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東光庵の女性羅漢像

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お釈迦様は男女の差別をしませんでした。
でも、中国を経て日本に伝わった仏教は、男女の差別をしていました。
”女性は生来五つもの障害があるので成仏(悟ること)出来ない”と説きます。
ですから、比丘尼の守らなければならない戒律は比丘の戒律よりも数倍厳しいものがありました。
”女性とて成仏出来る・・・”
根拠を法華経に求め、女性は一度男性にチェンジして、成仏する(変性成仏・龍女成仏)と説きました。
鎌倉新仏教の親鸞、道元日蓮等は”女性蔑視”との戦いでもありました。
女性が女性のまま成仏できる・・・・、最初に説いたのは日蓮上人でしょう。
 
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  今日の話題は箱根芦之湯「東光庵」の羅漢像。
  女性と思われる羅漢が多く、女性蔑視の考えが吹き飛んでいます。
 
 
目黒の五百羅漢には赤子を抱いた女性の羅漢像もあります。
ですから・・・、江戸時代には、羅漢には男女の区別がなかった事と想像します。
修行さえ積めば女性も悟ることができて、羅漢になれる、一般的に考えられたのでしょう。
でも、五百羅漢でさえ大半の羅漢像は男性です。
”女性羅漢も居ないだろうか・・・” 探してようやく見つかります。
 
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                              安藤広重作、箱根芦之湯
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             明治の芦之湯「紀伊国屋旅館」(紀伊国屋ギャラリー)。右奥が東光庵のある熊野神社
 
 
江戸時代箱根は湯治場として人気が盛り上がります。
湯の坂道沿いに「箱根七湯」が連なり、江戸から様々な人が湯治に遣って来ます。
海に近い箱根湯本から、箱根駒ヶ岳の山麓にある芦之湯まで続きました。
最も栄えたのが「芦之湯温泉」で、松坂屋、紀伊国屋二軒の旅館が競って集客しました。
紀伊国屋旅館の門前には「明治天皇・皇后陛下がご静養された」記念碑が立っています。
何でも、芦之湯の湯元の大涌谷は地獄谷とか地獄湯とか呼ばれていたのだそうです。
天皇が使われるお湯が「地獄湯」では問題がある・・・、というので「大涌谷」と改名されました。
 
紀伊国屋の門前には「箱根八里」の碑が立っています。
滝廉太郎は紀伊国屋で作曲したのだそうです。
また、松坂屋のお庭には「西郷隆盛・木戸孝允密談の碑」もあります。
明治までは最も栄えた温泉だったのでしょう。
今は寂れてしまって・・・、心配です。
 
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   正面が駒ヶ岳、池は精進池。池の上段、右上に温泉の出る葦の原があって、
   そこを干拓して芦之湯温泉になりました。
 
 
松坂屋の裏の高台に熊野神社が祀られています。
松坂万右エ門は湿地で葦の原であった一帯を干拓します。
そして「芦之湯温泉・松坂屋」を開店します。(1622年)
 
その境内に松坂屋の六代目「萬右衛門賢宣」は「東光庵」という名のサロンを建築します。
大磯の鴫立庵の箱根版のような建物です。(鴫立庵より大きいが)
湯治客とて朝から晩までお風呂に入っているだけではふやけてしまいます。
空いた時間は箱根神社に詣で、地獄石仏群や地獄谷を物見遊山し、
サロン「東光庵」に立ち寄れば、囲碁や将棋そして俳句や連歌を楽しめたのでしょう。
 
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   箱根の東光庵。1871(明治4)年に火災を出し、1882(明治15)年に廃庵となりましたが、発掘       調査や文献資料に基づき平成13年(2001)に復元されました。
   現庵主は中曽根康弘元首相です。
 
芦之湯温泉の浮世絵は安藤広重が描いてくれました。
江戸から有名な文人がやって来て(招いて?)・・・、
芦之湯の名を有名にしてくれました。
芭蕉(1644~1694)、賀茂真淵(1697~1769)、本居宣長(1730〜1801)、狂歌師・蜀山人(大田南畝/1749~1823)、国学者・清水浜臣(1776~1824)等が逗留し、作品を東光庵に残しました。
     (芭蕉が逗留したかは不確かですが、芭蕉門下の句会は盛んに行われました。大磯鴫立庵と      共存・共栄でした)
 
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            逗留と定めて旅の月見かな(祖友)の句碑。右の羅鑑像も比丘尼風です。
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 しばらくは花の上なる月夜哉 貞亨5年(1688年)芭蕉45歳の句。 
 文化12年(1815年)、大磯鴫立庵遠藤雉啄建立。
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庵主中曽根康弘さんの句碑。 最も優れている・・・、感服します。
 
東光庵は駒ヶ岳の山麓にあります。
その土手に十六羅漢像が置かれています。
どの像も十六羅漢の一体ですが、表情を見れば文人風で、句作に黙考している風です。
筆を取って、練られた作品を記そうとしている人もいます。
私が関心を持つのは、半分以上が女性であることです。
東光庵や芦之湯温泉に逗留したお客さんの半分は女性だった・・・、推測させてくれます。
 
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                         十六羅漢像の全容
 
中国で作られたお経は大半が「偽経」と言われています。
漢代や唐代において盛んにお経が作られました。
中国の常識や社会体制に沿った、男性優位、女性蔑視の視点でつくられたものです。
それが、日本に伝わって・・・、”ありがたい、尊いお経だ”と尊ばれます。
でも、内容は理解しません。
 
女性蔑視の思想を克服するのでも無く・・・、
江戸時代には男女差別が無意味であることを理解していたのではないでしょうか。
東光庵の十六羅鑑像を見ていると、そう思います。
江戸時代に初頭には女人禁制の霊山や修験の聖地が次々に解放されます。
でも、島原の乱、由井正雪の乱などを経て、急速に閉塞した社会になってしまいます。
 
あの時に、お相撲の土俵も女性に解放されていれば・・・・、
相撲も、日本の社会も随分変わったものになっていたことでしょう。
 
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                  音曲を演奏している女性の羅漢像
 
 
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箱根25菩薩石仏群

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箱根「湯の坂道」は箱根駅伝の見せ場です。
22キロ余り、箱根湯本で襷を引き継いだ5区ランナーは、一気に上り道を駆け上がります。
最高地点は「芦之湯温泉」です。
温泉を超えれば、あとは芦ノ湖に面した元箱根の往路ゴールまで下り道、転がるように走り抜けます。
その途中、精進池の畔に石仏群が800年もの間佇んでおいでです。
 
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    箱根駅伝のコース(湯の坂道)から見た駒ヶ岳、手前は精進池。池の東岸に石仏群が祀られています。
 
小学校、4年生の夏でした。(昭和31年)
芦之湯の紀伊國屋旅館で2泊三日の林間学校がありました。
明治天皇が泊まられた老舗旅館でしたが、その頃は林間学校の生徒も受け入れていたのでした。
何しろ、大部屋が沢山ありましたから、小学生を詰め込むには適していたのでしょう。
大部屋や長い廊下は子供心に興奮しました。
夜になると、庭の池に沢山の源氏蛍が飛びました。
誰かが言います。
「あれは人魂なんだよ!此処は沢山の人の霊が集まる場所なんだよ・・・・」
翌朝、温泉から駒ヶ岳に登りました。
山頂で強い風にあおられて・・・、六つはぎの帽子を飛ばされました。
母には叱られました。
「帽子は高かったのだから・・・・」
その様子を見ていた兄が言ってくれました。
「夏休みの宿題に駒ヶ岳のジオラマを作ろう・・・!」
25万分の1の地図を買って、等高線にそってボール紙を切り取ります。
数十枚のボール紙を地図通りに積み上げれば駒ヶ岳の立体図ができました。
絵の具を塗って、透明ラッカーで保護すれば見違えるほどに綺麗になりました。
兄の指導を受けましたが・・・、夏休みの宿題では一番の評価を受けました。
 
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      芦之湯温泉紀伊国屋。現在ミュージアムとなっています。
      右側の碑は明治天皇・皇后ご休息の記念碑です。
 
高校、大学と芦之湯温泉には思い出が詰まっています。
とりわけ大学の時、日本文化研究会の浅子教授に連れられて、箱根石仏群を見学しました。
その時の感動は今も鮮明です。
私の石仏への関心も、姿勢もこの時に教わったものでした。
銀行員になってしまった私でしたが・・・、今も感謝の気持ちが詰まっていますし、
時々、この箱根石仏群を見学に来ます。
(以下は以前に書いたブログ)
 
この石仏群は鎌倉長谷寺の開基「忍性」が、奈良元興寺で活躍していた石工集団「大蔵安」を招きました。
鎌倉から見れば箱根は都との境目、加えて芦之湯の一帯は荒涼とした湿原で、温泉が湧き出ていました。
近くには地獄谷(大涌谷の古名)もあるし・・・・・・、綺麗な池もありました。
池の周囲にはゴツゴツとした大岩が突き出ています。
溶岩が地中で冷えて出来た安山岩です。
岩の中でも精進池の北側、ピラミッドのような大岩が石工「大蔵安」を刺激しました。
 
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            芦之湯の地蔵石仏群(通称25菩薩)、三角錐の大岩の下部に阿弥陀如来が彫られていま              す。他の菩薩は総て地蔵菩薩です。
            駒ヶ岳の山頂から阿弥陀如来が24地蔵を従えた・・・「立体来迎図」でありましょう。
 
当時も都では阿弥陀来迎図が人気でした。
阿弥陀様が天上から、山頂から、雲にのって衆生を救済にやってくるのです。
阿弥陀如来は沢山の菩薩を従えています。(24菩薩)
その中には、誰も乗っていない蓮台(仏座)を捧げている菩薩や天女がいました。
それは、いま現世を去ろうとしている人の魂を乗せる「席」でした。
 
でも、此処は地獄谷ですし、大蔵安は地蔵を信仰していました。
そこで、24菩薩は全て地蔵菩薩にしました。
阿弥陀如来を最大にして、西を向かせ、その背後に天女を一人置きました。
天女には蓮台を一つ持たせて、
「さあ!どうぞお乗りなさいな・・・!」
腰を屈めて蓮台を差し出させました。
 
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       地蔵尊の左上に天女が一体彫られています。これは魂を乗せる蓮台(仏座)です。
 
何時もは午後にこの石仏群を訪れます。
理由はこの石仏群が西向きに立っているからです。
でも、今日は躑躅見物の途上です。
まだ昼前ですから・・・・、主尊の阿弥陀様は日陰でも、裏の石仏群にはお日様が当たっています。
何時もは見落としてしまう地蔵尊を見つめられます。
 
東向きの地蔵尊には庇がかかっていた事が解ります。
今の国道1号線の位置に「湯の坂道」が通っていて、
拝観者は其処から少し降りてきて石仏群の前に出たのでしょう。
今の六道地蔵や臼杵の大仏のように、石仏は風雨に曝さない様に庇が囲っていたのでしょう。
 
地震が起きる度に、箱根石仏群は大丈夫だろうか?
気掛かりです。
昨年の3.11東日本大地震でも・・・・・、大丈夫でした。
大きな宝篋印塔(多田満仲の墓 永仁4年(1296年)の銘がある)は少しも傾いていません。
箱根の安山岩は黒いものの、硬いのでしょう。
加えて奈良の石工の腕が良かったのでした。
 
関東の石仏は大半が江戸時代以降です。
本格的な都の石工、それも鎌倉時代の石仏は貴重ですし、美しい、と思います。
とりわけ、四季色々と変わる箱根の景色の中にあると、様々な表情を見せてくれます。
 
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    多田満仲の墓(宝篋印塔) 精進池の池畔にあります。
    北面のみ如来が彫られていて残りの面は梵字です。
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             精進池の池畔にある通称八百比丘尼の墓。宝篋印塔の上部が欠けています。向こうの山             が駒ヶ岳。阿弥陀如来は24の地蔵菩薩を従えて、山頂から衆生の魂を迎えに降りて来た              ・・・、そんなロケーションで石仏群はデザインされています。
 
 
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     箱根地蔵石仏群の東面野全容。中央二尊の上部に庇を付けた遺構(庇穴)が見えます。
     拝観者は道路から池の淵に向けて3メートルほど下って、この庇の前から拝んだと思います。
 
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    石仏群の背後に見える白い花は「藪てまり」でしょうか?所々躑躅も見られます。
 
 
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”吸い葛の花”に託した想い

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野山に「吸い葛」の花が目立つ季節になりました。
白い蕾が花開くと徐々に黄色く変化してきています。
白と黄色が並んだ花が「金の花」「銀の花」に見えるので、別名を”金銀花”と呼びます。
 
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   蕾の時は白で、花開くと直に黄色くなってしまう”吸い葛”です。今が見ごろです。(柏尾川遊歩道で)
 
30年前、我が家の北側の生垣に夾竹桃を植えました。
北側でも育つし、防風にもなると考えたのでした。
ところが考えが甘かった。
夾竹桃の生命力は壮ましく、木は生い茂るは根が張って下水管を壊すは、大変な負担になりました。
垣根には山茶花が良かった・・・、後悔先に立たずで、毎年刈り込みに苦心しています。
 
 
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                            我が家の吸い葛、花陰にカタツムリがいました。(左下)
 
生命力の旺盛な夾竹桃に勝るのが「吸い葛」です。
蔓こそさして太くは無いのですが、細かく枝分かれしながら夾竹桃に覆いかぶさっています。
葉が生い茂って既に夾竹桃の葉も蕾も見えません。
このままならいずれ夾竹桃は枯れてしまうかも知れません。
”それも良いか”思ったりしますが。
あんまり吸い葛が繁茂すると、お化け屋敷のようですし、貧乏くさいので・・・・・、
花が終わったら夾竹桃と一緒に刈り込もう・・・、とも思いますが・・・・・、
その頃、私はどうしているか? 少し心もとない最近です。
 
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吸い葛の花を引き抜くと、ラッパ状の花弁が出てきます。
花弁の根元を吸うと甘いのです。
子供の頃、甘いものが欲しくて、この花を引き抜いて・・・・、チュ・チュ・・、と吸って遊びました。
英語の名前が「Honeysuckle」ですから、英国人も日本人と同じようにして遊んでいたのでしょう。
 
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     吸い葛の花、左端(子房の位置)に花蜜が溜まっています。これを吸うので”吸い葛”と呼びます。
 
吸い葛が日英共通するのは偶然でしょうが、その生命力に驚異したのは洋の東西共通だったようです。
と言うのは、吸い葛は「忍冬」とも呼びます。
忍冬唐草として模様の代表になっています。
引越しで使う大風呂敷や獅子舞のボディーになっている・・・、深緑色に白く染め抜かれた模様です。
唐草と言うように中国から伝って来ました。
冬にも耐えて葉を落とさないので”冬を忍ぶ”と書きました。
 
忍冬模様はペルシャからシルクロードを伝って唐を経て日本に伝わりました。
法隆寺の平瓦の先端には美しく伸びやかな忍冬の模様が描かれています。
法隆寺が末永く存続するように・・・、祈願したのでした。
期待通りに法隆寺は世界最古の木造建築になって・・・、日本人の心の支えになっています。
 
我が家の北側では、如何ともし難い吸い葛ですが・・・・・、古代から日本人の心に深く根ざした葛でした。
 
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       法隆寺平瓦、模様が忍冬唐草模様です。(国立博物館HPから転載)
 
 
 
   玉葛 花のみ咲きて 成らざるは 誰が恋にあらめ 吾は恋ひ思ふを
巨勢郎女(こせのいらつめ)が大伴安麻呂の誘いに応じて贈った歌でした。(万葉集巻2-102)
玉蔓とは吸い葛とは限りません。
定家葛かも、真葛かもしれません。
でも、誰もが吸い葛だと思っています。
 
何故か?
それは万葉人も吸い葛の甘い蜜が好きで、チュ・チュとやっていたと思わるからです。
だから・・・、恋心を託すには玉鬘は吸い葛に違いありません。
 
ところで、歌の意は次のような事でしょう。
 
 吸い葛(玉蔓)は花が咲いても実がなりません。そんな”ならない恋”をするのは一体誰でしょうか?
 人は知らないのですが、私は恋しいのです。
 
巨勢郎女が大伴安麻呂の誘いに応えて・・・、
”今晩やってきて・・・・、チュしても良いわよ!”
とまで答えてはいないかもしれませんが・・・、
万葉時代のおおらかさが伝わってきます。
 
 
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                                              柏尾川の土手を埋めた吸い葛の花
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      吸い葛を居間で活けてあげました。垣根を覆っていた時には憎らしいほどの花でしたが、
      花瓶に入れれば中々可愛い花です。
 
 
 
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12万体目の円空仏(尽きぬ疑問)

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5月26日(土)慶応大学日吉校舎で、日本文化研究会で私の円空に関しての研究報告を終えました。
従来の円空研究の視点が、美術美学史的、又は民俗学、民芸愛好者、シュルリアリズム(超現実主義)に偏したりしているように思います。
私は宗教社会学的な視点や手法で研究したら、一層分かり易い・・・、と考えて報告しました。
何故なら、円空仏がどうだこうだ言う前に、円空自体が一人の遊行僧という江戸時代初期に生きた宗教人であったからです。
円空がお釈迦様と同じように全国を托鉢してまわり、一宿一飯のお返しにその家のご本尊を彫ってあげます。
中世から近世に変わる境目の時代にあって、
一人の作仏聖とそれを支えた農村社会に視座を置いて研究するのが解り易い、と考えました。
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                               慶応大学日吉キャンパス。銀杏の緑が鮮やかでした。
 
毎回のように、報告が終わると沢山の質問や意見が集中します。
聴講いただいた人からの質問が楽しみであり、更に刺激になります。
今回も、その幾つかを記して、今後の研究の材料にしようと思います。
 
【円空の誓願した弥勒浄土とは】
1654年、24歳の青年僧円空は郡上美並の寺を出奔し、伊吹山の太平寺に入り、修験道を極めようとします。
更に、1665年35歳の時松前船に乗って蝦夷地に向かいます。
12万体の仏像を彫り上げる事を誓願します。
数値目標は12万体であっても、宗教人としての目標は何だったのでしょうか?
円空の残した和歌や仏像の背に残る墨書から推して、
「死後に浄土に生まれ変わるのではなく・・・・、現実の農村社会が弥勒浄土になるように・・・」
その役に立ちたい・・・、誓願して遊行聖、作仏聖の旅に出たと思います。
 
円空は”父親の無い子”として生まれ、母親一人に育てられます。
父親は誰か、そして何故捨てられたか? 疑問が生じます。
父親は郡上美並の富豪(星宮神社の宮司西神頭安永と言う研究もあります)で、
木地師の娘に子を孕ませてしまった。
そこで、娘を美濃羽島に追いやって・・・、日陰で育てさせた・・・・、というところが通説のようです。
しかし、円空7歳の時母は長良川の洪水で亡くなってしまいます。
 
こうした事実から、円空の目指した弥勒浄土とは・・・・、
親子が揃って暮らせる家・・・、とか洪水や飢饉が無い平安な社会・・・、とか言った事が考えられます。
青年円空の記憶には島原の乱(1637年)や由井正雪の乱(1651年)があったでしょう。
そして、封建領主に抵抗した農民一揆、国一揆の筵旗には「弥勒浄土」が掲げられている事も知っていたでしょう。
円空が義民になることでなく、仏像を彫って回る事を選択しました。
母を奪ったのも長良川、母を自分を育てたのも長良川・・・・、
ならば長良川を弥勒浄土に変えたい・・・、
そんな誓願であったのだろう・・・、私は推測します。
 
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    中宮寺弥勒菩薩像。円空は法隆寺で修行中朝な夕なに接したでありうと思われます。弥勒菩薩は釈迦入    滅56億7千万年後地上に降りてきて救済してくれる・・・・・、メシア思想の仏です。しかし、そんな長い先の    ことでなく、現実世界を救済して欲しい・・・、そんな願いから、一方では百姓一揆等の理念的裏づけになり    ます。円空の信仰の中核は弥勒信仰であった事は和歌等で確実ですが、肝心の弥勒仏が無いのは解せ    ません。
 
【12万体目の円空仏】
円空は蝦夷地から下北の恐山や津軽を遊行します。
しかし、津軽藩は円空を追い払います。
江戸幕府は島原の乱に懲りて遊行僧を厳しく扱い始めたのでした。
僧侶は何処かの寺院に定住して・・・・、管理しやすくしたい考えたのでしょう。
この頃から円空には幕府嫌い、天皇好き・・・、の傾向が現れてきます。
 
1673年42歳の円空は法隆寺に入り、法相宗の血脈を受けます。
丁度、亡母の33回忌にあたります。
更に修験道の総本山とも言うべき大峯山に入り、日本神道の核伊勢志摩をめぐります。
故郷に戻ると、すぐさま琵琶湖の東、三井寺に入ります。
三井寺は推古天皇以後、天智天皇らの寄進した4体の弥勒佛がご本尊の「弥勒信仰」の寺でありました。
ここで大僧正直々の血脈を受けます。
弥勒を信仰する法悦の和歌を残します。
円空の心の核に弥勒の二文字がくっきりと刻まれた事でしょう。
 
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                                             三井寺 善女龍王像
 
更に日光から湯殿山をめぐり、飛騨千光寺に入ります。
1690年(59歳)の時、故郷に近い岐阜県吉城郡上宝村金木戸に入り、
桂峯寺で十一面観音、善女龍王、今上皇帝像を彫ります。
今上皇帝像の背に「10万体達成」と墨書します。
十一面観音は白山(日本三霊山)の本地仏です。
善女龍王とは長良川の治水の神様で、母の面影でありましょう。
で、今上皇帝は・・・・・?
今上皇帝とは多分現人神の「天皇」のことでしょう。
幕藩体制が締め付けを厳しくしている時に、天皇を彫るのは・・・、勇気ある行為だと思います。
10万体出来たのですから、目標の8割達成です。
もう、先が見えた・・・、喜びを感じます。
ならば・・・・・・、目標の12万体目は何仏にして、何処のお寺に納めたのか・・・・、大いに気になります。
 
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        桂峯寺 十一面観音(中央)、善女龍王(左)、今上皇帝像(右) 。今上皇帝像が10万体目でした。
 
1691年(60歳)円空は遊行中に書き留めた和歌を整理して、「熱田大神金渕龍王春遊」と表題をつけます。
遊行聖として必要な旅道具を整理します。
故郷に弥勒寺(関市)を再建し、三井寺の末寺に認めてもらい弟子の円長に血脈を与えます。
人生の締め括りの準備を進めたのでした。
1695年、64歳の盂蘭盆会に、自ら掘った土の中に入ります。
遊行中に見聞したと思われる湯殿山の即身成仏を我が身を以て実行したのでした。
穴は大事にした藤の花の下に掘りました。
地中からチリン・チリン鈴の音が止まったら、入定した合図です。
「この花が咲く間、私は仏になってこの地を守る」、と語ったと言い伝えられます。
現代風に言えば「樹木葬」という事になります。
 
私の直感では円空のミイラ(即身成仏)が12万体目の仏像であった・・・、
そして最初にして最期の弥勒仏だった・・・、思うのです。
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      円空の自刻像と言われる。円空はこんな表情で即身成仏したい、思ったのでしょか?
(弥勒寺の円空館所蔵です。朝日新聞円空展目録から転写)
 
【円空に少ない仏】
円空は法隆寺の西円堂で大日如来を刻みます。(1673年43歳)
その時、法隆寺の飛鳥仏をまじかに見て、深く勉強します。
ですから、円空の仏には飛鳥仏の影響が色濃く残っています。
当然、中宮寺の弥勒菩薩も拝んだはずです。(上段の写真)
でも、円空は”真似できない”思ったのではないでしょうか?
三井寺では7体ほどの仏像を収めていますが、全て善女龍王像で、
火災からお寺やお経を守る意味で納められています。
信仰の核に弥勒菩薩がありながら・・・・、最高の弥勒菩薩に接しながら・・・、
あえて弥勒菩薩を彫りませんでした。
 
理由は  ”我死して弥勒にならん”
若い時から念じていたのでしょう。
 
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円空が法隆寺で血脈を受けた際に彫った大日如来(高島屋法隆寺展目録から転載)
 
日本で最も多い仏は、観音様かお地蔵さんでしょう。
でも、円空にははっきり地蔵菩薩とわかる仏像は一体しかありません。
(一体も円空の真作とは断定できません)
木っ端仏と名付けられている千体仏が地蔵と言えない訳ではありませんが・・・・、
端材を使った仏で・・・、何とでも見られる仏様です。
更に閻魔大王をはじめとした十王像は一体も見つかっていないと思われます。
総じていえば、如何に庶民に、農民に信仰されていても「あの世を思わせる仏」は彫っていないのです。
屹度お釈迦様の教えを確信していたのでしょう。
「あの世の仏は偽りであり、この世の仏が真実である」
だから、今日、明日、現世を生き抜く人を救ってくれるのが仏様だ・・・・、考えていたと思われます。
 
【天照大神が男神の訳】
農家の床の間や仏間に良く天照大神の掛け軸(書)がかかっています。
天照大神が天皇家の神様だから・・・、というよりは太陽神であり、農業には最も大事な神様だからでしょう。
でも、天照大神の像は滅多に見ません。
恐れ多くて神像にできない、絵にも描けない・・・・、のかもしれません。
円空が敢えて天照大神を彫ったのは天皇を崇敬していたからでしょう。
反面では、伊勢神宮を支配しようとする幕府が嫌いだった・・・・、思われます。
 
ところが円空は天照大神を男神として刻んでいます。
天照大神は女の神様であり、弟が暴れ者の素戔嗚尊である事は江戸時代の農民も知っていたことでしょう。
それを「円空は古事記も知らなかった」批難する人がいます。
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                      白山神像(福田寺)は伊邪那美でした。(朝日新聞社円空展目録から転写)
 
白山の神(伊邪那美/いざなみ、天照大神の母)の本地仏が十一面観音でありました。
ですから円空にとっては、白山や流れ出す長良川は母性を特徴とする仏(神)であり、
胎蔵界の仏でありました。
白山の神が母性なら・・・、天照大神は父性(金剛界)を特徴付けたくなります。
水と太陽、母と父、両性が備わって宇宙は回っているのですから。
 
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                              天照大神像
もう、ブログとしては長くなりすぎました。
「円空は奥が深く興味が尽きない・・・・・」
そんな事を記したかったのでした。
ソロソロ、筆ならぬキーボードを離れます。
それにしても、熱心に聞いてくださり有難うございました。
 
 
 
 
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青葉が茂って・・・、でも不如帰が聞こえません。

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青葉が目にしみる季節になりました。
卯の花は既に咲き誇っていますし、筍も鰹も充分戴きました。
でも、不如帰(ホトトギス)の鳴き声は聞いていません。
今年も聞けずに過ぎてしまいそうで・・・・、悲しい事です。
 
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   遊行寺の大銀杏。私は銀杏の青葉が最も美しいと思います。
 
不如帰はツバメよりも少し遅れて南から渡ってきます。
ヨシキリや四十雀が巣作りを終えた頃現れて、その巣に卵を産んで、育ててもらうからです(托卵)。
托卵するには、もう遅すぎます。
佐渡では朱鷺が、我が家では雀やカラスが巣離れをしています。
自然界は子育ても最後のステップです。
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                      宗祖一遍上人像、今日の写真は総て遊行寺とその周りの緑です。
家内と遊行寺に出かけました。
遊行寺の裏山なら、不如帰の鳴き声が聞こえるかもしれない・・・、期待したからです。
 
   峰の色 渓(たに)の響きも皆ながら
          我釈迦牟尼の声と姿と    (道元・道歌)
 
遊行寺は全山が青葉です。
でも、樹によって青葉も違います。
青葉の美しさ、輝きを競っているようです。
五月の山風が梢を震わせて通り過ぎてゆきます。
葉音が清々しく響きます。
水音も小鳥のさえずりも・・・・・、聞こえます。
一木一草に至りまで、仏の命を宿して、輝いているようです。
こんな季節に、こんな自然を道元禅師は師「釈迦牟尼」と思ったのでしょう。
三井寺で円空が賜った法名は「仏性常住金剛宝戒相承」でした。
”自然界の総てに仏性あり”
円空らしい名で、この名を戴いて大喜びしたことでしょう。
 
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                                      卯の花、背景の緑は桂です。桂の緑も最高です。
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                              遊行寺の桂。沢山の小鳥を宿しています。
 
朝のNHKラジオでは陸前高田の復興に苦心される人達の姿を伝えています。
1ヶ月前、三春の滝桜が見事に咲いた・・・・、伝えられました。
自然は、四季は、人間の営みには関係ないような顔をして表情を変えてゆきます。
人間の命も、人間の作った文化文明も自然の前にあっては危ういものだ・・・、
大津波に悲しいほどに厳しく教えられました。
 
しかし、自然は人間に”頑張れ”励ますかのように、美しくも優しい呼びかけをしてくれるようです。
私たちも自分のチャンネルを「自然チャンネル」にリセットして、
道元禅師のように毎日を過ごすのが知恵のようです。
そして”峰の青葉に、川のせせらぎ”に励まされて、背中を押されて生きて行かなくてはならないようです。
 
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   遊行寺の楡(材木にすると欅) 背後は藤沢の街です。
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                               楡の梢、背景は遊行寺の本堂です。
 
日吉の喫茶店で友人と雑談しました。
まるで、40年前と同じように。
私は先日BSNHKで放映された「ファーブル昆虫記」を話しました。
 
ファーブルは”ある言い伝え”を実証しようとします。
言い伝えとは”火を点けた炭でサソリを囲むと・・・・、サソリは脱出を図り・・・、
脱出が不可能だと絶望すると、自らの毒で自殺する”というのです。
自然界では自殺する生命はありません。
人間だけが死を承知していて、自殺する方法を知っている筈なのに・・・・。
実験してみるとサソリは死んでしまったように地面に伏して動かなくなってしまいます。
しかし、暫くすれば・・・、動き出します。
矢張り、サソリも自殺することはしません。
生きることしか致しません。
 
友人から反論が出ました。
”ネズミは集団で海に入って死んでしまう・・・、あれは自殺ではないか?”
”竹だって、竜舌蘭だって花を咲かせれば、枯れてしまう。花さえ咲かせなければ・・・、死ぬことはない”
”サソリもカマキリも性交すれば、オスはメスに食われてしまう。種を残そうとさえしなければ・・・、食い殺されることはない”
生命は種の保存をする為には・・・、自殺を厭わない。
 
私も友人も種を増やしました。
生物としての責任を果たしました。
子供たちは既に自立しています。
私自身は、なんだかんだ言いながら・・・、生き続けています。
でも、実態は・・・・、カマキリに近いかもしれません。
 
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                                  曙杉、池畔では子供がエビ釣りに夢中でした。
 
大地には小さな花も、大きな樹も、小鳥も昆虫も命の営みを見せています。
彼らは生死を憂う事もないから、生老病死の心配もありません。
悠久の時間の流れに自らの命を託すだけです。
なまじ人間だけが大脳が発達したものだから、心身を悩まし欲望に、煩悩に身をやつして、
自分の足元も行く方向も解らなくなってしまったようです。
 
私の残りの日月はどのくらいあるのか・・・、わかりませんが、
せめて自然にチャンネルを合わせて過ごすことにしましょう。
道元禅師の教えを支えにして・・・・。
 
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【追記】 今日(28日)友人に聞いたら、私の生活圏では鎌倉半蔵坊 、明月院の裏山で不如帰が今年も啼いているそうです。昨年は私も同所で聞きました。今度出かけようと思います。
 
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虞美人草と堤義明氏の夢

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ポピーと呼べば「花屋の店先」です。
ヒナゲシと呼べば、アグネスチャンの歌。
虞美人草と呼べば夏目漱石です。
いずれも、同じ花の名前ですが・・・・、ずいぶん印象も違います。
そして最近は「花菱草」も出現しました。
ポピーの新種で、4枚の花弁が菱形に見えるからでしょう。
 
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                    今日の話題は様々な名で呼ばれる「ポピー」です。
                     咲いているのは秩父小鹿野の「癒しの森花回廊」です。
 
虞姫は項羽の愛人でした。
垓下の戦いで項羽(秦)は漢に敗北します。
敗北の原因は、虞姫の美しさに項羽が溺れたから・・・、臣下達は責めます。
虞姫は殺され・・・、その墓から美しい花が咲きました。
花の名を虞美人草と呼びました。
 
1980年代、フォーブス社の発表する世界一の富豪は「堤義明氏」でした、
新橋田村町の米屋「森泰吉郎氏」は貸ビルに転業して成功していました。
ダイエーの中内功氏も・・・、富豪ランクの上位には日本人が続いていました。
 
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         正面のピラミッドのような山が武甲山。秩父セメント(現日本セメント)によって石灰岩を掘り出され、         やせ細りました。まるでピラミッドのようです。カメラの背後に花の回廊があります。
 
森泰吉郎氏も中内功氏も・・・・同じように堤康次郎氏も一代で西武を起こしていました。
その後継者堤義明氏は愛妾石塚恒子氏との間で産まれた三男でしたが・・・、
早稲田大学在学中に康次郎氏から命題を与えられます。
「冬のあいだに軽井沢に集客する計画を立案しろ!」
軽井沢は夏型のリゾート地でしたが・・・、義明氏はスケートリンクとスキー場を開設するプランを立てます。
企画は実施に移され、康次郎氏は義明氏を後継者に指名します。
最も可愛く”出来る子”だったのでしょう。
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           西武の小鹿野ゴルフ場を転用して「癒しの森花回廊」にいたしました。向こうの山が両神山。
 
西武池袋線は次々に支線を開設しながら延伸します。
狭山湖の湖畔には西武園遊園地やユネスコ村を作り、所沢には西武球場を作りました。
アミューズメント施設を作り、鉄道を作り、全体で収支を計算します。
新しいやり方の鉄道・リゾート事業でした。
 
西武秩父駅の先には小鹿野があって、その先は両神山、下仁田の先の荒船山を超えれば軽井沢です。
西武線を真っ直ぐ延伸させれば、軽井沢プリンスや軽井沢72のフロントに出られる筈でした。
堤義明氏の脳裏には、西武池袋線が西武軽井沢線に名前を変えて、
池袋駅発軽井沢行きのブルーアロー号が発着している光景があったでしょう。
(私は確認したわけではありませんでしたが、西武の融資担当として同社の計画を理解していた積もりです)
 
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   「癒しの森花回廊」から遠く妙義山の方角を見る。
   遠い山脈の先に軽井沢があって、直線距離はすごく短いのです。
 
2004年西武は総会屋との不明瞭な付き合いを指摘されます。
2005年には有価証券報告書の偽りで義明氏は逮捕され、西武グループの総ての役職から追放されます。
西武グループの管理職は西武が堤家の事業であると鼻から思っていました。
でも、西武鉄道は公開していましたから、東京証券所が決める公開基準を守らなければなりません。
西武は業績は順調でしたが、上場を維持するには株式の取引量と株主数が不足しがちです。
そこで、義明氏は「自身が実質所有している株式を売却することを認めます。
管理職は「どうせ市場で売却するのなら、少しでも高く売って義明氏を喜ばせよう」思ったのでしょう。
管理職の上場についての認識が甘かったのでした。
部下の失態が義明氏の命取りになります。
 
義明氏が反省するならば「世界一の富豪」「長野オリンプックの成功」等の名声の中で、
国民やマスコミの妬みヤッカミに気付かなかった事でしょう。
 
世上、有価証券報告書の偽造は蔓延しています。
国の財政白書だって、年金の運用実績報告だって、疑わしいものでしょう。
一企業の財政状態の偽造と株式状態の偽りとは犯罪の軽重が違います。
赤字を黒字と偽れば万死に値します。
株主は実態堤義明氏の名義貸しであった・・・、
この事実が判明すると、堤義明氏は追放されてしまいます。
これほどまでの過酷な仕打ちが妥当であったのか?
私は行き過ぎだと思います。
 
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                                 所々ゴルフ場の芝生が残っています。
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                            向こうの小屋はゴルフコースのお茶屋でした。
 
小さな偽りで失脚した人はこの20年のあいだに沢山います。
江副浩正氏、中内功氏など真の起業家は次々に奈落に沈みました。
それでいて今頃、マスコミは「日本には起業家は居ないのか!」
騒いでいます。
僅かに気を吐いているのは孫正義(ソフトバンク)や柳井正(ファーストリテイリング)でしょうが、
彼らは販売の革新者でありますが、彼らが活躍しても日本は元気になりません。
ユニクロが活躍する陰には町の衣料店が何店も閉店している事でしょう。
 
西武は、西武秩父駅の先小鹿野の山の中にリゾートを開発していました。
波のプールに沢山のテニスコート、ゴルフ場にロッジ・・・・、を設備しました。
若い人や家族連れが健康に過ごせる施設でした。
軽井沢プリンスのミニ版でした。
 
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                  青い矢車草の先はゴルフの打ちっ放しです。これも旧状のまま残されています。
 
しかし、西武が解体されると・・・、小鹿野リゾート単体では債務過多である実態が明らかになりました。
そもそも、リゾートが赤字でも鉄道が黒字なら全体で収支が取れている・・・、考えていたのでした。
慌てて秩父市は株式会社秩父開発機構を設立して、小鹿野リゾートの受け皿にしました。
 
2009年4月「癒しの森花の回廊」をオープンさせます。
回廊とは「ゴルフ場のコース」でした。
コースの芝を剥ぎ取って、春には「ヒナゲシ」や矢車草、金魚草を咲かせました。
秋にはコスモスやサルビアを咲かせて、春・秋に開園しました。
 
ゴルフ場を閉めて、虞美人草を咲かせるのは・・・・、
義明氏の事業に期待した私にとっては皮肉に写ります。
虞姫が美しすぎたから・・・、殺しても秦は滅亡してしまいます。
第一殺意は妬みでしかありません。
 
 
人間の醜さの一つが妬みです。
日本社会はこの20年間妬みが原因でたくさんの起業家を抹殺してきました。
そして、今生き残っている起業家は・・・、似非起業家が目立つようになって来ました。
 
文藝春秋6月号では「日本再生会議」と題して稲森和夫氏、飯田亮氏、牛尾治朗氏等が対談し、
「戦後の復興を牽引した重鎮がひ弱な日本人を叱る」と副題しています。
「何故第二の松下幸之助、本田宗一郎、井深大が出現しないのか!」叫んでいます。
私は何処か変だな!思います。
稲森さん等は松下幸之助や井深大のように日本の社会を牽引する起業家なのでしょうか?
 
 
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私は確信しています。
第二の松下幸之助は沢山いたのだが、日本社会は異常な清潔病にかかって、
少しでも悪事が発見されると再生できないほどの深みに落とし込んでしまった・・・、のです。
結果日本にはつまらない財界人ばかりが跋扈しました。
政府に働きかけ、高額所得税を抑えて、法人税も低くして、労働市場を破壊させて・・・・、
そして原発事故のような事故を招来させて・・・・、
その責任も不明瞭のまま国民負担に押し付けようとしています。
小悪には小さな責任を取らせて、大きな失態にこそその責任を厳しく問う・・・、
そんな社会であって欲しいと思います。
 
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     手前はヒナゲシ、畑は花菱草・・・、花菱草は背丈の低いヒナゲシです。
     4枚の花弁が離れているので菱形(武田信玄の家紋)のように見えます。(写真は長瀞)
 
 
 
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秩父の石置き屋根の家

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秩父に行く途中長瀞に寄りました。
川の上流は”瀬”と”瀞(とろ)”を交互して流れます。
瀞は水深があって静かな流れです。
瀞が長く続く場所だから「長瀞」なのでしょう。
日本全国に長瀞という地名は数多くあるようですが、荒川の上流、秩父の入り口にある「長瀞」は一番有名です。
今日お話する旧新井家住宅は「長瀞川下り」乗船場近くにあります。
 
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    今日の話題の旧新井家住宅。主屋は石置屋根ですが、庇や付属部分、庭先厠(トイレ)は茅葺きです。
 
秩父に来ると何時も思います。
「秩父は木曽に似ているなあ!」
山が迫って、川が急です。
長瀞の岸辺を囲む「岩畳」は、木曽川の「寝覚の床」に似ています。
屹度岩の名も同じなのでしょう。(どちらも『変成岩』です。既存の岩石が熱と圧力が加わって出来ます)
 
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   秩父市の市街地を見下ろす。略中央を荒川が流れます。
   秩父市はどことなく木曽川の上流「中津川市」を思わせます。
 
 
そう思ってバスの車窓から眺めると、似たものが次から次に見つかります。
秩父には三峰山があってお遍路さんが集まります。
木曽にも御嶽山があって全国から行者さんが集まります。
秩父にも木曽にも栗の木が多く生えていて、栗の銘菓があります。
 (秩父には菓子匠『栗助』があり、木曽には栗きんとんの『す屋』があります)
そして、秩父も木曽も民家は『石置き屋根』が特徴でした。
 
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          木曽路奈良井宿、石置き屋根も散見しますが殆どがトタン板に代わってしまいました。
 
                                  
秩父の石置き屋根の民家は昭和40年代は見る事が出来たのでしたが、
今は旧新井家住宅だけになってしまいました。
国の重要文化財に指定されたのが昭和46年ですから、
民家としては早くからその価値が認められていた事になります。
でも、石置き屋根の修復が思うに任せなかったようです、
昨年ようやく修復を終え、今公開しているのでした。
秩父市の職員が熱心に説明してくださいますし、その姿勢に郷土愛が感じられて好感です。
 
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   長瀞の旧新井家住宅の全景。石置き屋根、荒壁と柱・梁とのコントラストなど、どこかお洒落です。
   
”この屋根の修復には2千万円もかかったんですよ。
屋根の上の石は漬物石と同じ大きさですから、屋根板も厚くなければならなしし・・・・・、
水が染み込まないように重ねて葺きますから・・・・、材料が嵩みます。”
”その上材質は栗の木でなくてはなりません。栗の木は濡れても頑丈で・・・、線路の枕木も栗ですから・・・・、
屋根に枕木があるようなものです・・・・”
 
言われるように木曽の石置き屋根も今ではなくなり、妻籠でさえ文化財に指定されたものしか残っていません。
屋根はトタン板で葺いても可だが、焦げ茶色にするように・・・・決められているそうです。
でも、石を置いた屋根が連なっている景色を見た人は、現在の姿に満足できません。
藤村の”夜明け前”の景色は屋根の上に重い石が置いてなくては・・・・、情趣が浅くなってしまいます。
 
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                              木曽路妻籠の嵯峨屋は石置き屋根です。(重要文化財)
 
 
文化庁の「重文データベース」を調べると以下のようになっています。
文化庁の指定根拠も秩父地方の板屋根に重きを置いています。
【構造】 桁行(幅)17m 梁間(奥)10m 切妻造り二階建て、板葺き、東面下屋付属部茅葺き、西面北面庇は杉      皮葺。
【時代区分】  江戸中期 延享2頃(1745頃)
【解説】  大きな居間を持った家で、居間や土間周りの柱や梁は太くいかにも農家らしい。かって秩父地方に広く分布していた板葺き農家の典型であり、外観の意匠も優れている。
 
秩父市の案内では以下のようになっています。
「新井家」はもと長瀞町大字中野上にあって、新井正之氏から市に寄贈された。(昭和50年)
新井家は名主だったと言われるがそれを証明する文書はない。
この建物は解体修理によって3度の改築が行われた事が判明しています。
建物内から三峰山高雲寺(三峰神社)のお札が数多く見つかり、その最も古い物が「延享2年」でしたのでその年建築されたと判断しました。
建物の構造はかって長瀞町で多く見られた養蚕農家の姿をよく表しています。
馬屋が建物の中に設けられていること、屋根裏の「母屋(もや)」をアケビの蔓で結んでいること、
軒下には関西風の格子戸が取り付けられていること等が特徴です。
 
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   秩父は石灰岩の大産地ですが白壁ではなく土壁です。全体としては質実剛健なた獲物ですが、細部には    お洒落心が伺えます。例えば、屋根の庇の下、格子戸があります。二階は屋根裏部屋で養蚕を行なってい   ました。そのため風を通し、光をとるため障子戸にして格子戸を入れたのですが、京風にしました。
 
 
名主の家よりも百姓代クラスの家と考えたほうがよさそうです。
・・・・、と言うのは玄関もないし、奥の間(書院)も無いのですから。
我が家の近く「小岩井家住宅」は名主の家で、床の間、玄関付きで・・・・、半分は武士の家です。
でも、横浜市の文化財止まりで、国の指定は受けていません。
立派ですが、地域文化の香りでは新井家住宅には遥かに及びません。
(住人としては残念ですが納得です)
 
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    潜り戸(土間に続く、横浜では『トンボ口』と呼びます)の上に取り付けられた魔除けのおまじない。
    丸石は女性自身、棒石は男性自身を示す”道祖神”です。
 
地域文化の香り・・・・、そのひとつが潜り戸上部の”魔除け”です。
家人もお客も土間の前に設えた「潜り戸」を通って家に入ります。
潜り戸ですから、背の高い人は腰を少し屈めないと、頭をぶつけてしまいます。
その頭の上に丸い石が二つ、棒状の石が二つ、交互に括りつけてあります。
病気や疫病・・・貧乏神が家に入り込まないように・・・、厄除けです。
丸い石は女性の、棒石は男性のアレです。
だから・・・・、村の辻に厄除けに立っている道祖神様が、家の入り口にも睨みをきかせているのです。
 
私は市の職員に言いました。
”祀られていますね道祖神様が”
市の職員は笑顔で応えます。
”良いもんでしょう・・・・・・!”
”良いものです”
 
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   居間の神棚。三峰山(秩父神社)の神が祀られています。周囲は木製(麻)の御弊でしょうか?
   梁は松の木が使われています。屋根裏が見えますが竹で組んだモヤにアケビの蔓で栗板を結んでいま    す。栗板は重ねられて水の浸入を防いでいます。これだけでは屋根が軽く吹き飛ばされてしまいますので    屋根の上に重石を置いています。それが「石置き屋根」です。
 
 
横浜市の「小岩井家住宅」には土間に棚が幾つも用意されています。
でも其処にあるべき神様は不在です。
私は管理人に言いました。
「この位置には神棚があった・・・、神様は”大山阿夫利神”ですかそれとも”寒川大明神”ですか?」
すると・・・こう咎められました。
「ここは横浜市の施設です。神様はお引取り頂いています」
文化の香りの最も濃いところが宗教です。
神棚の神様不在では文化のエキスが無くなってしまいます。
民家と言った文化財の最も良いところは・・・・、八百万の神々が祀られている所です。
前に行った田麦俣の多層民家(国重文)には湯殿山の神々が祀られ、
その横には明治天皇の御真影が飾られていました。
神々の不在な民家は・・・、骸骨みたいなものです。
 
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   土間から居間を見る。中央の角柱が大黒柱で欅材です。框は栗で板間は杉で張られています。
   竹やアケビも含めて地場産のオンパレードです。この日は油絵や絹の作品が展示されていました。
 
黒光りした大黒柱は欅材だそうです。
屋根の梁は松だそうです。
そして屋根が栗で、
板間や縁側は桧材や杉材を使い分けて・・・・、
そう、秩父の山に自生している材木を総て使った家です。
 
室内には様々な道具が展示されています。
中でも養蚕の用具が目を引きます。
土間の壁一つ隔てて牛小屋です。(若しかしたら馬小屋かも?)
部屋があって、道具があって・・・・、ただ足りないには蚕や牛(馬)がいません。
これが肝心なのです。
私は、脳裏に蚕棚に沢山の蚕がいて、庭でとってきた桑の葉をバリバリ食べている様子が思い浮かびます。
障子戸が開いて、格子の間を五月の山風が吹き降ろして来ます。
 
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     奥が蚕棚、手前が繭を取り出す「回転まぶし」、出来た繭から座繰りを使って生糸に製糸します。
     その段は明日「秩父銘仙」で案内します。
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   土間続きの牛小屋(?)牛こそいませんでしたが牛車が置かれていました。
   牛さえいれば現役で使えそうです。(長瀞町教育委員会の案内では馬小屋になっています。
   www7.ocn.ne.jp/~youkotei/top/007syuuhen/.../araike.htm )
 
 
旧新井家住宅は素晴らしい民家です。
案内している人達も熱心で、強い愛着を持っていて楽しませてくれます。
 
 
 
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秩父人の誇り「秩父銘仙」

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中山道熊谷宿で分かれて、西に行けば「秩父往還(国道40号線)」です。
荒川に沿って「寄居」から長瀞に入れば、街道の両側は山が迫ってきます。
秩父往還は秩父から国境の武甲山、三峰山を超えて佐久につながります。
この道は秩父観音霊場巡り・・・、信仰の道であり、絹の道でありました。
 
私達は長瀞の宝登山神社の登り口にある「旧新井家住宅」を見学しました。(昨日報告)
古民家の室内には数々の民具を陳列してありましたが・・・、取り分け目立つのが絹織物の器具でした。
私は管理人に質問します。
管理人は ”良く聞いて呉れました”
言わんばかりに嬉々として説明してくれます。
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                         旧新井家住宅の居間での展示、右は愛好家の作品のようです。
 
秩父の生糸は崇神天皇の御代に始まるそうです。(紀元26年)
知知夫彦命(ちちぶひこのみこと/秩父神社の神様)が国造(くにのみやつこ)として赴任します。
山ばっかりの知知夫(秩父)でしたから、桑を栽培して養蚕を推奨します。
これが秩父銘仙の始まりでした。
 
江戸時代、貨幣経済が全国に広がります。
秩父では養蚕を営み、白い生糸として、白い絹織物として上方の販売します。
京都では白い生糸を染めて、西陣で織って、
白い織物は友禅で染めて使いました。
また、白いままでも着物の裏地として使いました。
 
明治時代になると秩父の繭は輸出されました。
秩父鉄道が敷設され、生糸や絹織物が横浜港から世界に輸出されました。
しかし、不出来な繭が農家の手元に残ります。
農家は夜なべをして不出来な繭を解いで、座繰り器にかけて生糸に紡ぎ、
機織り機にかけて織物にして販売しました。
木製の器具が旧新井家住宅に展示してあります。
 
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                                             繭から生糸を紡ぐ「座繰り器」
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                                    機織り機、代表的な秩父銘仙の「秩父縞」模様です。
 
明治時代、秩父の農家の実に96%は養蚕農家だったそうです。
序に調べると秩父市の山地割合も96%です。
山を活用しなければ・・・、秩父では生きて行けないのです。
 
農家では夜なべをして機織りをしました。
出来た織物は「秩父銘仙」のブランドで売られて行きます。
銘仙の「銘」は銘木・銘石・銘酒の「銘」です。
仙とは山に住む人のこと、
だから・・「秩父の仙人が織った良い織物」の意味でしょう。
 
ところが明治17年、農家が貨幣経済に取り込まれ、加えて深刻なデフレに巻き込まれます。
世に言う「松方デフレ」です。
全国の農家はデフレに苦しみます。
取り分け秩父の養蚕農家は借金苦に陥ります。
秩父人は商売が苦手だったのでしょう。
商人の言いなりになって前借りして生糸を生産して・・・、売ろうとしたら・・・デフレであった・・・。
 
養蚕農家は徒党を組んで政府に抗議します。
世に言う「秩父事件」です。
秩父から佐久に至るまで、養蚕農家は武装蜂起します。
 
秩父は「夏・冬」「昼・夜」の寒暖差、湿度差が大きい・・・、厳しい気候です。
厳しい気候が生糸の漂白・撚糸に際して、ツヤを出し深い風合いを加えてくれました。
加えて、縦糸を二重にします。
ですから・・・、丈夫な上にリバーシブルに使えます。
着物に仕立てて、ツヤが落ちたら裏返しにすればまた新調したようなものです。
着物を解いて座布団にして・・・、最後はオシメにします。
究極のエコ着物でした。
 
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   秩父銘仙は同じ色に染めた縦糸を上下二重にして織ります。ですから丈夫でリバーシブルなのです。
 
大正時代になると秩父銘仙は一躍有名になります。
元々丈夫で、普段着として評価されていた秩父銘仙でした。
元来江戸好みの縦縞模様が一層お洒落になり・・・、自由で闊達な時代空気にマッチしたのでしょう。
竹久夢二の描く美人は秩父縞模様を銘仙を着ていました。
また、ハイカラな女学生は矢絣模様の着物を着て・・・、紺やえび茶の袴で、革のブーツを履いて・・・、
颯爽と自転車に乗りました。
 
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        竹久夢二の着物美人は縞模様の着物を着ています。
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   大正時代の女学生の着物は多くが秩父銘仙だったろう・・・、思われます。南野陽子さんのポスターから
 
ところが昭和30年代に入ると着物は普段着として使われなくなってしまいました。
加えて着物の大半はウール製になってしまいます。
秩父銘仙工場は姿を消してしまいます。
 
近年になって、秩父銘仙は復活の気配を見せているようです。
それは、私たち世代が大正ロマンを愛しているからかもしれません。
 
タンスに収まっていた母や祖母の秩父銘仙を取り出して・・・「良いじゃないか!」
「遊び着にして出かけたら・・・、良いんじゃない!」
思ったりしているようです。
少なくとも私達日本文化研究会の伯母さん達は着物好きがいて、食事会等で楽しませてくれています。
 
そして、秩父銘仙を使った小物も数多く出ています。
作家も活躍し始めました。
「これが秩父銘仙?」疑問な物も数多くあるようです。
 
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                          作家ものの新作の秩父銘仙。宝相華唐草模様
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    秩父銘仙を使った小物は人気です。栗助にて撮影。
 
秩父銘仙を見ていると、「秩父人の魂」を実感します。
山国独特の頑固な、妥協しない厳しさと、新しいものを追い求める精神が顕著です。
何のことはありません。
「伝統と進取」は日本人の永遠の課題でしょう。
 
いつか、久しぶりに秩父往還を佐久まで行こうかと思います。
観音道で懐かしい街道です。
 
 
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お菓子の家で「スイーツバイキング」(花園フォレスト)

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今日から6月です。
雨こそ降っていませんが、何時でも降り出しそうな空模様です。
我が家の梅も沢山実をつけて、もう相当数落果しています。
もう、梅雨入りも真近なようです。
 
町内会のバスツアーで秩父に出かけました。
毎日、その時見知った話をして来ましたが、今日で最後です。
 
昼は「農園ホテル」で野菜料理のバイキングを戴きました。
私が町内会長になってから、中華街のバイキング、勝浦三日月ホテルのバイキング、
そして今回は有機野菜のバイキング・・・・、バイキング続きです。
参加者の大半がいい歳なのですから・・・、たいして食べられないのですが・・・、バイキングが人気です。
加えて、幹事にとっては大した苦労いらずですから・・・、食事はバイキングを探してしまいます。
 
そして、今回はお三時には「スイーツバイキング」を楽しんで・・・・、ダブルバイキングです。
バイキング会場は・・・・、関越道の花園ICに2分、国道140号(秩父往還)に面しています。
3時丁度に「花園フォレスト」に入りました。
スイーツをたらふく食べて、あとはバスに乗って一眠りして、我が家に帰りました。
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お隣がJA(?)が経営する「道の駅」です。
秩父で遊んだ観光客がお土産を買い込んで帰る・・・、そんなロケーションです。
其処に、パン工場、ケーキ工場を建てました。
道路事情が良いので、都心まで出荷できる好立地です。
でも、情宣効果も狙って・・・、”夢のようなお菓子の家”にしました。
 
工場の壁は、1階を石張りにして、2階はピンク色に塗りました。
屋根はコロニアルで葺いて、屋根裏部屋に煙突をつけました。
二階の窓は総てジャロジーをつけました。
屋根の上には「バイオリン弾き」がいそうな雰囲気です。
 
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                                   モネの庭に出てきそうな橋もあります。
 
1階の窓は綺麗なカーテンをつけました。
そして、お庭は・・・・、バラ園です。
 
小川が流れて、モネの庭にでもありそうな緑の橋とベンチを置きました。
工場とは思えない・・・、メルヘンな空間です。
これではマスコミも取り上げたくなりますし・・・、お客は高崎は勿論、川越、所沢、池袋からも逆流してきそうです。
「彼女、僕の車で関越をドライブして・・・、スイーツしない?」
なんて誘えば、相当にダサイ男性でなければ・・・、
「良いわよ!」言ってもらえるでしょう。
 
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                                               窓の外は一面のつるバラです。
 
町内会のメンバーも、「お菓子の家」は好感触、期待で目が輝きます。
(辛党の男性は・・・、ウンザリかも?)
スイーツバイキングは、1200円です。(私たちは団体ですから安いのでしょうが)
・・・ということは、ケーキを2個食べて、コーヒーとアイスを食べれば・・・、元を取れるか・・・、
さもしい計算をします。
 
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                 スイーツバイキング・・・、これだけ食べると・・・、夕食も食べられませんでした。
 
案内にはケーキが12種類・・、としていましたがケーキを乗せた大皿がチェンジされます。
その度に別の種類のケーキが運ばれますので・・・、12種類を遥かに超えそうです。
私達団体が入ると、しばしケーキを取る行列が出来ましたが・・・、総じてゆったりと食べられました。
 
ケーキは超小型です。
ショートケーキの三分の一位でしょうか?
色々食べたい・・・、私のような食いしん坊の欲求を満たすためでしょう。
私は6個、お皿に載せました。
レギュラーサイズ、2個分相当です。
 
血糖値を気にしている私です。
隣では家内が座って・・・・・、口にこそ出しませんが・・・、心配していそうな気配です。
 
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      レストランは窓側のバラが見える席が人気です。左側ゾロゾロ歩いているのが私の町内会メンバー。
 
驚いたことに、2個分を食べるのが苦労でした。
美味しいのですが・・・、コッテリしていて・・・、甘くて・・・・、
ケーキというのは沢山は食べられない物なのです。
実はお皿に載せたのは1回切りで・・・、時間の大半はお庭のバラを見て歩いて過ごしました。
 
それでも、腹にもたれて・・・、夕食は抜いてしまいました。
 
オープンキッチンですから・・・、ケーキ職人の作業が見られます。
でも、殆どが機械で出来上がってきます。
小さくカットするのも、包装するのも総て機械です。
だから・・・、ケーキ職人は機械の傍らで見つめていれば良いのです。
”清潔な工場だなあ?”
見るだけで、パティシエの技は見られません。
 
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             オープンキッチン、でも機械化が進んでいて、パティシエの職人技は見られません。
 
ケーキもパンもアウトレットが人気のようで、お安く販売しています。
機械化していなければこんな価格設定は出来ないのでしょう。
 
スイーツをたらふく食べて、綺麗なバラの庭園で癒されて・・・、大満足の花園フォレストです。
 
此処は「埼玉県深谷市花園町」。
「深谷フォレスト」と言わなくて、町名の”花園”を採用したのは成功です。
そう言えば高速道路公団も「深谷IC」とは言わずに「花園IC]です。
”深谷ねぎ”が有名になりすぎた所為でしょうが・・・、深谷が少し可愛そうです。
 
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庭園道路側中央から工場建物を見る。今が春バラの最後でしょう。
 
 
 
 
 
 
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巣だちの季節です(燕・翡翠)

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元気の無い日本で、一番明るい話題は「朱鷺」の成長でしょう。
昨日(6月1日)の新聞でも、ネットでも佐渡の朱鷺が報道されていました。
二羽の朱鷺の幼鳥が、休耕田で餌をを見つけようと駆け回っています。
じゃれ合っているのかもしれません。
自然は私たちに朱鷺を使わせて
  ”元気を出せや!”メッセージを送っているのでしょうか?
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     朱鷺の幼鳥、休耕田でじゃれているのか? 餌を探しているのか? 喜びに満ちた表情です。
     流石に読売新聞のカメラマン、生命の悦びが見事に写していると思います。
     見ているだけで元気になります。(読売新聞HPから転載しました)
 
ゴミ置き場の辺からカラスの鳴き声が響いてきます。
今朝は何時もに増して賑やかです。
そう、土曜日は生ゴミの日なのです。
私の住む倉田には大学がありますので、アパート住居の人が多くいます。
彼らが前日から生ゴミをゴミ置き場に持ち込みます。
カラスはそんな事をよく知っていて、生ゴミを追って生活しているのです。
カラスの鳴き声の中に、ギャ・ギャと不愉快な声が混じります。
これが巣立ったカラスの幼鳥です。
期待されないカラスも、無事に子育て進行中のようです。
 
倉田のツバメは一時カラスに襲われて、幼鳥を食べられてしまいました。
でも、改めて卵を産んで、雛を育てています。
少し仲間より遅れたが、無事に巣立ちができそうです。
カラスが再び襲ってこないか・・・心配です。
住人も気配りが欠かせません。
 
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我が家の雀は今年も平和に子育て進行中です。
我が家は毛虫もいるし、犬や鳩の餌が取り放題です。
犬も鳩も老人ですから・・・、やたら食べ残しが多いのです。
雀は当然のように失敬してゆきます。
 
私は、朱鷺に刺激されて舞岡公園に野鳥の巣立ちを観察に出かけました。
舞岡公園は何処にでもあった・・・、横浜の里山です。
谷戸の奥に溜池があって、棚田が続いています。
昭和30年代以降、谷戸は次々に開発されて住宅地になりました。
未開発地が残って、里山公園として残されたものです。
都市計画法も施行されて、調整区域になりましたし、
横浜市は「緑の税金」を導入しました・・・・・、
緑の税金の使い途に「舞岡公園」はPRされているようです。
 
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  舞岡公園、溜池のツバメ。止まり木に5羽の幼鳥がいます。親がセッセ・セッセと餌を運びます。
  幼鳥は嘴を大開して、”僕におくれよ!”主張します。緑は蒲で、根元近くには亀が甲羅を干しています。
  見飽きない風物詩です。
 
溜池の真ん中に、ツバメの幼鳥が5羽とまっています。
幼鳥は青空を見上げています。
お父さん、お母さんが運んでくる食餌を待っているのです。
”お母さん、次は僕の番だよ! 僕は此処だよ!”
大声を開けて、大口を開いて主張しています。
私は溜池の池畔からカメラを向けています。
私のカメラでは少し遠すぎますが・・・・、
ツバメの夫婦は最も安全な距離・・・、としてこの池の中島に子供たちを誘導したようです。
一時、親子全員がいなくなります。
30分もすれば全員が元の場所に戻ってきます。
ツバメの飛行訓練のようです。
そう言えばヤクルトのツバメ軍団も10連敗で負けも止まって・・・、常勝に向かって飛び立ったようです。
 
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ツバメが巣立っているお隣の溜池では・・・・・、翡翠も巣立ちの最中です。
池畔から50メートルも先、向こう岸で巣立ちの特訓中です。
幼鳥が岸辺のロープに二羽止まっています。
色が少し鈍いので・・・わかります。
大きさは・・・、親に負けぬサイズです。
でも、親に比べれば太っています。ズングリ・モックりしています。
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  翡翠の幼鳥、親に較べればサイズに違いはなく、多少太めです。
  加えて、翡翠の特徴の鮮やかな翡翠色ではなく、少しくすんでいるので、直に見分けができます。
  屹度、むこう岸の土手に穴を掘って其処が巣だったのでしょう。
 
幼鳥は、止まり木にもう一羽、木陰にもう一羽・・・・、合計4羽もいるようです。
止まりの上には親鳥がいるようです。
レンズを通してみれば母親のようです。
母親は子供たちの見張れる範囲にいるようです。
 
さすれば・・・、餌取り役は父親なのでしょう。
溜池の水面には紅い藻が浮いています。
これでは如何に名人の翡翠でも・・・、魚は見つけられません。
そこで、翡翠のお父さんは棚田に出かけて・・・・・、そこで餌をハンティングしているようです。
お父さんは子供が4羽、親が2羽都合6羽分の食事をさがすのですから・・・、それはもう重労働でしょう。
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                     翡翠のお父さん・・・・、葦に止まって、棚田の蛙やザリガニをとっていました。
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     田んぼの殿様蛙。ノンビリとゲロゲロやっていると・・・、翡翠のお父さんに捕獲されてしまいますよ!
 
お父さんが食事を運んできます。
お父さんが戻ると、辺りにバラバラで居た幼鳥たちが集まります。
”僕におくれよ!”
叫んでいるのでしょう。
食べ物を公平に与えられているのか・・・・、よくわかりません。
 
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流石に翡翠は肉食です。
翡翠4兄弟は離れています。
もう、兄弟といえどもライバル意識が勝っているのでしょう。
離れて位置して、時折ダイブの練習です。
もう1ヶ月もすれば、親からも追い出されることでしょう。
お母さんから
”此処は私の縄張りよ、お父さんも、子供たちも、みんな出てお行き!”
家族全員が追い出されることでしょう。
 
舞岡公園には少なくても溜池が5つあります。
加えて舞岡川、から本流が柏尾川・・・、
子供たちは何処かに縄張りを作らなければなりません。
 
数年前までは翡翠は稀にしか見られませんでした。
でも、最近は少し待てば直ぐに見られます。
それに、今頃は一度に6羽も見られます。
嬉しいな・・・・、思っていいたら・・・、
頭上を啼きながら・・・・・飛んでゆく者がいます。
そう、不如帰です。
 
不如帰は卯月鳥とも言います。
今日はもう6月、私の忍び音(不如帰の初鳴き)は1ヶ月遅れです。
”鳴かぬなら 鳴かしてみよう不如帰”
”鳴かぬなら 鳴くまで待とう不如帰”
織田信長や家康の性格を言い表した言葉です。
なんでこんなに特徴があって、目立つ鳥なのに・・・・・、
そんな風に言われたのか疑問です。
 
少なくとも・・・・・、私の忍び音は6月でしたが・・・、待てば聞けるのですから・・・、
家康の心境が理にかなっています。
 
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  6月1日、舞岡公園は小学生の観察で公園は賑わっていました。翡翠もツバメも岸から遠く離れていました。
  改めて観察・撮影に出かける積もりです。
 
 
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小町通り「路地裏のどくだみの花」

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この季節、鎌倉の街は小学生・中学生が溢れています。
自主研究で古都鎌倉を訪れ、事前に自分が調べた事を自分の目で確かめているようです。
5,6人のグループで史跡を回っています。
手には「研究ノート」を持参しています。
使い捨てカメラを持参して、史跡やグループ写真を撮影して回っています。
学校に戻ったら、模造紙に書いて、発表するのでしょう。
生徒たちの自主性も、勉強も進むことでしょう。
 
私が、駆け込み寺の門前で、23夜塔を撮影していると、生徒から声をかけられました。
”叔父さん、何を写しているの?”
私は嬉々として説明しました。
 
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      駆け込み寺(東慶寺)の23夜塔(勢至菩薩)、主尊はお姫様のような姿です。
      山野草に囲まれて、美しさが際立ちます。
 
小町通りを駅に向かって歩いてもどると、
「冷やし中華始めました」
店先に貼られています。
もう、そんな季節か!
思えば、女学生も夏のセーラー服です。
お屋敷の枇杷の実も色づき始めています。
立葵も咲き出して・・・、もう街は”夏模様”です。
 
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   小町通り近くの路地裏風景。夏服の女学生が自主研究で歩いていました。
   居酒屋の盆栽の紫陽花は色づき始めています。
 
小町通りを線路脇に出ようと、路地に入りました。(線路脇は立葵が咲きます)
居酒屋が並んでいて、瀟洒なイタリアレストランもあります。
店先には鉢が並んで、都会風な花が咲いています。
路地の両脇には・・・、ドクダミが白い花をつけています。
 
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                                  今日の話題は小町通り裏のドクダミの花です。
 
ひと昔前なら・・・、きっと赤い鳥居が描かれていたのでしょう。
赤い鳥居はお稲荷さまの印です。
”立ち小便お断り”の意味で・・・、鳥居を描いておくものでした。
でも、最近は立ち小便する人もいないので・・・・・、鳥居は見られなくなりました。
 
加えて、ドクダミが自生していれば・・・、立ち小便のアンモニア臭さも消えてしまいます。
ドクダミは「毒消し」または「毒出し」の意味です。
体中に澱んだ毒を体外に排出する・・・、そんな漢方薬です。
アンモニア臭を消し去ることなど容易い事です。
 
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    良くこんな道端の板塀に赤い鳥居が描かれていました。 このドクダミは八重咲きでした。
 
私は学生時代「蓄膿症」で苦労しました。
毎日ドクダミ臭のドクダミ茶を飲まされ、体の芯からドクダミの臭いが染み込んでしまいました。
最近は血糖値に神経を張っています。
再びドクダミのお世話になりそうな・・・、気配です。
そう、ドクダミは何でも薬効のある「万能の漢方薬」なのです。
 
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                             ドクダミの傍らには野蒜種の花が・・・・、これも白い花でした。
 
私の祖母は103歳で亡くなりました。
高血圧でしたので・・・、沢山薬が出ていました。
その、薬を畑に蒔いて・・・・、出来たほうれん草を食べていました。
時折ドクダミ茶を飲んで・・・・、病院で出された薬は口にしませんでした。
お医者様もそんな祖母は承知していたようです。
医者も長生きしたければ薬は飲まない・・・・、
体力で病気を治す・・・・、聞いたような事がありました。
 
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                                扇ヶ谷川、両脇にもドクダミが目立ちます。
 
未だ午後2時です。
居酒屋はようやく漸く店を開く準備を始めました。
昔は落ち着いた住宅地でしたが・・・、昨今は小町通りの賑わいが路地裏に迄居酒屋をオープンさせたのでしょう。
私のクラスメートもこの辺でとぐろを巻いているのかもしれません。
一緒に縁台に腰掛けて冷たいビールを飲みたいものです。
興が乗って、昔のように扇ヶ谷川に向けて放尿するかも・・・、知れません。
そんな輩が出現しないか!・・・・取り締まるように・・・・、ドクダミの白い花が見守っているようです。
 
もう、50年も会っていません。
 
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  右端の縁台を置けば居酒屋が開店でしょう。縁台に座って御成小の悪ガキ仲間と一杯やりたいものです。
 
 
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  北鎌倉小坂郵便局のポスト。改めて見るとこの辺は2回/1日しか集配が無いのです。
  終いの躑躅が綺麗でした。
 
 
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片瀬ヶ浜の浜昼顔

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街中に昼顔の花が目立つようになりました。
6月14日は町内で一斉清掃の予定です。
線路のフェンスに絡まった昼顔は残しておいてくれるでしょうか?
昼顔の花が沢山咲くと、天気が崩れると言われましたが・・・・・、事実ならこれから天気は下り坂のようです。
 
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            これが昼顔です。小型の朝顔のような植物で・・・・、淡いピンク色が魅力です。  
 
”平塚の高浜台海岸で生徒たちが浜昼顔の苗を植えている・・・・” ニュースが流されました。
海岸に砂浜が減ったこと、人に踏まれて浜昼顔が急速に減って、危機なんだそうです。
平塚市立太洋中(高浜台)の生徒ら250人が2300株の浜昼顔を植えました。
もう今年で3年目だそうで・・・・、
年々参加ボランティアの数も、苗の数も増えているようです。
数年後には湘南の海の名物になる事でしょう。
一昔前まではなんでもなかった・・・、浜昼顔が地域で愛されている事実は素敵です。
そして、隣の砂浜に浜昼顔を育てている・・・・、そんな中学生は同じように素敵です。
 
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   此方が浜昼顔、昼顔に比べれば葉っぱが腎臓のような形で、肉厚であること、ピンクの花弁も色が濃いよう   です。
 
私の世代は浜昼顔と言うと「君の名は」を思い出します。(少し古すぎるようで気が引けますが・・・)
   君の名はと たずねし人あり その人の 名も知らず
   今日砂山に ただひとり来て 浜昼顔に聞いてみる
人は恋をすると・・・、優しくされたい・・・思うと、海に向かいます。
潮騒と人間の呼吸が共通しているのかもしれません。
 
高校の生物の授業で「個体発生は系統発生を繰り返す」と教わりました。
お母さんのお腹の中で聞いた鼓動や育った塩水は、生命が海から生じた記憶だ・・・、
そんな授業でした。
それが真実なら・・・、砂浜にだけ咲く浜昼顔は人間が最も懐かしいと思う花なのでしょう。
陸上に登った動物が、最初に見た花なのでしょうから・・・。
 
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                               片瀬の海で無邪気に戯れるお転婆娘達。
 
私は浜昼顔を見に片瀬の海に出かけてみました。
浜辺では元気な女の子が波と戯れています。
キラキラ光る海も、若い女性も眩しく見えます。
その傍らには、流木に腰掛けた二人連れがいます。
彼らを見下ろす砂浜には・・・、浜昼顔が咲いています。
 
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     何処から流れ着いたか、大きな流木に腰掛けた二人連れ。
     靴を脱いでいるので汀で遊び疲れたのでしょうか?
 
今年は昨年より少し遅れているか、群生が小さくなったようです。
若しかしたら、相模湾全体で浜昼顔は減っているのかもしれません。
”浜昼顔保護地域”の指定が必要かもしれません。
浜昼顔の可愛い体が、重たいお尻に敷かれて窒息してしまわないように・・・・。
 
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   風砂防止フェンス沿いに浜昼顔は群生しています。浜昼顔の自生の為には、人が踏みつけない事が一番    大切なのでしょう。
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                 向こうのブルーの建物は鵠沼プールの着替え室。 白い穂は「チガヤ」です。
 
浜昼顔は未だ咲き始めです。
花も可愛ければ・・・、蕾は捻り飴のようで一層可愛らしいものです。
相模湾では砂浜さえあれば三浦から大磯小動浜まで・・・・、どこでも見られます。
 
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砂にもめげない浜昼顔
 
 
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鎌倉文学館の薔薇とテラスコンサート

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江ノ電の由比ガ浜駅を下車して、山側にむいて歩いて7分くらいの位置に「鎌倉文学館」があります。
旧前田侯爵家の鎌倉別邸が鎌倉市に寄贈され、昭和60年に開館したものでした。
建物は昭和11年に建築されました(国の近代化資産)。
西洋建築の技術が日本人のライフスタイルにマッチして出来た昭和モダニズムと呼ばれる建築です。
木造3階建、青い瓦葺の建物は今も斬新です。(設計/渡辺栄治。施工竹中工務店 延床462㎡)
とりわけ青葉が茂って、庭の薔薇、植え込みの躑躅の咲く今頃が最高です。
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   鎌倉文学館建物全景。昭和モダニズム建築で国の近代化資産の指定を受けています。
   テラスでは演奏前の練習中です。
 
6月3日(日)近くの吉屋信子記念館と合わせて、文学散歩と洒落てみました。
偶々この日は葛原岡神社の例大祭で、由比ガ浜町内には神輿が練り歩き賑やかでした。
由比ガ浜通りに面して、すぐ近くには甘縄神社があるのに、・・・・
”遠くの山の葛原岡神社までお神輿を練るのは大変ですね・・・・・・”
法被姿のオヤジに声をかけると・・・・・、
”いや、町内を練るのは六地蔵の辻(町内会館)から此処までにしたんですよ・・・。”
古色蒼然としたお神輿が2基、重たそうです。
でも、担ぎ手は高齢者が10人弱・・・・・、どうもお祭りの維持継続も大変なようです。
 
鎌倉文学館の入場料は400円、ついこの前までは300円だった記憶ですが・・・、展示の大半が常設展で、
狭い空間に鎌倉に馴染みの文学者100人も紹介しているのですから・・・・・・、
近代文学の名簿をみているようで・・・・、
ああ・・・あの人も、この人も鎌倉に住んでいたことがあったのか!   知るばかりです。
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   文学館2階から由比ケ浜を見る。3階からの眺望は更に素晴らしいでしょうが・・・、入れません。
 
でも、今日は何処か雰囲気が違います。
テラスの方から弦楽器の音が流れてきます。
芝生の庭で音楽会が催されるようです。
庭先にはワゴン車が出ていて、コーヒーサービスもしています。
シナモンケーキにブレンドコーヒーで350円です。
緑に包まれて飲むコーヒーは一層美味しそうです。
鎌倉文学館も館長が代わって・・・・・、様々な企画が催されているようです。
 
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     テラスコンサートの様子。演奏は建物のテラスで、聴衆は芝生に腰掛けて、ベンチで・・・・。
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テラスコンサートの開始時間は午後2時、未だ2時間近く待たなくてはなりません。
私は何時も2冊程文庫を携帯していますので、読書しながらコーヒーをいただいて、時間を過ごす事にしました。
 
演奏するのは「ライトハウスアンサンブル」、
ライトハウスとは江ノ島の灯台のことだそうです。
だから、灯台の見える鎌倉藤沢の住人で作った音楽仲間のことなのでしょう。
クラリネットは男性で、バイオリン(2人)ビオラ、チェロは女性の5人組です。
(メンバーは10人ですがこの日は選りすぐりの5人だったようです)
司会役の(チェロ)の紹介では全員が昭和生まれ、昭和育ちのお天婆だそうです。
 
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   テラスにテントが張られて・・・、そこで演奏されました。
 
明治27年夏目漱石は円覚寺に入ります。
大正5年芥川龍之介は塚本文さんと結婚、由比ガ浜の和田塚に下宿して新婚生活をスタートします。
同年作品の「鼻」は漱石の激賞を受けます。
昭和5年、帝大の学生だった太宰治は人妻で銀座で女給をしていた「田部シメ子」と出会います。
二人は腰越の小動岬で心中します。
シメ子は亡くなり、太宰は生き残ります。
終戦が近い昭和20年、久米正雄は鎌倉に住んでいた小林秀雄、川端康成等に声をかけます。
”皆で蔵書を出し合って「貸本屋・鎌倉文庫」を始めようじゃないか!”
生活に困窮した鎌倉文士が自身の蔵書を持ち寄って「貸本屋」を開業したのでした。
試みは大成功します。
久米正雄は戦前の昭和9年「鎌倉カーニバル」を始めています。
作家であり、事業家であったのでしょう。
 
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    この状態で4分咲きと案内しています。
 
 
作家といえども、多士再々です。
芥川も太宰も自殺してしまいます。
一方大衆文学で成功した人も居ます。
共通するのは「鎌倉に惹かれて、鎌倉で過ごし、鎌倉を舞台に作品を残した」事でした。
 
文学散歩は鎌倉の魅力の一つになっています。
鎌倉文学館の庭に誰がいつ頃バラを育て始めたのか・・・知りません。
 
前田公爵が建物を洋風に建てられました。
庭も和洋折衷にしましたから・・・・、当時からバラ園を栽培していられたのでしょう。
若しかしたら・・・、いずれこの屋敷は鎌倉に寄贈するかもしれない・・・、
そうしたら、鎌倉市は鎌倉好きに喜ばれるよように利用するだろう・・・。
前田家の文化財は東京に鎌倉に数多く残され、愛されています。
 
文学者が多士再々であるように・・・、バラも多士再々に育てのかもしれません。
(案内によると188種225株もあるそうです。)
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   薔薇は「春の雪」、同名の三島由紀夫の小説の舞台になっていることから植えられたのでしょう。
 
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吉屋信子記念館の静寂

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何度来ても閉館でした。
鎌倉由比ガ浜にある「吉屋信子記念館」です。
私は同氏の作品に特段興味はなかったのでしが・・・・、その屋敷の風情に心惹かれていました。
露地に面して土塀が続いています。
土塀の下三分の一が杉板張りで・・・お洒落です。
この土塀の奥では”どんな方がお住まいだったのかな?” 
興味を持ったものでした。
 
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    吉屋信子記念館。昭和48年結腸癌のため死去(77歳没)。晩年この家で過ごした。死後は、事実上のパ     ートナーで戸籍上は養女となっていた秘書の千代により鎌倉市に寄付された。
 
吉屋信子記念館の裏山を西に辿れば、川端康成邸があってその先は長谷の大仏様です。
 
6月3日(日)に”今日こそは開館していますように・・・!”
念じて出かけてみました。
期待通り開館していました。
入り口で確認してみると今日を外せば次回の開館は10月1日迄待たされます。
 
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  門を潜ると直ぐに手水鉢があります。ここを左に折れると大きなスダジイの根元に待屋があります。石畳を真  っ直ぐに進めば玄関に着きます。
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   池から眺めた主屋です。数寄屋作りの「吉田五十八」の設計です。この日は日曜画家が芝生の上でスケッ   チを楽しんでいました。
 
私は玄関先で上品なお婆さんに呼び止められました。
”カメラのシャッターを押してくださいませんか?”
”良いですよ・・・・・” 答えると・・・、私と同年輩の男性がゾロゾロ後から出てきました。
全員で7人、紅一点ならぬ『婆一人・親爺6人』奇妙なグループです。
お婆さんお話によるとこのような事でした。
 
お婆さんは戦後横浜で教鞭をとって、老後は故郷の秋田に隠居していました。
ところが教え子から連絡があって、鎌倉に出て来い・・・、というわけで、
昨晩は海浜荘(由比ガ浜にある老舗旅館)に泊まりました。
今朝は先ず「吉屋信子」の記念館を訪れました。
るお婆さん先生は少女時代心ときめかせて「吉屋信子」を愛読したのでした。
そこで、今日は先ず教え子と一緒に、記念写真を撮りたい・・・、と言う事でした。
 
”貴方は先生ですか?皆様クラスメートで、マドンナだったのだろう・・・・・!”思いました。
お婆さんは、
”まあ、鎌倉の人はお口がお上手ね・・・・・”
笑顔が弾けました。
 
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               吉屋信子記念館、玄関脇の未央柳の花。この前で記念写真を撮りました。
 
吉屋信子記念館は同氏の晩年の創作活動の舞台になりました。
そして、記念館には処女作の「花物語」から、
晩年お代表作「女人平家」や「源氏物語」までの原稿や初版本が展示されています。
秋田のお婆さんもこの館に入れば「永遠の少女」に戻ります。
嬉しそうに展示に見入って居られます。
 
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そして、この記念館の価値は「近代数寄屋建築」であることでしょう。
設計者は吉田五十八(よしだ いそや明治27(1894)~昭和49(1974)氏でありました。
 
吉田五十八は太田信義(太田胃散の創業者)の第八子として生まれました。
信義は「恥ずかしながら・・・、五八歳で子が出来ました」 呟きながら五十八の名をつけたのでしょう。
生まれて直に母方の性「吉田」を名乗りました。
 
東京美術学校図案科に入学、設計に志します。
当時はモダニズム建築が席巻していましたので、ヨーロッパに修行に出かけます。
しかし、ドイツ・オランダではルネッサンス建築・バロック建築に圧倒されて帰国します。
自分は日本で「何をデザインするのが良いのか・・・・」見失います。
苦悩の末・・・・、日本人にはバロックを真似ても栓方ないことだ・・・、気づきます。
そして、「日本人のオリジナリティーのある建築・・・、数寄屋建築」 に関心を集中させます。
伝統の数寄屋建築の上に、モダニズム運動の精神を上乗せして・・・、数寄屋建築の近代化を志します。
 
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   南面した広い縁側、絨毯と畳の組み合わせが現代人のライフスタイルにマッチしています。
   これが近代数寄屋建築の面目です。
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   玄関から門を見る。洋室の機能に和室の情緒が組み込まれています。
   工業製品のアルミサッシも使われています。
 
 
折からブルーノ・タウトが桂離宮を激賞します。
日本人も数寄屋建築に目を戻す機運が生じます。
自ずから・・・・吉田五十八に注目が集まります。
五十八は建築会の寵児になります。
 
昭和35年(1960)吉田五十八は世田谷の五島美術館を、
昭和36年(1961)には青梅に玉堂美術館を設計します。
美術館や画家のアトリエが一つのジャンルでした。(小林古径・梅原龍三郎・山口蓬春など)
もう一つが寺院(中宮寺や成田山新勝寺本堂等)や歌舞伎座等の大きな空間を必要とする建築・・・。
そして何よりも数寄屋建築本来のジャンルの一般的な「家屋」でした。
 
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   記念館には鎌倉文士の群像が掲示されています。 
   吉屋信子氏は女性同士で写っても、男性と一緒でも何時も真ん中です。
 
昭和36年(1961)には吉田茂邸(大磯先年焼失)、
昭和37年(1962)にこの吉屋信子邸、昭和47年(1972)秩父宮邸(港区)等を設計します。
 
吉屋信子邸を見ても以下のような斬新なデザインに気づきます。
大きな平屋、寄棟の建物の外観、
室内に入れば、フラットで絨毯の敷かれた洋風な設計でありながら・・・・、南面しては広く長い廊下があって、
一段高みに畳が敷かれ、床の間が設えてあります。
座敷と椅子式生活が融合して・・・・、現代人のライフスタイルにぴったりです。
数寄屋でありながら、大壁があるのは建物全体の強度を高めている事でしょう。
障子は横棧で、壁は吹き付けで、数寄屋特有の欄間などはありません。
いたるところに工業製品(アルミ窓等)が使われています。
 
書斎は北向きです。
引き込戸など収容能力溢れた洋間です。
窓の外には大きな藤棚があります。
庭はそのまま山に繋がっています。
朝晩は狸も顔を出したことでしょう。
今は、草ぼうぼうです。
表の芝生も手入れが為されていません。
鎌倉市は貧乏ですから・・・、草も刈れないし、庭木の伐採も困難なのでしょう。
でも、設計が良いから・・・、建築がしっかりしていることから建物は堅牢です。
 
こうして保存して春・秋には無料で公開しているのだから・・・、ありがたいことです。
時間が経てば、近代的数寄屋建築の評価が定まって、この建物も保存対象になることでしょう。
 
 
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「若い燕」の「黄色い嘴」

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街中で燕の幼鳥が目に付く季節になりました。
舞岡公園の燕も1週間程前に巣立ち、枝先で親から食餌を貰っていました。
ところが、今は空中で与えています。
親鳥が空中で餌を放り出し、幼鳥が空中でキャッチします。
飛んでいるトンボや蜂を捕獲する技を磨いているのでしょうが・・・・、
私のカメラではその瞬間を捉えられません。
ドンドン、燕の幼鳥は逞しさを増して・・・・・、秋には南国に飛び立つ事でしょう。
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     孵化して間もない燕の子供たち。
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      親が近づくと子燕は一斉に大きく黄色い嘴を開いて「僕におくれよ!」叫びます。
      「黄色い嘴」の語源は燕ににある・・・、思います。
 
親燕が近づくと子燕は一斉に嘴を開きます。
蟇口のようにガバっと開いて、「この嘴に入れてよ!」
大声で叫びます。
親鳥は嘴の黄色い色に反応して餌を幼鳥に与えるのでしょう。
多くの小鳥は嘴が黄色いのは、黄色くなければ餌にありつけないからでしょう。
でも、一番目立つのは燕の黄色い嘴です。
(カラス等大型の鳥は黄色くない物もあります)
 
「黄色い嘴」と言えば、年齢が若くて経験不足なので、お前の主張は未熟だ・・・・、嘲る場合に使います。
大人から見れば黄色い嘴から発する言葉はただ五月蝿いばかりです。
でも、若い命の輝きがあります。
屹度、語源は「燕の黄色い嘴」ではないでしょうか?
 
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   巣立った5羽の子燕。枝先に止まって親鳥が餌を運ぶのを待っています。
   この日は少し寒くて「膨ら燕」状態でした。
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     親が近づけば「僕におくれよ!」 黄色い嘴からは黄色い声が発せられます。
     この状態は束の間で、空中で餌の受け渡しが始まります。
 
昔は「姉さん女房」は稀少で、「姉さん女房は大金を払っても嫁にしろ!」言われたものでした。
でも、最近は姉さん女房が増えました。
プロのスポーツマンと女性キャスター、俳優など「姉さん女房」は数多くいます。
イチロー選手のように年齢に拘らず活躍が続くと、奥様(TBSアナウンサーだった福島弓子さん)が誉められますが、松坂大輔投手のように不振が続くと奥様(柴田倫世さん)も立場が悪いようです。
 
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    「子燕」の食欲、生命力、そして俊敏な動きが「若い燕」の特徴でしょう。
    「若い燕」の語源は平塚雷鳥が年下の青年画家「奥村博史」を弟と紹介していたところ愛人である事が発    覚しました。奥村博史は「若い燕は平和な池から去ります」と言って別れた事から、
    「若い燕」は流行語になりました。ほとぼりが冷めると二人は結婚しました。
 
 
「若い燕をキャッチする・・・」
この言葉は若干の批判や刺を持った言葉でしょう。
生活力のある女性が10代、20代前半の若い男性を養う・・・・・、
若い男性は一度捕まったら・・・、関係を中々解消できない・・・・、
小柳ルミ子さんや藤原紀香さんを思い起こします。
若かった男性は親元を飛び立ったのでしたが・・・、燕であった頃のような精彩を欠いているようです。
一方では大地真央さんのように年々美しく若返っているんじゃないか・・・、思われる女性も居ます。
この場合は「若い燕・・・・」等とは言いません。
 
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                             此方は雀の親子、雀も子供の頃は黄色い嘴です。
 
綺麗な小雪さんと結婚した「松山けんいち」さんはNHK大河ドラマ平清盛で活躍中です。
一回り成長して、「姉さん女房」の効果も期待されましょう。
 
結婚によって、奥さん、ご主人二人共大きく成長する・・・、
そんなWIN・WIN関係の夫婦を言い表す言葉は知りません。
「若い燕」でもないし「姉さん女房」でも言い足りない・・・、
燕も大きく羽ばたいて、女房も一層輝きを増す・・・・、そんな状態が期待されます。
 
「小雪・けんいち」夫婦にはそんな期待を抱かせます。
加えて時代や社会はもうそこまで成長していることでしょう。
四分の一以上が年上女房なのですから。
草食男性、肉食女性と揶揄される状態は何処かに病的なニュアンスがあります。
厚生労働省もそんな成熟社会を期待しているのでしょう。
下記を発表しています。
更に、年上女房の出産率が高いことも付け加えておきましょう。
 
              女性の結婚年齢差割合(出典厚生労働省調査2010年)
                   年々年上女房が増加して26%になっています。
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色づき始めました明月院紫陽花

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庭の紫陽花が白い花弁の先が水色に変わり始めました。
”未だ少し早いだろう” ”でも、今のうちに見ておきたい”
思い立って、早朝から鎌倉山内の明月院に出かけてみました。
 
同じように気の早い人かそぞろに明月院道を登ってゆきます。
入山料は500円(昨年までは300円だったと思います)、紫陽花の季節だけは京都並みに値上げしたようです。
入山料だけで維持しているお寺さんですから・・・、致し方ないことです。
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  ダラダラ坂の両面に紫陽花が色づき始めました。石段は鎌倉石で敷かれています。
 この風情が明月院の人気の一つです。
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            これが姫アジサイです。白い花びら(実は萼/がく)が露草色に染まり始めました。
 
私の生家(禅宗寺院)もブルーの紫陽花が覆っていました。
元々自生していた紫陽花を、母が挿し木をして土手に裏山に植えたものでした。
母は綺麗なこと、それ以上に紫陽花を植えておけば草刈りをしないで済む・・・、
それ等の事から紫陽花を植えたものでした。
紫陽花は強くて、大きく厚い葉を茂らせますから下草が生えないのです。
ですから、私も子供達も紫陽花の花陰を親しんで過ごしました。
我が家の紫陽花もそれを挿し木で増やしたものです。
 
我が家の紫陽花もブルーの「姫あじさい」、でも決して紫色にはなりません。
でも日本人は”あじさい”に紫陽花と言った漢字をあてました。
紫や赤いあじさいは最近栽培され始めたものと思います。
万葉時代は姫アジサイや山アジサイ(萼アジサイ)が主流だったでしょう。
紫陽花は誤りで藍陽花が正しい漢字でした。
 
でも、宛字の「紫陽花」は良く出来ています。
”梅雨の晴れ間に陽の光を受けて紫色に映える花” 
そんな語感が出ています。
虹は紫から始まるのですから。
 
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                白い花弁に露草色がさし始めた姫アジサイ。直に藍色に変わることでしょう。
 
和名の「あじさい」は、集(あづ)と真藍(さあい)とで出来ています。
つまり”藍色の花が集まって咲く花”の意味です。
明月院のあじさいも、我が家のあじさいも万葉集の時代から愛されてきた「日本あじさい」という事です。
 
紫陽花の花を花ハサミで切ると、見る見る樹液が溢れ出てきます。
そして、瞬く間に萎れてしまいます。
水揚げが難しい花ですから・・・、綺麗でも生け花には不向きなようです。
根から沢山の水を吸い上げているのです。
だから、水が多い地質が好きです。
同時に水を根に蓄えるので・・・・、土砂崩れ防止にも役立ちます。
明月院も水源に建てられたお寺ですから・・・・・、
紫陽花はよく育つし、下草防止にも、土砂崩れ対策にも役立つ・・・・・、最適な植物だったわけでしょう。
 
それが、最高の観光資源になりました。
女性は紫陽花の花に癒されるのですから・・・・。
6月のなれば、都会勤めで傷ついた(?)女性が明月院を目指します。
 
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                     白、ブルーの色が混じった姫アジサイ。向こうの建物は開山堂です。
 
昭和60年代前半だったと思います。
明月院は方丈前に枯山水庭園を作りました。
鎌倉には枯山水庭園は少なく、明月院の名物になるだろう・・・、考えたのでしょう。
鎌倉にも東京にも立派な造園会社があります。
でも、枯山水となると・・・、京都です。
特に、京都には天才「重森三玲」がいました。
明月院は京都の曽根造園に庭園の造成を依頼しました。
曽根造園が作った枯山水が現在の方丈庭園です。
 
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  明月院の方丈庭園の綺麗な「枯山水」。中央奥が須弥山三尊石。 深山から流れ出た川が大海に出る。
  海原の遥拝石、左手前に鶴石、右手前に亀石が配置されています。
  石の配置とオレンジ色の躑躅が新鮮で、綺麗です。遠州流の庭園です。
 
中央少し左に高く突出した岩が須弥山です。
須弥山から流れ出した河は大海原に注がれます。
海原には須弥山を遥拝する石もあれば・・・・、手前左右に鶴・亀の形を模した石もあります。
鶴石の上には松が育っています。
東京人にも解り易い・・・・、綺麗な枯山水にしよう・・・、そんな曽根造園の意図が良くわかります。
石組の間を、石の上に遅咲きの躑躅を生けました。
勿論石は無機物で命は宿しません。
隣の躑躅は綺麗な花も付ける命あるものです。
両者を対比するように並べてみました。
小堀遠州風の”綺麗さび”に似た”綺麗な枯山水”です。
明月院ブルーに酔った目にはオレンジ色の躑躅の花が新鮮に映ります。
 
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                               明月院、門に懸けられた生け花
 
曽根造園は明月院枯山水の成功で評価されたのでしょう。
その後、長寿寺の庭園の造成も任さられました。
明月院は曽根造園に発注したからでしょう・・・、(長寿寺庭園は下記に書きました。
 
その後の庭園や境内の造成手入れを自ら行うことになりました。
「明月院庭園部」を組織し、紫陽花の手入れ、枯山水の「砂かき(熊手を使って独特の衣紋を描くこと)」
植木の剪定・・・、などを行いました。
そして、トイレの周りには草花庭園を作り・・・、方丈の裏、半蔵坊に続く裏山との間に・・・・
菖蒲田を造成しまいた。(花菖蒲の見事なこと、年々美しさが増していることは明日案内します。)
 
今が花菖蒲も躑躅も見頃です。
そして、紫陽花はまだ少し早めですが・・・、早目の風情が好きな方には最適です。
今年は紫陽花は良いようです。(昨年まではあじさいウィールスが問題でした)
是非お出かけください。
 
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明月院方丈の丸窓から菖蒲庭園を眺める。この丸窓の意匠も如何にも京好みです。
     明月院は、女性な好きな・・・アジサイ、京都、枯山水、花菖蒲・・・・を連ねて人気寺院になったように思われます。これも、「文化事業」でありましょう。
 
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「八橋」の意匠(明月院菖蒲園)

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鎌倉山内の明月院の裏山は半蔵坊から天園に続きます。
天園に降った雨は東に流れ出すと、明月院の方丈裏庭に出ます。
明月院は草茫茫だった裏庭を菖蒲田にする事にしました。
昭和60年代だったと思います。
その頃、明月院は拝観客に喜んでもらおうと、方丈前(西)に枯山水庭園を作りました。
そして、方丈裏(東)に菖蒲田を作りました。
これで、紫陽花に加えて名物がもう一つ、もう一つと加わりました。
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   明月院の菖蒲園。菖蒲田は三方が山に囲まれています。尾根道は半蔵坊につながります。
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                                       菖蒲田の西側には方丈が建っています。
 
私は毎年この季節になると菖蒲田を見にゆきます。
毎年少しずつ花数が増えていますし、花自体も見事になっているようです。
6月7日はテレビカメラが入っていました。
そして、その傍に庭師が付き添っています。
私は庭師に訊いてみました。
 
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                            TVクルーに付き添った明月院庭園部の職人さん。
 
「この見事な菖蒲田は何処の造園会社が手入れしているのですか?」
庭師の説明は以下のとおりでした。
「明月院には”庭園部”と言った組織があって、専門の庭師が年中手入れをしています。
ですから、この菖蒲田もお寺が造園して、お寺がメンテナンスしているのです。」
「今年も蛍が飛び始めました。菖蒲が咲いて、ホトトギスが啼いて、蛍が飛ぶと・・・、それはもう幻想の世界ですよ。でも、残念ですがお見せできません。」
「花菖蒲は江戸系を中心にして、肥後系、伊勢系を混稙しました。紫系が多いんですよ。」
 
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菖蒲田は三方が山に囲まれています。
西だけが開けていますが、そこには方丈があります。
ですから、方丈から眺めると額縁に入ったように見えます。
何処かモネの睡蓮の絵を眺めるような感じがします。
加えて、菖蒲田の意匠が「八橋」なのです。
 
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  尾形光琳「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館) 光琳40歳代半ばの作品です。
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   尾形光琳「燕子花図屏風」(根津美術館)光琳50歳半ばの作品です。
   八橋図から一段の進展が確認されます。
 
毎年、菖蒲が咲く季節になると根津美術館に行きたくなります。
尾形光琳の燕子花図屏風が展示されているからです。
今年はNYのメトロポリタン美術館の「八橋図屏風」も展示されました。
BS・TVでは両方の屏風を見比べてくれていました。
光琳が最初に描いたのが八橋図屏風、金箔の上に緑青と群青を厚塗りして描きました。
その10年後、燕子花図屏風を描きました。
同じ八橋(伊勢物語)を意匠したのですが、橋は省略しました。
でも、橋があるべき空間は金地のまま残しました。
そして燕子花は群青の岩絵具で描くのではなく・・・・、
燕子花の花のを形どった「型紙」を用意し、この型紙を置いて絵を描きます。
そして、型紙を外して白地だった部分に群青を置いたのだそうです。
唐紙や着物の柄を染め抜く技法に通じるものがあります。
光琳は燕子花を、八橋を何度も描いています。
一生のテーマだったのでしょう。
それは燕子花の花が好きだった・・・よりも・・・、
伊勢物語の雅な世界が光琳を「八橋」の世界に誘ったのでしょう。
 
八橋は京都の銘菓にもなりました。
 
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      菖蒲園の中には八橋の意匠の雁行形の橋がかかっています。光琳の八橋図の意匠です。
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                              光琳の燕子花の硯箱(国立博物館HP)も八橋の意匠です。
 
伊勢物語第9段、東下りのその一です。
昔男が居ました。(在原業平)
その男は自分を無用な者と思い込み、都を去って辺鄙な東の国に旅立ちました。
三河の国に「八橋」という所に出ました。
此処は湿地で川が蜘蛛の手足のように八つに別れて流れていました。
川を渡るために八つの橋が架かっていました。
その小川の畔に腰掛けて干し飯(ほしいい)を食べる事にしました。
橋の袂には燕子花が咲いていました。
同行者が「かきつばた」の5文字を織り込んで歌を詠え・・・・、というので・・・。
 らごろも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ

都に唐衣のように馴れ親しんだ妻を残して旅に出たので・・・、
遥遥やってきたこの旅をしみじみと悲しく思うものです。
ハラハラと落涙したので、干飯がふやけてしまいました。
 
道行は浄瑠璃でも歌舞伎でも”見せ場”です。
主人公は故あって江戸や都を離れます。
旅先の地名や風物に託した流離の哀傷を誘います。
音曲も美しく、 さらに華やかなスペクタクル的に広がってゆきます。
誰もが、伊勢物語を思い起こします。
 
光琳が八橋を雁行形にしたのは・・・、
人生を、道行を象徴する為に・・・、
行きつ戻りつ・・・、雁形にしたのだと思います。
 
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明月院の菖蒲園は八橋の意匠です。
光琳の八橋図を造園したしたものでしょう。
だから・・・、この庭園には伊勢物語の始まる1200年もの歴史・文化の伝統を受け継いでいます。
だから・・・・、花の情趣も殊更に深いものがあります。
また、本格的に菖蒲田を営むには他社に委託するのではなく・・・、自ら行う・・・、
そんな意識革命も必要なのでしょう。
 
年々歳々、明月院は美しくなって、花に埋まってゆくようです。
嬉しいことです。
 
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   追記:燕子花も菖蒲も同じアヤメ科の植物です。ですからアヤメ三兄弟を総じてアヤメと呼ぶこともあるよう       です。アヤメ、燕子花、菖蒲の順に咲きます。またこの順に背丈も高く花も大きくなるようです。
       明月院が八橋の意匠を取りながらも燕子花でなく花菖蒲にしたのは、矢張り花が優雅で、様々な種       があるからではないでしょう。
 
 
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潮来の「あやめ」と遊女の「あやめ」

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「あやめ」と言えば潮来でしょう。
”水郷潮来あやめ祭り”の潮来に出かけました。
今年で61回目だそうですから、戦後間もなくこのお祭りが始まったのでした。
祭りのメイン会場である「前川あやめ園」は約500種、100万株のあやめが色とりどりに咲いていました。
”なんだ、あやめじゃ無くて花菖蒲ばかりじゃないか?”思ってガイドに聞くと、
「菖蒲も燕子花もみんな”あやめ科”の植物です。三兄弟を総称して”あやめ”と言うんです」
教えられました。
よく見れば、あやめも燕子花も混じっています。
でも、大半は花菖蒲です。
だから、あやめ祭りは菖蒲の咲く期間に行われます。
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                                       潮来前川あやめ園の花菖蒲
 
前川は北利根川に流れ込む堀川です。
北利根川には大きな水門橋がかかって、橋の袂には黄門様の「あやめの碑」が立っています。
「潮来出島の まこもの中に あやめ咲くとは しほらしや/光圀」
真菰(マコモ)とは水辺に生育する蒲のような植物で、背丈が高く育ち繁茂します。
その中で、しおらしく花を咲かせるあやめを歌ったものです。
潮来は北前船の寄港地として賑わいました。
北前船は柏崎、酒田など東北の港、松前(蝦夷)の港をめぐって、潮来に寄港しました。
港に止まる度に荷を売り、新しい荷を買い込み・・・・、商いをして回りました。
利根川の河口にある潮来は大きな商い出来ますので・・・・・、沢山の荷揚げ役が必要でした。
荷揚げ役の荒くれ男が「真菰」で、彼らを癒す遊女等が「あやめ」だったのでしょう。
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                            前川あやめ園、中央橋が「あやめ橋」 建物がろ舟乗り場
 
私と家内は「12橋巡り」の櫓舟(ろぶね)に乗りました。
水郷では隣に行くにも櫓舟に乗って出かけたのでしょう。
若いお嬢さんが、ギッチラ、ギッチラ櫓をこいで、前川の堀川を12の橋をめぐってくれます。
此処が天王河岸跡です、此処が津軽河岸跡です。此処が仙台河岸跡です。
伊達の殿様の荷がこの河岸に集まり、江戸の向けて商いされました・・・。
「向こうに見えてきた橋がで出島橋です。黄門様は出島を作って遊郭にしました。その出島に架かった橋です。」そう、河岸の真ん中に出島遊郭があったのでした。
江戸時代の三大遊郭は「京都の島原」「江戸の吉原」そして「潮来の出島」でした。
そう言われると・・・、大阪市民に怒られそうです。
大阪の「新町遊郭」を忘れちゃ困る・・・、と。
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                                             ろ舟の風景。
 
前川あやめ園から西に10分ほどの位置に古刹長勝寺があります。
黄門様が支援したお寺ですが、創建は源頼朝だそうです。
大棟には三葉葵ではなく源氏の笹竜胆が飾られえています。
立派な唐様の本堂です。
丹塗の山門があります。
山門の修理に際して、遊女の記憶が発見されたのでした。
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                                                長勝寺本堂

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                                        長勝寺山門、遊女の寄進の記録が残ります。
 
 
山門は沢山の組物で出来ています。(組物:屋根の重みを支えるために斗や肘木を組み合わせたもの)
その組物の裏に、一つ一つびっしりと名前が書かれていたのでした。
「おたい」「およね」「おかめ」・・・・、そして「二親成仏」と願文が書かれています。
東北地方で生まれた女の子は育てられません。そこで間引かれるか・・・、売られてしまいました。
売られた女子は、遊郭で預けられて、年頃になれば客を取らされます。
そんあ幸薄い女性たちは・・・・「お父様・お母様、私は恨んでいません、だから成仏してください!」
願いを長勝寺の山門に止めたのでしょう。
 
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       西門寺の遊女の墓標(4人)。簡単な4字の戒名の下に俗名が刻まれています。
       側面に施主の玉屋の名が刻まれています。
 
お隣の西門寺(浄土真宗)に遊女の墓があると聞き、寄ってみました。
墓地の略中央に無縁墓があって、墓標には二種類の墓標が立っていました。
この一角は玉屋徳次郎が建立しています。
屹度玉屋は遊郭の名で、徳次郎が亡くなった遊女を祀ったのでしょう。
一つは角い石に数名の女性の戒名が刻まれています。
屹度、一定期間の死者を合祀したのでしょう。
でも、遊郭は30もあったと聞きます。
玉屋はその中で篤信家だったのでしょう。
だから、遊女を祀った。
殆どの遊郭の主人は遊女を道具のように遇していたのでしょう。
だから、亡くなれば200文程度の小銭を添えて、寺の墓地に投げ捨てた。
墓守男が穴を掘って遊女を埋めた。
墓守男は200文を懐にして、遊女を抱きに出かけた。
 
もう一群は女性と男性の戒名が並んでいます。
女性は遊女とすると、男性は何だったのでしょうか?
見受けした男性かしら?
それとも遊郭の主人?
想像するだけです。
 
遊郭といえば遊女です。
流石に潮来、一番の遊女は「綾女太夫」だそうです。
でも、綾女太夫の墓は何処にあるのか解りません。
 
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                              若くてキビキビした女船頭さん、お世話になりました。
 
島原の花魁(遊女)トップは「吉野太夫」、宮本武蔵にも登場します。
井原西鶴の好色一代男にも登場します。
島原のトップですから・・・・、将軍並みに12代まで数えられて・・・、鷹ヶ峰の「常照寺」に墓が祀られています。
一方、吉原のスター花魁は「高尾太夫」です。
高尾太夫も11代まで数えられます。
こちらも人情本(江戸話・落語)などにエピソードが沢山あります。
江戸庶民の憧れの存在です。(落語「紺屋高尾」で検索してください。墓は春慶院/浅草 西方寺/巣鴨等にあります)
そして、大阪・新町の夕霧太夫にも・・・。
地域や時代の文化を色濃く反映した花魁です。
 
潮来出島の遊郭は荷役人夫の癒し相手だったのでしょう。
全国各地の宿場町にいた「飯盛女」と同じような・・・、売春業だったのでしょう。
それは、潮来にはお大尽は居なくて、倉庫番の役人や番頭、そして人夫ばかりだったから・・・、
天保水滸伝のような荒くれ者や任侠が集まったのでしょう。
 
任侠者や東男の荒くれ者の慰みであったも・・・・、
”あやめの花”は綺麗です。
雑草の中で咲いてこそ・・・、あやめの芯の強さや美しさが際立ったのでしょう。
黄門様は全国を漫遊して・・・、蓄えられた見識から潮来に遊郭を築いて、あやめを育てて・・・、
「地域起し」をしたのでしょう。
 
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                              水戸光圀のアヤメの歌を記したプリント
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古都の小道「明月院道」

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古都の小道と言えば、奈良なら「囁きの小道」、京都なら「哲学の道」、
そして鎌倉なら「明月院道」でありましょう。
 
囁きの小道は春日大社から高畑につづく道、
高畑には春日大社の祢宜(神主)の住まいがあって、彼らが通った道でした。
馬酔木(アセビ)が生い茂っていますから、小道は花のトンネルです。
馬酔木は「馬も酔ってしまう木」と書きほどですから、鹿も食わないのでしょう。
馬酔木だけが茂っています。
何故「囁きの小道」の名がついたのか?
馬酔木の葉ずれの音が囁きのように聞こえるのか?
自然に耳を傾けるため、小声で話しましょう・・・・、そんな意味なのか・・・・、
それとも恋人が愛を囁く道なのか・・・・、様々想像できます。
志賀直哉(高畑に居宅があった)はこの小道を歩きながら、「暗夜行路」の構想を練った事でしょう。
机の前で考えるより、静かで豊かな自然の中を歩きながら考える方が、
良いアイディアが出て、考えが深まるものです。
 
「哲学の道」は京都の南禅寺付近から琵琶湖疏水に沿って銀閣寺まで続く小道です。
疎水の両側が桜並木ですから・・・・、春は花の下を、秋には紅葉の下を歩きます。
近くに西田幾多郎が住んでいたから哲学の道の名が付いた・・・、言われますが、
誰しもこの道を歩くと・・・・・、”何故自分は生きているんだろう!”
考えてしまうので、”哲学の道”の名がついたとも思われます。
今頃は哲学の小道も蛍が飛んでいることでしょう。
生活圏にこんな小道のある人が羨ましく思われます。
 
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                           鎌倉山ノ内の明月院への道。左手の渓流沿いに道が続きます。
 
北鎌倉駅の円覚寺口を出て、しばらく線路沿い歩きます。
左手に明月院の参道が出てきます。
道路標識にも「明月院道」と書かれています。
道路の左手に谷川が流れています。
明月院の谷から流れ出す渓流です。
 
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                                    明月院川の源流地には菖蒲田もあります。
 
石橋が架けられていて、橋を渡ればお屋敷が連なっています。
石垣も、石橋も鎌倉石で築かれています。
鎌倉石はその名の通り、鎌倉で産出する石です。
由比ガ浜の砂浜が沈下して、地圧で固まった出来たような砂岩です。
重たい石ですが良く水を吸い込む黒い石です。
多分お屋敷の建設に際して敷地内から出た石を利用したのでしょう。
私はこの道を「忘れな道」と名付けたいと思います。
 
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    お屋敷は鎌倉石等を使ったアーチ橋で明月院道に繋がっています。
    石垣には岩ジシャが自生しています。
 
明月院の前を過ぎますとこの細道は峠を越えて今泉に繋がります。
右折すれば半蔵坊に続く天園ハイキング道になります。
その道の脇にもうじき「忘れ草(萱草)」の花が咲きます。
そして、都会生活で傷ついた心を癒してくれ、
人付き合いの嫌なこと悲しいこと・・・を忘れさせてくれる小道なのです。
   (忘れ草は次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43662228.html)
 
6月になると紫陽花の花に誘われて、明月院には沢山の観光客が押し寄せます。
道には交通指導員が出て観光客を誘導します。 
何時もは閑静な住宅地ですが、この季節は騒がしくなります。
お屋敷の方も諦めておいででしょう。
 
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       明月院道、頭上には椎の大木に定家葛の花が咲いていました。
       このスクリュウーのような花が道に散っていますので、通行人は思わず頭上を見上げます。
 
鎌倉石の石垣には岩萵苣(イワヂシャ/岩煙草)や雪の下が自生しています。
岩萵苣は星の形をした紫の花をつけます。
雪の下は白い鷺のような花を咲かせます。
どちらも山野草で、奥ゆかしく、いじらしいほど可愛い花です
丁度今頃、梅雨の季節が見頃です。
 
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           今が見頃の岩萵苣(イワヂシャ/岩煙草)の花。
 
私はカルガモの親子を探します。
毎年、この渓流でカルガモ親子を見ることができるのです。
「今年も子育てしている」友人から聞いていましたから・・・。
交通指導員に訊いてみました。
カルガモはお屋敷の庭先で子ガモを孵化させて、この渓流でしばらく子育てしています。
今年も先日まで此処にいたのですが・・・、今頃は円覚寺の鷺池に居るんじゃないでしょうか?
今年は蛇(やまかがし)が異常に多くて驚いています。
藻屑蟹が随分いたんですが、全く居なくなってしまいました。
多分”洗い熊”にやられてしまったのでしょう。
見た目は可愛い熊なのですが、獰猛でこの渓流に良く出没するんですよ。
話してくれました。
 
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                                 これも今が見頃、雪の下の花。何れも明月院道で撮影。
 
蛇が増えたのは自然が回復してきた現れでしょう。
でも、外来種が目立つのは困ったことです。
藻屑蟹は上海蟹とも呼ばれ、中華街に行けば食べられます。
稀少種ではありませんが、明月院川にとっては稀少種です。
 
人間は明月院で癒されれば、悲しい事を忘れることが出来ます。
でも、野生種は忘れられしまうと、修復はできません。
宵闇になれば明月院道に静寂が戻って、蛍が舞うことでしょう。
屹度今頃は、哲学の小道でも、囁きの小道でも蛍狩りが行われていることでしょう。
 
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                   岩萵苣は鎌倉の石垣や櫓等に自生していますから、随所で見ることができます。
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                                         明月院道で見つけた糸蜻蛉。
 
 
 
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運向きのチェンジ。(胃癌手術の報告)

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6月22日、只今12時、帰宅しました。
実は、6月11日、朝にブログを書き上げて、家内と”ランチにお寿司を食べよう”
出かけたのでした。
これから、胃癌の摘出手術で入院します。
あれも食べたい、これも食べたい、私は食いしん坊ですから・・・、
「胃袋さんとのお別れは、寿司か蕎麦・・・にしよう・・・!」決めていたのでした。
6月12日に手術を無事終えて、6月22日に退院し我が家に帰還しました。
今、家内は台所で「卵かけうどん」を煮つけています。
これが自宅での”お食い初め”です。
 
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       身延山久遠寺の枝垂れ桜次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46217657.html 
 
胃癌の発覚は突然でした。
4月9日、私は日文研の友人と身延路を旅し、心底枝垂れ桜を堪能して帰りました。
旅の最後は由比宿で、名物の「桜えび料理」をいただきました。
帰宅して、夕食は自宅で、9時頃旅の思い出を枕に寝ました。
所が、11時半吐き気を催して目が覚めました。
未だ起きていた家内に「食あたりだ・・・」と言えば、
「私は同じものを食べて、いたって元気ですよ!」・・・、言います。
それじゃ、トイレで吐くか・・・・、何度も吐こうとするのですが、胸元三寸で吐き出せません。
気持ちは極端に悪く、脂汗が滲みます。
トイレ前で、体を横にすると、ドット出ました。
 
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     出血の切っ掛けになった(?)由比の桜えび御膳(開花亭) 筆者は先ず茶そばをいただき、最後に天ぷ     らを食べました。カリカリ、歯ざわりのよい海老の脚が胃壁に巣食っていた癌を発覚させました。
 
トイレ前は血の海でした。
二度、三度、嘔吐が続きます。
嘔吐物は夕食に食べたものと、薄黒い血でした。
同居する倅が救急車を呼んでくれて・・・、薄れる意識の中救急病院に運ばれました。
救急車の車中で救急隊員が私の症状を報告しています。
出血350CC・・・・。
 
私は救急治療室に運ばれた記憶こそあったのでしたが・・・・、漆黒の闇の中に居ました。
トンネルの向うに明るい光がさしています。
私は光に向かって歩いてゆきます。
突然に視界が開けて、たくさんの顔が覗いていました。
家内の顔も、倅の顔も・・・、そしてお医者様の顔がありました。
「気がつきましたか!貴方は数分間心臓が止まっていたんですよ!」
体を左右に揺すられました。
 
「これから、内視鏡を入れますからね・・・・・。出血箇所を先ず止めます。」
内視鏡の先端にはちょっとした装置が付いていて、出血箇所をクリップで押さえます。
出血箇所を探して内視鏡は胃壁を探して回ります。
出血しているのか、血が胃液で凝固しているのか、判別が難しいようです。
私は出血箇所が”胃癌でないのか?”見つめます。
合計4箇所をクリップして、応急処理を終えました。
 
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                   お花の下の写真が内視鏡で胃癌を確認した部分。白いクリップも見えます。
 
MRIも撮りました。
バリウムも飲んで確認しました。
入院して3日目、総合内科のM医師が内視鏡で検査しました。
4月9日には何も無かったのに・・・・、胃壁にイソギンチャクのようなコブが見つかりました。
シワクチャな胃壁の壁に内視鏡のコードを押し当てます。
すると、皺の影に隠れていたイソギンチャクを探し出したのでした。
「出血箇所はこの先端部分からですよ。」
内視鏡でイソギンチャクの4箇所組織を取りました。
そして組織は病理検査に回され、私は5日間の入院を終えましt。
 
5月8日、イソギンチャクの病理検査結果が出ました。
4箇所の組織から何れからも癌細胞が確認されました。
M医師は言われます。
「この進行癌の経は27ミリ×16ミリ。10年以上経っているでしょう。
胃壁のシワの陰にできたから見つかり難かった。
通常胃癌は食べ物の通りが悪くなったり、胃痛がしたりして発見されますが、
出血が発見を早めてくれましたね。
珍しいケースです。」
「対策は当院の外科の判断ですが・・・、私の経験では全摘手術でしょう。」
事無げに言われます。
私は、哀願するように訴えます。
「癌は一つだけでしょう。ならば、その箇所だけ摘出する訳には行かないのですか?」
M医師は応えます。
「癌は胃の入り口、噴門部にあります。しかもかなりの進行癌です。
この場合部分摘出は難しく、術後の完璧を期すためにも、全摘が妥当です。
部分摘出の場合ダンピング症状がキツくなったり、様々な後遺症が現れることがあります。
完璧を期すならば全摘を勧めます。貴方の希望なら部分摘出もしますが・・・・・長生きしたいのでしょう!」
「勿論長生きしたいし、残りの人生も食べる楽しみを味わいたい・・・、だから・・・。」
 
私と家内はセカンドオピニオンを求める事にしました。
M医師は快く応じてくれて、なんと今までのデータをCDロムに焼いて、封筒に封印して渡してくれました。
 
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                                    私が手術した湘南鎌倉総合病院
 
5月に入って、私と家内は神奈川県癌センターでT医師の診断を受けました。
その結果は湘南鎌倉総合病院のM医師を言われる通りでした。
加えて、「インターネットの記事はあてになりませんよ。病院のPRだから・・・・」
軽く諫められてしまいました。
 
そこで、納得が行きました。
「二つの機関の医師が全摘と言うならば・・・、全摘しよう・・・・」
腹が座って、湘南鎌倉総合病院に入院予約を入れました。
入院は6月11日、手術は翌12日午後2時から4時間・・・・、スケジュールが確定しました。
 
6月1日、湘南鎌倉総合病院のM医師から電話がかかりました。
「執刀医の消化器外科のO医師のところに明日来るように。
O医師は部分摘出ですすめる・・・・・、ご判断ですよ・・・。」
家内はインターネット等でO医師を調べます。
今年4月湘南鎌倉総合病院に副院長として来られた先生で、
癌研で育ち筑波病院等を経られた消化器癌の専門医だと解りました。
私は確信しました。
今回の私の運は良い。
癌の発見も幸運だったし、お医者さんの巡り合わせも幸いであるし・・・・。
 
この15年間、私にはいくら努力しても悪運だけはついて回り、如何ともし難かった・・・、
それが身延山久遠寺詣で流れが変わった・・・、確信しました。
 
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                         6月20日、台風一過素晴らしい夕焼けが病室から眺められました。
                         富士山の左下が藤沢の中心街になります。
 
6月2日、私は家内に連れ添ってもらい消化器外科の外来でO医師の説明を受けました。
O医師は屈託のない笑顔で言われます。
「噴門部癌は私の得意わざです。何度も経験しています。安心してお任せ下さい。
先ず、胃は噴門部を摘出します。
現状ではステージⅡだと思いますが、更に進行していれば脾臓も摘出する可能性が高いでしょう。
でも、胃は残します。
更に腸を10センチくらい切ってきて、食道と胃の間に入れます。
加えて腸を胃に繋いで十二指腸との間にバイパスを作ります。
胃から見れば本来の12指腸に加えてもう一つ出口ができることになります。
私にとっては医術は”神の手”です。
一つ一つの方針を聴いて・・・・、
「よろしくお願いいたします」
家内と頭を下げました。
 
6月12日午後1時、麻酔科の医師によって手術室に運ばれました。
狭い手術台に両手両足を縛られると・・・・、より一層願いが強くなります。
”6時間後、麻酔が融けて、目が開きますように・・・・”祈ります。
家族の顔が消えて行くと・・・・・、手術が始まりました。
 
ICUで目が覚めました。
家族の顔が見えました。
”あ、起きたわ・・・!”家内が言ったような気がします。
私の目に家内と3人の子供たちの顔が映りました。
喉には酸素吸入管が入っていますし・・・・・、声は出ませんし、
体は寒くて、私は ”ありがとう・・・・!”の気持ちを表す術がありません。
 
家内が言います。
O医師は2時間後手術室から出てこられ・・・・、
「手術は無事終わりました。今、医員が跡処置をしていますから、しばらくお待ちください」。
それから、私がICUに移されるまで、1時間半も要して・・・、そっちの方が長く感じられたそうです。
 
6月12日、手術後、私の体調は順調です。
担当のS医師の評価では、”超順調”だそうです。
多分、噴門部胃癌手術で部分摘出だったのは湘南鎌倉総合病院では私がクランケ1号であった事でしょう。
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                            我が家、門横の朝顔が”お帰りなさい”で迎えて呉れました。
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                                              庭に落ちた梅の実。
 
6月22日温帯低気圧の雨が降る中自宅に戻りました。
紫陽花が笑顔で出迎えてくれました。
夕顔の蔓も伸び初めています。
入院した時、朝顔はようやく輪台につるが届きそうでしたが、
今はもう鉢のサイズでは収まらないほど・・・、野放図に伸びてしまっています。
梅雨の季節、植物の命は旺盛です。
私の命も、老の中とは言え、再点火されて勢いを戻しそうです。
家族のためにも体を愛いながら過ごすことにいたしましょう。
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        私の入院中に、朝顔は10センチくらいだったものが背丈に近く育ちました。
 
私の病気をご存知だった方々、どうぞご安心ください。
お陰様で、無事に退院し、これからリハビリです。
何でも食べられるのは・・・・、3ヶ月先になることでしょう。
 
 
 
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