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秩父札所4番「金昌寺」石仏群

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私が最初に秩父の札所を回ったのは、昭和47年2月、大学1年の授業が終えた頃でした。
未だ春が遠い季節、石仏巡りをしようと池袋駅から西武鉄道秩父線で出かけました。
当時は未だ、手甲脚絆の巡礼さんが沢山札所巡りをする姿が確認できました。
 
秩父霊場の始まりは文暦元年(1234年)と言われます。
秩父神社の周囲、西は三峰神社、東は宝登山神社に囲まれた霊域の寺寺が霊場となりました。
15世紀の秩父札所番付では霊場の数は33箇所でしたが、16世紀になると1箇所増えて34霊場になりました。
西国33箇所、坂東33箇所、秩父34か所と合わせて日本百観音霊場を構成することになりました。
秩父34番札所水潜寺は秩父札所の結願の寺であると同時に、日本百観音霊場の結願でもありました。
 
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             秩父札所4番金昌寺の山門。大草鞋の上には西国33観音と羅漢などが祀られています。
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                      山門楼上の仏像群、前列羅漢、後列33観音、子法師像などが見えます。
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                                             山門仁王像
 
近世に入って街道が整備されます。
江戸からは中山道を熊谷宿まで行き、秩父往還道に入ります。
寄居からは荒川に沿って渓谷を登れば秩父に着きました。
秩父は大川(隅田川)荒川の水源でありますから…、江戸庶民にとっては水神の棲む神聖な土地でした。
江戸庶民が大挙して秩父の観音霊場を巡るようになります。
 
すると、札所周りの順番が変更され、寄居に近い「四萬部寺(しまぶじ)」が札所一番になります。 
番打ちや巡礼の道筋が変更されました。
全長100キロにわたり巡礼道は整備され、道標が整備されます。
各寺寺はご本尊の開帳をするなど、江戸からの巡礼客の呼び込みに努力もします。
 
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                                                     金昌寺観音石仏群
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                               中央愛染明王、この一帯は地蔵、羅漢が目立ちます。
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                                  土手には擬宝珠が咲いて、地蔵さんが笑顔です。
 
そんな中で、4番札所「金昌寺」の住職はアイディアを絞ります。
寛永元年(1624年)寺を千体の石仏で埋めようと願を立てます。(金昌寺案内板より)
秩父の西「岩殿沢」に石を発見しこれを「功徳石」と呼び切り出しました。
「凝灰質砂岩」ですから、石の表面は滑らかで、加工に適していました。
しかし、砂岩特有の風化しやすい性質がありました。
巡礼者は結願出来た感謝の気持ちで石仏を奉納したのでしょう。
住職の思いを超えて7年で3千体の石仏が奉納されたといわれます。
 
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奥ノ院前の石窟。蛇紋岩層と礫岩層が入り組んでいます、。
こうした岩の裂け目の先に地獄があると考えられたのでしょう。
 
現存する石仏は1300体です。
でも、その過半は廃仏毀釈でお顔を失ったままです。
5体満足な石仏は600体に及ばないでしょう。
1600年過ぎに熱せられたように造られた石仏が300年後は壊されてしまう・・・、人
間の行動は時に狂気に走り、理解できません。
 
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                        人為的に石仏のお顔が破損されています。(奥ノ院道)
 
石仏には奉納者の名や出身地が風化せずに読めるものがあります。
それを丁寧に読むと、寄進者の7割が江戸で、2割が武州だそうです。
ですから、石仏には江戸っ子の信仰が如実に現れています。
 
観音霊場ですから・・・、33観音が多いのは自然です。
でも、それ以上に目立つのが「子供の仏様」です。
本堂の前には有名な「慈母観音」が祀られています。
菱川師宣や鈴木晴信が描くような浮世絵美人の観音様です。
胸を肌蹴て、右の乳で授乳させています。
乳飲み子は観音様の左の乳房を握って母の愛を確認しているようです。
水子を産んだ親も、乳の出の悪い母親も、慈母観音を見つめて祈った事でしょう。
 
子育て地蔵も目立ちます。
そして、お地蔵様の足元には無数の小法師像が祀られています。(小法師は水子供養のため)
 
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    秩父石仏の代表「慈母観音像」、授乳中の母親が観音の姿に模されています。
    お顔が鈴木晴信の美人画を髣髴させます。
 
金昌寺自体は曹洞宗(禅宗)の寺院です。
山門上には16羅漢像が祀られていますし、境内にも羅漢像(石仏)も目立ちます。
徳利を抱えて、杯を頭の上に掲げて”般若湯、飲みすぎたわ!”
陽気な羅漢さんは笑わせてくれます。
 
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                           羅漢像、般若湯を遣りすぎたわ!、そんな表情が笑いを誘います。
 
石仏ですから、庶民の悲しみも喜びも素直に表現されています。
江戸では菱川師宣や晴信が美人画を描き始めた時代です。
南画の蕪村や池大雅も現れて、美しい自然を楽しみながら自由に生きる姿を描写します。
北斎や広重が出現する半世紀前の時代・・・・、江戸庶民の信仰の諸相が石仏の形で表現されました。
それは、観音だ、地蔵だ、とは一概に言い切れない様々な姿をしていました。
愛染明王もあれば羅漢のありました。
総じていえば・・・、「死んであの世があるか否か、それはわからない。」
解らない来世を頼むより、現世を楽しもうではないか。
現世を逞しく生き抜く・・・、そんな諸仏が選ばれて金昌寺の境内を埋めたようにように思われます。
 
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                                                            亀の子地蔵尊
 
40年前に比べれば金昌寺は綺麗に整備されました。
駐車場もトイレも整備されました。
でも、お遍路さんの姿は見られなくなってしまいました。
 
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秩父札所「音楽寺」から見えるもの

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昨日書いた秩父札所4番「金昌寺」は秩父盆地の東側、横瀬川の近くにあります。
私たちは金昌寺から秩父の市街地を横断して、盆地の西側札所23番「音楽寺」に向かいました。
荒川に架かる斜張橋(吊り橋)を渡ると道は急な坂道になります。
慈覚大師が小鹿に導かれて急峻な山道を開き観音様を祀った・・・・、
それが音楽寺の始まりでありました。
以来この坂道を「小鹿坂」と呼ぶのだそうです。
坂を上るにつれて眼下に秩父の市街地が開けてきます。
市街の向こうのピラミッドのような山が武甲山…、山並みは甲斐に続いています。
音楽寺は正に秩父を見下ろす「山城」の感がします。
 
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      音楽寺から秩父の市街を見下ろす。斜張橋は「秩父公園橋」、右は武甲山。
      手前の緑は合歓の木で花が咲いていました。
 
長い参道を上り詰めると音楽寺の本堂があります。
そこから石段を登ると観音堂の前に出ます。
開基慈覚大師の奉じた観音様がご本尊です。
 
三間四面のシンプルな美しい建物です。
でも、広い縁側が周りを囲って、朱塗りの勾欄が巡っています。
ですから、全体としては大きなお堂の風格が備わっています。
夥しい千社札が貼られていて、軒下には大きな絵馬が掛けられています。
また、広縁にはパネルが用意されていて、演歌のポスターが貼られていました。
屹度、音楽寺の名に因んで、ヒット祈願をしたものでしょう。
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                   三間四面ながら大きなお堂の風格のある観音堂。朱塗りの勾欄が綺麗です。
 
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                                                    軒下の千社札と絵馬
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                                                ヒット祈願の演歌歌手のポスター
 
明治17年10月末、音楽寺の梵鐘が激しく打ち鳴らされました。
名主「田代宗助」をリーダーにした秩父困民党が武装蜂起したのでした。
 
田代宗助らが決起した遠因は明治10年の西南戦争にありました。
軍費調達のため貨幣が鋳造され、極端なインフレになります。
インフレに懲りた松形正義は銀本位制に転換し、今度は極端なデフレに走ります。
経済のうねりは脆弱な農業を翻弄します。
農家は各地で暴動を起こしていました。
 
秩父地方は養蚕業に7割の人が従事していました。
養蚕農家は商人から前借して生活資材を購入していました。
そして、繭玉や秩父銘仙を売って借金を返済していました。
 
ところが、極端なデフレで繭玉が借金を返済する価格にはなりませんでした。
そこで、養蚕農家は窮状を訴えて、借金の棒引きや租税の軽減を訴えました。
でも、行政当局も金融資本家も理解を示してくれません。
 
こうなれば…、残された方法は一揆しかありません。
そこで、山城のような音楽寺に立て籠もって武装蜂起したのでした。
 
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                                秩父事件、困民党が打ち鳴らした音楽寺の梵鐘。
 
住人の7割が養蚕に関係していましたから・・・・・、瞬時に秩父一帯を困民党が抑えてしまいます。
借金の証書は破り捨てられ…、農家の当初の目的は達しました。
明治政府が秩父鉄道に軍隊を載せて鎮圧に乗り出します。
そして、秩父事件指導者7名を捕えて死刑に処します。
理由は「西南戦争」に倣っただけでした。
「不平武士はけしからん」
「不平を言う農民もけしからん!」
そんな感覚だったのでしょう。
江戸時代ならもう少し不平を述べる原因を究明したことだったでしょう。
インフレもデフレもマダマダ脆弱な日本経済でしたから・・・・・・、
指導者の性急な経済政策の間違いが、
農民など経済的弱者の身の上に降りかかったのでしょう。
 
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                               秩父困民党、戦士の墓。
 
秩父事件の指導者は処刑されてしまいました。
でも、秩父では彼らを「義民」として敬い祀りました。
 
私は秩父事件の発端になった音楽寺で暫し考えます。
「秩父事件の昔と今と少しは進歩しているのだろうか?」 と。
 
今、日本の国は経済力もあり、外貨準備も豊かで秩父事件当時に比べれば雲泥の差でありましょう。
でも、待てよ国民の生活はどうであるのか?
疑問がドンドン膨らんできます。
 
生活保護とは憲法で認められている、
「健康で文化的な最低限度の生活を保障するため保護費を支給する制度」であります。
第二次世界大戦後毎年のように減少していたものが、
昨年は戦争後(200万人)を超えて、210万人にも増えてしまいました。
未だ、財政負担は4兆円未満ですが・・・・、増加傾向は変わりそうもありません。
 
問題は、最低保障賃金自体が低くて・・・・、最低保障で働くより、生活保障を受けたほうが楽である…、
そんな現実にあるようです。
「汗水して働くより、生活保護を受けたほうが裕福だ」 そんな不条理がまかりとおている原因は、
間違いなく最低保障賃金が低すぎることにあります。
 
何故、こんなことになったのか・・・・、
それは小泉改革の時、行き過ぎた労働市場の自由化にあったのでした。
正規雇用が減って、臨時雇用が増えました。
臨時雇用は、経営者にとっては「中国の労働力」と「日本の労働力」とどちらを選択するか…、を迫りました。
最低保障賃金は限りなく中国労働市場の対価に接近しました。
 
「国民の生活が第一」誰しもが認める政策でありましょう。
国民主権ですから・・・、これほどシンプルで分かりやすい方針はありません。
米騒動の時代も、秩父困民党の時代も・・・・「国民の生活が第一」考えていたことでしょう。
でも、実際の政策は違いました。
国民(臣民)の生活ではなく、国体とか富国強兵策が優先されました。
そのため騒動は明治時代は軍隊によって圧殺されました。
現代は圧殺されることはなくても…、自殺が横行しています。
3万人以上の人が小泉改革の後ズット自殺し続けている事実は許しがたい事実です。
明治時代は富国強兵が優先されました。
現代は…、大企業が優先されています。
 
政府はズット大企業が日本脱出をする…危惧しているようです。
大企業の法人税を下げなければ、大企業の内部留保を確かにしなければ…、
大企業が日本から中国など外国に本社を移転する…、怯えているとしか思えません。
 
大企業は税率の低いところに本社を置いているわけではないでしょう。
本社を置いている国の経済が順調で、その国民が優秀で、その国民が元気で企画開発力に富んでいる・・・、
から本社をその国に置いているのでしょう。
アップルやマイクロソフトは米国に本社を置き続けるでしょう。
安いソフト開発人材がたくさんいる・・・・、インドに本社を移転する・・・・、誰も考えません。
 
「国内需要の復活」とか「国民の自信復活」が日本再建の王道であると思います。
 
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音楽寺の参道には3軒のお茶屋(1軒は宿兼業)がありますが、普段の日は何れも店を開けていませんでした。
お遍路さんが盛んだった時代は賑わっていたのでしょうが。
 
 
 
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秩父路の桔梗の花(多宝寺にて)

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秩父路の玄関「長瀞町」に万葉歌人が愛した「秋の七草」が咲いています。
『萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花』
山上憶良が愛でるべき野に咲く花7種を詠んだ秋の七草でした。
長瀞町を秩父寄りに登れば「和同町」があります。
708年(和同元年)銅が発見され、日本最初の銅銭「和同開珎」が鋳造されました。
ですから、秩父はそれこそ「万葉の里」なのです。
 
尾花と葛は「道光寺」、「遍照寺」。不動寺の境内に川原撫子、女郎花は「真性寺」、藤袴の「法善寺」、
そして、憶良が最後に数えた「朝顔」が「多宝寺」です。
長瀞町7つのお寺に秋の七草を咲かせて、観光名所にしたのは・・・・・、お参りをしてほしい…、お寺の苦肉の策かも知れません。
でも、まだまだ里山の静かなお寺に「秋の七草」は似合いすぎているようです。
 
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                          桔梗の寺「多宝寺」。桔梗と百日紅がもう咲いていました。
 
 
憶良が数えた「朝顔」が実は「桔梗」だ・・・・、主張したのは誰だったのでしょうか?
今では通説になっています。
他人のブログでは「朝顔は万葉の時代に咲いていなかった。」見たかのような主張をしています。
源氏物語では「朝顔」も「夕顔」も主役を務めています。
奈良時代に無くて・・・・・、平安時代に主役を張った…、というのは信じられません。
でも、憶良が桔梗の花を愛でた…、というのは理解できます。
 
7月12日、長瀞町に「多宝寺」を詣でて、桔梗の花を見てきました。
お寺の参道沿いの畑は一面桔梗が咲いていました。
でも、もう盛りを過ぎて、花が褪せ始めていました。
桔梗は秋の花というより、夏の花のようです。
でも、高貴な紫色で、形も星形の端正な姿をしています。
色も形も「秋の花」に似つかわしい花です。
だから・・・・・、夏に咲くのが実態でも、秋の花に数えたのかもしれません。
女郎花も葛も秋の花は多くが紫です。
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                      左手のお堂が多宝寺の本堂。もう、桔梗も後半になりました。
 
一方「朝顔」は「朝顔市」が7月に開かれますが・・・・、実は歳時記では秋の花です。
我が家の朝顔も今ポツン・ポツンと咲き始めましたが、盛んに咲くのは秋になってからです。
秋風が立ち始めるころ、庭木の先、軒先に咲く朝顔こそ風情があるものです。
しつこいようですが、憶良の「朝顔」をわざわざ「桔梗」だ、としたのか解りません。
素直に「朝顔」のままで良かった様にも思えます。
 
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                                                  桔梗と庚申の猿
 
私の生家にも桔梗の花が群れ咲いていました。
旧盆での施餓鬼会には少ない墓参客が「黄色い菊芋と紫の桔梗」を手折って墓前に奉げていました。
(私の生家は蜂須賀家のお寺でしたので檀家は取っていませんでした)
時々、桔梗を掘り起こすと、驚くほど大きな根芋が出てきました。
朝鮮人参と見間違う程でした。
桔梗は漢方薬ですから・・・・、何処のお寺にも必ずと言っていいほど植えられていたのでしょう。
「去痰、鎮咳、鎮痛、鎮静、解熱」の薬効があるそうです。
 
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                                               多宝寺の本堂前で
 
「多宝寺」は、約700年前の元享元年(1321)に創建された寺です。(真言宗智山派)
本堂のガラス戸に顔を押し当てて中をのぞきました。
案内板には「御本尊は、十一面観世音菩薩で、両脇に不動明王と毘沙門天も祀っている」書かれていますが、小さな念じ仏のようです。
私の興味を惹いたのは幅2メートルもあるという絵馬です。
江戸時代後半の作で、観音堂の周りを踊りながら参拝する沢山の男女が描かれているそうです。
”遊行念仏”を思わせる絵馬なのでしょう。
寺の宝物として大切にされている・・・・、のですから本堂の長押に架かっている・・・・、期待したのですが…、見つかりませんでした。
 
神紋として崇められた桔梗の花です。
(清明神社の紋/五芒星の形は桔梗の花です。明智光秀の家紋でもあります)
多くの歴史を経ながら・・・・、風になびいていました。
 
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行田の古代蓮への敬意

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7月15日、行田に古代蓮を見に出かけました。
蓮田SAを降りて、館林街道を北上すれば行田近くに着きます。
蓮田なのだから・・・・、蓮の田圃があるのだろう……、想像したのでしたが一枚の蓮田圃も見えませんでした。
ただ、一面の田圃の中に巨大なショッピングセンターが出現し、驚きました。
 
朝9時過ぎ、もう「古代蓮の里」は沢山のお客が集まっていました。
蓮の花は早朝8時頃に咲き始めます。
でも、駐車場は朝5時に開場するようです。
蓮の開花の瞬間や、野鳥を観察する人のため、開場を早くしているのでしょう。
”私は毎日古代蓮の里を見ていますが、今日が最高の美しさです”
行田市の名所案内を配っている市の係官はお口が上手です。
 
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                                        行田「古代蓮の里」の蓮田。
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昭和46年行田市はごみ焼却場を建設しようと工事を始めました。
近くに「古墳公園」があるような立地です。
埋蔵文化財の発掘も行ったことでしょう。
昭和48年、掘削によってできた水溜りに蓮の葉を確認します。
何と地中深く眠っていた蓮の身が発芽し、葉を茂らせ、花をつけたのでした。
濃いピンクの、花径は28㎝に及ぶ大型で一重の蓮が人々を驚かせ、喜ばせました。
権威に調べてもらったところ、この蓮は1400年前から3000年前のものと判明しました。
1400年前なら古代、仏教伝来の頃です。
3000年前なら縄文時代、弥生時代よりも前の石器時代に遡ります。
日本に文字の無かった時代の蓮が突然に眠りから覚めて、花を咲かせたのでした。
当然のようにゴミ焼却場計画は中止となり「古代蓮の公園」の計画に変更されました。
こうして行田に古墳群ともう一つの観光資源が出来上がりました。
 
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                            蓮田の中には木橋が架けられ。蓮の花を巡ることができます。
 
一般に仏教伝来は司馬達等が来日し、「大唐の神」を屋敷に礼拝したのが始まりといわれています。(扶桑略記)
達等の孫「止利仏師」は法隆寺の仏像群を造仏します。
当時の日本人は「仏教とは何か?」理解する前に、
唐の国からもたらされた先進文化に驚き、仏像の神々しさに驚異したのでした。
金色に輝く仏の体・・・・・、乗って居られるのは「蓮」の台(うてな)の上でした。
「ああ、異国からもたらされた新しい神様は神々しいお体で蓮の上に坐して居られるのだ」
知った事でしょう。
 
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  蓮は泥の中から茎を伸ばして花を咲かせます。
  古代の人はその美しさや逞しさに畏敬の念を持ったことでしょう。
 
 
蓮は泥の中に根を張り巡らして・・・・、春には葉を茂らせ、夏には花をつけます。
その様子が田圃に働く人達にとって、共感を呼び覚ましたことでしょう。
現実に農作業に従事し生き抜くことは苦しい・・・・、
でも、耐え忍べば嬉しいことも幸福もある。
蓮の花のように。
 
新しい仏は働く事や生き抜くことを教える神に違いない・・・、
そう思うと、異国の神といえども親しみが湧いた事でしょう。
神国日本に仏教の受容は意外とスムーズに行われました。
 
ベトナムの国花は「蓮」の花で、国営のベトナム航空は「蓮の花」を翼に掲げて飛んでいます。
ベトナムの各地では蓮の花が咲いています。
でも……、蓮の花が咲いている状態は日本の方が遥かに綺麗です。
何故かといえば、ベトナムの蓮は咲いている蓮も、枯れたり破れた蓮も同時です。
一年中咲いているのは…、一年中枯れた蓮も同居しているのです。
だから・・・、余り美しいとは感じません。
 
日本の蓮は夏の間2週間程度しか咲きません。
一時に咲いて、一時に散って、冬になれば全部が破蓮になってしまうのです。
ですから一時に咲く日本の蓮の花が間違いなく世界一美しいと思います。
 
京都東山の法然院を詣でたときことでした。
蝉しぐれの中、本堂にはいりました。
塵ひとつなく清められた須弥壇(しゅみだん、ご本尊を祀る壇)の床に、
蓮の花が散っていました。
その美しさに息を呑み込みました。
 
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              散り際の蓮の花。蓮の実が現れてきています。これが仏が坐す「蓮台」の意匠です。
 
もうじき、旧盆、施餓鬼会が開かれます。
餓鬼とは人間の魂が往生できず、彷徨っている霊です。
そんな往生できない霊にお供物を供えます。
生米やナスを刻んで、蓮の葉の上に載せて、施餓鬼棚に奉げます。
蓮の葉は先史時代からお皿の役をしていたのでしょう。
蓮は花も実も葉っぱも茎も・・・・、日本民族の文化遺伝子に組み込まれた植物なのでした。
 
そう、思うと行田の古代蓮は・・・・、偶然が重なったといえ、よくぞ芽吹いてくれたものだ…、感動します。
そして、日本の古代蓮が一番美しい…、確信させてくれます。
 
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  「行田古代蓮の里」には世界の蓮も植えられています。これは「紅万々」と呼ばれる中国の八重咲き種。
 
 
 
 
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海の日の材木座海岸

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7月16日は祝日「海の日」です。
昨年は、海の日の頃に材木座海水浴場に行ったところ、大変に良い思いをしました。
立教女学院大のお嬢様が大挙してフラダンスを見せて下さったのでした。
色の白いのは大和撫子なので致し方なし・・・・、
和風のフラダンスは品よく、健康で・・・・・・、ただ単純に”良かった”のでした。
今年も見たいな・・・・、思いもあって、材木座海岸に出かけました。
 
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                    材木座海水浴場、左上が稲村ケ崎、その上方に青い富士山が見えました。
 
 
滑川を挟んで、西側が由比ヶ浜海水浴場、東側が材木座海岸海水浴場です。
材木座と呼ぶのは、此処に「材木を商う座」を営なまれたからでした。
1192年、寒村に突然鎌倉幕府が開かれました。
幕府や要人の住居、神社仏閣などの建設需要が起こります。
建設には材木や石が必要です。
そこで、幕府は材木商を呼び集め、座の設置を認めその権益を保護しました。
同時に港を建設して、各地から材木などの物資を集めました。
港の名前は「和賀江島(わかえしま)港」としました。
こうして、鎌倉の砂浜に「材木座」が出来ました。
 
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                  材木座海水浴場、看視員の左の水は豆腐川が注ぎ込んでいるもの。
 
海水浴場ではしきりにアナウンスしています。
「もしも、地震が起きたら・・・・・、小さな地震でもすぐに海から上がって下さい。
遠くに逃げるより高みに避難してください・・・・・」
 
私は高いところを探します。
鎌倉は条例で高い建築はありません。
逗子マリーナのマンション群が見えますが・・・・、あそこは逗子です。
逃げるとなると、光明寺の裏山のほうが近いし、堅固です。
私は地理に詳しいから・・・・、真っ直ぐに裏山に走る事ができても・・・・、
大半の人は右往左往することでしょう。
津波対策のアナウンスは、一方で不安を増させるばかりです。
 
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    中央奥のマンションが逗子マリーナ。その左が小坪漁港。背後の山が光明寺に続きます。 
    津波対策はこの裏山に避難することでしょう。でも、海水浴場からは避難路は見当たりません。
 
西をむけば、由比ヶ浜の向こうに稲村ケ崎が見えます。
霊仙山の遥か上に富士山も見えます。
もう、雪はかぶっていません。
山のほうには雨雲も湧いていますが、海の上の空は秋のような層雲です。
今日は久々の海水浴日和のようです。
「海の日」に合わせたような快晴で、暑くなりそうです。
 
稲村ケ崎と呼ぶのは岬の山が「積み上げた稲藁」のように見えたからだそうです。
「稲むらの火」は濱ロ梧陵が稲藁を焼いて村民の命を救った故事でした。
1854年(安政元年)の安政南海地震でしたから、未だ150年しか経っていません。
 
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    中央が富士山、左の岬が稲村ケ崎。岬の形が稲を積んだ稲藁に見えたのでこの名があるのでしょう。
    新田義貞の鎌倉攻めで有名な古戦場、屹度大潮に乗じて岬の先端を歩いて鎌倉府内に突入したのでし     ょう。
 
私は、海の家に入ってベンチに座って、かき氷を戴くことにしました。
未だ、10に過ぎですから、お客は他にいません。
店先の開いたビーチパラソルにもお客は疎らです。
それにしても、海水浴客が少ない気がします。
同時に、材木座の砂浜が広くて綺麗なことに驚きます。
私の記憶では芋の子を洗うような・・・混雑だったはずです。
 
此処は大洗海岸ではなかったのか! 錯覚に陥ります。
海水浴にはお金がかからないし、爽快だし、健康にも良い・・・、と思うのですが
人気が”いま、いち” なのでしょう。
 
砂浜が広かったのは、きっと「大潮」だったのではないのかな?
家に戻って新聞で確認しようとしました。
驚いたことに、潮の干満の情報は新聞に載っていませんでした。
昔は載っていた筈なのに・・・・。
もう、私たちの生活に満潮、干潮は関係なくなってしまった・・・、新聞社は判断したのでしょう。
精々、台風と満潮が重なったら大変だ・・・・、そんな時にだけ干満情報が見直されます。
でも、海水浴でも、磯遊びでも、釣りでも・・・・・、干潮は必要な情報です。
まして、大潮については・・・・・。
貴重な情報でしょう。
 
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   中潮の稲村ケ崎海水浴場。広い砂浜、疎らな海水浴客は驚きです。秋らしい雲が湧いていました。
   手前の堤は豆腐川の堰堤です。
 
大潮とは新月や満月の前後に起きる干満の差の大きな潮のことです。
月と太陽と地球が横一直線に並ぶので、月と太陽の引力で海の水が引っ張られ干満の差が大きくなります。
7月は18日から20日までは大潮で、12時(昼)頃に干潮になるのだそうです。
16日10時は中潮ながら大きな干潮だったのでしょう。
 
稲村ケ崎の古戦場は、新田義貞軍が鎌倉府内に攻め入ったところでした。
刀を海に投じて、神に祈ったところ、海が開いた・・・・、と伝えられています。
新田義貞は大潮の干潮を待って、府内に攻め入ったのでしょう。
歴史は勝者が書き残すもの・・・・、敗者は沈黙したままです。
鎌倉の神仏が新田義貞を利するとは思えません。
 
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「さきたま古墳群」を世界遺産に・・・・。

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7月15日、行田の「古代蓮」を見た私たちは、その西2キロにある「さきたま古墳群」に向かいました。
私の学生時代は未だ名もない古墳だった気がしますが、昭和53年鉄剣に金による象嵌文字が確認されると、一躍脚光を浴びました。
どんなものなのか、確認しようと向かいました。
 
「さきたま古墳群」「さきたま風土記の丘」二つの表示があるようです。
場所は行田市市街地から東南に約1キロ、田圃の中にありました。
利根川と荒川の中間、少しだけ高台にあるように見えます。
肥沃な田園地帯で、同時に水運、陸路の要衝の地だったのでしょう。
そこに、土地の豪族が古墳を建てたのか、または都から派遣された豪族の墓なのか?
諸説あるようです。
 
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       「さきたま古墳群」の中核「丸墓山古墳」、春には頂上の桜が咲くことでしょう。
       古墳の下で私を待っている一群がいました。「シャッター押してください」期待に応えました。
 
 
古墳群は大型古墳が9基、その周囲に陪臣の小型円墳が35基、方墳が1基、
合計45基もの古墳が集積しています。
そのうち、中核になるのが「丸墓山古墳」で、直径が108m、高さが18.9m、日本最大の円墳だそうです。
私達はエッチラ・エッチラ、円墳の頂上に上りました。
 
西には稲荷山古墳、西北に二子山古墳が見下ろせます。
どちらも形の良い「前方後円墳」です。
奈良や難波の古墳に比べれば遥かに小型ですが、
形が良く、樹木が無いこと、発掘が進んでいることが特徴のようです。
 
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             丸墓山古墳頂上から眺めた「稲荷山古墳」 良い形をしています。
             頂上に埋蔵施設が復元されています。
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   こちらは「二子山古墳」。5世紀に造られた武蔵野国最大の前方後円墳。
 
この古墳は豪族の墓であり、天皇家に関係ないことから・・・・、文化庁の所管であることが幸いしたのでしょう。
調査や整備が進行しています。
丸山墓古墳の頂上には桜が6本植えられています。
戦後、公園として整備が進んだとき、街路樹として桜を植えたのでしょう。
そのついでに、円墳の頂上にも植えました。
 
何故なら、この円墳には豊臣秀吉の命を受けた石田光成が本陣を置いたのだそうです。
約2万の大軍で忍城(おしじょう、城主:成田氏清)を攻めます。
成田氏は500人の兵で徹底抗戦します。
光成は荒川の堰を破り、水攻めを敢行しました。
行田市民にとっては成田氏清のスピリットが自慢のようです。
町中に「浮き城」「忍城」の幟が立っています。
  (「浮き城」の名は水攻めに屈しなかったから、「忍城」の名はたった500名の兵で耐え忍んだからでしょう)
 
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   丸墓山古墳から北の行田市街を眺める。左上に忍城が見える。手前の花は一重咲の萱草です。
 
古墳群を眺めた私達は「さきたま史跡博物館」に向かいました。
博物館で夥しい数の「国宝」を確認する事が出来ました。
 
その第一が「金錯銘鉄剣」でありました。
鉄剣は意外な程腐食が進んでいません。
鉄剣に銀が含有されているからだそうでした。
そして剣の裏表に115文字で剣を鋳造した謂れが刻まれています。
「剣の主は雄略天皇に仕え、天下を治めるのを補助した武人である。
417年7月、これまでの功績を記念して剣を納める・・・・」
鉄剣は一振りだけではありません。
探検も含めて数十本もありました。
素晴らしい翡翠の勾玉も展示されていました。(国宝)
古色蒼然とした「神獣鏡」も展示されていました。(国宝)
稲荷山古墳から夥しい神獣鏡が副葬品として出土した事実は、
この墓の主は大和王権から派遣された軍人と考えるのが妥当ではないでしょうか?
何故なら・・・・、竜・亀・虎などの画文が刻まれた鏡は中国製で日本で製造されたものでは無い…、
考えるのが普通だからです。
大和朝廷からみれば、この荒川の北、行田が蝦夷攻略の前進基地だったのではないでしょうか?
 
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                           左は稲荷山古墳から出土した「神獣鏡」、右「金錯銘鉄剣」
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                                      左/勾玉、右/神獣鏡。
 
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                                                瓦塚古墳から出土して埴輪
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                                  琴を演奏する男子楽人。琴は股の間に挟まれています。
 
そんな思いを別にして、古代蓮を愛でて・・・、古墳を見て・・・・、その出土品に目を奪われるのは…、
実に楽しいことです。
これらの国宝群は何れも文化庁の所管品ですが、「さきたま史跡博物館」で展示しているようです。
それは、埼玉県人の誇りだからでしょう。
加えて撮影可能です。(ガラスケースの上から撮影する事は禁じられています)
歴史ファンにとっては嬉しいことです。
 
沢山のボランティアが案内しています。
子供と父兄が作業室で埴輪つくりや勾玉つくり(?)をしています。
此処でも、ボランティアが指導しています。
誰ですか?
埼玉を”ダサイ”なんて言ったのは。
神奈川では鎌倉でさえ国宝は数点です。
とても行田には及びません。
 
「さきたま古墳群」は韓国慶州古墳群(世界遺産)を遥かに凌ぐ規模であり、
一つ一つの古墳の美しさであり、自然景観にも優れています。
私の直感では何れ「世界遺産」にも指定される内容であると思います。
 
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                                   子供と父兄を集めた埴輪・勾玉教室(?)
 
 
 
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外堀を埋める「布袋葵の花」

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丸墓山古墳の頂上から、北に「忍城」が見えました。
行田に来て次の目的地はあの忍城です。
忍城は応仁の乱(1467)の直後、武蔵武士として熊谷に台頭した成田氏によって築城されました。(1479頃)
天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに際しては、秀吉の配下石田光成により水攻めを受けます。
小田原北条氏が滅亡すると、関東に入った徳川家康の持ち城になります。
家康は松平家忠を派遣、傷んだ忍城を修復させます。
寛永10年(1633)には松平信綱が城主になります。
忍藩は10万石の小藩ではありましたが、名門譜代大名であり、
格式の高さや強い自負を持っていたものと思われます。
 
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           忍城、大手門。3階建ての櫓は1988年博物館として開館したものです。この頃今日話題の            ”「布袋葵」の名所にしよう!”・・・、市民の試みが始まりました。
 
 
忍城(おしじょう)は深い沼といった天然の要塞を活用したお城でした。
各郭は橋で結ばれ……、城郭自体は沼の上に建っていて、まるで「浮き城」に見えたのでした。
明治7年、城郭は競売に付され・・・、外堀の大半は埋め立てられてしまいました。
でも、南側一帯は「水城公園」として整備され・・・・、行田市民の憩いの場所になっています。
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                                         手前行田市博物館。奥は櫓(やぐら)
 
公園通りの西側に広がっているのが「忍ぶ池」です。
7月15日、日曜でしたから沢山の釣り人が池の端で糸を垂れていました。
大きなパラソルを広げて、弁当持参で・・・・、ヘラブナや鯉が釣れているようでした。
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                                         「しのぶ池」 パラソルは釣り人のものです。
 
「忍ぶ池」の東側にあるズット小さい池が「あおいの池」です。
観光案内には「布袋葵」が咲きます・・・、出ていましたが、
我が家の布袋葵は未だ増殖中、花芽も出ていません。
未だ花は咲いていないだろう・・・・、思っていましたが、予測に反してもう一面花が咲いています。
咲き始めですから…、幾分小型ですが・・・・、
「ウォーターヒヤシンス」とも呼ばれる爽やかなブルーが印象的です。
これから9月中旬まで、どんどん増えて、今の3倍は花を咲かせることでしょう。
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                                     あおい池の布袋葵の花。
 
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でも、不思議です。
布袋葵は横浜でも冬は枯れてしまいます。
行田ですから冬は横浜より厳しいでしょう。
だから・・・・、冬は全部枯れてしまうはずです。
枯れれば大量のゴミになるだけです。
布袋葵の群落を楽しむ為には、春に苗を池に放って、晩秋に枯れた浮き草を回収しなくてはなりません。
大変な労力でしょう。
 
「あおい池」の名前は「布袋葵」が咲くから「葵池」なのかもしれません。
布袋葵は浮草で、茎が浮き輪のように膨らんで…草全体が浮きます。
一方根は黒くて大きなヒゲ根で・・・、これが重しの役目をしていて・・・・・、体全体が水の上に浮いているのです。
浮きの役目をする茎が布袋様のお腹のようにプックラ膨らんだメタボ腹なので・・・・、布袋の名がついているのでしょう。そして、茎の先には葵のような丸い団扇のような葉っぱが付いています。
だから・・・「布袋葵」なのでしょう。
松平のお殿様のお城だから・・・・「葵いけ」なのかもしれません。
はたまた、池の水が「蒼い」から「蒼い池」なのかもしれません。
 
名前の由来は良く解りませんが・・・・・・、周囲に緑が深く、石橋を配して・・・・・、きれいな池です。
「水上の音楽(ヘンデル)」を思い出すような苑池です。
柳の木の下、ベンチに憩いながら読書をしたり、ヘッドフォーンで音楽を楽しんだら…、至極の公園でしょう。
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案内では夜6時から9時までライトアップされるそうです。
布袋葵の花が幻想的に水の表に浮かび上がる事でしょう。
昨日も今日も関東は梅雨明けして、行田は35度程度に暑いことでしょう。
 
あおい池の布袋葵の花は地元の足袋業者「きねや」さんと田中さんが始められたものだそうです。
水城公園を布袋葵の名所にしよう・・・・、行動に移したのでした。
東南アジアでも佐賀平野の溜池でも・・・・、布袋葵の群落は度々目にします。
見事なものです。
加えて、水中の窒素やリンを吸収して、水質浄化の役目も果たしますし、メダカなどの産卵や水生昆虫の育成にも役立ちます。
花が美しく、加えて環境の浄化にも有効です。
こうした市民の行動は市役所や小学生の共感を呼び、毎年新しい苗が池に投げ込まれているそうです。
今年は37年目になるそうです。
 
皇居のお堀も一部で良いから…布袋葵の群落を育成したら・・・・、楽しいのに…、思ったりしますが・・・・、
先ず無理でしょう。
行田のようにお城に愛着が無いから・・・・。
 
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行田の「足袋の文化」

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行田といえば足袋でしょう。
私は大学を卒業するまでは父を補佐して仏事に勤しんでいましたから、白足袋を履いていました。
その時から「葬式なのにどうして黒足袋を履かないのだろう・・・、白足袋は清浄を示す象徴と思うのだが・・・」
思っていました。
家内は弓道にめり込んでいますから、毎日のように白足袋を干しています。
能も茶も歌舞伎も僧も、弓道も相撲も・・・・・、
清浄な舞台で演じられる芸道や所作には白足袋は欠かせません。
同じように着物を着て…、改まったお席には白足袋でしょう。
 
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  行田「足袋の博物館」は牧野本店の工場を使っています。
  隣は足袋の原料、製品を収納した「足袋蔵」です。  防災建物になっています。
 
足袋は平安時代にはあったようです。
貴族が履いていた靴下のような履物(下沓/しとうず)、猟師が履いていた皮革製の靴下がありました。
下駄や草履が一般化すると・・・・・、足袋を履いてその下に草履を履いて出かけるようになりました。
そんな足袋の歴史や文化を知ろうと・・・、行田に「足袋と暮らしの博物館」を尋ねました。
 
博物館は陳列しているだけではありません。
二人の高齢な職人と、一人の女子事務員で足袋を実際に製造販売していました。
此処は「牧野本店」の木造二階建ての工場(大正11年竣工)で、お隣には足袋蔵が二棟も建っています。
職員も職人も「勝手に見てくれ!」そんな姿勢で訊かなければ黙して、自分の仕事を続けています。
この方が気楽で好き勝手にできて、うれしいものです。
 
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     足袋の生産販売をしています。従事しているのは高齢の職人さん2人と奥の事務員さん一人でした。
 
牧野鉄弥太家は先祖代々忍藩松平家に奉公した家臣の一人でした。
松平家は格式高い譜代大名でありますが・・・、財政的には困窮していました。
そこで、家臣に内職を奨励します。
それが「足袋つくり」でした。
 
周囲が木綿や青縞(藍染された木綿布)の産地であったこと、
江戸にも近く、近くの中山道熊谷宿は旅人も多ったので、消費地にも近かったのが幸いしました。
それにもまして、律義な武士の手仕事が屹度丈夫な足袋を作った事でしょう。
江戸時代から「足袋といえば行田、行田といえば足袋でした」
ところが、明治維新になり武士達は藩主から解き放たれます。
すると、内職していた武士達は独立して、足袋の生産・販売に転業します。
 
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        足袋商人と足袋蔵の続く行田のメインストリート。(大正時代)
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                                             家族で働く足袋商人の店先
 
最盛期の昭和13年には200社の足袋商店(工場)が操業し、
8500万足(年間)を生産、全国シェアー8割を占めたそうです。
しかしながら、昭和30年代にはナイロン靴下の普及、洋装化の一般化によって足袋の生産は減少に転じます。
足袋商人は廃業、転職を続け、ベトナム等に拠点を移す会社が相次ぎました。
現在では年間141万足、全国シェアー35%になったそうです。
足袋の生産販売に携わる業者は20社になったそうです。(NPO法人行田足袋蔵ネットワークの案内による)
 
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            これが手回しミシン、明治20年代に開発され手縫いに代わりました。左手でミシンを動かし、            右手で布を動かして縫ったのでしょう。
            足袋は布が厚く硬いのに、裁縫が細かいので…、専用ミシンも特殊なようです
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                                                   解体修理中のミシン
 
私は古いミシンを扱っている職人さんに聞いてみました。
「このミシンは何時ごろの製品ですか?」
「もう、100年以上たっていますよ。」
見れば、様々なミシンがあります。
足袋造りは大凡12工程があって、そのたびに使うミシンが異なるようです。
今では足袋作り用のミシンなど作っていないのでしょう。
古いミシンを修理しながら使っているのです。
 
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           足袋つくりの工程、昔は工程ごとに工場があって、半製品を回していたそうです。
           今は一人の人が総ての工程をやり遂げるそうです。
 
牧野本店の主要ブランドは「力弥足袋」・・・・・、力弥とは忠臣蔵の「大石力弥」のことでしょうか。
「道風」というブランドもあります。こちらは「小野道風」のことでしょうか?
書家にとっては有難い名前です。
 
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                                                     道風ブランドのコーナー
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足袋の博物館の空間は大正時代・昭和一桁時代です。
ポスター一枚も、看板一枚も皆良い時代の時代雰囲気、時代文化を良く示しています。
すっかり、良き時代の雰囲気に陶酔して博物館を後にすると…、外は暑いこと、
ニイ・ニイ蝉の蝉しぐれです。
 
私達は足袋蔵巡りをしました。
大半の足袋蔵は今は使われていないようです。
ただ、小川忠次郎商店足袋蔵はお蕎麦屋さんに転業していました。(国の登録有形文化財)
白い漆喰で塗り固めた蔵作りが、お蕎麦の雰囲気に適している…、判断したものでしょう。
漆喰で塗り固めていますから…、燃え難い建物です。
とりわけ北・西は類焼しないように頑健です。
行田の風土に適した建て方なのでしょう。
 
 
 
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誰が足袋に似合うかしら?
想像したら・・・・、種田山頭火を思い出しました。
山頭火は地下足袋を愛用したようですが・・・。
自らの分身を見るかのように、疲れて破れた足袋を見つめる句がたくさんあります。
 
  秋の山 山ひきずる地下足袋のやぶれ
  雪明りの 足袋の破れから つま先を見る
 
行田の足袋も山頭火のように破れても使われて・・・・、
自省するかのように見詰められ、愛されれば職人さんも本望だったことでしょう。
足袋の文化が消えてしまうことは寂しいことです。
 
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                                            秋山巌氏の版画から
 
 
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行田のB級グルメ「フライ」の味

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もう一つ、行田で感心した話をさせていただきます。
私達は「古代蓮の里」で一服しました。
相席の向かいには、若い女性が二人座りました。
お二人は「コロッケ状」「薄いお好み焼き状」の二つの食べ物を注文して・・・。
”行田に来たら、これを食べなきゃ・・・!”
なんて言いながら、美味しそうに食べていました。
行田のB級グルメか? 
でも、見た目は辛そうで、油っぽそうで、美味しいとは期待できませんでした。
後で分かったのですが、コロッケ状の食べ物が「ゼリーフライ」、お好み焼状なのが「フライ」と呼ぶのでした。
 
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      藍染工房に転じた「牧禎商店」、今は工房の名(牧禎社)にその名を留めています。
 
私達は「足袋の博物館」から藍染め体験施設「牧禎舎(まきていしゃ)」に向かいました。
此処は足袋の製造をしていた「牧禎商店」が使っていた工場ですが、
現在は寺子屋風に「藍染め工房」として利用されています。
私達が訪れると、丁寧に教えてくれました。
寺子屋の師は元行田市職員だそうです。
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    「牧禎社」の藍壺。現代的に電気で温度管理をしています。
 
現在の足袋といえば「白足袋」ばかりです。
舞台やお稽古、法事に武道・・・・、みんな白足袋を履いて、身も心も清めて動作をします。
でも、昔は日常品は色足袋で、それも長持ちする藍染した布(青縞布)を使いました。
ですから…、行田にも藍染工房が何軒もあったのだそうです。
立派な藍壺が2基ありました。
写真のように半分壺が地上に出ているので・・・・、尋ねてみました。
「何故、壺は土中に埋めていないのですか?」
「この壺は電気で温度管理をしているので・・・・、土中に埋める必要もないし・・・。
藍は壺の中で発酵しているわけで・・・・・、温度の管理も必要だし…、色の出が悪くなったら酒(酢?)を加えたり…工夫するんですよ・・・・。」
庭先には藍(蓼科の植物)が茂っていました。
寺子屋の生徒の作品でしょう、様々な藍染め作品が干されていました。
 
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                           工房の壁面には作品が干され…、即売もされていました。
 
藍染の師が話してくれました。
近くに「深町フライ」があるんですよ。
あそこのお婆ちゃんは94歳で、現役でフライを焼いています。
大体嫁さんが焼いているんですが、お婆さんの焼いたのが美味しい・・・、とご指名が今もあるのです。
あおのお婆さんがフライを焼いて4階建てのビルを建築した…、やり手のお婆さんですよ。
私は古代蓮の里で女性組が食べていたお好み焼きを思い出しました。
藍染の師は話を続けます。
深町のお婆さんはTVが大嫌いで・・・・、NHKの取材依頼も拒否したんですよ。
フライは足袋つくりの女工さんの食事(おやつ)だったのですよ。
この「牧禎商店」でも100人ほどの女工さんが働いていました。
女工さんは足袋作りの一工程を専門にやっていました。
お給金は作業した工数で決まりました。
「沢山仕上げれば…、お給金が上がる」訳で・・・、食べる間も惜しんで働きました。
でも、若いから…、お腹も空くし・・・、そんな訳で「女工さん向けファーストフード」として、フライが開発され、
人気を博したわけでした。
「どおりで…、若い女性の人気になるわけだ」感心します。
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                                           庭に自生している藍
 
私は深町フライに出かけました。
入り口は2間ほどの狭さですが…、奥行きは長くまるで京都の町屋のような建物です。
4階建てて・・・、1階が店舗、2階以上が住居のようです。
お客が少ない…、思いましたが・・・・、一番奥にご近所の叔母さんたちが集まって、世間話に興じながら・・・、
フライを食べています。
師の話していた「深町のお婆さん」も働いていますが・・・、
鉄板の前にはお嫁さんが陣取っています。
私はフライを一枚(350円)、テイクアウトで注文しました。
柔らかく溶いた小麦粉を鉄板上に薄く焼きます。
クレープのようです。
細切れの葱、肉、等をふりかけ…、卵を載せます。
フリカケ状の調味料をかけ、ソース(醤油も選べます)をかけて…、出来上がりです。
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                                              深町フライ店全景
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                                                 深町フライの店内
 
 
家に帰って、夜食べました。
女性好みの食べ物ですから…、甘いのだろう…、想像していましたが・・・・、
総じて辛いのです。
「ビールの摘まみに最高だな、もんじゃ焼よりビールに合う!」
私の初印象です。
腹持ちもよいし、辛いのは働く人には都合が良いし・・・、
感心しました。
でも…揚げ物でないのに「フライ」と呼ぶのは何故なのだろう?
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                     行田市の作った「フライ」のパンフレット。 左下に「深町」があります。
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           テイクアウトした「深町フライ」見た目は不細工だが美味しいこと間違いなし。
 
 
行田市はこのB級食品を町を挙げて売り出しているようです。
「フラベー」「こぜにちゃん」と言ったユルキャラを開発して、PRしています。
そのパンレットのこう書いてありました。
「フライ」は「富来」の開運ネームだそうで・・・・・、
ゼリーフライの方は・・、「銭富来」「銭フライ」から「ゼリーフライ」に転じたのだそうです。
私は思います。
何だフライとは深町お婆さんのことではないか!
クレープを焼いて4階建てビルを建てた…、「富が来た」・・・、そんあ食べ物んさのでしょう。
 
「女工哀史」とか「ああ野麦峠」等は疑わしく思われてきます。
糾弾された明治時代の女工さんは…、決して哀史でもなく、搾取もされていなかった・・・、ように思えます。
フライを食べながら賃加工に勤しんで・・・、
休憩時間には全員で体操して・・・、
医療施設も完備していて・・・・、
若いお嬢さんを預かった店主は自分の娘のように愛情を注いでいたように思います。
女工さんも綺麗な身なりで会社で働いていました。
会社勤めをする女性は町のエリートだったのでしょう。
私の学生時代なら…、日本航空のスチュワーデスになったような・・・。
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                              手動ミシンを使って、両手で足袋を縫う女工さん。
時代は逆行出来ません。
「労使関係」とは労働者と資本家(経営者)を階級的・対立的な関係に捕えた・・・・・、西洋階級社会に始まる考え方でしょう。
日本には江戸時代から、労使に対立的な考えはなく…、家族的な考え方、儒教的な考え方が労使双方にありました。
だから・・・、松平の家臣が始めた足袋工場(商店)も家族的な経営に徹していました。
「フライを食べながら…、働く」姿は家族経営を象徴しているように思います。
労使関係と考える前に・・・・、人間同士なのですから…、人間関係で捕える側面も重要です。
少なくても、「現代が女工哀史の時代より人間が尊重されている」と考えるのは疑問です。
フライの辛味はそんな事を教えてくれるようです。
 
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                              休憩時間に体操する女工さん。
 
 
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鬼百合に揚羽蝶(光明寺浄土蓮想)

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古代の人たちは「揚羽蝶」を畏敬の眼で見つめたことでしょう。
醜い芋虫が脱皮を繰り返し、大きくなって、突然硬い鎧の蛹に変じたと思えば、
突然に鎧の背が割れて、大きな蝶が出現します。
大型の蝶が舞う姿を美しいと感じ、憧れました。
姿を変えて、最後に華麗な蝶に変じる事を、学校では「変態」と呼びます。
でも、古代の人は「もしかしたら・・・、この姿を変える事こそ生きる事の実相ではないか!」
思ったことでしょう。
人間も”生まれて死んで”  誰でもが見て知って経験している姿以外に、別の変化があるのではないか?
想像しました。
その見えない時代は”霊”に変じているのではないか?
思ったと思います。
 
桓武平氏は揚羽蝶の姿を美しい…、思って平家の家紋にしました。
平清盛は揚羽蝶を衣服や納経に記しました。
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鎌倉材木座の光明寺では、毎年7月20日過ぎの土日に「観蓮会」が催されます。
副題に「浄土蓮想」と記されています。
蓮の咲いた池(記主庭園)を挟んで、山側に大聖閣が建ちその窓の奥に阿弥陀様の姿が見えます。
本堂では読経が流れますが・・・・、お経というより音曲と呼ぶのが相応しい…心地よさです。
お稚児さんの舞も見られます。
本堂を飾る天女を思わせます。
現世にありながら浄土池に集って浄土に想いを馳せましょう・・・、そんな催しです。
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  光明寺山門、左に富士山が見えます。大駐車場は海水浴客の臨時駐車場になります。
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   光明寺記主庭園。向かいが大聖閣、観蓮会には扉が開いて阿弥陀様が遥拝できます。
 
浄土池には紅い蓮が咲いています。
錦蕊蓮(きんずいれん)と呼ばれる八重の蓮です。
池の背には紫陽花が花の色を緑に変えようとしています。
その花影には無数の五輪塔がたっています。
この墓は三浦一族の兵士の墓です。
近くの来迎寺にかけて、沢山の墓があったのですが…、光明寺に集めて祀られています。
 
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 記主庭園の背に紫陽花に隠れるようにして祀られている五輪塔。三浦の戦死者の霊が眠っています。
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                             此方が池の畔に咲く鬼百合の花
 
紫陽花も蓮も綺麗ですが・・・・・、香りもなく・・・・・・・、蜜も持たないのでしょう。
蝶も寄っては来ません。
人間が「清浄無垢な花」「浄土に咲く花」と尊ぶ花は蝶は見向きもしません。
蝶は知っているのです。
”蓮の花はお目立ちだけど・・・、蜜も出さないのよ!
私達は清い花よりも蜜を出して強い香りで誘ってくれる・・・・、ケバケバシイ花が好きなのよ”
蓮の花には時折トンボが羽を休めてゆくだけです。
 
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池のほとりには昔から鬼百合が咲きます。
誰が植えたのか・・・、
若しかしたら・・・・、皮肉が好きな修行僧が植えたのかもしれません。
緋色の花弁に、真紅の斑点が鹿の子に散っています。
鬼百合の名は花の強く、毒々しい印象を「鬼のような百合」と呼んだのでしょう。
夏の強い日光を浴びて一層生き生きと生命を輝かせます。
鬼百合の花が揚羽蝶が好みです。
良くやってきます。
鬼百合の花の芯に渦巻き状の口を伸ばして、花蜜を吸っています。
揚羽蝶の黒い体に鬼百合の朱色の花粉が憑りつきます。
 
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熊谷守一の代表作「鬼百合と揚羽蝶」のリトグラフ
 
 
熊谷守一の代表作が「鬼百合に揚羽蝶」です。
鬼百合の生命力と、死者の霊と思われた黒揚羽蝶を描いた絵です。
そのコントラストに私達は魅せられます。
 
でも、若しかしたら「鬼百合と揚羽蝶」こそ生きる事の実相かも知れない…、思うことが度々あります。
「生」も「死」と隣り合わせだから…、どちらも不可思議であり一大事なのでしょう。
聖も俗があればこそ、清く輝くのでしょう。俗や邪が無ければ聖にも憧れません。
蓮のように清純な女性が憧れでも…、往々にして鬼百合のような女性に溺れたい…、思うものです。
蓮ばっかりなら世の中面白くありません。
鬼百合も咲いてこそ・・・、楽しいのでしょう。
 
光明寺の浄土庭園も、熊谷守一も私は好きだ、し尊敬しています。
 
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              光明寺本堂欄間の天女像
     光明寺の浄土蓮想(昨年)は次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45342571.html
     今年も今夕(22日)催されます。
 
 
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旧友の軌跡「毎日書道展」

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今朝(7月23日)から町内のラジオ体操です。
元々子供会(町内会の一組織)が主催していた早朝ラジオ体操に、
父兄も参加しよう・・・、ということで町内会も相乗りさせていただきました。
未だ、涼しい鎮守の木の下でラジオ体操する清々しさは格別です。
 
体を動かすと体の節々、特に肩の骨がゴリゴリ音を立てます。
久々の体操は使わなかった筋肉や骨に憑りついていた錆を剥がすようです。
体を動かしていなかったから・・・・、特に手術後は前屈みでした、その証拠でしょう。
 
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                                     今朝から始まった町内ラジオ体操
 
7月21日(土)は慶応大学日本文化研究会の同期Aさん(旧名B嬢)の書を観に、
上野の東京都美術館に出かけました。
 
今から46年前大学で私達は知り合いました。
個々人は興味がある分野、例えば仏像、古建築、伝統演劇・・・・、などなどを選択し、同好の仲間と研究したり見学したりしていました。
でも、全体では共通するテーマを決めて1年間研究を進め、三田祭で発表していました。
私が1年の時は「日本社会の構造(縦社会の人間関係)」、2年の時は「無常文化の系譜」がテーマでした。
沢山の見学者が集まりました。
良く誉められました。
 
研究の内容が誉められたのか?
それよりも発表の書体を評価されました。
黒いパネルに白いポスターカラーで、毛筆で書かれていました。
「今時、こんなに立派な字を書く学生が慶応にはいるのか!」
観る人の驚きだったようでした。
 
実は、日本文化研究会には書道を究めよう・・・、そんな学生が沢山いたのでした。
Aさんもそんな才能溢れるお嬢様でした。
熊本の名門濟々黌の出身でしたから・・・・・、書道など伝統に強い関心があったのでしょう。
また、良い指導者に恵まれていたのでしょう。
 
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                                         毎日書道展の展示場風景
 
東京都美術館は赤煉瓦作りは変わらなくても、新しくなって、洗練された建物になっていました。
10時だというのに、もう長蛇の列です。
でも、行列は「フェルメール展」に集まった人々で、
Aさんの作品が展示されている「毎日書道展」は鑑賞に程良い混雑状況でした。
 
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                              開場早々、45分待ちの案内がなされた「フェルメール展」
 
「毎日書道展」は日本最大規模の書道公募展です。
今年で第64回になりますから・・・、Aさんと同じ齢になります。
戦後間もなく新聞社が始めた文化事業だったのでしょう。
Aさんは毎年公募に応じて、昨年は入選した上に表彰されたそうです。
受賞者の展示場は国立新美術館(8月5日まで)、入選のみの作品は東京都美術館で展示されるのでした。
Aさんは昨年なら国立新美術館で展示されたのに・・・・、今年は残念だった・・・・、そんな様子です。
 
漢字、仮名、大字書、前衛もあれば、篆刻もある。
現代書は様々な形と自己表現をしていることに驚きます。
加えて「書」を大事にする人が多いことに驚きます。
ワープロ全盛の時代に、一方では書が沢山の人に支持されている事実を知ります。
そして、Aさんは学生時代からズット筆を離さなかったのでした。
 
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Aさんの作品は上の写真でした。
楷書風の文字に見慣れた私達でしたが、Aさんは仮名文字を好きだったのか…初めて知りました。
 
平安仮名で書かれています。
「何て読むの?」質問を予想し、仮名文字で書いてもくれました。(下の写真)
  朝日さす稲田の果ての白壁に
      一叢もみじ、燃えまさる見ゆ
 
「誰の歌なの?」次の質問を予測して仮名文字には「会津八一」と記されています。
この歌は南京余唱に「奈良に向かう汽車の中で・・・」と頭書きして載っています。
 
原文は会津八一ですから、平仮名だけで表現されています。
万葉の調べを平安仮名で表したのはAさんの感性でしょう。
Aさんは紅葉を意識して、表装の色を決めたそうです。
書をみて、紅の表装を見ると、一見して「和泉式部かな?」思ったりしますが・・・・、
真逆な会津八一です。
今年も受賞できなかったのは・・・、こんあ所も影響したかな?
思ったります。
 
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会津八一は私達の誰もが敬愛する歌人です。
大和が好きな私達は度々一緒に奈良を訪れ、古寺を巡り、古仏に対峙しました。
和辻哲郎も亀井勝一郎も愛読したけれど、文化に親しむ歓びを教えてくれたのは会津八一の「鹿鳴集」でした。
私は保存用、読書用、二冊の鹿鳴集を持っています。
大半の歌を諳んじていましたし、歌碑を探して、石に刻まれたその書を眺めました。
美しい大和言葉と流れる音楽のような文字に親しみました。
 
Aさんは「朝日」「白壁」「もみじ」のあい為す色彩に感動して、この歌を書道展の題にしたのだそうです。
 
会津八一は夜汽車に乗って、晩秋の大和に向かいました。
関西本線は笠置から木津川に沿って渓谷を走ります。
木津駅を過ぎれば次は平城山駅、そして奈良駅に着きます。
「また、晩秋の奈良に来ることができた!」八一は子供のように心躍っていたことでしょう。
 
山峡に朝日が差し込みます。
河岸段丘に刈り終えた稲穂が天日干しされています。
稲田の上には大和民家の白壁が眩しく光っています。
見れば、白壁の切れる辺りに紅葉が朝日を浴びて、燃えるように輝いています。
八一は美しい、輝かしい大和の風景を描写し、同時に心のトキメキを表現したのでした。
 
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                                     展示場で意見を述べ合う私の仲間。
 
私達の時代は夜11時頃横浜を出発し(急行銀河)薄暗い明け方に京都に着きました。
近鉄に乗り換え、奈良に向かいます。
木津川を超えれば「秋篠駅」に着きます。
大和棟の民家が見えます。
西大寺駅の次が新大宮駅、そして近鉄奈良駅に着きました。
そして、会津八一が書いた看板のかかる「日吉館」に入りました。
 
Aさんが会津八一の歌を題にしたのは・・・・・、
「私は少しも昔と変わっていません・・・」
そんなメッセージを伝えているのでしょう。
でも、Aさんはそんなことは全く意識していないことでしょう。
 
でも、私は多くの才能や興味を失ってしまいました。
あの頃はスケッチブックと水彩絵の具が必携で旅をしたのに…、今はデジカメだけです。
安易にシャッターを押し、ジッと見つめる事をしません。
時折、絵筆を取っても・・・、余りの下手さ加減に自己嫌悪に陥って、筆を投げ出してしまいます。
 
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                    筆者が描いた大和民家。もう大昔の作品です。
 
学生の頃に、せめて気持ちだけでも戻りたいものです。
ラジオ体操をすれば、その時の清々しさを思い出します。
鹿鳴集のページをめくれば・・・・・、あのころの燃え立つ血潮を呼び覚ましてくれます。
 
Aさんの書に「若き血」を思い出し、納戸の中から旧作(上の団扇)を取り出してみました。
 
 
 
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甚五郎の羅漢石仏(日本寺)

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7月22日、皮肉なもので「梅雨明報道」直後から小寒い、雨がちな日が続きます。
こんな日は石仏が美しく見えます。
久しぶりに「房州鋸山の日本寺」に向かいました。
日本寺には江戸初期の羅漢仏を中心に1500体もの石仏が祀られているのです。
石仏の多さでは耶馬渓の羅漢寺が3500体、二番目が此処日本寺でしょう。
勿論、羅漢の数では世界一、世界第二です。
 
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     日本寺の1500羅漢。奇岩石窟の中に羅漢仏が祀られています。
     2300段余りの石段が整備されました。私の学生時代は滑りやすくて大変でした。
 
日本寺は神亀2年(725)聖武天皇の勅命によって、行基菩薩によって開かれた関東最古の勅願寺でした。
我が国の国号「日本」を冠す勅額は光明皇后の御手によると伝えられています。
最初は法相宗、真言宗を経て、徳川家光の治世下に曹洞宗に変わって現在に至ります。
かっては七堂十二院百坊が整備された山岳寺院で、
弘法大師良弁僧正などの修行された「由緒ある古道場」であります。
 
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鎌倉の櫓のような「日牌堂」、ひな壇上に羅漢像が並んでいます。
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「日牌堂」の羅漢像。
 
 
曹洞宗に変わって、高雅愚伝禅師が発願します。
日本寺は鋸山の山麓、岩場にありました。
350m余りの大きな山ではありませんが、
海中から屹立した山であり、山頂は鋸の歯のように切り立った尾根が続いています。
更に、日本寺の境内30万坪には沢山の奇岩、洞窟が続き、霊気が充満しています。
雲海にかすむ奇岩が羅漢のように見えたことも度々あった事でしょう。
 
愚伝禅師は「此処を羅漢霊場」にしよう…、発願します。
上総桜井(現木更津市)の石工「大野甚五郎英令」羅漢の造仏を命じました。
甚五郎は弟子27名を従えて造仏に邁進します。
 
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   大野甚五郎英令の像(左にお墓がありました)比丘の頭で、僧衣を着て、経机の前   に坐し、経文が置かれています。自身も禅僧だったのでしょう。
 
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社長を含めて28名もの社員を抱える「石工会社」なんて現在もあり得ません。
多分、鋸山は関東最大の石切り場でしたから・・・・・、
甚五郎等は天気の日は採石をして、雨天の日は石仏を彫ったり、釜戸を作ったりしたことでしょう。
鋸山の採石は「房州石」と呼ばれ、江戸の町の普請に使われました。
また、耐火性があるので釜戸に加工されていました。
明治維新になると横浜港の築港に使われ、建築資材としても利用されました。
 
 
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                          1500羅漢道の羅漢像群
 
1779年から21年間かけて1500体余りの羅漢仏等が日本寺の裏山、
奇岩霊窟の中に祀られました。
石工の精魂込めた石仏のお顔は一つとして同じ顔が無く、
人間の個性や喜怒哀楽を余すことなく表現していました。
江戸の町から日本寺詣でも増えたことでしょう。
 
現状は、造仏から200年余り歳月が経っていないにもかかわらず、
石仏の風化が進んでいます。
それは、房州石が「凝灰質砂岩」である為、風化に弱い事があったでしょう。
  (火山灰と砂が地圧で固まった岩石。加工しやすく耐火性もある。しかし風化し易い)
海から吹き上げる風が砂を舞わせて、石仏に当たり、風化を進めたことでしょう。
強風や地震で石仏が倒れれば、石仏は一番細い首で折れてしまいました。
落ちてしまった首は谷底に転げ落ちてしまった事でしょう。
叢で緑に蒸した首を拾い上げて・・・・、また体の上に載せました。
お顔と体がアンバランスのこともありますし・・・、
置かれた場所が異なってので色も変わっていることもありますが・・・・。
石仏にも運命があって…、風化の極限が砂ですから・・・・いずれ砂に戻ります。
甚五郎の石仏は運命の到来が早かっただけなのでしょう。
   (多くの識者が日本寺の羅漢は廃仏毀釈で壊された…、と説明しますが私はその影響は無かった    と思います。羅漢は人間が故意にハンマーで叩き割ったのではなく、倒れた際に自分の重さで首    が落ちたものです。)
 
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                    首の無い羅漢像達。
                    海風が砂を巻き上げ石窟を作りました。その岩屋に祀られています。
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昨日から夏休みです。
ハイキングで来ていた子供が突然に泣き出しました。
「怖ーい」
子供の指さす先には・・・・、羅漢像の陰に・・・・・首があります。
ムンクのように叫んでいます。
 
耳をふさぐ両手、捻じった体は在りませんが・・・・、ムンクのようです。
折れた首を祀るところが見当たらず、羅漢の陰に置いたのでしょう。
子供ならずとも、不気味で声を発しそうです。
今晩、子供は悪い夢を見ないか…、懸念されます。
 
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                               羅漢像の後ろ、岩陰から叫んでいる羅漢の首。
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羅漢像の体と首がアンマッチングなのは、風雪を経る中で首が転げ落ちた経緯を示しているのでしょう。
正しく無くても、前の写真のように首だけ…、首の無い羅漢よりは益しだと思います。
 
 
1780年代といえば、日本の美術史上では一番に華やいだ時代です。
写楽の役者絵は1794年~1795年に描かれました。
伊藤若冲も丸山応挙もこのころです。
狂気を演じ邪道に走ったといわれる「蕭白」も、奇抜な発想の「蘆雪」も同時代人です。
少し遅れて、葛飾北斎の北斎漫画が1814年、富岳36景は1831年ですし、
広重の東海道53次は1833年でした。
鋸山の麓に生まれた菱川師宣(浮世絵の創始者といわれる)は江戸に出て大人気でした。(約半世紀前)
もう、人間の個性や喜怒哀楽の表情描写は常識の時代になっていたのでした。
どちらかといえば個性のない仏像より、個性満面の羅漢像が好まれた時代になっていたのでした。
 
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  紀伊田辺「高山寺」の「寒山拾得図」、写真には載っていませんが左上に「蘆雪漫写」と落款があり   ます。甚五郎の羅漢像も一瞬一瞬を漫写したような…個性が写しとられています。
  もう、時代は近世なのでした。
 
房州には欄間彫刻の「波の伊八」、そして羅漢石仏の大野甚五郎…、名匠が出現しました。
甚五郎の評価はこれから増してゆくことでしょう。
 
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   徳利を抱えて満足ながら…、体が痩せ細ってしまった羅漢像。
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    此方は徳利を持ちながら、口を失ってしまった羅漢像。後ろから「気の毒に」眺めている羅漢さん    がいます。寒山拾得は沢山います。
 
 

 
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”聖”なる百観音像(房州日本寺)

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日本寺石仏群は大半が羅漢像です。
羅漢には儀軌(仏像を彫る上での決まり事)はありません。
羅漢とは人間そのものです。より人間らしく、より個性的に、人間を写しながら・・・・、
それでいて、”俗”に堕さず、”聖”に移ろうとする・・・・、そこが人を捉えるのだと思います。
法隆寺の羅漢像(飛鳥時代)は釈迦入滅に際して泣き叫んでいます。
でも、日本寺の羅漢像は様々な瞬間を写しています。
しかつめらしい者もいれば、徳利を抱いて嬉しそうな者もいるし、絶叫している者も、怒っている者も・・・、
時々に変化する人間の表情を捉えながら・・・・・、その刹那にも人間の”聖”な一面を表現しています。
 
大野甚五郎英令は羅漢像の他にも様々な石仏を彫りました。
一体だけではありますが、聖徳太子や弘法大師像もあれば、不動明王の群像もあります。
そして、西国33観音像、百観音像の群像も祀られています。
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                                    日本寺百観音
 
 
羅漢道は山の中腹を這う様に進む狭い道です。
谷側は樫や楠の原生林で、転げれば谷底に落ちそうです。
山側は切り立った断崖の岩場が続きます。
岩場には自然が造形した巌谷が数多くあります。
そうした巌谷に石仏が祀られています。
 
石仏も巌谷も同じ房州石です。
石質が同じでも、色も違えば硬さも違うようです。
勿論石仏には硬い、表面が細やかで美しい石を選んだのでしょう。
祀る場所も考えて石仏を彫ったように思えます。
 
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      羅漢道は断崖の下に続きます。その山側、巌谷の中に百観音が祀られています。
 
羅漢道の直前に「百体観音」があります。
一般に百観音は旅行がブームになった江戸時代後半から盛んに祀られ始めます。
日本寺は百観音ブームの先駆けだったのでしょう。
江戸の庶民は房州日本寺を詣でれば、西国33観音、坂東33観音、秩父34観音、百観音を詣でたと同じご利益があると信じていたのでした。
 
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                    巌谷の荒々しい表情が観音の優しさを際立てるようです。
                    観音の基台石に百観音霊場の名が刻まれています。
 
日本寺百観音の巌谷は一番に大きく、天井も高いのです。
ですから、観音立像を祀るには最適です。
観音像は石の台座の上に乗っています。
台座には「西国何番何とか寺の観音像である・・・」刻まれています。
 
・・・・、私達の目線は観音像を見上げるようになります。
背丈の高い・・・・法隆寺の百済観音を見上げるような形になります。
 
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海風は谷底から巻き上がります。
強風が砂を巻き上げ…、砂は巌谷に衝突し、巌谷を崩します。
砂は更に増して観音像に衝突します。
観音像は未だ200年余りというのに、痩せ細ってゆきます。
観音像が背が高い事は、砂が強く当たる事になったのでしょう。
どの観音像もお顔の輪郭が崩れてしまっています。
風化が石仏の美しを一層引き立てているように思います。
 
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            風化の進んだ観音像。円光背が聖人像を思わせるのかもしれません。
 
私は突然に「長崎26殉教者記念像」(1962年、高村光太郎賞)を思い出しました。
岩手を故郷にする彫刻家舟越保武(1912~2002)の代表作です。
豊臣秀吉はバテレン禁教令を発します。
そして、全国でカソリック信者や宣教師を捕縛し、棄教を迫ります。
しかし、信者たちは従いません。
慶長元年(1597年)12月、長崎で26人の聖者の命が散りました。
様々な苦悩を経てカソリック信者になった船越保武氏はキリシタン弾圧に抗して、
自らの信仰を頑なに守った人達の姿を彫刻に表現します。
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                       船越保武氏の長崎26殉教者記念像を見上げる
 
1972年には島原の乱を素材に「原の城」を発表します。
戦いに疲れた兵士の顔が聖人の顔に見えました。
ローマ法王から勲章を受章します。
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           船越保武氏の作品「原の城」
 
遠藤周作氏は船越保武氏の作品をこう評しました。
「船越先生の彫刻が日本人に愛されるのはどうしてだろうか?
それには様々な理由があるだろう。(中略)
私はそれを一括して「純粋なものから聖なるものへ」人間の憧れを刺激するからだと思っている。
(中略)その神秘は特にキリスト教的神秘に限定しなくてよい。
人間の誰もが持っている悲しみと苦しみとが、思わず手をあわせるあの気持ち、それが先生の御作品のどれにも存在しているのだ。」
 
純粋なものには誰もが憧れを持っています。
誰もが純粋な自分自身で行きたい…、思っています。
でも、その気持ちは次の瞬間た易く失われて、俗に堕落します。
だから・・・、純粋な自分への憧れは、次のステップ「聖なる自分自身」に昇華させたいと思います。
でも、それは容易にはできません。
でも、改めて・・・・・、人間は、時に自分自身が刹那刹那には「聖」なる存在になっている事に気付きます。
 
大野甚五郎の百観音は風化する中で一層「聖なる仏像」に表情を変えていっているようです。
今が一番に美しい時でしょう。
もう、百年もすれば全く姿も形も、聖なる表情も消えてしまうことでしょう。
船越保武氏の作品と似ているのは偶々のことでしょう。
でも、遠藤周作先生の言われるように、
「聖なるものへの憧れ」はキリスト教も仏教も、人間に共通する事でしょう。
 
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鎌倉花火を眺めながら・・・

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7月25日(水)は鎌倉花火大会が実施されました。
今年が第64回だそうです。
単純に数えれば私と略同年齢ということになります。
私は鎌倉で育てられていながら・・・、一度も行った事がありませんでした。
一度は見てみたい…、思っていましたので、夕立を懸念しながら材木座海岸に出かけました。
 
光明寺の大駐車場にバイクを置かせていただき、浜辺に出ました。
沈もうとする夕陽こそ雲間に隠れて見えませんでしたが、雲も空もオレンジ色に染まっています。
海風が適当に吹いて、波も静かで、これは花火日和(?)です。
もう砂浜は見物人で一杯です。
豆腐川の橋の上に陣取ると、警察官に注意されます。
「この場所は通行人が落下しないか懸念されます。此処に立ち止まらいで下さい!」
それはそうだ…、素直に移動します。
 
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    夕方の鎌倉の海。正面左が稲村ケ崎、その左海上にあるのが花火を打ち上げる台船。
 
警察官は渚に近い砂浜に陣取った人にも注意しています。
「満潮になれば渚は10m位上がります。
この辺りは海水に浸かってしまいますよ!」
なるほど、鎌倉の警察官は親切です。
 
私は尋ねてみました。
「お疲れ様です、ところで、今日の人出はどの位ですか?」
「昨年は震災で中止でした。 一昨年は13万人の人出でした。今年はもっと出ているでしょうね・・・」
鎌倉市の人口の3倍近い見物人が砂浜に出て花火見物するということでしょう。
勿論自宅のベランダや長谷寺や成就院の境内から見物する人もいるでしょう。
鎌倉花火の見物人は15万人を超えているのでしょう。
 
私の記憶では鎌倉の花火大会は盂蘭盆会(8月15日)の頃でした。
花火の始まりが享保18年(1733)江戸の町でコレラが猛威を振るい、沢山の犠牲者が出ました。
将軍吉宗は暗く沈んでしまった世相を払い、慰霊をあわせて、
隅田川で花火を催したのが始まりと言われています。
だから、寺の町鎌倉でも盂蘭盆会の頃開催されていた…、記憶していました。
 
ところが、7月25日に移ったのは、首都圏の花火と競合を避けたのでしょう。
相模湾では葉山(7月26日)大磯(7月28日)片瀬浜、茅ケ崎(8月4日)、酒匂川(8月4日)などの花火が今後たて続けに催されますし、横浜花火大会(8月1日)相模湖花火大会(8月1日)もあります。
各地の観光協会が開催日の調整を試みている事でしょう。
 
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         いよいよ打ち上げ花火の始まり、浴衣の女性も目立ちます。沖の船にも見物人が乗っています。
 
浴衣姿の女性が目立ちます。
七夕祭りの時の浴衣姿に比べれば、着慣れているというか、落ち着いた色香が感じられます。
砂浜の腰をおろせば、未だ温もりが感じられます。
海風が心地良く首を撫でて行きます。
これでは、せっかく用意した団扇も不要です。
夕焼けが暗闇に変わる頃、夜7時、これから花火の始まりです。
鎌倉市長も鎌倉観光協会長も短く適切な挨拶をされました。
今年は鎌倉も世界遺産に乗るか反るか…、肝腎な年です。
「韓国の鎌倉」と言われる慶州市が世界遺産なのに…、本家鎌倉が指定されていないのは、不自然です。
 
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     台船上から花火が打ち上げられます。その風上側に屋形船(釣り船など)が集まっています。
 
いよいよ、打ち上げ花火が始まりました。
沖合500mにあった台船が打ち上げ場所です。
台船は2艘あります。
沢山出ている漁船は、屋形船代わりでしょう。
花火を真下から眺めるのでしょう。
漁師さんも釣り船屋さんも今晩は稼ぎ時でしょう。
 
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                                      10号玉の連発されます。
 
花火は三部構成で、第二部が”メッセージ花火”だそうです。
20人(社)余りがメッセージを託して花火を打ち上げます。
鎌倉の元気な会社、例えば「鎌倉シャツ」などがスポンサーになって、花火を打ち上げます。
最も多いのが「愛のメッセージ」を託した花火です。
「○○サン…、結婚してくださーい!」想いを託して花火が打ち上げられます。
隣の青年が彼女に話ています。
「来年は僕が花火を打ち上げよう・・・!」
すると、彼女は応えます。
「ウン十万円もかかるのよ! ならば私は宝石の方が良いわ!」
どうも、本音のようです。
でも、メッセージ花火はスポンサーになった人にも、聴衆にも楽しく記憶に残る演出です。
主催者は工夫を凝らしているようです。
 
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    右の水面スレスレの花火が名物の「水上花火」
    モーターボートが材木座の沖合から由比ヶ浜、長谷の沖合に疾走し、海上に花火を投じます。
    すると、写真のように扇状に開きます。
 
鎌倉花火は高々2000発です。
横浜の一万発、隅田川の2万発に比べれば、マイナーな数です。
でも、鎌倉花火の人気は上位にあります。(隅田川には及ばないが関東第7位/ネット調べ)
何と言っても、鎌倉のロケーションが良い事が人気の理由でしょう。
海上に映る事も花火を一層綺麗に見せます。
そして、何よりも海が…、潮騒が、海風が人に優しくしてくれるから・・・・、
花火に多くの思いを託せるのでしょう。
 
若い人は恋人への愛を託すでしょうし・・・、
私のような齢になれば…、すでに黄泉に逝かれた人を思い起こします。
感謝を託す事が多いのですが…、必ずしもそうとは言えないのが私の業の深さです。
辛みを言いたいことも、少しはあります。
 
ドカーン、花火の破裂音のように様々な思いが破裂して…、雲散霧消してしまうと楽なのですが・・・、
そんなに、単純には行きません。
 
 
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霊が憑く凌霄花(妙本寺で)

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もう凌霄花(のうぜんかずら)もお終いです。
今年は蕾が膨らんだ大事な時に台風4号が通過、大半の蕾が落とされてしまいました。
南が開けた場所の花は全滅の惨状でした。
鎌倉の凌霄花の名所「妙本寺」も花は殆ど咲きませんでした。
 
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                             妙本寺の凌霄花(昨年撮影),正面祖師堂の左右に咲きます。
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        此方は一昨年撮影した凌霄花。梅雨明けの豪雨に打たれていました。
        ふと、洗い髪の美女を髣髴しました。
 
でも、少しは咲いたかもしれない…、ささやかな期待を持って妙本寺に登ってみました。
どうせ、見るなら日暮れ時、逢魔時に行くことにしました。
大町辻には未だ残照があっても、比企ヶ谷は暗闇が訪れています。
朝が遅く、夜が早いのが谷戸の特長です。
鬱蒼と茂った杉林から蜩(ひぐらし/日暮れ時に一斉にカナカナと啼く蝉)が響きます。
私の目の前にカラスが舞い降りました。
一幡墓所の垣根に止まりました。
見れば、幼鳥のようです。
遊び足りなくて?またはもお腹が空いてか?
夜になってから、巣から出てきて・・・・、地上で途方に暮れているようです。
 
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                             夜中の妙本寺、祖師堂の左右、緋色の花が凌霄花です。
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                                   一幡(源頼家の息子)墓前に飛び降りたカラスの子
 
もう、広い境内に居るのは私一人です。
日暮れと同時に境内に灯がともりました。
境内には幾つも防犯カメラが設えられ、ライトが点くのです。
二天門にも灯が点りました。
 
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           御影堂の柱の先端、飛貫の獅子。
           妙本寺の祖師堂はその棟札から天保九年(1838)建立しました。
 
 
妙本寺は元々は比企能員一族の屋敷でした。
鎌倉幕府二代将軍源頼家の外戚になった事から、北条氏の奸計に嵌り、一族郎党皆殺しにあってしまいます。
その怨念の屋敷跡に建ったのが妙本寺でありました。
だから・・・・、鎌倉のパワースポットの一つです。
そんな、お寺に霊が出るとしたら・・・、私の直感は凌霄花の花です。
緋色の、妖艶極まる花にこそ霊は憑依すると思われます。
私は、憑依した凌霄花を観たい…、思ったのです。
 
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                              妙本寺の二天門。門の後ろに左右二本の凌霄花があります。
 
 
 
二天門は嘉永元年(1848)に建立された新しい門です。
でも、壮大な祖師堂を建立し、続いてその門を建築したのですから・・・・、しっかりした建物です。
桁行(正面間口)3間、梁間(奥行)2間の八脚門で、重厚な感じがします。
正面には飛貫を虹梁として、その上には見事な欄間彫刻があります。
龍は龍でも翼を持った「飛び龍」です。
龍の翼が目立ちます。
麒麟のような翼です。
元々良く目立ち、啼き龍として有名でしたが、昨年修復され、改めて色漆が塗られ、目立つようになりました。
 
飛び龍の上には出組みと蟇股で軒を支えています。
頭貫(柱の上部)の端には獏と獅子が居ます。
獏も獅子も夜見ると一層不気味です。
屋根の側面にも同じように数多くの彫り物が飾られています。
 
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  妙本寺二天門。三間の門の左右には左に毘沙門天、右に持国天が祀られています。
  中央の虹梁上の欄間彫刻が有名な「啼き龍」です。昨夏修復され鮮烈な色彩です。
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          毘沙門天
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                            持国天、ライトアップされると印象が鮮やかになります。
 
 
 
お寺の門は普通は仁王像が祀られて、神聖清浄な境内を守護しています。
妙本寺は右側が持国天、左に多聞天(毘沙門天)が居ます。
江戸時代後半には毘沙門天が一番人気で、その対の持国天と併せて祀ったからでしょうか?
中々に良くできた二天です。
真夜中の暗闇の中でライトアップされると・・・・、一際秀作であることが解ります。
 
二天門の先に凌霄花があります。
右側、一藩墓地の横の凌霄花には棚があります。
左側、日蓮上人像側の凌霄花は桜の木に巻いていました。
ところが、10年くらい前に桜は凌霄花の毒により枯れ死にしてしまいました。
今では幹の過半が腐ってしまいmした。
早晩には左の凌霄花にも棚が必要になるでしょう。
 
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                                           二天門をバックに咲いた凌霄花。
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   凌霄花のバックに見える正面が獅子、横向きが獏。どちらも柱の先端、飛貫を飾ります。
 
台風でも落ちなかった蕾が開いて・・・・、数輪の花が咲いています。
時折、緋色の花弁が揺れます。
ゾクッとするような妖艶さです。
「梶井基次郎」の『桜の木の下には死体が埋まっている』と書きました。
坂口安吾は「桜の森の満開の下」で人間の狂気を描きました。
往生できない霊、彷徨う霊は桜の木に憑依するかも知れませんが・・・・、私は凌霄花だと思います。
それは、凌霄花が一番に妖艶で人を惹きつけます。
それに、霊が出現する季節の咲きます。
 
私は近年何故か霊感が強くなっています。
霊が怖い…、思ったことはありません。
でも、この晩は霊がいる…、とは感じませんでした。
何処までも、清浄で静寂が支配する・・・・、美しい、ありがたい境内でした。
 
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                                 未だ、紫陽花が残っていました。後方は持国天。
 
 
 
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大磯「厳島神社」の紅蓮花

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大磯といえば、海に面した避寒地として有名ですが、山もなかなか味わいが深いものがあります。
大磯町の西、吉田茂別邸前あたり(城山)から北に上ると丘陵になります。
昔丘の上に修道院が建っていて、シスターが丘の細道を歩く姿を良く見かけられたそうでした。
だから、このあたりの細道を「マリア道」と呼ぶようになったそうです。
今出かけると、修道院のあった丘は星槎大学の キャンパスになっています。
春にはミカン畑に白い花が咲き、初夏には蛍が飛びます。
マリア道は相模湾を正面に見ながら歩く、楽しい道です。
道の端には観音石仏や道祖神が祀られています。
  (この記事は以下に書きました http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45977076.html)
 
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  右手の丘の上に修道院がありました。蓮池の中央に小島があって厳島神社が祀られています。
  新幹線の線路が傍を通っています。大磯町生沢は田園地帯です。
 
マリア道を登りきると、その先にもう一段高い丘陵(鷹取山)が東西に連なっています。
山間に人家が点在していますし、田圃や果樹園が目立ちます。
山裾を新幹線が通っています。
この辺りは海辺より先に栄えていたのでしょう。
寺院が数多くあり、古い仏像が祀られています。
 (王福寺、保福寺など、何れも平安時代、重要文化財)
 
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   中央中島に厳島神社が祀られています。左手に鷹取山があって、その麓に王福寺はじめ平安時代に創建   された寺があります。大磯町のもう一つの魅力です。
 
今日(7月25日)の目的は此処北大磯の「厳島神社」です。
此処には昔から屹度湧水があったのでしょう。
江戸時代初め湧水の周りを掘って「溜池」にしました。
そして、近在の田圃に給水しました。
 
かって、溜池は生沢の東西二つありました。
灌漑工事に際して、いずれにも池の中の小島に社を建てて、厳島神社を祀っていたようです。
ところが西池の下流域には田圃が無くなって市街化してしまいました。
そこで、池を埋め立て「大磯町立生沢プール」を作りました。
まるで、お城のお堀が埋め立てられ、天守閣がポツン残されたようなものです。
一方東池は江戸時代のままに残されています。
その池一面に赤い蓮が自生しているのです。
 
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                                           今が紅蓮の見頃です。
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厳島神社といえば安芸の宮島です。
宮島自体がご神体のようなものでしょう。
大磯の厳島神社も、お隣中井町の厳島神社も、小田原明神ヶ岳の厳島神社も何れも綺麗な湧水池があって、池の中島に社が建っています。
何れも安芸の宮島に似た姿形です。
 
祭神は市杵嶋姫命(いちきしまひめ)、古事記にも日本書紀にも登場する「水の神」です。
神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、「イチキシマヒメ」は神に「斎く島の女性の神」、ということでしょう。
だから、市杵嶋姫命を祀る以上は、綺麗な湧水があって、中島があることが必須条件なのです。
大磯東池の厳島神社は良し、西の厳島神社は社があっても・・・「池も中島も無い」のでは、
市杵嶋姫命は”おかんむり”でしょう。
 
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東の厳島神社は紅い蓮も咲くのに…、西の厳島神社にはお洒落が一つも無いわ・・・・!
お思いかも知れません。
 
市杵嶋姫命は本地仏が「弁天様」です。
大磯は日本三弁天「江の島神社」も近いのです。
だから・・・・・、茅ケ崎から小田原まで、厳島神社が多いのかもしれません。
 
山間に貴重な湧き水があれば……、人間は有難いと思い、その近くに住まい、農業をしたことでしょう。
そして、湧水があることに神意を感じ・・・・、水の神「市杵嶋姫命」を祀りました。
自然の姿に感謝する気持ちこそが大切です。
 
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                        厳島神社、社殿向拝上の欄間彫刻。ご神体は白蛇だそうです。
 
大磯の東池の厳島神社は社こそ小さくても・・・・、美しいロケーションが守られています。
そして、紅蓮が咲く今が最高です。
夏休みになって親子連れが釣り糸を垂れていました。
釣竿にトンボが止まります。
のどかな一日が過ぎてゆきます。
 
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     池の面の浮草は「菱(ひし)」でしょうか? だとすれば・・・・、もうじき白い花が咲くことでしょう。
 
 
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鯰絵にみる江戸庶民の生き様

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鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に二つの美術館があります。
東に鎌倉の仏像を中心に展示している「国宝館」、そして西側に「近代美術館」があります。
鎌倉が伝統と進歩的な側面を併せ持っている・・・、そんな特長を二つの美術館が示しているのでしょう。
 
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                               鶴岡八幡宮、左の生垣の奥に近代美術館があります。
 
鶴岡八幡宮の参道を歩いていると、巨大なポスターにギョッとします。
真ん中に強大な鯰が泳いでいて、その頭上に神様が乗っていて、鯰に剣を刺しています。
まるで、白鯨の背に乗った「モービィ・ディック」を思わせます。
気谷誠氏がコレクションした「鯰絵」を展示しているのです。
ポスターの迫力に誘われて見学することにしました。
 
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                            鯰を抑える鹿島大神宮(1855年) ポスターを撮影。
 
1840年代、幕末も近づくと世相は混沌としてきます。
幕府は「天保の改革」を断行し、質素倹約を旨とし、贅沢品を禁じます。
色数の多い錦絵(役者絵・美人絵等)や歌舞伎、幕府への風刺画や自由な発想の読み本も弾圧されます。
1853年には浦賀に黒船が4隻来航し、世相の混乱が加速しました。
そして、1855年(安政2年)安政の大地震が江戸の町を襲いました。
倒壊家屋2万戸、死者1万人と言われているようです。
 
大鯰が地下に棲んでいて、地震は大鯰が悪戯するものだ…、そんな信仰が一般的でした。
地震は紀伊沖から信濃の善光寺、そして江戸に連続しました。
人々は大鯰が「日の本を荒らし回っている」、とでも思ったことでしょう。
大鯰が地震を起こさないように、自分やその家族が地震の災害に遭遇しないように…、
護符の期待を込めて「鯰絵」を求めました。
ポスターの鯰絵は「鹿島大明神」が大鯰を懲らしめている…、そんな絵柄です。
この錦絵を長押に貼ったり、神棚に忍ばせて・・・・、地震の災難除けにしたものでしょう。
江戸の町だから…、鹿島大明神が多かったようですが、
伊勢神宮の神馬が鯰を蹴飛ばしている…、そんな絵図もありました。
八百万の神々が鯰を諌めている…、そんな絵図もありました。
 
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                                              近代美術館の展示から
 
鯰絵が単に「震災除け」の護符代わりの錦絵なら・・・・・、気谷氏はコレクションしなかったかもしれません。
実は「庶民が地震を起こした鯰」を歓迎している…、そんな絵が数多くあるのです。
気谷氏はそんな錦絵を好んでコレクションしたようです。
 
吉原の遊女の絵があります。
一枚は遊女達が鯰を叩いて懲らしめています。
屹度、吉原が地震後の大火で焼け落ちて、自分も逃げ延びた事実や、お友達を失った悲しみから…、
鯰を叩いているのでしょう。
でも、もう一枚は違います。
遊女は遊郭の「仮屋」に入っています。
店先には鯰顔のお客さんが沢山来ています。
地震のあと、吉原では価格引き下げを断行した事もあったでしょう。
また、復興景気で大工や左官・・・・江戸の庶民の懐が潤っていたこともあるのでしょう。
地震直後は泣いた遊女も庶民も、しばらくたつと好景気に沸いたのでしょう。
鯰は「福の神」に見えてきました。
 
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             鯰に三味線を振り上げて懲らしめている芸子や遊女が多く描かれています。
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    取りあえず遊女達は仮宅に収まり客を呼びました。震災復興に潤った江戸の庶民は押すな押すなで遊女    を買いに出かけました。庶民はみんな震災を忘れて好景気に浮かれました。
 
鯰絵は震災直後から大量に発行されました。
もとより錦絵はご禁制で、許可が必要でした。
作者も発行元も伏されて、ゲリラ的に発行されました。
だから、約2か月の間しか作品は出回らなかった…、説明されていました。
最大の問題は絵図に「世直し」の期待が込められていたからでしょう。
 
幕末になると商品経済が浸透し…、金持ちと貧乏人の貧富の差が大きくなってきました。
土地を持っている大店や札差や蔵元…、限られた者がドンドン大金持ちになり…、
貧乏人は日に日に窮してゆきました。
そんな時に安政の大地震が起きました。
大金持ちは店を失い、商品を焼き、証文も失いました。
一方、庶民は復興景気に潤いました。
一番良い思いをしたのは長屋住まいの「大工」で、左官で、鳶職だ・・・、そんな番付表もありました。
 
何のことはない・・・、鯰は困ったものだ…、思っていましたが…、実は「世直し」してくれるんじゃないか!
瞬く間に庶民にとって、鯰は歓迎され始めたのです。
幕府は「世直し鰻」に敏感に反応し、取り締まります。
 
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  右上の鯰は既に神様になっています。画面上部には「地震から改めて世が直り、家もゆったりして、人もゆっ  たりして・・・」と記されています。画面下には様々な業種の人が「鯰様有難う・・・」と祝意を述べています。
  例えば、材木屋は注文がどっと来た、鳶職はお得意様が増えた、灯心売りも車夫も屋根屋も注文が増え    た…言っています。
 
近代美術館が東日本大震災後1年を経たこの時期に鯰絵を展示したのは…、その意図は明らかです。
たった150年前の大震災で・・・・、江戸庶民が逞しく、したたかに立ち上がった姿を見直して欲しい・・・、
現代を生きる私達に期待したのでしょう。
 
大鯰が地震を引き起こす…、考えは迷信、俗信であります。
でも、”災難を転じて福と受け止める”生き方や生き様は素晴らしいと思います。
 
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            常磐津の師匠(常磐寿無事大夫)に「老松」をお稽古している鯰。鯰は「野中の一本杉」を演じ            て決めた所です。師匠の上には遊郭の「仮宅」を列挙しています。常磐津の文句は仮名垣              魯文と案内されていました。(目録を撮影)
 
鯰絵は当時の世相を反映したものですが、その風刺精神は後世に引き継がれます。
また、「護符」としての役割は1862年江戸で天然痘が大流行すると「はしか絵」に引き継がれます。
金太郎、桃太郎、鍾馗などをはしかが嫌う紅い色で描かれました。
 
江戸庶民は幕末、安政の外憂内患、天変地異に遭遇して、
逞しく、したたかに、そして遊び心豊かに生き抜きました。
鯰絵は現代に生きる私達にエールを送っているように思います。
ブログには書ききれない楽しさがあります。
是非、お出かけください。
 
 
 
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厳島湿性公園近くの「歯痛の神様」

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一昨日、大磯の「厳島神社」の紅蓮の花を書きました。
同神社の西側は鷹取山です。
鷹取山の西側は平塚富士見CC,その西がレイクウッドCCです。
レイクウッドの西、山裾にも厳島神社が祀られています。
直線距離は5キロ余りですが・・・、道が無いので一度国道1号線に戻り、二宮の交差点を右折して、
中井町を目指します。
 
厳島神社は大磯町も、中井町も良く似た地勢にあります。
山間の湧水池があって、池の中央に小島があって、小島の中に社が祀られています。
中井の湧水池は湿性公園として整備されました。
湧水池には「シュレーゲル青蛙」や「仏泥鰌(ホトケドジョウ)」などの希少生物が生息しています。
5月末には蛍が飛び交い、7月になれば藪萱草の花が咲きます。
夢のように綺麗な湿性公園です。
小学生が湧水池の周囲に田圃を作っているのも良い事です。
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  厳島湿性公園。湧水池の中央小島の中に厳島神社が祀られています。
  向かいの山の上にレイクウッドCCがあります。
 
もう、7月もお終いです。
池の周囲の紫陽花も刈り込まれていましたし、半夏生も緑に変わってきています。
藪萱草の花も終わって、種を残そうとしています。
少し花が少なく、寂しい季節です。
 
池の周囲には数名のバードウォッチャーがカメラを構えています。
レンズは厳島神社の森の梢に向けられています。
訊けば、この夏に孵化したばかりのカワセミの幼鳥が隠れているのだといいます。
時々、森陰から水面に向けてダイブしています。
でも、ハンティングは空振り続きです。
私も、レンズを通して確認すれば・・・・、未だ頭の毛も生えそろっていない、腹のオレンジ色もくすんだ子供です。
この池にはこの夏生まれたカワセミが数羽生息しようとしているようです。
 
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     湿性公園には木道が整備されていて、水生動物、植物を観察できます。カワセミ目当てのカメラマンが      居ます。 中央が藪萱草ですが、もうお終いです。
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                                                厳島神社の森陰のカワセミ
 
湿性公園に近い小道で「歯の神様」案内を見つけました。
小道から、さらに森の中に向けて細道を入ります。
30m程入ると、農家の入り口に「歯の神様」は居られました。
何のことはない小さな「如意輪観音」様です。
私は家内に言います。
「なんだ、如意輪様だ・・・、如意輪観音が歯の神様なら・・・、そこらじゅうに歯の神様が居る事になる」
家内は言います。
「でも、屹度何か説話があるんですよ・・・、この観音様にお願いしたら、
歯痛が治癒したとか、虫歯が無くなった・・・、とか」
 
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   歯痛の神様は如意輪観音でした。枝垂れ梅の根元にあって、地蜂が巣食っていました。
   若しかしたら蜂に刺されて痛いのかも?
 
そうかもしれないけど・・・・、
私は軽井沢追分宿の石仏を思い出しました。
堀辰夫が書いて有名になった如意輪観音です。
「信濃路・大和路」の中で・・・・、「路傍の草むらに石仏が佇んでいる・・・」と表しています。
現在は泉洞寺(曹洞宗)の境内にあります。
多分、堀辰夫の創作も混じっているのでしょう。
もしも、堀辰夫がこの「歯の神様」のことを知っていたら・・・・、
小説表現は変わっていたかもしれません。
 
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                          信濃追分宿の如意輪観音、此方のほうが「歯痛」を思わせます。
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               如意輪観音像(北鎌倉光照寺で撮影) 半跏思惟の姿は「歯痛」を思わせます。
 
「歯の神様」は様々です。
有名なのは東京の「白山神社」…、歯槽膿漏に霊験があるのだそうです。
「歯がくさい」が「はくさん」になって、そうした俗信が生じたのだそうです。
川崎大師の葬頭河婆さんも「歯の神様」として有名です。
 奪衣婆は恐ろしい存在ですが、その像自体は何処にでも居そうな意地悪ばあさんで、
何処か愛らしさがあります。
お祈りすれば歯の痛みが治癒して、美人になるのだそうです。
 
「虫歯の神様」で一番多いのは…、やはりお地蔵様でしょう。
浦賀にもありますし…、時々見かけます。
お地蔵様は子供の守り神でありますし、歯痛は子供に多いからでしょう。
そして、「母親が虫歯もなく元気な子供が育ってほしい」
と願うからでしょう。
 
でも、如意輪観音が俯いて、頬に手を当てている姿は・・・、「歯痛」を思わせます。
「歯痛の神様」が如意輪様である…、納得してしまいます。
 
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                                    大船植木にある久成寺の如意輪観音像
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                                              葉山新善光寺の如意輪観音像
 
 
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白い蓮の花への憧れ(源平池で)

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日蓮宗のお題目は「『南無妙法蓮華経』です。
”私は『妙法蓮華経』に帰依いたします” そんな意味でしょう。
妙法蓮華経とは法華経のこと、
法華経とは「正しい教えである白い蓮の花」の意味です。
仏陀の教えは深遠ですから・・一言では言い尽くせません。
そこで、「白い蓮の花」を思い浮かべてください。
白い花になろう・・・、そう修行してください・・・。
そんな意味で「白い蓮の花のような教え」と表現したのでしょう。
法華経は仏陀の没後500年後にできた経典です。
日蓮宗に限らず日本仏教の最も大事な経典になりました。
   
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                       今日の話題は「白い蓮の花」です。(鶴岡八幡宮源平池で撮影)
 
蓮の花は紅色のほうが目立ちます。
不忍池も行田の古代蓮も紅蓮です。
唐招提寺はじめ古寺にも紅蓮が多く自生しています。
ベトナムの国旗も紅色です。
「白い蓮」は紅色の蓮に圧倒されているようです。
 
白い蓮がメジャーなのは・・・、鎌倉の鶴岡八幡宮くらいでしょう。
源平池には源氏池に白い蓮が、平家池には当初は紅色だったのでしょうが・・・、
今では白い蓮が圧倒しています。
太鼓橋から白旗神社にかけて紅色の蓮が混じっています。
 
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                                  一面の白い蓮。(鶴岡八幡宮の平家池で)
 
平家池の池畔に少女達が水彩画を描いています。
「国大付属中学の生徒さん?」  訊けば
「御成中学です」答えてくれます。
御成中からは2㌔もあるでしょうか?
暑い中、歩いてきて「白い蓮」を描いているのでした。
私は素直に疑問をぶつけます。
「紅色の蓮を描かないの? 紅色の方が綺麗じゃない?」
少女は憮然として答えます。
「白い蓮の方が綺麗だし、蓮らしいでしょう。それに、蓮の葉は面が緑で裏は白味がかかっているでしょう。
風が吹くと…、葉の裏表の…グラデーションが好きなのよ・・・・。」
 
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                       平家池の緑陰で蓮を描く少女たち。
 
私は「平家納経」を思い出します。
勿論、平清盛が厳島神社に納めた、法華経33巻です。
経典の前後、表紙と見返りに絵が描かれています。
全体に紫色の下地で経文は金泥で書かれています。
手前に十二単の高貴な女性が描かれ…、遠くに仏様が居られます。
その間には雲居があって・・・・・・、池があります。
 
池には蓮が咲いています。表紙にも見返りにも、随所に白い蓮が描かれています。
極楽浄土の素晴らしさを讃嘆し・・・、
”女性は業が深くて往生できない…”、一般に信じられていた時代でした。
でも、「法華経に帰依すれば女性も極楽に往生できる」 と説いたのでした。
 
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           法華経を納めた「平家納経」は紫地に白い蓮が随所に描かれています。
       古代の人も、現代の少女も…白い蓮の花の美しさに心を捉えられたのでした。
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             平家納経。高貴な女性、雲居の上の仏様…、その間には白い蓮が咲いています。
 
紅色の蓮は魅力的です・・・・、
一方古代から、白い蓮は宗教的な憧れだったのでした。
中学の女生徒が・・・・
「蓮の美しさは白い花でしょう!、おじさんそんな事解らないの!」
顔に表せられると・・・・、戸惑ってしまいます。
      
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        少女たちの心をとらえたのは・・・・、緑のグラデーションを背景に清浄に咲く白い蓮なのでした。
 
「おじさんも、白い蓮が好きだよ・・・・」
言いたかったのですが・・・、言葉が出ません。
 
私は「白蓮院・・・・・・・・」、義母の戒名を思い出しました。
父に依頼してつけて貰った名前でした。
家内も父も私も・・・・・・、故人に「白い蓮の花のような・・・」想いを残していました。
義母はとっくに往生してしまったようで…、ここ数年夢にさえ出てきません。
現世の名前は古くて嫌いだったようですが・・・、あの世での名前はお気に入りでしょう。
 
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             鶴岡八幡宮の源氏池には紅色の蓮が混じっています。源平ノーサイド状態です。
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                建長寺の方丈前には蓮鉢が並んでいて…、紅白の蓮が咲いています。
 
 
 
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「みそ萩」の記憶

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今日から8月、お盆の月です。
8月13日がお盆の入りで、「先祖の霊を迎える日」です。
霊は夕暮れ時にやってきます。
だから、霊が闇の中で迷わないように、門の前で迎え火を焚きます。
 
8月16日には霊を送ります。
暑さも峠を越して…、そこはかとなく寂しさが漂います。
 
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  今日の話題は「みそ萩」です。写真は藤沢の新林公園です。同公園は片瀬山の谷戸に残っていた棚田と溜   池、里山を自然公園にしたものです。みそ萩が自生しています。
 
家々では精霊棚を飾って祖霊を迎えます。
棚にはおもてなしの果物やご飯を供えます。
 
もう40年以上も前、大学生だった私は、墨染めの衣に絡子をかけて、家々を回りました。
精霊棚を巡ってお経をあげるので・・・、棚経(たなぎょう)と呼びました。
蓮田の畔には一面赤紫の「みそ萩」の花が咲いていました。
 
家々を回る順番も時刻も決まっていました。
昼ごはん、晩ごはんは戴く家が決まっていました。
「精霊さんと一緒にごはんを戴くんだ・・・・」歓びもありました。
炎天下の棚経が3日も続くと、ゲッソリ痩せる…、思いがありました。
 
多くのお寺は南向きに建っています。
だから、ご本尊は南を向いておいでです。
お盆前には施餓鬼会が催されます。
北向きに(ご本尊に向けて)施餓鬼棚を設えます。
四方に青竹を立て、結界を張ります。
注連縄を張って、五色の幡を垂らします。
施餓鬼棚には諸精霊の位牌を置いて、その前に果物や野菜等のお供えが並びます。
そして、精霊のお食事が供えられます。
蓮の葉っぱがお皿で、胡瓜や茄子の刻みものがご飯です。
水を注いだお皿を置きます。
脇には「みそ萩」を用意します。
 
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   「みそ萩」は茎に小花が沢山つきます。姿が萩に似ているからでしょう。今が盛りですが歳時記では「秋の    花」です。萩の名がつくからでしょうか。 写真は紋白蝶ですが沢山の昆虫が集まります。写真にも写って    いますが蜘蛛が獲物を待っています。
 
私の生家の施餓鬼会は、父が導師を務めます。
水を張ったお皿を取って、みそ萩の花を水に浸します。
そして、施餓鬼棚の四方を祓います。
みそ萩の滴が四方に飛び散ります。
水が祓い清める・・・・、そんな役割を果たしているのでしょう。
 
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                                            施餓鬼棚(鎌倉光明寺にて)
 
写真は地獄草紙の一場面です。
多分鴨川の川原でしょう。
真ん中に卒塔婆が建っています。
人々は卒塔婆を水で清めています。
すると、その水を舐めて…、喉の渇きを癒そうと・・・・・、沢山の餓鬼が現れています。
餓鬼は食べ物を見つけて食べようとすると・・・・、燃えてしまいます。
火炎地獄ですから・・・・・、常に喉の渇きに苦しんでいます。
ですから・・・、水ばかり飲んでいます。
骨と皮ばかりですが…、水が張ったお腹が膨れています。
醜い姿です。
 
人間には餓鬼は見えません。
だから・・・・・、怖がらずに水を撒いています。
その水に霊が群がります。
施餓鬼のお浄めには、霊(餓鬼)に水をあげる・・・、そんな意味もあったのでしょう。
私には、本尊の前、施餓鬼棚の周囲に集まった霊(餓鬼)が見えるような思いがありました。
 
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            地獄草子(鎌倉時代・国宝)卒塔婆に撒かれる水に集まる餓鬼(霊)
 
餓鬼の最も苦しむのは喉の渇きである・・・、
こんな教えは水不足の苦い経験がもたらしたからでしょうか?
または死ぬ間際に「水が欲しい」と叫んだ人が多かったからでしょうか?
良く解りません。
でも、”水が欲しい”死者の叫びは痛感していたのでしょう。
水が欲しい…、叫びは、水辺に咲く「みそ萩(溝萩)」への想いを深くしたのでしょう。
 
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   「みそ萩」は「溝萩」が訛ったものだという意見もあります。水辺には必ず咲いていました。
   今は護岸がコンクリートになってしまったので、余り見かけません。
   でも「盆花」といえばみそ萩です。
 
私の学生時代「金子みすず」は知られていませんでした。
最近、「みそ萩」と題した詩を見つけました。
お盆にピッタリだなあ・・・・、感慨深いものがありました。
 
  ながれの岸のみそはぎは、
  だれも知らない花でした。 
  ながれの水ははるばると、
  とおくの海へゆきました。

  大きな、大きな、大海で、
  小さな、小さな、一しずく、
  だれも、知らないみそはぎを、
  いつもおもっておりました。

  それは、さみしいみそはぎの、
  花からこぼれたつゆでした。

 
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  曙杉の緑陰を楽しむ人が、岸辺のみそ萩を見ていました。水面にはもうアキアカネが飛んでいました。
 
8月16日は「送り日」です。
京都や箱根では山焼き(大文字焼など)が催されます。
山に戻る霊を案内する山焼き行事です。
川では精霊流しが催されます。
小舟に灯篭を載せて、霊を海の彼方に送るのです。
みすずの故郷山口県長門市では精霊流しが一般的だったのでしょう。
 
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            柏尾川の精霊流し。みすずの故郷ではもっと美しい精霊流しが今も行われているでしょう。
            と言うのは、今は柏尾川の護岸はコンクリートで固められているので、みそ萩の花が咲かな            いのです。
 
みそ萩の花に宿った滴が川に落ちて・・・・、
はるばると遠い海に流れて行く・・・、
 
雨は降って川に集まり、大海に注ぎます。
それは、道理ですが…、みそ萩の花に宿った滴になると・・・・、誰も気づきません。
餓鬼草紙、地獄草紙の描かれた800年前から・・・・・、
人間の悲しみは水に託されて来ました。
一滴であった悲しみは、川に集まって、海に注がれてきました。
 
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      水面を見ていると、秋の気配を感じます。
 
 
 
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