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残念!「来迎寺」のミモザの大樹

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今年の春は寂しい事があります。
我が家の門脇で樹齢30年余りの姫リンゴの樹が枯れてしまったのでした。
昨年までは、毎年沢山の花をつけて、実をならせてくれていました。
枯れ木を切り倒すと、髄に鉛筆程の穴が三つも四つも空いていました。
カミキリムシの幼虫が巣食っていたのでした。
焚き木にして燃やすと、リンゴの香りがしました。
子供達の成長を見守ってくれた・・・・、樹でした。
すっぽり空いた空間が・・・・・、寂しいものです。
 
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       我が家の姫リンゴ、枯れてしまいました。髄をカミキリムシに食い千切られたのが原因です。
 
春も盛りです。
私は、鎌倉材木座の来迎寺に向かいました。
門前に見事なミモザがあって、この季節真っ黄色の花をつけるのです。
一つ一つの花は小さく、丸いので・・・・・、そして緑の葉っぱはとのコントラストが鮮やかです。
 
ミモザサラダがあります。
レタスの上に裏ごしした卵黄を振りかけたサラダです。
来迎寺のミモザは、丸い樹形で、まるで大きなミモザサラダでした。
私は去年もこのミモザの樹下を楽しみました。
梢の先を見上げると、真っ青な空に二筋の飛行機雲が伸びて行きました。
 
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        鎌倉材木座の来迎寺、昨年まではミモザの大樹があって・・・・、本堂は見えませんでした。
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                                              昨年の来迎寺山門のミモザの樹
 
ところが、今年はあのミモザがありません。
どうしたんだろう?
樹のあった処で確認します。
直径50センチほどの切株が残っています。
でも、その髄が20センチほど腐ってしまっています。
でも、髄の周囲の木質部は健康そうで、良い質感なんですが・・・・。
 
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                                                 来迎寺山門にあったミモザの切株。
 
お墓詣りの参詣客に尋ねてみました。
「何故枯れたのですか? 虫が付いたのですか?」
「本当に、お寺のシンボルだったのに・・・、枯れてしまって残念です。虫が付いたようにも見えなかったのですが!」そう、ミモザはアカシアの仲間ですから・・・・、甘い香りがします。
カミキリムシも好物でしょう・・・・。
でも・・・・、カミキリムシにやられた我が家の姫リンゴの・・・、致命傷とは随分違います。
何か・・・、病気にかかったのでしょう。
 
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                                来迎寺無縁仏の塔。頭上に見事なミモザが覆っていました。
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          ミモザの樹下は・・・楽しい発見が幾つもありました・・・のに・・・・。二筋の飛行機雲。
 
 
樹下には無縁仏が・・・塔のように積み上げられています。
その仏さんたちも・・・・今年はミモザサラダが見えなくて・・・、寂しそうです。
西側には・・・、幼稚園があります。
園児たちも・・・・、庭の先に見上げた…、ミモザサラダが見えなくて・・・・、寂しい事でしょう。
 
お寺さんにミモザは少しハイカラに過ぎたような気もします。
でも、春を告げる嬉しさは・・・、他の樹を圧倒して見事なものです。
屹度住職が洋行したりして・・・・、この樹がお好きだったのでしょう。
お寺さんも枯れてしまった事が残念だったことでしょう。
新しい・・・・、ミモザが植えられていました。
小さくても精一杯花をつけていました。
往年の景色に戻るには・・・、半世紀はかかるでしょう。
 
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        右端、無縁仏塔の脇に新しいミモザが植えられています。往年の姿になるには50年はかかるでしょう。
 
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 来迎寺は源頼朝が大恩のあった三浦大介義明の菩提を問貰う為に建てたお寺です。(建久5年/1194年)。
 本堂横には義明の五輪の塔があり、本堂裏には三浦一族のお墓があります。写真は義明のご家来衆のお墓で  す。ご本尊は(阿弥陀三尊)は運慶作と言い伝えられますが、筆者は未だ拝観した事がありません。
   
 
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長生郡「妙楽寺」のガマ合戦

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房総半島の略中央部に「長生郡」があります。
山から白子海岸まで広がる自然豊かな所です。
その、奥深い山の中に「妙楽寺」があります。
平安時代、慈覚大師円仁が開基と伝えられる、山岳密教のお寺です。
 
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                                 房総半島長生郡にある密教寺院の「妙楽寺」本堂。
 
山の麓に杖があります。杖を頼りに急な石段を10分ほど登れば本堂の前に出ます。
   (車で本堂の裏にある駐車場に出る事も可能です)
鬱蒼と茂るスダジイの森です。
根元はゆうに8mはあるでしょうか?
土が崩れないようにガッチリ大地に根を張っています。
堅牢地神とか荒神を地で行く弩迫力です。
前回詣でた時も春の彼岸の頃、この根元に大きな山かがし(蛇)が居ました。
私が根元に祀られた無縁仏を見ているとき、その足元をゆっくりゆっくり動いていました。
山かがしは既に私に気付いていて・・・・、忍ぶようにスダジイの根元に隠れようとしているのでした。
地面が暖かくなったので、冬眠から覚めたばかりだったのでしょう。
 
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    驚愕のスダジイの大木が茂っています。その根っこの洞が蛇の巣です。この石仏群の陰で良く山かがしに脅    かされます。
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       豊かな自然は石仏を美しく彩ってくれています。総てが江戸時代の墓標仏です。
       石に生す苔の名は知りません。背後がスダジイの根っこです。
 
広い境内には”ゲロ・ゲロ ゲコ・ゲコ” 賑やかな声が響いてきます。
そう、お寺の庫裏の裏に古池があって、其処から響いてきます。
そう、冬眠から覚めたガマガエルが「蝦蟇合戦」の最中なのです。
私と家内はガマ合戦の見物に、
庫裏の裏に回ります。其処は台所の先にありました。
 
古池の中央でガマガエルが取っ組み合っています。
もう、8匹程は集まって、団子状態です。
その中央に雌のガマが居る筈です。
その周囲に雄どもが集まって・・・・、雌のお腹を押さえて・・・・、産卵を促します。
産卵した瞬間に精子をドバっと輩出して・・・、水中で受精させるのです。
団子から弾き飛ばされた雄ガエルは・・・・、再び団子に乗っかって・・・、男の役割を果たそうとします。
 
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    妙法寺庫裏裏にある古池。中央の大きな塊がガマ合戦です。周辺部にもガマが居ます。崖の穴は根菜類の     貯蔵庫です。この池で野菜を洗ったり、防火用水の役割を果たしてきました。
 
池の端っこでは負けた蛙がじっと見つめています。
要領の良い合体したまま・・・・、静かに出産しているカップルもいます。
周囲は心太(ところてん)状の卵がニョロニョロしています。
 
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    此方は二匹で仲睦まじいガマガエルのカップル。下の蛙が雌で、上に乗った雄が脇腹を押さえています。
    すると、心太状の卵がお尻から排出されます。その時雄は精子を放出して、水中で受精させます。
    二匹の周りはもう卵で一杯です。
 
 
 
”痩せガエル 負けるな一茶 ここにあり”
小林一茶が小布施の岩松院の池で作った俳句だそうです。
お寺の方丈池には句碑が出来ており、ガマガエルも置かれています。
奥信濃の春は未だでしょうから・・・・、ガマ合戦は志賀高原の雪融けの頃、4月中旬になる事でしょう。
 
貧乏農家に生まれた一茶でした。
家督は腹違いの弟仙六が継いでいました。
父親弥五兵衛の13回忌の法要で、ようやく財産の分与を受けられました。(文化10年/1813年、51歳)
その翌年、菊という名の嫁を娶ります。一茶52歳、菊28歳の、二回りの齢の違う結婚でした。
 
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       蛙合戦に夢中の雄ガエル達。もう、下に隠れた雌ガエルは窒息死していると懸念されますが・・・・、
       雄達のアドレナインは止まりません。
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       手前が泥沼の中で夢中にガマ合戦を繰り広げるガマ君たち。少し距離を置いて見守る雄も居ます。
       これが、負けガエル、痩せガエルです。
 
一茶はこまめな男で、妻の月経も、愛した回数もメモしていました。
文化12年1月には次のようにメモしています。
1月20日、善光寺に赴いていて、我が家に帰る。 曇り、柏原に入る。夜夕飯
1月21日、晴れ 墓参 夜雪 交合ス
1月22日、晴れ 昨夜窓の下で茶碗・小茶碗、人に障らざるに微塵に破る。妻言う、怪霊の事。股引、褌を洗う。
 
こんな会話が夫婦の間で取り交わされていたものと思います。
結婚して、直に菊は妊娠しました。(文化13年1816年)
1月はもうお腹も大きく・・・・、交合は好ましくないにも関わらず、一茶は毎晩のように求めてきます。
   善光寺の初詣でをして、墓参もしました。
1月21の夜も雪が降っていたので・・・、
   布団に早く入ると・・・、一茶が求めてきます。
   菊は「親の命日は精進日で潔斎しなくては・・・・・いけませんよ、今晩は止しにしましょう!」
   言ったのでしたが・・・・・、一茶は承知しません。
 
1月22日、昨晩交わってしまったので・・・・菊は潔斎しなければいけないのにと言って・・・、怯えています。
    災い除けの為に茶碗類を木端微塵に割りました。昨晩着ていた股引や褌も綺麗に洗いました。
 
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                           小布施岩松院の方丈池。此処が一茶の句の舞台と言われています。
 
その年の4月14日菊は男子を産みます。ところが痩せ細った虚弱児でした。
一茶は善光寺にお参りして、赤子の無事を祈願します。
小布施の岩松院の仏前に額づきます。
その時につくった俳句が前述の”痩せガエル負けるな一茶ここにあり”でした。
倅の名は千太郎と付けました。
 
5月11日、未明に千太郎は息を引き取ります。
突然な事で一茶は看取る事も出来ませんでした。
寝釈迦(ネブッチョ仏)のように、死に装束に包まれていました。
ホトトギスがけたたましく啼いていました。
  時鳥(ほととぎす)ネブッチョ仏ゆり起こせ
一茶はわずか28日で命の炎を消してしまった我が子を激しく揺すって「目を開けてくれ」叫んだことでしょう。
 
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                            此方は我が家近くのガマ合戦。妙楽寺に比べれば未だ若造です。
 
菊は出産前後の疲れと、我が子を失った悲しみで家出をしてしまいます。
でも、同年8月に戻ってきます。
一茶のメモは続きます。
8月17日 晴 墓詣 夜三交
8月18日 晴 夜三交
8月20日 晴 三交
8月21日 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯 四交
一茶はもう子供が欲しくて・・・、たまりません。
もう、・・・、尊敬するというより、呆れるばかりです。
すこしは間を置いたら良いだろうに・・・。
 
妙楽寺のガマ合戦を見ていて・・・・、小林一茶の話に脱線してしまいました。
 
蝦蟇たちはもう夢中です。
もう2、3日もすれば、古池は元の静寂に戻る事でしょう。
古池にはガマ合戦で息絶えたガマが数匹浮かんでいる事でしょう。
そうして、この場所には無気味な山かがしが集まって来て・・・・、小さな蛙を食べ尽くそうとするのでしょう。
 
こうした大自然の営み自体が・・・・・、山岳密教・・・その物なのかもしれません。
明日は、その密教美術をご案内する積りです。
 
我が家のガマ君も合戦からもうじき無事帰還する事でしょう。
 
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   昨年ガマ合戦から帰還した我が家のガマ君。もう、右前指は骨折していましたが無事に再生するのでしょう。
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   ガマ君(右端下)を呆然と見送るワンちゃん。 
   もう、ガマは威風堂々のご帰還でした。ことしももうじき見られることでしょう。
 
 
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房総「妙楽寺」、凄味の大日如来像

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昨日は妙楽寺の豊かな自然をガマ合戦を素材にご案内しました。
同寺の魅力はもう一つ山岳密教の仏教美術があります。
大自然と、密教美術が相まって私を虜にしています。
今日は、密教美術を、ご本尊の大日如来を中心に説明いたします。
 
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                                                       妙楽寺本堂。
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                                 妙楽寺本堂は奥行の方がある建物です。   
 
長く急な石段を、杖を頼りに登る事10分で本堂の前に出ます。
本堂は四方流れの和風建築です、案内板によると享保年間(1716~1736)に建て替えられたものだそうです。
間口6間、奥行き7間と、奥行きの方が長いのは、内陣が広く加持祈祷を行う空間が充分に取られているからです。
江戸時代とはいえ、古代、中世の密教寺院にそん色ない荘重な建物です。
内陣には格天井に絵が嵌められ、鏡天井には狩野継信により昇り竜が描かれ、欄間の彫刻も素晴らしいものです。
”これは、素晴らしい”
興奮の頂点には・・・・・、ご本尊の大日如来が内陣中央に結跏趺坐して居られます。
 
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   本堂正面の蟇股には枇杷を食べる猿が刻まれています。江戸時代には枇杷が房総の名物だったのでしょう。
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                                          欄間彫刻がまた素晴らしい・・・。
 
 
大日如来の御開帳は毎年一度だけ、2月の第一日曜日ですが、
普段は本堂の扉を少し開いて堂内に入理拝観が出来るようになっています。
二本の灯でライトアップされていますから、隅々まで良く拝観する事が出来ます。
唯、少し赤味のあるライトのようで・・・・、最近はやりのLED照明にしたら・・・・、保存にも良いし、自然光にも近い様に思えます。
多分、護摩を焚いた・・・、その炎に照らしだされる大日如来を見て欲しい・・・、
そんな思いが赤味のある照明になっているのでしょう。
 
大日如来には二種類あります。
一つが忍者のような印(智拳印)を結んだ金剛界大日如来です。
此方が動の世界なら、定印を結んだ胎蔵界大日如来は静の世界です。
仏の教えの奥行きの深さを示しているのでしょう。
妙楽寺の大日如来は少数派の胎蔵界大日如来です。
この像は本来全身を金箔で覆われていたのでしたが、今では総て剥落して、下地の漆が顕れています。
写真(仏前にポスターが展示されています)で見ると黒漆なのですが、ライトのお蔭で赤味が目立ちます。
 
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    内陣、中央の大日如来。 左右に不動明王、毘沙門天。 須弥壇に始まり格天井、壁絵、欄間彫刻等々、総て    が密教美術の粋を尽くしています。
 
像は所謂丈六(1丈6尺/279㎝)のサイズです。
お釈迦様は大きなお身体で常人の1.6倍もあった…、経典に書かれています。
坐像で1丈6尺ですから・・・・、お立ちになれば5mを超す大きさです。
ウキペディアには一木造りと案内されています。
お寺の案内も「カヤの一木造り」と案内してあります。(千葉県教育委員会)
一方、久野健氏の調査では寄木造りと案内してあります。
真逆の説明が為されていますが・・・・、カヤ材である以上寄木と思われます。
一見すれば、上半身と下半身は別の大木で、両の腕も別材でつくられている・・・、そんな風に見えます。
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            此方が勝常寺の本尊「薬師如来像」像。筆者は妙楽寺大日如来に似た印象を持ちました。
 
待てよ、この仏様何処かで拝んだ気がする・・・。思います。
会津坂下の勝常寺の本尊「薬師如来像/国宝」を髣髴させます。
勝常寺像は平安時代初期、密教文化が盛んになる頃の作ですが、
こちらは平安時代末期、少し時代が遅れまます。
 
平安時代も末期、いよいよ世相は荒れに荒れ、末法時代に突入した・・・思わせました。
此処、房総半島でも大日如来の前で毎日夜加持祈祷に明け暮れたことでしょう。
その、お祈りする先には柔和な仏様では頼りになりません。
都で主流であった定朝様式の仏様では無くて・・・・・、
力強く時代に立ち込めた黒雲を切り開いてくれるような力強さが無くてはなりません。
房総の風土と、房総人の気質がこの大日如来を作らせた…、と思います。
 
定朝の仏像は総じて檜材が使われています。
檜に比べればカヤは木肌が浅黒く、香りも土の匂いがします。
房総にも檜が自生していますから・・・・、あえて檜ではなくカヤを選んで仏像にしたと思われます。
何故なら・・・・、柔和な檜よりもカヤに神性を強く感じたからでしょう。
先の勝常寺の本尊「薬師如来像」は欅の一木造りです。
その土地土地で使われる材は異なります。
堅い欅こそ会津人の気質にフィットしたのでしょう。
 
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      大日如来の右手に不動明王が配置されています。これがまた魅力的です。
 
左肩から斜めに条帛(じょうはく)が垂れて、腰は裳で覆われています。
光背は見事な飛天光背で、音声菩薩が14体も配置されています。
光背は時代が下がって鎌倉時代の補作であろう・・・・・、案内されています。
 
左右に置かれている不動明王、毘沙門天像はご本尊より少し古い、平安時代中期の作であろう・・・、
案内されています。
特に不動明王は頭が体に比べて大きく、東国らしい素朴さと力強さを併せ持っています。
魅力のあるお不動さんです。
妙楽寺にはもう一体有名な鉈彫りの毘沙門天像があるのですが・・・、此方は資料館に置かれています。
 
長生郡の妙楽寺は、
奈良室生寺よりも二回り小さく、国東富貴寺よりも大きく・・・・、大自然に囲まれた環境は両寺にも勝った・・・・、魅せられる古寺です。
 
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   外陣蔀戸に吊るされた沢山のお札・・・・、今も強く信心されている事が伺えます。
 
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                    境内はもう春爛漫です。向こうに見えるのが庫裏です。
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                 境内東端には天台宗のお寺に相応しく日吉神社が祀られています。 
 
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横浜港「大岡川桜クルーズング」

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昨日(3月27日)、大岡川に桜クルージングに出かけました。
インターネットで調べると、ホームページ上は総ての会社で3月30日がスタートです。
そんな事では桜も散ってしまっているではないか?
不審に思って、片っ端から電話を駆けてみました。
すると、京浜フェリー社は1週間早めて、桜クルージングを始めたとの事。
でも、ホームページを更新していないのは・・・・、技術者が居ないからでしょうか?
私なら、無料で”今年は桜が早いので、1週間早めて24日から始めます。”入れて差し上げるのですが・・・。
天気予法を確認すると、26日だけが晴れマーク、そんな次第で昨日家内とウキウキ出かけました。
 
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    三菱重工第一ドッグ後に停泊している日本丸。
    右側(西)の通りが桜通りです。右端の建物がランドマークタワーになります。大岡川桜クルーズの船は日本丸    の東側から出航します。
 
一昨年の桜クルージングは大桟橋の根元から出航しました。
京浜フェリーは・・・・・、日本丸の横から出ます。
大桟橋も綺麗ですが・・・・、日本丸の前は「さくら通り」ですし、桜木町駅も徒歩5分ですから・・・・、勝っています。
出航は10時、早く着いたので、汽車道を散歩します。(汽車道:赤レンガ倉庫から高島埠頭を結んだ鉄路の跡)
海風が冷たいのですが・・・・、満開の大島桜が爽やかです。
 
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     日本丸から赤レンガ倉庫をつなぐ汽車道。鉄路が貨物を運んだ面影を宿しています。
     大島さくらをはじめ幾つも種類の桜が咲きます。
 
大岡川は磯後の氷取沢から北に流れ、横浜港に注ぐ二級河川です。
横浜市民には親しい河川です。
弘明寺の門前を流れ、こがね町の辺りにはスカーフの職人が沢山いました。
私の中学からの友人T君はスカーフや日傘のデザイナーの家で産まれました。
真面目な男で、輸銀に勤めました。
同君の家に度々遊びに出かけました。
職人が絹布に描くのを飽きずに眺めていると・・・・・「貴方は職人の仕事に興味があるのですね!」
お母様から言われました。
T君は「この人は学校で一番絵が上手なんですよ・・・」援護してくれました。
”僕がこの家で産まれれば良かったのに・・・・” 思ったものでした。
窓の下には大岡川が流れていて・・・・、昔(昭和30年代まで)は大岡川で染料を洗っていたのだそうです。
 
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                 大岡川の両岸は桜道です。左(西)は野毛地区、右が伊勢崎地区になります。
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                              もう、200m間隔で橋を潜ります。橋を巡るのも楽しみです。
 
所々に赤レンガの造作物があります。
其処から、商品を積みだして、高島埠頭に停泊している貨物船に運んだのでした。
今では使われていませんが・・・・、跡地を近隣公園にしてあるようです。
そして、スカーフの工房を中心にして・・・、アトリエや展示場にして・・・・、町おこしをしています。
大岡川にも艀(はしけ、注)がたくさんありました。
       注:艀(はしけ/重い荷物を運ぶ筏のような船、動力は無いのでタグボートに曳航してもらう)
艀は輸出輸入品を運ぶとともに、その港湾労働者の住居でもありました。
所謂水上生活者が沢山いましたが・・・・・、もう今では姿はありません。
大岡川は川であり、運河でもあり横浜港の陰の役割を果たしてきたのでした。
中流の蒔田の辺りで中村川と結ばれ、
中村川は元町と中華街の間・・・を山下埠頭の脇から横浜港に注いでいました。
中村川(運河)の水上生活者は1990年ころまでは沢山いました。
艀が港湾革命(コンテナを使った輸送)で使われなくなっても、港湾労働者は艀を住宅として使っていたのでしたが・・・・、動かさなくなった艀は急速に傷んで、消えてしまったのでしょう。
ベトナムのサイゴンには水上生活者の群れを見る事が出来ます。
懐かしく見詰める事が出来ます。
 
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    左側の赤レンガは荷揚げ場でした。これも運河であった時代の記憶です。(黄金町駅近く) 橋は栄橋人道橋。
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大岡川の堤防の上から手を振ってくれる人も居ます。
カモメが驚いて飛び立ちます。
並んだ屋台が開店の準備を急いでいます。
宮前橋の飲み屋アパートが見えます。
アパートの前の巨大で派手なビルは・・・、ソープランドです。
そう、この辺りは西側が野毛の商店街で・・・・、東側は伊勢佐木町です。
野毛通り、伊勢佐木町通りは表通りで、大岡川の川沿いの通りは裏通りです。
 
裏通りは・・・・・、ソープで働く女が棲んでいて・・・・、一時は麻薬の巣窟と言われていました。
屹度、夜になれば悲しい女が水面を見詰め・・・、人生を儚んだことでしょう。
今ではそんな光景も滅多に見られなくなった・・・推測します。
川の水も随分綺麗になったようです。
この日は火曜日・・・・、週末になればカヌーを楽しむ人、魚釣りに興じる人・・・・、ウォーキングをする人
沢山の健康な人が目立ちます。
 
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                                             桜道には屋台が並んでいます。
 
横浜港の変遷とともに表情を変えてきた大岡川です。
桜も、大きく育って立派になったものだ・・・、感慨を持ちながら眺めます。
 
この週末が最高でしょう。
桜は散り際が最高ですから。
大岡川は花筏で埋まる事でしょう。
 
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    桜クルーズは横浜港の見所も案内してくれました。これは、朝一番のクルーズだったので時間が余った…サ     ービスかな?
 
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「海軍道路の桜」と「市民農園の菜の花」

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昨夕(3月27日)、家内が言います。
「今晩は満月、西行法師の亡くなった日ね・・・」
   (陰暦如月の満月の日に逝きたい・・・・、歌った西行法師は歌の通りに亡くなりました)
「でも、今年は桜が咲いても晴れないので・・・・、今晩も朧月さえ見れないね・・・」
「桜の先季節は、少し意地悪で花散らしの雨や風が吹いてしまう・・・・・、」
「でも、雨が降るから・・・・、植物が育つ、野菜だって安くなって、2月の三分の一になったのも、雨のお蔭よ・・・」
 
言われてみれば・・・・・・、春野菜は柔らかいし、甘いし、安いし、香りも良い・・・・・、
これも、雨のお蔭かと思えば、「雨・・・・様さま」です。
桜が咲く頃の雨を「桜雨」と言わずに、「菜種梅雨」と言ったのは・・・・、
貴重な菜種(灯明の油を採る)を育ててくれる・・・・、感謝の気持ちが”菜種”を選んだのでありましょう。
 
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                            今日の話題は「海軍道路の桜」と菜の花畑(瀬谷市民農園)です。
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「菜の花」に「桜」・・・、良く似合います。
そんな景色を見たくて・・・・雨空の下、横浜市瀬谷の”海軍道路”に出かけました。
横浜環状道路を北に向かって走ると、瀬谷駅の北から道路が一直線になり、
やく3Kの間道路の両脇が桜並木なのです。
此処は戦前まで旧日本海軍の補給工場、火薬庫、資材倉庫等があった処です。
道路はその中にあり、滑走路にもなるように直線に整備されていました。
海軍はその道路の並木に桜を植えました。(昭和15年頃)
ですから、桜は古希(70歳)を迎える齢になります。
染井吉野にとっては見頃と言えましょう。
戦後米軍に接収されましたが、日米地位協定に基づき道路部分とその周辺については、
横浜市に管理が任されました。
そこで、横浜環状4号線整備の一環で「海軍道路」が整備され、その周辺が市民農園として開放されたのでした。
 
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    旧日本海軍の補給廠の中に桜並木がありました。今は横浜環状4号線になって、市民に親しまれています。
    そこら中に「狸に注意」の標識がたっています。
 
この辺りは多摩丘陵の南端です。
滑らかな丘陵の尾根を海軍道路が走っています。
道路は国道環状16号の横浜町田ICのバイパスとして利用する車両がひっきりなしに通ります。
私も16号線の渋滞を避けるために・・・・、度々通ります。
だから・・・・、桜にとっては昔が良かった・・・、車がこんなに通るとは・・・、嘆いている事でしょう。
所々、歯抜けのように桜が切り倒されてしまっているのは・・・、排気ガスの所為で枯れたのでしょう。
 
多摩丘陵の崖には洞があって、狸や狐が棲んでいるのでしょう。
道路標識には「狸出没、注意!」と出ています。
狸は市民農園に住み着いている鼠やモグラ・・・・、時には野菜も食べているのでしょう。
 
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                           海軍道路の下の崖に狸が棲み付いていると思われます。
 
農園から見ると、桜並木が高い所に続いています。
青空をバックにして桜並木を見れば・・・、素晴らしいのですが、曇天ですので・・・・、
桜色が雲の色に混じってしまって・・・、映えては見えません。
その代わり・・・・、菜の花は見事です。
こんなに沢山菜の花を育てて・・・・、どうするんだろう?
不思議にも思えます。
 
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環境意識が高まってきました。
「菜の花プロジェクト」は地球温暖化、二酸化炭素削減プロジェクトの一策として、全国各地で広がってきました。
灯明の油では無くて・・・・、ガソリンに代わるエネルギー源として菜種油を採ろう・・・・、というのでしょう。
どの位の効果があるのか・・・、良く解りませんが菜の花は綺麗ですし・・・、食用油としても貴重です。
お野菜の天麩羅には欠かせません。
市民が環境意識を高める意味でも・・・、菜の花の咲く景色は良いものです。
 
何本桜の木が植えられているのだろう・・・・、帰り際に数えてみました。
桜の樹には配番してあります。
一番南側が並木の最後になります。
531と配番されていました。
 
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                                    野良仕事をするお婆さん。桜と同じ齢でしょうか?
 
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                                 桜の木には標識が付いていて配番されています。
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   桜のヒコバエを伐採した傷跡。髄が腐っている事が判ります。傷跡に丁寧に防腐剤を塗らないと、傷口から腐っ   てしまいます。こうした作業こそ市民に任せて・・・・・、健康に花を咲かせる様にしてほしいものです。
 
 
 
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「鎌倉山」の春景色

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満開の桜も辛うじて散らずにいます。
”今日は何処の桜を見ようかな?”
天気はイマイチでも、後何回桜を見られるか解りません。
今年見ておきたい桜を思い巡らし・・・・・・、そそくさとお出かけです。
3月28日は、鎌倉山に出かけました。
 
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                            鎌倉山の風景。 お屋敷とミニ開発と、田園が混在した風景です。
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                        鎌倉山には山桜や大島桜が目立ちます。住宅地は笛田になります。
 
 
鎌倉山は七里ヶ浜の北側に連なる丘陵です。
山桜が多いのは、多分炭を作ろうとしたからでしょう。
炭は鍛冶屋が必要としたから・・・・、鎌倉は”相州伝”と言われ、鎌倉時代から最高の日本刀を鍛造してきました。
山桜で作った炭は貴重な火力源だったからです。
七里ヶ浜では砂鉄が採集されました。
ですから・・・・、鎌倉山は今も桜の名所なのです。
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                                    鎌倉山には山桜が多いのです。まるで、吉野山です。
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                         喫茶店「マウンテン」の角を右折して200mで棟方志功板画館があります。
 
昭和4年(1929年)、菅原通斉はこの丘陵を別荘に開発しました。
そして、別荘地のネーミングを「鎌倉山」として、田園調布のようにブランド化を図ります。
街路樹には染井吉野を植えました。
区画を300坪以上にして・・・・、近衛文麿初め政財界の著名人を誘致します。
窓からは山桜や江の島の海が見えて、その先に富士山が眺められる、
最高に日本らしい景色が人々を魅了しました。
 
棟方志功も富士山の見える景色に魅せられたお客さんの一人でした。
昭和42年、鎌倉山にアトリエを移します。
ご家族ともども転居いたします。志功74歳でした。
 
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                    棟方志功板画館、その先が志功の終の棲家。もう空き家になって2年です。
 
昭和49年、志功83歳の時、アトリエの東側に美術館(棟方志功板画館)を建てます。
「鎌倉山から富士山を見て欲しい・・・・」そんな思いでした。
赤レンガの美術館は・・・・、志功の雰囲気と少しズレがあるようですが・・・・、近隣調整の結果だったそうです。
 
 
平成23年、棟方志功板画館は閉館してしまいました。
お嫁さん(千疋屋のお嬢さん)も歳を取って・・・・、鎌倉山から麓の分譲地にお引越しされました。
板画館も瀟洒な日本家屋も空き家のままです。
鎌倉山の魅力も一つ一つ失せて行きます。
 
鎌倉山の傾斜地をコンクリートで固めて・・・・、ミニ開発が盛んに行われます。
300坪のお屋敷も、マンションになったり・・・・、マッチ箱のような戸建住宅が増えました。
その度に桜の木は切り倒されてゆきます。
染井吉野も80歳を超えて・・・・、立ち枯れする樹も増えています。
 
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           棟方志功屋敷の門前にある石塔。本来は鈴蘭が芽吹いている筈なのに・・・・、見当たりません。
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    傾斜地を切り崩し、コンクリート擁壁で固めて・・・・、無理な開発が進みます。崖下は西武の七里ヶ浜住宅地。
 
棟方志功の門前に小さな石塔が立っています。
志功の特徴のある書体で・・・・「胸肩石棚」と刻まれ・・・、
その下に石匠「林春吉」 庭匠「吉岡利吉」「吉岡喜太郎」と書かれています。
石塔の裏には昭和37年、刻まれていますから・・・・、志功は4、5年をかけてこのアトリエ兼住居を建てたようです。
志功の故郷大沢内溜池には「胸肩神社」がありますから・・・・・、
此処に故郷の神様を勧請したものでしょう。
石棚とは「石でこしらえた神棚」・・・、そんな意味でしょう。
そして、三人の匠に期待し、感謝した・・・・、そんな気持ちがこの石塔を建たせたのでしょう。
林春吉さんは・・・、自分の名前を胸肩の神(弁天様)の下に・・・、鑿で刻みながら・・・、
こみ上げる嬉しさで一杯だったことでしょう。
 
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       鈴蘭が石塔の周囲を埋めていました。2007年
       棟方志功板画館の事はhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/18635522.htmlに書きました。
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         棟方志功は琵琶を抱いた弁天様を「胸肩妃」として描いています。
 
この石塔の周りは一面鈴蘭が自生していました。
屹度、志功が故郷の鈴蘭を植えて・・・・、懐かしんだものでしょう。
もう、鈴蘭は芽を出し・・・、小さな蕾を用意している筈です。
 
ところが・・・・、鈴蘭は全くありません。
鈴蘭のある筈のところに新しい土塊が残っています。
誰かが、空き家の門前に芽を出した鈴蘭に気付いて・・・、
掘り起こして自分の家にでも移植したのでしょう。
鎌倉山は・・・・景色も住人の心も・・・荒んできたようで・・・、寂しい限りです。
 
でも、棟方志功板画館は文化の施設として再利用して欲しいものです。
近年、鎌倉に文化の香りが薄くなっているような気がしてなりません。
 
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                     冬であればこのアングルで富士山が眺められます。
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                                               桜の木にはコゲラが寄ってきます。
 
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桜の樹下の「マリア像」

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横浜山手にはマリア様が3体いられます。
山手教会、双葉女学院、外人墓地に居られます。
何れも、桜の木の下に居られます。
私も家内もカソリックの学校で、中学高校を過ごしました。
マリア様にはある種の憧れがあります・・・・、憧れの先には”純潔”の一字があるような気がします。
桜の樹下のマリア様を見に、拝みに行こう・・・・、出かけました(3月27日)
 
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桜の元町公園。遠くの建物は外人墓地資料館。
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元町公園内にある「日本水道発祥の地」
 
写真は山手の写真を載せますが・・・・、文章は何時も「マリア信仰」について、思っている事を綴ります。
 
代官坂を登ると、山手の尾根道に着きます。左折(北)に向かえば外人墓地から港の見える丘公園です。
右折すれば・・・・・、女学院通りです。
何時もは女学生がお喋りしながら・・・・、通り過ぎるのですが今は春休みです。
お散歩する人、スケッチをする人・・・・、様々に桜咲く春を満喫しています。
双葉女学院の校門に一体マリア様が居られます。
幼いキリストを抱いている・・・・、お馴染みのお姿です。
 
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                                        双葉女学院校門を入った処に居られるマリア像。
 
日本にキリスト教が伝来したのは1549年、イエズス会のザビエルでした。
ザビエルをはじめ宣教師は布教に相応の工夫をしたのでしょう。
イソップ物語で倫理を話しました。
マリア像を使って・・・・、純潔と至極の愛を教えたことでしょう。
十字架のキリストよりも・・・、イソップやマリア像が宣教には効果がある事に気付いていたのでしょう。
 
日本人は思いました。
イソップ物語の倫理観も、マリア様の優しさも・・・・、何処かで見聞きしていたものです。
イソップ物語は仏教説話を、マリア像は白衣観音を思い起こしました。
逆に、白衣観音はマリア様の影響を受けたのでしょう、
頭に飾った宝冠を外してスカーフにしました。
白衣観音は隠れキリシタンの拝む・・・・「マリア観音」になりました。
大磯にある澤田美喜記念館には隠れキリシタンの遺品が展示されています。
膨大な遺品を拝観すると・・・・、
日本に伝来したのは「キリスト教」というよりは「マリア信仰」であった・・・、思います。
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          大船観音像、お顔は奈良法華寺の十一面観音を模した白衣観音像です。
          でも、頭の被り物はマリア像のものです。
          (キリスト教伝来以前の白衣観音は多くが宝冠を被っていました)
 
教会の聖堂のドアーを開けるのは・・・・、私のような異教徒には重圧であります。
何故、聖堂は大きな建物なのに・・・、ドアーが狭いのか・・・・、
「狭き門」は異教徒の出入りを拒絶している様にさえ思えます。
聖堂のキリストは異教徒を歓迎して、居られると思うのです・・・が・・・・。
キリストの前に佇んで、自問自答し、キリストに尋ねる・・・・、そんな場面を期待している・・・、と思うのですが、
扉を開き難いのです。
ギーッと扉を開けると、聖堂の中から沢山の眼が自分自身を貫くような・・・、
そんな恐ろしさがあって、私は扉を開け難く思っています。
 
でも、マリア像は別です、多くは教会の庭に居られますし、
何時でも、優しく受け入れてくれるような、慈愛と幅広さを感じます。
たおやかな指先に触れてみたい・・・、思います。
 
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      山手教会、右端の枝垂れ桜の下にマリア像がおられます。
      私世代は、この教会はユーミンが結婚式をしたので、知っている人も多いのです。
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      山手教会のマリア像。この像は文久年(1862年)居留地に遭った聖心教会に祀られたものです。同教会が       移転し、フランスから1867年に寄贈された・・・・、日本開国後初めて作られたマリア像です。
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マリア像の周囲に何の樹を植えようか・・・・?
ヒマヤラ杉も良いだろうし・・・・、
でも、日本人だからでしょう・・・・、桜の木を植えました。
花の優しさも、美しさもマリア像にピッタリだ・・・、思ったのでしょう。
 
キリスト教は一神教です。
でも、マリア信仰のマリア様は・・・・、神だとしたら・・・・、神様が二人になってしまいます。
マリア様の役割は大凡以下の通りでしょう。
・マリアはヨセフと婚約していたが、
・結婚前に神の祝福によって身籠り
ベツレヘムに行って馬小屋で子どもイエスを生み
・ヘロデ王の迫害を怖れてエジプトに逃げ
・イエスを育てるマリアはイエスの神秘を感じ取る
・でも、キリスト処刑の際には忍耐して、見守った。
 
処女懐胎の説明は神学であり、異教徒には理解しがたいものがあります。
 
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      横浜天主堂、1862年、開国後最初の教会建築でした。長崎の浦上天主堂(国宝)より3年古いものです。
      此処に祀られたマリア像が山手教会の庭に祀られているわけです。
 
でも、民俗学的には容易に理解できます。
ギリシャローマにはキリスト教以前に「イシス信仰」がありました。
イシス信仰は「母性信仰」「再生信仰」と言えます。
我が子ホルス(王権のシンボル)を抱いているイシスは母なるもののシンボルでありました。
同時に彼女は死後の再生の神オシリスの妻でありました。
ですから・・・・・、マリアがキリストの母であったのも、
キリスト復活(マグダラのマリア)を見届けたのもイシス信仰にその原型があったものでしょう。
 
白衣観音は古く仏教以前から崇拝された神様でした。
仏教に取り入れられてからは観音菩薩の母とされ・・・・・、33観音の一人として信仰されました。
大白衣観音とか、白処、白衣母とも称されます。
イシス信仰に似たところが随所に見られます。
 
”母”とか”再生”に関する観念は洋の東西に共通するところがあるようです。
民俗学的には、そんな”生”に関する畏敬する気持ちが・・・・、マリア信仰になり白衣観音になった・・・
説明できそうです。
 
だったら・・・・、年年歳歳美しく咲く桜の樹下こそマリア像に相応しいと思います。
私が、桜の木の下のマリア像を・・・・・、素直に良いなあ・・・!
思うのは民族的に適合しているからでしょう。
 
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     山手教会の脇を東に折れると、日本最初のテニスコートがあります。 このあたりも桜の見所です。
 
 
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金沢八景で「潮干狩り」

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3月29日、金沢文庫称名寺を出て、野島に向かいました。
野島には伊藤博文別邸があります。
庭続きに牡丹園がありますから・・・・、今年の花の付き具合をあらかじめ見ておこう、思ったわけです。
途中、海の公園の駐車場に長蛇の車の列が出来ています。
春休みと言っても今日は月曜日、お花見客がそんなに多いのか?
不思議に思いました。
伊藤博文別邸前の駐車場も長蛇の列です。
 
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                                                 桜も散り始めた称名寺の浄土庭園
 
牡丹の花芽は、沢山ついています。
この分なら、2週間も経てば見頃になる事でしょう。
例年ならゴールデンウィークが見頃ですが、今年は2週間も早そうです。
今年の春の暖かさで、植物は先を競って花を咲かせる、そんな勢いです。
 
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                                             野島の芍薬園から伊藤博文別邸を見る。
 
芍薬庭園は海に面しています。
海を見て・・・・、驚きました。
沢山の人が磯に出て・・・、潮干狩りです。
駐車場の行列は・・・・、潮干狩りが目的だったのです。
 
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       野島の伊藤博文別邸前から海を見る。向こうのドッグは住友重機、沖の棹は海苔の養殖、そして潮干狩       りをする人たち。
 
鎌倉や逗子の砂浜では潮干狩りをしようにも、アサリは殆ど拾えません。
ハマグリも・・・、今では滅多に見つけられません。
それが・・・・、三浦半島の東側・・・、金沢八景の海は昔から潮干狩りで賑わいました。
筆者も祖母に連れられて・・・・、この海で潮干狩りをしたものです。
ところが・・・・、海は埋め立てられ工場団地や住宅地に変わりました。
もう、潮干狩りは出来ないものだ・・・、そう思っていましたが・・・・、大変な人出です。
海の向こう、房総の木更津は潮干狩りで有名ですが・・・・、それを凌ぐ人出です。
ニュースで報じられるのは、千葉の潮干狩りばかり・・・・、
海は続いていますから・・・・、房総で潮干狩りが出来れば・・・・、金沢八景も潮干狩りが出来て・・・、自然です。
 
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              左が伊藤博文別邸、その前の磯は潮干狩り場になっています。
              正面が金沢漁港で、その先が海の公園(人工海浜)です。
 
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金沢八景には漁協がありますが・・・・、潮干狩りは自由で、無料なようです。
そう、確か今月の初め横浜市が ”アサリの安全宣言” を発表していました。
昨年に続き今年も放射能濃度測定検査を行った結果、ヨウ素もセシウムも検出されなかったのでした。
安全に、無料で、美しい景色の中で潮干狩りが楽しめる・・・・、
後はアサリが美味しければ・・・・、もう最高です。
お母さんに訊いてみました。
「未だ少し小粒ですが、味は濃いし、身は太っていて・・・、最高に美味しんですよ!」
それは、そうでしょう。
昔はブランドでしたし・・・・、
此処はアナゴの名所ですから・・・・、アナゴが美味しければ、アサリだって美味いに決まっています。
 
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                       このおっさんは、咥えタバコで、素手でアサリを採っています。
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私も磯に降りて、潮干狩りがしたくなりました。
そう、私の縄文人の血潮が湧き立って・・・・、アサリとなれば狩猟したくなるのです。
様子を見れば・・・・、熊手も無しに手で掘ってアサリを拾っている人も居ます。
でも、足元が悪すぎます。
今日は諦めて・・・、再度長靴を用意して遣って来ることにしましょう。
 
この日が大潮だったのです。
午前11時の前後、2時間くらいが潮干狩りに最高の時間だったようです。
バケツ一杯に採った人が大半です。
大型ポリバケツ一杯に採った人も目立ちます。
随分豊富なのです。
横浜市や漁協が稚貝を撒いている訳でも無いし・・・・、自然発生したものです。
それでいて、こんなに採れるのは・・・、自然が豊かな証左でしょう。
 
子供が多いのは春休みだからでしょう。
でも、子供達は幾らでも採れても・・・、少し飽きてきたようです。
「もうやめにして・・・・・、バーベキュウーをしようよ・・・、お腹が空いたよう・・・」
ぐずり始めているようです。
そう、野島公園にはバーベキュウー設備も整備されているのです。
海の公園には「牡蠣小屋」があって、焼牡蠣を食べる事も出来ます。(4月12日まで営業)
 
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     老夫婦二人で、1時間ほどで、この収穫です。野島の魚屋でアサリを求めようとしましたが・・・、売っていませ     んでした。欲しければお前も海に行って来い・・・、そんな表情です。
 
もうじき、松林の木陰からバーベキューの煙が立ちあがる事でしょう。
縄文家族の歓声が湧き立つことでしょう。
金沢八景は・・・・、景色こそ一変してしまいましたが・・・・、昔も今も良い所です。
自然は豊かで、魚貝が美味いし・・・・、歴史もあります。
寿司の名店も数多くあります。
 
 
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明治学院大「キャンパスの桜」

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「梅は咲き際 桜は散り際」と言います。
今日(3月31日)は桜散しの小雨が降って、2月初めの寒さです。
毎日のように「桜の見納め・・・」想いながら桜見物にお出かけです。
 
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   明治学院大学横浜キャンパス。右側がチャペル。中央奥がメモリアルツリーのヒマヤラ杉です。
   黄色い色はスクールカラー、旗には建学150年を記しています。
 
私の町(戸塚区上倉田)に明治学院大学が進出してきたのは、昭和60年(1985年)でした。
私が遊んだ丘陵を切り開いて・・・・、教養課程と社会学部、国際学部が港区白金から移転してきました。
丘陵は餓鬼大将だった私が一日中遊んだ・・・・、雑木林でした。
桜やクヌギが茂る雑木林でした。
その一角にダルマの木が密生した一角があって・・・・、ウサギが集まって来ていました。
予め兎道に隠れていて・・・・、ダルマの実を食べに来ている兎を追い出して・・・・、
兎道で網にかけました。
兎を捕獲したときの興奮は・・・・、忘れがたいものがありました。
 
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     造成に際して昔ながらの自然林を残しました。桃色の桜が山桜、白い花が大島桜です。
 
「お滝様」には修験者が居ました。
落差20m程の小さな滝でしたが・・・・、子供心に近寄り難い神々しさがありました。
滝のあった辺りは中層のマンション群が建って・・・・、滝はコンクリートで固めた岩の上から落ちています。
道路標識は「紅葉滝」と案内されて・・・・、新しい不動堂が建てられました。
「お滝様」とか「お滝」では固有名詞にならないから・・・・、紅葉滝とネーミングしたのでしょう。
紅葉滝では地域の信仰心が表れていません。
せめて「不動滝」としてほしかったものです。
 
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  梢が40mも広がって見事に咲いた大島さくら。キャンパス造成に際して残されたものです。
  桜の木の下にはベンチが置かれています。
 
大学のキャンパスの開発に際して、緑地を残し、自生していたクヌギや山桜を残しました。
山桜が多いのも特徴です。
子供の時には見もしなかった山桜ですが・・・・、齢になると・・・・矢張り桜は山桜が一番だ・・・、思います。
戸塚から鎌倉にかけて山桜が多く自生していますが・・・・、
明治学院大学に残された山桜が一番大きく、姿も良いのです。
大学も山桜の根を踏まないように大事にしています。
そして、大樹の根元にベンチを置いて、「桜の樹の根元に腰掛けて、語らって下さいな」
用意しています。
 
でも、今は春休み・・・・、この山桜の見事な花を知らずに卒業して行く学生が多い事でしょう。
勿体ない様な気がします。
 
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   メモリアルツリーの枝垂れ桜。ヘボン博士の胸像を飾っています。
   でも、太い枝が切り落とされて・・・、花の勢いも衰えて来ています。
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開校に際してメモリアルツリーを何本も植えました。
筆者が大学事務局に伺ったところ7本と聞きました。
一番元気なのがヒマヤラ杉です。
チャペルの北です。
この樹は埋め土をしたところなのでスクスク育ちました。
もう、チャペルの尖塔を超す勢いです。
略中央に枝垂れ桜を植えました。
その樹下にヘボン博士の胸像を置きました。
ヘボン博士は宣教師で、横浜山手でヘボン塾を開講しました。
それが、明治学院大学の前身です。
英和辞典、和英辞典を著し日本の近代化に大恩のある人物です。
その著作料が・・・、建学資金になりました。
 
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ヘボン博士を飾ろうとこの場所に枝垂れ桜を植えたのでしょう。
でも、切土の場所であり、周囲はコンクリートで固められています。
樹齢を重ねるにつれて・・・・、花の勢いが落ちてきました。
数年前はヘボン博士の頭上を覆い、お顔に垂れさがっていた桜の花は・・・、後退してきています。
枝を切り落としているのは・・・・、病気にでもかかったのでしょう。
「ヘボン博士を飾るメモリアルツリーは円山公園の枝垂れ桜のように・・・・育てるんだ」
そんなプランが無かった・・・、ような気がします。
良い土に入れ替え、地面を土にして・・・・、踏まないようにすれば良かったのでしょう。
 
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私と家内は大学を一回りして・・・・、チャペルに入りました。
「蔦の絡まるチャペルに・・・・♪」 歌ったのは学生時代、
明治学院大学のチャペルは藤棚です。
もう、花芽が膨らんで、新入生を迎えるころには咲き出しそうな勢いです。
 
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今日の法話は岩井牧師で「一切れの焼き魚」です。
一切れのパンなら・・・・想像もできますが・・・、「焼き魚」になると・・・・、興味も湧き立ちます。
おミサが始まるまでまだ時間があります。
でも、チャペルの中は・・・・、暖房が利いています。
今朝は寒いので…、あたたくしてお迎えしたい・・・、気持ちが有難く思います。
 
 
お隣の掲示板には朝日新聞の記事(広告)が出ています。
大西学長が戦場カメラマン渡辺陽一氏と対話しています。
「DO FOR OTHERS」 建学の精神がテーマです。
「他者への貢献」と訳されています。
大西学長が社会学部の教授だから・・・・「貢献」となって・・・・、時宜を得た言葉「貢献」になったのでしょう。
聖書の一節「Do for others what you want them to do for you」(人にしてもらいたいことは、先ず貴方が人にして差し上げなさい)によるものでしょう。
岩井牧師なら・・・・、何と訳されるか…、聞いてみたいものです。
 
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家内と”「貢献」ではニュアンスが違うようだが・・・・”
話します。
「でも、戦場カメラマンの訥々とした語り口は・・・、牧師さんのようだね・・・」話しました。
 
グランドからは新入生でしょうか?
何やら・・・・、説明をしています。
広いグランドで、山桜に囲まれて・・・・スポーツできるのは楽しそうです。
矢張り、桜は新入生に良く似合います。
大自然もお祝いしているようです。
 
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   明治学院大学戸塚祭りは以下に書きました。     
 
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慈雲寺の糸桜の見事さ

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3月、関東甲信の平均気温は平年を2.7度も越えて、観測史上最高の暖かさであったそうです。
でも、3月31日、横浜で桜は満開でしたから・・・・・、
青梅街道大菩薩道に近い慈雲寺の桜は4月初旬になるだろう・・・・、推測していました。
今年の春の目標は、何を置いても慈雲寺の糸桜を家内と観たい・・・、思っていました。
何気なくネットで調べていたら・・・・、慈雲寺の糸桜はもう散り始めたそうです。
”超暖かい・・・、とは思っていましたが・・・・、山梨が横浜より暖かいなんて・・・・、そんな馬鹿な!”
思いましたが・・・・・、慌てて4月1日出かけました。
 
 
 
奥多摩湖から雲取山の登山口を越えて・・・・、甲州盆地を見下ろしながらくねった道を下りて行きます。
石垣で囲んだ果樹園が広がっています。
梅は散り始めて、桃は咲き始め、杏や江戸彼岸桜が満開です・・・・。
花々の中に・・・甲州兜屋根の民家が点在しています。
桃源郷とは・・・・・・・、こんな景色を呼ぶのでしょう。
街道の道端には道祖神や馬頭観音が並んでいます。
石材はこのあたりで産出される白い御影石です。
 
暫く坂道を下って、塩山の街並みが見え始めた頃、大菩薩道を左折して、
桃畑の道を辿ると慈雲寺の参道に出ます。
今日は月曜日ですが・・・・、屹度お檀家の方でしょう。
駐車場の整理や抹茶のご接待に精を出しておいでです。
桃畑の畦道では、農家が出店して特産の山菜や佃煮を商っています。
私達夫婦は草餅団子を買い求め・・・・、
これでお抹茶・・・、行けるかな・・・、何て思いながら山門を潜ります。
 
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    慈雲寺は暦応年間(1338〜1341)に夢窓国師によって開かれた禅寺。
    桜は甲州市の天然記念物に指定されてる樹齢320年程の立派なイトザクラです。
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      咲き出した桃畑の間から慈雲寺を眺める。花の中に浮かぶようにお寺の甍が見えます。
      中央の薄桃色が本家糸桜です。左右の濃い桜はその子孫でしょうか?
 
夢見てきた糸桜は期待通りの晴れ姿でした。
本堂の甍の遥か上まで梢を伸ばし、その先から滝のように小枝を垂らして・・・・、
3mもあるでしょうか、小枝一杯に花をつけています。
その、一すじ、一すじの小枝が糸のように見えるから・・・・、糸桜の異名がついたのでしょう。
山風が吹き下ろすと、糸桜が大きく揺れます。
無数の花弁が散って舞います。
その艶やかさは・・・・、まるで大振袖の吉野大夫の花魁道中を見る思いがします。
 
糸桜は境内にもう2本、寺の畑にもう一本あります。
此方は糸桜の子か孫か・・・、そのまた子孫でしょう。
でも、子孫の糸桜の方が色が濃いようです。
若い所為か・・・・、咲くのが遅かった為でしょう。
 
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    糸桜を東側から見る。庫裏や本堂の甍より遥か上まで梢を伸ばしています。
 
桃の花は未だ咲き始めです。
私の感覚では、梅が咲いて、桃が続いて、杏子がほころんだら・・・、締めが真打の花”桜”の出番です。
何で、真打が桃や杏より先に咲いてしまうのか・・・、不思議です。
お蔭で4月10日、日文研の仲間20人を誘ったのですが・・・・、当日は葉桜になりそうです。
桜も紅葉も・・・・、最高の日に当てるのは難しいものです。
 
門前には樋口一葉像が置かれています。
5千円札の一葉さんより数段若い・・・、娘・娘した一葉嬢です。
文机の前に座って読書している姿です。
塩山の放光寺の辺りから、桃畑の間を縫うように進む小道を「一葉の道」と名付けて・・・・、町おこしをして・・・、
そのシンボルに作った石像でしょう。
 
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一葉の道、慈雲寺前、石垣に嵌めrされた庚申塔。遠くの山脈が大菩薩峠。
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                                                        樋口一葉像
一葉の両親はこの辺りの出でした。(お父様は農業)
母親から一葉は両親の故郷が桃源郷であることを聞かされていたことでしょう。
桃源郷の真ん中に・・・・、花雲の中に慈雨雲寺という名の古寺があって、
その境内には日本一美しい枝垂れ桜があって・・・・、
生糸を生業にしている農民は・・・、糸桜と呼んで眺め・・・、大切にしている・・・・、と。
少女の一葉は「何時か両親の故郷に、糸桜の咲く風景を見たい・・・・・」思っていたことでしょう。
肺結核で若くして亡くなります。
その病床でも桃源郷に思いを馳せていたことでしょう。
糸桜の咲く風景は、乙女の脳裏に浮かんで、想像力を掻き立てたのでしょう。
古典的で簡明で美しい文体に、穢れの無い恋心に・・・・・、あらわれているように思います。
 
慈雲寺の糸桜は・・・・・、健康で益々樹勢は増しているようです。
周囲の景色にも調和して・・・・、私の好きな桜の第一に入ります。
明日から・・・・、奈良大宇陀の又兵衛桜を見に行きます。
ネットでは、仏隆寺の桜も未だ4分咲きと聞きます。
週末には予定も入っているので・・・、変更も不能です。
今年は、どうもピッタリ嵌りません。
 
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門前の桃畑の畦道には農家のお店が並んでいます。
 
【追記】秋の慈雲寺と一葉の事は以下に書きました。
                http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46713995.html
 
 
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「青垣山…大和しうるわし」の風光

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常盤樹の間に、辛夷や桜の花が咲いて、柿の木も若芽を出しています。
雲間から光が差し込みます。
風が快く吹いて、汗ばんだ体を乾かしてくれるようです。
此処は山の辺の道・・・・、私が一番好きな大和の道です。
 
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              山の辺の道、桧原神社辺りの眺め・・・・、桃が盛りです。桃畑の横の細道が山の辺の道です。
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                                                    崇神天皇陵、山の辺の道
 
1500年も前からこの道を辿る人が居ました。
ある時は若菜を摘んで恋人に奉げました。
ある時は棺を担いで愛する妻を見送りました。
長い間、日本人の感性を育んできた古道です。
でも、こんな細道は何処にでもありました。
何処にでもある里山の小道で・・・・・、三輪山、巻向山、弓月が岳・・・等々・・・、名こそ有名ですが、
山の形は何処にでもある、平凡な山です。
 
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      桧原神社(元伊勢神宮)横から巻向山(?)を見る。正面を見ると遠く霞んで生駒山、法隆寺などのある矢田      丘陵が見えます。手前には景行天皇陵等が見えます。”大和はくにのまほろば たたなづく青垣山こもれる      大和しうるわし”(古事記)を実感する景色です。
 
 
でも、遥か縄文、弥生の時代から・・・・古墳時代に源をもち、
今なお未来に続いて行く道でもあります。
この道を歩くと何時も強く思います。
私は今日本の歴史の道を辿っている。
柿本人麻呂も額田王の息吹も感じられます。
 
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   手前大和川、正面奥が三輪山。この辺りが海石榴市。堤防に仏教伝来の地の碑があります。
 
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   山の辺の道、無人の販売所。 蕨が、筍が一束100円の安さです。
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                                   若菜を摘む人たち、向こうは景行天皇陵です。
 
そう、このあたりです。
友人Y君と43年前の真夏歩きました。
強い日差しで、喉も乾きました。
見れば畑に西瓜が取り残されています。
もう、収穫出来ないで…、腐るに任せられた西瓜でしょう。
躊躇しながらも、Y君と私は西瓜を戴きました。
でも、生温い西瓜の不味かったこと・・・・、腐っては居なかったのでしょうが・・・。
そんなY君も今年7月には、5年忌になります。
若しも生きていれば・・・・、一緒できたかも知れません。
 
平城京から藤原京に真っ直ぐ続く道・・・、それが「下つ道(国道169号線)」・・・、それが北(山側)に2キロ間隔で「中つ道」、「上つ道」、
そして、山際の道が「山の辺の道」です。
この街道と大和川のクロス位置に海石榴市(つばいち)がありました。
人も物も交流する場所でした。
 
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     三輪山。常盤樹の中点々と桜が見えます。これが日本の原風景だと思います。
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           桜が咲いて・・・・・、田植えの準備も進んでいました。
 
どの位置からも三輪山が眺められます。
海石榴市から見れば山の上しか見えませんが・・・・、
JR三輪駅辺りから見上げれば山容全部が仰ぎ見られます。
ご神体の山は・・・何処にでもある山ですが・・・、神々しくたおやかな姿です。
所々、桜が散っています。
桜の語源が「春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する場所(座)」の説明が納得です。
もう、田起こしが済んで・・・田圃には水が張られています。
 
遠目に見ると一か所・・・、ピンクが広がっている場所があります。
「あれは何だ・・・!、桧原神社より南で、大神神社より少し北だ・・・」
私は、早速桜を目標にお出かけです。
 
大神神社の南に狭井神社(さいじんじゃ)があります。
三輪山の昇り口があって、ご神水の湧き出る神社です。
その中間に「久延彦/くえひこ」神社があります。その裏山が展望台になっていて・・・・、
その展望台に地元のロータリークラブが枝垂れ桜を植えたのです。
まだ若木ですが、神社の深緑の森に良く映えて見えます。
神様も春になって嬉しいに決まっています。
嬉しければ、綺麗な桜に依ることでしょう。
正面に大和三山が見えます。
遠く、屏風のように金剛山が聳えています。
山脈を北に辿れば・・・・・、二上山も霞んで見えます。
”ああ、久しぶりに大和に来たなあ・・・・!” 思います。
 
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                                        久延彦神社展望台から大和三山を遠望する。
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                                           三輪山の麓「金屋の石仏」
 
 
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ライトアップされた「石舞台古墳」

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4月3日、今晩の宿は明日香岡寺の門前にある民宿です。
山の辺の道を辿り桜井を経て、陽も傾きかけた頃明日香村に入りました。
もう、10年近く来ていなかったでしょうか?
明日香村の隅々まで知っているつもりの私ですが・・・・、
新しい道が通っているは博物館が建っているは・・・、随分変わって来ています。
 
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                        飛鳥橘寺から河原宮跡、河原寺を見る。
            右の田圃の中の細道を500m下ると板葺宮跡があり、その右手に民宿米川さん宅があります。
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      橘寺(聖徳太子生誕の寺) この辺りは秋になれば畔を彼岸花で埋められます。
 
 
私が最初に明日香に泊ったのは昭和42年の春、大学に入ってすぐでした。
美術書で観た飛鳥大仏の横顔に魅せられて・・・・、やってきました。
飛鳥大仏には感動したのでしたが・・・・、
同時に景色の美しさに、とりわけ田圃一面に咲いた蓮華草に感動しました。
今晩は明日香に泊りたい・・・、思って明日香村役場に行きました。
「岡寺にも泊れますが・・・、民宿もありますよ・・・。もう、夕暮れですから解りやすい場所がいいですね・・・。」
言われて、米川さんの家を紹介されました。
以来、米川さんの家は南奈良の常宿になりました。
 
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           飛鳥川の川沿いには桜も植えられ、もう見頃に育ちました。向こう(左側)が甘樫丘になります。
 
昭和43年の夏、大学の同期6人程を誘って米川さんの家に泊りました。
米川さんの家の裏側では田圃を掘り起こして・・・、発掘作業が進行中でした。
其処が現在の「飛鳥板蓋宮」跡です。
皇極・斉明天皇の皇居であって、大化の改新で蘇我入鹿が殺害された所です。
お風呂の窓からは甘樫の丘や飛鳥大仏の甍が見渡せました。
横の道を真っ直ぐ下れば入鹿の首塚の前に出られます。
 
何度も米川さんの家に泊めていただきました。
世話になった米川の叔母さんはどうしているだろうか?
懐かしさで米川さんの家の前に佇みました。
すると・・・・、突然に門があいて・・・・、初老のご婦人が出てこられました。
「お久しぶりです、40年も前学生が6人程で泊めていただきました・・・」
米川さんはもう70代後半でしょう。
私の知っている米川さんは30代でしたから…、随分老けましたが・・・
背筋はピンとしていられるし・・・、歩く事も速いものです。
でも、今は民宿は止められたのでしょう・・・、そう思って尋ねました。
「民宿は嫁がやっていますよ・・・。またお越しくださいな!」
「それは良かった・・・、是非次回は泊めていただきます。
米川家は嫁さんが民宿を引き継ぐ・・・、伝統ですね!」
 
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                                                            石舞台古墳。
 
米川さんの家を根城にして、私達はてんでバラバラに好きな所に出かけました。
三輪から山の辺に出かける者、多武峰を越えて談山神社から壺坂寺に向かう者、
宇陀から初瀬に向かう者、当麻寺から二上山に向かう者・・・・、様々でした。
宿に戻ると、行った先の報告して、また友人の話を聞いて・・・・・、翌日はガイドブックで確認して出かけました。
 
夕暮れになると、石舞台に出かけました。
石舞台の上から・・・、二上山の上に沈む夕日を眺めるのが好きでしたから・・・・。
当時の石舞台は道路の脇、田圃の中にポツンと在りました。
誰でも、何時でも石舞台の上に登る事が出来ました。
 
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                                       ライトアップされた石舞台古墳の石室
 
私達は石舞台の上に腰掛けました。
手前には、暗闇に沈んでゆく「島の庄」の集落が、遠く甘樫丘、その向こうに二上山が見えます。
石舞台の近くを飛鳥川が流れています。
飛鳥川は明日香村の中央を東西に流れています。
島の庄は蘇我一族の田畑のあった場所、そして甘樫丘が蘇我氏の屋敷があった場所です。
蘇我一族は飛鳥の中央部を牛耳っていた事が解ります。
 
石舞台の上で、吉田君は当時流行っていた”バイバイラブ”(サイモン&ガーファンクル)を歌ってくれました。
”バイバイラブ、バイバイハッピネス、ハローロンリネス・・・” サビは皆で歌いました。
富田君が「良い歌を覚えたんだ・・・、紹介するよ」言いながら・・・・”知床旅情”を教えてくれました。
森繁さんや加藤登紀子が歌ってヒットする前の事でした。
 
石舞台は蘇我馬子の墓と言われています。
馬子の息子が曽我稲目、その子が蘇我入鹿になります。
蘇我一族大発展の礎を築いた人物でしたから・・・・、壮大な墓を築いたのでしょう。
多武峰から岩を運びました。
白い花崗岩を30個、積み上げて石室を作りました。総重量は2,300トンにもなります。
その上に土を盛り墳丘を築きました。
墳丘の周囲に、堀、外堀も整えました。
外堀は1遍が80mもある壮大さでありました。
 
でも、大化の改新で一族が滅亡すると・・・、馬子の墓は暴かれてしまいます。
墳丘の土盛りも剥がされ・・・、横穴式石室が曝されました。
石室の大きな岩を見て・・・、人々は驚きました。
特に石室の天井を覆っている100トン超もある巨岩に慄きました。
「石蓋/いしぶた」と呼んでいました。
 
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石蓋の上に狐が登って・・・おどけてみました。
ある時は旅芸人が石室の上で芸を見せました。
だから・・・・、石蓋は何時しか「石舞台」と呼ばれるようになりました。(他説もありますがこの説が一般的です)
だから・・・・・、石舞台の上に登って知床旅情やバイバイラブを歌うのは・・・・、
伝統に適った事だったのかも知れません。
 
当時から見れば随分石舞台も整備されました。
先ず道が婉曲しました。
石舞台整備のために・・・・・、ぐるっと迂回させられたのです。
80m超の方墳の外周部も公園に整備されました。
所々石が転がっています。
これは臣下の墓(陪塚/ばいちょう)であろう・・・と言われたり・・・・、
馬子の墓にするに際して・・・・、先人の墓を潰したその跡であろう・・・、様々な説があるようです。
それも合わせて整備したのでした。
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              石舞台古墳の南側500mの田圃の中にある都塚古墳。横穴式石室で石舞台と同じ様式です。
 
外堤には桜を植えました。
周囲の田圃には菜の花も咲かせました。
この季節明日香第一の観光名所、桜の見所になりました。
昼も沢山の観光客が押し寄せ・・・、夜もライトアップされます。
これでは・・・・、蘇我馬子も穏やかに眠っている事は出来ないでしょう。
 
入場料250円は整備資金になるのだそうです。
日本の故郷ですから・・・・、豊かな自然と・・・歴史資産を大事に保存する為に使ってもらうのですから・・・、
良い事でしょう。
昔は・・・・トイレも無かったのですか・・・・、今は清潔なトイレも駐車場も信号も・・・、整備されました。
先人のお墓を見ると・・・・、何故か青春に戻って、元気になります。
馬子は ”他人の墓を見て・・・・、そんなの関係ないだろう!” 言うことでしょう。
 
 
 
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明日香川の性神を歩く

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明日香川は高市郡の高取山を源流にして、柏森、稲淵山の西を流れ、
甘樫の丘、藤原京の脇をを通って大和川に合流する一級河川です。
その名の通り明日香の中央部を流れる川ですから・・・・、
万葉集にも最もうたわれ、日本文化のルーツになる小河川です。
山の辺の道を歩くと同じように明日香川を遡ると古代人の息吹が強く感じられます。
私は、明日香に来ると必ず明日香川の水面を覘きながら岸辺の道を歩きます。
 
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                       今日の話題は明日香川に沿って登る事から始まります。
 
 
甘樫の丘の正面に鎮守の森「鳥形山」があります。
この小山に「飛鳥坐神社/あすかいますじんじゃ」があります。
境内には夥しい数の陽石・陰石が祀られています。
陽石とは男性自身、陰石は女性自身の形をした自然石です。
”まあ、偶然とはいえ自然には沢山アレに似た石があるもんだ・・・・” 感服します。
 
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                                        明日香坐神社の参道、正面が甘樫の丘です。
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                                                飛鳥坐神社の陰陽石。
 
毎年2月3日、立春の日に「おんだ祭」が行われます。
御田植神事は午後2時頃から行われます。牛と翁が田植えをした後、
いよいよ天下の奇祭と言われる「夫婦和合」の場面が演じられます。
お多福はしきりに恥ずかしがって顔を隠したり俯いたりします。
翁(ひよっとこ)は「見たらいかんよ・・・・!」言わんばかりに半纏で広げて隠します。
夫婦和合に使用した紙は「ふくの紙」と言います。
祭りの最後に「ふくの紙」「御供/ごく」を散布されます。
紙を手に入れると子宝に恵まれると言い伝えられています。
昔は田圃に下りて行われたのでしたが・・・・、最近は神社の神楽殿だけで行われているようです。
 
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                           祝戸の陽石(マラ石) お婆ちゃんは朝摘みのイチゴを運んでいます。
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              マラ石、桜の林の中にあります。背後は地蔵尊、関東なら道祖神がある位置ですが・・・・。
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                 マラ石の指す先には「フグリ山」があります。山の手前を明日香川が流れています。
 
1キロほど明日香川を遡ると祝戸に入ります。
祝戸の入口に桜の林があってその真ん中に男性の陰茎を思わせる石が地面に斜めに突き刺さっています。
「マラ石」と案内しています。
マラ石の先を見ると、明日香川を跨いで対岸に小山があります。
山の名は「フグリ山」で、マラ石と一対で祀られていた・・・、案内されています。
フグリとは俗に言う「キン玉」の事・・・・、
男性自身が此処には二つある・・・、ということになります。
フグリ山とは名付けず女性自身の方が適切だったように思います。
加えて、古代人が男性自身を「マラ」とか「フグリ」と呼んでいたのか? 
私は疑問に思いますが・・・・、現代人のネーミングは、大らかな古代人の性意識は伝えているようです。
 
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                    左は稲淵山、段々畑の底を明日香川が流れています。
                    この辺りから日本棚田百景に指折られた美しい棚田が開けます。
 
祝戸から更に2キロほど遡ります。
稲淵山の裾は美しい棚田になっています。
棚田の水が流れ込む・・・、そんな位置に珍しい注連縄が架かっています。
注連縄の長さは50m、太さは10㎝、中央部では30㎝ほどあります。
注連縄の中央部に矢張り藁で形造られた男性自身が吊るされています。
男性自身の真下に明日香川が流れている・・・、そんな位置関係になります。
注連縄が風に揺れます。
すると・・・・、男性自身も上下に揺れます。
私は川に下りて注連縄を見上げます。
天空に男性自身があって、ユラユラ揺れている・・・・・・、素晴らしい光景に笑ってしまいます。
注連縄を張る「綱掛け神事」はおんだ祭の2週間ほど前、1月14日(祝)に行われます。
神事は明日香座神社の宮司が務めます。
 
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                       稲淵の男綱。下を流れるのが明日香川です。花は木蓮。
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                       注連縄の中央部には藁細工の男性自身が吊るされて・・・、揺れています。
 
稲淵の注連縄を「男綱/おつな」と呼びます。
「女綱/めつな」は更に2キロほど上流の栢森にあります。
注連縄の太さは10㎝、長さは40m程でしょう。
シンボル部分は直径50㎝ほどになっています。
女綱も同じように明日香川を跨いで・・・、天空に張られています。
川と道を跨ぐように張られています。
岸辺に福石が置かれてあり、此処にも注連縄が張られています。
道端には二基の石仏(地蔵尊)が祀られています。
関東なら道祖神が祀られそうなものですが・・・・・、関西は地蔵尊が多いようです。
 
栢森では龍福寺の住職がお祭りを取り仕切ります。
ですから…、仏式の色が濃いのでしょうが・・・・、
いや、昔は神式も仏式も大して変わらなかった・・・、考えるのが妥当でしょう。
 
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                                栢森の女綱。 川の淵には福石も祀られています。
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            女綱の中央部にも藁細工のシンボルが吊るされています。此処から山道を10キロほど登れば             吉野です。筆者は吉野に桜見物に行くか、引き返して宇陀の又兵衛桜を観に行くか迷いました。
 
明日香川に沿って約4キロ・・・・・、神事を4つ案内しました。
何れも、子孫繁栄・五穀豊穣を祈る神事です。
神事の中核には明日香川の清らかで命を運ぶ流れがあります。
 
古事記、日本書紀に「国産み神話」があります。
伊邪那岐(男神/イザナギ)・伊邪那美(女神/イザナミ)の神は天浮橋(あめのうきはし)に立って語りかけます。
男神は女神に声を掛けます。
「お前の体はどのように出来ているのか?」
女神は答えます。
「私の体は成長しましたが・・・、成長していないところが一つだけあります」
男神は言います。
「私の体には成長したのだが一か所成長しすぎた部分がある。それじゃあ私の成長しすぎた部分を貴方の成長しない部分に突き刺して・・・・、国を産みたいと思うのですがどうですか?」
こうして、二人の神はセックスします。
 
でも、女神が最初に誘ったので・・・・、蛭子(骨のない子、未熟児)が産まれてしまいました。
二人の神は蛭子を葦船舟に乗せて川に流してしまいます。
別天津神のもとに赴き、なぜちゃんとした子供が生まれないのかを尋ねます。
「正しくセックスしなかったからだ・・・」教えられます。
教えられたとおりに行い・・・・、日本の国を産み落とします。
 
古代人にとってセックスは神事でありました。
現代人には快楽にしか思われていないように思います。
 
明日香川を辿ると、神事が自然に対する崇敬や憧憬に始まる・・・、と痛感します。
古代人の性や愛に対する純粋な気持ちの尊さが解ります。
数々の性神に・・・・、柏手を打ってしまいます。
 
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  稲淵と栢森の中間にある「飛び石」 飛鳥川沿いには万葉集石碑が数多く案内されています。
  奥の歌碑は「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも」 大凡の意は「明日にでも私は石橋を    渡って貴方の家に通いましょう、あなたに対して遠くはなれた気持ちなど持っていません。」でしょう。 揮毫は犬   養孝先生。手前の歌碑も同じ。この辺りは夏になると蛍が飛び交います。足を水に浸して…、快いものです。
  この近くに南淵請安(帰化人、学問僧)の墓があります。見所の多いコースです。
 
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この世とも思えぬ美しさ「又兵衛桜」

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今回の奈良旅行、当初は4月15日から2泊の予定でありました。
ところが、桜の開花情報をネットで確認すると・・・・、15日では散ってしまいそう・・・、
急遽、4月2日に出発しました。
アッチにも行きたい、コッチも見たい・・・・、欲望は尽きないのですが・・・・、順番を付けました。
第一番は「宇陀の又兵衛桜」を眺めたい・・・・、
又兵衛を見たら・・・・、仏隆寺から室生に回って・・・・、ズルズルと旅行プランが広がって行きます。
 
明日香川の上流栢森まで来ると、もう高取山もその麓の壺坂寺も目と鼻の先です。
その先が吉野山、バイクで20分も走れば一目千本の桜が見られます。
奈良駅の観光案内所では吉野も又兵衛桜も同じ”咲き始め”でした。
同じ咲き始めなら・・・・、又兵衛桜を見よう・・・・、柏森で引き返します。
磐余道を通って、安倍文殊院、聖林寺の門前もパスして・・・・・・、宇陀に直行です。
寄り道すれば・・・・・、室生の桜も大野寺の枝垂れ桜も見られません。
私は4月4日に帰り、5日の入学式にはお祝いに行かなくてはなりません。
 
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               女寄峠近くの里山風景、棚田に民家、そして桜が美しい。
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           女寄峠・・・・・、 桜の花に引き寄せられて行くと・・・・、墓地でした。
           墓地には「私達の祖先が眠っています。静かに花を見て・・・、ゴミはお持ち帰りください」書かれて            いました。
 
桜井から国道166号「松坂街道」を女寄峠を越えれば宇陀です。
峠道を覚悟していましたが、何と女寄トンネルが出来ていました。
昔からこの峠道は心霊スポットとして有名で、金縛りにあうと言われてきました。
美女の霊がいて、人を引き寄せる・・・・、そんな昔話を想像させる名前です。
それにしても、このあたりの地名は読み難い・・・・・、女を”みょう”と読むのは・・・・、他に聞いたことがありません。
ハンドルを握っていて・・・・、金縛りに遭ったら・・・、即死です。
 
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     これが又兵衛桜です。後藤又兵衛の館の跡地に咲いています。館は石垣を積んでその庭先、東南の角に      根を張っています。館の母屋の跡には桃を植えました。桃の花は桜の控え役のようです。また、杉の濃い緑     が桜の花を引き立てています。
        
宇陀は美しい街です。
伊勢道の街並みも美しいし、何より里村の自然が素晴らしいものがあります。
棚田を見下ろす位置に民家があって・・・、其処には必ず桜の木が植えられています。
桜は・・・・・、どれもこれも又兵衛桜の美しさに触発されて・・・、その実生でしょう。
桜の木の樹下には往々にしてお墓があります。
何でお墓に桜の木を植えたのか?
私は常々こう考えています。
『現世は生きている者が住むだけの世界では無い、死者は肉体を失っても魂が現世に残っている。
魂が喜ぶところ・・・、それが美しい所で・・・・桜の木だ・・・。
だから、人を失った時、お墓に桜の木を植えて魂に喜んでもらおう・・・と子孫は考えた。』
こうした考えは自分自身に置き換えると、次のように展開します。
『自分が肉体を失ったら・・・・、魂は生前観た美しい所に行くだろう・・・。
ならば生きている時は出来るだけ美しい所を見ておこう』
そうしておけば、私の魂は死後もリッチで居られると・・・・。
 
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   宇陀の街並み。伊勢街道に面したこの町は街並みが美しく、竹田薬品や藤沢薬品の創業地としても有名です。
 
阿騎野の人麻呂公園を右折すれば遠くに又兵衛桜が見えてきます。
此処は人麻呂が”ひむがしの野にかぎろひの立つみえてかえりみすれば月かたぶきぬ”
詠った場所と言われています。
かって静かだった山里は、滝桜の美しさに誘われて観光客が集中してきています。
川が整備され・・・、田圃は埋め立てられ大駐車場になりました。
 
又兵衛桜は関ヶ原の戦いや大坂の陣で勇猛を馳せた「後藤又兵衛」の館跡に咲きます。
又兵衛は大坂の陣で戦死した・・・、と言われていますが伝説は・・・英雄は死なせません、
刀折れて故郷の館に戻ってきたことになっています。
既に徳川の天下、又兵衛は「水貝」と名を変えて潜んで生きた事になっています。(又兵衛桜の案内板)
 
又兵衛桜は屋敷の東南の角、石垣の上に根を張っています。
左右前後に大きき枝を広げ、枝先からは細く長い小枝を垂らしています。
小枝の先には花が咲いて・・・、花は天空から一気に落ちる滝のようです。
館の母屋跡には桃の木が植えられています。
背後の山は杉山です。
桃も杉も桜の引き立て役に徹しています。
桜も美しいのですが…、周囲の環境も素晴らしい・・・、
だから又兵衛桜はこの世とは思えない美しさです。
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又兵衛屋敷の近くには高山右近の居城「沢城」もあります。
少し距離がありますが、北に上れば柳生もあります。
いずれもが戦国時代に活躍した武将です。
でも、哀れを強く感じさせ、最も勇名を馳せたのは後藤又兵衛でしょう。
又兵衛が亡くなったのは600年前、又兵衛桜の樹齢は300年ですから、又兵衛はこの桜を愛でた訳ではありません。
でも、勇猛な武将に相応しい美しさ、華やかさがあるので又兵衛桜の名が付いたのでしょう。
 
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        遠くの鉄塔のある山が道辺寺山、其処に後藤又兵衛のお墓があります。
        兵衛桜は川を挟んで駐車場が整備されました。
 
地元の人に又兵衛さんのお墓は何処にあるのか? 尋ねました。
遥か彼方の山の頂・・・、高圧線の鉄柱を指さして・・
「あの山の上に道辺寺があって、其処にお墓がありますよ。お墓からはこの桜や館の跡が見下ろせるのです。」
言われました。
私は反対の東側の山を指さして、
「あの山が室生寺になりますね・・・、ならばその手前が仏隆寺ですね・・・・。」尋ねます。
「そうですよ、その前にある小高い小山が城山(松山城)になります。」
 
又兵衛桜を眺めながら・・・・、草餅を頬張り・・・・・、さあ次は・・・・、仏隆寺に向かて出発です。
 
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  一番遠くの山が室生になります。その手前の山の此方側に仏隆寺があります。手前の小山が城山です。城山の  頂上には桜が咲いています。手前の青いテントのところで整備料(100円)を支払います。川の北側(左)で見る限り  無料ですが・・・・。
 
 
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室生寺南門(仏隆寺)から室生寺に行く

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私は慶応大学の日本文化研究会の会員(OB)です。
学部は経済でしたが、教養課程では歴史・文化の授業を多くとりました。
浅子勝二郎教授(故人)の講義には強い感銘を受けて育ちました。
その講義の中でもとりわけ印象が強かったのは、仏隆寺から室生寺のお話でした。
私は既に室生寺には何度か参詣していました。
その美しさには・・・・、とりわけ石楠花の花の咲く季節の美しさは、夢を見る思いがしていました。
浅子教授は、室生口大野駅から室生川に沿ってバスで行くのではなく・・・・、
室生寺の南門である仏隆寺から入山するように奨められました。
室生寺の参詣道は仏隆寺に始まり、その道は伊勢道に重なっている・・・・、そんなお講義でした。
 
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    国道369号線伊勢街道を左折します。この道が伊勢街道(古道)であり、女人高野室生の参詣道でした。
 
仏隆寺から室生寺まではひと山越さなければなりません。
約6キロほどの山道です。(榛原から歩きはじめれば一日を要します)
女人高野室生寺にはこの道を辿って参詣したのでした。
この山中の参詣道を辿る中に、心身には山の霊気が満たされ・・・、参詣する心身になる・・・。
午後に仏隆寺に入れば、夕暮れには室生寺に入れる。
宿は門前の橋本屋にとって、とろろ飯を戴くのがよろしい・・・、そんな講義でした。
私は、想像力を駆り立てられました。
高野聖の世界を想いうかべて・・・、何時か行ってみたい! 思っていました。
 
でも、サラリーマンになった私は何時も忙しく旅をしました。
仏隆寺に室生寺にも何度も行きましたが、浅子教授が奨められた山越えはしたことがありませんでした。
 
仏隆寺には榛原から伊勢街道(国道369)に入ります。
高井で国道に分かれ古道に入ります。
分岐点には「伊勢道」、「室生道」の表示があります。
更に急な坂道を谷川沿いに右に左にくねって行けば、仏隆寺の山が見えてきます。
 
 
                           
仏隆寺は嘉祥3年(850)に弘法大師の弟子「賢恵」が創建したお寺でした。
空海が唐から持ち帰ったお茶を栽培した大和茶発祥の地と言われています。
約200段もある石段の上に本堂があります。
石段の両脇には秋の彼岸には彼岸花が咲き揃います。
死者の魂は彼岸花に導かれてご本尊十一面観音の前に辿り着くのだろう・・・、推測します。
そして、4月後半には「千年桜」が咲きます。
千年桜の名は樹齢が千年だからでしょう。
幹は既に腐ってしまい、樹上2m程の位置でヒコ株が生えて、11本の幹が育ち、梢を天空に伸ばしています。
遠くから眺めると、梢は白鳥が飛び立とうとして両翼を広げたように見えます。
 
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   仏隆寺。長い石段の両側には彼岸花が咲きます。中段右手にあるのが千年桜です。右手の道は本堂まで舗装   されていますが・・・、その先は人一人通れる山道です。今回知ったのですが、相当に人気のある山道です。
    
4月3日には梢の先に花が咲き始めた処でした。
今日(4月8日)、ネットで調べると今が満開だそうです。
山桜と江戸彼岸桜が自然に交雑して出来たものだそうです。
樹齢を重ねた桜と言えば「山高神代桜」が有名ですが、千年桜も負けない風格があります。
そして、何よりも毎年樹木医の診断や措置を受けていますから・・・・、
神代桜より花数は多く梢も四方に張っています。
 
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   満開の千年桜(出典るるぶ桜前線http://www.rurubu.com/season/spring/sakura/detail.aspx?SozaiNo=290006)
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                    峠道から仏隆寺を見下ろす。左下に千年桜が見えます。棚田の美しい山里です。
 
仏隆寺の脇を登って行けば室生寺に行けます。
ハイカーはその道を辿ります。
入口は広いのですが直ぐに人一人通れる程の山道になります。
1K登った辺りで峠に出ます。
峠には祠があって、役行者が祀られています。
役行者の視線は南、葛城山、金剛山の山脈を見詰めています。
眼下には仏隆寺が見え、遥か彼方の山脈は吉野から高野山になるでしょうか?
 
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                                     峠から南を望む。左側の山脈が葛城山と思われます。
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                                                   峠の祠には役行者が・・・・・・。
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                                        峠を越えると「山の神」が祀られていました。
 
峠を越せば、後はダラダラ下り坂です。
峠辺りは熊笹ですが、次第に針葉樹林になります。
杉や檜は室生寺の樹林で、先年台風で壊れた五重塔を補修した材を提供した樹林なのでしょう。
檜の木の樹下に苔むした石仏が眠っていました。
暫く下ると・・・・、金網フェンスがありました。
多分、猪や鹿が里に下りてきて食害を起こさないように作ったものでしょう。
樹林の間から室生寺の裏山が見え始めた処に「腰折れ地蔵尊」が祀られていました。
「腰折れ」の名はお地蔵さんが倒れて腰の位置で割れてしまったからでしょう。
でも、室生の人は腰から下の病気に、特に足腰の病気に霊験がある・・・、信じられているのだそうです。
 
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                                                         桧の樹林に佇む石仏
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                                                         腰折れ地蔵尊
 
樹林が切れると人家と田畑が開けます。
優しく美しい「室生の里」です。
浅子教授も、陽が傾き、心細くなったところで、人家が見えると”嬉しかった”言われていました。
そんな室生の里に西光寺があります。
 
見事な枝垂れ桜が本堂の横に生えています。
本堂しかない無住のお寺のようですが・・・・、墓地にはお参りを欠かしていない事が解ります。
枝垂れ桜の樹齢は300年と案内されています。
又兵衛桜と同じ・・・、ということでしょう。
宇陀地方では長い戦国時代が漸く終了し・・・・、枝垂れ桜がブームになっていたのでしょう。
室生川の下流、大野寺の枝垂れ桜はこの西光寺の枝垂れを接ぎ木したものだそうです。(次回に書きます)
 
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        西光寺は本堂しかない無住のお寺です。本堂横の枝垂れ桜が見事です。この辺りが室生の里です。
        下に見える杉林の中に室生寺があります。
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                       西光寺「城之山桜」、左手にハイカーが3人、仏隆寺から下りてきています。
 
 
枝垂れ桜を眺めていると・・・・、次から次にハイカーが仏隆寺方角から下りてきます。
みんな見事な枝垂れ桜を見上げて・・・笑顔になります。
よく、室生寺を参詣しに来られた・・・・、誉めてあげましょう。
桜にそう言われているようです。
 (私はバイクで越えてきたので・・・、誉められそうもありません。また浅古教授には”狡いぞ!”叱責されそうです。)
 
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   室生寺入口の左右にある橋本屋旅館。此処の「とろろ飯」が名物です。
   土門拳もこの宿を常宿にして写真集「室生寺」を撮影しました。
 
 
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大野寺「枝垂れ桜と弥勒磨崖仏」

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室生寺から宇田川に沿って下ると、丹塗りの橋が見えてきます。
水量は豊かで、瀬と瀞が交互して現れます。
ひと雨降れば激流が川を下ります。
そんな流れの蛇行したところに、連れ込みホテルがあったのですが・・・・、
それも無くなり、その位置が紅葉公園に変わっていました。
”良かったなあ・・・・!” 室生寺に連れ込みホテルは相応しくない、思います。
暫く下ると右岸に大きな岩場が見えてきます。
この岩場の巨岩に弥勒磨崖仏が彫られています。
そう、此処が室生寺の西門「大野寺」です。
 
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                              手前が宇陀川、大野寺の対岸岩場に磨崖仏がおわします。
 
宇田川は大野寺の先で名張川と名をかえ、更に名勝「月ヶ瀬」を下ります。
笠置の先から木津川と名をかえ、更に淀川に合流、難波の海に注ぎこみます。
何れの名も歴史に名を留める、美しい川です。
川下の人達から見れば命を支える水の源流が室生であったのですから・・・・・、
室生への信仰(竜神)は一方ならぬものがあったのでしょう。
 
笠置にも大きな磨崖仏があります、その先の加茂にも川岸に、川を見下ろす東尾の丘陵にも
膨大な石仏があります。
川は石仏文化圏も形成しているようです。
 
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          大野寺は磨崖仏を遥拝する位置に建てられています。
          枝垂れ桜は弥勒仏に供花するように植えられたものでしょう。
 
 
大野寺は白鳳9年(681年)役小角(役行者)によって創建された・・・・・、
弘法大師が堂を建立「世尊院弥勒寺」と称した・・・・、お寺は案内しています。
創建の正確な経緯は不明と言った方が的確でしょう。
はっきりした事は磨崖仏の造立です。
興福寺の僧「雅縁」の発願により承元1年(1207)に制作が始まり、承元3年(1209)後鳥羽上皇の臨席を戴き開眼供養されたと伝えています。(興福寺別当次第)
石工は誰だったのか? 宋からの帰化人など様々な説があります。
 
鎌倉時代末期、大和の仏師や石工は全国に散って、行き先々に文化財を残します。
私の住む相模国では箱根石仏群(重文)を彫りあげます。(大和国石工/大蔵安氏)
そんな活動の震源には興福寺仏所があったようです。
大野寺弥勒仏もその意匠は笠置の磨崖仏を模している・・・、指摘されています。
 
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                                                  桜見物客で大賑わいの大野寺
 
大野寺は弥勒磨崖仏を遥拝する位置に建っています。
ですから・・・・、弥勒磨崖仏開眼に際して建立された、と考えても良さそうな気がします。
少なくても、弘法大師建立の小さなお堂が在ったとしても、弥勒磨崖仏の開眼の際に堂宇が整備された、と考えても間違いないでしょう。
 
300年前、戦国時代が終えて・・・、ようやく平和な時代が来ました。
日本中で、末法の時代は終わり、ようやく弥勒の時代が来た! そんな喜びに湧いたことでしょう。
特に、宇田川沿いは戦いに明け暮れました。
後藤又兵衛、高山右近、柳生宗厳 等が割拠していましたから・・・・、その喜びも大きかったことでしょう。
 
平和な時代が来た・・・! 喜びは枝垂れ桜を植える・・・、ブームになったと思われます。
弥勒磨崖仏を飾るように・・・、遥拝所に枝垂れ桜を2本を育てました。
 
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大岩は高さ13メートル余り、白っぽい石英安山岩(火成岩の一種、ケイ素が多い)で出来ています。
その大岩を刳り貫いて、そのへこんだ部分に背丈11.5mの弥勒様が陰刻されています。
よく見れば、右手で垂れた衣の裾を一寸持ち上げておいでです。
お顔、特に目鼻だちは女性のような印象です。
頭は螺髪のようなターバンのような・・・、何処か異国(宋)の印象を受けます。
 
弥勒磨崖仏を拝して気付く事があります。
綺麗になった事です。
以前は苔が付着して線刻が良く解りませんでした。
西向きですから、午後3時過ぎに行けば良く見える・・・、そんな記憶がありましたが、今日は良く見えます。
レンズを通して見ると、お顔からこめかみに向けて石が補修されている事が解ります。
岩の裂け目が拡大しないように、裂け目に水が入り苔が増えないように措置したもののようです。
 
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         表面の苔を洗い落とし、裂け目を修理して良く見えるようになった弥勒様。
         改めて見ると女性のような優しさが目立ちます。
 
案内によると1993年から保存修理を施したそうです。
苔類の除去と合わせて岩場に流れ出る地下水の流路を変える工事をしたのだそうです。
大野寺境内に新しく紅枝垂れ桜も植えられました。
桜の名所にしよう・・・、熱気が感じられます。
山門脇には大型観光バスの駐車場も出来ました。
宇陀野の枝垂れ桜巡りは観光コースになったようです。
4月4日も大賑わいでした。
狭い境内は沢山の桜見物客でごった返しです。
私は初めて入山料を払いました。
お檀家の人総出で見物客整理に精を出しておいでです。
 
大野寺は綺麗になったし、拝観者も増えた。
桜の樹も益々盛んです。
弥勒様も綺麗になって良く見えるようになりました。
良い事尽くめで・・・、大満足です。
 
さあ、次は長谷寺に詣でましょう。
私の慌ただしい桜紀行も終盤です。
 
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            枝垂れ桜全景。親樹の西林寺の枝垂れに比べて白いのは花が進んでいるからでしょう。
 
 
 
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桜の長谷寺

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難波の海から大和川を遡ると、法隆寺や当麻寺等の古寺、大寺を岸辺の左右に眺めながら次第に川幅が狭まります。三輪山の南を流れ、次第に山峡に分け入ります。
最初の瀬が在ることから「初瀬」と呼ぶのだろうと思います。
初瀬山の中腹に長谷寺があります。
 
平安時代貴族階級のインテリ女官は長谷寺に籠りました。
願掛けを行い、また暫く逗留することにより心身ともに健康になった事でしょう。
心の病を治癒してくれるのも長谷観音のご利益、ご加護と信じられました。
”初瀬籠り”が我が国巡礼の始まりでしょう。
枕草子、源氏物語、更級日記等・・・・王朝文学には再三登場します。
作者も、その読者も長谷寺には再三籠った事でしょう。
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                                   長い門前の商店街の奥に長谷寺があります。
 
王朝貴族や女官が参籠しやすい様に・・・・、石段は段差が小さく、登廊には屋根が付けられました。
長い登廊の左右には名物の牡丹が植えられています。
登廊は右に左にスイッチバックしながら・・・・、本堂の前に導いてくれます。
本堂は清水寺と同じような、大きな高い舞台を備えた「懸崖造り」です。
その舞台の上で・・・・、大きな観音様の前に出ます。
長い長い登廊を登って観音様の前に出るころには・・・・、お参りする心がすっかり準備出来ている・・・、
そんな仕掛けがこの登廊にはあるのでしょう。
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    下方に見えるのが登廊の屋根。 桜に埋もれています。
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                  本堂の舞台から登廊、その先の仁王門を遠望します。桜と紅葉です。
 
現在の観音様は7代目ですが、最初の観音様は難波の海に浮いていたもの・・・・、
そお、伝えられています。
観音信仰も、観音様も中国から伝来して、大和川を遡って此処長谷寺から全国に伝播した・・・・、
そんな歴史が偲ばれます。
 
舞台からの眺望は・・・・、清水寺に勝るとも劣らない美しさです。
紫式部も桜の咲く長谷寺を眺めて癒されたのだろう・・・・、推測します。
桜の名所でなければ・・・・、遥々京の都から沢山のインテリ女官を惹きつける事は無かったことでしょう。
此処から眺められる桜も何代も経て、変わらぬ美しさ、日本の風景を形造って来たのでしょう。
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西側には五重塔が見られます。
私と同じ年頃の昭和の名塔です。
風景にも和んできました。
未だ新しい・・・、全く思わせない姿です。
 
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私は長谷寺に参詣すると必ず寄るところが二つあります。
一つが名物の草餅屋さんです。
此処で草餅を求めて・・・・、一箱はお土産に、そしてもう一つ、私のお三時のお茶うけです。
草餅を求めたら・・・・、次に行くところは「玉鬘庵」です。
源氏物語の玉鬘巻に登場する玉鬘庵の跡と言われている。
連歌橋の東、石段の中程を左に少し入った竹やぶの前に供養塔がひっそりと立っています。
その石段に腰掛けて、草餅を頬張り、リュックからミネラルウォーターを取り出し休憩です。
勿論、此処からの長谷寺の風景は最高です。
北側に長谷寺本堂が見え、南には仁王門の甍が見えます。
その間・・・・、長い長い登廊の甍が繋いでいます。
 
長谷寺を参詣して、私は一段心身とも回復した・・・、そんな気がします。
 
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   玉鬘庵跡から長谷寺を遠望する
 
 
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東大寺講堂跡の桜

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   びるばくしゃ まゆねよせたる まなざしを 
   まなこにみつつ あきののをゆく                      会津八一

「びるばくしゃ」とは広目天のことです。
会津八一氏は戒壇院の四天王像を拝観し、二月堂に向けて歩を進めたのでしょう。
広天目の眉を寄せて、遥か彼方を見詰める物静かで愁いを込めた眼差しです。
八一氏のその眼差しが瞼にくっきり焼き付いたのでした。
 
私の尊敬する歌人の歌です。
書棚には鹿鳴集が3冊もあります。
最も古いボロボロなのが学生時代に携行したもの。
2冊目は就職した頃、3冊目は今も使っています。
 
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                               東大寺戒壇院の広目天。(奈良県HP写真を加工)
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                                   東大寺戒壇院、もう固く門も閉ざされていました。
 
東大寺は3度建てられました。
現在の大仏殿は元禄4年(1691)に落慶されたものです。
永禄10年(1567)松永久秀ら大和の戦国武将5人による「東大寺大仏殿の戦い」で焼失しました。
その前の焼失は治承4年(1181)平重衡らの南都焼討によりました。
何れも徳川綱吉、源頼朝など時の為政者の尽力があって、大仏殿は再建されました。
 
大仏殿再建は為政者の出現を日本中に知らしめ、その人徳を印象付ける効果が在った事でしょう。
でも、講堂(お坊さんが勉強する建物)は再建されませんでした。
講堂のあった場所は今も礎石だけが野に残されています。
ススキ等の山野草が茂って、松や楠等の常磐樹が自生しています。
その中に、紅葉や桜が春秋に彩りを添えています。
 
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                       夕暮れの東大寺講堂跡。野に点々と礎石が遺されています。
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        大仏殿裏、右側が戒壇院です。
        ですから、八一氏の歌は右の戒壇院からこの道を講堂跡に辿った時作られました。
 
その野原に紅枝垂れが2本植えられました。
一見すれば精々50歳程度の・・・、桜にすればまだ若木です。
でも、形が優れています。
成長するのが楽しみな紅枝垂れです。
荒れ野に二人、天女が降り立ったような艶やかさです。
 
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      東大寺講堂跡の紅枝垂れ桜。山蔭は三笠山です。
      三笠山は文明堂のどら焼きの商標(?)、奈良では若草山の別名で安倍仲麻呂・・・”三笠の山に       出でし月かも」で馴染まれています。
 
カメラマンが集まってきます。
夕暮れ時、夕陽に照らされて紅枝垂れがポッと浮かび上がるので・・・、その瞬間を狙うのだそうです。
奈良公園で遊んだ鹿がねぐらの春日大社の森に戻って行きます。
紅枝垂れの根元で佇みました。
時々、垂れさがった枝先を見上げたりします。
鹿さんも紅枝垂れの美しさが解るのでしょうか?
 
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                大仏池の池畔の鹿さん。この後講堂跡を経由して寝床の春日の森に帰ります。
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紅枝垂れの樹下で草を食む鹿。草芽が出る前は枝垂れ桜の先を食べていたのでしょう。
枝先が鹿の背丈に切り詰められています。白壁は正倉院。
 
鹿の動作を見ていて気付きました。
鹿は紅枝垂れの枝先を食べようと、樹下で止まったのです。
でも、口が届く高さの枝は食べ尽くしてしまいました。
お蔭で、紅枝垂れはワカメちゃんカットのように、切り詰められてしまいました。
少女のお河童(?)のような形です。
何か、お河童カットの枝垂れ桜も、愛らしく見えてきます。
 
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                                     枝垂れ桜は講堂跡に2本植えられました。
 
 
大きな大仏殿も良し、何も無い講堂跡も・・・・、素晴らしいと思います。
聖武天皇の時代のように戻したい・・・、
講堂も再建したい・・・・、お寺さんの宿願かも知れませんが・・・、
そのまま・・・礎石だけを残して、自然豊かな野原のまま・・・、
ただ、二本艶やかな紅枝垂れを植えられたのは・・・、素晴らしいと思います。
 
会津八一氏がこの枝垂れ桜を見られたら・・・・、何と詠われたでしょうか?
入江泰吉氏なら見事にレンズに写した事でしょう。
先人の見られた奈良が・・・、昔より一段と美しくなった(場所もあって)・・・・・、嬉しくなります。
 
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                  少し歩けば飛火野、向こうの山が若草山。倅の土産は三笠山にしましょう。
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      飛火野を下れば浮見堂があります。奈良公園は何処から何処までか知りません。
      東大寺、春日大社・・・・、全域が公園のようです。自然と、鹿と、文化資産がこれほど調和してある      都市は世界中、滅多に無いと思います。
【追記】
  この写真は4月4日、夕刻のものです。もうすべて散ってしまって・・・、もう今は春日大社の藤の花房が   膨らんでいる事でしょう。
 
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大和郡山城で墓石探し

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国道24号線は和歌山市から橿原神宮に、其処からは真っ直ぐ京都まで北上します。
私はバイクのハンドルを握り・・・・、斑鳩に向かおうか、それとも大和郡山から西ノ京に行こうか・・・、迷っています。どちらにも行きたいのですが、もうじき日も西に傾き始めそうです。
生駒山に沈む夕日を見てから・・・、一目散に横浜に帰宅しなければなりません。
 
大和郡山は地政学上の要衝に位置しています。
秋篠川が流れていて、上流は平城京、下流は法隆寺の南を流れて、大和川に合流し、難波の海に注ぎます。
川と道路のクロスする位置に在りましたから・・・・、中世以降城が築かれ、城主は度々変遷します。
 
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                                    郡山城天守閣下の石垣。向こうに屋台が見えます。
 
                          
天正13年(1585)には豊臣秀吉の弟「豊臣秀長」が大和・紀伊・和泉3か国100万石の領主として郡山城に入ります。
秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大しようとします。
根来寺の大門を移築させたり、石垣を築くため各地の石材を集めます。
石垣には墓石や石仏までもが使われたそうです。
頭塔(奈良割石にある奈良時代の石塔)の石も使われた・・・、言い伝えられています。
どんな時代も新時代を切り開いた人たちは・・・・、前時代の権威や信仰など意に介さなかったのでしょう。
私は、石垣に転用されてしまった墓石や石仏を自分の眼で確認したい・・・・、思って郡山城に向かいました。
郡山城は日本桜百選にも数えられていますし・・・・未だ桜は残っていそうです。
 
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正面が郡山城の追手櫓、右が追手門(梅林門)。天守閣は明治維新で取り壊されたままです。
 
田原本町には唐古遺跡があります。
24号線、道路わきには楼閣が復元されています。
随分古くなったようで・・・、もう楼閣には登れそうもないようです。
郡山城はコッチ、道路標識に従って左折(西)に向かえば古い商店街を通って、近鉄線郡山駅に出ます。
もう、線路の西に郡山城の石垣が見えます。
 
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                    唐古遺跡の復元された楼門、随分傷んできて登れるか疑問です。
 
わざわざ・・・、天守閣の石垣に墓標や石仏を使わなくても良さそうなものを・・・・!
想いながら天守の石垣を見詰めます。
ようやく1基見つけました。
宝篋印塔の基壇でしょう、御影石にはっきり梵字が刻まれています。
もっと、もっとあるだろう・・・、
お地蔵さんが埋もれているかもしれない・・・・!
 
私は宝探しの感覚で石垣を見て回ります。
でも、中々次が見当たりません。
地元の人なら知っているに違いない・・・・、に尋ねてみます。
「郡山城の石垣には墓標やお地蔵さんが使われている・・・、1基は見つけたのですが、他に御存じありませんか?」すると、
「そんな乱暴な事は聞いたことありません・・・、あるとしたら天守のように目立つ場所ではなく、目につかないところじゃないでしょうか?」
 
追手門から毘沙門曲輪など裏手に回ります。
でも、素人のすること・・・、中々見当たりません。
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                                     追手向櫓の石垣。石仏も石墓も見つかりませんでした。
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                    追手門(梅林門)の石垣、此処でも石墓、石仏は石垣に転用されていませんでした。
 
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                           本丸石垣に使われた墓石の基壇、梵字がくっきり刻まれています。
 
仏罰が当たった訳でも無いでしょうが、豊富秀長は52歳の働き盛りに病死してしまいます。
以降、郡山城は軍政上の要衝にあった事から城主は転々変遷します。
そして、明治維新を経て天守閣などは取り壊されてしまいました。
現在は桜の名所として・・・、市民の憩いの場所になっています。
 
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                           屋台の金魚すくい・・・、金魚の本場では人気が無いようです。
 
この日も、平日ですが沢山の屋台が並び・・・、賑わっていました。
100万石の大城でしたから・・・・、石垣にも風格があります。
大堀には桜が散って・・・、花筏が出来ています。
お堀に本物の筏があります。
金魚の養殖でも行っているのかな・・・、
見ると、水質浄化装置だそうです。
見れば、緑藻類が繁殖して透明度は極端に低いようです。
 
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                                          郡山城のお堀は花筏が浮いていました。
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                              郡山城本丸石垣。お堀に浮いている筏は水質浄化装置。
 
お城を後にしました。
秋篠川の土手に沿って、奈良市街に向かいます。
薬師寺の東堂が全面解体修理中です。
東堂は囲いの中に隠れてしまって見えません。
私が学生の頃は薬師寺には東堂しかありませんでした。
西塔の礎石に溜まった水面に映る東堂を写真に写したものです。
  すゐえんの あまつおとめが ころもでの
         ひまにもすめる あきのそらかな (会津八一)
 
会津八一氏も東堂の水煙を見上げてこの歌を作られました。
奈良の風景に薬師寺東堂が如何に重要であるか・・・・・、隠されてしまうと改めて思い知らされます。
東西両塔が揃って眺められるのは・・・平成30年まで待たなくてはならないと聞きます。
 
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               左が昭和に建築された薬師寺西塔、右側タワーは薬師寺東堂、解体修理中の囲いです。
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           秋篠川の土手で釣り糸を垂れる人達。右奥唐招提寺。筆者も半世紀前此処で金魚を釣りました。
 
 
秋篠川の土手の桜は散り始めました。
釣り人が数人、のんびり糸を垂らしています。
「金魚が釣れましたか?」聞くとムッとした様な表情で答えられました。
「釣っているのは鯉です・・・。(金魚は外道です)」
私は慌てて釈明します。
「もう、40年も前このあたりで金魚を釣った事があったので・・・・」
金魚が良く釣れました。
近所の池から逃げ出した金魚だったのでしょう。
金魚は全く引いてくれません。
まるで針に藻がかかったように引きあがりました。
釣り人にすれば金魚は高価であっても、釣りとしての醍醐味が無いのでしょう。
 
のんびり、石仏を眺めながら・・・、三笠山に向けてバイクを走らせます。
三月堂の舞台から夕暮れを見る事にしましょう。
 
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                                 お地蔵さんのお顔に西日が当たって・・・、もうじき夕暮れです。
 
 
 
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奈良町の庚申堂

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JR奈良駅から真っ直ぐ東に、猿沢の池から春日大社まで通じる道が三条通です。
平城京の都大路「三条通」の面影を今に伝えています。
東の春日の森に始まり、西は生駒山まで・・・・、太陽の通る道、とも呼ばれる長い道ですが・・・、
JR奈良駅から観光センターまでは奈良で一番賑やかなショッピングモールになっており、
奈良漬屋、墨・筆屋、春日一刀彫屋、赤膚焼(陶器)・・・・等々奈良の老舗が軒を連ねています。
 
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  奈良漬けの今西本店。今西家は三輪の造り酒屋がルーツで、奈良町には「今西家書院/重文」があります。
  軽食、喫茶のサービスもあります。
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                                  三条通ショッピングストリートにある「墨・筆」の一心堂
 
三条通ショッピングモールから少し南に下った辺りが「奈良町」です。
元興寺が衰退して・・・・、そのあとに街が出来ました。
古代には京の都人が初瀬籠りに通り、屹度このあたりで一泊したものと思われます。
近代には伊勢詣で流行って、矢張り奈良で一泊しました。
奈良町は伊勢詣の旅人で賑わったものと思われます。
 
私は奈良で遊ぶと必ず奈良町に立ち寄ります。
美味しい奈良漬と白飯の定食屋さん(馬酔木等)がありますし、
古い民家でジャズを聴きながらコーヒーを戴く事も出来ます。
そして、街中にお地蔵さんが佇み、家並みの中に埋もれるようにして「庚申堂」があります。
 
 
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     奈良町の街並み、右が「菊岡漢方薬」正面突き当りが吉田蚊帳の工場、店舗。軒先に「さるぼぼ」が吊るさ      れています。
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     奈良の格子戸は京都のそれよりも太くて格式があります。そんな軒先に「さるぼぼ」が良くお似合いです。
 
以下の庚申信仰に関する記述は私の意見です。
一般的に云われている事ではないので・・・・、ご留意ください。
 
長い戦乱が終えてようやく平和な時代が訪れました。
東海道には旅人が通り、宿場町が整備されます。
箱根山の麓、小田原には沢山の旅人が泊ります。
異郷の人が集まるところ、異文化が交流します。
そんなカオスの中から・・・・、新しい信仰も現れます。
あの、二人のお地蔵さんが並んだ形の道祖神も、三匹の猿が並んだ庚申塔も、
小田原宿から藤沢にかけた一帯から始まりました。
    
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     伊勢街道宇陀で見つけた庚申塔(中央祠の左側、宝暦6年/1756の建立でした。
     奈良は庚申信仰のルーツでありながら・・・・、庚申塔は稀にしかたっていません。
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                                                奈良町の中にある庚申堂
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   庚申堂の内部。早朝でしたので開扉していませんでした。青面金剛と吉祥天が並んで祀られていました。
 
そこで、庚申信仰のルーツを調べると・・・・、なんと、奈良時代に遡ります。
そして、庚申信仰の主尊「青面金剛像」を調べると奈良町に行き着きます。
庚申縁起に見える伝承によれば、文武天皇(697~707)代に疫病が流行します。
元興寺の「護命僧正」が祈祷していると、青面金剛が現われ、
「汝の至誠に感じいったので、悪病を祓おう」と言って消えました。
その後、間もなく悪病が治まります。
その感得の日が「庚申の年」の「庚申の月」の「庚申の日」であったとされる。
それ以来、この地に青面金剛を祀り、尸の虫(さんし/道教で云う、体中に巣食う虫、諸厄の原因になる)を退治し、息災に暮らすことを守ってくれる・・・・、信じられました。
信者は町ぐるみで行われ・・・、信者は「講」を組織して・・・・・、庚申堂に籠って祈願されたのでした。
 
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             奈良町の庚申堂正面、香台をお猿さんが掲げていました。良いデザインです。
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     屋根の大軒には三猿が、樋の上にも二匹の猿が置かれています。これは乳房が大きいので女性かな?
 
奈良町で出現した庚申信仰が約1000年後、全国に、とりわけ関東地方で盛んになります。
私は横浜育ちですから、私から見れば身近に沢山祀られている庚申様を・・・・、
ルーツを遡って行くと何と奈良町、元興寺に行き着いた・・・、と言うことになりました。
奈良町がルーツの民間信仰は何と言っても「地蔵信仰」もあります。
このことは明日伝香寺で案内します。
 
宿場町、市場町には新しい文化、新しい信仰が生まれる事が多々あるのでしょう。
 
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   家族の数だけ猿ぼぼが吊るされます。屈曲した姿は猿が毛に着いた虫を取っている姿だそうです。それが三尸   を取っている・・・、と見えて「厄除け」のシンボル・身代りになったと言われています。赤い色は魔除けの色でし    ょう。
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                   転出した家族の厄を身代わりする・・・・、その為に庚申堂の軒に吊るされた猿ぼぼ。
 
奈良町のどの家にも「吊るし雛」が軒先に、玄関先に吊るされています。
”魔除けのおまじない”です。
赤い座布団の四隅をかがって・・・・・、屈曲させた格好です。
その真ん中に丸い顔が見えます。
これは関東では吊るし雛で飾られ、「さるぼぼ」と呼ばれます。
奈良では「身代わり猿」とか「願い猿」と呼ばれているようです。
猿の背中には「願い事」が書かれています。
吊るし雛は大きな者から小さい者まで・・・、家族構成に合わせてその数が吊るされています。
 
奈良町の住人(講)の中核拠点が庚申堂なのでしょう。
更新堂の軒下には無数の「さるぼぼ」が吊るされています。
まるで、蜜蜂が集まったようです。
これは、家族分の「さるぼぼ」を吊るしておいたところ、転出者が現われた・・・・、
そんな時に、その家族の「さるぼぼ」を庚申堂に預けておくのだそうです。
そうすれば・・・・、転出した家族の厄災が避けられる・・・、信仰されるのです。
家族の強い絆が伺えて・・・、良いものです。
 
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早朝、奈良町の通りを掃除しているお嬢さん、良い娘です。住人の街に対する愛着や誇りが感じられます。
 
此処20年来、奈良町は良い街に変わって来ています。
何と言っても「地元の人の愛着」が強く感じられます。
商店一店毎なら・・・、点でしかありません。
点(店)が連なれば「まち並み」になります。でも、まち並では線です。
面に広がると・・・、数段楽しくなります。
路地裏も・・・・、其処にある祠も・・・・、盆栽も・・・・、全部合わせて人を惹きつけてくれます。
奈良町は面で私達旅人を迎えてくれます。
三条通ショッピングストリートを一歩南に下って・・・・、奈良町に行ってください。
楽しい街ですよ。
 
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                   奈良町の御霊神社。斎宮で有名ですが、今は恋を成就する神社です。
 
 
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