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赤レンガ倉庫の”オクトーバーフェアー”

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慶応大学日本文化研究会のセミナー会場で、挨拶しました。
”私は今日、午前中は横浜の赤レンガ倉庫で行われている「オクトーバー・フェスト」を見てきました。
5月なのにオクトーバー・フェストと言うのは、ビール祭りで盛り上げたい・・・、本音でしょう。
横浜は日本で最初にビールが醸造され、ビアーホールも最初に出来ました・・・・”
 
挨拶したところ、札幌ビールの社外役員をされているT氏から、異論が挟まれました。
”日本で最初にビールを醸造したのには・・・、諸説あるようですよ!”
 
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    2棟の赤レンガ倉庫の周囲はビアホール(ガーデン)になって、午前中から大盛況です。
 
横浜市民は「横浜こそビール発祥の地」だから・・・、
GWにはビール祭りで、仲間とワイワイ・ガヤガヤ盛り上げたいもんだ・・・・、
そんな、「町おこし」の企画なのでしょう。
今年は赤レンガ倉庫が商業施設として再開発・オープンして10年目になります。
 
横浜市が編纂した「横浜市史稿」によると、横浜がビール工場発祥の地になっています。
元町公園の正面横の細道を下って行くと「キリン公園」に出ます。
此処にローゼンフェルトが「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」を1869年(明治2年)に開設したそうです。
外国人居留地に近かったこと、湧水があったこと・・・、等が工場建設の理由だったのでした。
同社がジャパン・ブルワリーに継承され(1885年・明治18年)、岩崎弥之助の出資を得て、
キリンビールになりました。
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    横浜元町・山手46番にあったキリンビール。(横浜史稿)
   現在はその一部がキリン公園となり、碑文が立っています。
        【主たるビール発祥の地】

長崎説
1812年(文化9)長崎出島でオランダ商館長ヘンデリック・ドゥーフが醸造した。
横浜説
1869年(明治2)横浜山手の外国人居留地(山手46)で「ジャパン・ブルーワリー」が創設された。(キリンビールの前身)
品川説
1869年(明治2)品川にあった土佐藩藩邸(品川区大井3丁目)で古賀一平が醸造した。
大阪説
1872年(明治5)大阪で渋谷庄三郎が「渋谷ビール」を販売した。(アサヒビールの前身)
札幌説
1876年(明治9年)中川清兵衛を中心に、北海道開拓使札幌麦酒醸造所が設立された。同社が大倉組に払い下げられ、1888年「札幌麦酒会社」が設立された。
 
 
ビールもドブロクも原材料が違うだけ(?)
どちらも家庭でも出来たでしょうから・・・・、
「ビール発祥の地」論争は、工場や生産規模、一般販売の概念次第では様々な意見があって然るべきでしょう。
 
特に初夏が近づいた5月に冷たいビールを飲むのは最高です。
赤レンガ倉庫のビアホールは午前中から満席の盛況です。
フランクフルトからやって来たという男たちが「アイン、プロジット」を歌います。
「さぁ・乾杯だ」、ビアホールは一層盛り上がって、ジョッキーを飲み干すピッチが上がります。
私は、今日は一人ですし、先日の喀血で酒は禁止されていますので・・・、横目で眺めるだけです。
 
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     盛り上がるビアホール(ガーデン)会場。本場ミュンヘンの銘柄と、ドイツ料理、ドイツの歌が流れます。
     何処か「芋煮会」のような、誰でも仲良くなれる雰囲気があります。正面のタワーは旧税関ビルで、現在     は税関業務の案内や歴史資料を展示しています。横浜市民は親しみを込めてクィーンと呼びます。
 
みなとみらいホールで音楽会が夜7時からありました。
私は久々の音楽会の興奮もあって、赤レンガ倉庫に向かいました。
夜9時、一日中賑わったビアホールも閉店の時間です。
蛍の光が流れて、係員が閉店を告げても、お客さんは帰ろうとしません。
 
若い人にとっては未だ9時は宵の口なのでしょう。
「これから、渋谷に出ようよ!」
「中華街の方が良いよ!」
意見が纏まらないようです。
合意しているのは、”もっともっと、遊びたい・・・”
そんな気持ちのようです。
 
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       夜のみなとみらい、左が「みなとみらいホール」、右がパシフィコ横浜(展示場)
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    赤レンガの脇からみなとみらいの中心街区、ランドマーク等を見る。
 
赤レンガ倉庫は元々は税関の保税倉庫・・・、
誰の目にも止まらなかったものが、今では横浜最高の人気スポットです。
税関ビルだった「横浜クィーン」の塔屋の遥か上に月が登っています。
お月様も「朧月夜」ならず、ほろ酔い加減のようです。
うつつに、赤レンガ倉庫の賑わいを眺めているようでした。
 
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    ビアホール閉店後帰路につく人もいますが、大半は余韻を楽しんでいるようで、会場を出ようとしません。
    (通路左の人波がビアホールです)月が朧でした。
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    美しい煉瓦積み、窓の上部がアーチ状になっています。妻木頼黄(第二世代建築家,大蔵省を核に官庁建    築を多く残した)はパリ万博を見て帰ります。
    そして概して無機質な近代建築が増える中で、新しい建築デザインを評価します。
    アールヌーボーとかアールデコのデザイン主張がそれでした。
    赤レンガ倉庫が単なる保税倉庫で無く、20世紀の先駆けになるデザインになったのでした。
 
赤レンガ倉庫は明治44年竣工、今年で101歳ですが、レンガ積みの歪みは全く無く、素晴らしい状態です。
首都高速は未だ50年、痛みが激しく再建築が問題になっているのに・・・・、
明治の職人の自慢話が聞こえてくるようです。
 
職人達はビアホールを見て言う事でしょう。
”ワッチが作った倉庫に、こうして人が集まってビール祭りで盛り上がって・・・、嬉しいじゃないですか。
 ついでに、一杯ワッチにおごって呉れないかな・・・・!”
 
ビアホールはGWのあいだでお終いでしょう。
是非、お出かけください。
 
 
 
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お婆ちゃんの庚申様・長谷観音様

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春菊は便利な野菜です。
お浸しにして良し、すき焼きにも水炊きにも欠かせませんし、天麩羅にしても良し、
秋口から半年もの間食卓に出せます。
庭先に少し、春菊を育てれば大変に便利です。
 
海岸道りを葉山から三崎に向かいます。
その中間に長坂町があります。
武山駐屯地の手前です。
長坂町には自衛隊の宿舎や射撃場があります。
日蓮上人の尊像が祀られている、長光山妙印寺の前を少し山側に入ったところ、
道端に4体程の庚申塔が祀られています。
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        妙印寺の日蓮上人像、仏師長勤(法眼位にあり南関東で力があった)の1565年の作。
 
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   今日の話題の一つ、道路脇、土手を削って櫓を作り4体の庚申塔等が祀られています。
   何時も供花が途切れません。手前の黄色い花が春菊です。
 
江戸時代も後期、文化文政時代につくられた青面金剛です。
基台と笠はこの辺に多い、多分高取山で採れた石が使われています。
ところが、尊像は黒い石です。
富士山の溶岩が冷えて固まったような石です。
石も異様なら、青面金剛も異形です。
四角いお顔、眼底が窪んでその奥に鋭い眼がありますし、
左手はムンズとショケラ(半裸女性像)の髪を掴んでいます。
 
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   異形の青面金剛像、10人で庚申講が組織され、その名前が基台に刻まれています。
   真ん中にある細田長右衛門の奥さんが今もこの諸尊を祀っているのです。
 
基台石の前面には庚申塔を立てた人のメンバーの名が刻まれています(講)。
一番多いのが小泉さん、そう、横須賀は小泉純一郎さんのお膝元です。
そして、真ん中に「細田長右衛門」のお名前があります。
更新等の横、細道を入った竹林の中に細田家があります。
そのご主人は先祖代々長右衛門さんなのです。
何時から始まったのか、定かではありませんが・・・・・、江戸時代は名主でもあったようです。
 
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                       春菊の飾られた庚申塔には10人の信者の名が刻まれています。
 
昭和の長右衛門さんの奥さんがこの庚申様を祀っておいでなのです。
お掃除して、水で清めて、供花します。
春からは春菊を飾って差し上げます。
供花が終わったら、畑の野菜をとって、筍を掘って、道路端にパラソルを立てて、
野菜売り場を出します。
道路向かいに有名な「関口牧場」があって、
ソフトクリーム(300円)を求めてお客さんが続々やってくるのです。
関口牧場のソフトクリームは横須賀の各所で販売されていて人気なのですが、
本家本元の直売は2倍近く大きいのです。
 
そのお客さんが細田のお婆ちゃん手作りの野菜を買って帰るのです。
私はもう、お婆ちゃんの顔なじみです。
写真も撮ってあげて、プレゼントしました。
 
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庚申塔が祀られた土手の上にお堂があります。
観音開きのお堂ですが何処か山小屋風です。
屹度昭和の細田長右衛門さんが建てたものだからでしょう。
 
大工さんが寺社建築には疎かったので、山小屋風になってしまった。
でも、寄棟の頂点に「長谷観音ご分身」と額を掲げました。
この建物がお堂であることを殊更に強調したようです。
 
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     左が長谷観音ご分身の十一面観音像、右側が阿弥陀如来像。お掃除するのは細田のお婆ちゃん。
     このあと、畑の春菊の花を供花してお終いでした。
 
中には石仏が二体祀られています。
一体が観音様、もう一体は阿弥陀如来です。
光背の横に造像年次が元禄3年(1690)であった事を記録しています。
 
長右衛門さんのお婆ちゃんがおっしゃいます。
”その先の道を西に真っ直ぐ進めば長谷観音さんをお参り出来るのですが、一日仕事になってしまうでしょう。
それに家族も連れて行ってあげたい・・・、そう思う。
そこで、長谷観音様のご分身を作っていただいて、我が家の門前に祀ったのでしたよ・・・・・、
先祖代々長谷観音様に、門前でお参りして遣って来たんですから・・・、
私は綺麗にお掃除するのが日課です・・・。」
 
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      お体が補修されているのは地震で倒れてしまい、その時に割れてしまったのでしょう。
      でも補修は上手に出来ています。 
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                お隣は阿弥陀如来像。二体並んだ姿は鎌倉長谷観音と同じです。
 
お婆ちゃんの野菜には固定ファンがいるようです。
私がお相手をしていると、お客さんがやってきました。
すると、お婆ちゃんはお客さんを連れて畑に出かけます。
”好きな野菜を自分で朝採りしろ・・・、”  という訳です。
キャベツやサヤエンドウの収穫が終わったら、筍を掘って帰るようです。
 
観音様も、庚申様も、お婆ちゃんを護っている事でしょう。
 
観音様も庚申様も、春菊の花がお似合いです。
 
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                             春菊も花が咲いています。この花を供花するのです。
 
私も畑に出てキャベツを一つ求めました。(200円)
気の良いお婆ちゃんはもう1個おまけを下さいました。
青虫が”何事か”言わんばかりに顔を出します。
私は家内を驚かせないように、青虫を畑に残して帰りました。
 
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        キャベツ畑で卵を産みつけるモンシロチョウ。私の求めたキャベツも青虫が付いていました。
 
 
 
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花水木の咲く「本牧アメリカ坂」

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私の住む横浜の戸塚でも「花水木」の花が目立つようになりました。
ニュータウンの街路樹に、家のシンボルツリーに、花水木が好まれるようになっているからでしょう。
職場に近い日比谷公園には花水木が見事に咲きました。
100年前、尾崎行雄知事が桜をワシントン市に贈った、そのお返しに花水木が届いたそうです。
日比谷公園の花水木は「日米親善大使」をに担った花水木の子孫だそうです。
 
花水木が日本で人気になったきっかけは、多分「マスターズゴルフ」だと思います。
米国トップクラスの名門コース「オーガスタ・ナショナルクラブ」で世界最高位を競います。
日本人も尾崎や青木が出場して、TVに映りました。
ヒマヤラ杉や松の樹間に芝が貼られて、美しいゴルフコースになっています。
芝にはチリ一つ雑草一本生えていないように整備されています。
そして、コースの端には綺麗な花を咲かせた灌木があります。
「何の木だろう、爽やかな木だなあ!」思いました。
それが花水木でした。
 
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                    「オーガスタ・ナショナルクラブ」 白い花が「花水木」(日経ゴルフHPから転載)
     
私は「花水木」が見たくて、本牧の「アメリカ坂」に出かけることにしました。
 
戦後米軍は本牧の山側一帯を接収します。
そして、其処に米軍住宅を建設します。
横須賀や厚木基地で働く米軍将校の住宅として、横浜の高台が最適と判断したのでした。
ペリーは海上から眺めた本牧の断崖を「マンダリン・ブラフ」と呼んで愛し、
「トリーティー・ポイント(条約岬)」と名付けました。
米国人は本牧から根岸にかけての海を「ミシシッピ・ベイ」と呼んでました。
昔から本牧は米国人好みの景勝地だったのでしょう。
 
 
米国人の本牧キャンプも1982年返還されました。(根岸キャンプは未返還です)
キャンプは高級住宅地に生まれ変わり、中心街区には「マイカル本牧」ができ、
ニチイを核にしたショッピング・アミューズメント施設が並びました。
また、本牧市民公園では「本牧ジャズ祭り」が催され、日本の米国文化発祥の地・・・、
と評されるようになりました。
 
ですから・・・・、花水木が最も似合い、また多く花咲いている・・・、期待したわけです。
 
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   本牧米軍キャンプは高級住宅地に生まれ変わりました。突き当たりを右折1キロで三渓園に続きます。
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      曙杉が伸びた本牧市民公園に接した住宅。紅白の花水木が街路樹です。
 
本牧キャンプも返還されて30年以上が経ちました。
マイカル本牧もニチイが撤退し・・・、何処か落ち着いた感じになったようです。
一昨年からは本牧ジャズ祭も中止されたようです。(不景気で企業の協賛が集まらない)
米国風のクラブもジャズ喫茶も無くなりました。
今では、横須賀のドブ板通りの方が米国の風が吹いているようです。
 
住宅地の中に急な坂があります。
この坂がキャンプの中にあったので、通称「アメリカ坂」と呼ばれています。
坂の中間に「緑が丘高校」があって、運動部の掛け声が響いてきます。
 
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        アメリカ坂を上りきると、落ち着いた住宅街に出ます。街路樹は紅い花水木です。
        向こうのネットは緑が丘高校のグランドです。
 
街路樹は花水木が中心です。
表札にはローマ字も目立ちます。
高級将校の住宅なのか、日本に帰化した人なのかもしれません。
「風見鳥」の立っている家が数戸あります。
昭和52年神戸北野を舞台にしたNHK朝の連続ドラマ「風見鳥」が人気になりました。
あの連ドラを見た人かもしれません。
 
米国の風景で、風見鳥は余り記憶にありません。
でも、花水木越しに見る「風見鳥」は中々良いものです。
本家本元の神戸北野の異人館建物ににも花水木が咲いていることでしょう。
 
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                                     風見鳥の立った家、花水木が似合います。
 
本牧市民公園の曙杉も巨大になりました。
米国人の親子がサッカーボールを蹴って遊んでいます。
 
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                             曙杉の前で、花水木が背伸びするように咲いていました。
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                                 本牧市民公園でサッカーに興じる米国人親子
 
私はアメリカ坂を上って行きました。
頂上からは見晴らしが良く、三浦半島のの先、猿島も見晴らせます。
勿論対岸は房総半島です。
私と同年輩の人が5人ほど後を追って登ってきました。
ご挨拶して、少し本牧のことを訊く事にしました。
 
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                                              本牧山頂公園
 
”私たちはこの山の下に住んでるんですよ。
先日、もしM7クラスの地震が起これば、3m程度の津波が発生する・・・、予測されました。
そんな場合にはこの「本牧山頂公園」に避難する事になります。
いや、登ってみれば大変ですわ・・・!”
言われます。
 
私は目線を遠くから足元に引き付ます。
沢山の石油タンク(日本石油)が並び、発電所の煙突がそびえ立っています。
あの石油コンビナートが君津のように爆発したら・・・・、
この山頂公園も危険なような気がします。
でも、ここなら津波を避けるには十分な高さでしょう。
 
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                               本牧山頂公園の下は石油コンビナートです。
 
本牧には三渓園もあるし、景色も良い、美味いお店も数多いし、映画館やショッピング施設も充実している・・・、
憧れの住宅地ですが、それなりに心配も深刻なのだ・・・、知らされました。
まあ、本牧に較べれば鄙びた戸塚ですが、住めば都という事でしょうか?。
 
 
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名実共に”日本一”相模川新戸の大凧上げ

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5月5日、端午の節句、私は相模原市の相模川河川敷に「大凧まつり」に出かけました。
案内では5月4日、5日両日にわたって凧をあげる予定でしたが、4日は大雨で、凧は濡れるし、
相模川は増水するし、凧上げどころでは無かった事でしょう。
5日は快晴で、爽風が吹きました。
「絶好の凧上げ日和」でしょう。
吹き流しかわりに上げられた鯉幟も、元気に真横に泳いでいます。
鯉幟の向うに青い大山と、その彼方に冠雪した富士山が眺められます。
神奈川県中央部も素晴らしい田園が続きます。
 
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   座間市辺りの田園風景。正面が大山で、その左彼方に冠雪した富士山が見えます。
 
相模の大凧は、天保年間(1830年頃)に始まった「端午の節句」の祝い行事でした。
岡崎、相良、森町など三河武士の街で盛んだったようです。
 
武家で長男が生まれると「初凧」を上げてお祝いしたのが最初だったようです。
「凧上げ」には「作る楽しみ」「上げる楽しみ」「観る楽しみ」・・・、面白いことから親も子も熱中したことでしょう。
地域によって様々に変化します。
三河(浜松等)では「喧嘩凧」が盛んになります。
大勢で凧を上げます。
そして、適当に戦う相手を探して挑みます。
自分の糸を相手の糸に絡ませます。
麻糸同士が擦れあった、焦げた匂いを発します。
相手の糸が切れて・・・・、きりもみ状態になります。
”勝った””負けた”で歓声が上がります。
 
男の子が大きく、立派に育ってほしい・・・・!
そんな願いを込めた”神事”でしたから・・・・、
神様も認めてくださる、勇壮な絵や書が描かれました。
自然と、より高く、より美しく、より大きく・・・・、競われたことでしょう。
明治時代になって、情報の伝達が発達すると「大凧」競争が激しくなります。
大きくても二間四方(4畳間の大きさ)だったものが、
4間四方(16畳)、6間四方(72畳)になり、8間四方(128畳)にもなります。
相模原の大凧あげも、新戸地区の大凧は8間四方で、日本一を自慢します。
相模川上流の勝坂は5間、下磯部、上磯部は6間です。
 でも、全国各地に日本一が存在します。
 
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       新戸の大凧(4間)、「復興」の願いを、天上の神に伝えるように・・・・・・上がっていました。
 
新戸の凧上げの関係者は藍染の法被(はっぴ)を着ています。
私は年長の方に訊いてみました。
 
『法被は神社のそれを真似て作った迄で、どこそこの氏子と言う訳ではありません。
大凧に貼った紙ですか?
これは、埼玉県小川町で漉いて戴いています。
竹は相模川の水源に近い中津川町から届けて戴きました。
綱の太さは3センチはあります。200メートルもありますから・・・、大変な重量です。
今年は糸目(凧と綱を結ぶ糸)を32本新調しました。
栃木県の個人(農家)に作っていただきました。
これだけで1300万円もかかりました。
化学繊維なら安くて済むのですが・・・(神事)ですから材料に拘ります。
大凧の重さは950キロにもなります。
昨日の雨で濡れてますから大変な重量です。
今朝から南風に向けて、干しているのです。
乾かさないと、重くて上がない事にもなりますから・・・。』
 
見れば、大凧は半身起き上がって、風に向かっています。
お隣の座間町の大凧は地面に伏したままです。
 
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 大凧の骨組は真竹を割いて組んであります。(大枠や斜めの芯は淡竹を繋いで出来ています)
 それを縦横16ブロックに分けて、和紙で作った”絵”を被せます。
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    右が今年新調した糸目、太さ9ミリ、然の麻で出来ています。その奥に80メートルの長さの凧の尾が見え    ます。麻糸はこの他に太さ3センチの綱があります。綱は200メートルの長さです。
 
”トンツク・トンツク、ピーヒャラ・ピーヒャラ”お囃子が鳴っています。
見れば山車の上で、少女が演奏しています。
新戸の女の子は勇ましいのです。
"今日は男の子のお祝いの日・・・、私たちがお祝いしてあげましょう!”
そんな、少女の心意気が感じられます。
 
山車の隣には米俵が積まれています。
大凧あげは、豊作願いの神事でもあるのでしょう。
新戸の大凧揚げは如何にも”伝統行事”です。
お隣の座間町の大凧揚げは、消防団の人たちが中心です。
団員服があっちこっちに走っています。
風は火事の大敵、何で凧上げをしなければならないんだ・・・・!
背中で呟いているようです。
 
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     少女達がお囃子を鳴らします。
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米俵が積まれたのは今年の豊作を祈願しているのでしょう。
 
座間町会場では福島県須賀川町の「寄せ書き大凧」が上がりました。
須賀川町の小学生が「復興の願い」「復興の意欲」を和紙に書いて、それを凧に貼ったのです。
南風に乗って見事に青空に上りました。
須賀川の子供たちにはビデオにとって、届けるのだそうです。
相模川の河原に拍手が上がりました。
 
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                      福島県須賀川町の小学生の寄せ書きを貼った、「復興大凧」
 
午後12時半、座間町の大凧が上りますが、すぐに制御ができず、地上に落下してしまいます。
隣の会場からは溜息が上がります。
大凧あげは危険も伴う・・・、実感します。
 
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         座間会場の大凧は中々上がりませんでした。きりもみ状態になって、地上に落下してしまいます。
 
大凧も午後1時、ようやく乾いたと判断したのでしょうか?
いよいよ、新戸会場で大凧上げが始まりました。
100人が凧上げに参加します。70人くらいが綱を引きます。
30人程が凧の下に入ったり、周囲で面倒を見ます。
赤い旗が上がっているうちは、「待った」の状態です。
「白い旗」が上がると、一斉に綱を引いて、凧を立てて、凧上げ開始です。
何故か「セイヤ・セイヤ」祭りの掛け声が上がります。
      (江戸風はわっしょい・わっしょい、東北ねぶたはラッセ・ラッセですが)
 
ユラリ、と大凧は地上を離れて舞い上がります。
会場に歓声があがり、拍手に変わります。
でも地上に下りてしまいます。
「只今の上空時間56秒でした!」アナウンスされます。
二度目も同じ50秒程度で地上に戻ってしまいました。
 
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  綱を引っ張る人達、大凧が舞い上がるためには風が足りない分・・・、勢い良く綱を引かなくてはなりません。
 
”さあ!予行演習は終いです。今度が本番です”
”先ず凧の尾を差し替えます。大凧を上げるには10メートルから15メートルの風が必要です。今は少し凧を軽くする必要があります・・・”
”昨年は大震災で飛ばせませんでしたが・・・、10年前は6時間以上も大凧を飛ばした記録があります・・・”
”大凧上げには、凧を作る技術や凧を上げる技術の伝承が肝心です”
様々な解説が入って・・・・、最初から三度目からが本番だったようです。
 
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     大凧がのぼります。ユックリと王者の風格があります。80メートルもの尾が付いています。
 
ユラリ、大凧がゆっくりと地上を離れました。
地上50メートルくらいに上がったでしょうか?
此処までは前二回と同じです。
三回目は勢子が凧の尾を掴んで制御します。
凧は真正面から南風を孕むと一気に更に上空に上りました。
 
凧の尾は地上を離れます。
凧は地表100メートルから、更に高く舞い上がりました。
観衆は青空を見上げます。
大凧には「絆」と「潤風」と大書されています。
相模原市は今年相模川の恩恵を表して「潤水都市」と自評したそうです。
その宣言と、震災で見直された「絆」の文字を大空に上げたのでしょう。
 
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只今、10分を経過しました。
只今。20分を経過しました。
一度南風を、良い風を掴んだら、二度と落下しないぞ!
そんあ大凧の意気地が垣間見られるようです。
こんな調子なら、1時間、2時間と上がっていそうです。
 
今年こそは良い年であってほしい、
天災の無い年であって、平穏に過ごさせてください・・・、
そんな願いが・・・・、天上に届くように思えました。
 
相模原市、新戸の大凧揚げは、作る技術も、上げる技術もしっかり伝承されて、名実共に”日本一”です。
 
 
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   栃の木の梢の遥か上空で大凧が泳いでいました。今月末には花をつける事でしょう。
 
 
 追記:5月4日の様子はブログ友人「相模の花・鳥・風」さんの下記に詳しいです。
 
 
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建長寺、「残り牡丹」の見事さ

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鎌倉巨福呂坂の建長寺の牡丹を、昨年は5月4日に観てきました。
ソロソロ、今年も観に行こう、5月6日家内と一緒に出かけました。
今年は梅に始まって桜も藤も咲くのが遅れていました。
屹度、牡丹も遅れているだろう・・・、
私の推測が間違いでした。
 
受付で聞くと、
”牡丹はもう花盛りを越えて、残り花が少々ありますが・・・・”
”特に、5月4日の大雨で花は打ちひしがれ、花は切ってしまいました・・・”
とのことでした。
牡丹の花弁を地面に放置しておけば、病気の原因になりますし、
花が終われば種が出来ます。
種を作れば樹勢が削がれてしまいます。
だから、花が終われば花を柄から切ってしまいます。
花が終わってから、手入れが大事なようです。
 
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                               建長寺仏殿前庭、柏槙の樹下に牡丹が咲いています。
 
屹度昨日、雲水さんが総出で牡丹の面倒を見たのでしょう。
落ちた花弁は一枚もなく掃除されています。
花数こそ少ないのですが、この二日間で開いた大柄の花が見事に咲いています。
なんの、なんの、残り花とは思えない見事さです。
 
加えて、牡丹の香りが広い境内の隅々まで漂っています。
牡丹の香りは漢方薬の・・・・それです。
鼻から入って体中の病を追い払ってくれるような気がします。
何か体の芯から、元気を蘇らせてくれるようです。
 
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                                 柏槙の樹下で咲く白牡丹の花。灯火が点いたようです。
 
牡丹は仏殿の前庭が中心です。
柏槙の老木が7本も茂っています。
この木は建長5年(1253年)創建に際して、開山「蘭渓道隆」が南宋から持ち込まれ、
お手植えされたものと言われています。
ですから、樹齢は750年を超えている、古木です。
 
蘭渓道隆はお弟子たちに、
”柏槙のような人間になれ”と諭して植えられたのでしょう。
ガッシリとした骨格、ゴツゴツした幹、うねる様に天上に向かう梢は強い精神力を想わせます。
”自分の将来は自分で切り拓こうとする”、理性を感じます。
 
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柏槙の傘の下には牡丹が咲いています。
薄暗い樹陰でも、花が咲いたところだけ、ポット明るく灯が点ったようです。
 
昨年は此処で老僧の「牡丹の花を養生する」苦労話を伺いました。
花が終わったら・・・、花の足元を掘って、十分堆肥を施すそうです。
これから暑い夏にかけて牡丹は体力を回復する・・・、人間はそのお手伝いをするのでしょう。
 
私の記憶では、建長寺の境内は砂利が敷いてあって、歩き難いは暑いはで・・・・・、
殺伐としていました。
舗装されて、一時は葉鶏頭等の草花を植えていましたが・・・・、何時しか牡丹で埋められました。
件の老僧は
「折角、たくさんの方々が参詣されるので、少しでも喜んでいただこう・・・」
そんな想いが「ボタンを植える」事にしたのだそうです。
  昨年の牡丹の花、老僧のお話以下に書きました。
 
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仏殿のご本尊はお地蔵さんです。
建長寺が建てられる前・・・、巨福呂谷には処刑場であって「地獄谷」と呼ばれていました。
処刑される魂を導くため、「心平寺」を建ててお地蔵さんを祀ったあったそうです。
だから、今もお地蔵さんがご本尊で、仏殿に祀られています。
仏殿は徳川秀忠夫人「お江」の御霊屋で、芝の増上寺にあったものだそうです。
女性の住まいですから・・・、何処かしっとりした佇まいです。
屋根は入母屋作りですし、天井は格天井で、何れにも鳥(鳳凰と迦陵頻伽)が描かれています。
 
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           押上格天井に描かれた鳥は迦陵頻伽、ご本尊の後ろの欄間は鳳凰が描かれています。
           本尊の右は現住職の名札、左には歴代住職の名札が並んで仏殿を略一周しています。
 
長押に目をやると、御本尊の右には現在のお坊さんのお名前が書かれた札が吊るされています。
そして、左には、全住職と書かれて、歴代の住職の名が並んでいます。
歴代住職の名札は、正面左から始まって、仏殿の側面から、入り口にかけて、仏殿の略一周近くに及びます。
仏殿で読経する僧達は、自然とこの全住職の名札に目が止まることでしょう。
一目瞭然、自分の前に100人余りの先人がいた事を知ります。
屹度、そうした事実に感謝することでしょう。
そして、仏殿を出れば、眩しい光の中に樹齢750年を越す柏槙がそびえ立っています。
改めて開山以降脈々と続いた法脈の有り難味を知ります。
 
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                 左奥が方丈、建長寺の伽藍は一直線に南面して建てられています。
 
建長寺は少しづつ変化しています。
変化しながら・・・・、一層わかり易い、いいお寺さんになっているようです。
今年も「竜王殿(方丈)」で金澤翔子さんの墨書展が開催されています。
翔子さんの力強い書を観て、確かな生き様を学んでから帰ることにしましょう。
 
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                                 建長寺山門下に掲示された金澤翔子さんの案内
 
 
 
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金澤翔子さんの墨書展(建長寺)

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”牡丹は花の王者”と言われますが、その通りだな・・・・!
感心しながら建長寺の最深部にある方丈(應真閣)の玄関を入りました。
金澤翔子さんの新作の墨書展が開催されているのです。
毎年、5月3日~5月6日まで三日間展示されて、今年で4回目になります。
(昨年の展示は震災直後で”共に生きる”と題していました。次に書きました
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                   金澤翔子書品展のポスター(建長寺HPから)
 
横須賀の万願寺の永井宗直住職が建長寺の教務部長をされていて、
同氏はかねてから翔子さんの書を認めておいででした。
建長寺の朗読会に金澤翔子さん親子を招かれ、墨書を展示されます。
建長寺のご住職以下僧侶が翔子さんの書に感動されて、
以来毎年この万物が萌える季節に新作を展示されるようになりました。
私のような俗人も、建長寺で修行されるお坊さんも、翔子さんの生命力溢れる書を楽しみにして来ています。
 
朝10時、開場と共に会場は人で埋まります。
翔子さんも会場でお待ちです。
人達が書を見て、感動する様を嬉しそうに見ていられます。
 
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     展示会場、大きな筆と揮毫中の写真が飾られています。(方丈二階の應真閣で)
 
昨年は大震災の直後でした。
日本中が自然の猛威の凄しさに打ちのめされました。
でも、黙々と協力して再生に向かう被災地の人の姿を見ました。
世界中から賞賛されました。
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翔子さんは2011年5月3日、建長寺で席上揮毫をしました。
(この時の様子はYOU-TUBEで次に見ることができます。(www.kshouko.com/katudou.html )
畳に大きなシートを敷いて、その上に大きな白い紙が置かれています。
白い和紙はまるで大自然、大海原のように見えた事でしょう。
黒いズボンにシャツ姿の翔子さんは、両足を踏ん張って、腰に、丹前に力を込めて、箒のような大筆を握ります。桶には並々と墨が貯められています。
筆に墨を含ませて、静かにゆっくりと呼吸を整えられて・・・、
一気に裂帛の気合を筆先に込めて、書き上げられます。
 
『共に生きる』
その姿は柔道着の”柔ちゃん”こと田村(谷)亮子を思わせます。
体型も、髪をさりげなくリボンで結んす姿も似ています。
翔子さん書に、生き様に大きな感動を覚えました。
”生きようとする姿勢にこそ人間の尊厳は在るのだ”
諭されるのです。
 
 
今年は「希望の光」と揮毫されました。
復興に黙々と努める人の姿が思われます。
 
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                                    建長寺会場で揮毫された「希望の光」
 
多くの私達凡人は「五体満足」で生まれてきました。
それ自体幸いなことでした。
でも、才能は研ぎ澄まされる事もなく、社会になんら貢献も出来ずに、生きた証を残すこともなく・・・、
地上から去ってゆくのが普通です。
それ自体は問題では無いのですが・・・、天から与えられた才能を活かしきれなかった・・・、
後悔の念が残ります。
せめて、ひとつだけでも才能を生かしきりたかった・・・、思う人は多い事でしょう。
小さい時は天才だ、誉められ期待されたのですが・・・・、今では近所でも忘れられ、孫など軽んじられます。
人生は晩年になって「光陰矢の如し」、知らされます。
 
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   拈華微笑(ねんげみしょう)、お釈迦様が花をお手にされ少し捻ったそうです。
   お弟子たちは何のことだろう?見つめましたが何も解りません。ただ一人迦葉尊者だけが破顔微笑されま    した。お釈迦様は迦葉に禅の放脈を授けました。故事を書かれました。
  
 
難視覚だったピアニストの「辻井伸行氏」、ダウン症だった「金澤翔子さん」
五体満足の人には及びもしない、才能を伸ばして人に感動を与えています。
もう誰も、目が見えないとかダウン症だ・・・、なんて気にしません。
その才能を認め、人柄を敬愛し、人生を諭されています。
 
今年2月、翔子さんは足を複雑骨折してしまいました。
又々不幸です。
足が悪ければ踏ん張る事ができません。
あの大きな字は書けません。
机に座って書くしかありません。
5月の建長寺展にむけて、「千字文」を書く事にしました。
 
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私たちは翔子さんの大きな書は良く知っています。
でも、一字一字が小さな書は見たことがありません。
千字文なんて、書き上げるのは大変な念力・胆力を必要にするし・・・、
字が踊ってしまって、書ききれないのじゃないかな?
失礼な想像をしていました。
 
ところが、書き上げた書を見てください。
一字一字がしっかりしていて・・・、千字が揃うと正に見事という他ありません。
熊本城の石垣を見上げる思いがします。
一つ一つが形良く、しっかり積まれていて、全部揃うと素晴らしく美しいのです。
 
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会場を後にするに際して、翔子さんに感動を伝えました。
翔子さんはあどけない笑顔で、Vサインしてくださいました。
そして、私たち夫婦の真ん中で写って下さいました。
 
私は楽しみです。
翔子さんは未だ23歳です。
これからどんな作品を見せてくれるのでしょか?
 
帰り道、再び牡丹の花が迎えてくれます。
大きな花が翔子さんの顔のように笑って居るようです。
お釈迦様が一寸悪戯に、翔子さんのお顔を覗こうと、捻って見たようです。
 
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                                              NHKのHPから
 
 
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NOWい羅漢像(柿生浄慶寺)

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多くの禅宗のお寺には、門前に「不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)」の石柱が立っています。
”此処は清浄なお寺ですから、お酒や臭いものは入ってはいけません”
そんな意味でしょう。
と言う事は、このお寺の中には”お酒の好きで、ツマミに臭いクサヤやにん肉を好む坊主が居るぞ”
そんな事を言っていると思われます。
 
何故なら、多少のお酒や旬の食べ物は匂いが強くても、体に良いからです。
酒は百薬の長ですし、旬の食べ物はミネラルが多く含まれ、新陳代謝が促進されます。
僧は沢山の戒律を守らなければなりませんが、戒律にも重い戒律と軽い戒めがあって、
酒や食べ物は軽い戒めでしょう。
”軽い戒めなら・・・、少しは破っても自由に人生を楽しみたい・・・、” そんな本音が見え隠れします。
 
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   般若湯は止められませんな! 禁じられているお酒を楽しむ羅漢さん。(柿生浄慶寺で)
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   お酒を飲めば”アラ・エッサッサー”踊りだす羅漢さん。周囲の花はシャガです。
   にごり酒の銘柄は「あじさい」で醸造元は浄慶寺です。
 
   
お釈迦様のご臨終に際して仏弟子や菩薩等が集まりました。
16人の仏弟子はもう悟りを開いた羅漢でありました。
迦葉尊者は、その一人で、禅宗の祖と言われました。
 
羅漢は何れも大声を上げて慟哭し、体全体で悲しみを表しています。
一方隣の菩薩は悲しみを平然として受け止めて居る風です。
両者共既に悟りを開いていますが、菩薩は、悲しい事があっても喜怒哀楽を表に出さず、
悠然と受け止めています。
悟っていても、喜怒哀楽が無ければ、それでは超人間で、人間味がありません。
羅漢は悟りを得ていながら、喜怒哀楽を率直に表に表してしまう、最も人間臭い存在なのでしょう。
 
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  柿生の浄慶寺の「将棋する羅漢像」 向かいの羅漢さんは「一寸待ってくれ!」声を発しています。手前のラ   カンさんは「してやったり!」得意満面です。下手の横好き、寝ながら見ている羅漢もいます。
 
日本最古の羅漢像は法隆寺五重塔北面にあります。(711年、前の写真)
真ん中に涅槃を迎えたお釈迦様が横たわっておいでで、その周囲に慟哭している羅漢が取り巻いています。
また法隆寺玉虫の厨子の宮殿の内壁にも漆絵で羅漢が描かれています。
ですから、仏教伝来と同時に羅漢は日本に伝わっていたものと思われます。
でも、あまり見向かれませんでした。
鎌倉時代以降に盛んに描かれ、造像されるようになりました。
とりわけ禅宗では羅漢を理想像として、自分自身も修行に励んで、羅漢になりたい・・・、考えます。
 
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    日本最古の羅漢像、法隆寺五重塔基壇北面、釈迦涅槃像の周りで嘆き悲しんでいるのが羅漢(前列左     右)。  頭が比丘(坊主)なのが羅漢で、盛り上がっているのが菩薩です。中央は維摩居士。
 
 
 
現代になって盛んに羅漢像が造像されるようになりました。
個人が羅漢像を刻んだり、土で捏ねる事は深い意味があるのでしょう。
現代人の自我の高まりは、自分自身を鋭く見つめ直すことになり、自ずと羅漢像に立ち向かわせるのでしょう。
羅漢のように、喜怒哀楽を表に出して、人間臭く生きたい・・・と。
在家にあるからこそ、悲しみを素直に嘆いて・・・、羅漢になろうと考えます。
昨年の大震災も沢山の羅漢を生んだと思います。
 
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    携帯電話を見つめ、ニッコリの羅漢さん。背にはクリスマスローズが未だ咲いています。
 
小田急線の柿生駅の北東、市が尾寄りに「柿生山浄慶寺」があります。
桜やスダジイ等が鬱蒼と茂った山寺です。
大木の下に紫陽花が自生していますから、もう1ヶ月もすれば紫陽花山になります。
その境内に石像の羅漢像が置かれています。
 
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              裏山から柿生山浄慶寺を見る。全山紫陽花が植えられています。
 
草深いお寺の境内です。
今はシャガの花が盛りです。
都忘れやエビネが盛んに咲いて、クリスマスローズは花が緑色に変わろうとしています。
足元にはヘビイチゴのつぼみが膨らんでいます。
ご住職が箒を掃いています。
 
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        遊歩道の周囲には都忘れや卯の花、エビネ等が咲いていました。
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                                本堂前をお掃除されているのがご住職です。
 
私は挨拶をして、羅漢像のお話を伺わせて頂きました。
少し、不機嫌そうでいられましたが・・・・、答えて下さいました。
『此処の羅漢は茨木県の真壁町にある石工に依頼して納めてもらっています。
親子で競って彫っていられます。
平成10ねんごろから納めて戴いていますが・・・・』
 
人間臭さが羅漢の魅力です。
人間は時代とともに変遷します。
現代人は、現代らしさを忘れては羅漢の魅力を失ってしまいます。
柿生の浄慶寺で、現代の羅漢像を楽しませて頂きました。
 
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                ウォークマンでどんな音楽を聴いているのか?ウットリ満足気な羅漢さん。
 
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                      腕相撲に興じる羅漢さん達、こめかみに青筋が立って、力が入ります。
 
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   パソコンを開いて、戒名を練っているのでしょうか?現代なら何処でも居そうなお坊さんの姿です。
 
 
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見沼薬師堂の円空仏達

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5月8日朝8時、家内に付き添ってもらい病院に出かけました。
まあ、1時間もあれば終わると予測したのですが・・・、病院を出たのは午後1時過ぎになってしまいました。
実はこの日が見沼(さいたま市)にある薬王寺の円空仏の御開帳なのです。
この機会を逃すとまた暫く待たなくてはなりません。
急いで、見沼にお出かけです。
 
昔の見沼は湿地帯だったのでしょう。
でも、現在では大宮郊外の住宅地です。
でも、計画的に開発された住宅ではないので、道は迷路のようです。
ただ、大きな立木が茂った一角が見えました、
森を目標に行けば、目指す薬王寺の門前に出ました。
薬王寺の門前に庚申塔や六地蔵尊が立っています。
施主は「嶋村」となっています。
沼地の中にあって、まるで島のような高台だったのでしょう。
沼地には病気が必ず伴います。
 
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                                       さいたま市見沼区島にある薬王寺の薬師堂。
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          享保11年(1726)作の6地蔵像、
          円空の50年後に作られた石仏が境内入り口に祀られていました。
 
その嶋村には行基菩薩が建てられたと言い伝えられる、薬師堂がありました。
1680年、49歳の円空は弟子の円長を連れて笠間の月崇寺で大明神を造顕し、
背銘に「御木地士作」と書きます。
更に富岡(上野)等、例幣使街道沿いに逗留し、村々の期待に応じて造仏活動を続けます。
その結果、埼玉県は円空と確認されている仏像は(64体)もあり、美濃の羽島、飛騨に次いで多いのです。
中でも、薬王寺には29体を数え、何れも円空晩年の作で、最も円空らしい秀作が揃っています。
  
 【円空の年表】

西暦
年齢
事跡
1632
1
美濃国で生る。父不詳、7歳の時洪水で母を失い寺に預けられる。
1654
23
寺を出奔する。伊吹山太平寺で修験道に入る。
1666
35
津軽藩弘前城下を追われ、青森から蝦夷松前に渡る。
1669
38
名古屋市千種区鉈薬師堂諸像を造顕(円空様式確信) 【以上前期】
1671
41
法隆寺で法相宗の血脈を受ける。大日如来造顕。
1673
42
奈良吉野郡天川村栃尾観音堂諸像を造顕する。
1676
45
名古屋荒子観音寺で仁王像。千面菩薩などを造顕する。【以上中期】
1680
49
茨木県笠間市月崇寺で「御木地士作大明神」を造顕。 【以降晩期】
1682
51
薬王寺諸仏造顕、日光市の円観坊で十一面千手観音像を造顕。
1685
54
岐阜県丹生川村千光寺で諸像を造顕。
1685
54
千光寺で弁財天像等を造顕。
1689
58
滋賀県伊吹町太平寺で十一面観音像を造顕。
1690
59
岐阜県金木戸で十一面観音等三体を造顕、「十万体造顕達成」記す。
1691
60
「熱田大神金渕龍王春遊」を読む(円空歌集)
1692
61
 岐阜県高賀神社で降雨祈願をし、村民の願いを叶える。
1695
64
 弟子の円長に血脈を与える。
1695
64
 盂蘭盆に入定の素懐を遂げる。(墓碑銘長良川河畔)
 
 
でも円空は、注文があれば何処にでも行ったのかと言えば・・・、そうとも言い切れません。
円空は全国の修験地、霊地に向けて向かいます。
そこは、概して行基や弘法大師の謂れのある土地でした。
ですから、見沼の薬王寺に逗留したのは自然な事でした。
 
薬師堂の周りに自生していたヒバの巨木を倒して、仏の素材にする事にしました。
     『ヒバ(檜科大木になる。檜に比べると木肌が黒い)と思うのは私の思い込みで正確ではありません』
先ず、根元の太いところを切り出して、二つに割りました。
丸太の半分を使って、薬師如来を彫り出しました。
残りの半分を使って、日光菩薩、月光菩薩を彫り出しました。
 (薬師如来立像:像高68.2cm。日光菩薩像:像高66.9cm。月光菩薩像:像高67.0cm。)
次の丸太は先ず二つに、次いで4つに割りました。
四分の一の丸太を立てました。
そして、その側面を正面にして、右向き6体、左向き6体で合計12体の神将像を彫り出しました。
薬師三尊を真ん中に、左右を12神将像が取り囲みました。
こうして、行基菩薩が建立したと伝えられる薬師堂にご本尊が出来上がりました。
 
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     薬師三尊像、70Cm余りの丸太の半分で薬師如来を彫り、残りの半分を二つに割ってその角を正面にし    て日光菩薩月光菩薩を彫って、薬師三尊を彫り出しました。
    木地師と言われる円空ならではの妙技でしょう。(円空の父は飛騨の木地師でありながら遁走、円空は父    無し後、母に育てられた・・、と言われています)
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    此方は12神将像、丸太を四分の一に割って、丸太割の側面を正面をして神将を彫りました。
    衣紋が風に吹かれて「風の神将像」を思わせます。
    実際は60Cm程の像ですが、写真にしてみると巨像の印象があります。(案内板を撮影)
 
ヒバの大木は薬師如来とその眷属を彫りだしても、まだ余材がありました。
後は村民があれが欲しい、これが欲しい、注文に応じて造仏する事にしました。
火事が怖いから・・・「秋葉神様」が欲しい。
疱瘡で死ぬのが怖いから・・・、「疱瘡神様、お稲荷さま」が欲しい・・・、
そこで体が人間、お顔は狐の神様を彫りました。
尖った顎が強い印象を与えました。
青面金剛(庚申講の神様)が欲しい・・・、
竜頭観音立像、不動明王像、善女竜王像、仁王像(阿・吽)、金剛神像、
護法神像、善財童子像、迦楼羅像、、山王像、尼僧像、菩薩形像・・・・、等が並びました。
合計29体もの神仏が並んだ様は壮観です。
見沼嶋村の人たちはこれだけの神仏に守られて、日々を送っていたのでしょう。
 
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             これは珍しい、稲荷像。お顔は狐のようです。顎が尖っているのは疱瘡神と同じです。
 
29体もの神仏像を収めてみると、さしものヒバの大木はもう余材は残っていませんでした。
 
薬王寺の諸像は長い間薬師堂に祀られていました。
堂内は護摩が炊かれて煙が立ち篭めていました。
お蔭で、神仏は煤けてしまいました。
秘仏のように守られた円空は木肌もみずみずしいく良いものですが、
煤けた円空は庶民の祈りが込められていて・・・、それは良いものです。
 
薬師堂には絵馬が沢山かかっていました。
”め”の字が多いのは眼疾が多かった為でしょう。
虎の絵馬が多いのは、虎歳の守り神が薬師如来如来だからでしょう。
必死に祈っていると、天空から雲が降りてきて、雲の上には仏や神の依代の紙垂が立っている・・・、
そんな絵馬も多く飾られています。
 
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   何故か絵馬の中に明治天皇の御真影が飾られていました。左の絵馬には「開活眼」と書かれています。
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絵馬には”め”の字、虎、来迎仏が目立ちます。

かっては円空仏はこのお堂に祀られていたのでしょう。
でも、円空仏は昭和40年代から大人気です。
盗まれる事件も相次ぎました。
何時からか円空仏は薬師堂から本堂(兼庫裡)のスチールキャビネットの中に移されてしまいました。
住職の枕元に置いたのでした。
狭いキャビネの中に押し込まれて、お気の毒の仏様です。
 
江戸時代の文化財は円空も木喰も良寛も、評価は高く、人気があっても国の文化財に指定されていません。
それは、昔ながらの学者や美術史家の目が江戸時代の宗教文化を低く見ているからでしょう。
非常に残念なことです。
 
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                                   スチールキャビネットの中にしまわれた、円空仏。
 
 
 
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座間神社の夫婦道祖神

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神奈川県の略臍の位置に座間市があります。
座間と言えばアメリカ海軍のキャンプがあるので有名です。
日産自動車や電子機器関係の工場も目立ってきました。
小田急線で都心にも直行できるので、住宅も増えてきています。
 
頭上を米海軍の爆撃機が爆音を轟かせて飛び去ります。
暫くするとまた爆音が遣って来ます。
何故、二機編隊が多いのか・・・、思います。
また、座間キャンプの上空を飛べば・・・、爆撃機の騒音対策が為されるのではないかな?
思ったりします。
 
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                                      今日の話題、座間神社の社殿
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   座間神社は6千坪の神苑を誇ります。社殿側面、スダジイのご神木の下を掃く神主さん。
 
 
1945年8月30日、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ちます。
同時に厚木飛行場は米軍に接収されてしまいます。
1950年朝鮮戦争が勃発すると、厚木飛行場は整備が進みます。
1971年、米軍はベトナム戦争からの撤退方針が出ると、厚木飛行場は海上自衛隊との共用に変わります。
 
厚木に勤務する軍人の住宅地として、座間の高台が接収されます。
その高台の西端には「座間神社」がありました。
祭神は日本武尊です。
 
日本武尊は東征に赴くに際し、伊勢神宮に参拝し、倭姫命より叢雲剣を与えられます。
その剣の霊験によって駿河国草薙に於いて野火の難を免れました。
古事記には「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」と詠うように、
走水の海を渡り、上総国から、東国蝦夷を平定するロマンを繰り広げます。
 
座間神社の案内には、欽明天皇の御代座間郡に悪疫が流行したが、
飯綱権現の化身である白衣の老人が現れ、崖下の森の中に湧く清水を使うように勧めました、
村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。
日本武尊を祭るよう勧められた・・・、とも言われているのだそうです。
 
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                       座間神社の夫婦さわらの木の下に移され、祀られた夫婦道祖神
 
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                             夫婦道祖神のアップ。僧形をした典型的な相模様式です。
 
座間は八王子街道にありました。
八王子に集まった生糸を横浜に運んだ道でした。
街道沿いには馬頭観音や道祖神が多く祀られています。
とりわけ、双体道祖神は相模地方様式の僧形カップルが目立ちます。
最近立てられる道祖神は男女の神が睦まじい、安曇野様式が多いのですが・・・、
その土地土地の様式を大切にして欲しいものです。
 
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            八王子道(手前)の辻に立っていたお地蔵様、その足元にも夫婦道祖神が祀られています。
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                                              芝さくらに埋もれた夫婦道祖神。
 
座間神社の中にも一基祀られています。
夫婦の椹(さわら)の間に、ポツンと置かれています。
その右には立派な男根も祀られています。
神苑をお掃除している神主さんによると、座間キャンプの敷地内には4箇所の神社や祠があったそうです。
米軍に接収されるに際し、それらはキャンプに隣接していた座間神社にお移りいただきました。
天神様、山王社、浅間社などだそうです。
 
現在の社殿は明治13年に再建されたものだそうです。
拝殿には大きな目をひんむいた龍が睨みつけています。
玉眼を挿入してあるのでしょう。中々の迫力です。
龍の足元には子龍もいます。
親子の龍とは珍しい・・・、思って眺めました。
 
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                                       社殿正面の龍、左手に子供の龍も見えます。
 
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               向こうは相模川堰堤の桜並木、左側に川原で採取した砂利の山が見えます。
 
長い石段を降りれば八王子街道に出ます。
蓮華が咲いた田圃の向こうは相模川の土手です。
川原で採取した砂利がうず高く積まれていました。
 
 
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海蔵寺の石斛の花

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石斛の花が咲く季節になりました。
環境省の指定する「絶滅危惧種(レッドリスト)」に指定されている石斛ですが、
最近は園芸種として人気があるようです。
鎌倉では円覚寺黄梅院の梅の木に、海蔵寺の柿の木に石斛の株が着生(ちゃくせい)しています。
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   海蔵寺の石斛、柿の木の幹に着生して、花を咲かせています。
 
 
石斛(セッコク)は如何にも中国的な名前です。
ですから、中国からの輸入種かと思ったら、そうではなくて日本にも自生していたそうです。(本州以南沖縄まで)
多くが森林の中、木の枝分かれ等に根を張って、着生していました。
一見すれば、宿木(ヤドリギ類)に似ていますが、宿木は根を木の幹や枝に張っています。
宿木は寄生する植物なのです。
一方、石斛は幹にある湿った部分に苔等とともに根を張ます。
着生しているのです。
寄生と着生は基本的に違います。
日本の山林には石斛が自然に見られたのでした。
でも、あまり着目されませんでした。
ところが、江戸時代に漢方薬になる、ということで着目され、その時に和名を貰わずに、
漢方薬の名前「石斛」が一般化したのでしょう。
 
中国人が石斛と名づけたのは、良く石に根を張っていたから、そして体がひと塊であったからでしょう。
斛の字は容積を表す単位です。
一斗の10倍、一升の百倍が一斛(石の字を充てることが多い)です。
「せきこく」が言い難いので「せっこく」と訛ったのでしょう。
 
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            海蔵寺の石斛の花、手前は庫裏の玄関になります。門との中間に鐘楼があります。
 
石斛の学名はDendrobium moniliforme、何のことはない洋蘭として人気のデンドロニームの一つでしょう。
でも、洋蘭に比べると背丈は伸びず、花も一輪一輪は矮性です。
でも、花の香りは洋蘭を遥かに凌ぐ芳香です。
一株咲いただけでも、海蔵寺の境内全域に香りが満ちています。
人は、香りに誘われて、庫裡の玄関に集まります。
 
そこには古い柿の木があって、その頭の高さの位置に石斛が一株着生しているのです。
面倒を見ていられるのはご住職です。
屹度、水苔を棕櫚縄で幹に縛り付けて、石斛の苗を植えつけられたのでしょう。
今では「香りの玄関灯」のようになって、庫裡の玄関に客を招いています。
 
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                               石斛は庫裡の玄関前にあります。窓は庫裏の二階です。
 
ご住職は石斛の苗を娘のように愛しみ育てられていることでしょう。
でも、孫のようなご年齢で居られます。
仏事さえなければ、境内の植物の面倒を見ておいでです。
植物に詳しいご住職ですから、生命力の旺盛な石斛を育てることは容易いことなのでしょう。
野生の石斛が絶滅危惧種に指定されたのは人間の乱獲の標的になったから・・・・、
人間の無謀な行為さえ無ければ、今でも全国の山中で自生していた筈なのです。
 
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    柿の葉の緑陰で、石斛は鮮烈な白い花を咲かせます。
 
私は感服します。
様々な木々が茂っている海蔵寺です、何の木に石斛の苗を着生させることも可能です。
風通しがよくて、夏は緑陰になる場所で・・・・・、
出来れば石斛の花が最も生えて見える木に着生させようと考えられたことでしょう。
そして、ご住職は柿の木にされました。
 
実は柿の木の若葉は一番瑞々しくて、緑が美しいのです。
緑と白い花のコントラストが最も美しく見せるはずだ・・・、
そんな考えで柿の幹に着生させたのでしょう。
柿の葉は茶にもなるし、柿の葉寿司にもなる、漢方には欠かせません。
石斛とは同じ漢方のアイテムです。
 
石斛を含めて、今海蔵寺は春から夏にかけて沢山の花が競うように咲いています。
是非、見てあげて下さい。
石斛も見られる事を待っている事でしょう。
「花のことは花に聞け・・・・!」
一遍上人のお言葉です。
 
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   海蔵寺の菖蒲の花、今が見頃です。(5月11日撮影)
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    海蔵寺薬師堂横の石南花の花、随分長いこと咲いていますが、今が見納めです。
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                海蔵寺の櫓を覆うように咲いた躑躅ももう見納めです。右手は観音様。
 
 
 
 
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垣根もたわに咲いた卯の花(鎌倉)

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若葉が日増しに色濃い青葉に変わって、日差しは燦燦と輝いてきました。
でも、空気はサラッと乾いて、快い季節です。
この季節、白い花が目立ちます。
蝶々に気づいてくれる様に、青葉の中で最も目立つのは朱色の花よりも、白い花だ・・・、
知っているのでしょうか?
白い花で最も目立つのは「卯の花」です。
 
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                                                   今が盛りの卯の花
 
唱歌「夏はきぬ」の歌い始めは、卯の花でした。
  卯の花の匂う垣根に ホトトギス早も来鳴きて
  忍び音もらす  夏は来ぬ
 
  さみだれのそそぐ山田に 早乙女が裳裾濡らして
  たま苗植うる  夏は来ぬ
 
流石に佐佐木信綱、季節感豊かに初夏を歌い上げています。
卯の花に始まり、ホトトギス、さみだれ、早乙女、たま苗、
みんなみんな古代から日本人が愛してきた初夏の風物です。
 
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   鎌倉扇ガ谷薬王寺門前の垣根の卯の花。この垣根は卯の花とお茶の木の混植です。
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   お屋敷の四つ目の竹垣は朽ちても、卯の花垣根は健在です。露地の突き当たりが海蔵寺です。
 
現代は流石に卯の花は少なくなってきましたが、
鎌倉の街中を歩いていると結構目に付きます。
古いお屋敷の垣根には未だ使われていますし、
櫓の暗闇の中で、岩に這いつくばって、真っ白な卯の花を見つけると、嬉しくなってしまいます。
”まあ、こんなところで、健気に咲いてくれて・・・・、ご苦労さん”
声かけしてしまいます。
きっと櫓の主も同じ気持ちで見ていることでしょう。
 
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櫓の主はお稲荷さま、周囲を卯の花が季節を告げていました。(英勝寺横で)
                          
卯の花が逞しい事は、古来から有名でした。
この木をお隣の境に、田んぼの境に植えておけば・・・・、境界の印になったことでしょう。
田んぼで卯の花が咲いたら・・・、田植えの準備を終えなくてはなりません。
その頃には、南の国からホトトギスが渡ってきて・・・、田植えを急がせます。
 
百人一首でも馴染みの持統天皇の御歌です。  
    春すぎて 夏きにけらし しろたへの 衣ほすてふ 天の香具山
 
現代語訳は以下のようなものでしょう。
いつの間にか、春が過ぎて夏がやってきたようですね。
夏になると真っ白な衣を干すと言いますから、あの天の香具山にも衣が翻っています。
 
古代の庶民の衣は大半が染めてなく、楮など和紙の材料だったでしょう。
夏に向けて、家具山の麓の集落では、真っ青な青空、緑の松、真っ白い衣を干す風景が新鮮だったことでしょう。
女性天皇が感性鋭く詠った和歌・・・、として人気です。
 
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   土地の境界木として植えられたと思われる卯の花。卯の木は巨大にならず、病虫害にも強く決して枯れず、
   硬い木なので、古代から境界に植えられました。
 
でも、ひねくれ者の私は、白いのが衣であったのか・・・、それとも卯の花だったのか・・・、
私は卯の花の惹かれます。
「衣ほすてふ」の部分を「卯の花匂う」でも、良い歌だ思うものです。
   春すぎて夏きにけらし しろたへの卯の花匂う天の香具山
私の目には藤原京の景色が思い浮かびます。
都の三方を畝傍、耳成山、そしてたおやかな香久山が囲んでいます。
香久山の麓を白い卯の花が彩っている光景は素敵です。
 
持統天皇の御歌を本歌取りした藤原定家は次の歌を残しています。
    白妙の衣ほすてふ夏の来て 垣根もたわに咲ける卯の花
 
若しかしたら、藤原定家も白い衣も良し、
でも白い卯の花の方にもっと心惹かれていたのでしょう。 
”垣根もたわに咲ける卯の花”の表現が好きです。
 
佐佐木信綱の”夏はきぬ”は定家の本歌取りで、定家は持統天皇の本歌取りで、
日本人の感性は1400年も前から連綿と受け継がれていることが、有難いと思えます。
今、鎌倉の街を歩けば「垣根もたわに咲ける卯の花」を随所に眺めることができます。
 
阿仏尼さんは「黄泉にもたわに咲ける卯の花」とあの世で思っているかもしれません。
 
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                           櫓の塔は阿仏尼の墓。周囲の岩場に卯の花が咲いています。
 
 
 
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ツバメを襲うカラス

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ラジオが鳴って、4時半になり、ようやく外が明るくなります。
ラジオを聴きながら、「今日のブログ、何を書こうかな?」ぼんやり考えます。
アナウンサーがお喋りします。
今日の誕生日の花は「紫蘭」で、野生種はレッドリストに指定されているのだそうです。
花言葉は「あなたを忘れない」だそうです。
今日の一句
 『 新茶に容易く母を喜ばす 』 紹介してくれました。
 
昨日は母の日でした。
香り高い新茶を点じると、
母は両の掌で茶碗を鼻先に持ち上げて
”いい香りね・・・!”
喜んでくれました。
私にも、そんな記憶がありました。
勿論、お茶請けは・・・・、母も、私も好きな蕨餅でした。
ラジオのディレクターは俳人なのでしょう。
様々な思い出を呼び覚ましてくれます。
私はラジオ派です。
 
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                           カラスの子育て風景。カラスも可愛いのですが・・・・・・・!
 
外ではカラスがけたたましく鳴いて、朝の静寂を破っています。
屹度今朝もゴミ置き場を荒らしているのでしょう。
清掃当番は大変です。
荒らされたゴミの掃除も、アスファルトを汚した糞も流さなくてはなりません。
 
今年のカラスは例年に無く凶暴です。
街路樹の下で頭を襲われた小学生も、大人も、町内には被害者続いています。
町内一斉清掃で、カラスの巣退治をしなければならないようです。
秋には連絡すれば区役所がスズメバチの巣を駆除してくれます。
カラスの巣も・・・、お願いできるかもしれないな・・・、相談することにしましょう。
 
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                              ツバメは巣作りのため、夫婦で土をこねて、運びます。
 
 ♪・・・・ツバメも雁も覗いてく 東戸塚の学び舎を・・・・・♪
東戸塚小学校の校歌の一節です。
自然との共生を見事に歌い上げた校歌です。
 
昭和30年、詩人のサトーハチローさんが作ってくださいました。
歌詞通りに小学校の玄関に、渡り廊下にツバメが巣くっています。
私の街には、パチンコ屋さんの店頭に、コンビニの監視カメラに、ビルの玄関先に・・・、
今年もツバメは巣を営んでいます。
 
ツバメの天敵は青大将(蛇)でした。
この蛇は腹のウロコを立てるので、どんなところでも登ってしまいます。
ツバメは青大将対策として、人間が度々出入りする場所に巣を作りました。
その習性が残っていて、青大将も滅多に見なくなっても、人の身近に巣作りします。
ヒヨドリや雀は雨樋の中や戸袋の中に巣を作ります。
青大将に見つかれば呑まれてしまいます。
でも、カラスや鳶に襲われる事はありません。
出入り口が狭いので、カラスは巣が在ると解っていても、襲えないのです。
 
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                                 コンビニの監視カメラの上に巣作りしようとするツバメ
 
「NPO助け合い戸塚」の玄関には二つツバメが巣を作りました。
玄関先に案内板を置きました。
”頭上注意!ツバメが巣を作っています。糞が落ちてきます”
糞害にあった人が続いたのでしょう。
ツバメの巣の下に椅子を置きました。
巣の下に入れなくしたのでした。
そして、何時抱卵を終えて、子ツバメが顔を出すか!
楽しみにして待っていました。
 
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   NPO助け合い戸塚の玄関先で抱卵し始めたツバメ。 ・・・・・・、ところが・・・・。
 
ところが、ある日を境にプッツリとツバメは姿を見せなくなってしまいました。
助け合い戸塚のメンバーの話では、玄関先でバタバタ音がして、
一瞬、カラスがツバメを襲ったのだそうです。
ツバメは逃げられたのか、食べられてしまったの解りません。
でも、楽しみだった巣は字の通りの「空き巣」状態になってしまいました。
 
生きていれば・・・・・、別な場所に巣作りしている事でしょう。
次は雀や四十雀に習って、カラスが入れない場所に巣を作った方が良さそうです。
でも、長年蓄積して出来た習性です。
見直しは不可能でしょう。
カラスは最高の益鳥であるツバメを害します。
この意味では害鳥です。
 
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     「NPO助け合い戸塚」の玄関先でも、こんな光景が見られる・・・、と期待したのでしたが。
     戸塚駅東口のパチンコ店で。
 
サトーハチローさんはツバメもカラスもどちらもお好きでした。
カラスが増えすぎて・・・・、子育ての為に凶暴化するのは困ったものです。
共存できる数に抑えられて欲しいものです。
 
もうじき、子ツバメの姿を確認できる事でしょう。
出来るだけ沢山のツバメが育って、また南国に戻って欲しいものです。
 
 
 
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浄土庭園を埋める黄菖蒲の花(称名寺)

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春夏秋冬美しい金澤文庫称名寺です。
今年も黄菖蒲が咲いただろう・・・・・、出かけました。
期待どうりに浄土庭園「阿字ヶ池」の周囲全面に咲いていました。
今が、一番花(最初に咲く花)が咲いています。
一番花が散れば二番花が咲きます。
ですから、6月まで咲いていますが、一番花が咲く今が見頃です。
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    称名寺浄土庭園、右から反り橋、中島を介して平橋を渡って金堂の前に出ます。
    その右茅葺きの建物は釈迦堂です。総ての池の縁は黄菖蒲が埋めています。
 
私は管理人に話しかけました。
「この花は黄菖蒲で間違いないでしょうね?
昔は無かったのに・・・、何時頃から咲きだしたのでしょうかね?」
管理人は穏やかな口調で話してくれました。
話の内容と私の記憶を整理すると、以下のようになります。
 
称名寺の庭園は金澤貞顕(さだあき)文保3年(1323)が、性一(しょういつ)法師に命じて作りました。
平泉の毛越寺庭園に学んだ浄土式庭園をデザインしたのは、北条実時の冥福を祈ったからでしょう。
苑池は金堂の前池として、浄土を一層に荘厳に見せます。
人は仁王門を潜れば、すぐに阿字ヶ池の淵に出ます。
池を東西に分けるように中島が浮かんでいます。
中島には反り橋が渡してあり、更に平橋を通って金堂に、阿弥陀様の前に導いてくれます。
中島の周りは白砂が敷かれ、90個余りの景石が積まれています。
青い色の石が使われたのは青山を想わせたからでしょう。
 
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   この辺も中島の周囲も洲浜を表現するために白砂が敷かれていたはずですが・・・、
   今は一面黄菖蒲が自生しています。
 
平成12年、混同の裏を発掘しました。
称名寺は学問のお寺ですから・・・、金堂の背後、稲荷山の間は講堂があったのでした。
講堂跡の発掘調査をしました。
 
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      平成12年、講堂跡の発掘調査。www1.seaple.icc.ne.jp/be1nishi/hakkutsu.htm
      このあと稲荷山に降った雨が泥水になり、阿字ヶ池に流れ込みました。苑地の泥沼化防止策      として黄菖蒲が植えられました。
 
ところが、発掘は新たな問題を引き起こしました。
雨が降ると、発掘跡に出た土砂が流されて、阿字ヶ池に流れ込んで・・・・、見る見る泥池にして、
底に土砂が溜まってしまったのでした。
泥池対策をこうじなければ、浄土どころではありません。
土砂の流入を防ぐため・・・・・、黄菖蒲を植えてみました。
黄菖蒲の根が泥だけを止めて、泥池化を防止してくれる・・・・、期待したのでした。
 
最初は池の北面に植えた黄菖蒲でしたが、
その生命力は強く、池の周囲を囲って、更に中島を埋めてしまいました。
たった10年で、阿字ヶ池を黄菖蒲が占拠してしまったのでした。
黄菖蒲が根を下ろし、白い砂、青い石の組み合わせは隠れてしまいました。
史跡としては・・・、問題です。
 
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    阿字ヶ池の「立石」。浄土庭園の庭石には州浜、荒磯風の水分け、浪返しにあたる立石、橋の袂    を引き締める橋引石等が置かれているのですが、この立石以外は黄菖蒲で見えません。
 
黄菖蒲は日本古来の杜若(かきつばた)でもないし、ましてアヤメでも菖蒲でもありません。
明治になって、花菖蒲に黄色が無かったので、西アジアから輸入したものなのでした。
それが、湖沼や河川などへ拡散してしまいました。
 
環境省は「要注意外来生物」に指名し、防除や抑制を促しています。
ですから、史跡の称名寺浄土庭園を黄菖蒲が占拠した状態は、
環境省や文部省にとっては忌まわしい実態なのでしょう。
 
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そんな事は人間の勝手です。
黄菖蒲自体は邪気を払うに十分な刀のような葉っぱと、
金運を運んできそうな黄色の花と・・・、十分に美しい花です。
まして、泥水対策として十分な役割を果たしましたし、ビオトープ効果もあります。
こんな事になるのだったら・・・、杜若を植えておけば良かった・・・、思っても後の祭りです。
 
私のように、”黄菖蒲は外来植物出会っても、綺麗だから良いじゃないか・・・!”
思う人が多くなっているのも事実でしょう。
黄菖蒲はもう日本の景色に馴染んで、市民権が出来ているようです。
 
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今頃は青山の根津美術館では光琳の「燕子花図」が展示されているはずです。
昔、杜若が咲いていた水辺は大半が黄菖蒲が咲いています。
光琳も見たらビックリすることでしょう。
でも「黄色も良いじゃないか!」
言われるかも知れません。
 
管理人に
「杜若にすれば良かったのでしょうかね?」
言えば、
「そうかもしれませんね?」
笑っていました。
 
私たちの目の先をツバメが飛んでゆきます。
目で行先を追えば、山門の組手の中に消えてゆきました。
其処で子育てしているのでしょう。
「人間はくだらないことばかり考えていて・・・、
私たちは子育てに忙しいのだから、余計な事はしないでくださいよ!」
叫んでいるようです。
 
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相模の”力石”について

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もうしばらく前のことでしたが、このブログで「アイラインをひかれた道祖神」を書いた事があります。
細面の綺麗な夫婦道祖神で、通学路にあります。
上手に瞼の上下にアイラインがひかれているのでした。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45463538.html
その道祖神の脇に二つ、力石が置かれています。
読者が見られて、この力石の事を調べて欲しい・・・・、注文がありました。
そこで、私の生活圏にある力石について、初めての方にも解るように案内します。
 
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   横浜環状道路3号線の前に祀られている石仏群。右から庚申塔、夫婦道祖神、力石、庚申塔。
   今日はこの力石の話です。
 
置かれている場所は上永谷の道の辻です。
前の道(環状道路)は新しい都市計画道路(磯子から新横浜・六角橋をつなぐ)ですが、
昔から馬洗川に沿った街道でした。
東には「日本三躰天神」が祀られている「永谷天満宮」があります。
南に迎えば1キロ足らずで日限山地蔵尊が祀られています。
 
地域のお祭りに若者がこの辻に集まったことでしょう。
そして、小さい方の力石を持ち上げました。
腹まで、次は胸まで、最後は頭の上まで持ち上げます。
これが出来れば「一人前の男」として認められます。
大きな方の石は、ヨイショ、と転がせれば良かったことでしょう。
持ち上げれば力石の横綱です。
若者同士が力比べをして、その家族が目を細めて眺めます。
村娘は力持ちを熱い視線を送ります。
 
私の住む倉田にも辻に力石があります。
同じように二つ置かれています。
「力比べ」は昔の娯楽だった・・・・、案内板に書かれています。
倉田の力石は相模川の河原に行けばゴロゴロ転がっているような、川原石です。
角が丸くなっていますから、滑って持ち上げるのは難しそうです。
力比べの日には、水に濡らした縄をはって、持上げやすくしたかもしれません。
 
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倉田の辻に置かれた力石、幅50センチ程の川原石です。真ん中の白い棒は案内板の足です。
 
昔から力持ちで気立ての良いのは、娘さんの人気の条件です。(最近は違うようですが)
力持ちといえば「弁慶」です。
お隣の藤沢にある白旗神社(祭神源義経)には弁慶石が祀られています。
社殿の右横、たった一つ祀られています。
力石ですが・・・・、弁慶も持ち上げた・・・、言い伝えが若者たちの挑戦意欲を駆り立てたのでしょう。
弁慶石を持ち上げた若者なら、村娘たちの人気はヒートアップした事でしょう。
勿論、白旗神社で弁慶が力石を持ち上げた事は考えられません。
腰越に義経主従の二つの首が届けられ、和田義盛・梶原景時が「首検め」をしました。
その首が、鵠沼の入江に流れ着きました。(首洗い井戸)
村民が首を洗って、祀ったのがこの神社の謂れです。
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       白旗神社の弁慶石と呼ばれる「力石」 楕円の長い径が70Cmほどです。
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                                                弁慶石の案内板
 
 
弁慶石の案内板には「力石」の起源は「石占い」であると書かれています。
もう、10年も前のことでしたが私は日文研の仲間と奥吉野の天川村に出かけたことがあります。
あの辺では力石ではなく「重軽石」が置かれてありました。
八大竜王が祀られた龍泉寺(役行者創建)にも祀られていて、願い事を述べて石を持ち上げます。
持ち上がれば願い事が叶い、上がらなければ叶わない・・・・、
そんな説明がされていました。
京都や奈良では重軽石で”石占い”
坂東では力比べの”力石”になったようです。
でも、最も基本にある事は「石は神が宿る」依代としての神性だったことでしょう。
 
若者の力比べで持ち上げられた神様は、
”おいおい、私を持ち上げるのか? でも、頭の上までは無理だろう! 下ろす時はお手柔らかに頼むぞ!”
なんて呟いている事でしょう。
屈強の若者に抱えられて・・・、嬉しそうな神様のお顔は、
子供に背負われた親の嬉しそうな顔に似ていることでしょう。
 
お隣の保土ヶ谷宿の橘樹神社の境内には3つの力石が祀られています。
その内の一つには何か刻まれています。
私には神社のお札のように見えますが、もう磨滅していて読めません。
お札であれば、これは石占いの意味合いが濃い力石なのでしょう。
 
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  橘樹神社の力石。右の石に置いたのは22センチの物差し。
  この石の上部に神様のお名前が刻まれているようです。
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                                             橘樹神社の力石の案内
 
 
最後に川崎大師平間寺の境内に祀られている力石です。
写真に写る石のうち、左の2つは「さし石」と呼ばます。
「さし上げる石」の意味でしょう。
左の大きいほうが135kgだそうです。お米なら二俵相当の重さです。(1俵は60キロ)
これを持ち上げて、腰より胸、胸より頭・・・、より高く何回も持ち上げられた方が勝ちになります。
 
右の3つは「おったて石」と呼ばれ、一番大きい物で375kgあるそうです。
これを起こしてまっすぐに立てることが出来るようになると、
始めて一人前とみなされたのだそうです。
右から三つ目の石には「雲籠石・当所伊之助持込、明和2年(?)」等と刻まれています。
 
右から二つ目の石には60貫余り(225キロ)・・、と重量も記されていました。
川崎大師の縁日に人が集まって、この力石に挑戦していたのでしょう。
 
相模の国の神社には奉納相撲が欠かせませんでした。
同じように、力石で力自慢が競われたのでしょう。
お相撲より力石の方が簡便で・・・、腕相撲感覚で遊べます。
力石は、私が見た限りでは何れも江戸時代のものが多いようです。
今盛んに言われる「絆」が生きていた時代の”証拠”なのでしょう。
でも、いずれの力石も盗まれないようにコンクリートで底を固められています。
石自体は残されても、力較べは残されていません。
力石からコンクリートの重石を取り除いて、
自由に力自慢、力比べが出来るような地域社会にしたいものです。
 
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   川崎大師平間寺、薬師堂横に並んだ力石。左の二つが差上げる石。左から二つ目が米2俵の重さ。
   右の3つが押し立てる用の石。右から2つ目は60貫目(225キロ)と刻まれています。
 
 
 
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お坊さんの花園に咲く「マロニエ」の花

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今月「風土記の丘」の八重桜を見に、栃木県・栃木市に出かけました。
栃木の街路樹は屹度マロニエ(栃の洋名)だろう・・・、思っていましたが、殆ど見かけませんでした。
花水木を選ぶのなら・・・、なぜ栃の木にしないのか・・・、少しだけ不満です。
 
栃の実は縄文遺跡から多く出土します。
縄文人の主食だったのでしょう。
栗の実よりも大きくて貯蔵も出来る栃の実ですから・・・・、最も好まれた事でしょう。
江戸時代には飢饉対策として栃の木は伐採を禁じられることもありました。
 
昨年友人の別荘に誘われて軽井沢に出かけました。
友人は私が石仏好きなのはよく承知で、「馬越の33観音」を案内してくれました。
中山道の姫街道を見下ろす位置に薬師堂があって、その庭に40体に及ぶ石仏が並んでいました。
そこは栃の木の樹下にあたりました。
栃の葉が緑陰を作り、落葉が湿気を含んでいますから、石仏は苔むしていました。
”栃の木の樹下は一番気持ち良いんだ・・・”
石仏たちは声を揃えて言っているようです。
石仏のお顔は何れも”おたふく”で栃の実のようです。
そう、此処に近い有名な追分宿のお地蔵さんは、排気ガスで黒ずんでおいでです。
 
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   栃の木の樹下に佇む「軽井沢発地、馬越の石仏群。栃の落葉で湿っていますから石仏は苔むしています。
 
落ち葉の陰には昨年の秋落ちた栃の実が隠れています。
栃の実は強い灰汁があるので、腐らないし、虫も食わないのでしょう。
栃の木は大木になります。
餅つきに使う臼やそば粉を捏ねる大椀は栃の幹を使います。
太いことと、材質に粘りがある事が、木工品に適当なのでしょう。
円空上人は飛騨の木地師の子だった・・・、と言われます。
その木地師が全国、特に東北に散って木工品を作りました。
こけしやワッパ、樺細工などもその木地師の伝統でしょう。
主要な材は栃や桂、ブナでした。
 
私達日本民族は2000年も前から栃の木と一緒に生活してきました。
でも、豊かになり、木工品も流行らなくなると、栃の木があまりに大きくなるので敬遠されてしまいました。
ですから、今では殆ど見かけなくなってしまいました。
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                                        日本光学工場前のマロニエ、今が見頃です。
 
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                    青い空、緑の葉をバックに赤い花が新鮮なマロニエ。花序は桐に似ています。
 
横浜栄区のNIKON工場の前の街路樹にマロニエが選ばれました。
赤い花と白い花が交互に植えられています。
NIKONは戦前は横浜戸塚に主要工場がありましたが軍需工場だった・・・、
というので接収されてしまっていました。
ですから、横浜工場は里帰りのようなものでした。
進出に際して、工場前を整備し、マロニエを植えたのでしょう。
同じ栃ですが、少し洒落た感じです。
そう言えばNIKON製品も女性好みにお洒落な感覚になってきたような気がします。
 
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                          大船玉縄の龍宝寺にも二本の栃の木があります。
 
NIKON工場の前を少し南に下がると、龍宝寺があります。
龍宝寺の境内に二本の栃の木があります。
二本共白い花が咲きます。
栃の花密は屹度濃いのでしょう。
沢山の蜜蜂が集まっています。
この木には「栃の木」案内が吊るされています。
屹度先代のご住職が植えて、名を吊るしたのでしょう。
”もっともっと栃の木を大切にしてあげなくてはならん”
住職の呟きが伝わってくるようです。
 
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                          龍宝寺の芍薬も今が見頃、もうじき見納めです。
先代住職は花好きでいられました。
境内にマーガレットを植えました。
マーガレットは瞬く間に広がって、境内から墓地まで白い花で埋めてしまいました。
私には「マーガレットの咲く丘」のイメージがあります。
丘の上には尖塔の立っている教会が在るはずなのですが・・・、
お寺の墓地にマーガレットが咲いていると・・・、少し調子が狂ってしまいそうです。
 
横須賀にあった清泉女学院を龍宝寺の裏山に誘致した時(昭和38年)、
女学校に咲いていたマーガレットを移植されたのではないか?  
憶測したりします。
もう、確認する方法はありません。
 
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   龍宝寺の花園、白いマーガレット、青い矢車草、紅いひなげしが混植されて、一斉に咲き誇っています。
 
また、同住職は畑を全面にわたり芍薬を植えられました。
近くの大船フラワーセンターが農業試験場で、芍薬園と言われていた時代でした。
芍薬園から植物園にチェンジするとき(昭和38年)、その苗を譲って戴いたのではないか・・・?
想像もします。
当時、私は未だ中学生、親しくお話し頂く関係でしたが、この二つの質問をすることはありませんでした。
 
花好きの住職は龍宝寺を花園に変えました。
清泉女学院、栄光学園を誘致しましたが、ご自身は玉縄幼稚園を作りました。
幼稚園児は花の園に囲まれて、幸せな毎日を、情操豊かに育っているのです。
屹度言っていられることでしょう。
”園児も花も同じように可愛い” と。
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                                           龍宝寺は一面芍薬畑です。
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                                      龍宝寺の白い栃の花(マロニエ)
 
 
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新しかった街の「マロニエ」の並木道

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日航機の墜落した昭和60年(1985)、私は長銀の大阪支店次長として勤務していました。
当時は未だバブル以前で、大阪圏の企業は競ってグローバル化を進めていました。
とりわけ、ベルリンの壁が崩壊し、東欧に新し商圏が発生すると企業は東欧圏に関心が注いでいました。
長銀は彼らの関心をフォローして、調査旅行を企画し、
同時に彼らをベルギーやスイスなどのローカルな証券市場や銀行に連れて歩きました。
私も、何度もお供をさせていただきました。
 
ブラッセルの街にも、ウィーンの街にもリンクと呼ばれる環状道路が走っていて、
トラムと呼ばれる市電が走っていました。
トラムに乗れば市内をグルッと回れますので、土地感覚は掴めますし、大凡の事は解りました。
ホテルの前からトラムに乗れば、宮殿や歌劇場、広場にでます。其処には大抵教会がありました。
トラムは更に進むと、決まって森のような公園に入りました。
森の中にはゆっくり市民が散歩している姿がありました。
その姿を見ると、ヨーロッパ人には「人生の愉しみ方」では敵わないと思いました。
背広を着て忙しく歩き回る自分はこの中世の色濃い街には不似合でした。
今頃の季節は、マロニエやアカシアの花が咲いていました。
 
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    今日の話題はマロニエの並木道です。今が盛りのマロニエの花(港南台高島屋の脇道で)
 
根岸線(桜木町~大船)が開通したのは昭和38年4月でした。
横浜の都心に近くても、「元町・根岸・磯子」など海岸沿いの街には電車はなく、不便な一角でした。
国鉄と住宅公団(双方共当時の名前)の共同プロジェクトでした。
屹度、港南台一帯は野鳥が豊かだったのでしょう。
住宅公団は集合住宅街区に野鳥の名前を付けました。
駅前には「ひばり団地」、その先は、「ツグミ団地」「ヒヨドリ団地」「コマドリ団地」「メジロ団地」など、
粋な名前を付けました。
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                            港南台駅前の開発風景(昭和30年代後半 公団HPから)
 
街路樹には、「野鳥が最も喜ぶ木を選択しよう」考えたのでしょう。
野鳥は木の洞や樹上に巣を作ります。
大事なことは、雨にも濡れず、猛禽やカラスに襲われないことです。
大きな葉っぱに隠れる「マロニエ」は最高の巣を提供してくれます。
加えて、花には濃い蜜を出しますので沢山の昆虫が集まります。
昆虫は野鳥の餌になります。
 
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             左の崖の上が「ひばり団地」、マロニエの並木は港南台高島屋(右奥)の前まで続きます。
 
昭和48年9月待望の高島屋が進出してくれました。
マロニエ通りは高島屋のイメージにもフィットしました。
団地に住む人は緑道を歩けば、横断歩道を渡ることもなく高島屋やバーズ(ショッピングセンター)
港南台駅に歩いて行けるのでした。
高島屋が進出した頃の港南台駅の昇降客は4万人でした。
私の住む戸塚駅は10万人を超えていました。
でも、港南台駅は戸塚駅を遥かに凌ぐ、お洒落で快適そうな街でした。
私は隣の街を眩しい思いで眺めていました。
 
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今でも計画通りにマロニエの街路樹は育っています。
緑陰を提供し、赤や白の花を咲かせています。
人たちは気持ちよさそうに街路樹の下を通り過ぎてゆきます。
 
でも、今港南台駅にゆくと、少し変わった印象です。
何処か、街全体がグレーに見えます。
人が少なく、老人が多く、活発だった商業施設は冴えない表情です。
ネットで調べてみると、港南台駅の昇降客は3万人に減少し、減少傾向に歯止めはかからない様子です。
「高島台団地現象」が港南台も襲っているのでしょう。
 
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   駅前の託児所から乳母車(?)で公園に出かけます。マロニエの下を通れば涼しいのです。
 
昭和30年代、40年代大量のサラリーマンが港南台に住み着き、子育てしました。
彼らは今定年を迎えて、通勤するも無く、子育ても終えました。
偶にする事と言えば、孫の面倒を見る事くらいです。
計画された団地は、当然のように成人の街から、老人の街に変わってしまいました。
そんな事は当時のプランナーにも解らなかった筈ありません。
「誠実なプランナー」なら、老人だらけになった街を想像して、その対策も講じていたでしょう。
年金問題とて同じです。
”老人の比重が重くなったら、どのようになるのか?”
対策を考えたでしょう。
でも、思考は此処で断線して、
「自分たち世代が愉快に過ごしたい」
「自分が働いている間は難しい将来の事は考えたくない」
「当面は年金をどのように使うか?」
考たのでした。
 
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                     高島屋の看板を背にしたマロニエの花。お洒落な街には良く似合います。
 
港南台の街(ハード)を否定するわけではありません、
でも、二世代、三世代の住人が一緒に住んでいてこそ共同体だ・・・、
といったソフトの考えが不足していたのは明白でしょう。
今からでも遅くはないので・・・・・、世代間が交流し、若い世代が同居しやすくするような施策が望まれます。
そうすれば、マロニエの街路樹はもっともっと美しく輝くことでしょう。
ブラッセルやウィーンのマロニエの並木道のように。
 
でも、一つだけ港南台のマロニエの道がブラッセルやウィーンに勝っている事があります。
それは、犬の糞です。
マロニエの道を歩いていて何度も犬の糞を踏んでしまいました。
革靴の底に引っ付いた糞には閉口しました。
港南台は清潔です。
 
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山手洋館の薔薇

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朝のNHK総合TVで東京文京区の古川庭園を案内していました。
そうか、もうバラが見頃なのか、私はバラを見たくなりました。
 
東京のバラの名所と言えば、大概は電鉄会社が郊外に作った「○○バラ園」とか「○○百花園」です。
NHKは「西洋館のバラ」を案内したかったのでしょう。
お蔭で、さして広くない古河庭園はこの週末大変な混雑でしょう。
 
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                                       山手資料館前庭の蔓バラ
 
「西洋館のバラ」と言えば、本命は「横浜山手の西洋館」、
その窓際や、庭のフェンスやアーチに咲くバラでしょう。
横浜市の花をバラにしたのも、西洋館が多く残っていたからでしょう。
 
今日(19日・土曜日)は青空で、快い風が頬を撫ででゆきます。
山手通りにはたくさんの人が出て、思い思いに5月を楽しんでいます。
それにしても、スケッチしている人が多くいます。
 
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                        山手資料館の前庭の薔薇、ガス灯の向こうは外人墓地です。
 
 
今日の午後は日文研で「白雪姫と日本神話」のレポートを聞く予定です。
レポーターは学生達です。
従来「白雪姫と御伽草子」と言ったテーマなら文化人類学者が発表し、話題にもなっていました。
白雪姫と古事記を比べるのは・・・・、冒険のようです。
でも、学生が調べ、考え、分析したのですから・・・・・、聞かなくてはなりません。
 
その前にバラの花を見ながらランチしたいと山手の「えの木亭」に向かいました。
ところが、お店は行列が出来ています。
スケッチする人も多くて混雑です。
 
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                                  ローズガーデンのフェンスに咲いた蔓バラ
 
私は山手資料館から、港の見える丘公園、そのお隣のローズガーデンに向かいます。
ローズガーデンの中には、赤い屋根と白い壁の「山手111番館」が建っています。
住所表示を用いているものには「山手234番館」等もあります。
一方で「エリスマン邸」のように住人の名前を取っているものもあります。
各国の領事館や商社マンの家だったのですから・・・・、
住所標示よりも人の名の方が建物のイメージが湧きます。
少なくとも、住人に失礼です。
山手11番館をやめて、イギリス人・ラフィン氏の邸宅でしたから「ラフィン邸」とか、
設計者の名前をとって「モーガン邸」と呼べば良いものを・・・。
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                       山手111番館のテラスのバラ。テラスで食事が出来ます。
 
 
 洋館を管理しているのは「横浜市資源局公園課」です。(「横浜市緑の協会」に委託)
何故文化財の管理がゴミ対策課なのか・・・・・、私にはわかりません。
もう、5年くらい前でしょうか?
中田市長時代に国の重要文化財であった「住友家別荘(戸塚区俣野)」が全焼してしまいました。
担当課がゴミ処理をするのですから・・・・、焼いてしまっても大して反省は無いのかもしれません。
1ヶ月後火事になった大磯の吉田茂邸は大磯町の努力で再建計画が進んでいます。
その為の募金活動も活発です。
私の住む町の唯一の重要文化財が消失したままであることは・・・、悲しい事実です。
 
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      ローズガーデン、背景の建物は「イギリス館(領事館)」もうむせ返る様なバラの香りでした。
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                丘の上の建物がイギリス館です。カメラの背後に近代文学館があります。
 
山手111番館の地下階はレストランになっていて・・・、矢張り「えのき亭」がレストランを運営しています。
「此処でランチにしよう・・・」プランを変更したのでしたが・・・・、こちらの行列の方が本店よりも長く伸びています。
仕方ありません、ランチは遅くして日吉の学食で済ますことにしましょう。
そこで・・・、えの木亭では名物の「バラのソフトクリーム」をいただくことにしました。(340円)
バラは目で観て、香りを嗅いで・・・・・、舌でも楽しまなくては・・・・・、欲張りな私ですから。
 
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              えの木亭のバラのソフトクリーム。向かいのレンガ建物は「大仏次郎館」
 
 
 
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円空以前(箱根塔ノ沢の阿弥陀寺で)

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私が円空仏に初めて接したのは、本州最果てに近い恐山でした。
大学生の私は、かねてから死者の魂が集まるという「恐山」に行ってみたい・・・、思っていました。
野辺地駅から1両だけのディーゼル電車に乗り換え、ススキの原を進み、むつ駅でバスに乗り換えます。
野猿が遊ぶ山道を1時間ほど登ると突然眼前が開けます。
エメラルド色の湖(于曽利湖)が出現します。
湖の手前側には沢山の噴火口があり、ブツブツと熱水を吹き出しています。
湖の此岸が灼熱地獄で、その先が美しい白砂の極楽浜、湖の対岸が極楽なのでしょう。
人が死んだら魂は北に北に向かいます。
そして、7日目に最果てに辿り付きます。
其処には三途の川(さんずのかわ)が流れていて、川を渡れば向こう岸は極楽です。
死者の魂が無事に極楽に行けるように、灼熱地獄の手前には沢山のお地蔵様が佇んでいます。
数名のイタコが死者の魂を呼び寄せていました。
円通寺の本堂で、初めて円空仏を拝みました。
以来、私の円空への熱は冷める事はありませんでした。
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           箱根明神ヶ岳の東山麓にある「阿弥陀寺」の参道。もうじき紫陽花が咲きます。
 
今週の26日私は日文研のセミナーで「円空仏を宗教社会学的に考察する」と題して話ます。(慶応日吉)
円空は美術美学史的な視点、現代美術(シュールリアリズム)の視点、民族宗教学的な視点・・・、様々な視点で研究されていますが・・・・、円空仏を取り囲む社会(中世から近世への過渡期)、円空仏を支えて家族・個人を視点にして検討しよう・・・、とするものです。
 
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    遠く谷間に見える温泉街は塔ノ沢温泉です。この温泉で皇女和宮は亡くなられます。阿弥陀寺はその      お位牌を守る寺で、増上寺からは特別な寺格を得ていますし、ご本尊の阿弥陀三尊は増上寺から贈られ    たものです。箱根阿弥陀寺で検索すれば総て確認できます。
 
そんな関心を持つと、円空以前が問題になります。
円空以前を考えると、弾誓上人(たんせい)に関心が寄せられます。
弾誓上人は円空と同じ美濃長良川の川沿い名古屋の郊外で生まれます。(天文20年(1551)~慶長9年(1604)
遊行聖として全国を行脚して回りますが、美濃武儀町(現関市)の観音堂(現阿弥陀寺)に入ります。
この観音堂に数多くの遊行聖が集まっていました。
白山道(飛騨道)と中山道の分岐に近く、自ずと聖が集まって、情報の交換や見識の向上に努めていたのでしょう。霊山白山の神は主峰が観音菩薩、脇が阿弥陀如来を本地仏としていました。
ですから、ここに集まる遊行聖や修験者は観音や阿弥陀を信奉していました。
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          阿弥陀寺の本堂、麓の民家を移築したもの。本堂手前の白い花は「藪てまり」の花。
          この寺では薩摩琵琶を教えていることでも著名です。
 
弾誓の弟子に但唱上人、その次世代の長音上人は作仏聖でもありました。
彼らは観音堂に籠って、仏様を彫りました。
円空は同じ長良川の下流15キロの岐阜羽島で育ちます。
お母さんは木地師の娘、お父さんは諸説ありますが(星宮神社の神主や富豪)所謂「父無し子」として育ちます。
しかし、7歳の時長良川の洪水によって母を失うと、寺に預けられます。
寺の近くにはこの観音堂がありましたから、
少年円空は但唱上人等が彫った素朴な仏像を見詰めて育ちました。
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    境内の六地蔵と阿弥陀様。背後はアジサイです。背後の山は明神ヶ岳です。
    本堂の裏350メートルに弾誓上人の篭った岩屋があります。
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   本堂横の転宝輪(マニ車)、天明年間の作、250年余、ガラガラ転がって人の願いを聞き入れてきました。
 
弾誓上人の墓は京都大原から少し北、古知谷阿弥陀寺にあります。
同寺を筆頭に全国に300余りの阿弥陀寺を建立し、30寺が残っています。
神奈川県には大山の麓の浄発願寺や箱根塔ノ沢の阿弥陀寺が現存します。
大山は南関東筆頭の修験の霊場ですし、塔ノ沢の阿弥陀寺は明神ヶ岳の東山麓にある修験の霊場でした。
ですから、弾誓上人は江戸時代の初期に全国の修験霊場をめぐって、遊行聖(高野聖とか熊野聖も含めて)のサロンとも言える寺を建てて巡ったのでしょう。
諏訪大社の近くにも阿弥陀寺を建立しました。
諏訪大社の春宮の近くにある巨大な石仏「万治の石仏」は弾誓上人の弟子「但唱上人」の作と言う人も多くいます。
同阿弥陀仏には発願者の名前は刻まれていますが・・・・、石工の名は残されていません。
しかし、円空以前の仏像に共通する「巨大な鼻、意思的な表情、素朴な技法」など修験者の作品として共通する特徴が伺われます。
 
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万治の石仏も弾誓一派の作品でしょう。このことは下記に書きました。
 
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          円空(初期)/東津軽郡蓬田村正法院聖観音像(1667年)(朝日新聞 1994年円空展の図版)
    
伊吹山で修験を収めた円空は1666年全国遊行の旅に出ます。
松前船に乗って金沢から蝦夷(北海道)に入ります。
蝦夷から海峡を渡って、恐山に入ります。
恐山には2体の円空仏が残っています。
この頃(初期)の円空仏にはあの自由さ、明快さは無く、鉈彫りの鑿あとは無く、只管真面目に几帳面に、儀軌(仏像の決まり事)に忠実に彫っています。
大半が観音様であることは、母の冥福を祈っての事でしょか?
 
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     円空(中期)法隆寺の大日如来。(1673年43歳)飛鳥仏の影響が色濃い(出典は前と同じ)
 
1673年円空は斑鳩の法隆寺西円堂に現れます。
行基が建立したこのお堂は遊行聖の溜まり場でした。
そして、円空は師と仰ぐ行基の匂いの残るお堂です。
ここで、円空は大日如来を彫って、法相宗(現聖徳宗)の血脈を受けます。
血脈とは「仏教の精髄を理解した」証明書のようなものです。
飛鳥仏を勉強した・・・・、仏師の技法を学んだ・・・、その証だったのかもしれません。
円空の中期の作品に飛鳥仏の影響は色濃く現れます。
 
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  阿弥陀寺境内には2基双体道祖神が祀られています。ご住職(水野賢世師は薩摩琵琶を教え、質問 をすればパソコンを開いて教えてくれるし・・・、大変に懐の深いご住職と思いまし た。この石仏もそんなご住職の人柄を示すものでしょう。
 
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              お地蔵さん「ちゃんのおへそはお母さんの・・・」と刻まれていました。
 
 
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三渓園の「ホタル狩り」を盛んにしたい!

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「水清ければ魚棲まず」と言います。
ところが、清流の魚と言われる「鮎」や「岩魚」は清流でなくとも、
食べ物の川苔や水性昆虫が棲んでいれば生息します。
現に、私の住んでいる横浜倉田を流れている柏尾川の最大魚種は鮎なのです。
 
今年も6月3日から横浜本牧の三渓園では「蛍鑑賞の夕べ」が開催されます。
普段は4時に閉園されるのですが、蛍の季節は夜も開きます。
三渓園の名前はここの明治の富豪「原富太郎」の雅号「三渓」をとったものでしょうが・・・、
何故三渓を雅号にしたかと言えば、此処に三本の渓流があったからでしょう。
山峡から流れ出した渓流は「大池」に注ぎます。
 
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                              三渓園の「蛍の夕べ」案内ポスター。菖蒲と蛍が呼び物です。
 
三本の渓流の中で最も北にある渓流が最大です風情があります。
紅葉や梅林の中を流れます。
此処に蛍が飛ぶのです。
蛍はこの渓流に自生しているもので、椿山荘のように養殖蛍を買ってきて飛ばせるのとは訳が違います。
蛍の幼虫が食べるカワニナと言う田螺がこの渓流に生息しているので・・・・・す。
 
東戸塚小学校の水槽で生育していますから、子供たちはカワニナが何を食べているのか知っています。
流木や落ち葉に生える藻、泥や砂の中の有機物などを 食べます。
また、水に落ちた昆虫、魚やミミズなどの死肉を食べて います。
ですから、蛍は少し汚れた程度の川が好きなのです。
近年、蛍を見かけなくなったのは農薬のせいです。
農薬を田畑に撒いたので、カワニナもホタルも、トンボも皆んな殺してしまったのでした。
 
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                三渓園、北側の渓流、この楓の下に蛍が飛びます。向こうの草庵が「横笛庵」です。
 
今年三渓園では全く藤の花が咲きませんでした。
躑躅も遅れているようです。
天候不順の影響でしょうか?
植物が不調ならば蛍も影響を受けそうな心配が生じます。
三渓園ボランタリーの人に
「今年も蛍は飛ぶのでしょか?」訊いてみました。
 
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                                      新緑の眩しい三渓園の内苑春望閣
 
 
『蛍は昨年も少ししか飛びませんでした。
今年はもっと少なくなって・・・、お客さんを落胆させまいか・・・、心配しています。』
なんとも、心細い返事です。
「蛍鑑賞の夕べ」を開催して、肝心の蛍が飛ばなければ入園料(500円)返せ・・・・!
言い兼ねられません。
三渓園の園内で蛍を自生させるのは見識です。
でも、「三渓園の園内で蛍を自生させるプロジェクト」を本格的に立ち上げる必要がありそうです。
子供たちもボランタリーの叔父さん叔母さんもこんなプロジェクトなら目の色を変えて挑戦する事でしょう。
 
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             三渓園の大池、左の船の先、桜の植え込みの中に水の浄化プラントが隠れています。
 
三渓園の大池の北の畔に「水質浄化プラント」があります。
プラントの多くが地中に埋まっていますし、周囲を桜(南側)と山茶花(北側)等が蔽っていますから・・・、
其処が大池の水を浄化させている事に気付きません。
この浄化プラントを新しいものに更新して、その隣でカワニナを生育させ、蛍を育てれば・・・、良いと思います。
 
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     渓流の脇に横笛庵があります。草庵風の建物で、茅葺き屋根の大棟は「芝棟」で、一発の花(乾燥地で     も育つ菖蒲のような花)が咲いていたそうです。
 
渓流の脇に「横笛庵」があります。
高山樗牛の「瀧口入道」で書かれた悲恋物語です。
 
和泉式部の歌に「沢の蛍」があります。
 ものおもへば沢の蛍もわが身より あく がれ出づるたまかとぞ見る
 
貴方の事を想い病んで鞍馬山の沢にまでやって来ました。
私の恋心が霊(たま)になって、体から抜けて蛍になって飛び出したようです・・・。
そんな意味でしょか?
こんな歌を詠まれたら・・・、男性は観念して和泉式部に囚われてしまった事でしょう。
 
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     横笛庵の庵主であった横笛の人形。落髪した比丘尼(びくに)の姿で書を読んでいるようです。
     物思いに沈んでいるように見えます。
 
この渓流の脇に庵を移築して「横笛庵」の名をつけたのは「沢の蛍」を思い浮かべたから・・、かも知れません。
三渓園の案内では
「この庵には横笛の像がありました。滝口入道の書いた恋文を紙粘土に戻して・・・、人形にしたものです。
ただ残念な事に横浜大空襲で消失してしまいました。」
書かれています。
庵を再建したのなら・・・、横笛像も作れば良いのに・・・、思ったりしますが。
未だ、作ってくれません。
 
三渓園は一昨年「国の名勝」に指定されました。
昨年は臥龍梅の南に茂っていた竹藪を伐採しました。
梅は見違えうほど元気を回復しました。
蓮池の周囲も整備しましたし、花菖蒲も増えました。
でも、最大関心は水の浄化であり、蛍の自生プロジェクトでないでしょうか?
 
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     現在の三渓園の水質浄化プラント。この地中にあるようなのですが・・・、有効なのでしょか?
     筆者はこのプラントの更新と合わせて、此処で「三渓園蛍の自生プロジェクト」の立ち上げを期待しま       す。
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                     羽を乾かす鵜、向こうの黄菖蒲の花の先に水質浄化プラントがあります。
 
 
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箱根宮城野の夫婦道祖神

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5月20日(日)、躑躅を見ようと箱根に出かけました。
小涌谷の三河屋旅館や蓬莱園の躑躅はもう盛りを超えてしまっていました。
花を追って、箱根山を上に上に追って行くと、芦之湯温泉辺りが花の盛りでした。
 
日本武尊も箱根を超えて、東征の旅をします。
箱根の温泉は奈良時代には使われていました。
戦国時代には負傷した兵士の湯治場にもなったでしょう。
江戸時代には湯治場として、避暑地として人気が盛り上がります。
箱根湯本から早川の渓谷に沿って芦之湯まで7つの温泉が繋がりました。
この湯治場を結ぶ道が「湯の坂道」と呼ばれ、現在の国道1号線になっています。
湯の坂道には沢山の石仏が祀られています。
何といっても芦之湯の背後「精進池」の池畔には地蔵石仏群があります。(鎌倉時代国の重文)
そして江戸時代には湯治客を出迎え、見送る位置に道祖神が祀られています。
屹度、湯治客が沢山来て欲しい、そして彼等の旅路の安全を見守ったことでしょう。
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                                            箱根地蔵石仏群
 
塔之沢温泉から湯の坂道を分岐して、仙石原に向かう道に入ります。
高台の上が強羅温泉です。
強羅は先ず箱根登山鉄道を開発して、強羅駅の周辺を別荘として開発しました。
東急グループの多摩田園都市と同じ開発手法です。
鉄道敷設投資を沿線の開発利益で回収します。
強羅温泉は箱根の主峰「神山」の山麓にあって、向かいが箱根外輪山を眺望します。
修験道の霊山「明神ヶ岳(大文字山)」「明星ヶ岳」が真正面です。
明治中頃の開発でした。
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      手前が宮城野温泉、高台の上が強羅温泉。高い山が神山、神山の横腹の噴火口が「大涌谷」
 
大正時代になると強羅の真下、早川の渓流沿いに宮城野温泉を開発します。
主として企業向けに「社員保養地」として分譲します。
屹度この辺は萩の花が自生していたのでしょう。
宮城野は萩の枕詞です。
 
宮城野温泉も江戸時代に習って、夫婦道祖神を祀りました。
道祖神は5基あるそうですが、夫婦道祖神は3基あるようです。
箱根ビジターセンターで貰ったマップを片手に、明神ヶ岳の登り口を道祖神を探して歩き回りました。
 
道祖神には「何時、誰が奉納したか」刻まれていることが多いのですが、此処の道祖神にはそれがありません。
歴史の深い箱根で「大正時代」は刻みたくなかったのでしょうか?
でも、道祖神の周囲の住人に聞けば直ぐにわかります。
勝俣家の庭先の夫婦道祖神は大正12年1月14日に勝俣末次郎氏が奉納したものだそうです。(上の道祖神)
そして、今も毎年小正月の1月14日に盛大に火祭りが催されるそうです。
大きな飾り小屋(オンベ)を建ててその周りに門松や達磨を集めて、燃やします。
 
3基の道祖神のうち諏訪大社の参道に近い「向かいの道祖神」のお顔は欠けてしまっています。
お顔のあった辺は煤けています。
屹度火祭りの炎が道祖神のお顔を焦がしてしまったのでしょう。
石は火と氷に弱いのです。
焼けてしまって・・・、ボロボロとお顔が剥がれてしまったのでしょう。
廃仏毀釈等で壊されたのではありません。
しっかり祀った結果、壊れてしまったのですから・・・、自然な事です。
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                         向いの道祖神。火祭りでお顔が壊れてしまったようです。
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      道祖神のある辻、向かいの山が神山で、高台が強羅温泉です。
 
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                               宝珠院前の「東の道祖神」
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  【お詫び】
  これから出かけます。
  夕方帰宅しますので、それから書き上げます。
  残りはエンディングだけです。
 
 
 
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