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こゆるぎ浜の「白黒さざれ石」

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横浜は朝から雨が雪に変わりました。
天気予報では今日から週末まで天気が崩れたままだそうです。
雪景色が見られるかも知れないな・・・・、期待が膨らみます。
先週でクンチョ・ワゴン(韓国歴史ドラマ)が終わりました。
4世紀中頃、百済の王様のドラマでした。
その戦場で、囲碁をする場面がありました。
海辺や川原の白・黒の小石を使っていました。
”成る程な!”思いました。
日本では碁石は”那智黒と日向ハマグリ”と決まっていますが・・・・、
古代は同じような海辺や川原の小石だったのでしょう。
 
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  今日の話題は大磯こゆるぎ浜のさざれ石です。浜辺で暖を取るキジバトの群れ。
  毎年5月頃、磯に青鳩が渡って来ます。確か天然記念物だったと思います。
 
私は大磯の浜辺を思い出しました。
小正月に、ドンドの炎が夜空を焦がした大磯の浜辺です。
浜辺は白、黒の碁石で埋められているのです。
国道1号線を平塚を越え、花水橋をわたると大磯町です。
鰻の「国吉」、西行饅頭の「新杵」、「井上蒲鉾店」と名店が面する交差点があります。
”さざれ石”交差点です。
私はこの辺りの祠に”さざれ石”がご神体として祀られている・・・、思って探した事がありました。
中々見当たらないので、井上蒲鉾店で尋ねました。
”こゆるぎ浜は丸い小石で埋まっているでしょう。あれがさざれ石で国歌に歌われているような大岩がある訳ではありません”
教えて戴きました。
 
    イメージ 2                井上蒲鉾店の前「さざれ石交差点」この先鴫立つ庵横を左折すると浜に出られます。
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   これが国歌の「さざれ石」、沢山の細石の間を炭酸カルシウム等が固めて大きな岩に成長させている姿が    「国歌のさざれ石」だそうです。学術的には「石灰質角礫岩」と呼ぶのだそうです。(写真は東慶寺)
 
 
私は、改めてこゆるぎ浜に降りてみました。
さざれ石とは漢字に直せば”細石”でしょう。
小石より小さくて、砂よりは大きな丸い石・・・・、でしょうか?
碁石には最適です。
直径5cmくらいの小石は浜の上に、碁石程度の小石は浜の中程に、砂に近い小石は波打ち際に・・・・、
分かれています。
きっと波がさざれ石を分類して置いて行ったものでしょう。
大波が比較的大きな石を運んで・・・・・、小波は小さな石を浜辺に運んで置き去ったものでしょう。
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    砂浜のさざれ石、波が大きな石、小さな石分類して砂浜に置いてくれました。
    歩けば”ギュッ、ギュッ”と鳴ります。角が丸まってやさしい小石です。
 
真っ黒い石は伊豆の名石「小松石」でしょう。
伊豆半島を回ってきた黒潮がこの辺りに置き去りしているのでしょう。
小松石は湯河原から積み出されて鎌倉に、江戸に運ばれました。
墓石は大半が小松石で刻まれました。
鎌倉の石屋さんは大半が伊豆の出身者と考えて間違いありません。
墓石から遊郭や宿屋に転向して成功した者も数多く居たようでした。
藤沢宿の小松屋源蔵もそんな一人でした。
(この話題はhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44962426.htmlに書きました)
 
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     こゆるぎ浜では波が小石を磨いて、分類して、砂に置いてゆきます。
     まるで、”さざれ石で遊びなさいな”誘っているように見えます。
 
白い石は・・・・・、こゆるぎ浜にも転がっています。
花水川も相模川も多くが白い小石が転がっています。
ですから、大磯に来れば白黒、碁石が揃う事になります。
何も高価な那智黒と日向蛤を求めなくても、”こゆるぎのさざれ石”の方が興趣に富んでいるように思われます。
 
日本武尊は足柄峠を越えて相模の国に入ります。
走水(三浦)から東京湾を越えて安房に入ろうとします。
しかし海が大荒れでした。
妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は夫に代わって海の神の怒りを鎮る為、海に身を投じます。
東征を終えた日本武尊は帰路に二宮の小山に登り、相模湾から三浦を見詰めます。
足元の浜辺がこゆるぎ浜です。
浜辺に弟橘媛命の櫛が流れ着いていました。
海を見て『ああ我妻よ』と嘆きました。
そして、櫛を山頂に埋めます。
その場所に「吾妻神社」が建てられます。
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   こゆるぎ浜、沖に霞むんでいるのは伊豆の天城山。
   相模湾は小田原辺りから鎌倉逗子に向かって砂が次第に細かくなっています。潮の仕業でしょう。
   砂浜に縞模様が描かれているのは、波が小石や砂を分けて置いていったからです。
 
黒い石が日本武尊なら、白い石は弟橘媛命でありましょう。
黒い石が曽我の十郎なら、白い石は虎御前でしょう。
大磯が男女の伝説が幾つも残っています。
そんな場所で採れたさざれ石なら碁石に最適でしょう。
 
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  暮れなずみ、海も夕陽に染まり始めます。釣り人も帰路に着きます。様々な人が浜辺で憩います。
  私は、波消しブロックの上に碁盤を刻んでくれたら・・・・・、五目並べで遊べるな・・・・、思います。
  勿論、碁石は足元に転がっています。
 
 
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マリア道の谷戸観音様

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家内を誘って大磯の「マリア道」に出かける事にしました。
大磯を巡ってて気づくのですが、町の其処此処に小さな教会があるのです。
何故大磯にキリスト教の布教が進んだか・・・・?
説明は別の機会にしましょう。
 
大磯の中心から西、丘陵にマリア道と呼ばれる細道があります。
何処にもあるような”里の小道”ですが、丘陵の上に修道院があって、シスターの歩く姿が見られたそうです。
そこで、西大磯の里中の小道を”マリア道”と呼ばれるようになったそうです。
昭和40年代に入って、修道院は移転し、野村證券の研修所になり、
現在は星槎大学のキャンパスになりました。
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   マリア道周辺、正面は相模湾で青い海が見えるのですが、曇っていてはっきりしませんでした。
 
”マリア道”の名にも心惹かれるものがあります。
それに、この辺りは石仏、仏像が数多く祀られているのです。
アバウトな地図と土地勘を頼りに石仏めぐりも楽しいものがあります。
 
でもまだまだ北風がきつく、本当は春先、菜の花が咲いて、田起こしの季節が良いのですが。
思い立ったら直ぐに出かけてしまう性分です。
家内はボトルに熱いお茶を用意しています。
 
東海道を大磯の松並木を西に下って、暫く行くと
左が吉田茂邸、右が城山公園(旧三井別邸)の小山が見えてきます。
公園の駐車場に車を止めて、目と鼻の先に西長院があります。
 
このお寺のご本尊は鎌倉時代の作と言われる「延命地蔵尊(石仏)」なのです。
私は自分の目で確かめたい・・・・、思っているのですが、中々機会に恵まれません。
(次のご開帳は1月24日です)
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          西長院の延命地蔵尊(身代り地蔵尊)磨耗が進んでいますが、立派な体躯で
          全体のバランスも良く、鎌倉時代の作・・・、との評価が納得の秀作だと思います。極楽寺の忍           性が奈良から石工を招いたからでしょう。箱根から鎌倉にかけて優秀な地蔵(石仏)が残ってい           ます。
 
案内の写真で見れば、首と胴、二箇所で割れています。加えて右手を失っています。
多分、地震か何かの折に地蔵尊が倒れた折に首、胴でお体が割れてしまったのでしょう。
でも、偶々の破損事故が新しい信仰を生み出してゆきます。
 
先ず最初が鎌倉時代、梶原景時の家臣「悪太郎義景」の話です。
悪太郎義景は日ごろからこの地蔵尊の信心を怠りませんでした。
建久2年、頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した折、狼藉者が現れます。
日頃から評判の悪かった景時の仕業・・・、噂が立ちます。
畠山重忠は実行犯として悪太郎義景を討ち取ります。
 
ところが悪太郎義景は傷一つ受けていませんでした。
代わりに、地蔵尊が体中に傷を受けていました。
そこで、地蔵尊を近くの川で洗いました。(この川を血洗い川と呼びます)
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         西長院は街中の小さなお寺さんでした
 
更に室町時代にも説話が加わります。
岡崎四郎の娘は篤く地蔵を信仰して毎夜参詣していました。
悪者達が「きっと狐か狸が化けているのだろう」と怪しみ、娘の首を切り落としてしまいます。
娘は悲鳴を上げて逃げ帰ります。
翌朝悪者達が「雌狐が息絶えているだろう」と、現地を確認してみます。
ところが、胴から切れたお地蔵様の首が地面に転がっていました。
 
身代わり地蔵尊の評判は更に高まりました。
鎌倉時代以降、地蔵信仰は関東でも広く深く浸透して行きます。
元禄二年(1689年)、村人は祠堂を建立し、バラバラの地蔵尊を祀ったと言われます。
(「東海道名所記」等に記述されています)
 
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         金龍寺(真言宗)全景、山の左が城山公園(三井家別荘跡)、この山続きに谷戸観音が祀          られていて、その丘の上に昭和30年代まで修道院がありました。
 
城山の東には金龍寺があります。
梅林の中に、新しい子育て地蔵尊が祀られています。
梅は未だ固い蕾ですが、蝋梅は今が盛りです。
金龍院から、里中の小道を登ってゆきます。
地図によれば右も左も古墳のようです。
”古墳かな?”思ってみればどれもこれも古墳に見えてきます。
 
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         (曽我五郎力石、と案内されています。虎御前の恋人は兄の十郎と記憶しています。)
 
道の両脇は棚田だったようです。
今ではビニールハウスが目立ちます。
道端に大きな石が置かれています。
”曽我五郎力石”と案内されています。
この丘陵は曽我の梅林に続いています。
 
曽我十郎はこの道を恋人「虎御前」に逢う為に通った・・・・、案内されています。
  (石柱には曽我五郎と刻まれていますので、案内板と錯誤が生じています?)
でも、恋人に会うために近道した・・・・、気持ちは良くわかりますが、
力石で力試しをした・・・・、理由は良くわかりかねます。
 
足柄峠から大磯にかけて、「虎御石」が幾つもあります。
中には飛鳥の酒船石のように細工が為されたものもあれば、
石の真ん中に「目の玉」が描かれたものもあります。
「石にはもっと深い意味」があったのでしょう。
 
曽我力石から500mほど里道を登ると、左脇に案内標識が出てきます。
「谷戸観音」と案内されています。
土手を登って、竹薮の中を進んで暫く行くと、石段があります。
その先が目指す谷戸観音です。
 
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       谷戸観音は古墳の玄室の中に祀られています。
 
谷戸観音は里人の付けた名でした。
「穴観音」と呼んだ方が似合っています。
と言うのは、此処は明らかな古墳の玄室です。
古墳に横穴を掘って、壁には漆喰を塗って、その中に死者を葬りました。
時代が下って、玄室を観音の洞に再利用したものでしょう。
でも、玄室の入り口は人一人が屈んで、這い蹲って漸く入れるように工夫しました。
 
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   石仏は寛保3年(1743)と新しいものでした。
 
案内板がありました。
ここにはかつて、新楽寺 ( 真楽寺 ) という大寺がありました。
鎌倉時代には、高麗寺とともに有名な寺で源頼朝公の崇拝も深く、政子の安産祈願所で知られていましたが、新田義貞の鎌倉討ち入りのとき焼き払われたと伝えられています。
寛永 6(1629) 年にこの地を襲った大水害の供養のため、
古墳時代の横穴墓を改造し奥座に石造りの十一面観音像を安置しました。 (大磯町)
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     谷戸観音玄室の全景
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    谷戸観音の玄室内から外を見る。お掃除しているのは家内です。
 
改めて谷戸を眺めます。
目の前の竹薮も、畑も総て新楽寺の境内だったのでしょう。
でも、古寺の面影は何も残っていなく、その前の古墳だけが残っています。
お寺の跡も何時しか畑にして、里人の腹や命を満たすようにしました。 
でも、鍬で土を深く掘り起こせば、甍や焼け落ちた柱等が出てきます。
古人の霊が此処に棲んでいる・・・・・、感じられます。
そこで、漸く平和になった江戸時代初め、篤く霊を癒して畑にさせて頂いたのでしょう。
ですから、谷戸観音は谷戸に災いがもたらされないよう・・・、祈ったものでしょう。
 
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                                                    新楽寺の跡は畑です
 
マリア道周辺は地蔵も観音も道祖神も・・・・、神仏が沢山です。
そんな中を、シスターが僧衣の裾を翻しながら歩いてゆく姿は・・・・、素敵です。
昭和30年代、私はニキビ顔のカソリックの学校の生徒でした。
              (学校にはシスターはいなくて、厳格な神父ばかりでした。)
マリア道でシスターとすれ違ったら・・・・・。
私が両足を止めてお辞儀をして、シスターは言葉をかけて下さるでしょう。
”今日も寒い風が吹きますが・・・・、もうタンポポも咲き始めましたよ。”
私は、息を弾ませて、道端にタンポポを探した事でしょう。
 
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                                             谷戸観音への細道。
 
 
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水仙と石仏

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此処数日、雨が雪に変わり、また雨に戻って・・・・、不順なお天気が続きます。
すこしは空気が湿って、植物も喜んでいる事でしょう。
ボケの木を覆っていた鵯上戸(ひよどりじょうご)の赤い実も、ヒヨドリの群れが来て、食べ尽くしてしまいました。
毒性のある実を一気に食べ尽くして、どこかで死んでしまわないか?心配です。
 
垣根の鵯上戸は無くなってしまいました。
お正月に花瓶に挿した赤い実だけが残っています。
家内が水仙と鵯上戸を玄関の花瓶にいけています。
”お父さんは水仙が嫌いだったんですよね、墓地に咲いているから・・・・。”
呟いています。
父は水仙嫌い、私は水仙好き・・・・、父が亡くなってからは、気遣いも要らなくなりました。
玄関には、水仙の白い花、緑の茎、そして鵯上戸の赤い実・・・・、が生けられました。
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                         玄関の水仙
 
”生け花”のルーツを調べると、必ず
「仏様に奉げる為に生けられました」「奈良の大仏開眼の際にも・・・」と説明されます。
きっと最初に京都の池坊が説明したのでしょう。
池坊は、京都のお坊さんが始めた「生け花」だったから・・・・、
生け花の目的は”仏様を荘厳に飾る”事だったのでしょう。
でも、東南アジアの国々では”生け花”は盛んではありません。
水盤に蓮の花を受けべたりしています。
唯一、日本だけが生け花が盛んになりました。
だから、仏教が生け花隆盛に貢献した事は事実であっても、ルーツは異なります。
生け花は仏教以前から・・・、日本人の心情に根ざしていた伝統だと思います。
 
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   季節の花を以って、心を表現するのが日本人の心情です。
   それが相手が人であれ、仏であれ・・・。(東慶寺の墓地入り口で)
 
生け花の主たる流れは、恋人に花をプレゼントする、
相聞歌を花に添えて贈る・・・・・・、そんな習慣から生じているのではないでしょうか?
枕草子には生け花をして鑑賞する習慣が描かれています。
「勾欄のもとにあをき瓶のおほきなるをすえて桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば・・・」
 
寝殿造りの住宅でも「生け花」をしたようですが、
室町時代書院つくりが一般化すると生け花は進展します。
書院の床の間や玄関に花を飾って、”おもてなし”を表現するようになりました。
来客を歓迎する・・・・・、そんな心を「季節の花を生けて」表現したのでした。
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                                   桂離宮の水仙の釘隠し
 
江戸時代になると、室内装飾の生け花を、それ自体独立して鑑賞されるようになったのでした。
そこで、様々な家元が出来、様々な流儀が発展したのでしょう。
池坊の独壇場であった立花にも緒流が入り乱れてきました。
 
大仏に奉げる生け花も良し、路傍のお地蔵さんに奉げる一輪の花も良いものです。
石仏には切花も良いのですが、宿根花であれば、毎年季節が巡れば花が咲きます。
墓地では・・・・・、菊や水仙が植えられて、春秋の彼岸には必ず花を咲かせてくれます。
先祖を癒したい・・・・、優しい心は宿根花を植えて・・・・・、何時しか自生します。
日本の虞美人草は「水仙」「菊」になりました。
 
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    路傍の石仏に水仙が寄り添っていました(大楠山)
 
墓地の水仙、良く似合います。
何処にもありますが、私は葉山の「海前寺」の無縁墓地に良く出かけます。
日陰茶屋の道路向かいが海前寺で、海よりに小山があります。
山の名は有名な「鐙摺(あぶずり)山」です。
名前の通りに海を前にしたお寺ですが、鐙摺山が風を遮っていますので、穏やかです。
 
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     葉山の海前寺の無縁墓地を飾る水仙の花。前列に童子、童女の墓が並んでいます。
     不思議な事に水仙は石標より高くなりません。
 
小さなお寺の無縁墓地ですから、寒々しています。
無縁墓地の主の過半は子供です。
子供の墓標になっている石仏です。
小さくて可愛い石仏で、まるでコケシ人形のようです。
小さな石仏の背丈に水仙が伸びて花を咲かせます。
鼻先で花を咲かせたら・・・・、香りでクシャミが出てしまいそうよ・・・・・、石仏が言っていそうです。
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      無縁墓地、後列は成人の墓標です。水仙は同じ高さで花を咲かせます。
 
童子、童女の石仏を見守っている、大きな石仏がいます。
恐ろしい奪衣婆です。
三途の川の渡しで、死者の衣を奪って傍らの柳の小枝に懸けます。
死者の悪行の重みで柳の枝がしなります。
死者は奪衣婆を見た途端に観念しなくてはなりません。
 
でも、海前寺の奪衣婆はそれ程意地悪そうではありません。
まして、肌もあらわな胸には豊かな乳房がぶら下がっています。
未だ乳飲み子には含ませてあげられる・・・・、そんな乳房です。
 
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             海前寺の奪衣婆、背後の小山が鐙摺山、鎌倉時代の城でありました。
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             明和2年(1765)3月に亡くなった童女、お名前は「露菊」さん。
             此処は暖かいしお友達も居て・・・、いいところかな?
 
 
 
 
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絶品「アサリのフォー」の味(ベトナムレストラン「フォー・モティティ」)

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正月に娘に聞きました。
”神奈川で一番美味しいと思うベトナム料理店は?”
ベトナム料理店は小田急江ノ島線の長後駅周辺、そして川崎に集中していて・・・・、
”お父さんなら、フォー・モティティが合うんじゃない!”
薦めてくれました。
 
長後駅から藤沢街道(国道467号線)に出て、少し大和方面に行きます。
国道に面した一戸建ての1階居間をレストランに改築したような、無理な造りです。
駅から徒歩10分の距離ですから、駐車場が大事ですが、狭い駐車場には2台置けば満杯です。
苦しい立地環境と評価されます。
 
お店に天幕が張られていて、2000年、サイゴンでベトナム料理コンテストで「シェフの王冠」を受賞した・・・・、案内されています。
1品料理は680円から、ランチセットで840円・・・・、
賑やかに、べたべたとメニューが張られていて、如何にも華僑系(中国人系)ベトナムレストランです。
 
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     戸建住宅の1階部分をレストランに転業したお店。10席40人程度が入れます。
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                               お店の入り口、垢抜けしない華僑系のお店?
 
午前12時、でもお客さんは居ません
快活なお嬢さんが注文をとってくれます。
私はアサリのフォーのランチセットを注文しました。
”辛いのですが、大丈夫ですか?”
”ベトナムには行った事がありますか?”
色々質問してきます。
お嬢さんに聞かれると私は嬉しくなって、ベトナム各地の市場で食べた料理の話をします。
 
お嬢さんは”当店は屋台料理ではありません。宮廷料理です!”
そんな顔をしています。
 
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店内、右奥が厨房。壁の赤いポスターがミスコンテストの案内
 
お嬢さんに店内の写真に撮って良いか、窺がいます。
 
料理が運ばれます。
暫くして、店主が顔を出しました。
”写真は、何で撮るんですか?”
聞かれます。
”ブログに載せようと思ってね”
写真OK,快諾されました。
 
店主は調味料を持ってきます。
少し甘いようでしたら・・・・、是を載せてください。
此方を入れれば、甘くなります。
それくらい、承知しています・・・、とは思いますが、試してみます。
 
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     アサリのフォー、これにカピオカのデザートがついて840円(ランチセット) 左がミスコンテストのチラシ。
 
”フォー”の魅力は、魚醤の味付け、パクチーの香り、そしてお米の麺の咽喉越しでしょう。
当店のお味はサッパリしていて、アサリの風味が引き立っています。
なるほど、美味しいもんだ・・・、思います。
充分満足なのですが、香辛料を加えて別の味も試して見ます。
 
店主の手が空いた為でしょう。
色々話しかけてきます。
自分はフエで生まれて、サイゴンのホテルでシェフとして腕を磨いた事。
1999年に日本に渡ってきた事、そして2005年に此処に出展した事・・・・、などなど。
 
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   店主は私の話を聞いていたのでしょう。ベトナム風味を強くするように、香辛料を持ってきてくれました。
 
私の世代にとって、ベトナムと言えば先ず「ベトナム戦争」で、次いでベトナム解放後の難民騒ぎです。
サイゴンを中心に南部の人達が脱出しました。
彼等をボートピープルと呼び、日本にも1万人以上が渡って、国籍を取得しました。
長後の周辺にはベトナム難民の受け入れ施設が出来ました。
私が、ベトナム難民の話をしたところ、無反応です。
この店主にとってはベトナム戦争は過去の話なのでしょう。
            ベトナム難民の話は http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45048642.htmlに書きました。
 
長後周辺が自動車やエレクトロニクスの工場立地もあって、ベトナム人が多く住んでいる。
だから、ベトナムレストランも流行る筈だ・・・・、
そこで、出店しました。
ところが、最近はデフレで、肝心の駐車場も無くなってしまいました。
 
現状で、お客が沢山来てくれる・・・・、事が重大です。
店主の関心は客足が遠のいている対策のようです。
 
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   左が店主、右が従業員、この外に店主の奥様が働いています。
   長後周辺で一番清潔で、美味しいと言えるでしょう。
 
壁にポスターが貼られています。
海老名の公会堂でミスベトナムの選考会があるそうです。
その前座で様々な芸能が紹介されるそうです。(入場料3000円~)
アオザイを着た美人を見るのは、日本人も楽しみです。
 
戸塚の町にもベトナム人は多く進出していて、地域に馴染んでいます。
フィリッピン、と言うとショー系が多いようですが、ベトナム人は整髪店やレストラン、そして工場で働いている人が目立ちます。
どちらかと言えば地道で地に足が着いている感じです。
東北大震災でも、いち早く現地に飛んで、「フォーの炊き出し」をしていました。
様々なマスコミが報道していました。
大震災ではいち早く東北や川崎でフォーの炊き出しをしました。
 
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            店の正月飾り、華僑であり、日本の習慣に馴染んでいる事がわかって、嬉しいものです。
 
店を出るに際し、インスタントフォーを求めました。
1個100円です。値引き販売をしているようです。
「湯をかけて4分」書いてあります。
試してみましたが、米麺はお湯では難しいようです。加熱して出来上がりました。
私にはインスタントラーメンよりは美味しいし、優しいお味でした。
 
最近では中華街の退転も話題になっています。
日本での外食事業も難しくなってしまいました。
味が自慢で、一生懸命に日本に溶け込もうとしている「フォー・モティティ」にエールをおくります。
 
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春節の華僑のお墓参り

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1月23日、今朝から春節です。
横浜中華街で春節を味わいたい・・・・、早速にお出かけしました。
中華街を見下ろす、山元町の高台に見慣れない建物があります。
3階建てのビルで、その屋上に八角の塔屋が乗って、九輪が立っています。
根岸から見ても、山手から見ても、目に付きます。
この建物が「地蔵王廟」です。
廟とは高貴な人のお墓ですから、「地蔵墓地」と言った意味でしょうか?
今日は、「春節のお墓参り」を書いてみます。
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   日本最初の競馬場、「根岸競馬場」跡地は森林公園になっています。
   同公園から北を見ると「地蔵王廟」が見渡せます。
 
横浜は安政5年(1858)の五カ国通商条約によって開港されます。
外国人がどっと横浜に進出、居留地で生活を始めました。
欧米人は山手地区に、中国人は中華街に住まいます。
欧米人のお墓は山手の高台に出来ます。
外人墓地と呼ばれ、今では人気スポットです。
中国人は、山手のお隣山元町に出来ました。
華僑(商人)が拠出して、自分達のお墓を用意した・・・・・、そんな感覚でしょうか。(明治25年/1892)

華僑ですから、中国の南部(広東省や台湾)です。
ですから、同地方のお墓が出来、その中核にお寺が建立されました。
外壁材(レンガ)等主要な健在は広州から運んだそうです。
そして、瓦はフランス人の手で焼いたジェラール瓦を使用しています。
横浜市内に現存する明治最古の建築物だそうです。
 
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地蔵王廟の門、獅子が目立ちます。
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    地蔵王廟の正面、圧倒されるレンガです。向こうに八角の塔屋が見えます。
 
寺はレンガを積み上げて、その上に材木でトラスを組み、屋根にした構造です。
同じ寺院でも日本の寺とは全く違います。
幅1間、高さ1間半程の小さな門です。
賽銭箱があって、その前に折り紙風の蓮の花が添えられています。
その横の隙間を通ってご本尊(地蔵王)の前に出ます。
中庭のような意匠です。
東側(正面)と北側に小さな出入り口があるだけで、後は総てレンガの壁に囲まれてしまいます。
蝋燭の灯明が揺らぎ、線香が香ります。
 
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読経が響きます。
テープで流しているのです。
寺と言うハードウェアーは日中で全く違いますが、お経というソフトは全く同じです。
日本のお経は中国から伝わりました。
日本人はお経を日本語に翻訳せず、音読みしました。
当時のお経は中国南部、「呉」でしたから・・・・・、呉音の棒読みで充分でした。
お経の意味は、漢字ですから目で解りました。
以来、1500年程、お経の音読は変わりませんでした。
ですから、「門前の坊主は習わぬ経を読める」のです。
 
私達日本人は「お地蔵様」は菩薩であると理解していますが、此処では「地蔵王菩薩」と書かれています。
”王”であり”菩薩”なのです。
同じお経で説明され、姿が決められている地蔵でも日中では随分違っています。
 
日本人がお地蔵様に親しみを覚えている理由の一つはそのお姿でしょう。
坊主頭に墨染めの僧衣姿で、托鉢している姿と同じです。
頭陀袋(供物を入れる袋)こそお持ちではありませんが、錫杖と宝珠は良く見るお道具です。
ところがこの地蔵王廟のご本尊は帽子を被っていて、衣服も中国の官吏のそれです。
十王像と同じようなお姿です。
お顔も慈悲の表情と言うよりは、生前の善悪を審判するような、冷徹な感じがします。
閻魔大王のもう一つの姿が地蔵菩薩である・・・・、そんな説明を思い出すお姿です。
 
金ぴかですから、一見すると金銅仏かと思うと、脱乾漆像だそうです。
脱乾漆像は天平時代盛んに作られました。
私たちの好きな興福寺の阿修羅像も脱乾漆でした。
福島の牛も(べこ)、高崎の達磨さんも紙の張子で出来ています。
あれを漆で固めたものが脱乾漆です。
日本では藤原時代以降脱乾漆像は忘れられてしまいましたが・・・・、中国では伝統技法が残っていたのでしょう。
 年代は地蔵王廟と同じ明治25年(光緒18年・1892)と案内されています。
華僑が故郷の仏師に新たに作らせたものでしょう。
 
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             日本人のイメージのお地蔵様とはまったく違う、地蔵王菩薩像。
             ガウンに南無地蔵王菩薩と刺繍されています。
 


まだまだ感心する意匠は沢山あります。
その一つが地蔵王が入っていられる厨子の細工です。
木造、黒漆塗、金泥仕上げに彩色されています。
図様は神仙や道士などの人物を中心に、蝙蝠や手長猿、瓢箪や牡丹、葡萄、柘榴、蓮花等が見えます。
また、堂前のガラス戸も素敵です。
ガラス戸は西洋意匠でしょうが、朱に塗って、その板に
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         地蔵王像が入った厨子の見事さが目を奪います。
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   ガラス戸の向こうがご本尊の地蔵王です。「竹」「菊」「梅」「春ラン?」が飾られています。
 
地蔵王廟、寺院部分の奥に3階建ての建物があります。
何かと思えば「安骨堂」と書かれています。
日本流に言えば「納骨堂」の事です。
納骨堂は本来はお墓に埋められる前の「仮置き場」の意味でしょう。
亡くなられて49日も過ぎれば本来のお墓に埋もれるのがしきたりでしょう。
でも、様々な事情があって地中(お地蔵様)に入れない・・・・・、そんな場合に納骨堂に入ります。
最近では、永代納骨堂も案内されています。
 
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      安骨堂内1階。このフロアーが3階まであります。
 
 
華僑が地蔵王廟の墓地を作って200年を越しました。
地面の下に埋もれたい・・・・、願っても様々な事情が許さない・・・・、
そこで安骨堂のニーズが高まっているのでしょう。
 
時代が変遷すれば、お墓も変わります。
民族によってお地蔵様のお姿や役割が変わるのは何の不思議も無い事でしょう。
でも、墓地を回って気づく事があります。
お墓に新しい供花が目立ちます。
お墓に写真が添えられている者もあります。
どのお墓にも故人の出身地が刻まれています。
望郷の思いが出身地を刻ませたのでしょうか?
また、同じ華僑と呼ばれても、私は何処其処の出身だ・・・、地域意識が強い為でしょうか?
どちらも、郷土愛が強い証拠です。
故郷を忘れた民族に文化は発展しない・・・、そう確信いたします。
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    墓地から安骨堂を見る。お墓は角柱が多く日本と同じ。少し違うのは獅子が居る事です。
 
 
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春節の横浜中華街

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根岸台で春節のお寺詣で(地蔵王廟)を終えた私は、地蔵坂を下りて中華街に向かいました。
丘の下の中村川に「亀の橋」が架かっています。
この橋の袂にもお地蔵様が祀られています。
山の手から根岸にかけては洋館が立ち並び、教会が多いのですが、
矢張り庶民の信仰の中核にはお地蔵様が居たのでしょう。
 
川(運河)を渡れば関内地区に入ります。
関内は幕府が横浜に作った長崎の「出島」のようなものでした。
大半が貿易関連街区で、その東側に中国人の居留区を用意しました。
それが、現在の中華街の前身でした。
関内は海岸線に沿って大通りが作られ、碁盤状に街区が整備されました。
ところが、中華街だけは碁盤状の街区から振れられています。
中国人の街作りは自然形状(海岸線など)よりも正確な東西南北を大切にしたのでしょう。
風水に基づいて四方に門が作られ、通りが出来ました。
 
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                   横浜中華街の歩行者天国(中華大通り)の賑わい。(正面善隣門)
 
中華街の南側に関帝廟、北に媽祖廟が祀られています。
関羽は三国志の英雄、媽祖(まそ、女神)も千年も昔の実在の人物・・・、どちらも生き神様でした。
関羽が天神様なら、媽祖は弁天様のような存在でしょうか?
 
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   関帝廟の大棟の装飾。関羽の勇壮な姿の下に海の幸が並んでいた、見て楽しいものがあります。
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                              此方が媽祖廟です。女性の「福をもたらす神様」です。
 
中華街大通りの街路樹は栴檀でした。
私は何度も来ているのに気付かなかったのでした。
葉っぱが散って木の実だけが残っているので目立つのでした。
日中は歩行者天国ですから、ヒヨドリも近づけないで居て、未だ食べられていないのでしょう。
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         歩行者天国で食べ歩きを楽しむ乙女たち。街路樹が栴檀です。
       魅力的な人なのでお顔をつぶさないで出しました。お詫びします。勿論ご指摘があれば抹消します。
 
栴檀の木の下では女学生が饅頭や小籠包を立ち食いしています。
蒸篭のふたを開けると濛々と湯気が立ちます。
湯気と匂いに誘われて、ついつい買い食いしてしまうのでしょう。
麺もお粥もワンコイン(500円)のお店が多くなりました。
点心なら精々350円です。
中華街も随分デフレになったものです。
一方では、占いのお店が目立ちます。
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     乙女も色気より食い気が先行する、中華街の美味しさであり、開放感です。
     寒さが一層美味しくさせているようです。
 
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                    お饅頭売り場、1つ250円で、肉、餡二個を求めれば腹いっぱいです。
 
神田の街路樹は”鈴かけ”です。
銀座の柳も歌謡曲に歌われました。
でも、私は少し気になります。
柳の木の下には幽霊が出る・・・・、言われてきました。
加えて、三途の川の岸辺に生えているのは柳の木です。
そんな木をお洒落な街の木に選んだとは・・・・、
でも選んだ人は偉かったと思います。
俗信によらず、柳の木の美しさが解っていたのでしょう。
 
栴檀は処刑場に植えられていた樹木と言われています。
京都では加茂川六条川原で、鎌倉では龍の口で、江戸では鈴ヶ森で、
栴檀の木が処刑場を見詰めていた、と聞きます。
 
栴檀(白檀)は香木で念持仏の素材であります。
花も樹陰も美しいものがあります・・・・、
死者の不幸を慰めたい・・・、そんな心情の表れだったのでしょうか?
それとも、栴檀の実が蝋質で死者の肌の色のようだったから、また、種が髑髏のようだからでしょうか?
 
でも、中華街では栴檀を街路樹に選びました。
歩行者天国の樹木としては最高だと思います。
春夏秋冬、歩行者にやさしい空間や景色を提供しています。
 
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                                栴檀の実
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                                         中華街に最老舗「萬珍楼」
 
今日(23日)は春節の始まりの日です。
午後四時から獅子舞が練り歩く予定になっています。
でも、2時過ぎから雪雲が覆ってきました。
獅子舞や龍踊りは今週末来週末にもにも見られます。
春節は長いのです。
 
「チャイナタウン80」で獅子舞などが展示されています。
ご家族から「シャッター押してください」頼まれると、
後から後から、順番待ちのようにして、”シャッター押す係り”になってしまいました。
中国人の家族も遠慮なしにもう一枚、もう一枚注文です。
シャッター押す係りも悪い気はしません。
でも、今日は一人出来たのが悪かったのかもしれません。
未だ4時まで時間があります。
ソロソロ、帰る事にしました。
 
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    チャイナタウン80(街の案内所)では春節の案内をしています。お獅子を被って写真を撮れます。
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   これは展示用の獅子であり龍のようです。実際に演舞するのは中華学校や組合が持っている、
   もっと大きなもののようです。
 
 
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鎌倉の隠れ里「佐助稲荷」

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BS4チャンネルの韓流歴史ドラマ「クンチョワゴン」が終わりました。
続いて「九尾の狐(クミホ)」が始まり、これがまた嵌りそうな面白さです。
九尾の狐は中国の殷王朝を滅ぼした極悪の妖怪でしたが、韓流では「強い母性愛」が訴えられていそうです。
日本の狐は・・・・・?
言わずと知れた、稲荷神社の霊獣です。
民族や時代によって同じ狐でも人間のかける思いは随分違うものです。(この段は明日書く予定です)
お稲荷様に行きたくなって、鎌倉の佐助稲荷に出かけました。
 
”伊勢屋 稲荷に 犬の糞”と言われます。
何処にでも見かけるモノの喩えです。
神社仏閣の中で最も多いのがお稲荷様で3万社に及ぶそうです。
お屋敷の庭にも、ビルの屋上にも赤い鳥居のお稲荷様が祀られています。
でも、犬の糞と並べては・・・、余りにも不敬です。
 
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                          佐助稲荷の前殿、深い森の中にあります。
 
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   佐助稲荷 左が本殿、右が前殿です。右奥に茶屋があります。(甘酒200円) 霊狐泉がわいています。
 
 
お稲荷様の総本社は伏見稲荷です。
京都東山の山並みが大阪平野に没する辺りに稲荷山があります。
ゴルフ場が72ホール出来そうな広大な丘陵が伏見稲荷のご神域です。
広大な田圃に豊作をもたらす「水」の流れ出すところに、伏見稲荷が祀られたのでしょう。
明治維新まで神宮寺がありました。
また、東寺の五重塔の材木は近くの伏見稲荷の森から採られました。
東寺も伏見稲荷も平安京を支えたのでした。
 
伏見稲荷は稲穂が家紋が稲穂です。豊作や子孫繁栄をもたらす神様でした。
朝鮮半島からわたった秦氏の氏神であり、和銅7年(711年)が始まりですから、
それ程古くは無い、外来の神様と言う事になります。
京都広隆寺も秦氏のお寺ですから、兄弟のような関係です。
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   佐助稲荷も京都伏見稲荷の末社ですから、稲穂の紋です。(賽銭箱に描かれています)
 
佐助稲荷は源氏山・御成山から谷間を隔てて西の山懐にあります。
山の北の並びに銭洗い弁天があって、尾根道を北に行けば葛原ヶ丘から浄智寺、
南に行けば大仏様に行けます。
佐助稲荷は丁度コースの中間点で、隠れ里の雰囲気がピッタリです。
赤い鳥居と白いオキツネが無ければ、良寛さんの五合庵(国上山)を髣髴させます。
世上の喧騒を嫌った人が、ひっそり住んでいそうな庵です。
 
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                        隠れ里の雰囲気の佐助稲荷さんです。煙は落ち葉を焼いているもの。
 
佐助稲荷の始まりについては、次のような言い伝えがあって、
江戸時代に採録されています。(金兼藁・1659年)
 
昔、鎌倉に「源十郎」と言う名の商人がいました。
魚を籠に背負って由比ガ浜を歩いていると、犬に追われた狐が飛び出しました。
逃げ場に窮した狐は源十郎の背の籠に逃げ込みます。
源十郎は狐を憐れに思い匿ってあげたのでした。
 
その夜、狐は源十郎の夢に現れます。
「ご恩返しに良い事を教えましょう。お前の住む左介谷に大根を植えたら幸いがもたらされる。」
源十郎は怪訝に思いましたが、大根を撒いて育てます。
ところがその歳の冬に鎌倉中に疫病が蔓延します。
源十郎の大根を食べれば疫病に打ち勝てる・・・・、信じられるようになりました。
大根を求める人が溢れて、源十郎は忽ちに富人になりました。
源十郎は狐の教えに感謝し、お稲荷様を佐助に祀りました。
是が佐助稲荷の始まりです。
 
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   佐助稲荷の裏山。啄木鳥の木を叩く音が響いていたので登ってみました。中々び原生林です。
 
もう一つ、佐助稲荷には言い伝えがあります。
伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝の夢に老人が現れ、源氏の頭領として挙兵を諭しました。
その老人が佐助から来た、稲荷大神であったと言うのです。
鎌倉に幕府を開いた頼朝は稲荷大神の加護に感謝して、畠山重忠に命じ、稲荷様を再建したのでした。
”佐介”とは頼朝の呼び名でした。
 
丁度、今頃の季節でした。
御成り小学校(私の母校、昭和30年代)では冬の体育の授業はマラソンでした。
校門を出て、時計回りに佐助の谷戸を一周、約2kを走りました。
当時は車も走っていませんでしたし、五月蝿く言う父兄も居ませんでした。
私は走るのが得意でしたから楽しかったのですが、女生徒はどう思っていたか?
浅羽屋(鰻や)や島森(本屋)の娘はお勉強は得意でしたが・・・・、マラソンは苦手だったしょうに・・・。
ですから、辻辻に、源氏山のトンネルに・・・・、思い出が沢山残っています。
 
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                     山道沿いに祠が続きます。  杉の樹林はお稲荷様の聖林です。
 
当時は未だ佐助山にも狐が居たかもしれません。
今では台湾リスや洗い熊対策で困っているようです。
赤い鳥居の上にもリスが居て、私の動向を見詰めています。
鳥居が不自然に朱色だな?
思って叩いてみると、塩ビ製です。
良く、水道管に使われている塩ビ管です。
 
塩ビですから腐食しません。
ペンキは何時までも色褪せしません。
下社には案内が出ています。
鳥居を奉納すると「運が開かれます」
奉納料は30万円です・・・・。
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                 塩ビ製の鳥居の上で様子を窺がう台湾リス。今はリスの恋の季節です。
 
突然に現実に引き戻されます。
”昔のママが良かったのに・・・”
私は台湾リスも嫌いですが、塩ビの鳥居も馴染めません。
お稲荷様も、オキツネも同じだと思うのですが。
 
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                                            佐助稲荷の参道
 
 
明日は、狐を素材に日本文化の特徴を書いてみます。
 
 
 
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狐の日本文化人類学

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佐助稲荷の茶屋に「今年の初牛は2月3日です」案内されていました。
初牛の日は、稲荷大神が伏見の稲荷山に鎮座された日、それから1300年が経つわけです。
偶々今年は節分に重なりました。
どちらも、福を授かる神様です。
どっちに行こうか?、両方とも参ろうか? 迷ってしまいそうです。
 
我が家の近くに”狐窪”があります。
里山の細道を登ってゆくと、篠竹の藪があって、丘の麓が窪地になっているのです。
其処が狐の棲家でした。
私の祖母は狐が好きで、狐の話を良く聞かせてくれました。
夫が豊川稲荷(赤坂)の坊さんでしたから・・・・、狐を大切に思うのは自然でした。
”狐は人を騙す・・・、怖い動物のように思われているが、大切な益獣で、霊獣である”
そんな確信が祖母にはあったようでした。
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    この里山の突き当りが”狐窪”狸は穴に棲み、狐は窪地に住んでいました。
    東京の狸穴は狸が居て、荻窪は狐が棲んでいたものと思います。
 
同じ鬼火でも人魂は夏に出ます。
狐火は冬に出ます。(多分歳時記では今頃だと思います)
人魂は人が現世に残した恨みがあるので、現れると考えられています。
狐火は豊作を約束する炎と信じられています。
人間は怖いが、狐は有難い・・・・、間逆な存在のようです。
 
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               王子の狐火、江戸中の狐が集まった、と言われ豊作が占われたと言われました。
 
伏見稲荷は秦氏(大陸からの渡来人、技術集団)の氏神でした。
様々な先進技術をもたらしますが、その一つが農耕技術でした。
収穫量が多く、天候不順にも強い稲を持っていました。
灌漑技術も秀でていました。
 
当時の稲作の敵は”野鼠”でありました。
鼠が大量に発生すると稲(米)を食べつくされてしまうし、田に巣くうと地中に穴をあけ、堤防や畦が壊されました。
そこで、鼠を退治する狐を大切にしました。
大切な灌漑池の堰堤には狐の餌付けもしたでしょう。
狐は豊作を約束してくれる、稲荷大神のお使いである・・・、信じられました。
お稲荷様の門前には狛犬ならぬ、オキツネ様が祀られました。
 
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                          佐助稲荷のお狐と朱色の鳥居。この狐は宝珠を咥えています。
                          如意宝珠の事で、何事も意のままになる奇跡の珠の事です。
 
鳥居は朱色に塗りました。
朱を溶かすのは水銀です。
水銀ですから腐りません。
厄を退散させる魔力に富んだ色でした。
 
農村では寒い最中に”虫送り”を行います。
田圃で行う”野焼き”でした。
枯れた雑草を焼く事で、害虫の卵などを焼いてしまうのです。
虫送りは豊作の予祝行事でした。
 
日中に虫送りをして・・・・、一時消化したと思っていましたが、真夜中に風に吹かれて・・・、残り火に火がついた。
そんな現象が”狐火”だったのではないでしょうか?
それとも、プラズマ放電現象(最近はこの説が多い)だったのでしょうか?
いずれにしても、狐火の見られた年は豊作だったそうです。(王子の狐火は有名でした)
 
東アジアでは狐が大変に利口な動物で、人にも馴染みやすい・・・、共通した認識でした。
中国では「九尾の狐」伝説を残し、近隣諸国に伝播させています。
 
古代中国は殷王朝の皇帝・紂王は、姐己(だっき・愛娼)を溺愛し、国を滅ぼしてしまいます。
数年後、姐己の正体は九尾の狐であることが発覚します。
正体を見破られた九尾の狐はいずこかへと飛び去りました。
九尾の狐は古代インドのマガタ国に行っていました。
そして、再び中国に戻り、周の幽王の寵姫となります。
何処においても傾国の美女になります。
 
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                           左のお狐は経典を、右のお狐は宝珠を咥えています。(佐助稲荷で)
 
中国も朝鮮も日本も狐を精霊であり妖怪にもなる・・・・、信じられてきました。
でも、日本ほど文化的に狐に親密で親愛の情を持っているのは日本ではないでしょうか?
「油揚げ」を開発して、「稲荷鮨」や「狐うどん」を開発しました。
多分、油揚げはお稲荷様に奉げた神饌(神に奉げる 食べ物)で、米を揚げたものだったのでしょう。
更に、稲荷大神は仏教の女神「吒枳尼天」(だきにてん)と集合します。
吒枳尼天は元来がインドの怖い女神で人間の死期を知っていて、人の心臓を食べる・・・、鬼神でした。
ところが、お釈迦様により仏教の守護神に転じます。
大半の寺院境内にはお稲荷さんが祀られて。境内鎮守の役割を果たしています。
最大の習合寺院が「豊川稲荷」であります。
狐は”宝珠”を咥えた姿と、経典を咥えた姿と二種類あります。
どちらも仏教で大切なツールです。
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                                                       佐助稲荷のお狐
 
原始時代、日本人は狩猟に明け暮れます。
貝塚には食べた動物の骨や貝殻が捨てられていました。
不思議な事に「狐の骨」だけは見つからないそうです。
狐は素早いので捕獲出来なかった・・・、とも考えられます。
でも、精霊の匂いが強い狐を殺す事を忌避したとも考えられます。
狐は食べモノを施してくれる「山の神」のお使いだから・・・・・。
殺して食べる訳には行かない・・・・。
私は、日本の場合有史以前から狐は崇められていた・・・、思うのです。
 
狸は捕まえたら、狸汁になってしまいます。
狐を捕まえて・・・・、料理の方法は聞いた事がありません。
 
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  狐は白狐です。神獣ですから・・・。白い蛇がお弁天様のお使いであるのと同じでしょう。
  (一般に野山に居たのは赤狐でした) 白狐(陶器製)の足元は狐火と思います。
  尻尾の先もお灯明のようになっています。(佐助稲荷で)
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何処か愛嬌があるお狐様。(佐助稲荷で)
私の祖母はどちらかと言えば狸に似ていましたが、狸も狐もどちらも好きでした。
 
 
 
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”一生二生”へのエール(Y君の油絵に寄せて)

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昔から「聖徳太子の不在説」があります。
日本書紀に記述された17条憲法等が大化の改新後の捏造だ・・・・、と根拠(史実)を示して説明します。
歴史的真実は唯一でしょう。
でも、歴史を叙述(日本書紀もその一つです)する時、叙述者の立場、世界観や歴史観が現れてきます。
この問題(真実と叙述)を解くのが歴史哲学(philosophy of history)です。
私達は叙述者の立場にある事を意識しなくてはなりません。
 
鎌倉にある大学は横浜国大の教育人間科学、鎌倉女子大の二つです。
どちらもUniversityと言いながら、歴史学部はありません。
隣の横浜市にある神奈川大学もフエリス女学院大学にも歴史学部はありません。
何れの大学にも「人間科学学部」があります。
歴史は「人間を科学する素材」の堆積ですから、歴史学部の無い人間科学は・・・・、私は考え難いのです。
 
横浜市の発掘調査は慶応大学が行っています。
私の住む倉田遺跡(4箇所)も同大学が発掘し、調査報告をしました。
鎌倉市には発掘調査の対象が無尽蔵にあります。
永福寺跡は湘南工科大学が実施しました。
奈良や京都のように専門的な機関はありません。
その時に応じて分散しています。
これでは、研究成果がストックできません。
 
私は慶応大学の協力で、鎌倉女子大に歴史学部が出来ないかな・・・、
文学部も欲しいな・・・、思います。
同大学の教授(OBも含めて)には鎌倉に住んでいて、我国中世の分析の為には、無給でも働きたい・・・・、
思っている人が沢山居ます。
何時までも家政学部中心なら・・・・、collegeで良いじゃないか!、思います。
名前やキャンパスを変えるのも良いのですが、中身も・・・・・、期待します。
 
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     松竹大船撮影所跡地に建てられた「鎌倉芸術館」は、鎌倉に留まらず、南部横浜から湘南一帯の文化     拠点です。近代的な建物ですが、正倉院を髣髴させる”芸術・文化”基地に相応しいデザインです。
 
鎌倉女子大は横浜市栄区にあります。
大船の松竹撮影所が閉鎖され、大学の敷地の一部が都市計画道路に指定されると、
撮影所の跡地に一部が移転しました。
移転と同時に京浜女子大学の名を改め、鎌倉女子大にしました。
 
鎌倉市は松竹撮影所の玄関の位置に「鎌倉芸術館」を建てました。(1993年10月)
1500席の大ホール、600席の小ホール、そして1階にはギャラリーがあって、絵画や書の展示が出来ます。
鎌倉市の中心から見れば北、横浜市との境に位置しています。
ですから、鎌倉の芸術文化を発信する・・・、意図はもっと広く
横浜市南部から湘南の文化拠点になっています。
 
大船は東海道線と横須賀線の分岐駅です。
根岸線や湘南モノレールの起点駅でもあって、兎に角足の弁が良いのです。
私の住む町の中学校(豊田中学・戸塚中学)の音楽祭発表会場も鎌倉芸術館です。
絵画サークルの作品発表会場も鎌倉芸術館にするケースが多いのです。
 
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    鎌倉芸術館の内庭、孟宗の竹林の美しさを四方から眺められます。鎌倉の庭師の力量が解ります。
 
ですから、鎌倉芸術館で絵画や音楽芸能を楽しむ機会が増えています。
内庭は孟宗の竹林です。
竹林の足元には玉砂利の細道が通っていて、灯篭が置かれています。
秋には紫式部の実が、夏には卯の花が彩りを添えます。
良く出来たお庭です。
 
芸術館の受付で、誰が庭を設計したか訊ねましたが・・・・・、
建築設計は「石本設計事務所」で、プロポーザル方式で決めたそうです。
受付の女性は内庭の良さに関心が薄いようです。(サントリーに業務委託したので、質問に答えられない)
孟宗竹の性質を良くわきまえたうえで、四方八方何処から見ても美しいように・・・・、
よく出来た鎌倉らしい、何時見ても新鮮なお庭です。
 
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     竹は何時も美しいのですが、矢張り今頃が最高です。露地風の白砂とのコントラストが印象的です。
 
私の1期後輩のY君(日本文化研究会7期)から案内が届きました。
”鎌倉芸術館で展示をしているから・・・・”
との事です。
Y君は、学生の頃から多才で感性の豊かな人物でした。
社会人になり、独立してISOの審査機関を設立して・・・・・、
当時から、時間が出来れば水彩絵の具を携帯してスケッチをしていました。
中々のもので、チャーチル会など機会があれば出展していました。
 
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                Y君から届いた案内状
 
それが、最近実業を引退したそうで、絵画に時間を割く時間が出来たのでしょう。
同時に油絵を始めたのでした。
鎌倉芸術館では油絵を3点展示していました。
既に60代になってから・・・、始めたと思います。
 
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                  「サロン・ド・カク」の展示風景(1月27日)、Y君の作品は右に2枚映っています。
 
60にもなると、ある種の諦観というか・・・・、悟ったような物の見方が出来ているものです。
それが、常識と言われたり、通念と言われたりします。
 
常識や通念をかなぐり捨てて、物を観察したり、表現する事は難しくなります。
歴史を専門に研究したものが60代になって自分の負って立つ視点を捨てて、新たに研究できないような物です。
私達が学生の頃多才で多弁であった、小椋圭やさだまさしが晩年になって作品が出来ないのと似ています。
青春の視点では、現代の詩(曲)は出来ないのだとおもいます。
長年人生をやってきて培われた物の見方を捨てるのは容易に出来ません。
 
Y君の油絵には昔の面影がそのままに現れています。
特にバラを描いた一枚には、20代の若々しさや勇気が感じられます。
”昔のままじゃないか!”思います。
それがY君の人柄であり、生き方なのでしょう。
 
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                                                             Y君の作品
 
私は、小学生の時は絵を誉められ、中学、高校になるに従って才能が萎んでしまいました。
今、絵筆を握る事は難しい事です。
たまに興が沸いて描き始めると、余りの出来の悪さに自己嫌悪に陥ります。
で、描きたい思った対象に、負け犬のように退散するだけです。
そんな、私に比べて、Y君は絵筆を握って勇敢に立ち向かっているようです。
これから、暫くの間は見る見る上達して、私たちを魅了する事でしょう。
 
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                                     Y君のバラ・・・、中川一政を思わせる姿勢です。
 
仏教では「一生二生(いっせいにしょう)」と言われます。
今様で言えば、定年前の人生と定年後の人生、二つを生き抜く事でしょう。
後半人生を有意義に生き抜く為には・・・・・、
実業を生きた経験などを捨てることから始めなくてはなりません。
 
それは歴史哲学的(philosophy of history)な課題に似ているように思います。
 
Y君の友人諸氏、是非この週末に鎌倉芸術館に行かれるようご案内申し上げます。
そして、社会に貢献した業績を誉めてあげて・・・・、
二度目の人生にエールをかけて下さい。
学生の頃の初心をそのままに、一度目の人生に拘らず二度目を生き抜く事はより難しいものです。
 
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  同時に展示されていた「張るいか/玉縄に住んでいられた中国人」さんの絵。
  チベットのヤクを世話する家族を描いています。
 
 
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蝋梅を照らす光が・・・、春を届けました。

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ガラス窓の先には日向で犬が寝そべっています。
お得意の小さなカーペットを敷いて、気持ちよさそうです。
私はガラス戸を開けて庭に出ました。
冷たい風に驚いて引き返します。
眠りを覚まされた犬は、瞬間怪訝そうでしたが、また春眠を貪り始めました。
 
秋の訪れは 風で感じます。
春の訪れは 光で感じます。
春の魁(さきがけ)は、日向に咲く蝋梅の花でしょう。
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                       今日の話題は蝋梅です。この花に春を感じる人は多いのです。
 
例年、1月末には気の早い梅が咲きだすものでしたが、
今年は寒さが厳しくて、未だ蕾が固いままです。
そんな中でも、蝋梅はもう1ヶ月も前に咲き出して、
木枯らしに耐えて、春の訪れを知らせています。
今が最高の見頃でしょう。
何時もは沢山の参拝客を集める駆け込み寺です。
でも、梅が咲き出すまでは人影もありません。
 
コートを着込んだ女性がすれ違います。
私は目で挨拶しましたが・・・、無視されてしまいました。
何か感じるものがあって、振り返りました。
女性は、日向に咲いた蝋梅の花に顔を寄せていました。
”ああ、そうか、蝋梅を見たくて駆け込み寺に上って来たのか!”
合点が行きました。
 
蝋梅に”梅”の字が付いているのは、香りが梅と似ているからです。
蜜蝋のような花弁で、梅のような香りの花・・・、意味でしょう。
春は香りから・・・・、来るのでもありましょう。
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                  駆け込み寺で、蝋梅の香りをきく若い女性。名物の梅の蕾は未だ硬いのですが。
 
毎朝、氷が張ってしまいます。
犬も兎も、鳩も、氷が溶けないと水が飲めません。
私のペット達は仕方が無い・・・・・、諦めて私に文句を言いません。
里山公園の池も一面結氷してしまいました。
午後になると、南側の一角だけ氷が溶けます。
其処だけ、よく陽が当たるからです。
 
鳥達は氷が溶ける事を良く承知しています。
枯れた葦原には翡翠が止って、水面を見詰めています。
温んだ水には小魚が動き出すからでしょう。
そして、氷が張っていたら、得意のダイブも出来ません。
この場所に来れば、翡翠に会えるのです。
 
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蝋梅の咲く池の端で、翡翠がジッとしていました。
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                        池の端の翡翠(昨年撮影、今年は数が少ないのです)
 
 
 
葦の茎を四十雀が啄ばんでいます。
茎の中に虫が潜んでいるのです。
そして、アオ鷺もやってきています。
アオ鷺はこの場所が最高の採餌場だと確信しているのです。
池の淵に牛蛙が越冬していて、少し暖かくなると動き出すのです。
アオ鷺はそんな牛蛙を鵜呑みしようとします。
でも、大きな牛蛙を飲み込む事は難しいのです。
そこで、アオ鷺は牛蛙をいったん氷の上に載せます。
氷の上では・・・、大きな牛蛙も俎板の上です。
チョイチョイと嘴の先で位置を変えられて、頭から鵜呑みされてしまいます。
 
今日はどうなるだろうか?
私はジッと息を殺して見詰めます。
見つけました。牛蛙です。
嘴の先に咥えて、水中から引き出しました。
そして・・・、咥え直そうとした瞬間、嘴から水中にドボン、逃がしてしまいました。
水面に大きな轍が残って、アオ鷺は残念そうに、水面を見詰め、水中を探り出しました。
掴まえて、氷の俎板の上に載せなければならないのです。
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餌を漁るアオ鷺、頭の前の大きな轍は、大きな牛蛙を掴んだもの落としてしまっで出来たもの。
牛蛙を飲み込む為には、俎板になる氷が必要です。
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此方は氷の俎板の上に牛蛙を載せて、飲み込むばかりにセットを終えたアオ鷺。
鷺は魚も蛇も蛙も皆頭から飲み込みます。(昨年同じ場所で撮影)
 
池の淵に一本、蝋梅が植えられています。
公園管理者が蝋梅の植生をよく承知していて・・・、
この池の端が蝋梅に適していて、散歩や自然ウォッチャーに好まれる、判断したのでしょう。
 
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   池の端の蝋梅の花。野鳥の集まるのは池の淵の葦の原です。蝋梅は花蜜が香りに比べて少ないのでしょ   う。メジロも鶯も多くは集まりません。寄って来ても直ぐに飛び去ってしまいます。
 
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水面に蝋梅が映って、アオ鷺が佇んで動かなくなりました。
 
 
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横浜中華街”春節・龍舞”に思う

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この寒さ、節分くらいまでは続くそうです。
北国の大雪は例年の2、3倍と報道されています。
”暖冬は異常で、本来の冬が来た”、思えば何の事もありません。
 
一昨日は地震がありました。
南関東大震災の確立は今後30年間で70%と報道されました。
神様に”もう、自然の力の大きさは骨身に沁みました。これ以上の災害は勘弁してください”
膝を折ってお願いしたい気持ちがしてきます。
 
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   今日の写真は横浜中華街の龍舞です。龍舞は獅子舞と一緒で春節を寿ぐ祭事(デモ)です。1月29日は中    華学院(高校生中心)の生徒が練り回しました。無心に龍を操る高校生の姿を見ていると、胸が熱くなりま    す。今日は龍舞、明日は獅子舞を紹介します。次回は2月4日(土)5日(日)の午後2時から3時半の間挙   行されます。是非お出かけください。
 
日本の神々は汚れや穢れがお嫌いです。
自然を汚せば、神罰が落ちます。
心を汚せば、幸福になれません。
 
日本の仏は欲望を嫌います。
人の心から煩悩を一つ一つ消し去り、清い心になりなさい・・・、教えます。
日本の信仰は清い心を大切にします。
清い心は自然の中に最も大切なものに気付かせてくれます。
それを、神とか仏とか呼ぶもののようです。
 
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     関帝廟通り、中華大通りを2時間をかけてねります。龍だけでなく様々な神や英雄、踊りが行進します。
 
江戸時代約300年、この間の税金は農民の納める年貢だけでした。
武士は収穫されたお米の4割を年貢として徴収して・・・・・、それで家計を守り、藩や国を運営してきました。
ですから、収入は伸びず、幕末にかけて財政は困窮してきます。
そこで、再三改革と呼ぶ名で「財政改革」を行います。
享保の改革、寛政の改革、天保の改革、何れも倹約と財政効率化でありました。
武士は慎ましい生活をし、内職にも精を出しました。
何しろ、300年間昇給は無かったのでしたから。
 
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明治維新後、武士に代わって官僚が政治の実働部隊になりました。
官僚は所得税を、事業所税を、消費税を・・・・・、頭を使って新税を考え出しました。
新税も、年金などの支払い準備金も、ドンドン使いました。
”武士は食わねど・・・・”等と考えずに、官僚はシッカリ食べて、ドンドンお金を使って、
不足する分は頭を使って徴収する事を考えました。
支出を減少させる事はありませんでした。
150年で、財政欠陥は絶望的な状態になりました。
 
それでも、お金を浪費する習性は改めようとしません。
真実を隠して、最低年金と言う名の飴を用意して・・・・・、消費税の倍増を認めさせようとしています。
国民は”真実を開示して、先人のしたように倹約と行政の効率化を進めて欲しい・・・・”、願っています。
 
日本の神々は”嘘をつかない”清い心を求めている事でしょう。
”ノアの箱舟”のように何度も何度も警告しても気付かないのなら・・・・、
再び関東大震災をお見舞いしようかな・・・・!
神は準備を始めたようです。
 
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中国では寒さが最も厳しい時に、春節を祝います。
極寒の時こそ、春を待ち望む心が高揚するからでしょう。
 
横浜中華街に爆竹の音が鳴り響きます。
余りの大きな音に大人も子供も思わず耳を塞ぎます。
邪気や不幸が爆竹に驚いて退散するのだそうです。
爆竹の煙の向うから、龍が現れます。お獅子が現れます。
龍も獅子も、福をもたらしてくれます。
神様のお姿を、人間が想像して形にしたものです。
 
龍もお獅子も「東北加油」の襷が見えます。
”東北頑張れ!” ”東北の役に立ちたい”
それが中華街の心なのでしょう。
”日本頑張れ”は世界中から寄せられたメッセージでした。
でも、神様はどうお思いなのか?
”日本は未だ未だ、反省が足りない” 怒って居られるような気がします。
 
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                                関帝廟前をパレードする関羽様、高い下駄を履いています。
 
中華街にやってきた中国人も思っていることでしょう。
昔は事業所税も、料飲税も、消費税も・・・・・、何も無かった。
今は、税金でがんじがらめだ・・・・。
昔は貧乏でもこの国の将来にかける夢もあった。
孫文もこの町に長い間生活した。
日本人と中国人には、夢を共有する場面もあった。
しかし、昨今は・・・・、日本人は離れた民族になってしまった。
中華街から逃げ出す中国人も多い、
日本で、夢が消えそうになってきた。
 
春節は春が其処まで来ている・・・、もう一息頑張ろう・・・・・、
そう確信しているから、お祭りに熱気がこもります。
春が来るかどうか?
疑心暗鬼になるようでは、お祭りする気になりません。
 
春節を迎える為には、
先人が勇気を以ってしたように、倹約と行政効率化を徹底しなくてはならないと思います。
政治家も官僚も納税者に嘘をつかない・・・、
神や仏とのお約束に従って欲しい・・・・、思うものです。
 
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     お婆ちゃんと、自分の顔より大きなお饅頭をパクつく兄弟。大変な人出で、さしもの数ある中華料理店に     入りきれません。でも食べる所は数多くあります。
 
 
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”春節・獅子舞の熱気”が春を呼ぶのでしょう!

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春節をお祝いするパレードは延々と続きます。
龍舞が終われば、次の期待は獅子舞です。
爆竹が鳴り響きます。
思わず耳を両手で塞ぎます。
濛々と立ち上がる中、白と黄色とブルー、3匹の獅子が見えてきました。
沿道の見物客に擦り寄ったり、頭を齧ったり、様々に接触します。
時折、立ち上がります。
次いで、背伸びするように立ち上がって、彼方を見詰めます。
遠くから厄病が来ないように防ぐような仕草です。
頭を齧ったり、接触するのは福を招く仕草でしょう。
獅子舞の後からは10人ほどのTシャツの若者が続き、その後からは太鼓を叩く一団が続いています。
若者のシャツには「横中華學院」と染め抜かれています。
獅子舞は大変な肉体的負荷がかかります。
交代しながら舞っているのです。
特に背伸びして歩くのは負担も危険も大きい動作です。
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   爆竹が鳴って、白煙が昇ります。思わず両手で耳を塞ぎます。黄色い獅子が、次に白い獅子が続きます。
 
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     獅子の上半身が肩車になれば、獅子は立った姿になります。
 
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           歩く姿は何処かに愛嬌もありますが・・・・、殆んど縫い包み状態です。
           沿道の人は福を掴みたい・・・、言わんばかりに手を伸ばします。
 
また、爆竹が轟きました。
次の獅子舞が近づいています。
今度は濃い赤が2匹、真ん中にピンクの獅子です。
若しかしたら、赤いのが雄でピンクは雌でしょうか?
横浜山手中華学校と案内されています。
名前からすると、中華街を見下ろす山手にある中華学校なのでしょう。
生徒さんが伝統を競いながら守り続けているのでしょう。
夢中で舞う若人の熱気が伝わってきます。
これこそ、春節のハートでしょう。
 
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綺麗な女性や、子供の演技が獅子舞の間を繋ぎます。
本命の獅子舞が近づきましたよ・・・・・、案内しているようです。
爆竹が鳴って、春節の真打登場を案内します。
3番目の獅子舞は横濱中華學院校友會の演技のようです。(間違っていたら御免なさい)
最初のグループのOB会のようなものでしょうか?
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  背伸び立ちしたような獅子舞。足の人の肩に、頭の人が立っています。
 
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   獅子舞の口に頭や手を噛まれれば、福が来ること間違いなし・・・、なのです。
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大変な熱気です。
獅子舞自体が集まった人達のこの一年の福を約束するお祭りです。
舞う人達のサービス精神がついつい、”遣り過ぎ”になったのかも知れません。
終着点「山手町公園」でも舞いました。
主催者から、”此処では舞ってはいけません”忠告を受けていました。
 
私達は、この一年ほど「平穏で過ごしたい」祈った事はありません。
神に祈って、祈り過ぎはありません。
お祭りに遣り過ぎ・・・、は付き物です。
ダンジリでも、諏訪大社の”け落とし”でも死者が出たりします。
でも、遣り過ぎの批判は出ません。
若い人の熱気ほど貴重なものはこの国にはありません。
”いい祭りを見せていただきました”
感謝を述べます。
 
今週末(4日、5日)は神戸から来て頂いて、龍舞、獅子舞が予定されています。
”また行こうかな!中華街に・・・!”
思ったりします。
3日は節分に初牛(お稲荷様)、春を待つお祭りが続きます。
 
私の頭には・・・・、獅子舞の頭は正倉院にも保存されています。
この獅子舞が日本で・・・・、変わった形で定着します。
比較文化・・・の考えが交錯します。
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獅子舞の文化論(春節4)

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私は横浜中華街で春節の祝い行事を見学しています。
行事の中心は龍舞と獅子舞です。
龍舞は一組でしたが、獅子舞は3組、全体で11もの獅子舞がねって回りました。
 
どの獅子舞も縫い包み状態です。
頭も布や毛糸で出来ています。
前足、後ろ足、二人が獅子の体になって、演舞します。
獅子の動きも”春が来る” ”いい年が来る” 喜びに溢れているようです。
獅子は青・黄色・赤・白、4色が確認できました。
仏教の5色とは是に黒(緑又は紫)が加わります。
如来のお体が五色だから・・・・、聞かれます。
江戸の町にも五色不動が祀られています。
目黒不動、目白不動は山手線の駅名で馴染んでいますが、目赤、目黄、目青のお不動様があります。
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   五色の基本色が如来の体を彩ります。黒に代わって緑が日本の神仏を彩っているのが日本の特色です。
   (写真は遊行寺の本堂。節分を控えた状態です)
 
 
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                                               横浜中華街の獅子舞
 
何でか、中華街の獅子舞には黒(緑か紫)がありません。
黒い獅子舞では春らしくない・・・、からなのでしょうか?
一方、日本の獅子舞の体は緑一色です。
加えて日本の獅子舞の体には、渦巻紋(唐草模様が描かれている事も)が描かれます。
獅子舞の頭は木(桐)を彫刻して出来ています。
日本の方が本場の中国に比べると、様式美を追求しているように思います。
加えて、獅子頭は古くなったら漆を塗れば新しくなって、命が生き返る・・・、思います。
縫い包みの頭は古くなったら・・・、染め直しは出来ないでしょう。
 
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     日本の獅子舞。緑の体は中華街では無かった。緑は蘇えりの色だから日本では緑しか採用されなかっ     たのだと思います。頭が木製なのは塗り直しが可能だから。蘇えりする上では好都合です。
     この考えは浄瑠璃人形の頭にも通じる・・・、教えられた事がありました。安曇野などの道祖神も毎年新     しく塗られます。”命の蘇えり”を期待しているからです。
 
日本に現存する最古の獅子頭は正倉院御物のそれでしょう。
獅子舞は6世紀から7世紀にかけて、伎楽と共に伝来しました。
正倉院の獅子頭は、752年(天平勝宝4)の東大寺大仏開眼供養に際して演じられたものでしょう。
それが、神社の祝い式にも使われるようになり、太神楽の獅子舞になって行きました。
そして、江戸時代には越後の角兵衛獅子はじめ庶民の芸能にまで浸透して行ったものでしょう。
庶民に程遠い大寺の祝い行事が庶民の芸能にまで発展して行った所に、獅子舞文化の魅力があります。
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                     正倉院御物の獅子頭
 
人間は強い者に畏怖し、憧れるものです。
どうも、虎という猛獣が最も強いらしい・・・・、聞くと虎を敬いました。
日本人も(多分中国人も)獅子なんて見ていませんでした。
でも漢代になってシルクロードを経て、ライオンの噂が届きました。
どうも、インドかその先にタテガミが大きくて、虎にも勝る”百獣の王”が居るそうだ・・・・!
口が大きくて、人間の頭を噛み潰すそうだ・・・・。
両眼大きく、毛は巻いているのだそうだ・・・・。想像は広がります。
 
そこで、文殊菩薩は獅子の上に乗せました。(普賢菩薩は像の背に乗せました)
更に、想像は飛躍してゆきます。
強い獅子に翼が生えて、天を飛んだら凄い事だ・・・、
そこで、麒麟を生み出しました。
体は鹿で軽快で、空を飛ぶのに相応しくしました。
 
神社仏閣の建物の木鼻(横木の先端)には獅子の顔(象鼻・獏鼻もある) を置きました。
尊い建物を魔物から守護する・・・、そんな役割を担ったものでしょう。
更に、神社の門前の狛犬も、本来は犬であったものが、獅子に変わってしまいました。
”最も強いのが獅子である”、そう考えていたからでしょう。
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                     貫き材の先端を飾る獅子の木鼻(正面)、横に象の木鼻が飾られています。
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 中央の釈迦如来の脇仏として文殊菩薩は獅子に乗っています。普賢菩薩は象に乗っています。
 奥浜名湖の奥山方向寺にて。
 
東アジアでは”男尊女卑”が一般的で、ジェンダーの時代に批難を受けています。
日本でも、”女性の入山禁止”の霊地があったり、土俵に女性は登れない事になっています。
女性は不浄だから・・・・、説明します。
でも、山の神は大抵が女性です。
人は女性のお腹から出てきます。
そんな尊い存在を不浄だから・・・、忌避するのは合点が行きません。
一方で、ジェンダーを叫ぶ人の意見にも筋違いを感じます。
”女性は男性よりも子供を産んで育てる事では尊い”自明なことです。
でも、体や役割に違いがあって、トータルでは男女同じに尊い・・・、と考えます。
そして、日本文化は総じて男女を差別していないように思うのです。
 
神社の狛犬も男女が並んでいる事があります。
どうも、日本では”男尊女卑”は根源的ではないように思います。
時代によって変遷するのです。
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      藤沢白旗神社の狛犬。此方は雄と思われます。向かいに角のある雌がいます。
      日本の神社は基本的に男女平等であり、同時に男女の役割を分けていると思います。
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     神社の狛犬は犬でなくて獅子です。湘南で一番風格のある狛犬です。
     江戸時代の初頭、越後屋さんの寄進です。
 
中華街で、目の前の獅子舞が男か女か?
訊ねれば、大抵の人は男ですよ、答えるでしょう。
何故なら、立派なタテガミは雄ライオンだけですから・・・・。
でも、漢代から中国人の信じた獅子はタテガミがありました。
タテガミの無い雌ライオンは知らなかったのです。
 
様々な思いを馳せながら、中華街の浚渫を祝う獅子舞に拍手しました。
 
 
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”蔓梅もどき”に集まる野鳥

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大きなミズキに絡まった蔓があります。
もう、木を覆い尽くすほど繁茂しています。
ミズキが可愛そうです。
初夏花が咲きますが、小さくて目立ちません。
秋に小さな実がなります。
冬になると、実を覆った殻が割れて、赤い顔を覗かせます。
小さな実が三つ、寄り添うように並んでいます。
その様子が可愛いく、色が梅干のようです。
だから、”蔓の梅もどき(蔓梅疑)”と名が付いたのでしょう。
でも、全体としては地味な実ですから人は殆んど見向きません。
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   ミズキの梢に絡まった蔓梅もどき。その赤い実に集まってきたメジロ。
 
1月も末になると、野鳥の食べ物も残り少なくなってきます。
我が家のヒヨドリジョウゴも南天も実を食べ尽くされてしまいました。
もう、新芽や椿の花を食べなければならない状況です。
今頃食べ頃になって、野鳥を集めるのが、この蔓梅疑です。
 
今年の冬は野鳥が少ないようです。
バードウォッチング仲間でも、嘆いています。
去年の今頃は”真っ白いジョウビタキ”が現れて人気でした。
数も少なく、スターも居ない、寂しいバードウォッチングです。
見飽きた野鳥でも、見た目地味な野鳥でも、仕草を見ていると楽しいものがあります。
今は恋の始まる季節ですから、その駆け引きも見られます。
野鳥が集まるのは、蔓梅疑です。
此処は食べ物が豊富で、猛禽に襲われる危険も無い、加えて恋人を見つけるにもグッドだ・・・・、
そんな訳で、賑やかです。
 
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                                      蔓梅もどきの実を啄ばむメジロ君
 
最も多いのはメジロです。
メジロは群れで飛んできています。
チッチ、チッチ騒がしく啼きながら、赤い実を啄ばみます。
樹下で落ちた実を拾う野鳥も見えます。
赤腹、白腹の姿も見えます。
赤腹にすればこんな小さな実を食べても、中々満腹にはなるまい・・・、思うのですが、
今は贅沢は言ってられない・・・・・、”モドキ”で良いから、少しでも食べたい・・・・、
そんな表情に見えます。
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                                              樹下で落果を拾う白腹
 
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                                  同じく蔓梅疑の落果(オレンジ色)を拾い食いする赤腹。
 
私とて同じようなものです。
メジロや赤腹でも良いから、野鳥を見ていたい・・・・・、
そこで、厭かずに蔓梅疑の大蔓を見詰めています。
また、何か飛んできた・・・・、期待して見やります。
マヒワも、ヤマガラもルリビタキもこの冬は未だ見ていません。
”どうしたんだろう?”
ぼやきます。
明日は海に出て、オットセイ見物(鎌ちゃん)に行こうかな!
思ったりします。
 
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葦原で見る”鴫の看経”

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野鳥が集まる「蔓梅もどき」は舞岡の湿原の端にあります。(昨日書いた)
その先は葦や萱、ススキ等が茂っています。
30年も前までは棚田であったと思われますが、耕作を放棄されて、一面の湿原になり、
今は野鳥の棲家になっています。
 
冬は湿原の一部、枯れた葦を刈って、野鳥の観察が出来るようにしてあります。
生い茂った葦原の中から、様々な野鳥が顔出します。
そして、安全な葦原の中に身を隠します。
私は葦原と刈り取った湿原の境目辺りを見詰めます。
 
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                          猫柳も膨らみ始めました。その向うに棚田と葦原が続きます。
 
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                                                 葦原から顔を出した小綬鶏
 
恐る恐る、小綬鶏(コジュケイ)が顔を出しました。
小綬鶏は10羽程度の群れを作っている事が多いのです。
先達が出てきて、辺りの様子を窺がいます。
私たちの視線が注がれた事を感じたのかもしれません。
また、葦原の中に消えてしまいました。
残念、小綬鶏の家族は見られませんでした。
 
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   冬になると湿原の一部の葦等を伐採します。湿原に住む野鳥を観察できるように・・・、そんな措置です。
   中央の切り株の左1mに田鴫がいます。
 
写真の何処かに田鴫がいます。
枯葉、落ち葉の中では全く見分けが出来ません。
でも、採食中は小刻みに嘴を震わせますから、見つけられます。
暫く(10分ほど)採食すると、静止してしまいます。
20分は身動きしません。
 
体を動かさなければ、猛獣や猛禽に見つからないので安全だ・・・・、DNAに刻まれているのでしょう。
田鴫の先にももう一羽、鴫が居ます。
一回り大きい、山鴫です。
昨年は青鴫(灰色)も居たのですが、今年は見当たらないそうです。
静止してしまう、その習性は共通しています。
また、多くは夕方から夜に活動し、昼は静かにしているようです。
横浜には越冬の為にシベリアなどのツンドラ地帯から飛来し、春に北に帰るのです。
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   枯葉の下の虫や木の実を食べる田鴫、この状態は動くので発見できます。
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      静止してしまった田鴫、この状態は枯野が保護色で発見しにくいのです。
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        此方は田鴫より一回り大きく灰色の目立つ「青鴫」
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                                           此方は静止状態の「山鴫」
 
ですから、俳句の世界では「冬の季語」になっています。
一面の田圃に霜が降りて、凍っています。
天空には三日月が煌々と光っています。
そんな荒涼とした景色の中で、田鴫がポツンと立っています。
ジッとして動きません。
冬を代表する景色です。
 
お経を声を出して読めば「読誦」と言います。
声を出さなければ「看経」と言います。
”鴫の看経(かんぎん)”と言います。
 
荒涼とした風景の中で鴫が動じないでいる姿を見て、人は座禅をしている僧を思いました。
僧の背筋は伸びて、丹田に気を集中しているようです。
他人が近寄り難い緊張があります。
僧は、声を出さずに経文を唱えているのです。
既に、どれほど時間が経ったでしょうか。
僧の瞑想は続いています。
既に、空気の流れも、風の音も、誰も瞑想の妨げは出来ません。
そんな座禅(修行)の姿を鴫を使って表現しました。
 
鴫の羽に霜が降りてきたようです。
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    静止状態の田鴫、これを「鴫の看経」と呼びます。
 
  心なき身にも哀れは知られけり
       鴫立沢の秋の夕暮れ
 
僧になった西行法師が湘南の湿原を歩いて来ました。
秋の日はつるべ落とし、早く今晩の宿を決めなければなりません。
次第に足早になって先を急ぎます。
突然足元から羽音がして、鴫が飛び去りました。
西行法師は驚いて立ち止まり、鴫の飛び去った先を見詰めました。
鴫は枯れ葦の中に消えてゆきました。
そこは鴫の家があるのです。
西行法師は前にもまして寂寥感に沈んでしまいました。

”鴫立つ沢”とは鴫が居る沢ではなくて、”鴫が立っている沢”の意味です。
「鴫が飛んでいる」「鴫が歩いている」「鴫が啼いている」のではなく、「鴫が立っている」のです。
野鳥は沢山居ますが、「立つ」と表現されるのは鴫だけでしょう。
静止している事が多い「五位鷺」でさえ「鷺立つ」とは言われません。
 
更にいえば、”鴫立つ”は”鴫が看経している沢”の意味なのです。
私は鴫で表現した「無常観の系譜」に思いを馳せます。
田鴫(鴫といえば田鴫を言います)は日本文化の柱になった野鳥です。
 
水無瀬三吟の鴫については以下に書いたことがあります。
 
 
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                                           西行法師像(大磯の鴫立庵で)
 
 
 
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節分に”かっぽれ”(建長寺にて)

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2月3日は節分、建長寺の豆まきに行きました。
11時、国宝の梵鐘が打ち鳴らせます。
鐘の音が合図で、先ず山門外の駐車場で”かっぽれ”が踊られます。
踊るのは「桜川ピン助」一座、幟には「5代目家元」「江戸芸」と書かれていますから、
お座敷芸にも権威が付いてきたものです。
私の頭には「何故、建長寺でお座敷踊り」をするの?
「仏様に奉納する・・・・」書いてあるけど、奉納するのなら伎楽か能か、精々琵琶かしら、
お座敷芸では、煩悩が深くなりそう・・・・? 一寸心配です。
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                                      梵鐘が打ち鳴らされ節分会の行事が始まります。
 
山門の外で踊っていた桜川一座は、踊りながら仏殿の西側広場にねって来ました。
此処で、建長寺管主さん?のご挨拶です。
『豆まきの前に、”かっぽれ”を奉納していただきます。今日は節分、明日は立春です。春を迎える喜びを仏様に奉げます。来年は建長寺を創建された北条時頼(5代執権)が亡くなられて750年になります。建長寺は益々皆様にお越し戴けるよう・・・、努力してまいります』 
そんな、ご挨拶でした。
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             仏殿の西側広場で先ず獅子舞が演じられました。日陰が寒い事
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     かっぽれは”粋でいなせ”な男踊りです。浅草から馳せ参じた桜川ピン助一座のお姐さん達。
 
私は合点が行きました。
京都のお坊さんが祇園小唄が好きで、鎌倉のお坊さんがかっぽれが好き、博多のお坊さんは・・・博多祝い歌が好き・・・・な訳ではないのです。
立春を祝う気持ちが”かっぽれ”を踊って謡ってもらうのです。
 
建長寺のご本尊はお地蔵様です。東大寺や薬師寺の如来さんとは違います。
地中には既に春が準備されていて、もう直ぐに命が芽吹いてきます。
地中の仏様は五穀豊穣、子孫繁栄を約束してくださいます。
そんなお地蔵様に奉納するには”かっぽれ”が最適なのでしよう。
 
私の耳には”かっぽれ、かっぽれ甘茶でかっぽれ”般若湯を戴いて興じる父の面影が残っています。
でも、あれは俗謡で、本来のかっぽれは違うようです。
歌詞も踊りも幾つも種類があります。
”かっぽれ、かっぽれ”囃子や調べは共通しています。
”お代わり、お代わり!”呼び声で別のかっぽれが踊られます。
 
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   建長寺のご本尊は地蔵菩薩です。庶民一人一人を救済する菩薩さまです。改めて見れば仏殿の欄間は鳳   凰、格天井の枡には鳥が描かれています。
 
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   此方は一の谷合戦を素材にした武者踊りだそうで・・・・、お爺さんも腰がピンと張って、決まっていました。
 
”かっぽれ”は”おか惚れ”の訛と聞きます。
踊りの仕草を見れば、歌舞伎の決まり(型)のようです。
”私ゃ貴方に惚れ込んだ”と言いながら、歌舞伎役者の真似をして踊ったのではないでしょうか?
始まったのは西南戦争も終えた頃、(明治10年代後半)、伊勢に始まったかっぽれ踊りは上京して、
東京帝国ホテルで演じられ、人気に火がついたそうです。
伊勢から京に伝播しなかったのは・・・、矢張り男踊りだったからでしょう。
ダラリの帯ではかっぽれは踊れませんし、
粋な浅草や新橋のお姉さんの裾がはだけるの眩しいのですが、京の芸子では品が保てません。
祇園小唄(昭和5)も博多節(明治20)も時代の変わり目で流行ったお座敷唄でした。
 
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    姐さん達・・・・、決まった型が、お見事でした。
 
豆撒きは12時から始まります。
法堂西側の広場が会場です。
法堂の基壇(40cmほど高台になっている)に舞台を設えて、紅白の幕が張られています。
豆撒きをするのは、建長寺の高僧、ミス鎌倉、お稚児さん、そして福女(ふくむすめ)に年男です。
混乱が生じ、怪我人が出ないようにガードマン(京浜急行系列)が配置されています。
「子供・高齢者コーナー」が用意されていますが、建長寺に集まるのは高齢者ばかりです。
(八幡宮は若い人が多いのですが)
 
豆撒きをする福女(ふくむすめ)も年寄りで、豆をキャッチする善男善女も年寄りばかりです。
会場が混乱する危険は少ないようです。
配慮は不要、でも救急車くらいは配置しておいた方が良さそうです。
年寄りと言っても、夢中になりますから。
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  豆撒きは法堂西の広場で行われました。中央朱色の法衣の方が管主三と思います。
  その左右がミス鎌倉です。
 
3回に分けて”福は内、福は内”豆撒きが行われました。
私はカメラ片手に眺めていましたが、3度目に豆拾いに参戦しました。
でも、家族分の豆は充分に拾えました。
豆の入った袋には”当たり券”が入っていました。
気分も上々です。
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                               豆撒きは三度に分けて行われます。充分に拾えます。
”鬼は外 福は内”掛け声は無くなりました。
鬼が可愛そう・・・・!そんな世論が沸いたからでしょうか?
でも、最近は人災に天災が追い討ちされて・・・・
庶民は・・・・”厄は外 福は内” 言いたい気持ちです。
もう、地震も津波も洪水も・・・・・、結構です。
 
お地蔵様にお願いです!
この立春を機に流れを招福に変えて欲しいものです。
 
そういえば先週行った中華街では「立春大吉」のお札が貼られていました。
更に”福”の字が転がって天地が逆様になっていました。
”福が転がり込みますように”
御呪いの意味でしょう。
 
”神頼み”の気持ちがが強くなって・・・・、かっぽれを踊りたくなる・・・・、そんな気分です。
 
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八幡様の節分会

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鎌倉の節分会は11時に建長寺、13時に鶴岡八幡宮、15時に鎌倉宮(大塔宮)で行われます。
3社寺の節分会を巡ることが出来るよう配慮されているのです。
13時、建長寺を出て、巨福呂坂を越えて、八幡様に向かいます。
神苑で豆拾いの整理券を戴きました。私の番号は1177、整理券は1500枚配布と聞かされていますので、
建長寺を周って来た人は全員豆拾いは出来ないようです。
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                                         鎌倉鶴岡八幡宮節分会の風景です。
 
13時から本殿内で節分の神事が行われたのでしょう。
13時50分、神主等が本殿を出て、石段を舞殿に向けて降りて来られます。
続いて、200人は居るでしょうか、福女、福男が直垂(ひたたれ)烏帽子(えぼし)姿でいます。
石段で記念撮影です。
直垂は成人武士の正装と思っていましたが、女性の直垂姿も良いものです。
それに、直垂は浅葱色です。(浅葱より少しブルーが強いようにも感じますが・・・)
丁度今頃、霜の降りた畑で、葱の青い葉が新鮮です。
あの、凛とした美しい色です。
 
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                本殿から豆撒き会場である舞殿に朝服姿の神主さんが降りてきます。
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                                                     直垂姿の福男の一団。
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                                                     記念撮影です      
舞殿の周囲にロープが張られています。
其処が豆拾いに参加できる1500人のプレーゾーンです。
神主さんが四方を榊で祓います。
私達は頭を垂れて神を待ちます。
 
続いて衣冠姿(公家の装束、朝服)で二人、弓矢を持って登場です。
四方に向けて弓を構えます。
矢は左手に持ったまま、弓を半月に張って、弦を鳴らします。
”鳴弦の儀”です。
気を祓う退魔儀礼、 魔気・邪気を祓う平安時代から続く神事なのです。
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            南に向けて、鳴弦の儀が行われ、厄災を退散させます。射手は殿上人の朝服姿です。
            加えて大変にお若いのは・・・・、八幡宮が流鏑馬初め武道を大切にして、若い人も熱心に鍛            錬しているからでしょう。
 
疫病神は人間と変わらず臆病な性格なのでしょう。
”ビュン”と鳴る弦の音がすると、矢が自分に向けて飛んで来た・・・・・、思って退散するのでしょう。
まして、矢が鏑矢(かぶらや)でヒューンと大気を切り裂く音がすれば、矢が近づいてきた、
肝を冷やすのでしょう。
NHK大河ドラマ平清盛も先週、北面の武士(瀧口の武士)と佐藤義清(のりきよ・西行法師)が登場しました。
内裏警護の引継ぎに際して弦を鳴らした・・・、聞きます。
1,000年も続く伝統を見るのは嬉しい事です。
 
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  舞殿から豆撒きが行われます。 
  舞殿の足元には先着1500人しかは入れません。でも全員に福豆が配られます。
 
舞殿の三方に並んだ福娘、福男が神主の先導で一斉に豆を撒きます。
”福は内”叫んでいるのでしょうが・・・・、声は北風に吹かれて聞き取れません。
福豆は紙に折られた三角袋の中に納まっています。
昔、粉薬を戴いたあの折り紙です。
その表に八幡宮の鶴の印しがあって、中には”当り”があるのです。
ついつい、豆拾いは夢中になってしまいます。
足元に落ちた福豆を拾おうと屈めば、後ろの人が覆い被さって来て、事故にもなりかねません。
ガードマンが見ていて、誰かが屈むと笛を鳴らします。
豆撒きは中断します。
”水入り”をして、態勢を整えて再開です。
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        豆撒き風景、一番左に直垂・烏帽子姿の福女(ふくむすめ)が居られます。
        武士の正装は男女共通だったのかも知れません。
 
私は既に建長寺で充分な福豆を戴きました。
八幡様では行事の撮影に専念します。
拾えなかった人にはお神酒の横で福豆を配ってくれるのです。
長蛇の列に並んで福豆を戴きました。
全員、3袋づつです。
我が家も3人です。
八幡様の配慮が解ります。
”気遣いをしてあげる・・・事が福を呼ぶのでしょう”
 
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もうじき3時です、
大塔宮に向かい人も大勢居ます。
 
福を呼びたい気持ち、明日から立春だ、今年こそ無事な一年であって欲しい・・・・・、
そんな気持ちに違いはありません。
私はもう、節分を充分楽しみました。
お寺の節分会も、神社の節分会も見ました。
今年は是で帰宅する事にしましょう。
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                                              舞殿北面での豆撒きの光景
 
 
 
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お見事!兵庫商業高校の龍舞・獅子舞

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今年(2012年)の春節は1月28日に始まりました。
私は横浜中華街で春節の行事を満喫しました。
目玉は龍舞に獅子舞、中華街の目抜き通りを練り回りました。
演じたのは、横浜にある中華学校2校とそのOBでした。(既報告)
プログラムによれば、2月4日、5日には神戸市立兵庫商業高校の「龍獅團」による龍舞・獅子舞が行われるとのこと、私はまた中華街に出かけました。
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    神戸市立兵庫商業高校の獅子舞、赤い獅子が見守る中、白い獅子がコブラを噛んで飛ばします。
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                                         4頭の獅子が演じ終わって挨拶します。
神戸市立兵庫商業高校は100年近い伝統を有する公立の学校です。
横浜の中華学校が龍舞獅子舞を演じるのは祖国の文化を大切にし、
中華街の発展を祈るもので、至極普通です。
でも、神戸の公立高校の生徒が演じるとなると、何故?興味も沸きます。
また、横浜と神戸と、どう違うの? 見てみたくなります。
 
同高のHPによれば、龍舞・獅子舞を始めたのは24年前という事でした。
国際都市神戸ならではの活動としてはじめ、地域の町おこしやお祭りに演じて喜ばれて来たそうです。
阪神大震災では仮設住宅や復興住宅を巡って、元気付けたそうです。
地域と学校・生徒との交流が盛り上がり、生徒の社会を見る目も広がり、他人への思い遣りも深まったそうです。
そうして・・・・・、評判になり数年来横浜中華街の春節にも声がかかって、遥々大勢で演じに来ているのです。
今では、中華街では顔なじみのようで、沢山の見物人と拍手が鳴り止みませんでした。
 
演じる会場は山下町公園です。
近隣公園の広場ですから・・・・、中華街を練り歩くのとは違います。
様々な演出やシナリオが必要になります。
獅子舞は先ず二頭の獅子が登場して、舞います。
一頭は椅子の上に載って舞います。
もう一頭は黒いコブラを見つけました。
コブラはきっと厄災を象徴しているのでしょう。
コブラに挑んで、首の根を噛んで空中高く放り投げます。
厄災の退治は無事終了です。
 
次いで四頭の獅子が登場して、太鼓や鐘等にあわせて演じます。
演舞が終わりました。
獅子舞の頭を脱いで挨拶します。
中には・・・・・、勇壮な演舞でしたから男子生徒と思いきや・・・・、女生徒でした。
息を弾ませて、紅潮して・・・・、演じきった満足感が表情に溢れています。
一際拍手が高まり、爆竹が再び鳴ります。
 
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           演舞を終えて、満面の笑みの女生徒達。女子と判って、拍手がまた盛り上がりました。
 
次いで、龍舞が始まります。
龍は小田原提灯のような構造です。
竹ひごを編んで、その表に龍の絵を描いた紙(絹?)を張ったものです。
伸縮が可能です。
伸ばせば40mはあるでしょうか?
龍は竹竿の先に取り付けられ、竿を持った男性徒、10人余りで構成されています。
最初は寝そべっていた龍ですが、珠に誘われるようにして目覚めます。
そして珠を追います。(珠を演じているのは女性徒でした)
生きた蛇のような動作をします。
とぐろを巻いて動き回ります。
龍の腹が公園に砂埃を巻き上げます。
龍の体に絡まれないように、生徒が次々に飛んで跳ねて、龍の体を遣り過ごします。
縄跳びの要領でしょうか?
地上から、天に龍は舞い昇ります。
プラタナスの梢をかすめる様に龍が舞います。
おおらかで、悠々としています。
 
もう、午後3時過ぎ、公園は日陰って来ました。
龍だけに陽が当り、スポットライトを浴びているようです。
 
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                                           いよいよ龍の登場です。
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                                     寝そべっていた龍が珠を追って起き上がります。
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        龍がとぐろを巻きました。
 
私は合点が行くような気がしました。
横浜中華学院の龍舞は香港の市街地を南北に走り抜ける・・・、それと同じです。
まるで、岸和田のだんじり、博多の山笠のように疾風怒涛の龍舞です。
神戸の龍舞は地域の祭りの広場で演じて見せる・・・、龍舞です。
あっと言う間に通り抜ける龍舞・獅子舞も良いのですが、広場で様々な舞を見せるのも良いものです。
 
私は初見で、神戸市立兵庫商業高校のファンになりました。
”良い龍舞・獅子舞を見せていただきました”
来年も中華街で春節の梯子をする事にしましょう。
是非、来て欲しいものです。
 
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   龍が天空を悠々と泳ぎます。プラタナスの梢がもう一頭の龍のようにも見えました。
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                            縄跳びのように跳ねて龍を飛び越すのが大変です。
 
 
PS:獅子舞龍舞に先立って東京中国歌舞団による「変面・雑技」 が演じられました。
 
 
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三越本店の天女像の意味するもの

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私の属する日本文化研究会の先輩が三越の美術部を率いていました。
定年を過ぎても、会社に協力して欲しい・・・・、と言うのでボランタリー感覚で勤続しているそうです。
その人が吉野石膏(有名なコレクター)との人脈を活かして「近代日本画名品展」を開催しました。
私が学生時代から院展や日展で接してきた名作の幾つかを、吉野石膏の美術財団の買い上げになっていたのでした。
そのお役に三越美術部が働いていたのか・・・・、改めて、感心しました。
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                                     今回の三越美術部の展示会ポスター。
 
先輩のお誘いがあったので、久しぶりに日本橋に出かけました。
私は2年間日本橋にある総合証券の公開営業部長を務めたので、馴染みも深いものがありました。
でも、随分変わりました。
 
昔通りのビルは三井本館と三越本館位です。
日本橋室町には有名で美味しい蕎麦屋が目白押しなのですが、
先年ミシュランの星を得たのは「手打ち蕎麦むとう」でした。
私が勤めていた頃にはありませんでした。
老舗と新進が競い合っているところが、日本橋の魅力でしょう。
それは、美味しい江戸好みの味を楽しみたい・・・・、そんな人が多く集まるから培われているのでしょう。
 
少しお洒落をして日本橋に出て、美味しいものを食べて、買い物を楽しんで、お芝居を見たり、美しい美術工芸品も見たい・・・・、そんな人が沢山居ます。
そんな日は”ハレ”です。
ハレの日の気持ちを象徴するのが、日本橋三越本店のロビーにある”観音像”です。
”日本橋で待ちあせましょう”と言えば、三越のライオン前か、観音像前です。
少し財布の紐が緩みそうな待ち合わせ場所です。
 
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                                    三越のロビー空間に収まっている観音像(天女像)
 
私の学生時代マーケティングの講義で、こんな話がありました。
昭和30年代は3Cと言われました。
新宿の伊勢丹は駐車場を作りました。
一方、三越は大観音像を作りました。
総投資額は20億円(私の記憶)です。
投資効果の優劣は火を見るより明らかでした。
その、評価が形になったのか・・・・、わかりませんが二度の経済混乱の最中、三越は伊勢丹に実質吸収合併されてしまいました。
 
同講義の信奉者で、三越に勤めた人にとっては、
三越観音像は経営判断の誤りによる”恨みの観音”でありましょう。
でも、私はそうとばかりは言えないと思います。
私は、久しぶりに観音像を見てみました。
ジックリ鑑賞したのは初めてです。
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   天女が天から地上に降り立った瞬間を捉えています。黒髪が舞い上がっていますし、瑞雲が右上に向けて   なびいています。アップしてみると衣装が日本風と言うよりベルサイユの雰囲気でもあります。目鼻立ちは    っきり、白い歯を見せている所など、佐藤玄々のフランス留学の成果を感じさせます。
 
三越本店のロビーは6階までの吹き抜けの大空間です。
三越の創業50周年記念事業として、岩佐社長は三越の基本理念を”まごころ”に確認し、
その象徴としてロビーに天女像を飾る事を決めました。
そして、当代最高の仏師「佐藤玄々(京都)」に製作を依頼します。
 
佐藤は明治21年、福島県相馬郡生まれ、家は代々神社仏閣などの装飾を手掛ける宮彫り師でありました。(注書きあり)
18歳の春に上京して高村光雲の高弟、山崎朝雲の門下生となり修行します。
34歳の時, 官費留学によりフランスに渡ります。
フランスではロダンの高弟「ブールデル」に師事します。
帰国に際してプールデルにこう諭されたと言われています。
『汝の血を以って、汝が祖国の魂をつくれ』 と。
 
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   設立趣意書
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   協力した匠達の名。(漆・型・鉄骨・施工)
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            協力した匠達の名。(大工・彩色・きり金・金工)
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                                                  木彫の助手の名
 
一般的に観音像と言われていますが、一見してこの像は観音様ではなく、吉祥天や技芸天の天女像です。
正面台座には「まごころ・天女」と刻まれています。
天女が瑞雲が沸きあがる中、天から地上の花に降りた様でしょう。
光背は無数の雲で構成されています。
頭上には鳳凰が飛んでおり、背中には何故か「鴛/おしどり」が行列しています。
天女は細面で、大きな眼、太い眉毛、目鼻立ちがはっきりした天女像です。
私達が馴染んできた、吉祥天(東大寺二月堂、浄瑠璃寺)はふっくらしたお顔で、細目で優雅ですが・・・・、
随分違った印象です。
是も、当世風だったのであり、フランス留学の成果だったのでしょう。
 
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                              浄瑠璃寺 吉祥天像
台座の基壇には協力した匠の名前が刻まれています。
最も多いのが木彫師で、10人余り居るでしょうか。
彫金師、塗り師などの名が続きます。
中には鉄工師の名があります。
天女像の骨格が鉄骨で出来ており、その上に天女の木造が載り、更に木彫の装飾の鳥など加えたのでしょう。
木彫は色漆で彩色し、宝石を飾り、まさに戦後高度成長期の贅を尽くして天女像を完成させました。
着工から10年をかけて、昭和35年落慶しました。
 
当時、車を持っている人は余り居ませんでした。
日本最初のデパートメントストアの前身は「越後屋呉服店」でした。
時代劇では越後屋は悪代官につるんで、悪い商人の代名詞でした。
越後屋のイメージを変えて、庶民に歓迎される・・・、その象徴として観音像(天女像)は意味があったと思います。
三越には三越劇場があります。
当時は帝劇、三越劇場が人気でした。
お芝居を見る人は、華麗な天女像の前で待ち合わせて、上階の劇場に向かいました。
美しい舞台が待っています。
天女は技芸天像であります。
 
 
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            光背には鴛が飾っています。勿論観音像を背後から眺められるよう、装飾したものです。
 
三越では「日本伝統工芸展」を毎年主催しています。
勿論、この観音像(天女像)を作る際にも沢山の匠の伝統技量があったから、完成したのでした。
三越の美術部の部門損益は先輩に訊ねた事もありません。
ただ、在職中に運慶の大日如来の海外流失を防いだ実績を含めて、
三越の伝統を評価しなくてはならないと思います。
 
伊勢丹が時流を先取して、大駐車場を投資したことは英断だったのでしょう。
しかし、文化産業は時流に乗るだけでは育成できません。
 
学生時代は俗っぽくて好きになれない観音像(天女像)でしたが、
改めて見詰めてみると・・・、凄いものです。
昭和を記憶する文化財でありましょう。
 
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  台座正面には「まごころ・天女」と刻まれています。三越の基本理念を「まごころ」と確認にしたものでした。
  昭和35年は1960年、安保に揺れた年でもありました。
  私は三越凋落のきっかけは昭和57年岡田社長が特別背任罪に問われた岡田事件だと思います。
  それまで、私の勤務先では商品券やギフトを三越から他店に移しました。
  また、猪熊弦一郎デザインの包装紙を辞めたのも残念でした。
  日航機の鶴のマークをJALにした・・・・、同じような衝撃で、それは会社が方針を変えた事の顕れでした。
  両社とも文化産業の低落と言えます。
  ”真心をもってお客様や社会に貢献する”テーマは昔も今も変わりません。
 
注:
『彫工左氏後藤世系図』江戸彫工の実態調査をされている茂右衛門さんのコメントに以下がありました。
 佐藤玄々は相馬の生まれであるが、福島の相馬ではなく茨城の相馬である・・・・。
福島の相馬市は野馬追いで有名ですが、宮彫師を育成するほどの神社仏閣は見当たりません。私も書いていて変だな、思いました。茨城なら鹿島大社初め需要があります。
私も茂右衛門さんに賛成です。コメントとして記述しておきます。
 
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日銀の山茱萸

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三越本店の西側を「日銀通り」が通っています。
私はサラリーマン時代、度々この道を歩いて日銀東門を入りました。
お世話になった酒井前頭取、加えて兄が同じ時期に日銀政策委員でした。
父とも訪問し、喜ばれた思い出も今では懐かしいものがあります。
 
日銀正門(南門)前はヒマヤラ杉が植えられています。
そして、東門前の街路樹は桂です。
日銀新館前の歩道に緑地帯が設けられ、そこに赤い実がなった低木が植えられています。
”こんな所に、山茱萸(サンシュユ)が植えられている” 驚嘆の声を発しました。
山茱萸は8本程、25m程の間に植えられています。
決して若木ではありません。
私がサラリーマン時代には気が付かなかっただけでした。
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    右が日銀本館、前庭はヒマヤラ杉、手前三井本館、その間が日銀通り。 通りの街路樹は桂、日銀新館     の前に山茱萸が植えられています。今日の話題はその山茱萸です。
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       日銀通りの歩道に緑地帯があって山茱萸が植えられています。
右手前が日銀新館、奥が日銀本館です。
 
今は蝋梅の花も咲き疲れしてきました。
もうじき山茱萸の花が咲き、梅の花に続いて春が本番になることでしょう。
私はこの花には特別の思い入れがあります。
それは、可愛がって貰った祖母が好きだったのでした。
 
祖母は何時も何時も民謡「ひえつき節」を謡っていました。
寺の庭を掃いている時も、畑で野菜つくりをしている時も、本堂での仏事の時も・・・・・、
   庭のさんしゅうの木 なる鈴かけて
   鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれよ
口づさんでいました。
 
”さんしゅう”は椎葉の訛で、標準語では山椒か・・・?
それとも山茱萸か・・・? 疑問が生じます。
 
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                       山茱萸の真紅の実。バックは日銀新館の御影石(北木石)の壁。
 
ひえつき節は宮崎県の山奥、椎葉村に伝わった民謡です。
標高1000mに及ぶ焼畑の村に、平家の落人伝説が残って・・・・・、
それが悲恋の話なのでした。
”平家物語・・・・、パートⅡ”のように良く出来たお話です。
誰しもが那須大八郎と鶴富姫との悲恋に涙します。
 
二人の逢瀬の約束が”庭先のさんしゅうの梢”に鈴をかけるのでした。
"鈴がチリン・チリン鳴ったら逢いましょうね・・・・!”
決め事でした。
 
そこで、疑問は”さんしゅうの木”です。
ひえつき節の歌詞を調べると、大半が山椒の木となっています。
「山椒は小粒でもキリリと辛い」あの鰻にかける香辛料の山椒です。
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     庭先の山茱萸の花。これは珍しい赤い花です。
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                                 此方の山茱萸は良く見かける黄色い花(昨年撮影)
 
 
山椒は花が目立たず、実が黒く、雅さには欠けています。
ただ、若葉は芳香で冷奴に乗せたりします。
その太い枝はすりこ木に利用されます。
硬すぎず決して柔らかくなく、ゴマや黄な粉、自然薯を摺るには欠かせない材木なのです。
でも、鋭い棘があります。
恋のメッセージを伝える木にしては、問題があります。
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     これが山椒。収穫期には実は黒くなり、実を粉に挽いて香辛料にします。棘が鋭いので注意が必要で      す。我が家にも野鳥が植えています。
 
私は山茱萸だと思います。
花も春の先駆けとして咲きます。
秋には真紅の実がなります。
そして、実は冬中残って、鳥の命を繋ぎ、人の目を楽しませます。
日銀通りの山茱萸は真紅の実がお婆さんのように皺だらけですが、シッカリ枝先に付いています。
そして、小枝の先には蕾が大きく膨らんでいます。
命のバトンタッチが見られています。
こんな見事な庭木が鶴富屋敷にあって、鈴をかける・・・・、ロマンが膨らみます。
 
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    日銀新館前の山茱萸の実。室町は薬品大手の本社が集中しています。
    漢方では滋養強壮、収斂、止血、鎮痙、鎮静、抗アレルギー、利尿などに効果があるそうです。この実を     欲しい人が沢山居るはずです。
 
 
山茱萸ではなく山椒だ・・・・、主張が痛切通説のようです。
根拠は山椒は日本に自生していたけれど、山茱萸は中国からの外来種であることです。
山茱萸は江戸時代享保年間に漢方薬の材料として輸入された・・・、言われています。
ひえつき節は17世紀には謡われていたそうです。
(椎葉村観光協会では「椎葉山由来記」「椎葉山根元記」を根拠に説明しています)
だから、山茱萸はあり得ず山椒だ・・・・、ということになります。
 
山茱萸は庭木として魅力的です。
日銀新館の前に山茱萸を植えた決断は誰が下ろしたか・・・・、想像します。
日銀正門前庭はヒマヤラ杉が植えられています。
辰野金吾が植えたのでしょう。(日銀本館は1896年竣工、重要文化財)
でも、反対の位置には・・・・・、落葉樹で花も実もある山茱萸を選択しました。
日銀部店長会議では全国の経済状況が報告されます。
様々な樹木が日銀を囲んでいる・・・・・、それは至極自然な事だと思います。
更に言えば日銀には山茱萸の素晴らしさを解っている人が居る・・・・・、嬉しい事です。
 
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     山茱萸の実は木枯らしで萎んでいますが、その横には蕾が膨らんで、黄色い花が用意されています。
 
 
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