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遊行寺の「釈迦涅槃図」と「人間の死に際」

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1月21日麻生副首相は終末期医療に関し「私は遺書を書いている。
”チューブ人間にはさせてくれるな、さっさと死んでゆくから”」発言された。
延命治療を否定する発言ともとりかねられない事から・・・・、マスコミの批判を浴びようとすると、
「適当でもない面もあった」コメントを発表された。
世論は粗忽な発言ながら核心を突いている・・・、総じて同感する様子であります。
 
立春を過ぎると、お寺さんは釈迦涅槃会に入ります。
時宗本山遊行寺には本堂の天蓋を外して、釈迦涅槃図を掛けられました。(2月末まで)
そう、2月15日は釈迦涅槃会です。
2月ばかりは遊行寺のご本尊は「釈迦涅槃図」なのでしょう。
私はこの見事な涅槃図を何度も何度も眺めて・・・・、良く描かれている・・・・、感服しています。
 
長い間拝んでいるお年寄りもいます。
車椅子を連ねて拝観に来ている・・・・、高齢者医療やグループホームの方も見受けられます。
私は本堂の前で何度も記念写真のシャッターを押しました。
そして、2月15日がお釈迦様の亡くなった日であること、遊行寺さんの今月の標語が「仏恩報謝」であること・・・、立場をわきまえず説明させていただきました。
 
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              遊行寺本堂、手前の人はグループホームのみなさん。筆者が乞われて写真のシャッターを押し、立場を越えて釈迦涅槃図の説明をさせていただきました。
 
 
キリスト教は”人間の生き方”を導く宗教のようです。
キリスト様の命日は何時だか・・・・、知らない人が殆どです。
でもお生まれになった12月25日(24日は前夜)は誰でもお祝いしますし、
人間の罪を背負って礫刑になられた日はさておき、、
復活された日は”イースター”として大々的にお祝いします。
総じて西洋社会は太陽暦ですが、イースターだけは立春後の最初の満月の週の日曜日・・・・、
と太陰暦に依っているのは不思議です。
 
一方、仏教は人間の死に方を教える宗教のようです。
釈迦涅槃図は死に方の理想を示しています。
そして、”お釈迦様と同じように良い死に方をしたい”と願い、拝むのです。
 
釈迦涅槃図は本堂の長押に架けられ、畳の上まで広がっています。
大判の和紙を横にして5枚繋いでいますから・・・・、縦が5m、横が2メートル、の絵です。
これに表装が加えられますので、縦横が6m、3m程度でしょうか。
表装部分には明治24年に4寺が奉納した・・・・・、経緯が書かれていました。
同年は明治天皇は遊行寺に泊られたので・・・・、時宗全体で盛り上がっていたのでしょう。
(大津事件も勃発します)
 
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                          2月だけは遊行寺のご本尊は釈迦涅槃図です。
 
中央にはお釈迦様が横たわっておいでです。
頭を北にされて、右腕を手枕にされていられますから、西を向いておいでです。
満たされて大らかな優しいお顔をされています。
両膝を心持折っておいでです。
屹度、西に沈むお日様を見ておいでなのでしょう。
こんな、自然なお姿は日本の釈迦涅槃図の特長で・・・・、
鎌倉時代阿弥陀信仰が一般化して以降に流行りました。
それ以前は中国やタイに多く見られるように、上方を向かれ、膝も伸びたお姿でした。
釈迦涅槃図とすれば、横向きで拝む人を見る様なお姿の方が心に染込むものがあります。
日本の仏画も仏像も拝む人の眼を見る様なお姿で、
語りかける様なお姿で描かれ(作られ)ている事が特長です。
 
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      お弟子をはじめ天地総てが慟哭する中、穏やかな表情で涅槃を迎えられるお釈迦様。
      この姿が人間の理想です。
 
 
お釈迦様の寝台を菩薩、諸弟子、王侯貴族以下の人物が取り囲んでいます。
筆法はゆったりして・・・・、大和絵の伝統に沿っています。
羅漢の嘆きの様や鬼の泣き叫ぶ姿もリアルです。
前面には多数の動物や邪鬼(?)が悲嘆にくれて号泣するさまを克明に描いています。
 
8本もの沙羅双樹が描かれています。
左の沙羅双樹は葉も緑で、蜜柑のような実もたわわになっています。
右側の沙羅双樹は葉が黄葉してしまっています。
沙羅双樹も嘆き悲しみ・・・・、白化してしまった・・・、お経の内容を絵で表現しているのでしょう。
天下万有みな慟哭に堪えない・・・・、そんな場面です。
 
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                                          悲しみを全身で表現する羅漢様
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                                                 慟哭する邪鬼や動物たち
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   天上からはお釈迦様のお母様摩耶夫人たちがお釈迦様をお迎えしよう・・・・、舞い降りて来ています。
 
私達は、お釈迦様と同じように満たされた心で死の旅に立ちたい・・・・、誰もが願っています。
出来れば家族や友人、庭先の動植物にも見送られたい・・・・、誰もの願いです。
その為には・・・・、慣れ親しんだ自宅で死にたい・・・、思います。
死んだ後の名前(戒名)も自分の好きな名が欲しい・・・、思います。
でも、どれ一つとして思うようには行きません。
それは、死に際に問題があるからです。
 
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   釈迦涅槃図(高野山金剛峰寺/平安時代/国宝)鎌倉時代以前の釈迦涅槃図はお釈迦様は天上を向かれ、    膝も真っ直ぐでした。鎌倉時代以降西方に浄土がある…、一般に信仰されたので西向き横臥したお姿になり   ました。此方の沙羅双樹2本は悲しみのあまり白化しています。
 
人が癌を患います。
人間の体は・・・・、穏やかな死に向かって準備を始めます。
癌だって・・・・・・大きくなりすぎれば・・・・、人間と一緒に死ななくてはなりません。
身体は癌もろともに命を絶つ・・・・、シナリオに向かって進む筈です。
ところが、終末期医療は癌細胞を叩こうとあらゆる手を打ちます。
身体は癌もろとも死んでゆこう・・・・、シナリオに狂いが生じます。
痩せ細った体に栄養をつけよう・・・・、ブドウ糖を点滴します。
すると、先ず元気な癌細胞がブドウ糖を吸収し活性化します。
でも、少し遅れて体も元気になります。
栄養分を直接胃に送るのが胃漏です。
その為に胃にはパイプを入れます。
排出させるためにそれ用のパイプを入れます。
リンゲルの為に体腔に溜まった水を抜くパイプも付けます。
パイプ人間に化して・・・、存命医療が施されます。
 
医療のお蔭で、癌細胞も体も元気になります。
両方が活性化すると・・・・、身体全体が痛み軋んでしまいます。
本来ならば体も癌も両方とも同じような店舗で衰弱して・・・・、死を迎える筈でした。
死に向かう中で、心や能は冴えてきて・・・・、自らの人生を振り返ります。
「平凡だけれど良い人生であった・・・・。自分はささやかな存在だったけれど成功した人生だった。
凡庸であったからこそ・・・その中にお釈迦様に似た人生を送る事が出来た。」
そう思い感謝の念で一杯になります。
すると、生き抜いた事に満足した笑みを表して、死んで行くことが出来るのです。
 
ところが、終末期医療で、体も癌も体中で活性化してしまいますと、体中が自分自身と癌との戦場になってしまいます。大きな苦痛を伴いますから・・・・、到底穏やかな心で死を迎えられる…、そんな心境はなれません。
「苦しい!痛い!」叫びながらバッタリ息絶えてしまいます。
終末期医療を選択して、人間がお釈迦様のように・・・・、自然に痛み苦しまないで死んで行ける・・・、
そんなシナリオを狂わせてしまうする事が間違いなのでしょう。
 
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   釈迦涅槃図の向かって左側にはお釈迦様の一生が描かれています。右側は死後の様子が描かれていま    す。この一枚の涅槃図が仏教のすべてを絵解きしているのです。
 
有史以来仏教も神道も自然に任せるのが一番幸福になる・・・、教えて来ながら
この1世紀の間、医療技術の進歩の中で・・・・、人間の死に方を忘れさせてしまいました。
少しでも長く生きたい、少しでも長い間生かせたい…、願うばかりに苦痛を大きくさせ、死ぬ心の準備をさせないでいると思われます。
医療の進歩は医者の役目です。
医者に咎はありません。
「死に方」を教えない宗教に問題があるように思います。
死に方は自分自身で選択すべきです。
西行法師のように、自分の描いた死に方をすべきです。(※1)
 
麻生副首相の発言は至極ごもっともでありましょう。
何も財政負担を軽くする目的ではなく・・・、人間の死に方を教える発言と思われます。
お寺さんも、お葬式前の「死に方」をもっと教える事が重要ではないでしょうか。
 
2月15日、私の好きな遊行寺の涅槃会で、どんな説法が聞かれるか今から楽しみです。
 
私は今日(2月12日)は胃癌の2か月検診です。予約は9時半、その前に腹部エコーがあります。
ブログの校正は帰宅後にする事にして・・・、拙速ですがこのまま立ち上げます。
 
   ※1:西行法師は自身の理想とする死に方を次のように歌いました。
      「願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃」
     「如月の望月」とは釈迦涅槃と一致します。太陰暦の2月の満月は太陽暦の3月20日過ぎですか      ら、桜の咲く季節になります。涅槃会の頃、満開の桜の樹下で、満月の頃に死にたいなあ!理想     を述べて、その通りに亡くなりました。日本人に深い感銘を残しています。 
 
 
 
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引地川の蛙のお相撲

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引地川は大和市の「泉の森」を源にして、藤沢の鵠沼海岸で海に注ぐ二級河川です。
海から約4キロの位置に「引地川親水公園」があります。
藤沢市を洪水から守る「大庭遊水池」を作って、その周辺にスポーツ公園や湿性植物園を整備しました。
市民が川をはじめとした自然に親しんで貰う・・・・・、そんな施設です。
 
公園の南に大きな台地があります。
治承4年(1180年)に源 頼朝が伊豆の石橋山で蜂起します。
これを打ち破った大庭景親の居城でありました。
公園の北にも台地があって、その森の中に天神様が祀られています。
天神様は大庭城の鬼門に在って、大庭一族を守護する役目があったのでしょう。
沢山の人が大庭城跡から天神様を通って・・・・、引地川の上流に向かって歩いてゆきます。
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    引地川の天神橋の欄干に止まったユリカゴメ。餌場としては鵠沼海岸よりこの親水公園が良いようで百羽    近い群れを成しています。台地の上に天神様が祀られています。このあたり一帯が「引地川親水公園」とし    て整備されて、藤沢市民の憩いの場所です。
 
引地川親水公園の芝生に座って、お弁当を広げる人がおおいようです。
沢山のユリカゴメはお弁当のお裾分けを期待しているようです。
引地川に架かった天神橋の欄干に止まって・・・・、お裾分けしてくれる人がいないか・・・・、見詰めています。
 
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   天神橋の海側だけがアルミ製の欄干になっています。その上に蛙さんのブロンズ像が並んでいます。
   最初が行司役の蛙で、次が蹲踞の姿勢の蛙で、次が四つに組んだ蛙で・・・・、最後は勝った・負けたの蛙さ   んです。この道の突き当りを登れば天神様です。
 
その天神橋の海側の欄干の上には・・・・、蛙さんがいます。
一見して鳥獣戯画に描かれた「お相撲蛙」です。
鳥獣戯画では蛙は兎の耳に咬みついて・・・、禁じ手を使っていますが・・・、
欄干の蛙は、蛙同士です。
行司役の蛙が軍配を手にして・・・・”構えて…構えて・・・・、八卦良い(ハッケヨイ)・・・・”と仕切っています。
二匹の蛙は蹲踞して・・・・、がっぷり組んで・・・・、押したり引いたりして・・・・結局押し出しで…勝負がつきました。勝った蛙は勝ち誇り、負けた蛙はしょげってしまいます。
そう、4月になれば藤沢では大相撲の巡業も行われます。
 
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   蹲踞の姿勢から立ち上がった蛙力士です。 この道の突き当りの台地の上に大庭城址公園があります。
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                                       ガップリ四つに組んで押し合う蛙力士さん。
 
鳥獣戯画が描かれたのは平安時代末期・・・・、
そのころも人々はお相撲が大好きで・・・・、お相撲をするのは蟇蛙で・・・・、
ガマ合戦を興味深く見詰めていたのでしょう。
それが、日本漫画の原点になりました。
3月6日が啓蟄です。
この頃には地中で冬眠していた蛙君たちは全員飛び出して・・・・、引地川湿性植物園の池に集合して・・・、盛大に蝦蟇相撲を、ガマ合戦を繰り広げる事でしょう。
        
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           禁じ手「耳カジリ」のあと兎を投げ飛ばした蛙力士。大喜びする蛙たち。(鳥獣戯画)
 
でも、この辺りには青鷺も沢山いますから・・・・、夢中になる余り・・・、とって喰われるかもしれません・・・。
注意してくださいよ・・・・。
 
天神橋の欄干に蛙を飾ったのは・・・、誰で、どんな意味があったのか・・・・・、解りません。
多分、橋の欄干は安物のアルミ製です。
一方・・・相撲蛙は立派なブロンズ製です。
私は、篤志家が鳥獣戯画の蛙を作って・・・、お仕着せのようにして・・・・、
橋が出来た後に取り付けたのでしょう。
この道が天神様と大庭城をつなぐ道ですから・・・・、
カモメも沢山いるんですから・・・・、
「カゴメ・・カモメ・・・・天神様の細道じゃ・・・」
童謡の「カモメ・カモメ」に因んだ飾り物でも良かったかもしれません。
 
でも、子供が大声で叫びます。
”こんなところに蛙さんが居るよ! お相撲を取っているよ!”
はしゃぐ声を聞くと・・・、矢張り相撲蛙で正解だった・・・、思います。
”もう、半月もすれば本物の蛙の相撲が見られるよ・・・。またおいで・・・。”
坊やに声を掛けたくなりました。
 
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            これが正真正銘の蛙合戦、蛙相撲です。(昨年撮影/梅の咲く頃に始まります)
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                  これが我が家に棲む蛙君、時々家内を驚かせてくれています。
 
我が庭に棲む蛙君、昨年は蛙合戦で負傷して帰還しました。
今年も顔を出してくれるのか・・・、心配です。
 
 
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沈丁花と水仙の香り較べ(岩殿寺にて)

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今日はバレンタインデー、サラリーマン時代は義理チョコを沢山いただきましたが、もう誰もくれません。
家内に「要らないよ・・・」と言えば、用意したとの事。
自分が食べたいからかな? 思ったりします。
何しろ、私は血糖値を気遣っているのですから・・・・。
”義理チョコ” なんていうのは日本固有の習慣でしょう。
ましてそのお返しの”ホワイトデー”なんか・・・、欧米人は目を白黒させる事でしょう。
英語で何と訳せばいいのか・・・・、難しい。
 
ラジオからユーミンの「春よ来い」が流れてきます。
歌詞も調べも綺麗で・・・・、春らしい輝きがあります。
”いとし面影の沈丁花、溢るる涙の蕾から ひとつひとつ香りはじめる・・・”
冒頭のフレーズです。
沈丁花の香りは・・・・、春を呼んで来るようです。
私は、沈丁花の香り、水仙の香りを求めて逗子の岩殿寺に出かけました。
 
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                  逗子の岩殿寺、観音堂に登る石段からの眺め。向こうは海です。
 
岩殿寺の入口に新しい表示が出来ました。
「此処は海抜16メートルです」 案内されています。
逗子は山が迫っていますから・・・・、津波が来たら山に登れば助かるでしょう。
でも、登り口は何処にあるか解りません。
岩殿寺に避難すれば・・・・・、観音堂は海抜40mはあるでしょうから・・・・大丈夫でしょう。
 
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                               岩殿寺の水仙。朝露が滴になって落ちそうでした。
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                              岩殿寺、石段の両側に日本水仙が自生しています。
 
観音堂に登る石段の両側には日本水仙が自生しています。
大半が一重ですが・・・、八重の水仙もあります。
水仙の間に沈丁花も植わっています。
数年前枯れてしまいました。
寒椿やスダジイが生い茂って・・・、日当たりが無いので枯れてしまったのでしょう。
その後、境内に10本近い沈丁花が植えられ・・・、良く育っています。
蕾が膨らんで、もう1週間もすれば満開になるでしょう。
そうすれば、水仙と沈丁花の”香り合戦”になる事でしょう。
水仙の香りも、沈丁花の匂いも・・・、どちらも「春よ来い」です。
狂おしい香りの競演になる事でしょう。
 
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               岩殿寺の沈丁花。古い沈丁花が枯れた後、沢山の若木が植樹されました。
 
利休の『南方録』には「嫌う花」として八つ花(派手な花)として、具体的に列挙しています。
「沈丁花、深山樒(しきみ)、梔子(くちなし)、鶏頭、女郎花、柘榴、河骨、金盞花」
利休の時代は戦乱の時代でした。
クチナシは「死人に口なし」を思わせるし、深山樒は葬式を思わせるから、鶏頭や柘榴はその姿が戦乱で脳天を割られた姿を思わせるので・・・禁花に挙げられたのでしょう。
 
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   岩殿寺ではようやく梅が咲き始めました。このお寺は大和の長谷寺を小さくしたようなお寺です。
 
女郎花や河骨は名前が悪いので敬遠されました。
現在は平和な時代で・・・・戦乱や血生臭さから距離があります。
もう、禁花として忌避されることも無いでしょう。
私が問題に思うのは沈丁花です。利休は沈丁花が
「匂いが強すぎて、一輪茶室に生けただけでも、和敬清寂を破ってしまう。」
として、嫌われる花の筆頭に挙げたのでしょう。
筆頭にしたのは、当時沈丁花を生けたい…、思った人が多かったからでしょう。
水仙が推奨されて、沈丁花が嫌われて・・・・、その微妙な違いを利休は指摘したかったのでしょう。
 
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        岩殿寺の弘法大師爪彫りのお地蔵様。寒椿の根元に祀られています。
             夥しいメジロが集まっていました。
 
利休の時代、人の感性は現代人を遥かに超えて鋭かったことでしょう。
現代人は水仙も好きだし、沈丁花の匂いも好みです。
お茶室に集まる人が・・・、
みんなが好きなら沈丁花も禁花から解かれても良い様な気がします。
 
私の叔父は戦地から帰る途上、フィリッピンの川で沈んでしまいました。
昭和50年頃、母はその川原石を拾って帰りました。
狛江龍泉寺の墓地には、遺骨代わりに川原石が収まっています。
33回忌法要には遺族が集まって・・・・、茶花は水盤に河骨が生けられたかも知れません。
 
時代が変われば花の評価も変わるでしょう。
まして、茶室の主人、客人がどんな思いで集まったか・・・・、によって
禁花は最高の花になるかも知れません。
 
沈丁花には罪はありません。
人間の好き嫌いだけです。
沈丁花に訊いたらこう答えるでしょう。
「千利休は嫌いです。ユーミンが好きです。」
“花の事は花に訊け”  一遍上人のお言葉です。
 
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                        岩殿寺(坂東2番霊場)は今が水仙の見頃です。
 
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神様の居られる東司(トイレ)

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禅寺ではトイレの事を「東司」と呼びます。
昭和55年10月に永平寺を行啓された天皇皇后両陛下は、東司を見学されたそうです。
清潔で簡素なトイレに両陛下は感激されたと伝えられています。
トイレが人の心身の汚れを落とすばかりでなく、国土を浄くすると考えられました。
トイレこそ、修行の極致であるのでしょう。
 
京都の東福寺の東司は室町時代の建築で、国の重要文化財です。
綺麗なトイレは病気の蔓延を防ぐとともに、すぐれた肥料を作り、生命循環の要でもあったと思います。
 
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                                東福寺の東司(重文/同寺HPから転載)
 
岩殿寺には、昨年新しいトイレが出来ました。
寺務所の前、お庭の西隅に造られました。
一見すると、お茶室のような構えです。
でも、扉に便器がデザインされた絵が貼られていますので・・・、トイレだと判ります。
勿論「東司は此方です」矢印の案内も立っています。
トイレまでの露地がまた良く出来ています。
優しい鎌倉石が敷かれています。
路地の両側には梅が花をつけ、沈丁花と水仙・・・・”春を呼ぶ香り三兄弟”が並んで迎えてくれます。
私は、清々しい気持ちでトイレを使わせて戴きました。
 
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                              沈丁花の陰に東司(トイレ)の案内が立っています。
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   鎌倉石が敷かれた露地を曲がると東司(トイレ)があります。何故か、お茶室に向かうような落ち着き    と華やいだ気持ちになります。
 
 
便座に座って驚きました。
真っ白い便座が程好く暖かいのです。
ゴルフ場によくある「暖房便座」です。
そう、東慶寺のトイレも暖房便座でした。
お寺さんの優しい心使いを感謝しました。
真冬に冷たい便座に座るのは・・・、怖いのです。
 
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            清潔で簡素で機能的で・・・、落ち着いて読書でもしたくなるようなトイレです。
 
 
もう、25年も昔の事です。
私の生家で・・・・、早朝お参りに来られたお婆様が脳溢血で倒れられました。
見る見る中に血の気が無くなられ・・・・、救急車が着いた時にはもう亡くなられていました。
 
そうです、目が覚めると概して血圧が高くなります。
お寺に登られて、尿意を催されて・・・・、便座に座られて・・・、
便座に座った瞬間その冷たさに”ゾクッ”とします。
驚いて全身に血液を押し出します。
その途端に脳溢血を発症したのでした。
 
脳溢血は冬に多く、とりわけ熱いお風呂に入った時、冷たい便座に座った時に起こります。
そんな事故を減らしたい・・・・、暖房便座が開発され・・・・、ゴルフ場から広がって・・・、
今ではお寺の東司でも使われるようになったのです。
 
外国人が日本のトイレのイノベーションを笑うことがあります。
先ず矛先に挙げるのが「ウォシュレット/温水洗浄便座」でしょう。
そしてこの「暖房便座」です。
”そこまでする事は無いだろう!” そんな意見でしょう。
でも、日本では脳血管死亡者が戦前戦後とも第一位でありました。
昭和50年ころから次第に順位を下げて、現在は第三位死者数140万人前後です。
でも、寒さが厳しい東北地方での死亡原因第一位は脳溢血です。
ゴルフ場やお寺に据えられた暖房便座も少なからず死亡率低下に貢献している事でしょう。
 
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外国人に死亡率の変遷を説くまでもありません。
外国人が寒い日本の冬を過ごすと、暖房便座の有難味が良く解ると思われます。
 
木下藤吉郎は信長の草履を懐で温めて・・・、出世の機会を掴んだ・・・・と言われます。
岩殿寺の暖房便座はお寺さんの優しい心使いを知る事が出来ます。
トイレを使わせていただいて・・・・、ほんのり良い気持ちになります。
”お茶室のような東司だなあ・・・・”
つくづく思いながら・・・・・、
梅・沈丁花・水仙の香り三兄弟に見送られました。
 
私の生家も暖房便座を設置していたら・・・、悔やまれます。
(当時は暖房便座はありませんでしたし、冷たい便座が死因の一つであった・・・、考えは私の憶測です)
 
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                   トイレは泉鏡花の句碑「普門品日ねもす 雨の桜 かな」の背後にあります。
 
 
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梅の花が微笑む(円覚寺南嶺管長の法話)

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2月15日、今日は涅槃会です。
インターネットで調べます。
開始時間を、多くの寺は未明とか早朝とか案内しています。
色々、迷った挙句に先ず北鎌倉の円覚寺を詣でる事に致しました。
 
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この日のご本尊は釈迦涅槃図です。(円覚寺)
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                      円覚寺山門
未だ、朝9時です。
でも、境内には沢山の中学生が居ます。
ノートを覗けば伽藍配置図がプリントしてあり・・・・・、一つ一つの建物が「何という名で、どんな目的があるのか」調べて、書きこむようになっています。
「何処から来たの?」 聞けば、足立区からだそうです。
朝6時には出発したのでしょう。
 
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      仏殿の基壇に腰掛けて、選仏場と居士林を調べる中学生。背後の仏殿内では涅槃会の準備が      進められています。中学生たちは涅槃図を眺められて…、幸運でした。
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                                              選仏場(座禅道場)如来像
 
今朝は和尚さんが忙しくしておいでです。
「お早うございます!」 和尚さんがお声を掛けられます。
中学生は驚いたように顔を上げて・・・、大きな声で「お早うございます!」挨拶返しをしています。
アッチでも、こっちでも「お早うございます!」が響きます。
今にも雨が降り出しそうなお天気ですが・・・・、こんなに爽やかで清々しさは・・・、円覚寺ならではです。
 
昨年までは涅槃会の法会は朝6時から開かれていたそうです。
それを今年から10時に遅らせ、一般人が法会に参加できるよう・・・・、配慮されたそうです。
では、約1時間、境内を散策すれば、丁度涅槃会にピッタリです。
境内にはマンサクが満開です。
梅も咲き始めました。
舎利殿まえの蝋梅は最期の花を精一杯咲かせ続けている所です。
 
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                                選仏場前の梅の花も咲き出しました。
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                   舎利殿前の蝋梅は最期の力を振り絞って、花を薫らせていました。
 
 
涅槃会の法要が始まりました。
舎利殿でお経を唱えられた御坊様方が連なって仏殿に入られます。
最初に天皇陛下のご健康と世界の平和をお祈りされました。
今上天皇と書かれた牌(?)が移されると、大太鼓が打ち鳴らされて・・・・涅槃会が始まります。
横田南嶺官長以下、塔頭や近在のお寺の和尚様、円覚寺の雲水さん、50人は居られるでしょう。
読経の声が大きな仏殿に木霊して・・・・、腹の底に響くような大音量です。
加えて、先達(※)を務める和尚さんの声が素晴らしい事・・・・、
オペラのバリトン歌手も聞き惚れる艶と澄み切ったお声です。
(※:先達と書きましたが維那/いのうが正しい名です。お経の最初、最後(回向)を読み上げます)
 
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   読経しながら仏殿を練り歩く和尚さんたち。若いお坊さんの墨染めと青い頭が清々しく感じられます。
   天井の龍は前田青邨画伯監修(守屋ただし作)によるものです。
 
小さなお体の南嶺官長の何処からこの大声が出るのか?
摩訶不思議な大音量で・・・偈(お釈迦様の遺徳を讃じた漢詩)を読み上げます。
私達参列者は予め配られていましたから・・・・、手元の栞で偈を確認いたします。
 
南嶺官長が歩を進められます。
和尚さんがそれに連なります。
雲水さんまで50人の御坊様が仏殿を練り歩きながら読経をされます。
和尚さんの横顔も姿勢も、合掌された姿も・・・総てが眺められます。
若いお坊様の青々とした坊主頭も清々しく感じます。
姿も仕草も表情も・・・、総てが美しいと思いますし・・・・、季節を感じます。
 
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  床に身を投げて九拝される南嶺管長。両の手はお釈迦様のおみ足を捧げる姿勢だそうです。
  宗様式の沓が印象的です。赤い沓は南嶺管長さん、前管長の足立大進和尚が履いておいででした。
  南嶺管長が墨染の法衣を召されているのは、前管長への気遣いでしょうか?お若い(多分48歳)のに  素晴らしいお人柄です。この日も中学生に率先して挨拶をされていました。
 
仏殿内は冷え込みます。
何時しか鼻水が垂れてしまいました。
驚いて外を覗くと雨が降り出しています。
仏殿の外陣からも…、沢山の人が法会を見学しています。
 
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    法会が終わり説法、あいさつをされる南嶺管長さん。右側に偈が貼られています。
 
法会が終わると南嶺官長が法話とご挨拶をされました。
先ずご自身の漢詩を説明されました。
  鶴林示寂紫金身・・・・・・、
(漢詩の字が難しくて拾えないので写真で見てください)
鶴林でお釈迦様は最期の時を迎えようとしておいででした。
お弟子の迦葉尊者(※)はお釈迦様の最期に間に合いませんでした。
迦葉尊者が到着すると、お釈迦様はお棺の中から両足を出して示しましたが・・・、
もう息を戻されませんでした。
しかし、お釈迦様は亡くなったと言ってはくれないで下さい。
(円覚寺では)梅の花が今年も変わらず、春風に微笑んでいるではないですか・・・・!
 ※迦葉尊者は高弟で禅宗の始祖になります。
 
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                                              南嶺管長の涅槃会の偈
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                                    選仏場(座禅堂)前の梅も咲き出しました。
釈迦涅槃図の足元を指さされました。
其処には汚い老婆がおみ足を捧げていられます。
この老婆はお釈迦様を慕って・・・・、インド中を歩き回って・・・、ようやくお釈迦様に会えるところだったのでした。
ところが運悪く(?)最期には間に合いませんでした。
・・・・・、そこでお釈迦様のおみ足を捧げ持って・・・・、大泣きしているのだそうです。
涙は、お釈迦様の足裏に飛び散って・・・、模様が現れました。
 
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   お釈迦様は亡くなられと金色に光りました。右端に白髪の老婆がおみ足を捧げています。
 
お釈迦様が偉大なのは、頭や良くて・・・、知恵が詰まっていたからではない・・・。
お悟りを得てから亡くなるまで45年間、ずっとインド中を行脚して回られ、教えを広めたから・・・、
偉大なのでしょう。
だから・・・・・、お釈迦様の最も貴い所は・・・・、おみ足なのです。
”みなさん、長い釈迦涅槃会に参加いただき有難うございました。こんなに沢山の方にご参加いただき嬉しい限りです。老婆のごとくに涙雨が降り出しました。
甘酒を用意いたしましたので温めてからお帰り下さい”
 
いい法話を聞く事が出来た。
素晴らしい偈であったなあ・・・・・!
思いながら仏殿を出ました。
梅の花が冷たい雨で濡れていました。
私は坂村真民の詩を思い出しました。
「一輪の花の中に神宿り給う・・・」
 
残りの人生、一瞬一瞬お顔を出される神を感じながら・・・過ごしたいものです。
冬から春にかけて・・・、今が最も頻繁に神がお顔を出される時でしょう。
 
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   甘酒を戴いて、円覚寺のお山を下りました。
 
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                              南嶺管長に似て(?) お人柄を示すお地蔵さん
 
 
 
 
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1年生の学習発表会(東戸塚小学校)

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2月14日、東戸塚小学校の1年生学習発表会です。
沢山の招待状を戴きました。
学区内(上倉田町・吉田町)は「昔遊び」の先生を仰せつかっています。
お正月を挟んで2度昔遊びを遊んで、一緒に給食を戴いて・・・・、すっかり顔なじみになりました。
お蔭で町ですれ違っても「竹内先生」と呼ばれる事も度々です。(※)
つい、2年前までは「この頃の生徒は挨拶が出来ない」 なんて文句を言っていたのが嘘のようです。
   ※「昔遊び」の記事は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46923932.html
 
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去年の4月7日、入学式の時の1年生は校長年生のご挨拶も聞いていられませんでした。
ほんの3分ほど、優しく語りかける様なお話にも飽きてしまい、後ろの席の両親にVサインしたりして、
ヤンチャと言えば聞こえが良いのですが・・・、我がままな子供達でした。
そんな子供達が1年間の学校生活でどんなに成長したのか・・・・、両親や地域に見せるのがこの日の目的です。
 
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東戸塚小学校は1年生170人のマンモス学校です。ドレミの歌を合唱しました。
 
東戸塚小学校の1年生は6学級、170名の横浜市でも最大級のマンモス学校です。
過疎地域では・・・・、1学年1名という学校も多くあることでしょう。
お友達が沢山いる・・・・、それは幸福な事でしょう。
1クラス35名も居るから・・・・・・、合唱しても、楽器を演奏しても、劇をしても、昔遊びをしても、体操をしても、
心を合わせて行う事が出来ますし、お友達をいたわる事も覚えます。
 
私は昨秋に耶馬渓の小学校や廃校を訪れました。
マンモス小学校の生徒の輝く笑顔を見ていると・・・、過疎の小学校に想いが飛んでしまいます。
過密・過疎は行き過ぎた資本主義の弊害でした。
人も資本も集中することで効率が上がります。
でも、その結果国土の均衡が失われます。
過疎の村には人が住まわなくなり・・・・、山も森も田畑も荒れてしまいます。
美しい里山、棚田の風景も竹藪に変わってしまいます。
 
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   跳び箱・マット運動を発表したクラス。手前は応援する別のクラスの生徒たち。
   自分の番でないときにこそ、生徒の姿勢が現れます。応援する姿に感動しました。
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    桃太郎の学校バージョン「夏ミカン太郎」。
    男女二人の夏ミカン太郎が9匹の犬・猿・雉を従えて鬼が島に向かいます。
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      昔遊びクラスの発表は「遊びのコツ」を説明しました。7段の達磨を見事に落して見せました。
      私達地域は昔遊びの先生です。
 
そんな嘆きはさておき、東戸塚小学校の学習発表会の模様です。
9時15分に始まりました。
生徒の「開会宣言」に始まりました。
先ず全員で「ドレミの歌」を合唱します。
”今日は大好き一杯・・・・心を併せて全力で有難うをお母さんお父さんに伝えます”
”僕たち私達はこんなに大きくなりました、二年生に向かってレッツ・ゴーします”
もう、お母さんもお父さんもうるうるして、ハンケチで目を拭きだします。
 
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                                           鍵盤ハーモニカの演奏風景
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                      ハンドベルも心を合わせて・・・上手にキラキラ星を演奏できました。
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                            ダンスも入った合唱のフィニッシュ、元気に決まりました。
 
クラスごとに発表は異なります。
「跳び箱・マット運動」では前跳びにはじまり、後ろ飛び、横跳び、最期に得意技(側転など)をしました。
「集団劇」では「桃太郎」の東戸塚小学校バージョンとして「夏ミカン太郎」を演じました。
校庭に大きな夏ミカンが転がっている事から・・・・夏ミカン太郎なのです。
お供は犬・猿・雉が三匹の筈が、今回は沢山になっていました。
「昔遊び」は上手になった子供達がが実演しながら・・・・、遊びの”コツ”を説明しました。
「音楽」は合唱に始まり、ダンスに鍵盤ハーモニカ、ハンドベルの演奏をしました。
「縄跳び・ボール投げ」も上手でした
そして、全員で数え歌を合唱してプログラムは終了しました。
 
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     子供達を背にして、校長先生の父兄に向けてのご挨拶。1年生はズット立ちっぱなしでしたが、
     視線はご父兄に向かっています。筆者も3時間弱、緊張を持続できる1年生の成長に驚きました。
 
子供達がほんの一年間の間にこんなに成長しました。
校長先生のお褒めのお話、父兄への謝辞は随分長くなりましたが・・・、もう脇目をする子も居なくなりました。
 
父兄が挨拶します。
学校への謝意に始まり・・・・最後に子供達に呼びかけます。
”お父さんもお母さんも今日は大きなご褒美を戴きました。皆の成長する姿を見る事が・・・、
この上ないご褒美なのです。
今日の皆は三重丸、大きな大きなご褒美を貰いました。有難う・・・・。”
 
最後に先生方7人が挨拶されました。
私達はもう1年生の先生は皆顔見知りです。
でも、改めてご挨拶をしている姿を見ると・・・・、先生方が優秀であることが良く解ります。
ご父兄も安心されます。
この先生なら子供を任せて安心だし、協力して子供を育てたい。
 
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   腰を落としてクラス担任のお話を聞き入る生徒。もう3時間も経っているのに集中は切れていません。
 
生徒の閉会宣言があって、私達は生徒のところに出向いてお礼を言いました。
”昔遊び、上手になったね。剣玉一発で成功できずに何度もやったね! 3回目、4回目、5回目どれも惜しい所で失敗だったね。でも7回目成功して・・・君も嬉しそうだったし、会場の全員が成功を喜んだよ! あれが良いんだよね。最後まで諦めないで頑張ってくれて有難う・・・・”
 
この2年間の間に学校と地域の距離が無くなりました。
功績はS校長先生のお蔭です。
その先生もこの3月で定年です。
惜しまれて退職するのはそれも花道でしょうが・・・・、
気力とスキルのある先生には・・・・、定年は無用のように思います。
生徒の為にも、父兄の為にも、若手の教員の為にも・・・、そして微力な地域の為にも・・・・、
長く働いてほしいものです。
 
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                                               楽しそうに合唱する1年生。
 
 
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中華街の「春節」の祝い行事

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サラリーマン時代、アジアの国と取引するときは「春節」と「ラマダン」には注意しました。
とりわけ春節は期間が長く、経済活動が略停止してしまいますから・・・・、
配慮しておかないととんでもない事になってしまいます。
昨年は1月23日が春節でした。
ところが、今年は2月10日ですから・・・・、約20日間も遅くなっています。
中国では休日が1週間続きます。
 
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  今日の話題は春節で湧く横浜中華街です。写真は神戸市立兵庫商業高等学校男子生徒の演舞です。
 
世界最大の中華街は間違いなく「横浜中華街」でしょう。
ですから、横浜中華街で催される「春節のお祝い」も世界一だと思います。(中国の中華街は除きます)
今年の中華街の催事案内を見ていると、2月9日に始まり、
週末は2月24日(日)までお祭り行事が続きます。
”今年も、春節には関帝廟をお参りし、点心を戴き、龍舞や獅子舞を見ようよ” 家内と相談し、
2月17日(日)に出かけました。
何故、この日に決めたか・・・・、それは神戸の龍舞・獅子舞と、横浜のそれとが一緒に見られるからです。
 
昼食は腹を少し空けて終える事にしました。
肉饅頭等を立ち食いできる・・・、お腹にスペースを空けておく作戦です。
 
祝舞パレードは2時に山下公園をスタートします。
1時半には山下公園はもう一睡の余地も無く、見物人の人だかりです。
バスツアーの一団や外国人親子も目立ちます。
神戸の祝舞一行が記念撮影に応じていました。
そして、爆竹の大音響を合図にパレードが始まります。
関帝廟通りを南下し、右折して中華大通りを北上して左折、山下公園に戻る約2キロのパレードです。
 
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    山下公園に勢揃いした神戸の龍舞・獅子舞の一団。子供や雑技をする大人も居ます。
    後ろの建物は媽祖廟です。
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                  山下公園から関帝廟通りに出発する2体の龍。
                  先行するのが男子高校生、後行するのが女子高校生が演舞しています。
 
龍の後からは、西遊記や三国志の英雄が続きます。
可愛い子供や、綺麗なお嬢さんの舞も華やかです。
お嬢さんたちは公園で待っている間は、薄着で寒そうでしたが・・・、
踊り出せば若者の熱気で、寒さを吹き飛ばしたようです。
 
続いて、4体の獅子も出発です。
獅子に頭を噛んで貰うと・・・、病気や悩みが無くなると信じられているのでしょう。
頭を下げれば、大きな口で・・・”カクン”軽く噛んでくれます。
 
春節だから・・・・・、
4千年も昔から太陰暦のお正月で・・・・、お祝いしてきた春節ですから…、お目出度いのでしょうか?
それとも、こうしてお祝いする人々の熱気や笑顔が春を呼んでくれるのか・・・・、
中華街全体が春節のお祝いの熱気で盛り上がっています・・・・。
爆竹が耳をつんざいて・・・・、邪気を吹き飛ばしています。
 
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               横濱中華學院校友會による獅子舞。頭役の上に尻尾役が肩車をして、弩迫力でした。
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               お獅子に頭を噛んで貰うと・・・・、この一年災いが無いと・・・信じられています。
 
陰暦では月の満ち欠けで各月の始まりと終わりを決めました。
1月1日(新月)がピッタリ立春になる事は珍しく、昨年は1月23日、今年は2月10日で、半月以上も違いました。
このように、陰暦の日付では季節を知る事は出来ませんでした。
一方、太陽の運行によって決まっていたのが立春等の二十四節気でしたから・・・・、
季節と陰暦は毎年アジャストし直すことが必要でした。
   (24節気自体が華北で出来たものですから・・・・、私達の感覚より1ヶ月くらいは先行しています。)
江戸時代膨大な量の暦が出版されたのは、陰暦が季節(農業に直結します)とずれていたからでしょう。
今映画で人気の「天地明察」も陰暦の暦のズレが問題の起点になっていました。
 
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                       横浜中華学校の女生徒による竜舞。息があって、見事な演舞でした。
 
 
私達日本人は明治になって太陰暦を捨てて・・・・、太陽暦を採用しました。
2千年に及ぶ伝統を切り捨てるのは軋轢も多かったでしょう。
でも、太陽暦は既に世界習慣でしたし、毎年お正月がズレたのでは農業もし難いものです。
明治人の合理性は躊躇することなく・・・・太陽暦に変えました。
 
お蔭で、毎年4月の入学式の頃には桜が咲くようになりました。
太陰暦では、年によって桜の咲く時期が1か月近くズレていましたから・・・・、
入学式と桜は不一致になってしまいました。
また、暦によって田植えの時期を決めることができませんでした。
田植えをするのは「桜の花が咲いたら・・・・」
農家の季節感は自然観察によって決められました。
 
2月は如月(きさらぎ)、名付けたのは日本人でした。
1年で寒い時期なので「着物を更に重ね着をしましょう」・・・、そんな意味でした。
如月(2月)は、太陽暦では2月20日から3月20にかけて・・・、始まります。
でも、3月を過ぎれば、重ね着を一枚脱ぎ始まる・・・・、そんな季節感です。
 
本題の春節のお祝いパレードに戻ります。
神戸から来て下さった一団が出発し終えれば、横浜のパレードが始まります。
横浜も地元の高校生が主体です。(横浜中華学校)
此方も、男女高校生の龍舞もあれば獅子舞もあります。
OBの獅子舞一団もあります。
立ち上がって、肩車をすれば、お獅子は4mも高見から見下ろす格好になります。
流石に弩迫力です。
変面や壺を頭上で回す・・・雑技の一団も拍手を受けています。
神戸と横浜中華街の競演で・・・・、熱気も一段盛り上がっています。
 
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三国志の英雄達のパレード
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西遊記「孫悟空」のパレード
 
午後3時、最後の横浜獅子舞が山下公園に到着・・・・、パレードは終了です。
高校生たちは媽祖廟に入って、着替えをして、中華街にある学校に戻ります。
良く出来た・・・、大成功だった・・・・、紅潮している事でしょう。
高校生の熱気が一気に春を近づけて・・・・、今年こそ良い歳になりそうだ・・・春節の”予感”です。
家内と大きな肉まん、アンマンを1個ずつ買い込んで、半分に分けて食べ歩きです。
身も心も春一杯になりました。
 
(太陽暦・太陰暦・24節気の関係図/陰暦では季節が大幅にズレている事が判ります)
 
 
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回復し始めた「三溪園の臥龍梅」の話

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昨年に続き今年も梅の開花が遅れているようです。
我が家の白梅は日当たりですから、今が満開です。
本牧の三溪園はもう見頃だろう・・・・、期待して2月17日、出かけてみました。
 
原三溪さんは自らも絵筆を執りました。
ですから、絵になる景色を造りました。
池を造作し、その周囲に建物を配し、その周囲に樹木や石を置きました。
花木には・・・・、桜も多いのですが・・・・、梅が最も多いのです。
三溪さんご自身も、梅を好んで描かれました。
 
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    今日の話題は三溪園の名物「臥龍梅」です。 下村観山はこの梅を素材に名作「弱法師」を描きま     した。(国立博物館HPから転載)
 
全国各地の大名庭園や寺社に梅が植えられています。
一言でいえば・・・・、日本人が梅が好きだから・・・・、と言うことになってしまいますが・・・、
日本の二大「生神」菅原道真、徳川家康が梅を愛し、ご神木と崇められている事もあるでしょう。
少年時代家康は今川家の人質として三保の松原に近い清見寺に囲われます。
家康は庭先の梅に若木を接ぎ木します。
諸葛孔明の故事(※)通り、家康は天下人になります。
(※劉備玄徳が諸葛孔明を「臥龍」と呼びかけ、三顧の礼を持って迎えました。臥龍は寝ている龍の事で、雨を得ないので天に昇れないでいます。しかし、いずれ機会が得られれば天下を治めると評された)
 
以来、全国各地の大名庭園では臥龍梅を競って植えました。
三溪さんも自邸のランドマーク三重塔の北側に、臥龍梅を植樹しました。(明治39年)
八岐大蛇(やまたのおろち)を意識したのでしょう・・・、8本もの臥龍梅を並んで見せました。
 
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       三溪園の臥龍梅、今は2分咲きですが蕾が多く出来て、樹勢は回復してきています。
       背後の竹藪を伐採した効果が大きいと思います。
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    2007年の臥龍梅。もう水仙も花期を終えているのに、梅の花は少ししか付いていませんでした。
    梅の背後まで迫ってきた竹藪が風通しを悪くし、日陰になっていたのが主因でしょう。
 
 
未だ絵学生だった下村観山は原三溪さん宅に居留していました。
見事な臥龍梅を毎日見続けていたことでしょう。
その美しさ、香しさを絵筆に託します。
横長の画面の全面に満開の臥龍梅を描きました。
そして右端に樹下で静かに合掌する痩せ細った法師を置きました。
法師の名は「弱法師/よろぼし」、世阿弥・観阿弥父子の謡曲のシテ役の姿です。
弱法師は今沈もうとする日輪に手を合わせているのです。
 
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                    竹藪を後退させたから・・・・、梅が復活した・・・、言えると思います。
 
難波の四天王寺に伝わった説話です。
難波の長者「通俊」には聡明な息子「俊徳丸」が居ました。
しかし、継母の讒言で俊徳丸は追放されてしまいます。
泣き飽きた俊徳丸は失明してしまいます。
乞食坊主になった俊徳丸は各地の寺寺を渡って生き長らえます。
その姿がヨロヨロ頼りなげだったから・・・弱法師と呼ばれます。
 
彼岸の中日に四天王寺に遣って来ていました。
四天王寺の西門からは真西に沈む太陽が眺められました。
四天王寺から夕陽を拝めば・・・、極楽に往生出来ると信じられていました。
ですから…、彼岸の中日は夕陽を拝もうとする善男善女で賑わっていました。
 
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                         手前が横笛庵、その南(奥)に臥龍梅があります。
 
 
一方父の通俊は倅を追放してしまった事を悔いていました。
四天王寺に出かけて貧者に施しをすることで罪滅ぼしをしていました。
彼岸の中日、群衆の中に倅の俊徳丸がいることに気づきます。
 
俊徳丸は夕日を拝むと祈りが叶ったのか、見えるようになっていました。
気分が高揚して、俊徳丸は四天王寺の境内を歩き回ります。
そして、雄大な伽藍を見て回ります。
しかし今日は正月のように賑わっています。
行き交う人にぶつかってよろけてしまいました。
途端に現実に引き戻されてしまいます。
目が見えたと思ったのは、ただの錯覚だったのでした。
そんな俊徳丸を見て周囲の人々は嘲笑います。
 
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    8本もの臥龍梅が満開になったら・・・・、見事でしょう。 今年は楽しみです。
 
日が暮れると夕方の賑わいは潮を引いたように、四天王寺は静寂に包まれました。
一人佇む俊徳丸に父は寄り添います。
話しかけられた俊徳丸は、乞食の我が身を恥じて逃げようとします。
通俊はそれに追い付き、彼を家へと連れて帰るのでした。
 
 
世阿弥には「蝉丸」という謡曲もあります。
醍醐天皇の息子に盲目の「蝉丸」が居ます。
この息子を天皇は恥じて逢坂山に捨ててしまう事から話が始まります。
蝉丸は琵琶の名手となります。そして、逢坂山の庵に侘び住まいを続けます。
其処に逆髪(さかがみ)という名の姉が訪れます。
姉は髪が逆立っていたので…捨てられてしまっていたのでした。
二人は手に手を取り合って、不運を嘆きます。
 
長者や天皇が「子捨て」という罪行を犯し、罪滅ぼしをさせるといったストーリーです。
でも、世阿弥は罪行を責めていません。
「長者や天皇までもが時により「子捨てという罪行を犯してしまう。
ましては貧者であり愚かな庶民は・・・・、罪まみれになってしまうのは・・・致し方ないではないか。」
語りかけているようです。
 
でも、長者も天皇も罪滅ぼしをいたします。
今更・・・罪滅ぼしをしてくれても・・・・、失明してしまって・・・・、時間は戻ってくれません。
でも、蝉丸など不運な子供達は親を責めたりしません。
ささやかな、遅れた慈悲を甘受します。
 
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                    臥龍梅の向こうに三溪園のランドマーク三重塔が見えるようになりました。
 
 
下村観山の弱法師(大正4年)は重要文化財に指定され・・・・観山の代表作になります。
その、素材になった臥龍梅でしたが・・・・、数年来弱ってしまい花数も極端に減ってしまっていました。
 
一昨年、南側に進出してきていた竹藪を綺麗に伐採しました。
そうしたら…、急速に回復してきました。
地を這って伸びていた幹は腐っていましたが・・・・、次第に太って来て回復軌道に乗ったように見えます。
加えて背景も綺麗になって・・・、臥龍梅も見栄えが良くなってきています。
梢の間から三重塔も透けて見えるようになりました。
満開は2月末になる事でしょう。
あの世の下村観山さんも喜ばれておいででしょう。
三溪園では「弱法師」を展示することでしょう。
そのころ、再度訪れることに致しましょう。
 
 
 
 
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三溪園の「初音茶屋」

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昨日は三溪園の名物臥龍梅を案内しました。
臥龍梅の脇にお野点風のお茶屋があります。
茅葺の八角形の建物で、真ん中に炉が切ってあって、自在鉤が吊るされ、
古い大きな鉄釡が架かっています。
茶屋の名前は「初音茶屋」、
鶯の“ホー・ホケキョ”春を告げる声を初音と呼びますから・・・・、
“ケキョ・ケキョ”とか “チャッチャッ”と鳴いても初音とは呼びません。
“ホー・ホケキョ”と鳴いて初音で、初音が聞こえた日が「初音日」です。
 
我が家では梅は既に満開ですが、未だ初音は聞かれません。
沢山のメジロに混じって鶯も来ている筈ですが・・・・・・、
未だ暖かくないので“ホー・ホケキョ”と鳴いてくれません。
“ホー・ホケキョ”と鳴くのは雄の求愛宣言だそうです。
もう少し暖かくならないと、鶯君も恋情で熱くならないのでしょう。
 
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      三溪園の梅林、向こうのお茶屋は「待春軒」、甘酒とお汁粉の暖簾が誘惑します。
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   左手に見える東屋が初音茶屋。昨年までは茶碗で麦茶を接待していましたが、今年は紙コップになりました。
   右端に見えるのが名物臥龍梅です。正面の建物が横笛庵になります。
 
初音茶屋は観梅の季節に、広い三溪園の梅園に茶屋を開いて、
「誰にでも熱い茶をふるまった」のが始まりだそうです。
大正4年には原三溪の長男善一郎の友人だった芥川龍之介も訪れます。
龍之介は善一郎への手紙で次のように書いています。
 
”矢代幸雄と二人でちょっとお庭を見に行きました。そうしてあずまのような所で、田舎の女のような人が湧かしてくれるお湯を飲みました。(中略)
 ひとはかりうく香煎や白湯の秋
即興の積りで書きましたが、月並みなので弱りました。
 
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          芥川龍之介も受けた初音茶屋のお茶の接待。(三溪園の案内から複写)
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       現在の麦茶の接待。鉄釡は芥川龍之介の頃と同じものと思われます。東屋のベンチに腰かけて、
       囲炉裏の火に身体をかざし、熱い麦茶をそそると体が内から温まります。
 
北鎌倉の東慶寺には初音火取香炉(ひとりこうろ)があります。
火取香炉とは薫じ物を炉の上に置いてくゆらす道具です。
その胴部全面に梨地を施して蒔絵を描き、砥石で研ぎ出して鶯の図柄を描いています。
鶯2羽が松竹梅の図柄の中に配されています。
「はつね・きか・せよ」の文字もあります。
源氏物語「初音の巻」に出てくる次の和歌を取り入れた歌絵でしょう。
 年月を松に曳かれてふる人に今日鴬の初音聞かせよ
 
暦の上ではもう春なのに、未だ寒い日が続く毎日です。
そんな日々、香を楽しみます。
小さな火種に香木を乗せれば・・・・、部屋中に香りが流れます。
春を待つ気持ちは一層高まります。
東慶寺は梅林に囲まれていますから・・・・、梅も香って来ます。
初音を聞かせよ・・・・・、誰もが思い、願うことでしょう。
素晴らしい、雅なお道具です。
お道具の主は奈阿姫(豊臣秀頼の娘/天秀尼)でしょう。
 
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東慶寺の火取香炉(ひとりこうろ)/室町時代・重要文化財。松ヶ丘文庫に常時展示されています。
     蒔絵で、金色鶯が梅の花に寄っています。梅の花が銀で描かれていますから真っ黒に錆びています。
(貝ならよかったのに)  鶯の初音を待つ気持ちが良く解ります。
 
 
三溪園の茶の接待はその後戦争などで途絶えていましたが、
昭和57年2月行方不明であった茶釜が見つかったのを機会に、昔通りの古釡で麦茶を沸かして、
ふるまいを再開しました。
 
梅が咲いても・・・、未だ北風が冷たい季節です。
東屋の囲炉裏端に腰掛けて、熱い麦茶をすすり、囲炉裏の火に手をかざすと、
冷え切った体が芯から温まります。
芥川龍之介も飲んだお茶かと思うと・・・・、麦茶の甘さも快いものです。
この麦茶接待は3月3日まで毎日続くそうです。
 
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                             楓が落葉しているので、熊笹が目立つようになった三溪園です。
 
三溪園の初音茶屋で温まりました。
園内本館には本牧の和菓子の老舗「喜月堂」が出店しています。
食いしん坊の私は「鶯もち」が食べたくなりました。
初音茶屋と言えば、浅草の甘味処が有名です。
鶯餅は諦めて・・・・せめて道明寺でも戴きたいものですが・・・・、まあ、諦めましょう。
楽しみは明日に預けておきましょう。
 
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1000年の生き証人「本蓮寺の古銀杏」

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春が近づくと、江の島道をウォーキングする人が目立ちます。
藤沢の遊行寺前から境川に沿って江の島までの古道を歩きます。
車がすれ違えない細道ですが・・・・、道筋には石仏が点在し、野鳥も多いし、素敵なレストランもあります。
真っ直ぐ歩けば1時間、4キロの道程ですが・・・・、半日充分に楽しめます。
 
名物の一つに「西行戻り松」があります。
このブログにも紹介したように・・・・、有名ですが現在の松は貧疎で・・・、見落としてしまいます。
人に尋ねて・・・・、見つけたもののついつい笑ってしまいます。
戻り松の杉山検校の道標を移した方が良さそうな気がします。
移す先・・・・、それは遊行寺寄りに200m程上った本蓮寺の参道です。
江の島道に面して大門脇に本蓮寺さんは見事な松を植えられました。
“西行戻り松を本蓮寺大門脇に戻しなさい・・・・” お寺さんのメッセージのようです。
 
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                                                                              本蓮寺の山門。
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        本蓮寺山門には「朱印寺」の札がかかっています。
        江戸幕府から7石を朱印を受けていたそうです。
 
その松から本蓮寺の本堂を眺めると・・・・・、大きな銀杏が目につきます。
本堂の左右に鎮座しています。
昔から・・・・、ずっと気になっていたのです・・・。
と言うのは・・・、年々傷みが酷くなってきていました。
倒れないように四方からワイヤーを張って、地面に括り付けていましたし・・・・、
新芽も若葉も数少なくなっていたのです。
ところが・・・・、今年になって見ると・・・・、
無数の小枝が萌え出ていて・・・・・、老いて突然に元気になっているのです。
鶴岡八幡宮の大銀杏が根元から倒れて以来・・・、本蓮寺の大銀杏も行く行くは・・・・?
懸念していたのです。
そこで、お寺に登って尋ねてみることに致しました。
 
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      本蓮寺本堂から山門を眺める。左が樹齢1000年を超えるという古銀杏。
      右側の銀杏は樹齢500年だそうです。
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     古銀杏の根元はバンドで固められています。根元よりも5m位の高い所から急に太くなっています。
 
本蓮寺の山門横には“お寺に用のある方だけ・・・お入りください、写真撮影はご遠慮ください”
案内が貼られています。
私は「気になっていた大銀杏が突然若返った・・・、何かあったのか?」尋ねるだけです。
我儘なご用のようで…、気になりましたが・・・・、生来疑問に思うと止められない性分です。
偶然に若いお坊様が境内に出ておいででした。
快く私の疑問に答えて下さり、写真撮影も許可して下さいました。
加えて、庫裏に戻って本蓮寺の冊子も下さいました。
 
本蓮寺は推古3年(595年)聖徳太子の師である高麗恵慈の弟子「義玄和尚」によって開かれたそうです。
法隆寺(607年)より古いということになります。
真偽は別として鎌倉よりも遥かに歴史のあるお寺ということでしょう。
源頼朝は元暦1年(1184年)に帰依し、伽藍の整備をいたします。
真言の寺となり「弥陀山大御堂」と呼ばれたそうです。
頼朝の父義朝の遺骨も納められました。(後に南御堂に移される)
大門の古い松の切株は「頼朝公駒止の松」と伝えられているそうです。
 
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                銀杏の垂乳根。神々しい婆さんのオッパイです。
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             古銀杏は・・・、若返って沢山の若枝を天に向けて張り出しています。
 
文永8年(1271年)日蓮上人は滝の口の法難に遭遇します。
日蓮上人は処刑場から本蓮寺に休息を取られます。
偶々采女が難産で苦しんでいました。
日蓮上人は安産福子のお札を賜れ・・・、無事に出産します。
 
元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉を攻めます。
片瀬腰越一帯は火をかけられ・・・、本蓮寺の堂塔は尽く灰燼に帰してしまいます。
焼け跡にはこの銀杏だけが残った・・・のだそうです。
だから・・・・、この大銀杏はこれ等を見詰めていたのだそうです。
「本蓮寺の生き証人」と呼ばれる所以だそうです。
 
この銀杏は背の丈30mはあるでしょうか?
地上5m位の位置から太い枝が左右に張って・・・・、沢山の瘤が出来ています。
瘤の多くが垂乳根のように・・・・、垂直に垂れ下がっています。
奪衣婆のオッパイのようです。
幹には無数の洞が空いてしまっていて・・・・、その洞から雨水が流れて・・・、
幹の髄が腐ってしまうのでしょう。
体中を包帯状の樹脂で覆っています。
全体はまるで壊れる寸前の「天空の城ラピュタ」のような雰囲気です。
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          此方は倒れる前の八幡宮大銀杏 
 
現住職の息子さんなのでしょう。
丁寧に私の質問に答えてくれました。
この古銀杏の樹齢は1000年を超すのだそうです。
ですから・・・・、鶴岡八幡宮の大銀杏より遥かに古い事になります。
その根は樹高の二倍以上に・・・横に這っているそうです。
だから・・・・、畑に大根や人参を植えても・・・、ほとんどが二股大根・二股人参になってしまうんだそうです。
本蓮寺さんではこの大銀杏を助けたい・・・、願って東京の高名な樹木医に診断を頼み・・・、
対策を講じて貰ってきたそうです。
先ず腐った幹の髄を取出し・・・清潔な土に入れ替えました。
更に、体中に出来ていた洞の入口を埋めました。
最も負荷のかかる根元をバンドで固めました。
そうしたら・・・・、年々回復の軌道に乗って・・・・、もうみっともないワイヤーは外しました。
今では小枝が沢山出ましたので・・・・、(また、実がなるかも知れないようです。)
 
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古銀杏の前には白梅・紅梅が今を盛りに咲いています。お隣の常立寺は梅の名所です。
 
 
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逗子海岸・由比ヶ浜「桜貝の歌」の歌碑

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鎌倉由比ヶ浜に大きな「桜貝の歌」の歌碑が出来ました。
前から逗子海岸、浪子不動尊前の公園にありましたから・・・、鎌倉にも出来た訳です。(逗子は平成3年)
逗子の歌碑には「作詞した土屋花情は逗子市役所の職員であった・・・、記されていますから・・・・、
鎌倉は・・・・・・、作曲家かな? 推測しながら新しいく出来た歌碑を確認しました。
 
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                                 昨年12月除幕した由比ヶ浜の歌碑「桜貝の歌」
 
私は、NHKラジオを四六時中かけています。
このブログを書き始めるころ「ラジオ体操」がかかります。
お昼になれば「昼の憩い」に耳を傾けます。
「ふるさと通信員」は私の大好きなコーナーです。
何れも終戦直後から始まった長寿番組で、還暦を越えています。
そして、ラジオ歌謡も忘れ難い番組でした。
終戦後の貧しくひもじい思いをしていた人々の心を明るくする薫り高い抒情歌でした。
ラジオ歌謡でヒットしたのが「桜貝の歌」でした。
桜貝の歌については、劇団四季の俳優沢木順」氏が「父八洲秀章のこと」を書いています。
又昨年12月盛大に序幕式が開かれました。
その折にも沢木順氏はじめ八州氏のご子息がお礼を述べられています。
 
 うるわしき桜貝ひとつ
 去りゆける君に捧げむ
 この貝は去年の浜辺に
 われひとり拾いし貝よ
 
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                               由比ヶ浜の海はもう春模様です。大島はもう見えません。
 
鈴木義光(沢木順氏の父)は北海道で生まれ・・・・上京します。
故郷で病に逝った恋人の面影を抱いたまま・・・・、
由比ヶ浜で桜貝を拾います。
 わが恋の如く悲しさやさくら貝 かたひらのみのさみしくありて
短歌を作ります。
この短歌を友人土屋花情に見せます。
花情は詩に膨らまします。
花情の詩に鈴木氏が曲をつけて・・・「桜貝の歌」が発表されます。
 
発表に際し、鈴木氏は八洲秀章と作曲家ネームを変えます。
亡くなった恋人の生前名「横山八重子」から一字(八)、戒名から一字(秀)を戴いたのでした。
作曲家八洲秀章氏はこの後もNHKラジオ歌謡を中心に、
「薊の歌」「毬藻の歌」など次々にヒットを飛ばします。
今はもう無くなってしまいました・・・
御成町に「まりも」、材木座に「アザミ」という名の有名な中華料理店がありました。
私は、何れも八洲秀章氏がお好きで、歌の名を借りたのではないのかな? 想像します。
八洲秀章氏は、歌も人柄も愛されていたのでしょう。
鎌倉市立小学校の校歌も多く作曲されました。
 
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   逗子の浪子不動尊。不動尊下の小さな公園の右の棕櫚の木の下に「桜貝の歌」歌碑があります。
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       「桜貝の歌」歌碑、向かいが葉山マリーナ、山の左端が逗子の住宅地「桜山」になります。
 
逗子の歌碑は桜色の御影石で造られています。
鎌倉の歌碑は白い御影石です。
関係者はこの御影石は国会議事堂や最高裁判所で使われた・・・・、白御影だ・・・、誇らしげでした。
私は、そんなことにたいした意味は無い・・・、感じます。
由比ヶ浜の海に今は桜貝は無い・・・・、海を綺麗にして、自然を回復して桜貝を戻そう・・・、
呼びかけています。
自然を回復する事には誰もが同感です。
でも、「今では桜貝は無くなってしまった!」 思うのは誤りです。
 
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                            2月から3月にかけて幾らでも桜貝は拾えます。
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                                           桜貝で遊んでみました。
一年中桜貝が拾える訳ではありません。
 
桜貝が育つのは砂浜です。
それは海水と真水が入り混じる汽水域で育ちます。
冬から春にかけて相模湾の沖合を南岸低気圧が通過します。
強い南風が大きな波を立てて・・・、砂浜を掻き混ぜます。
すると、砂に身を隠していた桜貝が由比ヶ浜に打ちあがるのです。
だから・・・・、冬が終わって春にかけて・・・・、桜花が咲く春の魁のようにして・・・、桜貝が拾えるのです。
ですから・・・・、南岸低気圧が過ぎ去った翌朝、由比ヶ浜を歩けば桜貝は沢山拾えます。
おまけに、千切れたワカメも拾えます。
鎌倉住民にとって、ワカメも桜貝も大切な「春の季語」なのです。
ですから・・・・、鎌倉の滑川や稲瀬川を綺麗にすれば・・・、桜貝はもっともっと増える事でしょう。
”桜貝の事、あんまり知らないんだ・・・・!” 素直な印象です。
実は良い日に行けば・・・、桜貝は容易に拾えるのです。
 
因みに、由比ヶ浜より材木座の方が桜貝は多く落ちています。
でも、逗子海岸の方が桜貝は多く拾えます。
逗子海岸の西側、浪子不動に一番近い砂浜には沢山の小貝の殻が打寄せます。
其処が最も拾いやすい場所です。
ですから・・・・、逗子の桜貝の歌「歌碑」が目安になります。
二つ歌碑が出来ましたが・・・・、
私は慎ましやかな厨子の歌碑の方が・・・・、元祖の方が好きです。
  
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            逗子海岸、海岸でトレーニングするのは逗子開成の生徒さんです。
 
最後に、私の処女作短歌を・・・・。
 
   由比ヶ浜 浜辺を辿り 桜貝
        かざしてみれば 幼き日見ゆる
 
   拾い集めし桜貝 真砂に置けば 潮騒に 
        まじりて聞こゆ 幼き日の歓声(こえ)
 
   光る海 彼方に霞む桜山
       波間に寄する 桜貝かな
 
   戯れに拾いてみれば 桜貝
        悲鳴微かに 割れて落ちけり
 
まあ、短歌は難しいけれど…、ゆっくりじっくり取り組むことに致しましょう。
 
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                                                  由比ヶ浜で
    
 
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熱帯睡蓮池の魚の交代(グッピーからプレコに)

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鎌倉岡本の大船フラワーセンターの前を通りました。
今年の3月30日には開園50周年を迎える・・・、ポスターが貼られています。
私は前身の農業試験場芍薬園の頃から親しんできましたから・・・・、半世紀も経ったのにしみじみします。
同時に、私も老けたもんだ!実感します。
隣のパネルには今見頃の花が案内されています。
温室内の「翡翠かずら」が咲き出した・・・・、
案内に誘われて入園してみました。
 
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                                大船フラワーセンターで咲き出した翡翠カズラ
 
翡翠かずらは熱帯植物です。
熱帯植物と言っても年中咲いているわけでは無く・・・・、春に咲くようです。
棚から三房、大きな花房が垂れていました。
でも、未だ蕾が色ずんだ程度で、見頃は桜の咲く頃でしょう。
 
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           大船フラワーセンター温室内の睡蓮池。今日の話題はこの池に棲む魚の変遷です。
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                   何時も睡蓮の花が咲いています。この水の中でも魚が生きています。
 
温室の奥に睡蓮池があります。
様々な睡蓮鉢が沈んで居て・・・、ブルー、赤、白と様々な花が何時も咲いています。
池の水面を見て、変化に気付きました。
以前来た時には無数のグッピーが居たのでした。
カラフルで、メダカに似た体でありながら・・・・、大きな尾びれを揺らして動き回っていました。
そんなグッピーが数を減らして目につきません。
グッピーに代わって黒メダカ(所謂日本メダカ)が占領しているのです。
 
誰かが餌を投入れたのでしょう。
小粒の餌に無数のメダカが食いついてゆきます。
浮き餌はメダカに押されて、池の縁や睡蓮の葉に押しつけられます。
そこで押し合いへし合いしています。
小網があれば…一気に数百匹のメダカが捕獲できそうです。
 
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    誰かが浮餌をあげました。メダカが押し合いへし合いをしながら浮餌を睡蓮の葉に押しやります。
    殆どが日本メダカです。グッピーは殆ど見えません。僅かにグッピーとメダカの交雑種が見えます。
    純粋グッピーは何処に行ってしまったのでしょうか?
 
 
“グッピーを減らして・・・・メダカを増やしたんだ” そう直感しました。
フラワーセンターの職員に訊いてみました。
すると・・・・、話はそんなに単純な事では無かったのでした。
 
フラワーセンターでは睡蓮池にグッピーをはじめ魚を放した事はありませんでした。
ところが、お客さんの誰かがグッピーを放流したのでした。
そうしたら・・・、温室の環境がグッピーに最適だったので・・・・爆発的に増えたのでした。
その後、矢張りお客さんが日本メダカを放流しました。
日本メダカも増えました・・・・・・。
先住のグッピーと日本メダカが共存共栄の状態になる筈だったのでしょうが・・・・、
実は、お客さんはまた違った魚を放流したのでした。
 
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排水パイプに大きなプレコ(鯰)がへばり付いています。池の壁には小さ目なプレコが居ます。
どれも、壁に生えた藻を食べているのです。
 
 
睡蓮池の壁には奇妙な魚がへばり付いています。
無気味で形で・・・・、甚平鮫のような模様が付いています。
大きな者は濃い灰色ですが、小さい者は茶色です。
5m程度の小さい者も沢山いて・・・・、皆壁にへばりついています。
 
この魚がアマゾン川に棲息している鯰で、“プレコ”と呼びます。
熱帯魚屋さんで売られていて・・・・、水槽に湧く藻を食べ尽くしてくれる・・・、お掃除やさんなのです。
多分、フラワーセンターに来たお客さんが増えすぎたプレコを放流したのでしょう。
我が水槽のプレコは大人しくて・・・・・、グッピーに悪さをしないだろう・・・、判断したのだと思います。
 
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                           これがプレコ(鯰)の成魚です。(ウィキペディアから転載)
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                        無気味なプレコに目が遭いました。
 
でも、プレコは巨大になりました。
ウィキペディアではディスカスやエンジェルフィッシュなど動きの鈍い熱帯魚を一緒に飼ってはいけない・・・、と書かれています。
食い殺すわけでは無いのでしょうが・・・・、体を舐められて鱗が剥がされてしまうのでしょう。
プレコが増えたので・・・・・、動きが緩慢なグッピーは減ってしまいました。
メダカは素早く逃げるので・・・・、結果的にグッピーが姿を消して、メダカの天下になった訳でしょう。
 
フラワーセンターでは・・・・“お客さんのマナーの悪さに眉を曇らせている”ものの、為す術は無いようです。
時折り、魚をすくって帰ろうとする人が居るそうです。
以前園内に沢山生えていた「雪持ち草」は全部お客さんに持ち帰られてしまったそうです。
「持ち帰る行為」自体が問題なので、こうした人には見つけ次第注意するそうです。
でも、睡蓮池に魚を放流するのは・・・・、見つけられないそうです。
 
プレコのお蔭で睡蓮池の青藻も減りました。
日本メダカよりもプレコの方が熱帯らしくて良いだろう…、そんな意見もある事でしょう。
功罪相半ばするのでしょうが・・・・、
一寸した・・・、悪げは無い行為でも生態系を歪めてしまいます。
「何もしない、そのままで・・・」観察する・・・、姿勢が好ましいのですが・・・・。
大船フラワーセンター内に「お魚引き取りコーナー」でも用意し、
ペットを放流しないよう指導する必要があるようです。
 
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草枯れた霜柱の「霜柱」

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庭先で見事に咲いてくれた菊も、寒風に吹かれ、霜が降りて、冬枯れしています。
菊は一年の最期を鮮やかに飾ってくれていただけに・・・・、枯れ切った姿は哀れを感じさせます。
ツワブキは、花の跡に種を残していますが・・・・・、深緑の葉っぱは艶々輝いて・・・、実に名前の通りです。
野に出れば、一面生い茂っていたセイタカアワダチソウも枯れ尽きて、悄然と立っています。
もう、綿毛も飛ばして・・・・、やる事はやった・・・・、そんな風です。
 
夏の間池の蓮は青々と生い茂って、見事な花をつけていました。
それが、葉っぱは破れて、全身枯れ尽きて、
茎は折れて、茎も種も水中に没しています。
まるで・・・・・野垂れ死にした小野小町を思わせます。
水没した蓮の種はあたかも「髑髏小町」のようです。
 
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     枯れたアメリカ栴檀草。この種はくっ付き虫なのです。畑の麦も育ってきています。
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                                ツワブキの種、未だ綿毛が崩れないでいました。
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    池の敗荷(やれはす)、破蓮(やれはちす)とも言います。
    凍てつく池に没した種は戦場の髑髏のように見えます。
 
 
私は、「虫記者」さんのブログ”越冬昆虫”を興味深く読んでいます。
卵や蛹で越冬する者が殆どだ・・・・、思っていたのですが成虫で越冬する種もある事を知りました。
越冬成虫はとりわけ美しいと感じました。
其処で・・・・、私も枯野に出て・・・・、越冬成虫を探します。
ヒヨドリが餌をあさっていた雑木林に、越冬成虫は居そうだ・・・・、
あたりをつけて探すのですが・・・・、素人の浅はかさで・・・、ちっとも見当たりません。
矢張り・・・、虫記者さんに実地指導を受けなければならないようです。
 
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                  水仙の根元には大きな霜柱が・・・・・(三溪園で)
 
矢張り・・・、素人には見当たらない。
それに・・・・、老眼が進んだのかも知れない・・・・・、
明日は眼鏡屋に行こうか?  寂しい思いがしてきます。
 
ふと見れば、枯草の根元に光るものがあります。
枯草の先を見れば・・・、未だ種が残っています。
そう、この植物は紫蘇の仲間なのです。
そして、光るものは氷です。
植物の名は「霜柱」です。
 
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     枯れ切った草の根元に光るものがあります。 氷柱のような…、霜柱のような・・・。
     枯れた紫蘇の根っこが水を吸い上げて・・・・、出来る氷です。
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                      伊藤博士はこの紫蘇を「霜柱」と名付けました。素敵なネーミングです。
 
紫蘇も菊と同じ宿根草です。
茎から上部は枯れてしまっても・・・・、根っこは生きていて・・・、
春になったら一気に芽吹こうと準備をしています。
根っこは地中の水分・養分を吸い上げるのが役割です。
霜柱の根っこも水分・養分を吸い上げます。
でも、肝心の茎は枯れてしまっていますから・・・・、
破れた水道管のように水分が噴出してしまいます。
それが、寒風で凍り付いてしまいました。
出来たのが「霜柱」です。
霜柱の名は植物学者伊藤圭介氏が付けられました。
 
枯れた茎や葉っぱは根っこを守る布団のようなものでしょう。
死んでも、役に立とうと必死なのです。
 
庭先の枯れた菊も、刈り取って燃やしてしまえばスッキリします。
加えて、枯れた菊は燃やすと芳香が漂います。
懐かしい香りです。
でも、このままにして置きましょう・・・、
もう一か月もすれば根元には小さな芽吹きが確認できる事でしょう。
 
素晴らしいものだ・・・、神々しいものだ・・・、
朝日に輝く霜柱の霜柱を見詰めました。
植物が美しいのは花ばかりではありません。
歳を取ると・・・・、しみじみそう思います。
 
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                             この枯葉の下には越冬成虫が居そうなのですが・・・。
 
 
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桃畑の福寿草(俣野で)

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花屋の店先には桃の花が目立つ季節になりました。
ようやく梅の花が咲き出しましたから・・・・、桃の花が咲き出すのは1箇月先の事でしょう。
鎌倉古道の通る俣野(横浜市戸塚区)の桃畑に出かけると・・・・、桃の小枝の伐採に忙しくしています。
未だ、堅い蕾ですが、桃の小枝を伐採して、ビニールハウスの中に入れて・・・・、
1週間もしたら咲き出すのでしょう。
 
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    このボウボウに伸びているのが桃の木、老夫婦二人で桃の小枝の伐採に忙しくしておいでです。
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   もう1か月すれば、こんな風景になります。彼岸桜や辛夷が咲きますが・・・、
   桃の木は花枝を伐採されていますから・・・・、みすぼらしい姿です。
 
農家総出で・・・・、忙しく働いています。
お爺ちゃんが、桃の木を根元近くから切り出します。
お婆ちゃんが切り出された小枝を束ねます。
束ねられた小枝は軽トラでビニールハウスの中に運んで、
バケツの中にでも生けるのでしょう。
花芽が膨らんだら出荷します。
 
桃の木は徒長枝を切り出されて・・・、慌ててまた芽吹いて・・・徒長枝を伸ばします。
徒長枝はまた翌年切り出されます。
桃の花芽は新しい枝先にしか付きません。
 
この桃の木は毎年枝を伸ばしては切り出され・・・・、満足に自分の体を花で飾る事は無い事でしょう。
少し、可愛そうな気もしますが・・・、それがこの桃の役割です。
 
桃の節句のお祝いには・・・・、桃の花が欠かせません。
小売価格は一枝500円程度でしょうから・・・・、
お爺ちゃん、お婆ちゃん共稼ぎの「桃花の収穫」も張り合いが出ます。
でも、大切にしている桃の木の花を咲かせる姿を見られないのですから・・・・、
因果というか・・・、無常なお仕事です。
 
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                                  早咲きした桃の花(大船フラワーセンターで)
 
桃花を栽培している農家に続く道には、毎年福寿草が見事に花をつけます。
多分、農家が縁起の良い花だから・・・・・、此処に咲かせているのでしょう。
真っ青な空から降り注ぐ陽の光を花いっぱいに受けようと、精一杯開いています。
春は黄色い花が良く似合います。
 
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      右端が桃を栽培している農家。畑の奥の木が桃です。花屋の店先に並ぶ桃花ですので・・・・一年生の徒       長枝がボウボウとして伸びています。まるで・・・、小型のポプラの木のように見えます。桃の木の下では農      家総出で桃の小枝を伐採しておいでです。「総出」と言っても、お爺ちゃんとお婆ちゃん二人です。
 
福寿草は和名で、多分江戸時代の園芸ブームの中で・・・・、江戸っ子たちが名付けたものでしょう。
長屋の主がご長寿で目出度い事だ・・・・・・!
ご長寿をお祝いして、来年も元気にお正月を迎えて欲しいものだ・・・・!
そんな思いを込めて・・・・、福寿草と名付けて・・・、盆栽仕立てにして・・・、栽培したものでしょう。
 
この農家の福寿草も・・・・、お爺ちゃん、お婆ちゃんの福寿をお祝いしている様に・・・、
今年も見事に咲いています。
 
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                                      禅寺の庭に咲いた福寿草(海蔵寺にて)
 
 
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藤沢毬藻の見える景色

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「緑の藻」と言えばアオコを思い浮かべます。
暖かくなった水中で大量の植物性プランクトンや藻が発生して、水面を覆い尽くしてしまいます。
水中の酸素が欠乏し、水生動物が酸欠して死滅してしまいます。
怖い現象です。
ところが、藻が丸いボールになれば「毬藻」と呼ばれ・・・・、人気者です。
阿寒湖や立山などに見られます。
 
池の氷も溶けはじめて・・・、薄氷になってきました。
池の縁には・・・、もう森赤ガエルが産卵し始めています。
この赤ガエルは小さいので、他の動物が動き出す前に散乱し・・・、手足を伸ばして比較的安全な森に身を隠すのでしょう。
その為に一番早く冬眠から覚めて・・・・、産卵します。
弱い森赤ガエルが生き残る知恵です。
 
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                         薄氷の張った池の底を見れば、もう森赤ガエルが産卵してあります。
 
此処は藤沢の新林公園(しんはやし)の池です。
溜池があって棚田が広がっていましたが・・・・、公園にするに際して溜池を池に造り替えたのでした。
池の縁にはラクウショウ(曙杉の仲間)を植えて・・・、公園のシンボルツリーにしました。
夏になればこの緑蔭で憩う市民の姿が見られます。
この樹下、あっちこっちにボコボコ土塊が盛り上がって来ています。
地中には一早く春が来て、モグラ君はもう動き出しているのでしょう。
人間だけが寒い寒いと着膨れして・・・・、動かないでいるのかも知れません。
 
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   藤沢新林公園の池の縁にはシンボルツリーのラクウショウが聳えています。 樹下の盛り上がった土塊は
   モグラの仕業です。もうモグラ君は活発に動いている・・・、その証拠です。池の水面が光っているのは氷が張っ   ているからです。
 
池の底には鯉が体を寄せ合っています。
その横には・・・・、緑の球体がゴロゴロ転がっています。
一見すれば毬藻のように見えますが・・・、毬藻より遥かに大きく手毬サイズです。
そして・・・・、毬藻に比べれば塊が緩い処が欠点のようです。
 
この藻はどんな形をしているのか・・・・、池に手を入れて掬ってみれば・・・、
細い細い春雨のような藻が絡んでいるのです。
仮に「藤沢毬藻」とでも名付けて見ましょう。
 
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    これが藤沢毬藻(筆者が無責任につけた仮称。正しい名をご存じの方は教えて下さい)
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  藤沢毬藻(仮称)は細い緑藻が絡んで球状になったものです。薄氷の下に沢山の気泡が見られます。緑藻の活発  な活動の結果排出される空気が藻を転がすので・・・球状になったものと推測します。
 
氷の下には沢山の気泡があります。
藤沢毬藻が呼吸して・・・・、その排気が泡になって昇って来て・・・、氷の下に溜まっているのです。
藻が丸く固まったのは・・・次のプロセスだろう・・・・、推論します。
 
緑藻が呼吸します。
呼吸が活発であれば・・・、その分沢山の気泡が発生します。
気泡が出来れば・・・、緑藻は浮き上がります。
不活発な緑藻は下に沈みます。
緑藻はクルクル廻ります。
何時しか緑の藻が絡み合って・・・・ボールのような形になります。
 
勿論、この季節は北風、南風が交互に吹きます。
その度ごとに緑藻は池の南に北に・・・、池の底を転がります。
転がる度に緑藻は絡み合います。
緑藻の呼吸と、風の作用によってボールが大きくなるのでしょう。
 
今朝は藤沢毬藻は池の北側に集まっています。
昨日は南風が吹いていたので・・・、藤沢毬藻は池の北側に吹き寄せられたのでしょう。
明日は南側に移動しているかもしれません。
 
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薄氷に陽射しが反射して・・・眩しいばかりです。
池の西にある梅林には早咲きの紅梅が咲き出しました。
この梅林は「思いのまま」という園芸種が中心です。
もう1週間もすれば満開になる事でしょう。
そのころになれば、森赤ガエルもオタマジャクシになっている事でしょう。
もう、春は直ぐそばに来ています。
 
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                      もう1週間もすれば新林公園の梅園は満開になる事でしょう。(昨年撮影)
 
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曽我丘陵の梅林

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身近なところの梅林と言えば、小田原の曽我梅林です。
例年は2月中旬に満開になります。
満開の梅林の中で、武田流の流鏑馬が実施されます。
昨年も観たのですが・・・・・、今年は梅の開花が遅れ、流鏑馬は蕾の梅林で実施されたようです。
流鏑馬から2週間遅れ、満開を待って2月24日(日)家内と出かけました。
  (昨年の流鏑馬は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44730385.html)
 
国道255線の両側に梅林が広がっています。
梅の数は3万5千本という事ですから、神奈川県最大です。
殆どが実梅(白梅)ですから・・・・、一面真っ白です。
所々に紅梅が入り混じっています・・・・、住宅やお寺の庭に植えられた花梅です。
小田原の曽我一帯に実梅の栽培が盛んになったのは、江戸時代になってから・・・・、
箱根の峠越えをする旅人に売られたからでしょう。
小田原には梅を原料にした漢方薬や和菓子が今も売られています。
もう一つはこゆるぎ浜で行われていた製塩業も見落とせません。
 
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                                          梅林の彼方に富士山が遠望できます。
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                      曽我丘陵の細道から梅林を遠望する。正面が箱根山、左に天城山。
 
梅林の中にモデル散歩コースが出来ています。
此方も良いのですが・・・・、一番は曽我梅林を見下ろす丘陵を歩くコースです。
曽我梅林の中で最も広い別所地区から、二宮尊徳遺髪塚の脇を通って中井から大磯に続く道です。
その西斜面からの眺めが素晴らしいのです。
真正面に全身冠雪した富士山が眺められます。
富士山の裾が南北に広がっています。
南の裾を辿れば箱根の山から天城山・・・・、伊豆半島に続きます。
北の裾を辿れば丹沢の山脈が続きます。
眼下に見えるのが酒匂川の河岸段丘で、手前側が曽我地区で、梅林が広がっています。
川の向こう岸は南足柄です。
 
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                                  梅林の中の緑は蜜柑です。果樹農家が連なっています。
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                                            梅林の間から富士山が見られます。
 
時は12世紀、平安時代の末期でした。
相模・伊豆地方でも豪族が割拠して、所領争いが絶えませんでした。
伊豆では工藤祐経(すけつね)と伊東祐親(すけちか)が争います。
工藤祐経は伊東祐親を暗殺しようと矢を射ます。
放たれた矢は祐親をかすめて、河津三郎に命中します。
河津三郎は妻(満江御前)と十郎(5歳)五郎(3歳)を残して亡くなります。
満江御前は子供二人を連れて曽我佑信と再婚します。
子供達は曽我十郎・曽我五郎として成人します。
母子三人、憎き工藤祐経を討とうとしますが、チャンスは巡ってきません。
一方工藤祐経は源頼朝の陪臣として出世していました。
 
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      路傍の双体道祖神、黒いのは左義長の火で焼けたから・・・、典型的な相模スタイルです。
      この辺りには数多く祀られています。
 
1192年、源頼朝は鎌倉幕府を開きます。
その翌年、富士の裾野で大掛かりな巻狩りを催します。
この知らせを聞いた曽我兄弟は絶好の機会と・・・・・・、巻狩りの一行に潜り込んで・・・、
工藤祐経の命を狙います。
「我等は河津三郎の息子十郎・五郎なり!亡き父の積年の怨みを果たしに参上!」
爆睡していた工藤祐経を討ち取ります。
十郎は駆けつけた祐経の家臣に切られてしまいます。
五郎は捕縛され源頼朝の面前に曳き立てられます。
 
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                                              広重作、曽我物語図。
源頼朝は18年もの間仇討を志した五郎の助命を考えますが・・・・、
祐経の遺児の懇願を受け入れ五郎の斬首を命じます。
以来、曽我兄弟の仇討は人気になり、全国各地にそのお墓と言われるものが散っています。
有名なのは箱根芦之湯にある五輪塔です。周囲の石仏群と合わせて重要文化財に指定されています。
そして、曽我の城前寺には十郎・五郎の兄弟のほか、継父祐信、母満江供養墓が祀られています。
横浜戸部の満願寺を含めて・・・、全国に18もお墓があるそうです。
仇討大好き日本人の原型が曽我物語にあるのです。
 
曽我丘陵からは曽我物語の総ての場面が一望できます。
そして、この丘陵の細道を辿れば、大磯に出られます。
大磯には十郎の恋人虎御前が住んでいました。
十郎は山道を辿って、虎御前との逢瀬を急いだことでしょう。
 
美しい景色、香しい梅の花、幾つもの伝説に、古くからの石仏等・・・・、
辿れば楽しい「曽我丘陵」の道です。
 
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                                                      大磯鴫立庵の虎御前像
 
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      広重の東海道53次、大磯虎ヶ雨の図。
      大磯宿では曽我兄弟が本懐を遂げた5月28日は虎御前の涙雨が降る…と言われました。
 
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桜貝に願うこと(葛原岡神社で)

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鎌倉をハイキングする人は、北鎌倉駅を降りて、東慶寺から浄智寺を通って、山道を辿ります。
頂上が葛原岡(くずはらがおか)です。
真っ直ぐ尾根道を歩けば、源氏山から大仏裏に出られます。
足元の化粧坂を下れば銭洗弁天から海蔵寺に降りられます。
左に折れて尾根道を北上すれば、建長寺裏から瑞泉寺まで行ける天園ハイキングコースに繋がります。
葛原岡はハイキングコースの交差点です。
 
明治2年(1869年)明治天皇は護良親王(後醍醐天皇の皇子)を祀る事を命じます。(現、大塔宮鎌倉宮)
更に明治20年(1887)には後醍醐天皇の忠臣であり、葛原岡で処刑された日野俊基に従三位を授けます。
同時に葛原岡神社が創建され、日野俊基郷の御霊が同社に祀られました。
葛原岡神社は大塔宮の末社に位置します。
 
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                         葛原岡、ハイキングでお弁当を開くには最適です。右が葛原神社。
 
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                                                  新築された葛原岡神社の本殿。
 
護良親王も日野俊基も非業な死を遂げました。
死後約600年を経て神社が出来て、御霊が神に祀られました。
非業な死を遂げて・・・・、その御霊が神に昇るのは・・・、菅原道真(天神様)や平将門(神田明神)など数多くあります。
何れも人気で・・・・、学業成就、江戸総鎮守として参拝客で賑わっています。
でも、日野俊基では・・・・、知らない人も多いし・・・・、参拝客を集めるにはインパクトに欠けるようです。
 
今でな「恋愛成就」の神様・・・、としてアッピールしています。
新築された社殿の入口に二つの石が置かれています。
一見すれば伊勢の二見ヶ浦の夫婦岩を模しているようです。
立っている岩が男岩、寝ている岩が女岩です。
二つの岩を結んだ注連縄は、もう赤い糸で見えなくなってしまっています。
 
社務所ではハートの形をした絵馬が用意されています。
絵馬には「私はサザエです、マスオさんと結ばれたいのです!」 願文を書けるようになっています。
筆ペンで名前を書いたら・・・・・、絵馬は壁に吊るして・・・・、
5円玉を赤い糸で結わえて夫婦岩に吊るします。
 
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                                  伊勢の二見浦を模したかのような夫婦岩。
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                               注連縄には赤い糸で結ばれた5円玉、50円玉が吊るされています。
 
更に、桜貝のペンダントも用意されています。
桜貝は由比ヶ浜で拾ったものです。
触ればパリッと割れやすい・・・淡くてもろい桜貝ですから・・・・、
樹脂で固めて・・・・、ペンダントにしてあります。
このペンダントを胸からかければ・・・・、恋心が消えずに・・・、メラメラ燃え続ける・・・、そんな気がしてくるでしょう。
 
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      葛原岡神社の桜貝のペンダント。
     割れては困りますから樹脂でしっかり固めてあります。奉志料1000円です。
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   由比ヶ浜を歩けば桜貝は沢山拾えます。ただ、季節は春になる・・・今頃だけです。
   だから・・・・、葛原岡神社さんは一年分を拾っておかなければなりません。
 
二見ヶ浦はハマグリの産地です。
近くの桑名は焼き蛤で有名です。
古代から日本人は貝遊びをしていました。
遊びの名前は“貝合わせ”・・・、
二枚貝の表と裏(上と下)を合わせて遊ぶのでした。
 
平安時代初期は貝の美しさを競う遊びでしたが・・・・、次第に変化し発展します。
二枚の貝が唯一一致する事から・・・・、一致する貝を探し当てる遊びになり、
二枚の貝に、源氏物語や伊勢物語の絵を貝に描きました。
その絵合わせを競いました。
これが…、百人一首(上の句を読んで、下の句の札を競って取る)カルタの始まりでした。
 
江戸時代には嫁入道具になります。
貝のペアは一つしかない事から・・・、
貞女は二夫に交えず・・・・、嫁入りする娘に適したお道具でした。
トランプの神経衰弱のようにして遊んだようです。
360組もの貝を用意したと聞きますから・・・・、一通り遊び終わるには相当の時間を要した事でしょう。
 
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   二見浦のハマグリで始まった・・・貝合わせ遊び。(写真は徳川黎明会所有、学研百人一首から転載、源氏物語)
 
こうした1000年を超える貝合わせの遊びが・・・・、桜貝のペンダントになったと思います。
勿論、桜貝の美しさを・・・、恋愛をかなえたい・・・、いちずな思いに託したら・・・・いいな!
思ったのは大塔宮の神主さんのアイディアでしょう。
 
私はこんな素敵なアイディアは和泉式部(京都/貴船神社)や小野小町(京都/下霊神社ほか全国にあります)にこそ相応しいな・・・・・、思い夫婦岩を見詰めました。
荒ぶる武者には桜貝は不似合です。
 
素敵な女性が絵馬をかけています。
女性が懸けるものとばかり思っていましたが・・・・、
男性が懸けるものも多い事が判ります。
相思相愛の男女が・・・・、“この愛永遠に・・・・” 願うものも多くあります。
三者三様・・・・・、日野俊基郷もあの世で大変な事でしょう。
“主は武者である・・・、恋心は苦手でござる・・・・”・・・と。
 
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                 360個もの貝と、貝を治めた貝桶・・・、雅な嫁入り道具でした。(出典前記と同じ)
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         由比ヶ浜で無邪気に戯れる少女達。でも恋すれば・・・、桜貝のペンダントが似合いそうです。
 
 
【追記】由比ヶ浜の桜貝の歌は次に書きました。: http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47069566.html
 
 
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クリスマスローズの万華鏡

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クリスマスローズは乾いた土で、日陰を好みます。
我が家も建築した頃はチューリップやパンジーが咲いていたのですか、
歳月が経って、樹木が大きくなる、育ち難くなってしまいました。
クリスマスローズを一株欲しいな・・・・、思っていますが・・・・、中々手に入りません。
 
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                       展示室は春色が満開で・・・・、保育園児も歓声をあげています。
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                        白かったクリスマスローズも春になると紫色に変わって行くようです。
 
誰が、どんな思惑でクリスマスローズのネーミングをしたのか・・・・、不思議です。
薔薇には似ていませんし、咲くのもクリスマスではな無くて春先です。
でも、人気で鎌倉の禅寺にも良く見られ・・・、似合っています。
お寺ですからクリスマスローズ何て呼ばないで・・・、素敵な和名をつけたら良いのに・・・、思いますが、
茶花としても人気で・・・、「寒芍薬」とか「初雪起こし」なんて呼ばれるんだそうです。
鎌倉のご婦人が庭先のクリスマスローズを一輪、花入れにさしたりすれば・・・・、
侘助椿よりお似合いかもしれません。
 
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                        大船フラワーセンターに近い慈眼寺のクリスマスローズ
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                              鎌倉のクリスマスローズ愛好会の展示から・・・・。
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そんな事からでしょう、毎年2月末から大船フラワーセンターでは「クリスマスローズ展」が開かれています。
鎌倉のクリスマスローズの「愛好会」が展示しているのです。
様々な種があって・・・・、色々な顔をしているのが魅力です。
寒い中でも凛として咲く姿も・・・・、良いもんです。
そして、俯き加減に下を向いて咲く姿も・・・、乙女の恥じらいを思わせ・・・、可愛いものです。
愛好者が夢中になるのも良く解ります。
屹度、こう配をしたり、株分けしたり・・・・、楽しみも多い事でしょう。
 
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私は屈んで花を見ます。
カメラのレンズを下から上に向けて、花の芯を覘くようにして・・・・、シャッターを押します。
脳裏をかすめます・・・・、女性のスカートの中を盗撮すれば犯罪です。
犯罪者の心理はこんなものだろうか・・・・・?
でも、俯いたクリスマスローズは・・・・・、下から顔を覘かれても・・・、嬉しそうです。
女子高校生のスカートが極端に短いのも・・・・・、“見て欲しい心理”・・・、かも知れません。
 
クリスマスローズ展では、花の下に鏡を置いたりしています。
わざわざ腰を屈めなくても・・・・、じっくり美しい花を見てくださいな!
そんな意図でしょう。
水盤の上に花を浮かべて見せる・・・・工夫もあります。
綺麗に咲いてくれた花を充分に見てくださいな・・・・、展示者の気持ちが有難いものです。
 
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                       植木鉢の下に鏡を置いて・・・、鏡に映ったクリスマスローズの花。
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                                                 水盤に浮かべたクリスマスローズ
 
そんな気持ちの極め付けが万華鏡です。
水盤に浮かべた花を、万華鏡で覗いてみる仕掛けです。
鏡は三角形、三面に映ります。
水盤の上を万華鏡を移動させれば・・・・、クリスマスローズはワルツを踊るようです。
これは楽しい・・・・!
しばし、万華鏡に憑りつかれてしまいます。
 
美しい花を、楽しく見せる・・・・・、工夫に感心しました。
 
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辻村植物公園の「ユーカリ」の大樹

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小田原駅の新幹線口から西側は丘陵です。
丘陵を車で登って、10分足らずの位置に「辻村植物公園」があります。(駐車料500円、見学無料)
2月末、もう梅園が見頃であろう・・・・、推測して出かけました。
 
辻村植物公園は小田原の素封家「辻村氏」が経営する梅園でした。
現在の小田原駅の辺りにあったのでしたが、駅を誘致するため現在地5haに移ったのでした。
辻村農園は梅林の経営のほか、西洋草花の種子や球根を栽培し、通信販売で商っていました。
現在の大和種苗や坂田種苗のような経営をしていた先進的な企業だったのでした。
昭和61年農園は小田原市に寄贈され、市が整備して平成2年に植物公園として公開したのでした。
 
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                                   一面の梅園、彼方に小田原の海が眺められます。
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                                 70歳にもなるとどの梅の木も風格が出てきます。
 
勿論、梅園が最も見事なのですが、生憎未だ二分咲きといったところです。
屹度、今週末(3月10日頃)が満開になる事でしょう。
勾配のある丘陵の低い場所には竹林があります。
高い所が梅園です。
竹林の向こうには小田原の海が見渡せます。
丘陵の尾根に登れば西側に丹沢の山脈が見渡せます。
雪をかぶった山脈はまるでミニ日本アルプスのようです。
辛夷の大樹があって、無数の蕾が付いています。
辛夷が咲いたら・・・・、見事であろう、想像されます。
 
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              尾根に登れば丹沢の山脈が見渡せます。山裾を走っているのが東名です。
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         辻村植物公園の西隣りは小田原市営の遊園地です。(無料) 若い世代は遊園地、シルバー          世代は植物園に出かけます。(甘酒の無料接待もあります。先着100名でした)
 
植物公園の略中央を道路が通っています。
道路の東側が西洋植物園になっています。
中央に太陽の丘があります。
もう、眼下に相模湾が広がっています。
太陽の丘の略中央に巨大な椅子があります。
どんな意味かは解りかねますが・・・・、まるでガリバーの椅子のようです。
椅子の周りに大きな石が環状に並んでいます。
大湯環状列石(ストーンサークル)でしょう。
糸杉の並木も続いています。
ゴッホの油絵のようにうねりながら・・・、天空に梢を伸ばしています。
 
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                              大きな糸杉の並木。ゴッホの絵を思い起こします。
 
圧倒的に大きなのがユーカリの樹です。
植物園が出来てから70年ですから・・・・、70年でユーカリはこんなに大樹に育つのか・・・、驚きです。
樹皮はツルツルです。
北風が吹いて・・・・、暖かいオーストラリアからこんなところに植えられて寒かろう・・・・?
心配ですが・・・、ユーカリは寒さにも強いのでしょう。
こんな大木では・・・、コアラも登るのに大変であろう・・・、推測します。
 
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        太陽の丘、大きな椅子がユーカリの傍にあります。周りは太陽環状列石が周っています。
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                  ユーカリの大樹。70歳でこんなに大きくなるとは驚きです。
 
パンフレットには6月ごろ白い花が咲くそうです。
写真で見る限り茶筅のような形をしています。
アロマテラピーで使われるユーカリですから・・・・、どんな香りがするのか興味があります。
6月になったら・・・、また訪れる事にしましょう。
 
 
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鶯の初音に誘われて(藤沢小池邸の雛祭り)

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3月になって1日、春一番が吹きました。
今年は未だ鶯の初鳴きを聞いていません。
是非・・・、今日こそ聞きたいものだ!
思いながら・・・・、3月2日藤沢川名の新林公園に出かけました。
もう、紅梅白梅は満開です。
遅咲きの”思いのまま”は、一分咲きと言ったところです。
 
梅林には人っ子一人いません。
私の姿を目ざとく見つけて・・・・、6匹程の台湾リスが集まってきました。
誰かが餌付けをしているのでしょう。
私がレンズを向けると・・・、レンズを掴まって・・・、齧ろうとします。
彼らは・・・朝一番の食事を・・・・、人からお貰いする・・・、そんな習慣が出来ているのです。
困った人が居るもんです。
 
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        ようやく咲き出した藤沢新林公園の梅の花。 写真の右端に小池邸があります。
        筆者は鶯に誘われて・・・、小池邸の裏に行きました。
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                                  小池邸の全景、日陰の梅の木は未だ蕾です。
 
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         俺に朝の食事を呉れ・・・、おねだりする台湾りす。 餌付けをする人間に問題があります。
 
鶯の初音・・・・、期待通りに響いてきます。
“ホー・ホケキョ、ホー・ホケキョ” 啼く声は「法・法華経」と聞こえたのでしょう。
尾根の方から・・・小綬鶏の声も響いています。
“コッチコイ・コッチコイ”は「こっちに来い」とも、「母ちゃん可愛い」「母ちゃん可愛い」とも聞こえます。
雄の求愛の鳴声ですから・・・・・、「母ちゃん可愛い」の方が適当かも知れません。
 
鳥は自由奔放に鳴いているのでしょうが・・・・、人間が好き勝手に解釈します。
これを「聞きなし/聞做」と言います。
木の葉ずくは「仏法僧・仏法僧」と鳴くと言います。
日本人の「聞きなし」は仏教関連が多いようです。
お経の意味も解らずに・・・・、有難がって聞いているんですから・・・・、鶯や木の葉ずくの鳴き声の方が、
よっぽど有難い、尊いものです。
屁理屈はさておき、鶯の初鳴き一声で、
今日一日、この春を通して良い事が続きそうな気がしてきます。
 
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              小池邸の裏手、敷石があって、土台は栗の木で・・・・、板間が見えます
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   鶯の初鳴きはこの枇杷の木の中から響いてきました。
   6月になれば見事な果実をたわわにつけてくれます。
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                            もう、マントを脱いて、花を咲かせ始めた枇杷の木です。
 
鶯の鳴き声は梅の樹からではなく・・・・、民家(小池邸)の裏から聞こえます。
そっと、民家の裏手に回ります。
井戸があって、薪が積み上げてあって・・・・、そのわきにある、枇杷の大木の中から聞こえています。
みれば、枇杷の花がもう分厚いマントを脱いて、花をつけ始めています。
枇杷の樹には屹度沢山の昆虫が巣食っていて・・・、越冬しているのでしょう。
鶯はそんな昆虫を捕食しようと・・・この樹の梢に隠れているのでしょう。
メジロは見つけられても、鶯は見つかりませんでした。
 
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     奥座敷、次の間に飾られた7段飾り。こんなお部屋ですとお雛様も見栄えが良いものです。
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        大正時代につくられ・・・・、未だ100歳前後のお雛様です。持ち主の小林さんはお元気で居られ         るかもしれません。明日3月3日は草笛教室が開かれる予定です。(指導元玉川学園教諭佐          藤邦明氏、10時~12時半) お雛様も沢山子供が集まって・・・、喜ばれることでしょう。
 
小池邸は大船に近い藤沢・柄沢の名主の屋敷でした。
天保12年(1841)に棟上げされた、立派な建物です。
昭和58年(1983)新林公園に移築されました。
52坪もある寄棟、茅葺の格調高い民家で・・・、農家の屋敷というより武士の屋敷です。
 
縁側から客室を覘くと・・・、お雛様が飾られています。
立派な7段飾りです。
藤沢には明治創業の福田屋人形店もあるお雛様には縁が深い街です。
案内には平本さん、小林さんが大事にされていたお雛様が寄贈されたものだそうです。
天井が高い和室に・・・・、縁側に臨んだお部屋に・・・、飾られると見栄えも良いものです。
お雛様は良いもんだ・・・、つくづく思います。
 
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      一間もある広い縁側、ここに出てお食事をしたり飯事遊びをしたものでした。
      ままごとの飯もおさいも 土筆かな  (星野立子)
 
雛祭りは3月3日ですが…、それは陰暦の事です。
陽暦に直せば4月の初めになります。
桃は満開・・・、桜も咲き出す季節になります。
お寿司や煮しめを重箱に詰めて・・・、野原に出て食べたのでした。
我が家にも7段飾りがあって・・・・、縁側に御馳走を並べて・・・・、お祝いしながらいただいたものでした。
「女の子は大事にされていいなあ!」
こんな印象は・・・・、男系家族の僻みでしょうか?
私は幼児の頃から思い続けてきました。
原因を作った父母も逝って早15年を過ぎました。
 
 
 
今日は3月3日、横須賀芦名の淨楽寺では運慶作の阿弥陀三尊像、不動明王像の御開帳があり、
近くの淡島神社では流し雛も催されます。
肝心のお天気はどんより曇っていますが・・・、ブログを早く書き終えて・・・・、早めに出かけましょう。
 
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                   少し大きすぎる(立派過ぎる)自在鉤のある板間
 
 
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