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百日紅の花(鎌倉本覚寺にて)

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百日紅の花が町に目立ってきました。
朱色の花は盆入りに咲き始め暑い最中から彼岸の中日辺りまで、長い間咲き続けます。
百日も赤い花が咲き続けるので、百日紅の漢字を与えたのでしょう。
「日本人は”さるすべり”、”猿滑”」と呼んでいます。
樹皮を見ればツルツルなので猿滑、花を見れば長く咲き続けるので百日紅です。
 
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(今年は百日紅も当たり年、先ずは小町辻の本覚寺さんから。此処が鎌倉の咲き始めになります)
 
 
 
私の生家にも百日紅の古木が咲いていました。
その木の根元に茣蓙を敷いて、近所の子供と「おままごと」をして遊びました。
女の子が用意した小さなお茶碗に百日紅の花を山盛りにします。
「はい、お父さん、今日はお赤飯ですよ・・・・」
「今日は何のお目出度だったか・・・・?」
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百日紅の花は落花しても腐る事も無く、赤いままです。
学生時代、古美術の友人と、京都に何度も旅行しました。
地蔵盆の頃でした。
南禅寺から永観堂に、汗を拭き吹き廻りました。
京都の暑さは尋常ではありません。
枯山水の砂の上に、庭の緑苔の上に真っ赤な花が散って、それは綺麗でした。
「何で、京都の百日紅は美しいのだろう?」思ったものでした。
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(百日紅の樹下をママチャリで急ぐお母さん)
 
 
今年の夏の暑さは異常です。
毎日のように「熱中症で死亡した」報道されています。
それでなくても、老人は夏の暑さ、冬の寒さに耐えられないもの。
夏には忌中が多くなります。
  百日紅 町内にまたお葬式.  (池田澄子)
百日紅の強い生命力、鮮やかな色彩。
それに比べて、人間の命のはかなさ、黒装束の会葬者、
鮮やかなコントラストです。
 
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(本覚寺山門から本堂を望む。)
 
 
私の祖母は感の強い人でした。
暑い盛りに突然私に呟きました。
「ああ、誰かがお寺にご用だよ・・・・」
何があったか訊ねると
「今、風も吹かないのに、百日紅の花が散っただろう。人が通って、本堂に昇ったのだよ。ガラス戸が光っただろう・・・・・。」
暫くすると、連絡が入りました。
「亡くなりました。通夜、本葬のご相談をさせてください」  と。
 
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(庫裏を背景に、鮮烈の生命力を感じさせる百日紅)
 
京都には一歩譲っても、鎌倉には百日紅の見事なお寺が数多くあります。
先ず、最初に咲くのが鎌倉小町辻に近い「本覚寺」さんです。
このお寺の比企谷から名越方面の人が、鎌倉駅に向う途上にあります。
当り前のように、境内を横切って駅に、街中に向います。
人達は、つい先日までは栴檀の花を見上げ、今は百日紅の花を見上げながら、蝉時雨のなか歩を急ぎます。
今年は、此処十年来で最高の花です。
屹度、暑さが極まっているからでしょう。
南国生まれの百日紅です。
気温が高まれば高まるほど花数が増えて、色味が濃くなる事でしょう。
  百日紅 散れば咲き 散れば咲きして 夏すがら (拙作)
 
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(左が夷堂、手前に栴檀の古木もあって、境内を囲っています。この木が蝉時雨に・・・)
 
「何故、百日紅をお寺に植えるのだろうか?」
不思議に思ったことがあります。
第一には、花が綺麗だから。
お盆、彼岸の間中咲き続けるから・・・。
それ以上に、生命力旺盛な花がお釈迦様の聖木「むゆうじゅ(無憂樹)」を思わすからだと想像します。
無憂樹はお釈迦様生誕のお庭に咲いていた花でした。
仏教は暑いインドで発祥した宗教です。
悟りは「菩提樹」の樹下で、逝去は「沙羅双樹」の樹下で、そして生誕は「無憂樹」の樹下でした。
吉祥事は大樹のピラミッドパワー下で起こりました。
しかし、いずれの樹も日本には育ちませんでした。
そこで、それぞれに「水木」「夏椿」「百日紅」を充てたと想像します。
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(山門の仁王像、傷みが激しく光背の雲のデザインも傾いてしまいました)
 
南禅寺の虎の子渡しのような名庭こそ鎌倉にはありませんが、百日紅の名木は数多くあります。
極楽寺、永福寺、おんめさま、本興寺(今年は本堂工事中)、大長寺、龍口寺、円久寺、海蔵寺、宝戒寺・・・などなど数え切れません。
今年の暑さは蓮の花も見事に咲かせました。
百日紅も同じ南国生まれ・・・・見事に咲いて当然でしょう。
これから秋口まで、百日紅を楽しんで過ごしましょう。
 
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(本覚寺三門前、滑川際の掻き氷屋さん。京都も鎌倉も氷屋さんめぐりが楽しみです)
 
 
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天水桶はビオトープ(鎌倉宝戒寺にて)

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「今夏は暑いので百日紅の花が見事です」、昨日本覚寺を案内しました。
では、千路説法跡を通って、500mも北上した宝戒寺の百日紅はどうかな、参詣してみました。
案の定、僅かに開花を始めたばかりでした。
2週間は遅れているでしょう。
どうして、開花がこんなに違うのだろう?
不思議です。
開花が、バラバラである。
だからこそ百日紅は百日も咲いている、印象があるのかもしれません。
「桜」に儚さに比べれば大違いです。
 
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 (宝戒寺太子堂は百日紅に囲まれています。もう半月すれば一面真っ赤な百日紅に囲まれる事でしょう)
 
ご住職が、バケツに水を汲んで、天水桶に水を満たしておいでです。
太子堂の後ろに水道栓があって、二度三度往復されました。
天水桶は本堂前、左右にあります。
本堂の屋根に降った雨が樋(トヨ)を伝って、天水桶に溜まる仕組みです。
でも、最近の干天続きです。
桶の水位が下がったので、足し水しておいでです。
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      (向こうが宝戒寺本堂、手前が天水桶)
 
天水桶の中を覗いてみました。
それが、美しい小宇宙でした。
向って左の天水桶には睡蓮が生けられていて、深紅の花を三つも咲かせています。
右の天水桶は松藻(金魚藻)が生けられています。
こっちの金魚藻は白い小さな花を咲かせています。
そして、どちらの天水桶もメダカがスイスイ泳いでいます。
桶の壁には小さなタニシのような貝もいます。
ボウフラ退治、水を綺麗にする、みんな役割を持って、小宇宙の大切なパーツになっているようです。
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仏教が日本に伝わって、戒律を教えました。
「戒」は在家の者が守らなければならない、「律」は僧侶が守らなければ行けない道徳規範のこと。
その第一が不殺生戒(ふせっしょうかい)でした。
「 生き物を殺してはいけない。」
戒律は日本人誰しも共感しました。
神道の教えの第一も同じでいたから・・・・・。
「何だ!外来の仏教も俺達が信じてきた神道と変らないじゃないか・・・・」
誰しも思ったことでしょう。
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(松藻の花)
 
「不殺生戒」 の教えを行為で示したものが放生会です。
お寺の行事でもあり、神道の行事でもあります。
私が単身赴任していた博多の町では、彼岸になると筥崎宮で「放生会大祭」が開かれます。
「生きとし生けるものの生命を慈しむのは八幡大神の御心」
「実りの秋を迎えて海山の幸に感謝する」
そんなお祭です。 
彼岸を過ぎれば河豚の季節です。
 
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                                             (メダカが泳いでいました)
 
 
 
宝戒寺の天水桶も命を愛しむ心の表れでしょう。
勿論、天水桶は何処のお寺にも用意している「初期消火用の防火用水」です。
「火事だ!」
判れば、天水桶に溜まった水をバケツで運んで消化します。
本堂左には消火栓があって、放水銃も設備されています。
でも、天水桶のほうが緊急時には役立つかもしれません。
 
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何で「天水桶」と言うのかな?
「雨水桶」の方が適切なような気がする・・・・!
思って調べてみました。
すると出ていました。
高野山金剛峰寺の天水桶が。
屋根の大棟の上に大きな桶が設置されています。
此処に水を溜めていました。
 
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金剛峰寺大棟に載せられた天水桶
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金剛峰寺本堂(何れも高野山金剛峰寺HPから転載)
 
金剛峰寺の本堂は「こけら葺き」です。
「こけら」とは薄板の事で、杉、サワラ、ヒバ、栗の木などを薄く剥いで板にして、屋根材とします。
軽くて、美しくて、和様建物には欠かせん。
でも、落雷などで火事になりやすいのです。
そこで、屋根の最上部に防水桶を用意したのでしょう。
 
「お寺を火事から守りたい」熱意と
生命を愛しみたい、愛情と
エコな生き方が
天水桶に集約されていました。
天水桶はビオトープです。
 
宝戒寺の天水桶を爪先立ちしながら、レンズを向けていると
和尚さんがまたもう一杯、バケツで水を運んできました。
笑いながら・・・・・。
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                                          (天水桶に水を足している和尚さん)
 
 
 
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秋の田村草、名前の謂れ(貞宗寺にて)

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鎌倉植木の貞宗寺は徳川家ゆかりの尼寺です。
徳川家康は「お愛の方」を寵愛します。
二人の間に男子が産まれ、二代将軍徳川秀忠になります。
お愛の方の生母は大奥のお年寄り役となり「貞宗院」と呼ばれます。
 
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                                    (貞宗尼御霊屋/貞宗寺)
 
貞宗院は孫が二代将軍になると、鎌倉植木の玉縄山に私邸を建て、隠居します。
そして、その遺言に従って私邸は尼寺「貞宗寺」になります。
貞宗寺が優しく、山野草が咲き乱れるのは、こうした歴史があるからです。
私達は貞宗尼が歩かれたと思う山道を辿りながら、山野草を楽しみます。
 
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     (貞宗寺の裏山は山野草のスポットです)
 
竹林の中に緋扇の花が鮮やかです。
浦島草も夏になると大きな葉っぱだけになってしまいます。
その脇に、青紫蘇に似たブルーの花が咲いています。
一つ一つの花は5ミリほど、とても小さいのですが、茎の先端にビッシリついています。
花は小さく、アップすればとても可愛い姿です。
被り物をした尼さんが合掌しているようにも見えます。
家内も私も名前は知りませんでした。
 
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                (貞宗寺本堂の裏、朱色の花は緋扇、ブルーの花が今日の話題)
 
 
 
その花の名前を教えてくれたのが舞岡公園事務長の小林さん。
この叔母さんは里山の生態系についてはとても詳しいのです。
「ああ、今道端に咲いている青紫蘇のような花、あれは”秋の田村草”ですよ」
私の立て続けの質問に答えられます。
「日本サルビアとも呼ばれます。紫蘇科の植物ですが絶対食べてはいけませんよ。」
「春の田村草、夏の田村草、秋の田村草、田村草と名が付く山野草は種種ありますが、別物です。田村草の名前の由来は解りません」
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     (舞岡公園、路傍の”秋の田村草”)
 
 
「何で田村草なの?名前の由来は?」
解らないとな言われると、調べたくなるのが私の性質です。
インターネットで皆がどう考えているのか?調べてみました。
「田村草」は「多紫草」が謂れだ、意見もありました。
紫と言うより青ですし・・・・どうも納得行きません。
 
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     (露草)
 
 
清水寺の山門を潜ると田村堂の前に出ます。
朱塗りの間口、奥行き三間の小さなお堂です。
清水寺の開山、坂上田村麻呂を祀った、開山堂です。
 
世阿弥はこの田村堂を素材に「謡曲・田村」を創作します。
そのあらすじを辿ってみます。
 
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                               (謡曲・田村、能楽堂HPから)
僧が春の盛りに清水寺を訪れます。
其処で、少年に出会います。
僧は清水寺の来歴を尋ねます。
少年は、清水寺は坂上田村麻呂が建立した、謂れを説明します。
此処には音羽の瀧があって・・・・・、親孝行の田村麻呂が・・・・。
 
やがて月が出て、桜が浮かび上がります。
少年と僧は打ち解けあい「春宵一刻値千金」、詩文を口ずさみます。
少年は田村堂の陰に消えてしまいます。
 
僧は経を読み回向をします。
すると武者姿の坂上田村麻呂が出現します。
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           (貞宗寺11面観音、いつもは藪カンゾウの中に咲きましたが、今年は余り咲きませんでした)
 
田村麻呂が語ります。
昔桓武天皇の命令で、鈴鹿山に出現する鬼(山賊)を退治した事がありました。
幸いに、観音様のお力によって、鬼を退治できました。
 
此処までが謡曲「田村」のあらすじです。
以下はこの山野草に「秋の田村草」と名づけた庶民の考えを想像したものです。
 
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      (秋の田村草)
 
田村麻呂が鬼だと思って退治したのでしたが・・・・・、
鬼の鎧兜を剥いでみて驚きました。
鬼(山賊)は女性だったのでした。可憐で美しい。
しかも、喜んでいるような、満足な表情でした。
男の中の男「田村麻呂」に退治されて、ようやく悪行から抜け出す事が出来た・・・・と。
 
女盗賊の亡骸を前にして田村麻呂は哀れを禁じ得ません。
田村麻呂は女盗賊を手厚く葬りました。
願わくば、今後征夷大将軍としても戦いにおいて、私を加護してください。
合掌しました。
 
雪が解けると、田村麻呂は、再び桓武天皇の命令で、陸奥に軍を向けます。
往路も鈴鹿の山を越えます。
道端には青い可憐な花が咲いていました。
花を見ながら、戦いの勝利を祈ります。
 
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  (秋の田村草が竹林に群れ咲いています/貞宗寺にて)
 
無事に奥州平定を終えて田村麻呂は再び鈴鹿の山を通ります。
山道には、往路で見たあの可憐な青い花が、春見た時より鮮やかに群れ咲いています。
まるで、田村麻呂の凱旋帰還をお祝いしているようです。
 
そこで、この花を「秋の田村草」となずけました。 
健気に気品高く、そして生命力旺盛なこの山野草に、哀れにも山賊になて落命した女盗賊に想いを馳せました。
 
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   (舞岡公園の向日葵)
 
 
 
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豆腐で一杯やるのが楽しみです(方代さんのメッセージ)

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私が歌人「山崎方代」を知ったのは、鎌倉瑞泉寺の三門脇の歌碑でした。
歌碑には、
     手のひらに 豆腐をのせていそいそと いつもの角を曲がりて帰る
 
丸い自然石で、書体も丸味を、暖か味のあるものでした。
その書が歌人のものか、心底歌人「方代」を愛した瑞泉寺先代大下豊道師ものか判りません。
でも、歌碑の傍に白木に黒々と墨書され、簡で明瞭な説明がされていました。
 
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                     (瑞泉寺山崎方代、豆腐歌碑。2009年12月8日撮影)
 
 
歌人の名は「山崎方代」、歌人が鎌倉西部の手広に住んでいたこと。
故郷が山梨の右左口村(うばぐち)である、と案内されています。
右左口は甲州から駿河に抜ける峠道(中道往還)にある寒村です。
峠を下れば精進湖、峠からは甲府の町が一望できます。武田軍が何度も峠を越えて戦を仕掛け、また攻められた峠道でした。
 
私は、家内から「今晩、何にします!」訊ねられます。
私は「豆腐があれば何でもいいよ!」
答えます。
豆腐は素材の味が魅力です。
方代さんが「お豆腐を大事に抱えて、いつもの街角を曲がって家路を急ぐ」気持ちが良くわかります。
 
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  (鎌倉手広 林豆腐店)
 
 
瑞泉寺に伺うとお豆腐やさんの名は「林豆腐店」、鎖大師の山門近くにある名店でした。
更に、調べると、
方代さんは一生独身、恋心を打ち明けました。
 
    一度だけ本当の恋がありまして 南天の実が知っております
 
本当の恋いが故郷右左口であったでしょう。何処のどんな少女だったのか判りません。
南天の木の陰で打ち明けたのかもしれません。
 
で、方代さんは一生を独身で過ごしました。
第2次世界大戦ではティモールで銃弾を浴びます。
右目の視力をほとんど失います。
南天の赤い実は方代さんの心消えなかった事でしょう。
 
方代さんは再三瑞泉寺を詣でたようです。
大下豊道師は方代さんのお人柄を心底愛されていたのでしょう。
帰り際にはお小遣いを預けたようです。
 
 瑞泉寺の 和尚がくれし小遣いを たしかめおれば 雪が降りくる
 
 
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   (瑞泉寺三門、手前左に歌碑があります。この門を潜って方代は帰りました、懐に小遣いを持って。屹度方代さんは門前に自作の歌碑が作られて、喜んでいることでしょう)
 
 
 
一般に在家の人が僧にお布施します。
お坊さんが在家の人に喜捨する事は、何というのでしょうか?
想定外なので、そんな言葉は無いのかもしれません。
方代さんはあり難くお小遣いを戴き、二階堂を後にして、手広に帰ります。
その、道筋で林豆腐を買ったことでしょう。
 
酒好きな方代さんです。
酒は湯呑茶碗に満たしました。
茶碗を両の手で抱えて、しばし、自分を支えてくれる人たちを思い起こします。
自分を生んでくれたお母様の名前を呼んでみます。
暫くすると、湯呑茶碗が暖まります。
チビリ、チビリ酒が喉を伝わります。
茶碗の底に「しどろもどろ」に自分を見つけます。
 
  こんなにも湯呑茶碗はあたたかく しどろもどろに吾はあるなり
 
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    (方代さんの歌碑の向かいにある庚申塔、アンパンマンのような青面金剛が楽しい)
 
 
 
何時しか、酒も、豆腐も残り少なくなってしまいました。
豆腐と一緒に舐めていた梅干も種が二つ残っています。
種を茶碗に沈めて、酒を味わってみました。
「清酒の梅干割」とでも言えましょうか?
これも中々乙なもんだ・・・・・、思います。
気付いてみると、酒も豆腐も無くなってしまいました。
ただ、茶碗の底に梅干の種が二個残っています。
方代さんの今日一日が髣髴されます。
瑞泉寺の和尚さんの好意に甘えて、お豆腐を買って、酒を楽しんで・・・・・梅干の種が残りました。
 
茶碗の底に梅干しの種二つ並びおる ああこれが愛と云うものだ 
   
自分は「方代」と名乗りました。
「生き放題」「死に放題」・・・・そんな生き様をしたい・・・・思って「方代」を名乗りました。
でも「やりたい放題」「食い放題」のようにはいきません。
心の欲するままに・・・生きたい、死にたい・・・と思うと、自分を取り巻く人に感謝せずには居られません。
今は、ひと様の好意に甘えて、鎌倉山の麓のプレハブ小屋で、良寛さまのように生活していますが・・・、
死んだら、どうしようか・・・・思います。
故郷の景色が、両親のお墓が思い出されてきます。
 
  故郷の右左口郷(うばくちむら)は 骨壷の底に揺られて我が帰る村
 
昭和60年8月16日方代さんは70年の一生を終えます。
方代さんの希望通り、お墓は故郷の円楽寺に両親共々埋められます。
方代さんを愛した人々は瑞泉寺に集まり、毎年9月6日頃に「方代忌」を催し、その才能を、人柄を偲びます。
 
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今年も6月、山梨文学館で「方代展」が催されていました。
「山崎方代」は俳句の「種田山頭火」を思わせます。
私は、昭和を生き抜いたと言った背景から、強い人間性を感じます。
山頭火も好きですが、そのように生きたいとも、生けるとも思いません。
でも、方代のように生きたい、愛されたい、思います。
私の友人にも、「方代のようだな!」思う人が数人居ます。
そういう人に限って早くに旅立ってしまうのは、残念な事です。
 
このブログでも何度か「木喰」観音像を書いています。
木喰さんも方代さんも同じ甲府の寒村の生まれです。
あの、峠の環境は、同じような誠実で、一途な人物を排出しているようです。
 
 
 
 
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日本一美しい阿弥陀庚申塔(鎌倉覚園寺道にて)

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毎年お盆の8月10日は覚園寺黒地蔵の縁日が開かれます。
いつも静かな覚園寺の参道は善男善女で賑わいます。
今年も屹度良いお盆が迎えられることでしょう。
 
鎌倉には庚申塔が多く残されています。
町の辻・辻に残されています。
二階堂もそんな町の一つです。
岐れ道を左折すると、先ず荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)参道に5基ほどの庚申塔が祀られています。
大塔宮(おおとうのみや)を右折すれば突き当りが瑞泉寺、瑞泉寺参道に1基、山門前に1基の庚申塔があります。
左折すれば、覚園寺道、その道端に3基の庚申塔があります。
 
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                                      (荏柄天神社庚申塔)
 
 
庚申塔は昔覚園寺の総門があった場所に祀られています。
その辻を右折すれば天園ハイキングコースに入ります。
庚申塔の背後に緑のゴミ捨てネットが置かれています。
カメラで写すときは気になりますが、庚申塔は全く気にせずに、笑顔でいられるようです。
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                  (覚園寺道庚申塔、右手も細道から天園ハイキングコースに入る)
 
 
 
覚園寺のご住職は必ず説明されます。
当寺の仏殿(薬師堂)にある阿弥陀如来(鞘阿弥陀)理智光寺からの客仏であります。
川端康成氏は再三お参りされ、その美しさを激賞されていました。
私達は、仏殿の連子格子から差し込む薄明かりの中で阿弥陀如来を仰ぎ見ます。
阿弥陀如来は華麗で女性的な印象があります。
 
川端康成の文章に仏像は無かったように思います。
まして、覚園寺阿弥陀如来に触れた文章は知りません。
あまりの美しさに、畏れ多さに、文章にしなかったのかも知れません。
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  (庚申塔はゴミの集積場にもなっています。それも致し方ないこと)
 
 
川端康成氏は覚園寺に登る時、庚申塔に気づいていた事でしょう。
屹度、その美しさも目に留めていたと思います。
舟形光背があって、主尊は阿弥陀様です。
来迎相のお姿で、西方浄土からお迎えに来られるお姿です。
で、台座に三猿が彫られていなければ、ああ阿弥陀様だ・・・、判断するでしょう。
三猿があるということは、この阿弥陀様は庚申塔であることを示しています。
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建立されたのは延宝5年12月17日、1677年ですから江戸時代も初頭、鎌倉の庚申塔でも最も古い部類に入ります。
主尊が阿弥陀様であることは、信者(一般に講と呼びます)のリーダーは念仏講を営んでいたのでしょう。
大きなお寺の、立派なお堂に参篭して、一心に阿弥陀如来におすがりする、それは従来の阿弥陀信仰でありました。支えたのは貴族階級で・・・・。
江戸時代にもなると、庶民、商人やお百姓は大きなお寺に縁はありません。
まして、毎日働かなくてはなりません。
で・・・自分達の阿弥陀様が欲しくなります。
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  (御霊神社庚申塔、恐ろしい姿は悪行を戒める為)
 
 
生前悪行を働くと地獄に堕ちる、善行功徳を積めば天国に行ける・・・・お坊さんは説教しました。
でも、「嘘をつくと生前に不幸に見舞われる、病気になったり早死にする。良い事をすれば福が持たされる、長生きも出来れば病気にもかからない・・・」そんな説教の方が迫力がありました。
一般に「現世利益」とでも呼びましょう。
こうして、庚申信仰は急激に広まります。
 
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  (葉山海前寺の庚申塔)
 
 
当初の庚申信仰の主尊は阿弥陀様やお地蔵様でしたが、江戸時代中期になると青面金剛が主尊になります。青鬼のモデルであり閻魔大王の変わり身のようでありました。
庚申講のリーダーは庚申塔を前に絵解きをします。
青面金剛は昼も夜もお前達を見守っているぞ。
嘘はついていないか、怠けていないか、両親に孝行しているか、弱い人を助けているか、無益は殺生はしていないか・・・・・
そして、庚申の夜、三尸の虫(さんしのむし) にお前の諸行の報告を聞いて、駄目なら報いを、良ければご褒美を下さる・・・・。
 
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                   (建長寺前、第六天社の庚申塔)
 
 
一般に鎌倉の庚申塔を彫ったのは湯河原の石匠と言われているようです。
箱根山の石切職人が海を渡って、小田原や鎌倉で働いたのでしょう。
彼等は箱根石仏群の伝統があるように、従来の儀規に準じた石仏を刻んでいました。
ところが、庚申講の絵解きに役立つように、石仏を彫って欲しい・・・注文が出ると職人魂に火がつきます。
ゲゲゲの女房のご主人のように、自由に空想を膨らませました。
やさしい阿弥陀様よりも、恐い閻魔大王の方が良さそうだ。
いや、閻魔様に不動明王を重ねよう・・・・。
更に、「嘘は多分に浮気にある」
浮気をして嘘をつかないように、ショケラ(裸身、長髪の女性像)を表現しよう。
人間の深層心理を紐解き、石仏を刻みました。
庚申塔の魅力は、その独創性にあります。
 
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  (左手三手にショケラが吊るされています)
 
でも、時代が下ってくるに従って、独創性も影を潜め類型化してきます。
初期の庚申塔の良さが際立って見えてきます。
覚園寺道の阿弥陀庚申塔は鎌倉で最も美しい庚申塔であります。
鎌倉で最も美しい・・・と言う事は相模で一番・・・・そして日本で一番美しい庚申塔であると、私は確信しています。(今の所)
 
もうじき、黒地蔵の縁日、阿弥陀庚申塔の前を善男善女が行き交う事でしょう。
阿弥陀庚申塔はこうした人達が大好きです。
 
 
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(庚申塔の楽しみは祀られた環境とのマッチングにあります。露草と三猿)
 
 
 
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笠智衆さんと百日紅

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「こんな男とはもう我慢できない、離婚だ!」
決心すれば、簡単でしょう。後は男の身勝手を数え上げて、弁護士に相談すれば済むでしょう。
年間70万組しか結婚していないのに対し、離婚しているのは27万組にも増加しています。
「定年離婚」なんて恐ろしい言葉も聞きます。
江戸時代、離婚する権利は男にしかありませんでした。
「三行半」と呼ばれる離縁状を書けば良かったのでした。
 
女性が離婚するには、江戸を出て、鎌倉の「駆け込み寺」に往けば、良かったのでした。
品川を朝に出れば、歩いてでも夜には戸塚の宿に着けたでしょう。
翌朝、戸塚から鎌倉に向います。
道は「鎌倉道」、別名「駆け込み寺道」とでも呼べましょう。
倉田から笠間、更に大船離山で道は東にカーブします。
此処まで来たら、もう駆け込み寺は目の先です。
成福寺の角には「右戸塚道、左藤沢道」道標が残っています。
その先が鎌倉です。(写真では手前)
 
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   (成福寺前の道標、雲中供養仏が刻まれています)
 
「笠智衆」、良い名前だなあ!
お坊さんらしい、良い名です。
森進一のヒット曲「おふくろさん」に、
「雨の降る日は 傘になり お前もいつかは 世の中の 傘になれよと 教えてくれた」
歌詞があります。
作詞したのは川内康範さん。
喧嘩事件の歌詞です。
「大衆を導く笠」、という名ですから、いかにも本願寺のお坊さんの名です。
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                          (成福寺山門は茅葺、白い蓮が今盛りでした)
 
 
熊本の家から出た笠智衆さんは松竹の俳優さんとして活躍します。
松竹大船撮影所で撮影の息抜きに鎌倉に向ったでしょう。
小津監督と、北鎌倉駅前の光泉で稲荷すしを食べよう・・・出かけたことでしょう。
成福寺の前を通って。
浄土真宗のお寺は鎌倉府内にはありません。
笠さんは再三おいででしたよ、気さくな方で、奥様は言われます。
屹度、笠さんには「生家の臭い」がしたのでしょう。
「自分は死んだらこの寺の百日紅の木の下で眠りたい」
決めていたと思います。
 
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                      (秋刀魚の味の笠さん。松竹HPから)
 
笠智衆さんは昭和30年、奥様を失います。
かねて通っていた成福寺さんに墓地を求め弔ってもらいます。
奥様に先立たれ、ガックリされたのでしょう。
まもなく、笠さんも後を追う様に他界されました。
お二人で埋まっていたのに、暫くするとご子息もやっておいででした。
今では親子三人仲良く地下でお休みです。
「今年は百日紅が見事だな!」
言っていられることでしょう。
 
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       (笠さんは百日紅の根元から写真左、10メートル弱の位置に眠っておいでです)
 
成福寺の奥様が教えてくださいました。
此処の百日紅は道路の向こうから眺めるのが最も美しいのですよ。
私達夫婦は、教えられたポイントに行って、百日紅を眺めました。
本堂の甍を背景に、見事に咲いています。
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    (奥様が教えてくださった、百日紅のビューポイントから写す)
 
前景は墓地でセピア色の世界です。
ただ、真っ赤な百日紅だけが、天然色で鮮やかです。
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                 (百日紅の根元には茗荷の白い花が咲いていました)
 
「今日、8月1日はうだるような暑さでしょう」
NHKラジオが天気予報を流しています。
夏暑い事は、屹度秋刀魚も美味しい事でしょう。
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      (百日紅の花は散っても色褪せしたりしません)
 
 
笠さんのお墓の前に立ってみました。
「笠さんはどんな風に百日紅が見えているだろうか?」
確認する為に。
すると、墓石の隙間から、スルスル出てきました。
一匹の日本トカゲが。
笠さんの悪戯でしょうか?
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(笠さんのお墓から飛び出し、驚かせられたトカゲ) 
 
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此方は羽化したばかり、翅を乾かしている油蝉。成福寺は自然豊かで・・・)
 
 
 
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結婚のお祝いは「百日紅」(盛徳寺)

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世田谷弦巻の禅寺「実相院」の次女「佐々木ノブ」は、明治42年竹内周三と婚約しました。
周三は赤坂にある豊川稲荷の会計係を勤める若い僧侶でした。
二人を結び合わせたのは、世田谷豪徳寺の住職松本方丈師、ノブは結婚式で夫の顔を初めて見る思いだった事でしょう。
 
結婚した二人の新居は鎌倉群豊田村上倉田の盛徳寺でした。
この時代、結婚相手も、務めるお寺も師に当るお坊さんが決めていたのでしょう。
 
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                            (女学校卒業、結婚前の佐々木ノブ)
 
若い二人は戸塚駅駅頭を降りりました。
当時の戸塚は寂しい寒村でしたが、駅前には人力車がありました。
人力車は松林の中を旭町通りを走り、突き当りが鎌倉道。
此処をを左折すると、正面の丘の上にお寺の塀の白壁が見えました。
その、無住寺が若い二人の新居になります。
 
柏尾川の堰堤では沢山の人がでて、桜の若木を植えていました。
明治37年、明治天皇のご指摘で、柏尾川の治水工事、倉田耕地の整備が始まりました。
その最終ステップを迎えて、堰堤の強化の為桜の苗木を植えていたのでした。
 
長い石段を登ると簡素な山門がありました。
両脇にお地蔵様が佇んでいます。
右手の一体は、嬰児を抱いています。
撫で肩の姿です。
形はお地蔵様でこそあれ、姿は若い女性で、産まれたばかりの乳児を愛おしく抱いています。
お顔は撫でられて、もう目鼻立ちも無くなってしまています。
このお地蔵様が盛徳寺の歴史を教えています。
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蜂須賀小六は豊臣秀吉の最初の家来でした。
当然のように関が原の戦いでは西軍に組します。
結果、江戸幕府では外様大名として阿波(徳島)に国替えさせられます。
で、参勤交代です。
若い蜂須賀隆重は身重の奥方共々阿波から江戸に向います。
しかし、戸塚の宿で懐妊してしまいます。
 
そこで本陣から近い尼寺「養東院」で出産する事になりました。
出産の大事に、旅の疲れが重なっていました。
奥方は娘の命を残して、息を引き取りました。(1684年)
 
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                                     (盛徳寺本堂、右手の百日紅が今日の話題)
 
 
隆重の嘆き悲しみは深く重いものがありました。
奥方を尼寺に埋め、寺は戒名「盛徳院」をとって「盛徳寺」に改めました。
奥方の霊を慰撫するため禅僧(大旗義徹和尚)を向え、近隣の田畑を購入し寺に寄進しました。
以来盛徳寺は小さいながらも、阿波の大名寺として格式をもっていました。
 
 
以来300年余り、寺には住職が欠ける事もありました。
周囲の豪農が輪番で寺の面倒を見てきました。
ようやく、新しい住職が夫婦で寺に入ってくれる・・・・・「これで安心だ」豊田村は喜んでいました。
上倉田の小野省三(故人)もその一人でした。
「若いカップルにお祝いを何にしようか?」考えました。
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       (既に立派な庭木に育っていた百日紅でした。樹齢150年程度でしょうか?)
 
考え、考えその挙句に思いつきました。
「百日紅の花をあげよう」
玉縄辺りには大きな植木屋さんが軒を連ねています。
植木屋さんを廻って、一番姿が良い、花が綺麗な・・・・・出来上がった百日紅を買い求めました。
「お寺には百日紅がつき物だ」
威勢よく言いました。でも、
「ハイカラなお嬢さんに長くお寺が好きでいて欲し・・・」
そんな気持ちが込められた、プレゼントでした。
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新婦の竹内ノブはこの百日紅が気にいりました。
で、寺を掃いては落ち葉をその根元に撒きました。
百日紅の根元は落ち葉の布団になって、腐葉土になって、百日紅は一層立派になりました。
 
関東大震災では、本堂も傾きました。
綺麗な白壁の塀も崩れ落ちました。
戦争中は学童の疎開も受け容れました。
戦後は農地解放、農地を失う事はこの寺にとっては収入が無くなることでした。
肝腎の夫周三は日野の刑務所の教誨師として働いていました。
教誨はお坊さんのサイドビジネスとしては適切でしたが、盛徳寺は檀家が居ませんでした。
従って寺からは収入がありません。
実家や兄弟の支援も受けました。
でも、ノブは負けん気が強い頑張り屋でした。
本堂は「裁縫教室」「お習字教室」に変りました。
百日紅の樹下に立つと、木が激励してくれるのを感じていました。
「志さえ失わなければ、何れ良くなる、幸福になれる。大川の流れのように・・・・」
百日紅は諭してくれていました。
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   (ノブは百日紅が風も無いのに激しく散って、本堂のガラス戸が輝くのを見て言いました。今誰かが本堂に   登ったよ。私は背筋を冷たくしました。そんあ夕刻必ず葬儀の連絡が入りました。屹度百日紅は霊の通る道   にあるのでしょう。この方角です)
 
昭和59年、筆者は大阪御堂筋の某銀行の次長として働いていました。
筆者が仏像に関心が高かった事、ノブお婆さんに愛された孫であったこと、加えて関西に住んでいたので、白羽の矢が当ったのでした。
竹内ノブの百歳記念で、観音像を建立することに決めた、ついては京都太秦の仏具屋に行って、百衣観音像を作らせて欲しい。予算はノブの財産を全額使い切ること、デザインは日展作家の某氏の像にする事・・・・・そんな注文でした。
 
以来、筆者はそれから何度も太秦の工場に通いました。
小さな観音像が、大きな観音土像になり、三つに割って鋳型にして、銅を鋳込んで、・・・・・大変な数の行程を経て観音像が出来上がりました。
百歳のお祝いは観音像の開眼供養をかねて行われました。
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昭和62年、ノブは「目出度い、目出度い」、両の手をヒラヒラさせ、若松音頭を歌うようにして他界しました。
観音像に招かれるようにして。
 
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今年は私の記憶する限り、最も美しく百日紅が咲きました。
盛徳寺の施餓鬼法会は8月10日です。
百日紅の木が植えられた「好意」も、百日紅の花を見上げた「想い」も、山門脇のお地蔵さんも、知る人はもういないでしょう。
語り継がなくてはいけない事も沢山あるのですが・・・。
 
 
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    (筆者作成、竹内ノブ遺稿集。大川観音とはノブの支えになった百衣観音像/昭和63年6月)
 
 
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青大将の地獄、百日紅の極楽(鎌倉極楽寺にて)

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鎌倉の西部、大仏様と長谷寺の間はいつも観光客で賑わっています。
この辺りを地獄谷と呼びます。
鎌倉の中心部から見れば西のきわで、ハンセン病患者などが見捨てられ、処刑場も近く、さながら地獄の観があったのでしょう。
ここから、坂ノ下を越えて行けば極楽寺の切り通しです。
道の左右に石仏、五輪塔が並んでいます。
新田義貞は鎌倉攻めに当ってこの切り通しを通って府内に入ろうとしました。
しかし、切り通しの上から攻め立てられ、多くの戦死者を見てしまいます。
 
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                               (路傍の墓標群/新田義貞との関係はありません)
 
昼なお暗い道は、薄気味悪い静けさです。
私はこの道で恐ろしい思いをした事があります。
夏の夕暮れ自転車でこの道を登ってゆきました。
坂の踊り場で自転車を降りて、手押しして先を急ぎます。
その時、巨大な青大将がのたうち回っていました。
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(青大将、この程度の大きなのが車に轢かれていました)
 
多分、夕暮れ時、未だ暖かいアスファルトの上で青大将は寝そべっていたのでしょう。
運が悪い事に自動車が通り過ぎて、背骨を折って通り過ぎました。
その直後私が通りかかったのでした。
恨めしげに私を見詰めて・・・・苦しみは長く続いた事でしょう。
 
私は極楽寺の友人宅で今見た光景を話しました。
すると、その友人は事なげに言います。
「ああ、切り通しには青大将が沢山棲んでいるのだよ。江ノ電トンネルもあるし、石積みが続いている。あの隙間が彼等の住まいだ。よく自動車に轢かれて死んでいるよ・・・・」
その友人は現在米国で牧師をしています。
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(極楽寺三門前にはもう芙蓉の花が咲き始めました)
 
 
切通しを越えると赤い橋が見えます。名前は「極楽寺橋」、
橋の下を江ノ電が通っています。
橋を渡って真っ直ぐ行けば、極楽茶屋があって、その先が稲村ガ崎小学校。
左折すれば直ぐ先に極楽寺の山門があります。
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       (極楽寺境内、桜並木。この寺は再三の戦火を浴びています)
 
極楽寺の名物は春の桜、そして夏の百日紅です。
私の目的は、百日紅の見物です。
5年ほど前山門が修復され、その頃からでしょうか、境内の撮影が禁止されました。
「仏様は未だしも、桜や百日紅にもレンズを向けてはいけない」
私にはその理由が解りかねます。
でも、まあいいか・・・・、期待の百日紅は・・・今年は稀な見事さで咲きました。
根元の鬼百合も鮮烈で、夏ならではの景色です。
これから、八月一杯見頃でしょう。
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 (満開の百日紅、これは筆者の生家の百日紅です。極楽寺の百日紅は同じ赤、樹勢は少し衰えてきています)
 
 
極楽寺の三門横に貸しギャラリーがあります。
極楽寺に観光客受け入れの姿勢が乏しく、一部の仏像好きしか参詣しないお寺ですから、ギャラリー運営は苦しかろう・・・・・他人事ながら気になります。
今はアロハシャツ屋さんに貸しているので、アロハが並んでいます。
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(貸しギャラリーの店内、主人)
 
オーナーに目が合ってしまいました。
私はギャラリーの扉の横に据えられた如意輪観音像について訊ねました。
「この、如意輪サンは涼しげで、美しい、何方の作ですか・・・・?」
オーナーのお返事です。
「作者は解りません。私が此処に出店するに際し稲村ガ崎の恩人からお祝いしよう・・・申し出がありました。そこで、その方のお庭にあった如意輪観音像を頂戴しました」
「この石仏は現代人の観賞眼に耐えるよう刻まれています。古風な着色が為されています。墓標仏でも祈願仏でも無いので、舟形光背には何も刻まれていません。」
私は話します。
「極楽寺産を参詣する度ごとに、この如意輪観音を楽しみにしているのですよ。今は京鹿の子ですが、石蕗も伸びていますね。山野草とのバランスも心憎いと思っています。」
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主人は私達夫婦が気に入ったのか、店内に引き入れました。
押入れの奥から木彫品を取り出しました。
「懸魚/げぎょ(禅寺などでこれを打ち叩いて合図に使う)ですか?」
「いや、これは自在鈎だと思います。私も家内も一目で気に入ってしまい買い求めました。こうして、歯が丁寧に刻まれているものは貴重ですよ・・・・!」
「自在鈎ですね。魚は丸々太った鯛でしょう。海辺の家の囲炉裏では鯛もデザインされたのですね・・・・」
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もう一つ見てください。
「東大寺大仏殿前の八角灯篭の天平仏透かし彫りです。事情があって、透かし彫りの鋳型を作る事があって、その作品を持っているのです・・・・」
「よく承知していますよ。私もおおらかな天平仏が大好きです。実は今日は百日紅を見に参詣しました。東大寺も仏殿裏、戒壇院への道に百日紅が咲きます。屹度今年は見事に咲いているでしょうね・・・・・」
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お店の真下が江ノ電極楽寺駅です。
もうじき電車が出るよ!合図の鐘が鳴っています。
 
青大将が轢死するのは地獄、百日紅は極楽。
両世界はお隣同士のようです。
 
 
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     (筆者はこの如意輪観音に相応しいのは川原撫子だと思っています。花は京鹿の子)
 
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人が集まる遊行寺の境内

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藤沢は人口が40万人、遊行寺の門前町として生まれ、明治以降は避暑地、住宅地として発展してきました。
駅西口を降りて、市役所の先を右折、北上すれば弥勒寺に向います。
15年ほど前でしょうか?
弥勒寺通りに紅白、ピンク色とりどりの百日紅が植えられました。
私は百日紅を仏花、お寺の花木と思ってきました。
でも、街路樹にしてみると中々お洒落だな・・・・!
感心しています。
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     (弥勒寺通り百日紅、左屋板の奥は武田薬品)
 
駅前から真っ直ぐ西に、遊行寺通りが寺を結んでいます。
本屋が在って、蕎麦屋があって、賑わう通りでしたが、昨今は閑散としています。
残念な事です。
 
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遊行寺に参詣してみました。
百日紅が咲いているだろう、期待して・・・・・。
広い境内では骨董市が開催されています。見物客、買い物客は少なく、お店の方が圧倒的に多いのでした。
店主達は土の上にシートを敷いて、てんでにお店を開いています。
虫干ししているような雰囲気です。
 
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     (遊行寺骨董市)
 
最近、境内東際、トイレの辺りを整備、「遊行寺茶屋」を新装開店しました。
縁台を置いて、赤い毛氈を敷いて、大きな赤い日傘が日陰を作っています。
掻き氷(300円)が売れています。
骨董市の店主も此処で涼んでいます。
こんなにお客が居ないのでは、店番をしても致し方無い、思っているのでしょう。
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本堂から読経の声が響いてきます。
覗いてみれば周年忌の法要でしょう。
15人ほどの参会者、10人程の僧侶が「ナムアミダー・ナムアミダー」声をそろえています。
本堂の横の山桜、桂の大樹からは蝉時雨です・・・・。
「ジー・ジー、ミーンミーン」
お経も蝉時雨も同じように聞こえてきます。
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本堂の扉には遊行寺の行事を案内するポスターが貼られています。
一つは梅原猛氏の一遍上人に関する講座、もう一つは薪能です。
どちらも無料です。
梅原氏は年齢を重ねてもエネルギッシュな活動を続けておいでのようです。
尊顔を拝する、そんな気持ちで出席することにしましょう。
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本堂の西、少し低い位置に池があります。
藤沢メダカの育成池でもある「放生池」です。
池の淵に百日紅がありますが、白木蓮など他の樹木に圧倒されています。
赤い花が池中の観音像に舞い落ちました。
 
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骨董市も、梅原猛の講話も、薪能も、何れも無料です。
遊行寺は「人が集まる」「人が集う」事を最優先しているようです。
 
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                                       (宗務所前の蓮の花)
 
遊行寺境内、一遍上人像の東側に「俣野権現」が祀られています。
遊行寺を建立した戸塚俣野の郷士を祀ったお堂です。
その東に、「敵味方供養塔)が在ります。
更に戦没者供養塔、家畜の供養塔が並列に並んでいます。
敵も味方も、家畜も人間も、みんな同じ、並列の扱いです。
 
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  から敵味方供養塔/上杉禅秀の乱1417年の戦死者供養、戦没者慰霊塔、右が家畜供養塔/鎌倉ハム建立)
 
 
ふと見上げました。
「怨憎会苦」と書かれています。
「人間は人を怨み憎しむのでは憎悪の循環に陥るだけ、苦しみは増すばかりである」
そんな訓えでしょう。
解っていても出来ないのが人間の弱さでしょう。
一遍上人の訓えは遥か遼遠にあるような気がしてきます。
でも、参詣すれば何かしら教えを受けるような、そんな気持ちになります。
それもこれも、遊行寺来る人を選ばず、拒まず、衆人を受け入れる幅があって、いつもいつも人が集まっているからでしょう・・・。
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(盆が明ければ薪能)
 
 
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「好かれるリス・嫌われるカラス」の間違い

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7月末の夕刻、舞岡公園で評議会が開催されました。
評議員は地元の上倉田、下倉田、舞岡の地域代表、学校長など7人程度で構成されています。
舞岡公園は大都市横浜近郊の里山公園として順調に運営されてきています。
運営は少額予算に対し、年間入場者が5万人をこえています。
人気が高く人が集まるにつれ、駐車場確保をはじめ様々な問題も出ています。
そんな運営の現況を把握し、対策を協議する最高の場が評議委員会です。
 
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         (仕草の可愛らしさが曲者、問題の台湾リス)
 
昨年来、外来動物の駆除問題が議論されてきました。
台湾リス、洗いくま、ハクビシン、この3種は里山の生態系を破壊して急速に数を増やしています。
昨年「駆除対策」を横浜市に要請しましたが、なんだかんだで全然動く気配がありませんでした。
そこで、上倉田連合会、下倉田連合会、舞岡連合会、そして舞岡公園、明治学院大学の5組織連合で「駆除要請書」をすることになりました。
偶々神奈川県も外来動物駆除に本腰を入れ、条例の用意もあるようで、機は熟してきているようです。
そこで、駆除要請書の草稿は私が作成する事で、衆議は一致しました。
 
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                                     (我が家にも頻繁に出没する台湾リス)
其処までは、殆ど異論は無かったのですが、「カラスも問題だ、これも加えるべきでは?」と意見が出たので、少し議論が為されました。
某町内では生ゴミを食い荒らすカラスを駆除しているのだそうです。
他の町内でもカラスは問題ではあります・・・・。
しかし防衛策は打っても、駆除まではしていません。
 
そもそも、カラスは生態系の中で枢要な位置にあり、生ゴミを食い散らすのは先ず人間の側に問題があります。
また、カラスを加えれば舞岡公園も明治学院大学も歩調を揃えるか、疑問です。
 
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                      (梢の先にあるカラスの巣、今子供達は巣離れを始めています)
 
舞岡公園域内の野菜畑、梨畑、イチジク畑は何れもネットで覆われています。
どれも、台湾リスなどの食害に晒されているからです。
でも、カラスは、どうしているかと言うと・・・・・。
耕した跡を歩き回って、地中から出てきたミミズや芋虫を探して食べています。
「権兵衛が種を撒けば、カラスがほじくる」
とは種を食べるのではなく、芋虫を拾って食べているのです。
それだけ、カラスは人間の営みに近く、頭の良い動物なのです。
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                (此方はカラスの親、桑の木で。桑の実はカラスの離乳食になるようだ・・・)
 
 
神武天皇が東征する時、先ず熊野に上陸します。
大きなカラスの道案内にしたがって吉野山を越えて、宇陀に出ます。
八咫烏は熊野大社、宇陀市榛原町の八咫烏神社のシンボルになっています。
大和に入った神武天皇は此処を平定、三輪山の麓に大和国家を作ります。
重責を担ったカラスは、最近では日本サッカーのマークにもなっています。
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 (JEAのHPから)
 
今年も舞岡公園には沢山のカラスが営巣し、子供達が独り立ちしようとしています。
凡そ3羽から4羽、巣から飛び出して、一羽一羽が離れ離れになって、「カー・カー」啼いています。
「お母さん、お父さんお腹が空いたよう!」おねだりしているのです。
親鳥は蝉を取ったり、バッタを取ったりして、子供に食べさせます。
親は子供達に輪番に、公平に食べさせています。
人間のように「子育放棄」「子育て偏愛」は無いのです。
 
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       (お腹が空いた・・・啼くカラスの子。嘴始め全体に茶色が混じっています)
 
童謡の作者はカラスの子育てに見える「愛情の深さ、公平さ」に共感して作詞しました。
 
   海沼実作詞・作曲
  からすの赤ちゃん なぜなくの
  こけこっこの おばさんに
  あかいお帽子(ぼうし)
 ほしいよ
  あかいお靴(くつ)
も ほしいよと
  かあかあ なくのね
 
   野口雨情作詞(7つの子)
    烏 なぜ啼くの
    烏は山に
    可愛い七つの
    子があるからよ
    可愛 可愛と
    烏は啼くの
    可愛 可愛と
    啼くんだよ
 
雨情は7歳の時に母と死に別れます。
雨情は親に甘える子ガラスをみて、
「羨ましい、僕もお母さんに甘えたい・・・・」
と、童謡を作詞したと思われます。
 
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もう、50年近く前「黄色いカラス」と言う映画を観ました。
主人公の少年が「黄色いカラス」を描いてしまうのです。
戦争から父親が復員し、弟が出来ます。
以来少年は両親の偏愛(弟ばかりが愛されて、自分は寂しい)に傷ついてしまいます。
愛情が欲しい、そんな気持ちがカラスを描く時、黄色いクレヨンを持たせてしまいます。
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人間が飽食して、だらしなく生ゴミを出すから、カラスが食い散らかす。
「目障りで、汚れるから、駆除しよう・・・」と言うのは筋が間違っています。
原因は人間が作り、責任をカラスに負わせるのでは、神武天皇のお怒りに触れるでしょう。
 
当面は外来3動物の駆除を目的にし、カラスのついては「里山の主要プレーヤー」と言う事で納得いただきました。
 
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爽やかな「胡麻の花」

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戸塚から柏尾川堰堤を下って久保橋を渡ると、道の右側(西側)が本流、左側は畑で「横浜市生産緑地」と表示されています。
行政視点では「生産緑地」ですが、使う側にとっては「市民農園」です。
栄区の住民が農作業を楽しんでいます。
 
元々河川敷に近い場所です。
砂地ですから、今の季節は瓜類、豆類、イモ類が多く栽培されています。
今年は猛暑、もしかしたら「薩摩芋の花」が咲いてはいないか? 目を凝らしますが、未だ発見できていません。
 
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(暑い暑いと言っても明日8月7日は立秋、川原にはススキの穂が、流れにはボラが遡上して、季節は進見ます)
 
私の生家でも、上流部、戸塚駅脇で畑を耕作していました。
鉄橋が作られていましたので、「カンカン橋」と呼ばれていました。
落花生、薩摩芋などと共に胡麻を栽培していました。
先日「百日紅」で紹介した祖母、狛江の泉龍寺から嫁いだ母が中心の農作業でした。
「ソロソロ日も暮れて来た、帰ろうか」そんな時刻になると、祖母は言いました。
「この薩摩芋畑のお蔭で皆が助かったのだよ。ここで、こうして農作業をしていると、多くの人が薩摩芋を譲ってください。芋は無理なら茎を下さい」
戦後、物資も食料も不足した時代でしょう。
「子供が一緒でいたりすると、薩摩芋の蔓の中に芋を隠してあげたもんだよ。すると、嘆願した母親は手を合わせて感謝してくれたものだ・・・・・」
さて、帰るとするか・・・リヤカーにお芋を積んで返ろうとすると・・・・カンカン橋の欄干の上に狐火が灯っていました。
「婆と思って馬鹿にするでない!」
祖母が一喝すると、狐火は消えて、また遠くで灯っていたそうです。
人は勿論、狐も食べるものに不足していたのでしょう。
でも、倫理観はしっかりしていました。
昨今のように農作物が盗まれる事は無かったのでした。
 
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                                          (胡麻は今が花咲く時期)
 
生家は寺ですので、精進の素材として、胡麻は多く食べました。
栽培もしていました。
初秋に茎を根元から伐採し、茣蓙の上で乾燥させます。茎は緑から褐色に変色して、カラカラに干し上がります。すると、苞が割れて中から真っ黒な胡麻の実(種)が弾け落ちてきます。
苞を叩けば胡麻の種で茣蓙は一面真っ黒になりました。
胡麻の茎は釜戸の燃料になりました。
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           (楚々として爽やかな胡麻の花、背後は成田エクスポートのトレイン)
 
胡麻の花を見つけると、嬉しくなりました。
改めて、花の美しさに感じ入りました。
薄い淡い水色は水彩絵の具を落としたようです。
緑の葉っぱ、茎も花と調和しています。
浴衣姿の女性を思わせる色香を感じます。
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(胡麻畑のお隣は落花生畑、此方は黄色い花が咲いていました)
 
栄養価も高く、美味しい胡麻ですが、何故か良い表現には使われていないようです。
「誤魔化す」「胡麻化す」とも書きます。
広辞苑では「騙して人目を欺くこと」、「でまかせを言って真実を隠すこと」説明されています。
語源は「胡麻菓子」というお菓子が油で揚げて、膨らんでいる事から生じているようです。
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  (此方は布袋草の花。水色と緑の取り合わせが涼しげです)
 
 
また「ごまのはい」と言う言葉もあります。
江戸時代旅人を装って街道に出没した盗人の事です。
「護摩の灰」とも「胡麻の蠅」書きます。
前者は「弘法大師が炊いた護摩木の灰」と偽って押し売りした者から、後者は胡麻にたかるハエが見分けがたいことからとも、うるさく付きまとう蝿にも似た小悪党の意味でしょう。
 
花は美しく、種は栄養価が高く、長寿効果も認められている胡麻です。
でも、使われた言葉は良い意味ではありません。
「可哀相に・・・・・・!」
そう思ってまた水色の花を眺めると、一層綺麗に見えるのでした。
 
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(今年も柏尾川ではお盆送り日の8月16日、灯篭流しが行われます。筆者の生家で耕したカンカン橋の畑は現在旭日橋と呼ばれ正面前方にあります)
 
 
 
 
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癌の樹と菊芋(無常と言う事)

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大船駅を降りてフラワーセンターの角を西に折れ真っ直ぐ進むと、藤沢の遊行寺に出ます。
ずっと登り道ですが、峠辺りが渡内になります。
此処に慈眼寺があります。
東に龍宝寺、南に天嶽院、共々北条早雲に因んだ曹洞宗のお寺さんです。
この3寺は組寺であり、仲良しなのでしょう。
お花好きな所も共通しています。
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久し振りに慈眼寺に登りました。
石段の右手、無縁仏の頭上に掲示板が掲げられています。
「暫く心を無常にかけて 世の儚き人の 命の危うき事を 忘れざるべし」(正法眼蔵・道心)
 
昭和47年、大学生の私は日本文化研究会の友人等と「無常観の系譜」を学んでいました。
亀井勝一郎の「愛の無常について」は共感者多かった記憶がありました。
小林秀雄の「無常という事」、唐木順三の「無常」と読み、学びました。
特に唐木において、平家物語の詠嘆的な無常観が、道元の死生観に展開してゆく説明に納得しました。
日本文化の一本の柱には理解が進みました。
でも、所詮は学生が机上で学んだ事、親も友人も皆元気で、「無常」は幻想で現実感に欠けていました。
 
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                                                      (慈眼寺の菊芋)
 
昨年日本文化研究会時代からの友人Y君は癌と果敢に戦い、他界しました。
Y君は「愛は無常」その通りに生きました。でも、正直で誠実な生き様は愛が変わっても責められませんでした。
また、地域でNPO法人を立ち上げたO氏も肺癌で逝きました。私は今年から同法人の理事長を務めています。
此処数年、かっては「イメージ」であった無常は、現実になって私の前にたちはだかっています。
「お前の命は何時絶つか解らない。世は無常なのだから・・・・」道元の訓えは800年経っても変りません。
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  (菊芋は癌の樹の根元に咲いています)
 
 
石段を登りきって境内に入ると、眼前に常緑樹が迫ってきます。
スダジイをはじめ数種の合体樹です。
その樹の根元に祠があります。
そして、樹は「癌の木」、祠は癌から人を守ってくれる、案内が為されています。
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                                        (癌の樹、根元は一面クリスマスローズ)
 
中心になっているスダジイから見れば、他の樹も邪魔(癌)であるかもしれません。
自然界は自分が正統と思えば他は間違い、癌のように思えるものでしょう。
癌を抱えながらも、真っ直ぐに日の光を求めて成長し、緑陰を作るべきだ・・・・そう主張しているようにもおもえます。
スダジイの樹下には一面クリスマスローズが繁茂しています。
冬になれば奥ゆかしい花を一面咲かせる事でしょう。
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    (癌の樹、手前は珍しい黄色い緋扇の花)
 
周囲に菊芋が咲いていました。
私の生家でもお盆になると咲きだしていました。
墓地の入り口は一面菊芋が咲いて、お墓参りはこれを折って墓前に奉げればよかったのでした。
刈っても刈っても生えてきて、盆から彼岸まで重宝しました。
 
あの菊芋が糖尿病に有効だと知ったのは10年前でした。
お芋が血糖値を下げてくれる漢方薬になるのだそうです。
 
慈眼寺の境内を散策すると、「無常ということ」に思いが行きます。
 
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鮮やかな天井画(おんめ様)

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鎌倉駅を降りて、若宮大路を渡ると朱色の門があります。此処が大巧寺 (だいぎょうじ)の入り口です。
日蓮宗大巧寺と言ってもピンと来る人は少なく、一般に「おんめさま」と呼ばれています。
「おんめさま」は語感の通りに「おん産め」、安産の祈願所として親しまれています。
 
本堂は東側にある辻説法通り(小町大路)に面して建てられています。
従って、朱色の門は裏門と言う事になります。
私の記憶ではこの裏門は近年になって整備されました。
大巧寺の境内を整備し、花壇公園にする子とにしました。
その際、小町大路側の住人が駅に行くに便利なように、境内を通り抜けられるようにしたのでしょう。
実に沢山の人達が境内を行き交っています。まるで、昔からそうであったかのようなそぶりです。
本堂に合掌、挨拶してゆく人は2割程度でしょうか?
 
お婆さんがお庭のお手入れをされています。
行き交う人にお花に親しんで欲しい、そんなお気持ちでしょう。
花には丁寧に名札が着けられています。
この庵主さんの優しさのお蔭で、境内が駅への近道になっているのです。
お産婆さんのようなホスピタリティーでしょうか?
 
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お寺の本堂や仏殿には様々な画が描かれている事が多いのです。
建長寺や円覚寺には一流の画家により龍の画が描かれています。
龍が仏法を守ると信じられているからです。
 
秋田の久城寺には36歌仙の図が描かれています。
36歌仙とは藤原公任(きんとう)が古今の優れた歌人三十六人を選んだことに始まります。
36人の歌人とその名歌を著名な絵師が競って描きました。
百人一首のカルタに発展します。
日本の文化だなあ!痛感する雅な天井画です。
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   (久城寺の天井画/36歌仙図 久城寺HPより)
 
36歌仙天井画は格天井に描かれています。
格天井とは字の通り、格子状に天井板を支える棹が組まれている天井です。
将棋の盤のように出来た格子の一間一間に絵が描かれているのです。
 
おんめ様の本堂天井も格天井で鮮やかな画が嵌められています。
絵というよりは彫刻の上に岩絵具を極彩色に塗っています。
鎌倉彫ではなく、日光東照宮などの装飾彫刻、絵画に類した意匠です。
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何の絵だろうか?
興味を持って天井を見上げます。
どの絵も鳥と花が描かれているようです。
花札の「梅に鶯」「鶴に松」「藤に不如帰(ほととぎす)」「ススキに雁」「柳に燕」「桐に鳳凰」のような意匠でしょう。
格子の数は縦横共に9、格子の数は81枚のようです。
ですから、花札の鳥は6種ですが、おんめ様の鳥は81種もあるのかもしれません。
改めて参詣し、今度は娘(孫)の安産祈願ではなく、天井画をお見せいただきたい・・・です。
 
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         (本尊産女霊神、密教の雰囲気があります)
朱色の門の横には案内板があります。
元々鎌倉の奥、12社にあった源頼朝の祈願所でした。
そこで平家討伐の軍略を練った所大勝利、そこで現在地に移し、名前も「大巧寺」に変えました。
確かに本堂は真言密教を思わす造作です。
室町時代になり住職日棟が怨霊を鎮めます。
難産のために死んで怨霊になり人々に災いしていた女の霊でした。
悪霊は改まって、安産や縁結びの神「産女霊神(うぶすめれいじん)」になります。
子供を食っていた悪女が釈迦に諭され、鬼子母神に大変革したのに似ています。
 
ご本尊「産女霊神」を飾る天井画が何故鳥なのか、興趣は深まるばかりです。
境内の台湾藤も盆も明ければ満開になるでしょう。
その頃再訪することにしましょう。
 
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  (台湾の藤は吊り下がるのではなく、天に向かって咲きます。日本人は瀧が好き、中国人は噴水が好きなように・・・)
 
 
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鶴岡八幡宮のぼんぼり祭り

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8月8日、夜半から雨が降り出し、日が9日に変ると本格的に降りだしました。
これで、さしもの暑さも一服してくれるかな?期待も増します。
でも、鶴岡八幡宮に飾られた「ぼんぼり」はどうなったかな? 少し心配です。
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                                          (鶴岡八幡宮、ぼんぼり祭り)
 
今年は「ぼんぼり祭り」を見に行こう、前々から決めていました。
8日、夕闇を迎える頃、八幡宮の神苑に着きました。
ぼんぼりは太鼓橋前から石段下まで、参道の両側に並びます。
また参道にクロスする流鏑馬道にも並びます。
巫女さんが二人一組になって、ぼんぼりの蝋燭に火を灯して廻ります。
ぼんぼりは次第に明るくなって、前面に描かれた絵が暗闇に浮かび上がります。
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                               (八幡宮3の鳥居前の夕焼け)
 
浴衣姿のお嬢さんが写メールしています。
外人の観光客は大型カメラを向けています。
みんな、それぞれに日本の風俗がお好きのようです。
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     (ぼんぼりに蝋燭の火を灯す巫女さん)
 
辺りが真っ暗になる7時から、舞殿で筝曲が演奏されます。
お琴と言えば和様で、古風ですが、演奏は現代風です。
真っ白なドレスも、音楽のアレンジも革新を感じます。
鎌倉は昔から伝統と革新がミックスされた町でした。
屹度革新好みの住人が多いのでしょう。
静御前もビックリです。
石段に腰を降ろして筝曲を楽しみます。
 
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 (特等席は本殿前の石段です)
 
旧盆の14日頃から三日間奈良の春日大社では「中元万灯篭」が催されます。
春日大社の森影が灯篭の灯りに浮かび上がります。
石灯籠、釣り灯篭、3000基の灯りは幻想そのものです。
春日大社の万灯篭の歴史は800年、鶴岡八幡宮のぼんぼり祭りの歴史は70年余り、歴史も規模も奈良には遥か及びません。
でも、丁寧に描かれたぼんぼりの絵を見ると、作者の鎌倉や八幡宮への愛着が良くわかります。
世相も見えます、有名人の作品も混じります。
住人参加型であることが、鶴岡八幡宮の長所でしょう。
 
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雨は一層強く降りだしました。
ぼんぼり祭りは八月6日に始まり、明日9日が最終日です。
和紙が破れてしまったのではないか?
絵の具が流れてしまったのではないか?
心配です。
ぼんぼりの作者はもっともっと心配していることでしょう。
 
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青林檎を実らせる「椿」(宝戒寺にて)

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鎌倉小町大路の付け根にあるのが「宝戒寺」です。
後醍醐天皇の命に従って関東の武士が蜂起します。
北条高時(14代執権)は新田義貞が指揮する討幕軍に攻められます。
自邸から滑川を渡って直ぐ先、衣張山の麓、腹切櫓で自害します。
天皇は北条一族の霊を慰撫するため、その屋敷跡に寺を建立させ、「宝戒寺」としました。
 
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                              (満開の百日紅、根元には白萩が茂っています)
 
 
幕府を設立した盟友であった「三浦一族」「和田一族」そして「比企一族」、
北条一族は盟友を次々に攻め上げ、いずれも滅亡させてしまいます。
かくして、北条一族により鎌倉幕府は席捲されてしまいます。
後醍醐天皇の命に従った北関東の武士団が攻め上がりました。
既に、北条一族に味方してくれる武士団も居ません。
三浦一族のように滅亡する他に術は無い、悟った事でしょう。
稲村ガ崎を破られ、鎌倉府内に敵軍が攻め入るとたいした抵抗もせず、自決してしまいます。
 
「後醍醐天皇は北条一族の霊を慰めるため・・・」と言うより、
「封じ込めるため宝戒寺を建立した」と表現した方が適切のような気がします。
ご本尊は端正な地蔵菩薩像(国重文、1365年三条法印憲円作/多分京都仏師)です。
その周囲に閻魔大王はじめ十王像が取り囲んでいます。
ご本尊前には護摩壇が設置されています。
宝戒寺の建立法要に際して、後醍醐天皇や足利尊氏は、北条一族の霊が祟らないよう私邸跡に封じ込めた・・・・、思っていた事でしょう。
 
 
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                                 (本堂から蝉時雨の庭を見る。緑が新鮮で・・・)
 
江戸時代に入って天海僧正は家康に懇願して、宝戒寺を天台律宗の故寺として保護させています。
私達が参詣するのは江戸時代修復された宝戒寺であります。
 
人は草花に癒されます。
霊とて同じでしょう。
宝戒寺は四季折々の草花に飾られます。
北条一族の霊を慰撫するかのように植栽された草木は参詣者も癒してくれます。
特に秋の白萩は有名です。
萩の葉に宿した露がキラリ光って落下する様子を見ると、
 「無常憑難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん」
道元の訓えを思い起こします。
もう一月もすれば咲き出すことでしょう。
 
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                                                (無患子の実)
 
春には椿が盛んです。
寺作成の栞には「108種の椿が咲く・・・・」書かれています。
108は人間の煩悩の数、美しい花は煩悩の因であるので、その語呂合わせでしょうか?
実際に108種もあるのかも知れません。
でも、萩が白萩1種、椿は108種、明らかな対比です。
 
本堂に座ってしばし外を眺めます。
もう、ニー二ー蝉は終ってアブラ蝉、ミンミン蝉の蝉時雨です。
お坊さんは本堂の南側で塔婆に筆を走らせています。
流石に大寺の卒塔婆の数は尋常ではありません。
アブラ蝉のようにジリジリしながら、先を急がねば施餓鬼会の法要に間に合わない事でしょう。
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遠くに見える大樹が杏の木、その前の古木が無患子(むくろじ)です。
もう、梢の先には実が沢山着いています。
秋も深まれば落果します。
この実はお数珠になります。
5年ほど前、台風一過、拾った事がありました。
ドリルで穴を空けて、お数珠にしよう・・・・、その時は思ったのですが、今も机の中にしまわれたままです。
 
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その手前に、青林檎のような実を見つけました。
相当に重いのでしょう。
枝が垂れ下がっています。
色艶も緑で光っています。
「何だろう?」お坊さんに訊ねてみました。
結果は「林檎椿」とのこと。
なるほど、なるほど、椿であって、実は林檎のように形が良い、との事でしょう。
で、花は・・・・どんなに美しいのか?
気になります。
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          (本堂脇にブル下がった林檎椿、これなら椿油も沢山搾れそうです)
 
家に帰って調べてみました。
林檎椿は「藪椿」と同じ仲間であるとの事、花の写真も藪椿と特段変りません。
屋久島の林檎椿は有名である・・・ガイドされていました。
更に、夏は青林檎だが、秋になれば紅玉に変わるそうで・・・・・。
一年中楽しめる椿だそうです。
 
椿は美しく、種を搾った「椿油」は髪に使われます。
美しいので資生堂はシンボルにしたのでしょう。
でも、落花する様が切腹を連想させる・・・・・武士には嫌われたそうです。
腹切櫓があるので108種もの椿を自生させているのでしょうか・・・・?
 
そんな詮索をあざ笑うように、林檎椿の実は、ブラーン、ブラーン、ぶら下がっています。
 
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こちらは普通の藪椿の実
 
 
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宝戒寺の百日紅

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鎌倉宝戒寺の境内は蝉時雨でした。
参道の桜に始まり、スダジイ、枝垂れ梅、杏子などの古木には蝉がそこかしこに留まって、賑やかです。
蝉は卵幼虫での地中生活が7年、羽化して地上生活が1週間、と言われています。
地中より地上の方が楽しそうです。
自由に飛び回れるし、太陽や風の恩恵もあります。
真っ暗な地中で木の根を吸いながら大きくなって獲得した自由を、楽園生活を賛歌するように、鳴いているかのようです。
白萩の枝先にも、夏水仙の花弁の先にも、蝉の抜け殻、空蝉が着いています。
子供の頃読んだ本には「鳴いているのはオスだけ、結婚したいよ、結婚したいよ」と鳴いてます・・・、書かれていました。果たして本当でしょうか?
私は鳴いているオスに吸い寄せられるメスは見たことがありません。
結婚したいのなら、蝶やトンボのように、オスはメスを追いかけたり、待ち伏せするのが理に適っています。
 
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                          (夏水仙の花、二つの空蝉が着いています。境内は蝉の楽園です)
 
蝉の生態は別として、宝戒寺には見事な百日紅があります。
今日は百日紅を見に来たのです。
今夏は異常に暑い、暑さには閉口しますが、南からやってきた百日紅には好都合です。
見事に咲きました。
 
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この百日紅は太子堂の前、左右に二本植えられています。
聖徳太子を飾る目的で植えられたものです。
紅白ではなく、左右共に赤い花です。
右に左に丸い山のように花が咲いて、その間に太子堂が埋もれているようです。
 
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仏教伝来が7世紀、最も貢献したのは聖徳太子でしょう。
太子の死後、伝説化し信仰の対象に変化し始めます。
太子信仰が一気に盛り上がるのは12世紀、鎌倉時代でした。
仏師としては運慶が出現、仏像に人間的な造形を求めます。
宗教界では革新運動が盛り上がり、浄土を教える親鸞や一編らは共通して聖徳太子を説きます。
聖徳太子が救世観音(法隆寺)の姿になりました。
「衆生は偏に阿弥陀様に帰依することによって救われる」・・・・・・、
彼等の教えの正当性の一つに「太子信仰との共通性」がありました。
 
鎌倉時代の時代空気が人間主義に傾き、日本の古代を思い起こすと、聖徳太子に回帰したのでしょう。
聖徳太子は歴史的存在から、信仰の対象に昇華しました。
宝戒寺に立派な太子堂があって、二本の百日紅が飾っているのも納得です。
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    (聖徳太子像、お顔は拝めませんがどうも16歳太子像/孝養図、が祀られているようです)
 
聖徳太子(厩皇子)は明日香の橘寺で生まれます。
寺の西側には遥か二上山が聳えています。
その山の肩を越えて、竹内街道と呼ばれる古道が通っています。
山を越えれば難波の四天王寺に続く、所謂太子道です。
此処が太子信仰のメッカです。
そう思って宝戒寺の百日紅を眺めると、花の塊りが二上山のように見えてきます。
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                       (遠くから眺めると二本の百日紅が二上山のように見えてしまいます)
 
 
 
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辻の薬師と百日紅の花歩き

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明治22年6月横須賀線が開通します。
軍港としての横須賀の重要性が増大した事から、鉄道が計画され横浜から国道16号線に沿って南下する計画と(現在の京浜急行)、大船から鎌倉逗子を経る計画と2案が検討され、現在の横須賀線になったそうです。
鎌倉、逗子、横須賀三駅が設置され、何れも平屋建て木造建築でした。
「いずれ3駅セットで、文化財として保存されるかも・・・・・!」
期待していましたが、数年前立て替えられてしまいました。
 
電車が鎌倉駅を発つと直ぐに高架で若宮大路を越えます。
次いで小町大路を踏み切りで通過します。
この踏切辺りが「小町大路の辻」でした。
若宮大路に平行して南北に走る道が大路、小町大路は最も賑わう道でした。
そして若宮大路から東西に走る道が小路、小町大路と小路との辻は最も人だかりがしていた事でしょう。
鎌倉市民は「辻の薬師」と呼んでいます。
辻の薬師の南は「元八幡」(鶴岡八幡宮の古宮が祀られています)、そして薬師の東に本興寺があります。
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横須賀線の計画地に「医王山長善寺」と言う真言宗のお寺がありました。
その本堂を取り壊して線路にしてしまいました。
計画したのが廃仏稀釈の盛んな時、一方で国威高揚が叫ばれ、明治天皇が海軍謁見するため・・・などとなれば鎌倉の寺などどうでもよかったのでしょう。
本堂の薬師如来立像(平安後期作)、日光月光菩薩像、十二神将像等の諸像は八幡様の国宝館に収まっています。
でも、薬師講は現在も盛んに営まれていて、時折お年寄りが狭い堂内にひしめいています。
私がカメラを向けると、「寄ってらっしゃい、お茶でもどうぞ・・・・」そんな風に呼びかけて下さいます。
お薬師さまは今でも信仰を集めています。
 
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    (本興寺の百日紅、今年は本堂工事中ですから、少し見栄えがしません。でも湘南最大の百日紅です)
 
本興寺は日蓮の弟子「天目」が開基です。
三門前には「日蓮上人辻説法霊蹟」の碑が立っています。
辻説法跡としては小町大路を600メートルほど上った道路右が有名ですが、同所は辻ではありません。
本興寺前の方が史実に沿っているように思えます。
 
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     (辻説法碑から、三門越しに百日紅を見る。)
 
本興寺の境内には子守をするお年寄りの姿が見られます。
また、境内は駐車場に利用されています。
特段、観光客が集まる材料も無い、市井のお寺です。
でも、お盆の季節は一寸違います。
大きな百日紅が咲いて、カメラマンを集めるのです。
 
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   (一昨年の百日紅/本興寺)
今年は本興寺さんは本堂の瓦を葺き替えておいでです。
6月から工事が始まり、お盆休みが入って、秋の彼岸までには終えたい・・・・そんな雰囲気です。
流石に工事期間中、今年はカメラマンも居なければ子守のお婆さんも姿が見えません。
ただ、植木屋さんが入っていました。
百日紅の根周りを綺麗にして、ひこばえ(根元から出た若芽)を刈っていました。
私は植木屋さんに声をかけます。
ご意見は以下の通りでした。
・本興寺の百日紅は鎌倉藤沢で最大の幹周りである。
・しかし、樹齢は300年には届かないであろう。
・野放図にされているので、美しく咲かせるには隔年おきには手入れをする必要がある。
 
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  (本堂の甍がバックだと百日紅も引き立って見えます)
 
小町大路は百日紅通りです。
北から、宝戒寺(昨日記述)、本覚寺(記述)しして本興寺、更に材木座の補陀洛寺、光明寺と・・・・お寺のモニュメントツリーに育っています。
勿論百日紅は、お盆からお彼岸にかけて、参拝者、墓参者を迎える樹であります。
また、同時にお釈迦様の生誕において傍らで咲いていた無憂樹を想わせる聖樹でもあります。
ライラックにも似た百日紅がお好きな人も多いのでしょう。
其処此処のお屋敷のお庭にも百日紅が見られます。
まるで、百日紅の無い庭は鎌倉住人ではない・・・言わんばかりです。
汗を拭き吹き、百日紅回りも良いものです。
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弥生式土器、お腹に空いた穿孔の謎

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筆者が会長を務める上倉田地区連合会では、昨年から夏休みに「上倉田歴史教室」を開講しました。
毎週水曜日に2時間の講座を準備するのは大変な苦労であります。
でも、継続が大切、空しくなる気持ちを押し殺して、地域の歴史を紐解いています。
 
今年、講座の皮切りは「上倉田遺跡、出土品の見学」でした。
 
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                 (今日のテーマはこの弥生式土器、甕の腹部にある穿孔です)
 
現在、戸塚の柏尾川は片瀬の河口に比べれば水位は1.5メートルしかありません。
1万年前には海が戸塚の低地まで入組んでいたと想像されます。
海に臨んだ丘陵は縄文時代人、弥生時代人の住居がありました。
彼らは、高台に住まいを構え、狩猟生活、農耕生活にいそしみます。
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  (右上部に柏尾川が望める明治学院大学キャンパス。右端YK2が上倉田第二遺跡、左端YK1が上倉田第一遺跡)
 
昭和60年、上倉田の丘陵地帯を開発して明治学院大学の国際学部などが移転してきました。
開発に先立って遺跡調査を開始します。
調査したのは慶応大学、明治学院大学の学生ボランタリーの協力を得て、調査を終了します。
上倉田第一遺跡は現在の国際学部の校舎の辺りにありました。
縄文時代から、弥生、古墳時代にかけて、出土がありました。
上倉田第二遺跡は現在の事務所棟辺り、こちらは弥生時代の出土がありました。
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    (明治学院横浜キャンパス。正面奥が上倉田第一遺跡、百日紅の後ろが図書館)
 
出土品は約4000点、そのうち形の整ったものが図書館二階に展示されています。
私達は1万2千年前から2千年前迄の上倉田に思いを馳せます。
「素晴らしいものがあった」
「思いのほか立派な土器が出土したものだ!」
「霧が峰とまで交易があったとは驚きだ!」 等と感動します。
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   (展示室から図書館を見下ろす)
 
沢山の展示品の中に二つの甕のお腹に目が吸い寄せられます。
甕は妊婦のお腹のように丸く膨れています。
そのお臍の位置に1センチ余りの穴が空いているのです。
土を練って固めた後に穿孔され、その後焼結されたものです。
焼結した時の炎の後が、赤膚の中に黒々残されています。
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   (弥生式土器の展示コーナー、左端の甕に穿孔があります)
 
「何故、お腹に穿孔したのか?」
「甕に穴を空けたら、役に立たなくなりはしないか?」
当然のように、疑問に陥ります。
でも、誰も解りません。
筆者は慶応大学が作成した発掘報告書を読みましたが、この事には触れていません。
 
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(方形墳墓の跡。上倉田第一遺跡には4基発掘されました。穿孔のある土器はこの副葬品と判断されています)
 
家内が中野堯正氏(開発時に横浜キャンパス開発責任者)の文章「上倉田遺跡展示品について」を発見しました。
その中で、こんな説もある、として照会しておいででした。
①穿孔のある弥生式土器は副葬品である(上倉田第一遺跡には4基の方形墳墓を発掘しています)
②副葬品は死者の霊が地上に戻ってきた時に使用するものである。
③地上に戻った霊が長くその場所に留まって欲しくない・・・そうしたときに甕(穀物や水を入れておく)に穴をあけておいたのではないか?
 
明日はお盆の迎え火を焚きます。
意味する所は、先祖の霊が戻っていただくために、その道灯りにするためです。
16日には送り火を焚いて、霊にお戻りいただく、その足許を灯すためです。
我が家に留まっていただくのは僅か3日間です。
 
では、先祖の霊は何処から来たのか?
何処に戻るのか?
極楽や天国に行った筈だから・・・・天国に戻るのか?
それとも、霊園墓地に戻るのか?
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                       (大文字焼き、京都観光協会HPから)
京都五山の山焼きは「お盆の送り火」です。
京都の人達は霊は五山の山頂に居てくれる・・・・そう思っていることになります。
五山の山頂から、子孫の生活を見守り、お盆の三日間だけ我が家に戻って憩って帰る・・・そう信じているのです。
中野氏の紹介した説が正しければ、こうした死生観は、弥生時代にまで遡る、と言う事になります。
 
でも、この甕を骨壷だと思えば、この穴は死者の霊が息をしたり、出入する口と想像できます。
吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の甕棺墓(かめかんぼ)には屈葬した幼児の骨などが発掘されています。
でも、この甕の中から骨が発見された、そんな報告も無いので、此方の仮設葉は無理なようです。
 
 
弥生式土器のお腹に空いた穿孔から、2千年にわたる日本人の死生観が覗けるようです。
想像をめぐらすと、ヤッパリ考古学は面白そうです。
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   (上倉田歴史教室の見学風景)

高砂百合が群れ咲く常楽寺(北条泰時を偲んで)

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道路脇に咲く真っ白な百合、「高砂百合」が目立つ季節になりました。
高砂とは、台湾の事、ですから台湾が原産の百合、との意味でしょう。
初夏に山百合が咲き始め、盛夏には鬼百合や笹百合が咲き、百合の花の締めくくりが立秋後に咲く、高砂百合でしょう。
庭先に咲く「鹿の子百合」が箱入り娘ならば、高砂百合は悪餓鬼のようなもの、陽の光さえ当ればどんな荒地でも逞しく棲息します。
多くの百合が主として球根の株分けで増えるのですが、高砂百合は種子が飛び散り、発芽するのでしょう。
その生命力は驚愕するに充分です。
横浜横須賀道路、朝比奈近辺は両側の則面に群生しています。
ドライバーが見取れて、交通事故を引き起こさないか、心配なほどです。
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  (常楽寺三門、お盆の墓参りの人が続きます)
 
高砂百合の見所が大船の常楽寺です。
常楽寺の山号が「粟船山」・・・・・粟船が大船に転じて地名になったと言われています。
常楽寺に群生している高砂百合の種子が飛び散ったものでしょう。
参道に面した民家の庭も、常楽寺の野菜畑も、駐車場も辺り一面、高砂百合が咲いています。
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   (常楽寺参道)
 
 
群生のピークは仏殿の東側です。
其処の地面は小石が敷き詰められています。
屋根に降った雨が、雨垂れになります。雨垂れが飛び散って仏殿を傷めないようにする訳です。
その小石の中こそ高砂百合にとっては適地なのでしょう。
屋根に沿って、一列に群生しています。
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   (高砂百合は仏殿の庇に沿って群生しています)
 
 
仏殿の本尊は阿弥陀如来、開基は二代執権北条泰時でした。
泰時が妻の生母の菩提を弔うため建立したもでした。
阿弥陀如来の脇に開山蘭渓道隆が祀られています。
そして、仏殿の真裏、槙の垣根に囲まれた一角に北条泰時が眠っています。
五輪塔らしいどっしりした石積みは如何にも鎌倉武士らしい存在感、骨太の気性を表しているようです。
 
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  (泰時は義理の母の菩提を弔う為常楽寺を建立した。で、本人は僅か1坪の墓地に眠っています)
 
泰時は高校の授業では「御成敗式目」を作った人物として紹介されました。
紛争が生じると兎角力のある者、地位の高い者の主張が認められる傾向が生じてしまいます。
それではいけない、泰時は「裁判のルール」御成敗式目を作成、裁判の公正・公平・公明を図ります。
泰時のエピソードは仏教説話集「沙石集」や吾妻鏡に出てきます。
 
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在る孝行息子が居ました。
親爺が散財して、父祖伝来の土地を失ってしまいます。
長男は歯を食いしばって働き、その土地を買い戻します。
ところが、親爺はシッカリ者の長男ではなく、甘えん坊の次男に土地を相続させようとします。
泰時は長男に同情します。
しかし、御成敗式目に従って次男の勝訴を判じます。
話はこれで終りません。
その後、長男は結婚します。
でも、貧乏生活は続いています。
突然に領主の欠けた土地が出て来ました。
泰時はこれを長男に下賜します。
すると長男は感謝の言葉をこう述べます。
「私は長い間貧乏をしてきたので、妻にも義母にもひもじい暮らしを強いてきました。これからは妻や母をいたわって暮らしてまいります」
泰時は改めて長男を誉めて激励します。
 
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                 (泰時の墓、槙の垣根には空蝉が沢山ついています)
 
この話は常楽寺建立の経緯にも共通する「人間としての道理」に根差しています。
鎌倉時代の武士は、偉い人も貧乏な人も共通して「人間の道理」に適っていました。
法律は便宜、法律以上に大切なものは「道理」とわきまえていました。
 
昨今の社会風潮の嘆かわしい状況は目を覆うものがあります。
「道理」は忘れて、裁判が至上、金が最高価値・・・・・。
 
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   (高砂百合、背後は文殊堂)
常楽寺に咲き乱れる高砂百合を見ると、北条泰時を思い起こします。
百合はキリスト教では聖母マリアを象徴する花です。
純潔、純白を表します。
「良心に向って正直でありたい」「人間としての尊厳を守りたい」
白百合は善き人に諭してくれます。
泰時は私の墓の周囲に咲いた白百合を楽しんでいる事でしょう。
 
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   (庭の鹿の子百合、同じ百合でも・・・随分違います。勿論両方好きですが・・・)
 
 
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桜色の「サルスベリ」

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「サルスベリ」を漢字にすると「猿滑」、でも「百日紅」と書いてもサルスベリと読みます。
屹度昔はサルスベリは紅色一色だったのでしょう。
一昔前は紅色が殆どで、時折真っ白いサルスベリを見つけて、「白も良いものだ」思ったものでした。
でも、人間の欲望は強かったからでしょう。
最近では薄紅色、藤紫色のサルスベリを見つけます。
そして、桜色のサルスベリとなると・・・・ライラックの新種かと見違えてしまいます。
 
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横浜環状三号線は、東神奈川から新横浜、東戸塚を経て数年前湾岸線の磯子に繋がりました。
横浜の環八に相当する道路です。
そして、上永谷の辺りは新興開発地です。
何故か、ラーメン店が軒を並べていて、ラーメン街道の観を呈しています。
観察していると、お店の新陳交代は激しく、ラーメンも大変な仕事のようです。
 
道路の真ん中を河川が流れています。
名前は「馬洗い川」、北条政子が遠出をして、愛馬を洗った事からこの名があると聞きます。
流石に「尼将軍」、鎌倉府内から此処まで馬駈けしていた訳でしょう。
本来なら「源政子」と呼ばれるべきところ、北条政子と呼ばれるのは、男勝りだったから・・・・・。
夫婦別姓は、12世紀には当り前でした。
 
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一昔前までは辺鄙な上永谷でしたが、環状道路と市営地下鉄の開通で一変しました。
私の住む倉田より遥かに明るくお洒落な街に変貌しています。
環状道路には楡の並木が育って、まるで甲州街道のようです。
そして、高木の楡の間に様々な色のサルスベリが植えられています。
 
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一際大きくて、花の房が大きいのが桜色のサルスベリです。
サルスベリの花は散ったら、直ぐにその跡に蕾が膨らんで新しい花を咲かせます。
ですから、「花が百日も咲く」と書いてサルスベリと読むのです。
頭上の百日紅は満開で、根元の地面は落花の花弁で覆われている・・・・、そんな風情になります。
 
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フワフワの花柄はお飯事をして遊びました。
懐かしい味があります。
まして、赤、白、藤色、桜色と揃えれば、もっともっと楽しかった事でしょう。
最近は次々に新しい種の花がお目見えします。
楽しみな事です。
 
 
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