私が最初に秩父の札所を回ったのは、昭和47年2月、大学1年の授業が終えた頃でした。
未だ春が遠い季節、石仏巡りをしようと池袋駅から西武鉄道秩父線で出かけました。
当時は未だ、手甲脚絆の巡礼さんが沢山札所巡りをする姿が確認できました。
秩父霊場の始まりは文暦元年(1234年)と言われます。
秩父神社の周囲、西は三峰神社、東は宝登山神社に囲まれた霊域の寺寺が霊場となりました。
15世紀の秩父札所番付では霊場の数は33箇所でしたが、16世紀になると1箇所増えて34霊場になりました。
西国33箇所、坂東33箇所、秩父34か所と合わせて日本百観音霊場を構成することになりました。
秩父34番札所水潜寺は秩父札所の結願の寺であると同時に、日本百観音霊場の結願でもありました。
秩父札所4番金昌寺の山門。大草鞋の上には西国33観音と羅漢などが祀られています。
山門楼上の仏像群、前列羅漢、後列33観音、子法師像などが見えます。
山門仁王像
近世に入って街道が整備されます。
江戸からは中山道を熊谷宿まで行き、秩父往還道に入ります。
寄居からは荒川に沿って渓谷を登れば秩父に着きました。
秩父は大川(隅田川)荒川の水源でありますから…、江戸庶民にとっては水神の棲む神聖な土地でした。
江戸庶民が大挙して秩父の観音霊場を巡るようになります。
すると、札所周りの順番が変更され、寄居に近い「四萬部寺(しまぶじ)」が札所一番になります。
番打ちや巡礼の道筋が変更されました。
全長100キロにわたり巡礼道は整備され、道標が整備されます。
各寺寺はご本尊の開帳をするなど、江戸からの巡礼客の呼び込みに努力もします。
金昌寺観音石仏群
中央愛染明王、この一帯は地蔵、羅漢が目立ちます。
土手には擬宝珠が咲いて、地蔵さんが笑顔です。
そんな中で、4番札所「金昌寺」の住職はアイディアを絞ります。
寛永元年(1624年)寺を千体の石仏で埋めようと願を立てます。(金昌寺案内板より)
秩父の西「岩殿沢」に石を発見しこれを「功徳石」と呼び切り出しました。
「凝灰質砂岩」ですから、石の表面は滑らかで、加工に適していました。
しかし、砂岩特有の風化しやすい性質がありました。
巡礼者は結願出来た感謝の気持ちで石仏を奉納したのでしょう。
住職の思いを超えて7年で3千体の石仏が奉納されたといわれます。
奥ノ院前の石窟。蛇紋岩層と礫岩層が入り組んでいます、。
こうした岩の裂け目の先に地獄があると考えられたのでしょう。
現存する石仏は1300体です。
でも、その過半は廃仏毀釈でお顔を失ったままです。
5体満足な石仏は600体に及ばないでしょう。
1600年過ぎに熱せられたように造られた石仏が300年後は壊されてしまう・・・、人
間の行動は時に狂気に走り、理解できません。
人為的に石仏のお顔が破損されています。(奥ノ院道)
石仏には奉納者の名や出身地が風化せずに読めるものがあります。
それを丁寧に読むと、寄進者の7割が江戸で、2割が武州だそうです。
ですから、石仏には江戸っ子の信仰が如実に現れています。
観音霊場ですから・・・、33観音が多いのは自然です。
でも、それ以上に目立つのが「子供の仏様」です。
本堂の前には有名な「慈母観音」が祀られています。
菱川師宣や鈴木晴信が描くような浮世絵美人の観音様です。
胸を肌蹴て、右の乳で授乳させています。
乳飲み子は観音様の左の乳房を握って母の愛を確認しているようです。
水子を産んだ親も、乳の出の悪い母親も、慈母観音を見つめて祈った事でしょう。
子育て地蔵も目立ちます。
そして、お地蔵様の足元には無数の小法師像が祀られています。(小法師は水子供養のため)
秩父石仏の代表「慈母観音像」、授乳中の母親が観音の姿に模されています。
お顔が鈴木晴信の美人画を髣髴させます。
金昌寺自体は曹洞宗(禅宗)の寺院です。
山門上には16羅漢像が祀られていますし、境内にも羅漢像(石仏)も目立ちます。
徳利を抱えて、杯を頭の上に掲げて”般若湯、飲みすぎたわ!”
陽気な羅漢さんは笑わせてくれます。
羅漢像、般若湯を遣りすぎたわ!、そんな表情が笑いを誘います。
石仏ですから、庶民の悲しみも喜びも素直に表現されています。
江戸では菱川師宣や晴信が美人画を描き始めた時代です。
南画の蕪村や池大雅も現れて、美しい自然を楽しみながら自由に生きる姿を描写します。
北斎や広重が出現する半世紀前の時代・・・・、江戸庶民の信仰の諸相が石仏の形で表現されました。
それは、観音だ、地蔵だ、とは一概に言い切れない様々な姿をしていました。
愛染明王もあれば羅漢のありました。
総じていえば・・・、「死んであの世があるか否か、それはわからない。」
解らない来世を頼むより、現世を楽しもうではないか。
現世を逞しく生き抜く・・・、そんな諸仏が選ばれて金昌寺の境内を埋めたようにように思われます。
亀の子地蔵尊
40年前に比べれば金昌寺は綺麗に整備されました。
駐車場もトイレも整備されました。
でも、お遍路さんの姿は見られなくなってしまいました。
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