ると、山紅葉の木の下に山門が見えてきます。
名刹にしては小さな門ですが、この敷居を跨ぐには相応の緊張が伴います。
柱に黒板が架かっています。
ご住職が能筆で、参詣者に問いかけをされています。
問いかけは、季節季節に変えておいでです。
この秋は、俳句が書かれています。
   いづくにか たふれ伏すとも 萩の花  曾良
 
 
「奥の細道」では 「いづくにか」 ではなくて、「行く行きて」となっています。
ご住職は前者の方が「人生を考えるに相応しい・・・」考えられたのでしょう。
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    瑞泉寺山門、右柱に俳句が架かっています。ご住職が季節季節に参詣者に問いかけて下さって    います。私は、この俳句を頭に入れてお参りします。 
 
今、鎌倉では萩の花が咲き始めました。
瑞泉寺でも萩や水引が咲き始めています。
花を巡りながら、曾良の俳句を思い巡らせました。
 
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「奥の細道」の場面も加賀の山中温泉に辿り着きました。
芭蕉が曾良さんを伴って深川を出立したのは元禄2年3月27日でした。
そして加賀の山中に入ったのはもう秋風が立ち始めた7月15日(太陽暦8月29日)でした。
 
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    与謝蕪村作「奥の細道図巻」(京都博物館蔵、同館HPから転載。)右が曾良。曾良は墨染めの衣     を着て、行き倒れで死ぬ覚悟も出来ていました。
 
「奥の細道の別れの場面」です。
原作は簡潔な短文ですが、筆者が芭蕉の気持ちになって、詳しく吐露して見ようと思います。
 
私(芭蕉)はずっと、曾良さんが一緒でしたから心強いし、句作も進みました。
心底感謝しています。
ところが、山中にに来て、曾良さんは腹を病んでしまいました。
この先、伊勢の長島温泉にある大智院の住職が縁者だと言うので、曾良さんは先に行くことになりました。
曾良さんは別れが悲しかったのでしょう。
 行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原 (曾良)
と書いて置いて行きました。
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与謝蕪村作「奥の細道図巻」の「別れの図」、右が芭蕉。出典京都博物館HPから転載
 
山中から長島まではまだ距離があります。鈴鹿峠も越えなくてはなりません。
曾良さんは「奥の細道を歩いて、更に行って、倒れ死にしたとしても・・・・萩の咲く原で死ねば本望だ・・・・」と吟じました。
 
勿論この句は私達俳人の師である西行法師を本歌取りしたものです。
   いずくにか眠り眠りて倒れ伏さんと おもふ悲しき道芝の露       (西行)
 
西行法師は歌っておいでです。
”奥州平泉に旅をして、何処か草原で眠ってしまいそのまま行き倒れてしまうかもしれない。
そう思うと道端の芝に宿した露(命)もはかなく悲しいものだ”。
 
此処までは二人で続けた旅なのに、
別れなくてはならない曾良さんの悲しみや優しさがしみじみ思われました。
残された私の無念も深いものがあります。
 
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                                 瑞泉寺の水引
 
 
私は中国の故事「隻鳧/(せきふ)の別れ」を思い出しました。
蘇武と李陵とが匈奴に捕らえられてしまいました。
苦楽を共にした二人だったのに、蘇武だけが故郷に召喚されることになり、李陵は北の僻地に残されてしまいました。
私も、一句吟じました。
   今日よりや書付消さん笠の露    (芭蕉)
 
 
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鎌倉亀ヶ谷切り通しに咲いた萩、右側は長寿寺
 
私は深川を立つ時「旅は曾良さんと二人ずれ」なので、編み笠には「同行二人」と書きました。
でも、今日からは私は一人で旅をすることになります。
そこで、編み笠の字を消す事にしました。
 
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     同じく亀ヶ谷切通し、下の道が巨福呂坂になります。左が長寿寺。
 
名作「奥の細道」は芭蕉一人では興冷めなものになっていたでしょう。
お弟子さんの曾良さんが居たから、紀行文に奥行きが出来、至高の名作になりました。
瑞泉寺のご住職はこんな事を諭されたのでしょう。
偉大な功績には必ず陰の人がいる。
曾良のような生き様や覚悟を解りなさい。
誰でもが芭蕉になれる訳でもないし、でも曾良にならなれるかも知れない。
この季節、この人生、考えてみなさい・・・、と。
 
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                     海蔵寺の滝萩は来週、彼岸辺りが盛りでしょう。
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         浄光妙寺の萩はもうじき盛りです。背後は楊貴妃観音像。
         もう一つ、白萩の名所宝戒寺はまだ咲いていません。
 
   参考:「奥の細道・別れ」原文は以下の通りです。
          
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
        行き行きてたふれ伏すとも萩の原   曾良 
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。
        今日よりは書付消さん笠の露     芭蕉
 
 
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宮城野萩が招いた幽霊

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万葉集で最も歌われた花は「萩」でした。
奈良の「山之辺道」には今頃は、萩が咲いて頭を垂れている事でしょう。
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  鎌倉扇ガ谷浄光明寺の宮城野萩。このお寺の裏山には冷泉為相(鎌倉時代和歌の名手)の墓があります。
 
萩といえば大半が「宮城野萩」です。
赤紫の小花が細い枝に咲きます。
普段でも細枝はしなっていますが、花の重みに垂れた姿は物思いに沈んだ女性の姿を思わせます。
「異性への思い」を託すには格好な花だったのでしょう。
     宮城野の本あらのこはぎ露を重み 風をまつこときみをこそ待て (古今集)
 昔からの名所である宮城野の本荒の里に咲く萩は頭を垂れています。それは花に露が重いからで   す。萩の花が秋風が吹いて露を払ってくれるように、私も貴方をお持ちしていますよ・・・。
 
 
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                          鎌倉の宮城野萩(巨福呂坂円応寺)
         
仙台市宮城野区、奈良時代には国分寺、薬師堂、国分尼寺等がありました。
橘為仲は陸奥守の任を終わって都に帰るとき、萩を長櫃12に入れました。
「都に着く頃に花が咲くだろう・・・・、都人を喜ばせてあげたい」計画したのでした。
 
宮城野は歌枕にもなっています。
都人は「宮城野の萩」に憧れを持っていたのでしょう。
江戸時代伊達藩は宮城野一帯を禁野として伐採を禁じ、宮城野萩を保護しました。
野守と呼ばれる「野原の番人」を置きました。
其処も、今は仙台の住宅地になってしまいました。
 
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      宮城野萩は花が咲くとその重みで垂れ下がること、更に夜露が葉に留まる事にあります。
 
この宮城野に「幽霊の話」が残されています。
美しい、古代らしい話ですから紹介します。
 
松島の雄島に見仏上人が住んでいました
上人には若くて聡明な宮千代と言う名の少年が仕えていました。
宮千代は常々「和歌の道を究めたいものだ」と思っていました。
そこで、上人に京の都に上りたい、頼みましたが、上人は許してくれませんでした。
「京の都は未だお前には危険が多すぎる」
しかし宮千代の京への憧れは絶ち難く、ある時一人で旅立ってしまいました。
 
多賀を過ぎて、宮城野原に着いたときは真夜中でした。
お月様が煌々と照り輝いていました。
萩の葉に降り落ちた露が月の光を受けて照り輝いていました。
歌心に誘われた宮千代は吟じました。
「月は露 つゆは草葉の宿借りて」
上の句は出来たのでしたが、下の句が続きません。
宮城野原で苦吟が続きました。
そのまま寝込んで、何時しか息絶えてしまいました。
 
哀れに思った里人が宮千代の死体を弔ってあげたのでした。
しかし、夜な夜な宮城野原に幽霊が出ると言う噂が立ちました。
その幽霊は「月は露つゆは草葉の宿借りて」と口ずさむというのです。 
その噂を耳にした見仏上人、ある夜宮城野原を訪れ塚の前にさしか かると、
墓の下から「月は露つゆは草葉の宿借りて」と言う歌が聞こえてきました。
 
すかさず、見仏上人「それこそそれよ宮城野の原」という下の句を供てあげました。
すると、二度と宮千代の幽霊は出なくなりました。
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歌に命を書ける、命以上に歌に心を入れ込む、と言う意味では平家物語の平忠度を思わせます。
「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」 (千載集66)
 
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  浄光明寺の櫓 冷泉家の関係、大伴家(八幡宮の宮司)の関係で美しい墓標が目立    ちます。
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      大伴家墓標(浄光明寺)
 
古代の幽霊は「歌や花に思いを残して救われない魂」がこの世に漂っているものが多いのです。
中世には「家族や地域のことが気になって、救われない魂」が現世に留まります。
近世には「人への恨みを果たす為、現世に復讐しようとする魂」が出現します。
幽霊の変遷はそのまま、人間の深化を示しているように思われます。
 
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浄光明寺墓地 背後は櫓群です
 
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