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古武士のような坂田城跡の梅林

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サラリーマン時代、成田空港の東はどうなっているのか?少し興味がありました。
空港開港に伴って、芝山鉄道(三セク)の補償問題も生じていました。
でも、一度も出かけた事はありませんでした。
 
成田に戻る飛行機の窓から地上を見ました。
九十九里の海岸線が見えると着陸態勢に入ります。
広く、整然と耕された水田が広がっています。
川(栗山川)が蛇行して流れています。
あの川には鮭が遡上してくるのか・・・・!
日本の風土が美しく、恵まれている事を実感しました。
あの水田の中に、台地があって、其処が坂田城があったのでした。
 
坂田城が何時ごろ誰が築城したか?諸説あるようですが、
14世紀の中ごろには千葉氏が居城にしていました。
その後、三谷・井田両氏の居城となり、井田氏は千葉氏の支配下に入りました。
小田原北条氏が勢力を伸ばすと井田氏は北条氏の配下になります。
実益を重んじ、典型的な「戦国国土豪」に成長します。
しかし、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原攻めに続いて、追討軍を上総に派遣します。
坂田城はこのために落城しました。
 
中世の城としては、我が家の近くにも「玉縄城」「小机城」「大庭城」など数多く残されていますが・・・・、
殆んど似たような変遷をたどっていますし、平地の中の山城として似た形をしています。
でも坂田城はずば抜けて大きく、保存状態も優れているのです。
 
長い舌のような台地は杉林などで囲まれています。
山林の中には「曲輪」「土塁」「空掘」などの遺稿が確認されます。
遊歩道が整備されていますので・・・・・、散策しながら巨大な中世の城山跡を見ることができます。
 
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                             急な坂道を登って、その上が坂田城です。
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      本丸虎口付近の堀。高い土塁と堀が複雑に廻っています。その向うに梅林が広がっています。
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                        建物も石垣もありません。本丸跡は痩せこけた杉林です。
近世の城郭が軍略上の要衝であると同時に、藩主の住まいであり、力や権威の象徴であり、行政の拠点でありました。
中世のお城は、いざ、戦いと言う時に兵(普段は農夫)が終結し、拠点として戦う・・・・、役割に徹していました。
坂田城は南に行けば下総、北に行けば利根川から鹿島、常陸に続く要衝の地でした。
巨大な山城を築城し、何度も主がチェンジした歴史も解る気がします。
 
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此処に、千葉県最大と言われる梅林(坂田城跡梅林)があります。
梅林の所有者は「坂田城跡梅林組合」だそうで、
梅酒や梅干などの梅を栽培しているのです。
南高梅のような実梅なのです。
 
植林したのは戦後で、樹齢50歳の白梅1500本が咲き誇っています。
どの木も今が樹勢の盛りです。
病虫害の気配も無く、幹に腐りも、葉に錆病も無く・・・・、どの枝先にも沢山の花をつけています。
梅の実を手捥ぎする為に、枝は上に伸ばさず横に伸ばしています。
自ずと、盆栽のような形になります。(盆栽の方が美しい梅の形にしたのでしょうが)
一本一本が、逞しく育って、大きく健康な梅の実を沢山結実させるのでしょう。
梅林の所有者にとっては、1本1本の梅の木が頼もしい兵隊のように見えることでしょう。
1500人(本)の精鋭ぞろいの坂田城梅林です。
 
梅林の根元には・・・・、麦畑があり、ビニールハウスではスイカが育っているのでしょう。
其処此処に蜜箱が置かれています。
様々な命が伴に育つので、梅の実も収穫が多くなるのでしょう。
白梅の蜂蜜・・・、どんな味で・・・、白梅の香りがするのでしょうか?
 
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           梅林の向うに空堀があって、その先に土塁が巡らされて・・・・、本丸をガードしています。
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     梅林の足元のビニールハウスはスイカでしょう。手前は麦畑です。こうした混植が健康な農作物、梅を      実を収穫させるのだと思います。田園の梅林の魅力です。
 
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      梅林の中を遊歩道、(耕作用道路)が巡っています。3月18日6部咲きでした。
      もう梅祭りは3月11日に終了してしまいました。今週末が最高の見頃でしょう。
 
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     遊歩道脇で梅干などを販売する農婦。梅林の樹下に点々と置かれている箱が養蜂の蜜箱。
 
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     これで約50年長の梅の木。
     鎌倉の梅の木は「梅の木苔」がびっしり付いていますが・・・、此処の木には苔が付いていません。
     きっと樹が健康で、環境が良いからでしょう。
 
 
戦後の短い期間でこれだけ見事な梅林が出来あがりました。
公園の綺麗な梅の花も良いのですが・・・・、何処かに空しさがあります。
矢張り、梅は梅の実が収穫できてこそ梅の花です。
 
中世の武士も、何時もは鍬や鋤を手にしていました。
いざと言う時・・・、鍬や鋤を刀や槍に持ち替えて故郷を守るために立ち上がりました。
そんな、武士の面影を留める様な・・・・、素晴らしい白梅です。
 
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       これは藤沢新林公園の梅林。遅咲きの「おもいのまま」も満開になりました。
       花梅には滅多に梅の実はなりません。花を綺麗に見せる為にも・・・・・、普通の樹形に育ててありま        す。一方、実梅は収穫作業の為無理して枝を横に伸ばして、上には伸ばしません。
       どちらが美しいか?
       人好みは様々ですが、私は「梅の木」は横に伸ばした方が美しいと思います。
       人為(剪定など)と自然(梅の木が大きく成長しようとする力)のバランスが見事な梅の木を育てる・・・、       と思うからです。
       坂田城跡の梅林も2年手を加えないと、猛烈に徒長枝が伸びて、樹形は乱れて、幹が傷んでしまい         ます。
 
 
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「鶯宿梅」の故事(東慶寺にて)

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3月20日、春分の日、彼岸の中日です。
今年は春が遅いので、今頃梅の花が盛りです。
混雑覚悟で鎌倉山之内の東慶寺に登りました。
 
     
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ご存知花札の梅に鶯は「鶯宿梅」の故事を描いています。でも図は鶯では無くてメジロです。
 
まだ、早朝ですが、案の定観光客で境内は賑わっています。
春が遅かった分、休日の天気が悪かった分、今朝の青空に誘われて梅見に来られたのでしょう。
きっと昼過ぎに始まる「彼岸の法要」の頃は、お墓参りの方と観光客で大混雑でしょう。
お檀家の方々のお寺さんですから・・・・申し訳ないような気もします。
 
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    満開の梅の花、右は水月観音像。現在「東慶寺の仏像」を展示中です。
    梅の花のようにかぐわしい姿の観音様です。
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          境内の石仏「二十三夜様(勢至菩薩・女性の守護仏)」、
          尼寺だった東慶寺に相応しい石仏が梅を背に佇んでいます。
 
流石に、待たされた分、今年の梅は見事です。
私が小学生の頃の記憶では、東慶寺は草深く、参道の両側に、痩せた白梅が並んでいるだけでした。
今では、手入れも行き届き、年老いた木も勢いを回復し、緋梅も増えました。
まるで、”花園の寺”のようです。
紅白の梅や、八重・一重の梅、枝垂れ梅等が混じっていると、観梅も一層楽しくなります。
男女がいて、源氏と平家が揃って、世の中面白くなります。
白梅一色も良いのですが、様々な梅を見たくなります。
人間は欲張りですから・・・・。
 
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                                     梅の梢の向うに円覚寺の弁天堂が見渡せます。
 
東慶寺の裏山から鶯の声が聞こえます。
谷戸の奥、尾根の両側から聞こえます。
二羽の鶯が「此方の山は私のエリアだ」、「こっちは私だ」
主張を繰り返しているのでしょう。
谷に居る娘鶯はどちらに行こうか迷っているのでしょう。
「どっちがいい声か?」
聞き比べて、勿論、イケメンならず、声メンの鶯を選択するのでしょう。
 
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       仏殿の前庭の四方仏塔、もうじき枝垂れ桜に彩られます。
 
私は「鶯宿梅」の故事を思い出します。
尋常小学校唱歌に「三才女」があります。(明治43年)
その一番が以下です。
  色香も深き 紅梅の
  枝に結びて 勅なれば
  いとも賢し 鶯の
  問わば如何にも 雲居まで
  聞こえ上げたる 言の葉は
  幾世の春か 香るらん
 
 
三人の才女とは、紀内侍(きのないし/1番)、小式部内侍、伊勢大輔、の事で、それぞれの当意即妙な
”和歌の故事”を素材にしています。
紀内侍の故事が”鶯宿梅”です。
 
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最初に記されたのは拾遺集(1006年)で、和歌の枕書きに短く説明されています。
次に書き表されたのが大鏡です。
長命な二人の老人が雲林院の菩提講で昔話を語り合うのでした。
 
村上天皇の御世に、清涼殿の前庭にあった梅の木が枯れてしまいました。
天皇は梅の木に遣ってくる鶯を楽しみにしていました。
そこで、近習に命じて梅を探させます。
従者が西ノ京にあるお屋敷の梅に目をつけます。
掘り取って清涼殿に運びます。
 
ところが梅の枝先に和歌が結ばれていました。
「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へん」
天皇は驚きます。
そして、誰の邸から運んだのか訊ねます。
邸の主が紀貫之の娘紀内侍である事を知って、心残りに思います。
  (歌の意味:天皇のご命令ですから梅の木は差し出しますが、梅を宿にしている鶯に訊かれたら、私は何と答          えたらよいのでしょうか?)
先の尋常小学校唱歌はこの紀内侍の疑問に答えて・・・・、禁中(雲居)で幾世も末永く咲き、香り続けるのです・・・、と答えています。
 
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大鏡の故事が、後世になると様々に変化します。
下学集(1444年室町時代の国語辞典)では、村上天皇が後鳥羽上皇に変わります。
さらに、後鳥羽上皇は恥じて紀内侍に梅の木を返して差し上げます。
 
謡曲「鶯宿梅」では、故事の始まりを一条院としています。
また、拾遺集には「鶯の巣くいてはべれば・・・」と書かれていて、「巣」とされています。
一方、下学集や謡曲では「宿」となっています。
 
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    梅の樹下で満開の三椏の花。この根元近くに片栗を植えましたが・・・、今年も咲くか?微妙です。
    でも楽しみです。
 
有名な故事であり、和歌が大きな役割を果たします。
その点では変わりませんが、細部や、最終的な梅の木の処遇は大違いであります。
大鏡では村上天皇が紀内侍に返した・・・、と書かれていませんから・・・、
きっと清涼殿に移植されたままだったのでしょう。
その方が、父の紀貫之も娘内侍も良い立場だったでしょう。
紀内侍は「紅梅の内侍」と呼ばれます。
天皇が返却してしまったら・・・、こんなアザナは付かなかったでしょう。
内侍の歌にも天皇に梅の木が召されてしまった・・・、恨み言には見えません。
「私の家の大事な梅だったの・・・、天皇様大事にしてくださいね・・・!」
気持ちを鶯に託して歌ったような・・・・・当意即妙さです。
それが中世になって、説話文化が盛んになると・・・、変化したのでしょう。
 
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   (奥の裏山の左右から鶯の鳴声が響いてきました)
 
では、「鶯宿梅」とはどんな梅だったのか?
気になります。
明治時代の作詞(芳賀矢一)では紅梅としています。
才知に長けた、乙女のような梅・・・・、となると、
私は薄桃色の梅を想像します。
平安時代、紅梅、白梅の他に中間の薄桃色の梅が在ったか否か? 良くわかりません。
私達が今日見る様々な梅は大半が江戸時代以降にこう配して作られたものでしょう。
私には「思いのまま」がピッタリのように思えますが・・・。
平安時代には無かった事でしょう。
紀内侍に見せたいような思いです。
 
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     一つの幹でありながら・・・、枝先に白梅、ピンクの梅を咲かせる「思いのまま」。
     紀内侍の知性や奔放さがこの花にピッタリだ・・・、思わせます。(藤沢新林公園で)
 
 
 
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大佛次郎氏の人柄が偲ばれるお庭

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鎌倉の八幡宮向かって、若宮大路の”段かずら”を歩いて行きます。
道の両側に植えられた桜を見詰めます。
年々、桜の傷みは進行してゆきます。
現在の桜は大正8年頃植えられた、と聞きます。
未だ、歳でもないのに、幹が腐って、枯れてしまったものもあります。
桜の根が、一方はアスファルト、もう一方を参詣者が踏みつけてしまっています。
これでは、木が傷むのも仕方ありません。
 
未だ、老い込む歳ではないのですが・・・・、環境が悪いのでしょう。
枯れてしまえば新しい桜が植え替えられています。
新しい桜の苗木が目に付きます。
苗木の中には、もう咲き出しているものもあります。
職人さんに聞けば、富士桜という種で、早咲き種を入れたのだそうです。
 
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     段かずらでで植え替えられた桜。3月20日でもう咲いているのは、早咲きの種を入れたからです。
     今年も桜のトンネルを通って、八幡様を詣でることになるでしょう。元々、若宮大路は四方の山から水が     流れ出て、道がぬかるんでしまいます。その対策として一段高いところに参道を整備し、汚れないで参      詣できるようにしたものです。
 
段かずらを八幡様に向かって進みます。
正面に三の鳥居が見え、その上に八幡宮の社殿が見渡せます。
鎌倉を代表するアングルです。
社殿の背には、常緑の小山が連なっています。
八幡山とでも言いましょうか(通称御谷と呼ばれます)。
 
昭和39年、八幡宮の裏山一帯の開発計画が持ち上がりました。
この時、反対の旗頭を振ったのが大佛次郎氏(作家)でした。
計画地に隣接して住んでいた小林秀雄氏を含めて、鎌倉の文化人も協力しました。
開発計画にストップがかかりました。
反対運動が無ければ、今日の風景遺産は守られず、世界遺産への流れも起きなかった事でしょう。
昭和41ねん「古都保存法」が成立します。
京都も奈良も、大佛次郎氏の行動力の恩恵を受けました。
 
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   鶴岡八幡宮の裏山一帯の緑が守られたのは大佛次郎氏をリーダーとする反対運動の成果でした。
   大佛次郎氏は東大法学部から外務省職員に、更に作家に転じ、鎌倉では鎌倉女学院の教師も兼任した    「行動力」のある人でした。
 
 
八幡宮の門前、町屋の立て込んだ露地の中に大佛次郎氏は別荘を建てました。(大正8年)
目的は鎌倉に来られたお客様をもてなす為の、お茶席でありました。
茅葺、平屋建ての農家風建物を、何処から移築したのか解りません。
客人がその門を叩いた時
「これが、鞍馬天狗の隠れ家か!」  納得するような詫びた住まいです。
 
この建物は、週末・休日に「大佛茶廊」として開いています。
鎌倉の閑静な住宅を味わいながら、喫茶を楽しめます。
稀代の人物益田鈍翁(三井物産創業者)が強羅に白雲洞茶苑 を開いたのが大正11年でした。
どちらも、農家を移築して、沢山の人が一同に会してお茶を戴く、時代ニーズマッチしたお茶席でした。
大佛次郎氏の茶室は益田鈍翁に先行していたのでしょう。
 
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                  農家風の茶席(鎌倉迎賓館)でした。 藤棚があって、見事に咲くそうです。
 
でも、現在の大佛茶廊のサービスはコーヒーが売れ筋のようです。
「大佛ブレンド」は苦味の効いたコーヒーと案内されていました。
何故か永福町から取り寄せたケーキがセットでです。
座敷で戴けば、1500えん。
庭園席なら1300円の均一料金です。
 
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門には右に野尻(大佛次郎氏本名)、左に「大佛茶廊」の表札が掛かっています。
表札には猫が描かれています。
熊谷守一氏の猫を思わせる、秀作です。
大佛次郎氏は画才も一級だったのでした。
紀州の宮大工の血筋がそうさせたのでしょう。
玄関にも猫の陶器があります。
一説によると500匹もの猫の面倒を見る程の猫好きだったそうです。
ご近所の方は迷惑だった事でしょう。
でも、大佛次郎氏が相手では苦言を呈する事も憚れたことでしょう。
 
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    表札にデザインされた猫
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   玄関で、迎えてくれるのも猫。未確認ですが大佛次郎氏のの作でしょう。
 
庭の奥に、五輪塔風の石積みとマヤ文明に在るような石像(顔)が置かれています。
夏蜜柑の木の下です。
私は、「猫ちゃんのお墓」と想像しました。
動物好きの人は、死んでしまうと庭に埋めるものです。
猫ちゃんは亡くなっても、主人の姿を目で追っているものでしょう。
庭先の木陰から主人を見ているのでしょう。
 
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   夏蜜柑の樹下の石積み。筆者は猫サンのお墓・・・、と想像しました。
 
まるで、”花の咲く植物園”のようなお庭です。
今咲いている花木だけでも、十本余りの梅、紅白の馬酔木、黄色い山茱萸、白木蓮・・・・・。
真っ赤な椿に・・・・・、数え切れないほどです。
庭のメインは桜です、テラスには藤棚があります。
牡丹も朱色の芽を伸ばしています。
次々に主役が交代するようです。
 
猫が好きで、花が好き・・・・、
個人の人柄・・・、人物の懐の深さや、温かさを教えてくれるのがお庭でしょう。
きっと、大佛次郎氏は鎌倉駅から別邸に向かう時、段かずらの桜の苗木を見詰めたことでしょう。
大きく育って・・・花を咲かせろ・・・、と。
何故なら、別邸を立てた頃、桜の木を植えたのでしたから・・・・。
 
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    赤い馬酔木
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     黄色い山茱萸
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    椿
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   三椏
 
 
 
 
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秋谷海岸の春の花

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三浦半島の西側、葉山近くに「秋谷海岸」があります。
江戸時代から風光明媚な海岸です。
立錐型の岩が海中にそそり立っています。
「立石」と呼ばれ、秋谷の名物です。
安藤広重も「相州三浦秋屋の里」と題して浮世絵を描いています。
穏やかな海、遠くに富士山、近くに立石を見るこの海岸は、江戸っ子達の憧れだった事でしょう。
江戸からは町屋の上に富士山を眺める事が出来ます。
少し、東海道を下れば、海の彼方に富士山が望めます。
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安藤広重「相州三浦秋屋の里」。手前に名物の立岩、遠くに富士山が眺められます。
広重は秋屋とかいていますが現代は秋谷の文字が用いられています。
 
葛飾北斎も「神奈川沖浪裏」と題して、波間の間に富士山を描いています。
神奈川とは、神奈川宿(子安の辺り、300m程の小さな川が流れています)の事でしょう。
しかし、神奈川沖では北斎の浮世絵のような「大波の間に富士山を眺める」アングルは難しいように思えます。
本牧沖が定説のようですが、此処では例え台風が来ても、こんな大波は考えられません。
 
絵ではお天気です。
あくまで北斎の想像上の絵であり、浮世絵を買い求める人が何処を想像したかが問題です。
私は秋谷の辺りならば、このアングルが確保出来た・・・・・、思います。
江戸っ子にとって、旅行好きにとって、神奈川も秋谷も同じ方角だったのではないでしょうか?
江戸っ子はこの浮世絵を買い求めて、湘南の海に思いを馳せたと思います。
 
この結果、北斎は「雑誌『ライフ』のこの1000年で最も 重要な功績を残した世界の人物100人」で、
日本人で唯一選ばれました。
「神奈川沖浪裏」は、ゴッホの絵画に、ドビッシーの交響詩「海」に、多大な影響を与えました。
 
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          北斎の富岳百景から「神奈川沖浪裏」
 
台風の季節には、秋谷には大波が打ち寄せます。
丸い大きな石が海岸に転がっています。
「小安石」と呼ばれ、「子安の里」の謂れになっていますし、子授け信仰の対象になっています。
夏には緋色のカンナが咲きます。
どんな経緯で自生し始めたのかは解りません。
黒潮や西風で秋谷海岸に打ち寄せられ自生したのかもしれません。
でも、自然環境がカンナに最適だったのでしょう。
他の植物を圧倒して、咲き誇ります。
野分が吹いて、緋色の花弁が風で引き裂かれ、引き飛び様は凄まじく、美しいものです。
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                                           秋谷海岸、夏のカンナの群生
 
そして、春になれば、水仙が咲きます。
城ヶ島の水仙は八重咲き、花の芯が黄色ですが、秋谷の水仙は純白です。
直ぐ近くなのに、どうして違う種の水仙が自生しているのか・・・、理由も解りません。
何かの偶然で、違いが生じたのでしょう。
 
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              秋谷海岸の純白の和水仙の花。周囲をクコの潅木が囲っています。
              クコの花も赤い実も楽しめます。
 
 
そうして、もう、海岸には浜大根の花が咲き出しました。
きっと、海岸の方が暖かく、地面は一番に温んでいるからでしょう。
 
大根が引き抜かれていました。
野生でも、大根は大根、少し細くても白い太い根っこです。
蕎麦の薬味にしたら・・・・・、最高の辛味大根の香りを振りまく事でしょう。
きっと、カマトトのお嬢さんが「浜大根」を見つけて・・・・、
彼と言い合ったのでしょう。
「この紫の花は何だ?」
「大根だ!」  
「そんな筈はない!」
彼が大根引き抜いて、カマトトお嬢さんに噛ませました。
「ワッ! 辛い。大根だったわ」
 
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   秋谷海岸に咲き出した浜大根の花。
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                              引き抜かれた浜大根
 
 
大根の目の前に錆びたベンチが置かれています。
此処に座って読書する・・・、そんな設えです。
ベンチの先では、親子が砂浜に座り込んで、貝殻拾いに夢中です。
波打ち際では恋人が素足を濡らしています。
今日の海は穏やかです。
「春の海」です。
 
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       砂浜の向う、立石が遠くに見えます。右端のクリーム色の建物がイタリアン「Restaurant Don」です。
      景色も、味も素晴らしいイタリアレストランです。

 春の海ひねもすのたりのたりかな
与謝蕪村の代表句です。
作ったのは湘南の海ではなく、神戸須磨の海です。
でも、きっと目の前の海のような、穏やかな、ぬるい景色は湘南の海にも適当です。
もう一句、矢張り蕪村です。
 
  春雨や小磯の小貝ぬるるほど
流石に国宝の南画家です。
句を読めば、目の当たりに春の海の景色が広がります。
 
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   砂浜で貝殻を探す親子、波と遊ぶ恋人、浜大根は優しく見ているようです。
   それにしても美味しそうな大根の葉っぱです。ソーススパゲッティで食べたいものです。
 
春夏秋冬、花が絶えない秋谷の海岸です。
でも、季節によって海の表情は様々に変化します。
でも「春の海」が一番美しい・・・間違いありません。
夕焼けなら、今頃がダイヤモンド富士(富士の頂に夕日が沈む)が見られます。
 
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                                             鬼のげしの花(?)
 
 
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変わってきた仏前花(駆け込み寺にて)

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暫く前のTVで見ました。
青年王「ツタンカーメン」の棺に花束が収まっていたのでした。
きっと、王妃がお別れに際して、ブルーの「矢車菊」を贈ったのだろう・・・、説明されていました。
3万年も前、ネアンデルタール人のお墓(イラク、シャニダール洞窟)
からも多数の花粉が確認されているそうです。
愛する人を喜ばせたい、愛する人の冥福を祈りたい・・・、心を込める時「花を捧げたい」思う気持ちは、人類発生と同時に行われたようです。
”愛する人に綺麗な花を・・・・”・・・、現在も面々と続いています。
 
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   無縁仏に捧げられた水仙と紅梅、どちらも駆け込み寺の境内で咲いたものでしょう。
   石仏の目線が花に注がれているように、故人も花を見つめていることでしょう。
 
 
私の義父は水仙の花が嫌いでした。
「何故って・・・・・?、墓地に咲いているじゃないか」言っていました。
ですから、仏前、墓前に水仙を献げることはありません。
故人の好きな花を捧げたい・・・、素直な気持ちです。
 
バラが大好きな女性も、お庭にバラを栽培している人も沢山います。
では、バラを仏前に捧げるでしょうか?
ひと昔前なら・・・・、バラは仏前の禁花よ! たしなめられた事でしょう。
多分、バラの刺が「針山地獄」を想像させるからでしょう。
針山地獄は嘘をついた人が行くところです。 鬼が罪人の舌を引き抜きます。
ここは生前に動物 を虐待した人が落ちる畜生道です。
そんな想像を掻き立てるので、バラは禁花だったのでした。
 
花ニラや山百合など、強い刺激臭のする花も敬遠されていました。
故人の霊を惑わす・・・・、考えたからでしょう。
そんな事迷信だ・・・、わかっていますがつい敬遠してしまいました。
その理由は他人の目があるからでした。
他の人がお参りに来て、墓前の禁花を見たら気を悪くするだろう。
考えて、無難な花を奉げました。
 
無難に、無難に・・・、心がけると、白い電照菊に今時ならオレンジ色の金盞花・・・、
お定まりの一束千円の仏花になってしまいます。
しかし、故人の好きなお花が捧げられていると嬉しくなるのも事実です。
「墓参りしてくれたのは誰だろう、故人の事が良くわかっている人だ・・・」
思ったりします。
 
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    つい先日まではバラの花は仏前の禁花でしたが、一番大切なことは故人が喜んでくれる花を献    げることです。言い伝えではなく・・・、ハートが大事な仏前の花です。
 
でも、時代とともに仏花も随分変わってきました。
カサブランカ(山百合の交配種)は霊前花として良く見られます。
白い菊ばかりでは寂しく見えてしまいます。
そして、白い花より、暖かい感じのする色、季節感の色濃い花が好まれてきたように思います。
”春の彼岸に白い菊”では無粋のように思うのでしょう。
”お父さん、また春が巡ってきました。亡くなられてもう10年経ったのですね・・・”
仏前に話しかけようとするとき、季節の花を用意したくなります。
 
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    芍薬にスイトピー、お地蔵様も嬉しそうに微笑んでおいでです。
 
駆け込み寺には日本の文化人の魂が眠っています。
その墓前を巡ると・・・・、先人の人柄に触れる思いがします。
特に、仏前の花を見ると・・・・、
「あの人はこの花がお好きだったのか・・・」「この花がよくお似合いだな・・」
感心したります。
 
和辻哲郎氏は「風土」「古寺巡礼」を著されました。
日本の思想と西洋哲学との融合、はたまた日本の思想で西洋哲学を止揚した・・・と評されます。
淡いブルーの仏花がよくお似合いです。
 
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       和辻哲郎氏墓前の花。淡いブルーの花に和辻氏を彷彿させます。
 
 
日本の知性と評された小林秀雄氏のお墓には、先日まで彼岸桜が捧げられていました。
昔流なら木花は敬遠されていましたが、代表作が「無常ということ」・・・、の小林氏には桜が最適です。
春彼岸には雪柳が供花されていました。
若しかしたら、小林氏のお庭に咲いていたのかもしれません。
 
 
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                     大雪の日の小林秀雄氏墓前。この彼岸桜は長い間咲いていました。
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   春彼岸の小林秀雄氏の墓前花。雪柳が供されていました。
 
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駆け込み寺開基の覚山尼墓前の供花。
お寺が活けた花ですから・・・、お寺さんが昔風(白い花)に拘っていない事が解ります。
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   墓標の五輪塔の頂部で団栗を食べる台湾リス。近づいても逃げません。
 
”禁花”等というのは迷信か因習か、はたまた花屋の商魂でしょう。
没個性の電照菊よりも、個性の輝く花の方が良い事は明確です。
できれば、庭先で膨らんだ花を届けるのが最高でしょう。
小林家の庭先に白い雪柳が自生していて、それを供花したのなら、小林氏が最も喜ぶ事でしょう。
 
 
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湘南国際村の「冬知らず」の花

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三井不動産から湘南国際村の計画を聞いたのは、確か昭和60年頃だったと思います。
私は長銀本店の次長(一般的には課長に相当)にありました。
当時は既に、オリエンタルランド(東京ディズニーランド事業)を軌道に載せ、大川端開発が進行中、
海外でも西安やウランバートルにホテルを運営していました。
後年、バブル時代と酷評された時代の最中でした。
 
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                             子安の里から湘南国際村事業用地ゾーンを見る
 
計画地は三浦半島の背骨、大楠山の西山麓でした。
葉山国際CCからは真下に望まれ、
青い相模湾と、緑の山々、高みに富士山が望まれる風光の良い場所でした。
交通アクセスは?
尋ねれば、「都心から1時間です」とのことでした。
でも、JRや京浜急行を使えば、更に40分はかかるでしょう。
駅まで出るのが大変です。
と言うのは、三浦半島の背を走っている横横道路から湾岸道路を走れば・・・・、
渋滞が無ければ・・・・・、です。
 
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                           桃の花の向うに見えるのが湘南国際村の住宅街区の家並み
 
私たちの脳裏にはカリフォルニアの高齢者住宅が浮かびました。
暖かく、風光明媚なカリフォルニア洲には全米中から高齢者が晩年を過ごすため集まってきていました。
スペイン瓦の洒落た建物があって、
周囲には様々な施設があって、ゴルフもできれば水泳もウォーキングもテニスも出来ます。
多目的ホールでは劇も映画も音楽も楽しめます。
室内では読書やカードを楽しむ老人を羨ましく眺めたものでした。
 
でも、開発コンセプトは「グローバル化が一層進行する中で、日本の研究、研修施設の集中化を進める・・・」
その為に事業用地(研究開発施設用地)前面に配し、後背地には緑陰住宅地を計画しました。
 
神奈川県民から見れば、大楠山は横須賀です。
湘南ではありません。
計画が辻堂や茅ヶ崎であれば(後年慶応大学等が進出した)であれば、
日本中の機関が此処に研究開発・研修施設を集中させた事でしょう。
横須賀ではためらう会社が多かったと思います。
また、野村総研のように湘南に進出しましたが、やはり都心の方が良い・・・、
Uターンする会社も出てきました。
 
私たちが懸念した通りに、事業用地は半分くらいしか販売できませんでした。
しかし、住宅用地は順調に販売できました。
窓を開ければ、富士山が見える。
湯船の中から青い海や富士山が眺められる・・・・、そんなロケーションは此処以外に考えられませんでした。
そして、何より事業の中核会社が三井不動産でした。
当時は江戸英雄、坪井東といった優れたリーダーが居られました。
その信頼が、三井の開発したタウンなら荒廃する事はない・・・、安心でした。
現在は計画当初には思いもよらぬ逆境にあります。
全国各地のリゾート開発は総崩れ、中には支えた銀行も破綻しました。
しかし、湘南国際村は微塵もそんな懸念を起こさせません。
 
計画から四半世紀が経過しました。
事業用地は未だ売れ残っています。
とりわけ、子安通り(相模湾に出る道)沿いは全く売れ残っています。
草刈だけでも大変な負担であるように見えます。
 
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          湘南国際村の子安通りの咲いた「冬知らず」の花。丘の上が湘南国際村の住宅。
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     冬知らずの花の間には野菜の販売所があります。春キャベツは248円、大根は100円でした。
 
でも、子安通り側はまた素晴らしい自然が見られます。
道の両側には「冬知らず」が咲いています。
冬中咲いている耐寒性に富んだ花なので「冬知らず」の名が付いたのでしょう。
野生の金盞花と言った表情です。
冬知らずの間に農家が出店している「野菜や花の販売所」が点々とあります。
お得意さんは湘南国際村の住人です。
軽自動車に乗って、国際村から下りてきて、ここで春キャベツが白長ネギを求めて、戻ってゆかれます。
 
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     子安の里は湘南国際村が進出しなければ、どこにでもあった農村の景色です。
 
湘南国際村は温暖です。
菜の花畑も今が盛りです。
沈丁花はもう咲き疲れてました・・・、クッたりした表情です。
一面が春さなかの信州のような景色です。
でも、丘陵の上に湘南国際村の建物が見えます。
桃の花がもうじき満開です。
 
どんな会社が進出しているのかな?
看板を見ます。
福祉、健康、美容関係の会社が目につきます。
事業目的に「病院」も含まれましたので・・・・・、
いずれ、長期療養施設なども進出するかもしれません。
そうしたら・・・・、一面の「冬知らず」と共に「医者いらず(アロエ)」が咲き出すことでしょう。
将来社会の状況に応じて、事業用地の目的変更も出来る・・・・、そう三井不動産は考えていたのでしょう。
私がサラリーマン時代を奉げた長銀も三井のような「したたかさ」があったならば・・・・、良かったのに。
「冬知らず」のような逞しさがあったならば・・・、思って冬知らずを眺めます。
 
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「冬知らず」は言っているようです。
木枯らしの日は花を閉じます。
太陽が出て、暖かくなったら花を開きます。
開いたままの花では冬は越せません。
でも、勿論冬は嫌いで春が好きです。
花を精一杯開くことができますから・・・。
 
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                                      咲き疲れてしまった表情の沈丁花。
 
 
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三浦の河津桜のお話

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我が家の白梅は散ってしまいましたが、豊後梅(思いのまま)はようやく満開になりました。
梅が咲いたから・・・・、そろそろ「三浦海岸の河津桜も咲いただろう」期待して3月25日三崎街道を下りました。
ところが、河津桜はもう散り始めていました。
しまった、少し遅かった! 残念至極です。
桜は、梅のように遅れることはなく、しっかり咲いていたのでした。
このブログでも書きましたが・・・、小田原の植物園の園長さんのアドバイス(注)を活かさなかった・・・・・、悔やまれます。
そこで今日はこの河津桜の30年ばかりの歴史を綴ってみます。
(注:園長のアドバイスは以下のとおり。
梅の開花が遅れたのは寒くなるのが遅れたので冬眠の開始時期が遅れたのです。その分開花も遅れます。桜の場合は暖かい日が連続すれば開花します。ですから、今年は梅が遅れても桜も遅れる・・・、考えるのは間違いです)
 
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    三浦海岸駅と三崎口駅のかけて、道路沿いには河津桜が咲きます。遠くのマンション群は三浦海岸駅で    す。一帯は「三浦の田園都市」の風景です。勿論三浦は海も山もありますから・・・、本家本元の田園都市    (東急線)より風光明媚で、リタイア後の生活には格好の土地です。
 
日清戦争の勝利に沸く中、大師電気鉄道の工事が進みました。
川崎駅と川崎大師を結ぶ「参詣電車」でした。
京浜急行電鉄の最初の姿は、高松琴平電気鉄道(ことでん、金毘羅様の参詣電車)のようなものでした。
 
京浜急行は時代とともに北に、南に順次に延伸てゆきます。
そして、昭和41年久里浜から津久井浜沿いに三浦海岸まで延伸しました。
更に昭和50年、三崎口まで約2キロ伸ばして現在の路線網が完成しました。
三浦市にすれば、三浦市の中心「三崎」の中心、魚市場の近くまで終着駅を伸ばして欲しかった事でしょう。
此処から更に油壺や三崎、城ヶ島まで延伸させる計画がどうなったのか?
私は知りません。(当時路線許可は下りていた、と記憶します)
 
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    昭和50年、鉄道を三崎口まで延伸させたことを契機に一帯の開発を進めました。
    その表紙を飾るのが「河津桜」でした。
 
私が同社の担当者をした頃、質問したことがありました。
「何故、京浜急行は赤い車両なのですか?」
すると、こう答えられました。
「当社の電車は民家の軒先をかすめて走ります。またホームも曲がっています。
お客様の安全を期するため赤い車両にしました。」
「軒先をかすめて走る・・、ということでは他の民鉄もたいして変わりませんし、
江ノ島電鉄(小田急系列)などは接触して走っているようなものです。でも、赤くは無いですよね・・・・」
「他社のことは知りません。当社は全てに安全を期しています。
例えば発車音についても、音階を変えています(♪ピ~ロピロピロピロピ~と言う変調音です)・・・・・。」
言われてみると、京浜急行の大事故は聞いたことがありません。
安全の為の赤い色は乗客の注意喚起以上に、社員への戒めになっているのでしょう。
「顧客サービスの第一歩は安全確保だ!」
 
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           一周約3キロ、小松ヶ池(大きな溜池、有名な伝説を残す)をめぐって畑の中を歩きます。
           茶店があって、畑の隅では農家が作物を案内しています。
 
 
三崎口までの延伸に際して、京浜急行は沿線の宅地開発を実施します。
既に東急電鉄が田園都市線の開発で実績のあった手法です。
市街地を避けて(?)未開発地に線路を敷いて、沿線の開発を計画的に進めます。
会社も開発利益も享受できますし、昇降客も増えます。
”街路樹を何にしようか?”
少し昔なら「鈴懸」や「マロニエ」、青葉の美しい「にれ」、今風なら「花水木」・・・・、様々候補があったでしょうが・・・、河津桜を選択します。
”三浦は冬も暖かく、早く春が来るんですよ!”
開発も進めやすく、イメージの定着も可能になります。
春の観光客を集める効果も期待できます。
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  桜の先、フェンスの下に京急の線路が走っています。向こうのポプラの木の下は小松ヶ池です。
 
植樹後約30年、河津桜も風格ができてきました。
丘陵には畑が広がっています。
緑の畑はキャベツです。
茶色の畑はスイカを植える準備です。
ビニールハウスはイチゴです。
瀟洒な色瓦の屋根の住宅も、高層マンションも多くなりました。
窓からは丘陵に広がる畑、青い海に、富士山が見渡せるでしょう。
駅から玄関までの生活道路は桜が満開です。
 
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                                   葉桜の向こうに富士山が見渡せます。
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                                  キャベツ畑の向こうに桜道が延々と続きます。
 
私たちの住む三浦半島は魚が美味いし、野菜は本場です。
四季が美しく巡って来るし、特に春が早く来ます。
自然と人々の生活が調和しながら営まれてゆきます。
リタイアしたならば、自然に抱かれて生活し、時々都心に出て、昔の仲間と旧交を温めたいものです。
何も、大きなリゾートを開発することは無かった・・・、住む場所をリゾートのように、自然と仲良く過ごすようにすれば良いのでしょう。
LOHASな生活がそこにある・・・・・、ように思います。
 
 
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和田塚の哀れ

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私が小学校6年生の時(昭和33年)でした。
担任のI先生が仰られました。
「和田塚に近い由比ガ浜で沢山の人骨が発見された。興味があれば見学してくるように・・・」
校門の前の御成通り(中世今小路)を真っ直ぐ海に向かうと、由比ガ浜通りとの交差点があります。
此処に6地蔵があって、その先300m程海に向けて歩くと、江の電の和田塚駅、
その先の一段高い場所が和田塚でした。
此処に、侍所の別当「和田義盛」の屋敷があって、
和田の乱で滅ぼされた和田一族の集団墓地が祀られていました。
子供心にも、和田義盛は鎌倉幕府創設に関わった英雄でありながら・・・・・、
北条一族の権謀術数に嵌って全滅してしまう・・・、哀れな存在でありました。
怖いもの見たさで、学校帰りに見にゆきました。
でも、バラバラの人骨は見ることはできませんでした。
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    由比ガ浜、和田塚近くから発掘された人骨。この辺は処刑場でありましたが、首のない人骨、頭蓋骨が散    っているので、和田合戦での死者を埋めたものと思われます。(平凡社、蘇る中世から複写)
 
今では和田塚の周囲は住宅が密集しています。
企業が所有していた「海の家/社員保養施設」がミニ開発によって細分され、建売住宅になったようです。
何本も石碑が立っています。
石碑の裏には五輪塔が並んでいますが・・・・、完全な形をしたものは少なく・・・、残欠が目立ちます。
数年分の卒塔婆が朽ち果てて・・・、処分しようにも処分の方法が無くて・・・・、困って打ち捨ててしまったような気配です。
ひと昔まえなら、お墓を掃除して、枯れ草や古い卒塔婆を集めて、焚き火にしてしまったものです。
周囲が住宅になってしまって、ゴミを焼くことも市条例で出来なくなってしまったのでしょう。
傍らのお地蔵様はお顔が割れてしまっています。
まるで、矢尽き、刀折れた和田義盛のようです。
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     和田塚の五輪塔(墓標)群。フェンスの向こうは瀟洒な戸建住宅が続きます。
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                          傷ついた武将のような、お地蔵様
 
 
秋には一面彼岸花が咲きます。
初夏には萱草がオレンジの花を咲かせます。
萱草は和名が「忘れ草」、悲しい事を、嫌なことを忘れてしまう「美しい花」という意味だそうです。
今、忘れ草は若い芽吹きをしています。
交互に鶯色の葉を伸ばします。
その形がお雛様のようです。
子供の頃、忘れ草の天辺に椿花や土筆の頭を載せて・・・、お雛様にして遊びました。
忘れ草は花ばかり好かれていますが、若芽も良いものです。
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                               忘れ草の幼芽。椿花を載せればお雛様になりました。
 
和田義盛は三浦半島の雄「三浦義明」の次世代になります。
三浦の初声村和田に屋敷がありました。
現在屋敷跡には八雲神社の祠があって、その脇に「和田一族発祥の地」記した石碑が立っています。
近くに白旗神社があります。
登れば、三浦の畑が見下ろされます。
此方の方が領主の館に相応しい場所です。
白旗神社の神様は天照大神と和田義盛です。
白旗神社の神様は義経か頼朝ですが、流石に和田氏の里では和田義盛です。
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     三浦市初声、和田にある八雲神社。この辺が和田氏発祥の地と言われています。
 
和田義盛は伊豆頼朝の呼びかけに応じて、和田から石橋山に馳せ参じようとします。
しかし、折からの大雨によって増水した酒匂川を越えられません。
そうするうちに、石橋山の戦いは大庭軍が圧倒してしまいます。
頼朝は海路安房に逃げ落ちます。
三浦義明は追手の畠山軍を衣笠城で迎え撃ちますが、覚悟の戦死をしてしまいます。
和田義盛ら三浦の第二世代は頼朝をフォローして安房に向かいます。
安房では豪士の千葉常胤等の支持を取り付け・・・、反攻に転じます。
 
鎌倉幕府で御家人を束ねる位置「侍所」の別当になった和田義盛ですが・・・、
総じていえば北条氏の片棒を担いで、有力御家人を追い落としてしまいます。
梶原景時、比企能員、畠山重忠と相次いで滅ぼされます。
力はあっても、知恵では北条氏に劣っていたのでしょう。
結果・・・・・、最期は自分自身が打ち取られてしまいます。
まるで、ミイラ取りがミイラになったように。
 
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    歌川豊国作和田合戦図(錦絵)。中央の四方八方から攻め立てられているのが和田義盛。
 
神社の森には誰かが植えたのでしょう。
白玉椿が花を咲かせています。
花は地面に落ちて、次第に朽ちようとしています。
落花の地面には沢山の庚申塔が並んでいます。
江戸時代、この辺は庚申信仰が盛んで、各部落の道に置かれていたのでしょう。
その庚申塔が耕地整理事業で邪魔になり、白旗神社の森に疎開したのでしょう。
御蔭で初声村和田の庚申塔の展示場のようになっています。
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    白旗神社の庚申塔群
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    和田義盛が祭神の和田の白旗神社
 
源氏が三代、短命に終わったのも、和田義盛の果たした役割が重要だったと思います。
義経の追い落としに際しても、義盛が体を張って庇えば・・・・、
頼家の殺戮を止められる場所に居たのは義盛だったでしょう。
更に、源氏恩顧の関東御家人の叛意を促したのも・・・・、義盛が北条の片棒を担がなければ・・・、
思います。
 
何処かの会社の勢力争いのような、光景です。
他人を陥れれば、いずれ自分自身も同じような、落とし穴に嵌る事でしょう。
 
 
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片栗の花が咲き始めました。

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今年は今頃遅咲きの梅が満開です。
片栗の花は未だだろう・・・、想像していましたが・・・、
もしも、普通に咲いていたら見そびれてしまいます。
そこで、鎌倉古道の秘密の場所に出かけてみました。
何故秘密の場所なのか?
それは4年前場所が判るように書いたところ、愛好家の方からブログを削除するよう求められたからです。
そこは地主の方を筆頭に沢山の大人の”秘密の花園”なのです。
 
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     片栗の花が咲く近くの神社に祀られた夫婦道祖神。
     私は仲良しの道祖神を見ると何故か片栗の花を思い出します。
 
もう、咲き出していました。
昨年は小学生の卒業式では咲いていて、校長室で話題になっていました。(3月17日)
ですから、今年は約10日遅れで咲きだしたことになります。
梅は約ひと月遅れでしたから、片栗は真面目に暦通りに咲きだした訳です。
 
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   片栗はチューリップののような葉を一枚出します。そして花を咲かせます。花が俯いているのは未だ強い北   風を避ける為でしょう。でも、俯いた表情がおさげ髪の少女を想わせます。可憐な美しさの所以です。
 
それはそうでしょう。
少し寒い日が続いたとしても、春の日差しは暦通りに強くなっています。
他の植物が冬眠から目覚めて、葉を広げ、茎を伸ばす前に、
片栗は葉を広げて、花を咲かせて、種を飛ばさなくては、種を保存できません。
ゆっくりして、暖かくなる日を待っているような余裕は片栗には無いのです。
 
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      片栗の周囲の大木を伐採したので花数が増えたようです。でも細い竹が増えました。
 
雑木林には大きな楡木があります。
その根元が片栗の群生地です。
昨年傍らの山桜を伐採しました。
もう少し・・・、陽の光が差し込んだほうが片栗の生育には好ましいだろう・・・・・、判断だったのでしょう。
御蔭で片栗の小さな株が増えました。
でも、細くてしぶとい竹も増えました。
これから片栗は竹と生存競争をしなくてはならないようです。
 
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     手前の山桜の大木を伐採したのも片栗の花への愛情のためです。
     花はもう1週間後が盛りになる事でしょう。
 
片栗の名はその球根の鱗片が栗の実ようだからです。
栗は針のいがらの中に3個以上入っています。
真ん中の栗の実は楕円ですが、左右の実は扁平しています。
片栗は扁平した形の栗の実のことでしょう。
万葉集の時代には堅香子(かたかご)と呼ばれました。
 
片栗の鱗片には澱粉が蓄積しています。
鱗片を磨り潰して澱粉を精製・抽出して粉にしたものが「片栗粉」です。
和菓子や唐揚げで使われます。
でも、貴重な片栗粉です。
私たちが使っているんはジャガイモの精製粉です。
本当の片栗粉の味は知りません。
ジャガイモの精製粉を片栗粉として販売してはイカサマで厳しくいえば詐欺のようなものです。
でも、イカサマだけが流通していれば、イカサマだ!弾劾する人もいません。
悲しいかな私たちが知っているのはジャガイモで作った澱粉粉です。
 
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わらび餅に使うのが「わらび粉」です。
葛切りや葛湯、落雁に使うのが「葛粉」です。
クズの根っこから抽出します。
どちらも、天然の、本当の材料(蕨や葛)を使っていることは少ないと思います。
大半は矢張りジャガイモが原材料です。
ジャガイモを蕨粉風、葛粉風に精製して、わらび粉、葛粉として商っても咎められません。
イカサマが大半になれば・・・、本家本元は片隅に追いやられてしまいます。
皆が嘘をつけば、嘘が本当になってしまう。
大量生産・大量消費の社会の悪い特性でしょう。
 
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最近は鎌倉でもわらび餅は随分売られています。
原材料が正真正銘の蕨なのか?
よくわかりません。
原材料はわらび粉ですが、わらび粉の原材料が何なのか解らないからです。
私が学生の頃、東大寺二月堂の前の茶店(龍美堂)の名物がわらび餅でした。
天平の香りに包まれて、少し贅沢して戴きました。
甘味が穏やかで、口に含めば溶けるように口中に甘味が広がります。
私は、若草山や飛火野の蕨を頂いた、・・・そんな気持ちになりました。
吉野の葛切りや落雁も、吉野山に自生している葛から精製したもの・・・、そう思っています。
    (吉野葛の話 http://blogs.yahoo.co.jp/sendodazo/54543087.htmlに詳しいです。)
 
片栗粉はわらび粉や葛粉より遥かに貴重です。
今では求めることは・・・デパートでも無理でしょう。
大きな薬屋でも行けば商っているかもしれません。
片栗粉は滋養強精の薬効が優れていて、お湯に溶いて、片栗湯にして頂くのが最高です。
親孝行の人が薬屋で求めているかもしれません。
 
今年も健気に咲いてくれました、片栗の花。
もう1週間後、満開の花が待たれます。
少し、雨に濡れば、最高です。
 
 
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荒磯のお経窟

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三浦半島の西海岸は様々な表情をしています。
白い砂浜もあれば、巨岩が転がって荒々しい顔をした磯も数多くあります。
断崖には荒波が打ち寄せ、不気味な洞窟が出来ています。
有名な洞窟は江ノ島の「岩屋洞窟」でしょう。
龍が棲むと謂れ、弁天様が祀られています。
近くにも木喰上人が荒行をした洞窟があります。
 
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                                            江ノ島の岩屋洞窟
 
三浦半島の先端近く、荒崎海岸にも洞窟があります。
その一つに「お経窟」があります。
大波が岩場を浸食して作られた何処にでもあるような洞窟ですが、
見た途端にゾッとします。
と言うのは、沢山の墓標が並んでいるからです。
墓標一つ一つが死者と思えば、亡者が地獄の入り口で、余りの恐ろしい地獄の光景に立ちすくんでしまった・・・、そんな風に見えます。
佐渡の外海府海岸にも同じような光景があります。
「外海府の賽の河原」呼ばれています。
小さな、こけしのようなお地蔵様が有名です。
小法師像と呼ばれて、今では水子供養に欠かせないアイテムになって、全国に流布しています。
 
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                      和田にある「お経窟」は荒崎に面した岡の麓にあります。
 
1254年(建長6年)日蓮上人(32歳)は安房の清澄寺を出て鎌倉に上ります。
1260年(文応1」立正安国論を著し、幕府執権の北条時頼に送ります。
他宗の宗徒から松葉谷の草庵は焼き討ちされ、幕府の怒りも買います。
1261年(弘長1)日蓮上人(39歳)は由比ガ浜から船に乗せられ沖に流されてしまいます。
日蓮上人は伊東の沖合の岩場「俎岩(まないたいわ)」に置き去りにされてしまいます。
上人が波間でお題目を唱え続けると、舩守弥三郎が小舟で通りかかります。
助けられた上人は伊東の地頭伊東八郎左衛門祐光の帰依を受けます。
弥三郎夫妻は上人を川奈にかくまい、法華経に帰依するようになります。
屋敷の鬼門に毘沙門堂を建立し、日蓮上人を住まわせます。
それが、現在の海上山佛現寺です。
 
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                  お経窟といっても、墓標が積まれていて、まるで賽の河原の光景です。
 
鎌倉に残された日蓮のお弟子さんたちも苦労します。
日朗上人は宿谷氏に預けられ土牢に閉じ込められます。(現光則寺)
日範上人は日蓮上人が流された伊豆見える荒磯海岸の洞窟に籠って3年の間、海水を浴びながら荒行をします。
師と心を一つにして、修行を積む・・・・、そんな姿勢だったのでしょう。
その聖蹟が「お経窟」でありましたし、近浦山円徳寺が建立されました。
 
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                              円徳寺、裏山の左、海に面してお経窟があります。
 
 
荒磯海岸にはキャンプを楽しむ家族が今日も遊んでいます。
親父は磯の石を転がして、釣りの餌を探しています。
子供たちは蟹と遊んでいます。
この様子では、今晩の夕食が釣れるかどうか・・・、甚だ心配です。
でも、少し先には美しい砂の三戸浜海岸もあります。
素敵なレストランも、民宿もありますから・・・・、釣れなくても夕食の心配は不要です。
 
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この後、日蓮上人は許されますが、元寇を間近にして、舌鋒は厳しさを増します。
捕らわれて処刑されそうになりますが、天変により助かります。(1271年/文長7年49歳)
佐渡に配流されてしまいます。
 
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                  洞窟の石仏。風化されてしまって原型が解りませんが・・・、
                  不動明王のようにも、日範上人のようにも見えます。
 
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      正面に富士山が、左が箱根山、稜線が伊豆の天城山に続きます。
      日蓮上人が流されたのはゴルフ場で有名な伊東の川奈です。
      写真の左端になります。日範上人はその方角を見つめながら荒行に励んだのでしょう。
 
 
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小出川の春景色

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小出川は藤沢市北部の丘陵地帯(大庭城跡の辺り)から流れ出し、
茅ヶ崎市の北部を横切り、相模湾に流れ出す直前で相模川に合流する、約11キロの小河川です。
「源流は?」尋ねられれば、「湘南ライフタウン」のご家庭の蛇口でしょう。
合流地点は東が茅ヶ崎市柳島の浄水場、西が湘南シーサイドカントリークラブのゴルフコースです。
流域は田園地帯と住宅地帯が混在し、文教大学、慶応大学、日本大学等が進出し、
広いキャンパスで学生達が学んでいます。
 
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              茅ヶ崎宝生寺の阿弥陀三尊像(重文)、近年は4月29日(みどりの日)にご開帳されます。
 
小出川は相模野の台地を海岸線に並行して南北に流れています。
高台には古墳が数多くありますし、日本武尊の東征故事を持つ腰掛神社や歴史のある寺が幾つもあります。
毎年みどりの日には宝生寺では秘仏(善光寺式阿弥陀三尊像、国の重文)がご開帳されます。
田園と住宅、そして歴史の間を縫って流れているのが、小出川です。
初秋(秋の彼岸の頃)には両岸を真っ赤な彼岸花が彩りますし、
雉子や沢山の水鳥が生息している・・・、自然豊かな河川です。
そして、春の彼岸の季節には早咲きの河津桜が咲きます。
 
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     小出川の河津桜。南岸が寒川町。北側(茅ヶ崎寄り)からの眺めが最高です。
 
でも、小河川と言っても、本流は相模川(一級河川)です。
ですから、川の両岸の管理・修繕の責任は国であり、茅ヶ崎市(川の北側)や寒川町(川の南側)は、国の委託や指示によって管理しています。
 
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   寒川側は市民農園が開かれています。多分市街化調整区域に指定されているのでしょう。
 
伊豆河津で早咲きの桜が発見されたのは1655年でした。
そして、1968年には小出川の堤防にこの桜の実生苗が植えられました。(出典:茅ヶ崎市のホームページ)
植えられたのは60本、大半が小出川の南岸・寒川町寄りです。
桜の彼方に箱根の山々や富士山を仰ぎ見る・・・・、には適切な措置かもしれませんが・・・、
出来れば川の北側、茅ヶ崎川の堤防にも桜を植えて欲しいものです。
今年で小出川桜まつり(茅ヶ崎市寒川町合同)は6回目を迎えましたが・・・・・、
茅ヶ崎市民は肩身の狭い思いをしているだろう・・・・、思います。
 
寒川寄りの桜を・・・・、眺めながら”綺麗だ、綺麗だ・・・・”言っているのですから。
と言っても、隅田川の桜も浅草側(台東区)から眺めているのであって、植えてあるのは両国側(墨田区)です。
隅田川は大河ですから・・・、致し方ないとしても、小出川は川幅も狭いものです。
茅ヶ崎側にも60本植えて欲しいものです。
両岸が桜で埋められれば・・・、
茅ヶ崎市民や市議会で頑張って・・・・・、関東随一の早咲き桜の名所にして欲しいものです。
 
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   正面の山が箱根の神山、左が駒ヶ岳、更に左に双子山が見渡せます。
   手前の鉄塔の建っている丘が「湘南平」です。
 
桜を眺めていると、若い女性が長靴を履いて、手にはマジックハンドを持って・・・・、あっちこっち走り回っています。
私は声をかけてみました。
「小出川の生態調査ですか・・・・?」
「どちらかと言えば、環境調査です。私は茅ヶ崎市の環境課の職員ですから・・・」
私は誉めてあげます。
 
「はひと昔前まで小出川は汚かった・・・。
屹度住宅の雑俳水が放流されていたのでしょう。下水道の整備率が向上して川も綺麗になった。
加えて土の堤防が良い。
葦が自生して水を浄化もすれば、水鳥の住処にもなっている。
其処のオオバンはもう夫婦になって、子育ての準備に入っています。
オオバンは葦の若芽を食べて居るんですよ・・・」
 
市職員は・・・、「そんなこと私は仕事だから・・・、十分わかっていますよ・・・」
とも言わずに、ニコニコ笑いながら変な叔父さんの話し相手になってくれます。
 
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                            手前の赤いシャツ、白い帽子の人が茅ヶ崎市の環境課職員。
 
市職員は言います。
「今日はネズミの生態を確認しに来たんです」
言いながら、マジックハンドを少し持ち上げます。
ネズミの巣穴を調査しているのでしょう。
 
私は流域にチョウゲンボウ(隼の仲間)が住んでいることを話します。
「ネズミが増えれば農作物や堤防に穴を空けて、困るのでしょうが・・・、
私のようなバードウォッチャーにとっては、ネズミも大切な生物です。
チョウゲンボウの餌になっているんですから・・・、悪者扱いしないでください。
ネズミは人間と一緒に生きてきたんですから・・・。」
 
職員はまた笑ってくれました。
屹度、共感があったのでしょう。
環境課は人間の生活環境を守るのではなく、生物全般の生育環境を守って欲しいものですから。
特に日本固有の生物の種を守って欲しいものです。
 
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    手前の黒い水鳥がオオバンです。葦の若芽を白くて大きな嘴で引き抜いて食べています。
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                                          カルガモの夫婦に鴨も見えます。
 
寒川側の市民農園の上空高くから響いてきました。
今年初めて聞く、雲雀のさえずりです。
 
高く登って、さえずればチョウゲンボウや鳶など猛禽類の標的になる危険が増します。
 
例え命の危険があっても・・・・、
雲雀は大空に飛び立つ力を、美声を誇示して、お嫁さんをゲットしたいのでしょう。
 
人間とて同じです。
恋の勝者になるには、リスクを恐れてはなりません。
この週末には未だ花が残っていることでしょう。
小出川で雲雀を聴いて・・・・、恋の季節を実感して欲しいものです。
もう、おじいさんの私には無関係のような人生訓ですが・・・。
 
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  小出川の南岸の堤防に桜は植えられていて、北側(茅ヶ崎側)には何もありません。是非、両岸を桜で埋めて  関東一の早咲き桜の名所にして欲しいものです。茅ヶ崎の観光は海辺だけですが、相模野台地にも自然資  産や歴史資産が沢山あります。自然と歴史、両資産の調和を保ちながら活かして欲しいものです。
 
 
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校長先生が植えた杏

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昭和63年、私の住んでいる横浜・戸塚の倉田に「倉田小学校」ができました。
戸塚のベットタウン化が進んで、東戸塚小学校の生徒数が増えて、目一杯になりました。
そこで、倉田の南部に新しい小学校を建設したのでした。
今では、すぐ北に明治学院大学や舞岡里山公園がありますから、戸塚の文教ゾーンの感があります。
 
学校の敷地は小山(確かお滝山と呼んでいた。修験者の霊地でした)を切り開いて造成しました。
付近は緑が多いのですが、学校内には木が少ないようでした。
初代の校長先生(お名前は忘れました)は、ご自身のご判断で学校に植樹されました。
「生徒たちに”実のなる木”を見せたい」
考えられて、校長室の窓の外に「ざくろ」と「枇杷」、土手には「栗や柿」
そして南門の石段の脇に「杏(あんず)」を植えられました。
杏の木も二十歳を過ぎて、大きく育ちました。
 
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   倉田小学校からは西方が開けています。夕焼けと富士山がよく見晴らせます。
   3月20頃にはダイアモンド富士が見られたのですが、もう夕日は北丹沢山の山陰に落ちてゆきます。
 
倉田小学校の南門から少し西、小道の横に美しい馬頭観音が祀られています。
実は明治時代まで、倉田の農民はこの細道を登って丘陵の小道を磯子の海に出向いていたのでした。
馬には農作物を積んで、帰り馬には海産物を積んでいました。
そんな倉田の人を守るため、大事な馬を守るため・・・・・、馬頭観音が信じられていました。
 
明治維新になると、倉田の農民はいち早く酪農業に着手します。
活発な酪農業は戸塚は競馬場の誘致に成功します。
戸塚駅東口は競馬顧客のために新設されました。
東戸塚小学校や日立戸塚工場は前身が「戸塚競馬場」でした。
倉田には馬を世話する厩舎や騎手が寝起きする「乗馬クラブ」がありました。
今では酪農家は減ってしまい、倉田小学校の下に「小野ファーム」があるだけです。
小野ファームは経営上手で、
明治学院の南門近くに「横浜アイス工房」と言う名の「ジェラートのお店」を出店しています。
明治学院の生徒や近隣のマンションの住人がお得意さんで、
「へー!戸塚にも酪農家があるんだ!」驚いていますが・・・・、
何のことはない、倉田の農家は進歩的で、酪農や西洋野菜を最初に手がけたのでした。
そんな記憶を留めている馬頭観音様です。
 
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     細道の辻に祀られた馬頭観音像(文政6年1823)倉田で一番美しい石仏です。
     正面が倉田小学校。左に杏の花が見えます。
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         観音様の頭上に馬の顔をつけています。だから馬頭観音ですが、可愛すぎて兎の耳のようです。
 
校長先生が”実のなる木”を選択された理由は、
花が咲いて、実がなる・・・・、木の姿を子供たちに見て欲しい・・・、思ったのも一つ、
それ以上に、実のなる木には野鳥が集まるので、
植物と動物の共存共栄の姿を観察して欲しい・・・、思ったからでした。
私たちが団栗のなる木を使って、椎茸の原木栽培を見せているのも、そんな考えの一環です。
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   夕日を受ける杏の花。家々では夕餉の準備、もうじき点灯されるでしょう。
   向こうの竹藪の中に「実方塚」(藤原実方の墓)があります。
 
例年は卒業式の頃満開になる杏の花ですが、今年は遅れて春休みの中に満開になりました。
これじゃ、肝心の生徒たちに見てもらえないかも知れません。
 
校長先生の期待どうりに大樹の風格が出てきました。
四十雀やメジロが花蜜を吸いに集まっています。
吸うと言うより、花の蜜腺を啄んでいるようです。
子供がご飯をこぼす・・・、そんな状態です。
時に、花がまるごと落ちてしまいます。
石段は沢山の花が散ってしまっています。
 
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   杏の花に集まる四十雀。
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     花の蜜腺に嘴を押し込む、メジロ。
 
夕暮れが近づく中、私は杏の木の下に佇んで、梢を花を見上げます。
杏の小枝は真っ直ぐ上に上に伸びる特徴があるようです。
小枝にはビッシリと花が付いています。
梅より大きな、そして朱色の濃い花です。
何時しか夕日も沈んで、急に寒さが感じられるようになりました。
梢の先には夕月がかかりました。
今晩は三日月です。
 
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古代中国に医師に董奉(とうほう)という医者がいました。
貧しい患者からは治療費を取りません、 代わりに杏の実を植えさせ、杏が実ったらその実を売ってその代金で払えば良いですよ・・・、言い聞かせました。何時の日かその医者の辺りは杏の林になりました。」
そんな言い伝えがあります。杏林製薬のCMでも有名です。(原典は神仙伝)
 
杏の実は「唐桃」とも呼ばれます。
実は南高梅のような形で、大きさです。
何のことはない、南高梅は野梅に杏を掛け合わせた「交配種」です。
杏はジャムや干菓子にして食べられます。
信州千曲市の森村は「杏の里」として有名です。
父の従兄弟が森村の禅秀院という寺の住職でした。
 
そして、杏の種の髄を粉にして・・・・、杏仁豆腐(あんにんどうふ)にします。
中華料理のスイーツです。
杏の種には、「セキを鎮める」「痰を切る」を始め様々な薬効があるのです。
 
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   右上が小野ファーム。栗林の隅に杏が植えられています。一面に蕗の薹が頭をもたげていました。
 
”杏仁(きょうにん)”と言うと私は飛鳥仏の眼を思い出します。
日本に最初に伝わった仏像の「眼」です。
上瞼と下瞼の線が一重で、弧をを描き、大きな眼が拝む人を見据えます。
飛鳥仏の特徴は「杏仁形の眼」と「アルカイックスマイル(古拙な微笑)」と言われます。
仏像を作るに際し、仏像の眼を杏の種の形にして、その薬効に由来する神秘性を求めたのか、
それとも、超人間的な存在である仏への憧れが、たまたま杏の種のような形になったのか・・・、
解りません。
何れにしても、お釈迦様の姿を現した仏像が、釈迦如来の次に薬師如来になったのは、病気への恐怖、薬への期待でした。
仏像の眼を杏仁の形にしたのは、必然性があったのでしょう。
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         「杏仁形の眼」と評される法隆寺のご本尊釈迦三尊の中尊釈迦像。
           (朝日新聞、国宝の旅「法隆寺」から転写しました。
 
桃は人間を若返させます。
だから・・・、桃から生まれた桃太郎が語りつながれ・・・、
箸墓古墳からは数千の桃の種が出現しました。(箸墓は卑弥呼の古墳説もあります)
でも、桃以上に神秘的な存在が唐桃とも呼ばれる「杏」です。
古代から、人間の思いを「杏」は背負ってきました。
 
 
子供たちに、様々なことを伝える・・・、そんな役割を担った杏の花が見事に咲きました。
そろそろ、夕餉の時間です。
今日も、家内と二人きりです。
我が家への帰り道には小野ファームがあります。
この辺にも杏の林があります。
杏の花は闇の中で見ると、妖艶です。
学生時代、禅秀院での思い出を思い出しました。
でも、みんなあの世に逝ってしまいました。
大事な人も少なくなって・・・、精々奥方を大事にしなさい・・・、
故人の声が聞こえるようです。
風邪をひかないうちに、家路を急ぐ事にしましょう。
 
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小野ファームへの小道は落椿が・・・・。右に折れたら直に倉田小学校です。
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上倉田は何故か杏の花が多いのです。(この写真は昼間です)
 
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「柏尾川歳時記」を展示しています

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このブログを始めたきっかけは「メタボ対策」で、”しっかり歩きましょう”
そんな呼び掛けをしようとしたからでした。
会社を辞めて、独立して事業を始めました。
事業アイディアの中で、”励みに歩く易くする・・・・歩数計を作ってみたい”考えました。
「歩数計のデータをパソコンに移して、街道の上に表示してみましょう・・・」そんな呼び掛けをする為に、ブログをはじめました。
 
私は、一日1万歩歩くことを日課にしています。
短足ですから、1万歩は7キロ程度の距離になります。
江戸日本橋をスタートして、藤沢宿までは49キロですから、1週間で歩けます。
家に戻ったら、歩数計をUSBケーブルでパソコンに繋げます。
すると、東海道のマップが表示され、歩いた距離をマップの上で示されます。
”仮想上の旅”をしましょう・・・、そんな呼びかけで「仮想旅へ」と表題をつけました。
東海道、京都の三条大橋までは495キロですから、約70日で歩いた事になります。
 
しかし、事業は怖いもの、ある事故に見舞われて廃業してしまいました。
「USB歩数計」も頓挫してしまいました。
で、気がついたらブログが残っていました。
事業をやめたのだから・・・、ブログの目標も消えてしまった訳で・・・・・、辞めるのが普通ですが・・・。
「ボケ防止に書き続けるか・・・」
書き続けましたら・・・、もう1500も書いていました。
 
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                                     「柏尾川歳時記」の展示会場
 
これだけ、ブログを書いておくと、役立つこともあります。
私は町内の喫茶室に「倉田歳時記」を掲載しています。
町内の自然や人間の営みを、歳時記風に、写真を添えて紹介するコーナーです。
もう一つは、上倉田地域ケアプラザの廊下です。
その壁は、常時何かが展示され、来客を楽しませています。
多くが、利用する人の作品ですが・・・、
時折、空いてしまいます。
”空きそうになったら、私が穴埋めします。1ヶ月前に言ってください”伝えてあります。
今まで「倉田の樹木」「倉田の石仏」を展示しました。
何れも写真と、文章を、1枚のパネルにして、20枚程度掲示しました。
現在は「柏尾川歳時記」として、展示しています。
展示会場は柏尾川の堤防のすぐ横にあります。
ですから、来訪者には馴染みの深い川なのです。
多分、4月一杯は展示されている事でしょう。
 
以下が「柏尾川歳時記」の挨拶です。
ようやく春めいてきました。これからが、良い季節です。
ところで、戸塚の町は東海道の戸塚宿によって知られていますが、上倉田遺跡や原町遺跡があるように縄文時代からの歴史があります。
吉田町は「良い田」から、豊田村は「豊かな田」から、倉田は「税の米を蓄える倉があった」から・・・、
柏尾川に沿った穀倉地帯であった事が窺がえます。
太古から戸塚の町は柏尾川に沿って発展してきました。
近年、柏尾川の水も澄んで、川べりを散歩する人、野鳥や野草を観察する人、ジョギングする人も多くなってきました。
筆者もそんな柏尾川を愛する人の一人です。
そこで、歳時記風に柏尾川の魅力を紹介させていただきます。
見慣れた風景ですが、ジックリ観察すると改めて自然豊かな川である事がお解かりになる事でしょう。
 
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以下、数枚ブログ上で展示いたします。
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片栗の花のメッセージ

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4月1日、朝早くから「津久井町の城山」に片栗の花を見に出かけました。
前日、強い雨が降りましたし、今日は快晴です。
片栗の花は十分水を吸って、陽光の中、一斉に開花していると確信して、お出かけです。
 
城山片栗の里は、相模原市の橋本から、4キロほど津久井湖に向かって入った里山です。
今日は日曜日、たくさんの来客を予測して駐車場の整備員が数名出ています。
9時過ぎでしたがもうお客さんがカメラを構えて、夢中です。
片栗は一斉に花を開こう、花弁を持ち上げて、開こうと準備しています。
薄紫の傘を開こうと・・・、空に向けてかざしたような状態です。
鈴蘭に似た葉には雫が光っています。
片栗の傘が開くにはもう少し太陽が昇らないといけないようです。
時間つぶしに、お店で草餅を買って、お十時を食べようか・・・?
食いしん坊の私の提案です。
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                  片栗の雑木林から眺めると、マジカに橋本の住宅地が開けて見えます。
 
お日様が昇るにつれて、期待通りに片栗は花開きます。
此処は農家の裏山で、クヌギ・カシ・ナラ(何れもブナ科の広葉落葉樹)の林でした。
真ん中にお墓があります。
農家が遠いお寺と近くの裏山に二つのお墓を用意してきたのです。
クヌギの雑木林は、様々に活用してきました。
枝を打ち落として、炭を焼いたり、薪にしたり、椎茸の原木栽培に利用しました。
冬には、落ち葉を熊手で掻き集めて、窯にくべて、炊事の際には種火にしました。
ですから農家の納屋にはクヌギで作った薪、炭、枯葉(種火)が積み上げられていました。
クヌギ林は、薪炭の製造基地でした。
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   こんな釜戸や囲炉裏端の薪炭供給のため、雑木林が大切に手入れされていました。
   そんな環境が片栗を育てた・・・、考えられます。(相模原市文化財/旧青柳寺庫裡)
 
お百姓さんは、毎年、クヌギ林の下草を刈りました。下草が生えていると落ち葉が掻き集められないからです。
下草を刈り取り、落ち葉を掃く作業が、片栗の生育環境を用意しました。
この雑木林には4000平米の里山に30万株の片栗が自生しています。(パンフレットに記載あり)
先祖の霊は片栗の真ん中で、眠っておいでです。
きっと、「雑木林の使い方は少し変わってしまったが、子孫も大切にしているので今年も片栗が眺められる!」
と、満足していることでしょう。
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  片栗の脇には雪割草が咲いています。他にも大岩ウチワ、節分草、菊咲きイチゲ等が同時に咲いています。
 
片栗の栽培は大変に難しいようです。
東慶寺や光則寺(何れも鎌倉の花の寺)でさえ、片栗を植えては消えてしまっています。
舞岡公園の「片栗プロジェクト」も理事会で私が提案して「よし、やろう!」決まったのですが、
一向に根付きません。
現代風の「園芸感覚」では生育しない山野草なのです。
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片栗をインターネットで検索すると、次のように出てきます。
「片栗は可愛い、春を告げる山野草です。万葉集では”堅香子の花”として歌われています。」
そして、大伴家持の歌を載せています。
    もののふの八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の堅香子の花  (万葉集19-4143)
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                                水辺に咲いた片栗の花。家持の歌のイメージです。
ところが、万葉集で歌われた片栗はこの一首だけなのだそうです。(矢富巌夫著/万葉花)
こんなに可愛い、万葉集に相応しい花です。
何故、多くは歌われなかったのか?
疑問が湧いてきます。
私は以下のように考えています。
 
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万葉集の時代には片栗は殆ど咲いていなかった。
大伴家持が偶々国司になって越中に赴任したから・・・、
高岡の勝興寺の井戸端でこの花を見つけたのでした。
娘たちが井戸水を汲みにお寺の井戸に集まります。(昔から名水の湧く所にお寺が建ちました)
娘たちは楽しげに談笑しています。
そんな、娘たちの傍らで、笑っているように片栗が花が咲いていたのでしょう。
当時の雑木林は薪炭の供給基地では無かったので、片栗も自生してはいなかった・・・。
 
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   陽の光が強く差し込むようになると、花が開きます。タンポポなど多くの花が陽光性です。
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   30万株もあると、白い片栗も咲くようです。管理人の話では突然変異で白い片栗は10株ほどあるそうです。
 
江戸時代の中頃、日本の人口は爆発します。
1000万人が3000万人に急増します。
その為の、農業革命が行われます。
様々な農機具が開発され、牛馬を使って開墾し、溜池や治水工事が行われ、新田も開発されました。
農家の裏山も積極的に利用され、薪炭の供給等に活用しはじめました。
その結果、各地に「片栗の自生する里山」が増えました。
 
私は習性のように尋ねます。
「この片栗は何時頃まで遡れますか?」
すると、鎌倉古道の片栗は80年前、相模湖片栗の里は100年前まで、
この城山の片栗は200年前までは遡れるそうです。
もっと、昔から咲いていたのかも知れませんが・・・、確実な部分の歴史は浅いのです。
 
ところが、昭和30年代から里山は見向かれなくなってしまいました。
農家の台所も薪を燃やす竈からガスコンロが置かれるようになりました。
何処の家にも祀られていた秋葉様(火の神様)は姿を消しました。
里山には下草が生い茂り始めて・・・・・、カタクリは姿を消してしまいました。
 
でも、1っ箇所だけ残った場所がありました。
それは、先祖のお墓があった雑木林でした。
お墓参りのついでに、里山の下草を刈り続けていたのです。
今、神奈川県下の片栗の自生地は何れもお墓や神が祀られた場所です。
この「城山片栗の里」も「相模湖片栗の里」も墓地ですし・・・、
私の案内した鎌倉古道の片栗も、農家の屋敷神様の祭壇でありました。
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     山の片栗は、雑木林に墓地があったので、人が下草を刈ったので・・・、現在まで保存されてきました。
 
人間が積極的に山に手を加えていた時代には・・・、片栗も山百合も咲いていました。
赤松林に入れば松茸が生えているし、黒松林には松露が採れました。
人間が里山から遠ざかった結果、これらの生物は姿を消してしまいました。
残念なことです。
「人間と自然の望ましい関係」が人間の態度によって断たれてしまったのです。
 
片栗は可愛い表情で・・・「もう、わかっていますね、私たちの生育できる環境を取り戻して下さい」
訴えているようです。
キラ!っと光る雫は、片栗の涙のようです。
 
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お寺の庫裡の再利用

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30日の土曜日は春の嵐でした。
今日(4月3日)も台風並みの暴風が吹くそうです。
「春に三日三晩の晴れは無し」と言いますが、咲き始めた桜のことが気になります。
我が家も、これで梅も、白木蓮も見おさめになることでしょう。
 
31日、私達夫婦は城山で片栗の花を堪能しました。
相模川の川原に出て、相模川自然の村公園に向かいます。
道路脇には道祖神や茅葺き屋根が見られます。
目的の自然の村公園には、江戸時代の民家が復元・保存されているのです。
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   津久井湖に向かう道路沿いの民家。立派な茅葺き屋根が目を引きます。正面の茅葺きの裂け目は屋根裏   部屋の窓があったのでしょう。屋根裏でお蚕が育てられていたものと思います。
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    相模川自然の村入り口の双体道祖神、右は庚申塔、左は馬獣供養塔と刻まれていました。
    双体道祖神は、相模の西部では”双体地蔵尊”の形が多いのですが、相模川上流はこのような”双体神     像”が目立ちます。神像、地蔵尊、姿は違いますが、仲良く並んで、穏やかな表情は共通しています。
 
昨日(30日)の嵐のあとです、相模川は水量も嵩んで勢い良く流れています。
河原ではキャンプをしている家族もいますが、今日は水遊びは危険です。
河津桜を見ながら、テントを張って、敷物を広げて、お弁当を食べています。
 
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               民家(旧青柳寺庫裡)から眺めた相模川。此処が相模国のまほろばです。
 
相模川を見下ろす位置に民家が建っています。
私にとっては懐かさがこみ上げる建物です。
そう、この民家はお百姓の住まいではなく、お寺(旧日蓮宗方運山青柳寺)の庫裏なのです。
私の生家もお寺ですから、庫裏で生まれて、育ちました。
庭の石碑には八幡城太郎氏(俳人、本名は住職神部宣要)が
境川に近い上鶴間にある青柳寺の庫裏を”英断”して此処に移転、修復した・・・、記されています。
鶴間でしたら・・・・、大和市です。
大和も町田も飛ばして、相模原市に寄贈したのは・・・・、何らかの「英断」があったのでしょう。
石碑の横には句碑があります。
   釈迦堂のわたりの冷えや涅槃西風
 
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    民家(旧青柳寺庫裡)全景。乳母車のところが入り口です。
       左半分が土間、縁側のある部分(右半分)が座敷です。
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                  旧青柳寺庫裡の平面図
 
春一番が吹いても、冬の季節風の名残風が吹きます。なごりの風は吹きます。
 「涅槃西風/ねはんにし」と呼びます。
お釈迦様が亡くなられた(涅槃)したのは陰暦2月15日。
西行法師が「願はくは花のもとにて春死なむそ・・・」と詠んだ通りに亡くなられたのも、
春の彼岸の頃でした。
ご住職の八幡城太郎氏はお勤め(お経)で庫裏を出て、釈迦堂に向かったのでしょう。
 
素足に渡り廊下の冷たさがしみ入ります。
折から、北西の風が吹き込んできます。
思わず「おお!寒」法衣の首筋をつぼねます。
 
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                             八幡城太郎さんの涅槃西風の句碑
 
 
庫裏(庫裡)はお寺に住む家族の住居ですが・・・、それ以上の役割があります。
それは、お寺に登った檀信徒の方にお茶を勧め、食事をしていただき・・・・・、
お茶屋のような役割です。
ですから、広く大きな土間が特徴です。
その土間には大きな釜戸が設えてあり、沢山の参詣人にお茶や食事を用意します。
 
土間には秋葉様(火の神様)が祀られ、囲炉裏の切られた板間には大黒様が祀られていました。
ですから、台所を差配するお寺の奥さんを「大黒様」と呼びました。
土間は「お客さんに喜んでもらう」、そんな場所なのでした。
ですから、居酒屋の「土間土間」はお寺の関係者の創業と想像します。
 
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玄関は特にありません。
お客様は土間に入ってきて「こんにちわ、大黒さん居られます!」
大声をかけます。
「はいはい、良く来られました!」お寺の奥さんが顔を出します。
建物の間取りは、田の字形です。
建物の間取りは、田の字形で、左半分が土間と板間(台所・居間)で、右半分の表がお座敷です。
ここで、法事のあとの精進落としや、お稽古をします。
 
私の生家でも、お習字、お裁縫、生け花・・・・・、加えて週末には碁会場になっていました。
お蔭で、今でも私は「先生のお孫さん」と呼ばれる事があります。
その座敷の裏側がお寺家族の住処でした。
一番北側の、東司(トイレ)に近い場所でした。
大きな掘ごたつがあって、家族全員が集まりました。
そこで、勉強していました。
夏涼しく、冬暖かいのは茅葺きの効果でした。
お寺に登ってくる人は、本堂は誉めなくても、庫裏はほめあげてくれました。
そんな茅葺きもトタン板で覆ってしまいました。
残念ですが、素材の葦(茅)が取れないのでは致し方ありません。
 
この庫裏は茅葺きですし、長所が昔のまま残されています。
相模国の住人には誇らしい建物です。
相模国の民家の特徴は川崎の民家園「北側家住宅」を素材に下記に書きました。
 
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     庫裡の主座敷。法事のあとの食事等おもてなし会場でした。
     お裁縫やお習字等、寺小屋にも使われました。畳の敷き方もその利用方法を示唆しています。
 
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                                            八幡城太郎氏の著作
 
 
家内が、この北東の小部屋で、数冊の書物を見つけました。
筆者はこの庫裏の住人だった俳人の八幡城太郎氏です。
同氏の俳句集が中心です。
筆者は相模原市で地域の文学活動のまとめ役をしたのでした。
明治45年(1912)相模原市で生まれます。
早稲田大学卒業目前に左翼活動で大学を追われてしまいます。
やむなく横浜で彷徨生活をしていたところ、兄の死により青柳寺住職を継ぎます。(昭和18年)
そして、住職の傍ら地域で文学活動のまとめ役を担います。
相模原近辺には沢山の文学者が居ました。
苦労人でお寺の住職で・・・・・、庫裏を相模原市に寄贈して・・・、
まとめ役には適任だったのでしょう。(昭和60年没)
(八木重吉、乾直惠、川田総七、石川桂郎、野田宇太郎、白洲正子等多くの文学者が住んでいました)
 
表座敷には生花がいけてありました。
薮椿をはじめ自生した花ばかりで活けてありました。
その横には俳句が色紙に書かれています。
 
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私は片栗の絵に惹かれて、一句を推薦します。
  啓蟄(けいちつ)の ミミズに 及ぶ 放射線    (行江)
 
作者は私の実母と似た名前で居られます。
放射線とはセシウム(放射能)のことでしょう。
今年の2月6日の新聞に報道されました。
福島の川内村で2万ベクレルの放射能セシウムがミミズの体内から確認されたのでした。
森林総合研究所(茨城県つくば市)の長谷川元洋主任研究員(土壌動物学)の調査結果が、日本中を驚かせました。
 
ミミズは枯葉等を食べて肥えた土壌を作る貴重な生物です。
お百姓は畑を耕します。
その時、ミミズが這い出してくれば安心です。
良い土が出来ているので、良い野菜が出来ます。
鳥やモグラは良く知っていて、ミミズのいる畑に寄ってきます。
 
魚や野鳥やモグラ等はミミズを食べます。
食物連鎖のスタートがミミズです。
そのミミズが基準(100べクレム/1キロ)の200倍もの放射能に汚染されていたのです。
作者の驚愕や恐れ・・・・・、それは日本人がみんな抱いたものでした。
今朝の新聞では福島に限らず、茨城、千葉までもで、筍の出荷が自粛されました。
新基準値の100べクレムを超えていたのでしょう。
以前の基準値500べクレムも根拠不明でしたが、4月1日以降は100べクレム・・・、
コッチはもっと根拠不明です。
これから、その根拠が問われるでしょう。
政府には国民の健康を守る責任があります。
基準値には、しっかりした(科学的な)根拠が求められます。
自然界でも放射能は存在するのです。
 
「大地が大切だ・・・!」
これは日本人の常識でした。
だから、最も短な仏様は「地蔵菩薩」でありました。
大地を汚せば、自分自身にしっぺ返しが及ぶのです。
 
屹度あの世の八幡城太郎氏もこの俳句の通りだ・・・、誉めていることでしょう。
 
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   俳句サークルの展示も為されています。
   色紙の描かれた絵にも感心します。
 
 
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「ハックルベリー」の「狐の嫁入り」

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城山の片栗を見て、お寺の庫裡を見て、少し遅いランチになりました。
かねて、気になっていたレストラン「ハックルベリー」に向かいました。
ハックルベリーは津久井湖に近い台地の上にあります。
特徴のある、大きな、スイスにでもありそうな建物です。
白い壁ですが、窓の下は丸太を組んだログハウスです。
柱も総て丸太で、形は自然のままです。
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   「ハックルベリー」の入り口。ドアも窓も木製で、手つくりのようです。
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       和洋の民芸品、調理道具が置かれたお店の入り口。自然木を組み合わせたドアが圧巻です。
「手作りシチュウの店」看板には書いてありますが・・・・、
ピザも、パイエリアも、オムライスも作ってくれます。
案内には「シチューと冒険を売る店」、と書いています。
創業22年になったそうですが、お店も建物も清潔でよく手入れがなされていますし、調度も凝っています。
ドアも窓もランプも手作りのようです。
お店のホームページには、建物はオーナーの手作りで、5年も要した・・・、書いてあります。
「冒険を売る・・・」とは、オーナーの冒険を見て欲しい・・・、そんな思いなのでしょう。
 
 
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                                       店内に置かれている「寄せ書きノート」
 
室内にはピアノがあって、白壁には沢山の絵が飾られています。
猫のおどけた表情が目立ちます。
ピエロ風のライオンさんもいます。
店員に聞けば、オーナーの友人が描いたものだそうです。
そう言われてみると、レジの横に数冊の絵本が置かれています。
私はその中から一冊「狐の嫁入り」を取り出しました。
 
絵本の作家は「しみずはつよ」さん。
山口県下松市のご出身で、今は神奈川県にお住まいのようです。
お話は下松市の法静寺に伝わります。
そして、現在も「狐の嫁入り道中」が盛んに行われているそうです。
 
下松市の法静寺にある花岡福徳稲荷社の行事です。
毎年11月3日に稲穂祭が開かれ、キツネの嫁入り行列が街中を練り歩くそうです。
江戸時代のことでした。法静寺の和尚さんが大事なお数珠をなくしてしまいます。(大変呑気な和尚さんです)
すると、ある晩夢を見ます。
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夢の中には真っ白は夫婦の狐が現れます。(真っ白かったので白無垢の嫁入り姿を連想したのでしょう)
夫婦の狐は和尚さんに訴えます。
「私たちは森に長く住む狐です。もうじき、命が絶えると思います。もう、畜生道に生まれ変わるのは懲りごりです。来世は人間に生まれ変わりたいのです。願いを聞き入れてくれれば、亡くされたお数珠を探して差し上げます。
和尚さんは森に出かけて見ました。
真っ白い二匹の狐の亡骸を見つけました。その傍らにはお数珠もありました。
和尚さんは二匹を手厚く葬って差し上げました。
その後この街では白ギツネに守られて、火事等の災難に合うこともなくなりました。
その故事にちなんで「狐の嫁入り道中」が始まりました。
こんな、故事をしばたはつよさんの絵本は子供に読み聞かせてあげています。
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       しみずはつよ氏が書かれた「狐の嫁入り」。同氏は「ボタンの旅」の作品もあります。
 
私は、オムライス(980円)をいただきました。
フワフワのオムレツの上にビーフシチュウのスープが乗っていました。
「手作り」は建物も、室内調度も・・・、そして肝心のお料理も・・・、大事なコンセプトです。
”ハックルベリーの冒険”は子供も大人も共通している・・・・・、人間性の追求でしょう。
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                        オムライスは980円です。日比谷の松本楼のようなお味です。
 
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   (上下を含めて5枚のしみずはつよさんの絵が楽しませてくれます)
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甲州街道「小原宿」の粋

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竹下登内閣(1988~1989)は二つの業績を残しました。
第一が「消費税導入」ですが、この不評で短命に終わりました。
でも、当時は3%、現在は10%案で紛糾しています。
しかし、歳出を補うためには25%にしないと収支は均衡しないと言われています。
この四半世紀の間に、慢性的な財政欠陥国家にしてしまった責任は誰にあるのでしょうか?
 
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   今日の話題は甲州街道の小原宿です。右側は旅籠の「小松屋」です。
   向こうの山が小仏峠、右の道を降ると相模湖に出られます。
 
もうひとつ、竹下内閣の仕事は「ふるさと創世事業」でした。
全国の市町村に1億円を配りました。
「注文はふるさとの魅力作りに使って欲しい、そのほかに注文はつけない!」
自民党の票田農村部・地方が喜ぶ”大判振る舞い”でした。
 
でも、飲んで食ってしまった訳ではありません。
植樹や金塊を買ったり・・・、多くは建築物(箱モノ)に投資されました。
甲州街道の小原町では・・・・、「おらが村の宿場の再現」に投資しました。
 
小原宿は日本橋(甲州街道)を発って、15里(60キロ超)9番目の宿場町でした。
最初の難関「小仏峠」を超えた先の宿場でした。
宿場は旅篭が7軒、本陣が一つ、こじんまりとしています。
明治23年、火災によって町は略全焼してしまいましたが、
本陣だけは焼けませんでした。
本陣だけが庭が広く隣と離れていたので、類焼を免れたのでしょう。
加えて、急速な都市化も小仏峠が防いでいました。
そこで、本陣を買取、東京寄りに「小原の郷」という名の資料館を建て、
大名行列(11月3日)を始めました。
その為の籠や衣装も用意したことでしょう。
(国の創世資金だけで全整備を完了したかは確認していませんが、整備の起爆剤になったことは事実です)
 
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  ふるさと創生事業資金で地元が買い取った「小原宿本陣(旧清水家住宅)。
  左手玄関が大名の入り口です。 右側が家人が使うトンボ口です。土間に続きます。
 
お蔭で神奈川県には東海道、甲州街道合計26もの本陣が在りましたが、
此処小原宿だけが本陣の残る宿場になりました。
改めて、宿場や本陣の作りや役割を教えられます。
 
本陣は参勤交代のお大名が泊まる宿でした。
と言っても、使ったのは甲府とその先の伊那のお大名(高島藩、高遠藩、飯田藩)だけです。
譜代大名といえども小藩でした。
一般の旅人は「富士山講」や「身延講」の信者が大半でした。
ですから、こじんまりとした宿場施設で十分でした。
甲州街道(国道20号)に面して250メーとの間にまとまっています。
 
小原宿の本陣は名主であり問屋でもあった旧清水家の住宅でありました。
甲州街道に面して門が二つあります。
一つはゴツゴツした石が敷いてあります。
この門を潜って正面が玄関です。
お大名はこの玄関を登って、「控えの間」「中の間」を通って「上段の間」に入ります。
一般の人は北側の門を通って、土間に入ります。
押戸一枚の簡素な入り口です。
横浜の農家では、お客様を迎え玄関の他にこのような勝手口のような入り口を用意していました。
これを「トンボ口」と呼びました。
トンボが良く入ってくるからでしょう。
また、トンボのように軽い人物が出入りするからでしょう。
 
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    本陣ゾーン。右奥が「上段の間」、正面が「中の間」、左手に「控えの間」があって玄関に面します。
    どの部屋からも遠州風の築山が眺められます。清水家は庭の向こうに引っ越しました。
 
名主であるという事は行政もし、裁判も行いました。
正面玄関の石敷も、庭もお白州の役割を担っていたのでしょう。
 
本陣の右半分が清水家の生活空間でした。
土間に続いて勝手口がありますが、ここに二階に上る階段があります。
屋根裏部屋があって、ここで養蚕が営まれていたのでした。
江戸時代中期の建物でしたが、養蚕事業などで改造が随所に為されています。
加えて、茅葺き屋根をトタン板で覆ってしまいました。
歴史価値はあっても、国の重要文化財には指定されていません。(神奈川県重要文化財)
 
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   此方が名主だった清水家の生活ゾーン。手前が囲炉裏を切った勝手、左奥に炊事場があり、右奥が土間    に続いています。右下駄箱の上には二階の屋根裏部屋に続く階段があります。
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   二階の屋根裏部屋、現在は調度品や農機具の展示場になっていますが、養蚕場になっていました。
 
町は”粋”というか雅な感覚で満ちています。
その多くが明治時代の産物ののようです。
屋号のついた旅籠の手摺には鶴・亀等が透かし彫りされていますし、
藍染の袢纏(防寒着)もマントのようです。
鶴や亀の模様が染め抜かれ、刺し子されています。(後掲)
端午の節句に使う「祝いの幟」には木曽義仲・巴御前が染め抜かれています。
どれも、これも見飽きませんし、保存状態も見事です。
明治時代には未だ江戸の職人技が残っていたのです。
 
これらの”雅”を支えたのは宿場経済ではなく、明治に栄えた養蚕事業でしょう。
本陣も旅篭も屋根裏を改造して、養蚕事業に精を出しました。
できた繭は相模川を下って、横浜の製糸工場に運ばれ、生糸になって横浜港から輸出されてゆきました。
 
小原宿の住民が自慢するだけの価値がある、職人の技です。
相模湖ICから遠くありません、是非お寄りください。
 
 
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   旅籠は2階床レベルが出っ張った「出桁造り」です。出桁の下は雨よけになります。
   その上、手すりのには粋な透かし彫りがありました。写真は鶴と千鳥ですが、鶴もありました。
 
 
 
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        藍染に鶴・松を染め抜いた袢纏。マントのように夜着(防寒着)として使われたのでしょう。
 
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   亀を鶴のようにデザインした暖簾。
   ここの藍染は島根産と書かれていましたので、「弓ヶ浜絣」「弓ヶ浜藍染」でしょうか?
 
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                             これも暖簾です。波間に月(うさぎ)のデザインです。
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         これは節句で飾る幟でしょう。絵柄は木曽義仲・巴御前です。是等4枚は何れも「小原郷資料館」
         に展示されていました。(無料)
 
今8時、ようやく、ブログも書き終えました。
今日は小学校の入学式です。
礼服に着替えてお祝いに参列します。
桜も咲き始めて・・・、楽しみな日です。
 
 
 
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笑顔一杯の入学式(東戸塚小学校)

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4月5日は横浜では市立小学校で一斉に入学式が行われました。
私の住む町内でも手分けして、お祝い式に参列しました。
私は戸塚駅の東口から近い「東戸塚小学校」です。
校庭の桜も今日を待って花を開きました。
桜の花は入学式を祝うもの、今年くらいに咲くのが季節感にピッタリです。
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桜の咲く校庭で、記念撮影。右手が入学式の行われた体育館。(東戸塚小学校)
 
入学する子供は173名です、多分今年も横浜の小学校では最大数でしょう。
ご父兄はその倍も集まっているでしょうか?
お母さんが居らしているのは昔も今も普通ですが、お父さんも来られています。
お父さんはビデオやカメラの撮影係・・・、愛児の入学で満面の嬉しさです。
殆どがスーツですが、色留袖のお母様も目立ちます。
 
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             新入学の一年生のご父兄。入学式後のPTA説明会で・・・。
             観覧席には上級生の笑顔の絵が並んでいました。
 
会場は体育館、二年生のお歌に合わせて一年一組の生徒さんが入場します。
拍手が一段と高まりました。
一寸、会場がどよめきました。
背のスラット伸びた金髪の少女でしたから・・・。
戸塚は工場も多いので、黒髪、黒目の外国人は多く学んでいます。
金髪少女も入って、国際的になりました。
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     新一年生、四季の前半は正しく座って、耳目を先生に向けていますが・・・・。
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  一年生をお歌を歌って迎え入れる二年生。ご父兄は「うちの子も一年経つとあんなにしっかりするんだ!」
  期待が膨らみます。
 
私は、何時もは来賓席の頭の方に座るのですが、今日はその席を幼稚園の先生方に譲って、後列に並びます。一年生への心使いが其処此処に見られます。
そう、入学式は一時間、一年生には少し長すぎるのです。
ずっと、背筋を伸ばして、両手を膝の上に置いて、耳や目を先生に向けているのは・・・、難しいのです。
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    上級生は体育館の観覧席から・・・お祝いのメッセージを伝えています。
    ”笑顔一杯で・・・一緒に遊んで、学ぼうね!”」
 
体育館にはご両親、先生、二年生、私達来賓・・・・、沢山の笑顔で満たされています。
体育館の観覧席には上級生の笑顔も並んでいました。
先生にお聞きすれば、1年から三年までの各クラスで、自己紹介を兼ねて自分自身の絵を描いたのでした。
それを模造紙に寄せ書き風に貼って、体育館の観覧席のフェンスにかけました。
”ご入学おめでとう、一緒に遊ぼうね!”
メッセージが、お顔に表現されました。
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私が感心してカメラのレンズを向けていると「おやじの会」の会長が声をかけてくれました。
「会長もお孫さんが新入学ですか?」
「そう、もうじきね。でも、名古屋の方に住んでいるんだよ・・・」
少し、残念な気もしますが・・・・、仕方ありません。
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入学式が終われば、クラス別の記念写真の撮影です。
これがまた大変です。
「この真ん中の席は大きな体の校長先生の席なんだよ、譲ってあげてね。
後ろの席の人は校長先生の陰になるから・・・少し横に動いてね・・・・。」
大きな体の校長先生は少し体を萎めて、お座りです。
 
お母さん、お父さんの安堵が会場に溢れます。
「担任の先生、優しそうで良かった!」
「うちの担任は、NHKの体操のお兄さんのようで・・・、楽しみだわ!」
お母さんのお顔です。
「そして、この校長先生のリーダーシップなら・・・、任せて安心だわ!」
ご父兄の偽らざる第一印象でしょう。
 
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    大笑いの記念写真撮影風景。 手前は整列して校長先生らを迎えるクラス。 向こうで記念撮影中。
    背景に咲きだした桜が飾ります。
 
東戸塚小学校は「笑顔一杯の良い学校」になりました。
今年も、様々な催しが計画されています。
私達地域も子供たちを育てる・・・、微力でも出来ることは最大限尽力する計画です。
 
新一年生、お父さんお母さん、おめでとうございました。
さあ、明日朝から登下校の交通指導に、生徒の見守りに・・・、地域は参加します。
 
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                 撮影しているのは、プロのカメラマンの他、ご父兄も夢中です。
 
 
 
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日本海軍の国際感覚(平塚火薬廠クラブ)

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米軍の基地問題、というと沖縄だけの問題のように思いますが、神奈川県にも沢山の基地があるものです。
厚木基地が返還されれば、地域の発展と安全安心に寄与するでしょうし、横須賀やその後背地逗子の爆薬庫やも、横浜港の真ん中にも米軍専用の埠頭があって、座間基地への物資の積み上げに専有させています。
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   平塚八幡山公園の洋館(旧海軍水交社クラブ)。
   雨が降り出したので帰りましょう・・・、お母さんが言いますが、砂場でもっと遊びたい・・・・、
   駄々をこねる子供です。ブルーシートは花見の場所取りです。
 
国道1号線を下って、相模川を越えると茅ヶ崎市から平塚市に入ります。
右に折れれば厚木に向かいます。その交差点近くに緑の森があります。
平塚八幡社の森「八幡山」です。
その西半分が「八幡山公園」になっています。
公園には瀟洒で、美しい洋館が建っています。
明治時代に流行った「下見板コロニアル建築※1」です。
 
下見板コロニアル建築では札幌の時計台や松本の開智学校が有名ですが、
どれも板壁を白いペンキで塗っています。
窓枠や柱を深い緑色で塗ったものもありますが、総じて白色が基調です。
アジアは緑が深いですし、日本の建築は渋い色です。
ですから、白い建物はそれだけで目立ったことでしょう。
でも、八幡山公園の洋館は壁の色がピンクなのです。
そのままで、東京ディズニーランドに置いても、違和感が無い、斬新で瀟洒な建物です。
屋根は落ち着いた緑色で、シンボルの尖塔の屋根は丸味があります。
誰が、どんな時に使ったのだろうか?
想像が膨らみます。
   ※1 英国人が植民地で建築した、暑さ対策住宅。製材技術を開発、大量に薄い板を挽く事が可能になりま
      した。薄い板を壁にした「下見板」と、広いベランダ(風を通し、日陰を作る)」が特徴の下見板コロニアル      建築が東アジアに建てられました。日本に多くが残されています。日本近代建築の一ジャンルです。
   
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   建物全景、左に玄関があります。左手に応接室、続いて右手にホールが続きます。
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今日は花の金曜日です。
八幡山公園にはブルーシートがあっちこっちに張られています。
そう、今晩花見をしよう・・・、その為の場所取りです。
中には、場所の先取りを監視するため、人が座っています。
左手に缶ビール、右手に文庫本を持っています。
午後になって日が曇って、雨も降ってきました。
女子従業員が傘を持ってきました。
「心配だが・・・、夜桜の頃には晴れるから・・・・頑張ってください、課長さん・・・・!」
そんな雰囲気です。
傘を届けて職場に戻って行きました。
 
そう、今晩は15夜の満月です。
花見と月見と同時に鑑賞出来ます。
課長(そんな年齢)の苦労も報われる事でしょう。
 
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    他社より広い2枚のシートを広げて夜桜見物の場所取りをする中年のオジサマ。多分課長年齢でしょう。
    私の時代とちがって、課長は大変です。
 
明治37年日本は日露戦争に辛うじて勝利します。
NHKの坂の上の雲でも放映されたように、英米に借款をして、爆弾を買って・・・・、
乃木希典に「戦うには弾がない・・・」嘆かせました。
 
政府は明治38年日本火薬製造株式会社(明治40年日本爆発物製造株式会社と改称)を設立します。
建築したのが平塚の幕府のご料所跡でした。(126ha)
東海道線が開通し(明治20年)原材料の輸送に便利だったこと、軍都横須賀に近いこと、
相模川の良質な地下水が汲み上げられたこと・・・・、様々な要因が国産の無煙火薬の製造に味方しました。
火薬工場は日英同盟に従って、日本海軍とアームストロング社、ノーベル社等の合弁事業としてスタートしました。
 
このコロニアル建築は英国人の執務室として建てられた・・・、という説もあるようです。
日本海軍と英国技師との会議室、交流室だったのかもしれません。
大正8年(1919)、日本海軍が全施設を買収し、4月、海軍火薬廠として発足します。
火薬廠の発足後は、本建物は高等官クラブとして使用されました。
海軍の高官がこのクラブで交友したのでしょう。
 
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     火薬廠クラブのホール。グランドピアノが置かれて、ダンスに興じた事もあったでしょう。
     臙脂の床、白い壁、緑の窓枠とカーテン、実にオシャレです。
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       玄関右手の応接室。
 
下見板コロニアル建築は、関東大震災にも、戦争の空襲にも耐えて存続します。
昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠が廃廠となって、その使命を終え、一時は米軍に接収されましたが、
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、本建物を含む一部敷地の払い下げを受け、主に応接室や会議室として使用されました。
平成16年、本建物は横浜ゴム株式会社より平塚市へ無償贈与され、八幡山公園に移築され、
保存のため復元されました。(国の重要文化財)
 
私は管理人に聞いてみました。
「ピンク色が印象的ですが、当初からピンクだったのですか?」
管理人は答えます。
「当初の姿から変更した部分は壁に架かっていますから・・・、読んでください。」
重要文化財だから、適当に色を変える訳はない! 言いたげです。
 
私は銅板に刻まれた案内を読みます。
材木など傷んだ部分は新材に交換しましたが、材料に変更番号を刻印した・・・、案内しています。
少なくとも、日本海軍が専有した時には現状の「ピンクの壁に緑色の屋根」だったのでしょう。
 
軍人さんにはハイカラ過ぎるような気がします。
でも、日本海軍はセーラー服を採用し、カレーライスを食べ・・・・、
合理的で自由な発想に富んでいたのでしょう。
だから、青年将校やその奥さんが・・・、このお洒落なクラブがお気に入りだったのでしょう。
 
私は時々YOU-TUBEで海軍の軍歌を聞きます。
歴史の悲惨を忘れれば・・・、素直に良い歌があります。
「軍艦マーチ」は世界三大マーチの一つです。
パチンコ屋の販促行進曲ではありません。
 
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           窓からはお隣の平塚八幡宮の緑と桜が眺められます。
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   下見板コロニアル建築に必須の広いベランダ。ベランダに出て風を感じながら読書や喫茶を楽しみました。 
 
 
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桜の三渓園

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待望の桜が咲き始めた・・・・、途端にもう満開です。
今日も快晴、何処に行こうか、迷ってしまいます。
浜っ子はこんな時、本牧の三渓園に出かけます。
原三渓が横浜港を見下ろす山の手裏、本牧の漁村を買い取って自邸を建築しました。
庭に金にまかせて全国から美術品を掻き集めたものでした。
横浜や神奈川オリジナルは、東慶寺本堂だけです。
 
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     満開の桜が大池を囲んでいます。東の高台に三重塔がそびえています。
 
三渓園への道は桜のトンネルです。
今朝(4月7日)はもう満開です。
二階建てバスが桜の梢を掠めて走ってゆきます。
桜が散ってしまします。
屹度、バスの車内では歓声が上がっていることでしょう。
 
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      この道の突き当りが三渓園です。4月7日(土)は駐車場はバス優先で混雑していました。
 
大池の周りを桜が囲っています。
池の水面が光っています。
沢山いた水鳥も大半は北国に帰ってしまったようです。
気の早いツバメが水面スレスレに飛んでゆきます。
「貴方たちの季節はもうお終いよ、早くお帰り!」
言い放っているようです。
今いる水鳥は、シベリアに帰ることは止めて、この大池で一生を過ごす気なのでしょうか?
 
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                    三渓園の臨春閣。こちらは有田川から移築したものです。
 
大池の向こうに、三渓園のランドマーク「三重塔」が聳えています。
目線を下げれば、池の端にお寺の甍が見渡せます。
どちらも京都府木津川町にあった燈明寺の三重塔であり、本堂でした。
木津川は大和と山城の境になっている川でした。
月ヶ瀬や柳生を流れ、笠置を超えて加茂町に入ります。
東に浄瑠璃寺や岩船山、西に海住山寺等が見下ろします。
そんな寺寺の中に燈明寺がありました。
建立は聖武天皇の勅願により、行基が開創したと言われます。
建武の争乱で廃寺になってしまいましたが、室町時代(1455)に天台宗の忍禅が復興したと伝えられます。
現在三渓園に移された三重塔、本堂(何れも重要文化財)はこの時に建築されたものだそうです。
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近代に入って寺領が散逸、廃仏毀釈によって傷み、廃寺になってしまいました。
廃寺を川合芳太郎が買収、三重塔は大正3年(1914)に原三渓に転売されました。
本堂は1987年(昭和62年)移築工事を竣工しました。
廃寺になった燈明寺には、鎮守であった御霊神社(社殿は重要文化財)だけが残されています。
今頃は、加茂町の燈明寺跡のあたりも満開の桜で飾られていることでしょう。
 
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                             旧燈明寺本堂に祀られた十一面観音像。
 
南都が何度も焼け落ちました。
その度ごとに、次の権力者は復興建築に尽力します。
頼朝も家康も・・・・、大仏殿の再建を果たします。
その度に大木が切り出されて、木津川を筏に組んで流されて来た事でしょう。
だから・・・・、木津川の名があるのでしょう。(津とは渡し場の意味です)
 
お寺も人間と同じ、生まれた土地で過ごすのが幸いです。
山川の美しい山里を離れて、都会の見世物になっているのは可哀想な気もしますし、
木津川を見下ろす場所に戻したら・・・、もっと美しかろう・・・、思ったりします。
 
でも、横浜にあるので、沢山の人が見つめます。
そして、ランドマークの役割を果たします。
信仰とはかけ離れてしまいましたが・・・、
それもそれで、致し方ない事でしょう。
第一に私自身も、燈明寺から移築された姿を見て・・・、喜んでいる受益者なのですから。
せめて、大池越しに三重塔やその麓の満開の桜を見て・・・、
今年も春が巡ってきた・・・・・、事実に感謝致しましょう。
もしも、大津波が来たら・・・・、三重塔は大丈夫かしら・・・、でも大半の堂塔は流されてしまうことでしょう。
平和に桜を眺められる事に感謝しましょう。
イメージ 6
   手前は枯れた蓮、破蓮も冬景色で風情がありましたが、もう芽吹いて直に葉を茂らせる事でしょう。
 
 
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