Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

奈良町の地蔵石仏の尊さ

$
0
0
昨日は奈良町に良さを「庚申堂」を素材に案内しました。
今日はもう一つ、奈良町に伝わる地蔵信仰を案内いたします。
 
奈良時代、奈良町のある辺りは「元興寺」の伽藍でありました。
北から東大寺、興福寺、そして元興寺が並んでいたわけです。
元興寺は明日香の法興寺(飛鳥大仏)が平城京に移ったもので・・・・、
南都七大寺の一つに数えられる大寺院であった訳でした。
ところが、中世になると廃れてしまいます。
興福寺や東大寺に再建の熱気があった時代、元興寺は荒れ果てて、
大伽藍は虫喰いになり、大半の堂塔は朽ち果て、極楽坊や観音堂を残すだけの状態になります。
とりわけ、室町時代活発になった「大和土一揆」で元興寺は炎上してしまいます。
 
イメージ 1
     元興寺の伽藍の中で残された極楽坊。境内で夥しい地蔵石仏が祀られ地蔵盆が行われます。
 
荒れ果てた元興寺跡地でしたが・・・・、、初瀬街道、伊勢街道に面していました。
跡地に市が立ち、商人が住み着き、賑わいが生じます。
そんな人達の心の支えになったのが、地蔵信仰でした。
中世以降、元興寺跡で勃発した地蔵信仰は全国に伝播し、
数ある仏の中で日本人に最も身近で親しみのある仏様になったのでした。
 
元興寺の境内には数えきれない数の地蔵石仏が並んでいますし、
今でも地蔵盆(8月23日前後)には沢山の善男善女が集まって、お地蔵様は万灯篭の炎に揺れます。
もう、900年余り、お地蔵様に祈ってきた・・・・、長い歴史の重みを伝える地蔵盆会です。
 
イメージ 2
                                          奈良町の辻辻にはお地蔵様が祀られています。
イメージ 3
   奈良町の北は猿沢の池で、池を見下ろす位置に南円堂(上段・重文)があります。
   その石段の下は地蔵石仏が祀られています。
イメージ 4
                               奥が興福寺三重塔(国宝)、手前地蔵石仏群。
 
 
数ある仏の中で最も人間に近い姿をしているのは・・・、間違いなくお地蔵様です。
日本人がお地蔵様を信仰したのは・・・、間違いなく自分に似た、お父さんに似た姿をした仏様だったからでしょう。
如来は異形です。
貴族的な衣装をまとった菩薩に比べて・・・、お地蔵様の頭は丸坊主(比丘形)です。
袈裟だけを身を包んでおいでです。宝珠と錫杖だけを持っておいでです。
その姿は衆生の声(祈り)を聞きつけて、取るもの取りあえず早速に遣ってきた・・・、そんな姿です。
そんなお地蔵様は身近な僧侶を思わせる姿でもありました。
 
イメージ 5
                                           伝香寺辻の地蔵石仏。桜が散っていました。
イメージ 6
   伝香寺本堂(重文)、左に大きな地蔵石仏があります。 その左の宝物館に裸地蔵尊が祀られています。
 
奈良町に接して伝香寺があります。
この寺には裸形で袈裟を着た地蔵菩薩立像があります。
通称「裸地蔵」として呼ばれ、着せ替え人形のようで・・・・、愛されるお地蔵さんです。
地蔵盆(新暦7月23日)では着せ替え法要が行われます。
 
鎌倉時代に裸形の仏は流行しました。
仏典に記された仏様は人間の姿に程遠い姿でした。
これを、人間に近い姿に戻したい・・・、
そんな気運の中から裸形で仏を刻んで、袈裟を着せる・・・、そんな着想でした。
江の島や鎌倉八幡宮の弁天様もそんな裸形着装の仏様です。
 
 
裸形地蔵像の体内からは願文が発見され、仏師は善派の中心人物「善円」で、1228年の造仏であること、初願したのは比丘尼の妙法、唯円であったことが判明しています。(重要文化財)
 
イメージ 7
                       伝香寺の裸地蔵尊。7月23日の地蔵盆で、着せ替え法要が営まれます。
 
伝香寺は鑑真和上の弟子思託律師によって始まったと伝えられています。
伝香寺には天正13年(1585)大和郡山城城主であった筒井順慶の墓があります。
筒井順慶が亡くなるとその母「芳秀宗英尼」が再建したと伝えられています。
お墓の周りも本堂の周囲も椿が植えられています。
 
伝香寺の「散り椿」として有名です。
順慶は明智光秀旗揚げに際して「洞ヶ峠」を決め込んだことから・・・・、人気はありません・・・、
秀吉に疎まれ・・・・、
若くして病死してしまいます。
一枚一枚花弁を落としてゆくさまが・・・・、順慶を思わせるのでしょうか?
 
イメージ 8
                                             伝香寺は「散り椿」でも有名です。
 
元興寺には一体何体のお地蔵様が祀られているか?
数え切れない数です。
伝香寺にも優れた地蔵石仏が祀られています。
そして、奈良町の辻辻にも、
興福寺との境になる猿沢の池近辺にも・・・・、夥しい地蔵石仏が祀られています。
昔も今も、お地蔵さんにお祈りする日本人が続いている・・・・、
見ると安堵します。
 
イメージ 9
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

奈良天平の階段ピラミッド

$
0
0
今朝、奈良町の地蔵信仰が現代も生きている事を案内しました。
昔も今も形こそ少し変わっても、お地蔵様に委ねようとする心は尊いものと思います。
「奈良の桜を見たい・・・・」思い立ってまる二日の奈良旅行をしたのですが、
もう10日余りブログは奈良で固まってしまいました。
私の青春が殆ど奈良で過ごされたので・・・・、たった2日でも書きたいことが沢山あるのです。
 
一方で、私の住む横浜、鎌倉ではドンドン季節が進んで、桜は散って、八重桜も盛りを過ぎ、藤が咲き出しました。
横浜鎌倉の街ネタも紹介しなくては・・・・、ならないので、奈良はそろそろ打ち切ろうと思います。
そこで、今日から朝晩2つ記事を書き・・・・、スピードアップさせる事にしました。
晩の話題は「奈良砕石(わりいし)の頭塔(ずとう)」です。
イメージ 6
     百毫寺、昔は荒れ果てた風情で人気でしたが随分整備されました。
     お寺から奈良盆地を一望する・・・、絶景です。
 
  
 
百毫寺を参詣し、その先何処に行こうか? 迷いました。
高円山(たかまどやま)ドライブウェーにから、春日奥山に入れば「地獄谷石仏群」があります。
咋秋、臼杵・国東の磨崖仏を見学、その迫力や美しさに感動しました。
その途端、地獄谷石仏群を見たい・・・・、衝動を感じました。
臼杵、国東、地獄谷、何れも平安時代初期、密教が盛んな時代の磨崖仏です。
 
イメージ 5
 頭塔全景(パンフレット複写)北半分は平成12年綺麗に復元されました。南半分は石が剥がされてしまっていま   す。一般に豊臣秀長が郡山城拡大整備に際して近在の石をかき集めた・・・、
   その時に奪われたと言われています。向こうの山が生駒山になります。
 
天気も曇っていて、何時降り出すか懸念も深まっています。
春日奥山の山中に入るか・・・・、それとも新薬師寺の下、砕石にある「頭塔石仏」を拝観するか・・・・、
両方に行くには時間がありません。
この日は山の辺の道を縦走して・・・、日の明るいうちに明日香に辿り着かなければなりません。
頭塔石仏群は2年ほど前にNHK・TVで放映され、その素晴らしさに驚きました。
素晴らしさの一つが「ピラミッド」のように石を積んだその意匠です。
もう一つが奈良天平時代の石仏群です。
私は天平の石仏をチョイス致しました。
 
イメージ 7
    頭塔のある家並み。右側屋根の上の常緑樹が頭塔です。この家並の中に一間くらいの路地があって。、其処    が入り口です。向かって左の家が管理人宅になります。
イメージ 8
                                      この細い路地、石段道が頭塔の登り口になります。
 
 
砕石(わりいし)のバス停から少し南、町屋の中に頭塔があります。
方墳のような小山で・・・・、民家の甍の上に常緑樹が茂っていますから・・・、頭塔の位置は判明していますが、
何処から入ってよいのか解りません。
私は二周もして・・・・・、立ち話をしている奥さんに聞いて、ようやく入口と管理人のお宅を教えて貰いました。
管理人は初老のお爺さんで、私をフェンスの前に行き、
「見学が終えたら帰りに寄って下さい、また鍵をかけますから・・・。此処は関東の人が良く見学に来られる。」
言って・・・・、自宅に戻られました。
 
イメージ 9
       頭塔の西面。半分が階段ピラミッド状に残されていますが・・・・、南半分は土山で樹木が茂っています。
イメージ 3
                                                       頭塔北面。
 
頭塔の一辺は30m、高さは10m7段の階段ピラミッドの形をしています。
東西南北四方の各面に櫓が出来ており、その中に石仏が配置されています。
4面に各11基づつですから、計44基の石仏が整然と配置されていたと思われます。
ところが現在は25基が確認されています。(重要文化財)
紛失した石仏は・・・・、他に流用されたと思われます。
大和郡山城の石垣にも使われている・・・、言われています。
 
イメージ 1
                     東面第一段の石仏、私が頭塔で見た限りでは一番惹かれる石仏です。
イメージ 10
                                                  同上東面一段の如来三尊石仏
 
上段写真の石仏を例に案内いたします。
石仏の上方に宝相華模様の天蓋があります。
その下に如来三尊仏が浮彫されています。
お顔はふくよかで、天平時代の特色が如何なく表現されています。
下段には二人の侍者像が刻まれています。
侍者の左右に配置されているのは菩提樹でしょうか?
 
 
イメージ 11
      頭塔北面、第二段「浮き彫り如来両脇侍像」石は白御影石で茶けているのは土に鉄分が含まれているか       らでしょう。 大半が浮き彫り像ですが・・・・、3基線刻像もあります。
 
 
何故「頭塔」と呼ぶのか・・・・、パンフレットには土で作った塔「土塔」が訛って頭塔になった…、説明しています。
インドや東南アジアには同様な形をした仏塔が数多くあります。
奈良時代末期、そうした仏塔が日本でも作られた…、と考えて良いのでしょう。
仏舎利(お釈迦様の遺骨)を納めるのが仏塔です。
お釈迦様は様々なお姿で現されます。
それが、様々な仏様になります。
ですから・・・・・、仏舎利塔の四方に仏像を配置して、
まるで曼荼羅のように仏の世界や、お釈迦様のお力を表現したのでしょう。
昔の説明では「僧玄」の墓とも言われていたようです。
個人のお墓と言うより・・・、舎利塔と考えた方が良いと思います。
奈良市街から見れば高円山は死者の霊が向かう場所です。
お墓も多いし、荼毘にふす場所でもありました。
その入口に仏舎利塔をインド風に造ったのでしょう。
それが、たまたま階段ピラミッドになった…、と考えます。
 
第一段の石仏しか見えないのが心残りです。
石仏と言ったら相模では大半が江戸時代、たまに鎌倉時代の秀作があるのですが、
矢張り奈良は凄い・・・、天平時代の石仏がゴロゴロしているのだから・・・、実感です。
 
イメージ 4
                   頭塔西面、第一弾の如来三尊仏。この石は安山岩。
イメージ 2
                                頭塔西面から奈良市街、その向こうの生駒山を遠望する。
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

「山の辺の道」は衾道

$
0
0
奈良の東、若草山に始まる丘陵は春日山、高円山(たまどやま)、引手の山( 龍王山)と連なります。
引手山の南に石上神社(いそのかみ)があります。
午前中は石上神社にまで行き、そこでランチを取る予定です。
今日は早朝から奈良町の元興寺、伝香寺など地蔵信仰の寺寺を巡りました。
ついつい、路傍の石仏、お地蔵様に眼が行ってしまいます。
”それにしても、この道(山の辺の道)はお地蔵さんが多いなあ・・・・!”
実感です。
 
 
イメージ 10
                                    山の辺の道、路傍の石仏は大半がお地蔵さんです。
イメージ 11
                                 山の辺の道、石畳に石仏が似合います。
 
イメージ 12
                          百毫寺は高円山の中腹にあり、奈良の市街が一望できます。
 
高円山の中腹に百毫寺があります。
毎年8月15日終戦記念日には、この山で「大文字」が焼けれます。
大文字焼と言えば京都が有名で、歴史もあるのでしょうが、奈良の大文字焼は昭和35年に始まりました。
奈良、大和、と言えば”戦艦大和”を思い出します。
奈良県内では先の大戦で3万人もの戦没者が出ました。
その慰霊に大文字焼を始めたのでした。
冬には若草山の山焼きが、夏になれば大文字焼が・・・・行われる訳です。
 
イメージ 3
                     墓標無縁仏を積み上げた塔。 右側の職人は共同墓地の整理をしていました。                                           
人が死ぬという事は命がなくなること・・・・、
でも植物が枯れてもまた春になれば芽が拭き出すように、霊は死なない・・・、考えてきました。
死者の霊は空に上って、山の頂に留まって子供達を見守ってくれる・・・・、考えました。
そして、毎年盆になると山頂から下って子供達の家に帰ってくる・・・・、その盆の行事が”迎え火””送り火”で、
地域全体で行うものが・・・、大文字焼と思われます。
奈良に住む人にとって、高円山は死者の霊が留まるところ・・・・、そう恐山のような霊地なのです。
だから、高円山の麓、山の辺の道にお地蔵さんが多いのは納得です。
 
家は三代続く事は滅多に無い・・・・、言われます。
特に核家族化が進行した現代は・・・・・、家は続きません。
家が断絶すれば・・・、お墓は無縁仏になってしまいます。
高円山には大昔から「共同墓地」が営まれてきました。
人が亡くなれば共同墓地に埋められて・・・・・・、肉体は腐ります。
そして、土に戻ります。
誰のお墓か、次第に知っている人も居なくなりますが・・・、”○□家の墓”と言う事で墓参者が続きます。
ところが昨今は家自体が断絶してしまうと・・・、墓参者が居なくなってしまいます。
 
イメージ 4
                  無縁墓地の整理を案内する奈良市の公告
イメージ 5
                                        無縁仏の塔の隙間に咲いた踊り子草
イメージ 6
                  新しいゆだれかけを着せてもらった享保年間のお地蔵さん
 
高円山の共同墓地には奈良市の公告が掲示されています。
「この墓地は誰のものか不明である、今日から1年以内に所有者は申し出なさい。申し出ない無い場合は処分してしまいます」・・・そんな内容です。
石工が共同墓地の整理に取り掛っています。
屹度、一帯を整理して、「市民墓地」として新しく入居者(?)を募集するのでしょう。
死んでからも”せち辛い”のが現代です。
でも、そんなせち辛さを寂しく思った人でしょう。
お地蔵さんに「ゆだれかけ」を着せてあげました。
 
沢山の墓標仏は積み上げられて塔になっています。
墓標の隙間には踊子草が花を咲かせています。
 
イメージ 7
                                        永久寺池の桜吹雪
イメージ 8
 
南に下るに従って二上山が大きく見え始めました。
石上神社ももうじきです。
大きな池に出ました。
誰かの陵かと思えば、墳墓が見当たりません。
叢の中に案内板があって、この辺りに永久寺があった、
永久寺は石上神社の別当寺であったが・・・、
明治の廃仏毀釈の嵐に遭遇し、何もなくなってしまった・・・・・、書かれています。
ただ、池だけが溜池のようにして・・・、大寺の面影を留めているのです。
池の淵には桜が咲いていて・・・、折からの風に吹かれて・・・、桜吹雪です。
しばらく、永久寺跡の叢に腰掛けて・・・、散る桜を眺めました。
 
イメージ 9
                                    天理が近づくと二上山が遠望できるようになります。
イメージ 2
          山の辺の道、人麻呂の挽歌の歌碑がたっています。
          向こうの山が引手山(龍王山)その麓に永久寺跡があります。
 
永久寺跡から少し下ったところに歌碑がたっていました。
万葉仮名ですから読み難いのですが・・・、親切な事にお隣に真新しい案内板が立っています。
 
  衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし  (柿本人麻呂)
 
人麻呂は愛する妻を亡くし、今、引手の山に葬ってきたばかりなのです。
涙がとまりません、肩を落として衾道(野辺送りの道)をトボトボ下って家に戻ります。
引手山を何度も何度も振り返ります。
大凡そんな意味でしょう。
 
人麻呂は続いて次の歌を詠みます。
  家に来て わが屋を見れば 玉床の外に向きけり 妹が木枕
家に帰ってみれば、妻が使っていた木枕が外に向いていた・・・。

人麻呂の深い嘆き悲しみが聞こえてきます。
文明は進化しても人の心は昔も今も全く変わらないなあ・・・・! 思います。
 
天理観光農園の経営する「峠の茶屋」で、今日はランチです。
此処がまた居心地が良いんです。
 
イメージ 1
    天理観光農園の経営する「峠の茶屋」、食事、喫茶のほかに農産物や陶器などを販売しています。山の辺ウ    ォキングにはオアシスのような施設です。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

初々しい新中学生

$
0
0
町には真新しいランドセルを背負った小学一年生、
少し大きめの学生服を着た新中学生が目立ってきました。
膝が隠れるほどのスカートを着た女学生も綺麗です。
折しも、楓や銀杏桂等の新緑が萌え出して・・・、人間も含めて自然は青春そのものです。
自然を見ても、新入生を見ても、心がウキウキしてきます。
 
イメージ 1
               遊行寺の大銀杏、手前は八重桜(寒山)、本堂の前に新中学生が集まり始めました。
イメージ 2
                                          遊行寺の大桂、この緑も良いものです。
 
銀杏の新緑も、桂の新緑も見たいものだ。
それに、八重桜が満開であろう。
若しかしたら・・・・・、牡丹が咲き出したかもしれない・・・、
期待して藤沢にある遊行寺に出かけました。
 
イメージ 4
               夢中でドラミングするコゲラ。体は小さくても境内中にドラミングの音が響いていました。
イメージ 5
                               もう咲き出した遊行寺の牡丹、向こうにキリシタン灯籠が見えます。
 
境内に入ると・・・、啄木鳥のドラミングする音が響いています。
木を嘴で激しく叩く音です。
餌を穿っているのか?、巣作りをしているのか? それとも求愛のサインなのか?
私には良く解りません。
でも、余りにも大きな音なので・・・、大きな赤ゲラ、青ゲラかも知れない・・・!
私は足音を忍ばせて・・・・、鳴る音の根元に行って見上げます。
期待に反して、小さなコゲラが無心にドラミングをしています。
「何だ! ちびの癖に、音は立派なもんだ・・・」見上げます。
 
本堂の前に学生服姿の・・・・、新一年生が集まっています。
そう、遊行寺は藤嶺学園という中高一貫教育を実施しているのです。
その、新一年生が遊行寺本堂の前に集まって・・・、これから入堂し、倫理教育の授業でも始まるのでしょう。
初々しくて良いもんだ・・・・、しばし私は見物です。
 
イメージ 6
    本堂入口に揃えられた靴、奥には正座した生徒の姿が見えます。これから倫理教科の始まりのようです。
 
4クラス、全員が本堂に入りました。
わたしは、本堂の入口に寄りました。
すると、靴が整然と並んでいます。
あっちこっちテンデバラバラの方向に向いているのではなく・・・・、
すぐに掃いて出られる世に・・・、外に向けて揃っています。
引率の先生に私は声をかけました。
”靴が揃っていて・・・、見るだけで爽やかで良いもんですね・・・”
先生は笑顔で頷かれました。
 
イメージ 7
           建長寺、名物の牡丹も咲き始めました。 左の貝塚の垣根の向こうが鎌倉学園です。
 
私は、建長寺に向かいました。
建長寺にはこの季節牡丹が見事に咲くのです。
建長寺豊穣を後に、半僧坊に抜ける道に・・・・、青楓の見事な場所があります。
其処は鎌倉石を積んだ昔ながらの石垣があります。
この石垣には、先ず卯の花が咲き、続いて岩タバコが咲きます。
今年の様子を確認しておくのが目的です。
 
イメージ 8
   建長寺方丈の横から半僧坊に抜ける道にある石垣。鎌倉石の石壁が植物のキャンバスになっています。
   青い楓が爽やかです。
 
イメージ 9
   石垣の前で始まった鎌倉学園の野外授業。右端の教師が石垣の植生を説明されておいでです。
 
私が石垣を見ていると・・・・、鎌倉学園の生徒さんが先生に引率されてやってきました。
石垣の前で先生は野外授業の開始です。
石垣に咲いたタンポポを指さして・・・、生徒に質問です。
「自生しているタンポポは大別して西洋タンポポと関東タンポポがあります。
その見分け方を知っている人居ますか?」
数人の手が上がります。
「葉っぱのギザギザが違います!」
「いや・・・、花の下に反り返りがあるのが西洋タンポポで、無いのが関東タンポポです」
先生は質問を続けます。
「この石垣に自生している植物の名を知っているだけあげて見なさい!」
また、生徒の手が上がります。
「これが地縛りで・・・、これが岩タバコで・・・・、これは忍ぶ草で・・・。」
新一年生は中々優秀です。
鎌倉市教育委員会の編集した「理科学習/鎌倉の自然」で予習してあったのかも知れません。
青嵐の吹く中で、野外学習・・・、良いもんです。
鎌倉学園の生徒さんも初々しさで・・・・・、青い胡瓜か色付き始めたトマトのような感じです。
今晩は、ソラマメで生ビールでも戴きたいもんだ・・・!
思います。
 
藤嶺学園は遊行寺が、鎌倉学園は建長寺が営む学校です。
何れも・・・・・、良い学校です。
イメージ 10
                              石垣に自生した西洋タンポポ。岩タバコも葉を広げ始めました。
イメージ 11
                                                   石垣に自生した地縛り。
 
イメージ 3
                  筆者が愛用している「鎌倉の自然」、多分鎌倉学園の教材になっていると思います。
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

建長寺で「観光(かんひかり)展」

$
0
0
毎年建長寺に牡丹を見に出かけます。
お坊さんが境内に散った落ち葉を掃いて、堆肥にして、施肥して・・・・・、丹精を込めて咲かせる牡丹です。
”心して、鑑賞しなければ勿体ない…”、と思います。
長谷寺の牡丹は長い歴史があって・・・・、十二単の都人を思わせます。
建長寺の牡丹は歴史こそ浅いものですが・・・・、お坊さんの修行の深さを表しているのでしょう。
花や野菜を育てる事は・・・・、修行の一つで・・・・、その成果が目で舌で味わえるものです。
 
イメージ 1
    建長寺で咲き出した牡丹の花。800年の樹齢を重ねる柏槇(びゃくしん)は開基蘭渓道隆お手植えと聞きま      す。巨樹になるまで修行することは禅に通じる・・・、教えだそうです。圧倒される巨樹の根元に咲く牡丹も見事    です。
 
 
牡丹の咲く頃に方丈で書家「金沢翔子」さんの書道展が開催されます。
金沢さん親子も来られて案内されておいでです。
書道展を見るのも楽しみですが・・・・、今年は牡丹の咲くのが早すぎて・・・・、書道展は未だのようです。
 
イメージ 2
  建長寺講堂を会場にした展示、奥に金沢翔子さんの書「忘雨」、手前の先年亡くなられた瓜南直子さんの「ムー   ンダンス」が展示されていました。奥が千手観音、手前がスリランカから寄贈された苦行釈迦像。
イメージ 3
                                   瓜南直子さんの遺作「ムーンダンス」
 
でも、「日本の美とこころ/観光(かんひかり)」展が開催されていました。(4月21日まで、円覚寺・浄智寺でも開催)
パンフレットには次のように開催趣旨を説明していました。
『日本文化の継承・創成・発展を目的に、日本の文化遺産を舞台に開催する。』
 
牡丹を愛でながら、アートを鑑賞する・・・・、薫風卯を浴びながら・・・、
中々に贅沢なものです。
 
イメージ 4
     鎌倉彫の宗家後藤家の後藤尚子さんの花入れ、他に二点が展示されていました。後藤家のお店「博古堂店     主「後藤圭子」さんの作品は浄智寺に展示されていました。  
 
 
何時もは金堂や講堂の中に入れても、外陣までで、内陣までは入れません。
でも、アートがの展示が内陣でも行われていますので・・・・、この日に限って内陣に入れます。
何時もはお坊さんが踏んでいる真っ黒いタイルの上を歩く事が出来ます。
仏像も、祖師像もお堂の中、薄暗闇の中で遠くから眺めるだけでしたが・・・、
今日に限ってまじかでしっかり見る事が出来ました。
 
イメージ 5
     金堂の本尊地蔵菩薩像、普段は見難い壁の絵、格天井の絵、欄間なども近くからしっかり見えました。
イメージ 6
        生け花は泉涌寺の平林朋宗( 月輪未生流)の作品。 生花は仏様の供え花から始まった・・・、
        つくづく思わせる作品で当アート展の趣旨に一番合った作品だと思いました。
 
アートの方は多種多様で・・・・・、良いと思ったものもあれば・・・・・、はてな?首を傾けるものもありました。
アートとはこんなに多様な試みの中から・・・・、本物が残るのかな?思った次第です。
 
イメージ 7
          建長寺方丈、扁額には「竜王殿」と書かれています。衾は正面が龍で、左右が松等の山水でした。
イメージ 8
                 襖絵正面、普段は衾が開かれていますから・・・、全体を見る事が出来ません。
 
イメージ 9
                                                  山内隆氏の彫刻。
イメージ 10
                                             加藤魏山氏の木彫「阿修羅像」
 
パンフレットで見ると円覚寺にも相当の作品が展示されているようです。
出かける事に致しましょう。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

新しくとも伝統の性の祭り「カナマラ祭」

$
0
0
全国各地に「性の祭り」が遺されています。
私の住む神奈川でも横須賀芦名の淡島神社の祭りは”子宝を授かる”お祭りで、
立派な男根(金精様)が祀られています。
 ”嬉し・・・・・、恥ずかし・・・” 表情のおか目さんも良く出来ています。
平安時代に始まったと言われる高千穂神社のお神楽も・・・・、子授けの神楽も踊られますし・・・、
もっと古いと思われる明日香の坐神社(いますじんじゃ/日本書紀にも出てくる)の奇祭「おんだまつり」は
田圃に下りた男女の2神が交合するお祭りです。
2神が田圃に精を発散させ・・・、豊穣が約束される・・・、そんなお祭りです。
神の性交によって生じた精や福を周囲に分け与え・・・、豊穣や子授けを祈る・・・、それは祭りの目的でありましょう。
どれもコミカルで大らかなお祭りです。
(明日香のおんだまつりは次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47193502.html)
 
イメージ 1
    (頼朝が戦勝祈願したと伝えられる若宮八幡宮。境内社の金山神社の金山祭で有名です)午前10時の賑い)
 
川崎の大師様の近くにある若宮八幡宮で行われる「金山祭/カナマラマツリ」は多分最も新しく、(注)
最も観客の多い「性のお祭り」でしょう。
毎年4月の第一日曜日に開催されます。
私は民俗学に関心があっても、金山祭を見てないのはいけない、思って早朝から出かけてみました。
 注:金山神社と書いて一般に「かなやま」と読みますが・・・、ここの神社は「カナマラ」と呼んでいます。金属製の男   根がご神体だからカナマラと呼ぶのでしょうか?
 
若宮八幡宮は六郷の渡しの川崎側にある鎌倉時代頼朝も寄進したと伝えられる神社です。
その近く、現在の川崎大師駅の辺りに「金山神社」がありました。
金山神社は鍛冶屋さんの神様「金山比古神(かなやまひこのかみ」、「金山比売神(かなやまひめのかみ)」を祭神にします。
両神はイザナミノミコトが火の神を生んだ際、下腹部に大火傷をしたのを治癒した神とされており、
お産、下半身の病にご利益があると言われている。
その金山神社が京浜急行大師線の開通によって、若宮神社の境内に移転してきました。
 
イメージ 2
   金山神社前に据えられた金床、神社の中も鞴(ふいご)が釜戸等、加治屋さんの道具が並んでいます。
   金山神社のご神体は鍛冶屋の神様なのです。
 
江戸時代、川崎大師の参詣に、江の島詣でに沢山の旅人が六郷の渡しを越えてきました。
川崎大師の門前には沢山の飯盛り女が働きます。
飯盛り女は近くにあった金山神社を参詣するようになります。(注)
(注:飯盛り女は旅人のお給仕を知る女性、夜のサービスも行ったので下半身の病気も多かった)
 
鍛冶屋の鞴(ふいご)を吹く仕草が・・・、何処か男女の性交する格好と似ているからでしょう・・・・・、
飯盛り女は鍛冶屋の神様が・・・・、自分たちのアソコ(釜戸?)の神様である・・・、確信していたのでしょう。
小さな社が在って、哀れな飯盛り女がお参りしていたのでしょう・・・・。
若宮八幡神社の境内社になっても…、肩身が狭かった・・・、思われます。
でも、川崎は日本有数の工業地帯・・・・、金属加工業者の寄進もあって正六角形、
溶鉱炉のような社殿が出来ました。(現社殿は1999年竣工)
 
イメージ 4
                    外国人が多いのが目立ちます。外人の方が楽しみ方を知っているようです。
イメージ 5
                      美味しい飴でも・・・、舐めるのが恥ずかしいもんですが・・・、案外人気です。
イメージ 6
     大根を使って神前に供える男根を作ります。作ればお守りを戴けます。女性だけが作れるようです。
 
昭和60年代、日本中でエイズ騒ぎになります。
日本有数の風俗タウン「川崎堀之内」を抱える若宮八幡神社の宮司(金山神社の宮司兼任/先代)はアイディアマンでもあったのでしょう。
金山神社のお祭りを刷新しました。
 
イメージ 7
    「かなまら大神輿」に霊入れをする宮司さん(女性)、この人の先代が初めて、今年が37回目(一昨年は休止)だ    そうです。その左が次代の宮司(?) 流石に子宝には恵まれたようです。
 
1977年「金山講」と言う名で信者組織を作りました。
地域の人を組織化して・・・、金山祭のアイディアを募集し、実行させたのでした。
風俗タウンの応援、鉄鋼業者の支援も得て・・・・、熱気が高まったのでしょう。
屹度全国各地の「性の祭り」も調査して・・・、
いいもの、人気のあるもの、盛り上がるもの…、を集中させたのでしょう。
 
先ず、巨大な男根(金精様)を作りました。
黒光りする栗の木(?私が触って叩いたところ線路の枕木のようでした)を使いました。
金精様は神輿に載せて担がせました。
続いて・・・、船に乗せた金精様も作りました。
すると、浅草の女装クラブ「エリザベス会館」からピンクの男根が寄贈されました。
こうして、三基の神輿が出来ました。
古い順に「かなまら大神輿」、「かなまら舟神輿」「エリザベス神輿」呼ばれるようになります。
そして、1999年現在のユニークな形の社殿が出来ました。
 
イメージ 3
    現在の社殿は1999年に出来ました。社殿も神輿も新しいのです。
    隣の社務所は性風俗の展示館も兼ねています。でも、古い物はすくないようです。
 
イメージ 8
        金山神社を出て川崎大師の表参道に向けて練り歩く「かなまら舟神輿」「エリザベス神輿」
 
3基の神輿が揃いました。
2基の神輿は地元の氏子が担ぎます。
何処の神輿とも変わりませんが・・・、上方を向いた巨大な金精様が目を惹くだけです。
ところが、エリザベス神輿は圧倒的な存在感でした。
ピンク色をした…、張子の男根です。
此方は唯それだけで・・・・、神輿の屋根がありません。
担ぎ手は・・・・、ゲイの親爺さんばかりです。
親爺さんが担ぐと、男根は青空に向けて・・・グイグイと突き上げるようです。
そして、ゲイの親爺さんの掛け声がまた凄いのです。
「デッカイマラ・・・、カナマラ」「デッカイマラ・・・、カナマラ」
かくして・・・・・、張子の男根は金山祭のスターになりました。
 
イメージ 10
「エリザベス神輿」を担ぐ人はゲイの親爺さんです。掛け声がまた凄い・・・
「デッカイマラ・・・、カナマラ」「デッカイマラ・・・、カナマラ」
 
昨年のお客さんは5万人と聞きます。
今年(2013)は更に増えている事でしょう。
お客さんの4分の一は外国人のようです。
外国のTV局も来ています。
屹度、外国の旅行誌等にも紹介されているし・・・・、
日本で働く外国人の中でも話題になっているのでしょう。
何時もしかつめらしくて・・・、ジョークも通じない日本人の、隠れた一面が見られる・・・、
そんな風にガイドされているのかも知れません。
 
でも、私に聞かれれば・・・、こんな風俗は古代から連綿と続いているものであって・・・、
商魂逞しくして・・・・、最近始まったものでは無いんですよ・・・・!
 
イメージ 9
    表参道を練り歩く「かなまら舟神輿」遠くが川崎大師駅で「エリザベス神輿」が駅前を通過しています。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

鎌倉祭り、前半はパレードで・・・。

$
0
0
昭和9年、鎌倉に住んでいた大仏次郎や久米正雄らが思いついて「鎌倉カーニバル」が始まりました。
鎌倉文士たちが昭和の初めにフランスに渡航、
其処で見た謝肉祭・カーニバルに魅せられて、鎌倉でも挙行したい・・・・、思ったのでした。
若宮大路でのビックパレードは数十万人もの見物客でごった返したそうです。
鎌倉は精々4万人程度の都市でしたでしょうから・・・、大変な熱気だったことでしょう。
新しがり屋・・・、洋風好みは鎌倉の民家に名残をとどめています。
昭和モダニズムと呼ばれる和洋折衷の文化住宅は鎌倉の街中で沢山見る事が出来ます。
 
イメージ 1
     鎌倉に沢山ある昭和モダニズム建築。鎌倉カーニバルと同じ歴史を残しています。(長谷の加賀谷家)
 
「夏の風物詩」だった鎌倉カーニバルは昭和37年まで続きました。
一方、昭和34年春のイベント「鎌倉祭り」が始まります。
鶴岡八幡宮を中心にしてパレードや静の舞、流鏑馬等が行われます。
特にパレードは鎌倉カーニバルがなくなった事から・・・、それを引き継いだのでしょう。
市民が各々に参加する形で、若宮大路一の鳥居をスタートして、八幡宮まで約1キロを練り歩きます。
今年は躑躅やサツキがもう咲き始めました。
桜青葉のなか、躑躅の咲く段葛(だんかずら)をパレードするのは、見る方も演じる方も楽しいものです。
 
イメージ 4
                                                    早くも5分咲きの段葛の躑躅
イメージ 2
                                       鎌倉市レクリエーション協会の和踊り
 
4月14日(日)に私と家内は三の鳥居の下に陣取って、パレードを待つことにしました。
パレードのスタートは「和踊り」です。
少しだけお年を召した叔母さんが揃いの浴衣で日本舞踊で練って行きます。
二組目も叔母さんの和踊り・・・・、
三番目は何処かの幼稚園(鶴岡幼稚園など?)でしょう、お稚児行列が続きます。
 
イメージ 5
                                  お稚児さんの行列。見ているだけで楽しい・・・ものです。
 
イメージ 6
                                       此方は万灯保存会による「万灯」
 
一際目を惹いたのが・・・、消防団と鳶職のパフォーマンスでした。
火消しの纏いを振るって練りあるき、八幡宮の舞殿前の広場で、梯子登りを見せました。
6.5mもある竹の梯子をスルスルと登って、軽々と曲芸ならぬポーズをとって見せます。
昭和30年代なら私の住む戸塚でも出初式で見られましたが・・・・、もうしばらく見たことがありません。
鎌倉のとび職は今も伝統の技を磨いてきているのでしょう。
鎌倉には大きな寺社建築がありますし、大木も数多くあります。
とび職の働く場も多い事でしょう。
それに・・・・、伝統への愛着も強いからでしょう。
鎌倉は「古い物を大切にし・・・、かつ、新しいもの好み」が強い土地柄です。
 
イメージ 7
梯子登り「肝返り」の大技
イメージ 8
梯子登り「しゃちほこ?」が決まりました。会場から拍手が湧きました。
 
江戸時代火事現場で重宝したのが梯子だったでしょう。
梯子に上れば火の手や火の勢いを確認できます。
火消しが梯子を使って屋根に上って・・・・、適切に判断を入して・・・・、延焼を防いだことでしょう。
梯子登りは「遠見/火事の状況を判断する」のポーズに始まって、様々な火消しのポーズを決めます。
ポーズの多く度胸をつけ、肝を鍛える訓練だったように見えます。
日ごろ鍛えた身軽な仕草、訓練した技、演じる鳶の気迫が・・・・、見物人の拍手喝さいを浴びたものでしょう。
とりわけ若い娘さんには”格好いい、素敵ね!”人気を博した事でしょう。
 
午後に始まったパレードは、3時からはじまる「静の舞」でピークになります。
天気に恵まれて、良い鎌倉祭りでした。
4月20日(土)では腰越万福寺で義経祭りが、21日(日)には八幡宮で流鏑馬が行われます。
天気予報では生憎の雨の予報ですが・・・・。
私は連日町内会の総会で・・・・、見られそうもありません。
もう、10年余りも会長職を委ねられています。
昨年は健康を理由に引退宣言したのでしたが・・・・、
代わる人がいない・・・、理由で慰留されてしまいました。
 
肝心の八幡宮での武田流流鏑馬は小学生の時以来、見ていません。
 
 
 
イメージ 9
       消防団の見守る中鳶職さんの「火の見」ポーズが決まりました。纏が粋です。
 
イメージ 3
八幡宮舞殿で催すされる「静の舞」。鎌倉観光協会写真を加工して掲載させていただきました。
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

奈良「長岳寺」の石仏群の魅力

$
0
0
奈良の長岳寺は山の辺の道「破石/わりいし」と「海柘榴市/つばいち」のちょうど中間地点にあります。
私の駆け足奈良ツアーの目的は第一が桜、第二が石仏行脚でした。
長岳寺は石仏を愛する者にとっては、とりわけお地蔵様ファンにとっては大事な場所です。
勿論、今度のツアーでも立ち寄って、石仏群を見詰めて帰りました。
 
イメージ 1
               今日の話題は奈良の山の辺「長岳寺」の石仏群です。正面本堂、左楼門(何れも重文)
               右上の山中に石仏群があります。
イメージ 2
           長岳寺に近い山の辺の道、遠くに見えるのは崇神天皇陵、白い花はプラムと思われます。
 
中世になると南都七大寺の一角元興寺は没落してしまいます。
その廃墟に市が立ち、商人が住み・・・・・、新興の「奈良町」が出来上がります。
奈良町は初瀬から伊勢に向かう街道の拠点でありました。
彼ら新興商人・町人の心を地蔵信仰が占めて行きます。
地蔵信仰は街道に沿って北に南に伝播して行きました。
 
奈良町から初瀬街道を約10キロ下った街に柳本町がありました。
 
現在の桜井線柳本駅を下りると、東に龍王山が見えます。
その麓に弘法大師が開いたと言われる古刹長岳寺でありました。
 
イメージ 9
                 長岳寺門前の注連縄、この寺は大和神社おおやまとじんじゃ)の神宮寺でありました。
イメージ 7
      長岳寺山門前に並んだ地蔵石仏群。大半が同じ彫法で、同じ石材で・・・、素朴な石仏です。
      墓標仏ですが・・・・、江戸時代のように戒名や命日の記載はありません。
 
南北朝時代の「永和4年(1378)」、長岳寺に巨大な弥勒仏が刻まれます。
近くに在った古墳の石棺が野晒になってしまい・・・、その蓋を使って背丈よりも高い弥勒仏が刻まれました。
また…、龍王山の中腹には巨大な不動明王も刻まれました。
 
この石棺仏を彫ったのが柳本に住んでいた「大工僧善教」という石工(僧)でありました。
この石工は力量的にも優れていましたが・・・、その精神も相当に進歩的で逞しいものがあったのでしょう。
自らが彫った石仏に自分の名を残しています。
まるで・・・・・、運慶が仏像の胎内等に自分の名を遺したように・・・・。
目が細く、鼻は低く、・・・・、自分の生写しのようです。
 
イメージ 8
                          長岳寺を代表する弥勒仏、古墳の石棺を利用している。1378年の作。
            
 
鎌倉時代から南北朝時代にかけて・・・・、沢山の地蔵尊が刻まれて長岳寺周辺に祀られます。
それは、この辺りが現世と来世の境界だと思われていたからでしょう。
死んだらその魂は龍王山の頂に上る・・・・・、だから、死者の遺体は龍王山の麓に埋めようじゃないか・・・・、
その墓標仏として、お地蔵さんを祀った・・・、思われます。
だから…、無数の・・・・小さなお地蔵さんが刻まれて・・・・、長岳寺周辺に遺されました。
私達が旅先で路傍によく見るお地蔵さん(賽の神的な役割を持つ)と少し違います。
 
イメージ 10
   長岳寺境内にある不動明王像、奥ノ院(龍王山中腹)に祀られている2mもある不動明王の前仏の意味かと思    われます。
 
イメージ 11
境内に祀られている地蔵尊。桜が緑苔に散って・・・、このこの季節が最も美しい・・・。
イメージ 3
                       
奈良は総じて石材に恵まれていません。
名も金も無い庶民の墓標仏としては・・・・・、高価な石、大きな石は使えません。
黒っぽい安山岩で、質素な石仏が刻まれました。
それがまた素朴でいい味が出ているんです。
加えて加工の技術が古風です。
先ず石材をサイコロ状に切りだして・・・、その一面を深く掘り出して・・・、
一・二体のお地蔵さんを浮き彫りさせます。
需要に応じて量産し易い墓標仏だったと思われます。
 
イメージ 6
                  長岳寺門前の地蔵石仏。善教の石棺仏の影響でしょうか、その意匠が伺えます。
 
奈良の石仏は相模や武蔵の石仏と少し違います。
それは、奈良が宗教、美術、歴史、芸能、文学などが深く何層にも相重なっている事です。
加えて、仏像が遺されている自然環境が美しい・・・。
相模の石仏なら・・・・、どんな人が、何時ごろ、どんな思いで願主になったか?
そして、どんな石工が刻んだか・・・・?
ストレートに考えれば良いのですが・・・・、
奈良の場合は石仏をベールに包んだ・・・・何層もの文化と言う名の衣服を剥がして見なくてはなりません。
そこのところが・・・・、奈良の石仏の魅力でもあります。
 
長岳寺の石仏は桜の散る頃、椿の散る頃、最も輝いて見えます。
 
イメージ 4
        長岳寺付近の風景、霞んでいますが正面に二上山が見える筈です。
        石仏も良いのですが自然の景観にも恵まれている…のが魅力です。
イメージ 5
   地元カメラマンが此処から見る二上山が一番美しい・・・・、名刺裏に印刷した作品を見せてくれました。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 

由比ヶ浜「稲瀬川」の浜大根の花

$
0
0
4月14日新聞紙上に「鎌倉市が海浜の命名権を販売する」と報道されました。
鎌倉市のHPで確認すると、由比ヶ浜、材木座、七里ヶ浜の海水浴場の清掃整備に年間4200万円を要するそうです。その費用を負担するためにその名を売る・・・、のだそうです。
 
由比ヶ浜と言えば万葉集でも歌われた1400年も使われてきた古い名前です。
日本人なら・・・、由比ヶ浜の名前を聞いただけで1400年もの歴史や文化の年輪を想いうかべます。
そんな名前を・・・・・、誰の権利があって・・・・鎌倉市は販売する事が出来るのでしょうか?
私は疑問です。
鎌倉市にも鎌倉市民にも・・・・、由比ヶ浜の名前を売る権利は無いのではないでしょうか?
 
イメージ 1
                                       長谷寺境内から由比ヶ浜を望む。
 
今、鎌倉市も市議会選挙の真っ只中です。
市民の関心が「市の財政健全化」にあるのでしょう。
議員の定数削減要望に対して・・・・、候補者はあれやこれや対策を述べています。
節約意識の徹底を姿形で示そうと・・・・歩いて演説する候補者もいます。
 
イメージ 2
   稲瀬川河口部は小さな砂丘があって、今は浜大根の花の盛りです。この後、浜昼顔、浜木綿の花が続きます。
 
由比ヶ浜の西方に稲瀬川が流れています。
大仏の谷戸から流れ出し、長谷の市街地を流れて由比ヶ浜に注ぎ込む小河川です。
その河口に小さな砂丘があって、今の季節は浜大根の花が咲きます。
6月になれば浜木綿や浜昼顔の花も咲きます。
何れも由比ヶ浜らしい、由比ヶ浜を飾るに相応しい、万葉にも謡われた花です。
 
私は命名権が売られる・・・、と言うので今年も見に出かけました。
大根の花は菜の花と親類です。
それでいて、白い花弁に紫の縁取りが入った・・・、綺麗な花です。
全身黄色い菜の花よりも数段お洒落です。
香りは菜の花より浅く・・・・、快い甘い香りです。
 
イメージ 3
                                           今が満開の由比ヶ浜の浜大根
イメージ 4
                                浜大根は花弁の縁が赤紫に染まるところがお洒落です。
 
1184年(元暦1)源頼朝は義経を総大将にした平家追討軍を稲瀬川まで見送ります。(吾妻鏡)
ですから、この川が鎌倉の西の果てだったのでしょう。
1333年(元弘3)新田義貞は稲村ケ崎から鎌倉府内に攻め入ります。
そして、稲瀬川の戦いで勝利し、一気に幕府滅亡に追い込みます。
 
そして、何といっても稲瀬川を有名にしたのは「白波五人男/青砥稿花紅彩画)でしょう。
意を決した5人の怪盗(義盗人)は稲瀬川に勢揃いして、大見得を切ります。
 
イメージ 6
        白波五人男「稲瀬川勢揃いの場」右が日本駄右衛門、見得を切っているのが弁天小僧菊之助
       出典天王洲稲荷神社 子供歌舞伎 公式HP
 
首領は「人は情けの日本駄右衛門」です。
二人目は弁天小僧菊之助です。
その口上がまたふるっていました。
 さて其の次は 江の島の 岩本院の 児(ちご)上がり
 平生(ふだん)着慣れし 振袖から 髷(まげ)も島田に 由比ヶ浜
 打ち込む浪に しっぽりと 女に化けた 美人局
 油断のならぬ 小娘も 小福呂坂に 身の破れ
 悪い浮名も 竜の口 土の牢へも 二度三度
 だんだん越える 鳥居数 八幡様の 氏子にて
 鎌倉無宿と 肩書も 島に育って 其の名さえ
 弁天小僧 菊之助 日本だ衛門人には情けの賊徒の首領
 
七五の言葉に鎌倉の地名がふんだんにちりばめられています。
勿論、由比ヶ浜の名も・・・・。
その名が売られてしまっては・・・・、困るんです。
 
イメージ 5
                                  稲瀬川の河口部、道路は海岸道路、右側は浜木綿。
 
イメージ 7
       稲瀬川河口部に自生している浜木綿、6月には一斉に花を咲かせます。
       その手前の匍匐しているのが浜昼顔
イメージ 8
                                              浜昼顔、6月には咲き出します。
 
野球場やサッカー場、待ち合わせ広場、大都市のトイレなら・・・・、名前を売っても良いでしょう。
企業の名が冠にオンされても、ユーザーは違和感を持たず、企業に好印象を持つことでしょう。
企業もイメージアップ、知名度アップのために積極的にお金を出すことでしょう。
でも・・・・・、国民の知的財産である呼名(地名)に代わるものとなると・・・、如何でしょうか?
企業の知名度はアップしても、好印象になるのか? 疑問です。
結果が待たれます。
 
鎌倉市当局は姑息な考えにとらわれずに・・・・、定数削減、職員削減・・・・、等々にもう一層努力すべきでしょう。
大根の花は節約こそ大切で美しい・・・、訴えている様に思います。
イメージ 9
   4月21日は統一地方選挙の投票日です。元々財政収支比率が90%前半の鎌倉市は資生堂の撤退が発表さ    れ、危機が目前に迫って・・・・、財政健全化が争点です。
 
 
【追記】
昨晩TBS・TVで10時から「テイク・ファイブ」と言う怪盗ものが放映されました。主演(怪盗団の首領唐沢寿明)。明らかに現代版白波五人男でありました。「愛があるから盗みをする」・・・・、それが拍手される時代が江戸末期であり、現代であるのでしょう。今日、由比ヶ浜を書く動機でもありました。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 
 
 

アートエキスポ2013イン「浄智寺」

$
0
0
「アートエキスポ2013観光展」建長寺を見学しました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47218259.htm
展示もさることながら、何時もは閉ざされた堂塔の内陣まで入れて、隅々まで見学できました。
これに味をしめ、浄智寺に出かけました。
浄智寺でも観光展が実施されているから・・・・、
浄智寺の方丈やお茶室に入れるかもしれない・・・・、期待したのでした。
 
浄智寺は鎌倉五山第4位ですが今はこじんまりとしています。
往時は円覚寺に匹敵する七堂伽藍と11もの塔頭を有する大寺院だったそうです。
発掘調査では現在の山門から真っ直ぐ奥、天柱峠のすぐ下あたりまで境内は広がっていたそうです。
それが、鎌倉が衰退すると、荒れ果て民有地になってしまいました。本堂は楼門横にある「曇華殿」ですが・・・・、三仏堂とか開山堂と言った性格の小堂であります。
本来の本堂は 今ではお屋敷が建って居るあたり在ったのでしょう。
 
イメージ 8
          「曇華殿」の三仏。右から薬師如来、釈迦如来、弥勒菩薩、過去・現在・未来の仏が並びます。
 
鎌倉石を積んだ石段を登ります。
石段の脇にはシャガや紫大根の花が咲いています。
見上げれば白雲木の枝先に沢山の蕾が付いています。
昨年は花が咲きませんでしたが・・・・、今年は枝先が垂れるほど大きな花房が付きそうです。
シャガの葉先で今朝揚羽蝶が羽化したのでしょう。
大きな漆黒の翅を乾かしています。
 
イメージ 9
     山門は宋風の楼門です。扁額には「山居幽勝」と書かれています。「山住まいして美しい自然を楽しむ」そん     な意味でしょうか? 自然溢れるお寺さんです。だから・・・・、アート鑑賞にも向いています。
山門扁額 (山居幽勝)
イメージ 10
                                               羽化したばかりの揚羽蝶
 
「曇華殿」には薬師如来、釈迦如来、弥勒菩薩の三仏が並んでいます。
何時もは柵がしてあって、お堂に入れるのは和尚さんだけです。
昨年ご住職「朝比奈宗泉氏」が亡くなられました。(注)
その法要も「曇華殿」の前に舞台を作り、テントを張って営まれました。
「曇華殿」は狭すぎて・・・・・、和尚さん一人入るので精一杯です。
 (注:法要の様子は次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46733944.html)
 
「曇華殿」の真っ黒いタイルの上に、鎌倉彫の後藤圭子氏の作品「牡丹」が置かれています。
同氏は鎌倉彫の宗家であり、八幡宮前にある博古堂の店主でもあります。
芸大を卒業し、現在は主にデザインを担当し、彫刻刀を握る事は少ないようです。
写真で見る通り、圧倒的な存在感を示す牡丹です。
 
イメージ 1
   
「曇華殿」には六曲二双の龍も置かれています。
作者は中堀慎冶氏・・・・、これまた力作です。
アートの片隅で故朝比奈宗泉氏の遺影が見詰めていました。
朝比奈宗泉氏は55歳までTBSプロデューサーを務めた方、
生家でのアート展を楽しんでおいででしょう。
 
イメージ 11
  「曇華殿」の左端には故朝比奈宗泉氏の遺影・位牌が置かれています。
  
和尚さんが住まうのが方丈です。
方丈は茅葺の・・・侘びた、でも大きな建物です。
大きいのはお檀家の方が寛ぐ場所でもあるからでしょう。
だから・・・・、和尚さんとそのご家族は別棟にお住いのようです。
その「方丈」の扁額は「常安」と書かれています。
和尚さんが常に安らかな心で・・・・、修行を続ける・・・、そんな意味でしょう。
 
イメージ 12
  浄智寺のシンボル高野槇の大木。大きな座禅石の上には慈母観音が置かれています。
イメージ 13
                                 浄智寺方丈、その南側は山野草の咲く庭園です。
イメージ 4
                                        大きな山楓が玄関わきにある方丈「常安」
 
私達は何時も何時も方丈庭園の向こうからこの建物を眺めています。
お庭は京都の枯山水庭園、逍遥する庭園とも違った・・・・、
山野草や睡蓮、牡丹などを栽培する・・・・、和尚さんのガーデニングスペースです。
この庭で咲いた秋明菊等を仏前に供えたい・・・、そんなお庭です。
 
古い百日紅と高野槇の大木がシンボルツリーです。
私は常々、方丈の座敷に座って、その視線でこの庭を眺めたいもんだ・・・・! 思っていました。
幸いなことに「アートエキスポ2013」のメイン会場はこの方丈「常安」でした。
 
イメージ 3
  方丈でのアート展千登勢氏の書「古事記」 シルクとボックス(和紙)に古事記が書かれていました。
イメージ 5
伴清一郎氏の作品「瓜南直子へのオマージュ」。瓜南氏は昨年亡くなられました。建長寺にも遺作が展示されていました。オマージュとは、献辞・賛辞の意味です。中央のふくよかな人が故人のイメージなのでしょう。
 
イメージ 2
方丈の畳に座って庭を見る。何処から見ても高野槇の大木が眼に飛び込んできます。
 
 
浄智寺にはお茶室が三つ以上はあるようです。
浄妙寺のお茶室は旅行者を接待してくれるので、有名ですが・・・・、
浄智寺にはそんな気の利いたところはありません。
心の通う大事な人が訪れた時に・・・、おもてなしをする・・・、そんな施設なのでしょう。
そのお茶室の中で最大のものが「龍淵荘」です。
多分浄智寺の井戸の淵にある庵の意味でしょう。
アート展はこの「龍淵荘」でも開催されていました。
得しちゃった・・・今日は「龍淵荘」にまで入れる・・・、ウキウキしてしまいます。
 
イメージ 6
                                       「龍淵荘」での展示「丹頂」
 
 
 
今日は平日、週末に来れば作家の後藤圭子さんらのお話も聞けるようですし、生花のパフォーマンスも見られるようです。でも、おおいに満足でした。
美術館でアートを見るのは普通です。
でも、伝統的な空間の中でアートを見るのは・・・、ずっと素晴らしいと思います。
それは、アート自体がこうした空間の中で生まれたからでしょう。
鎌倉彫は仏殿の装飾彫刻として、仏様の荘厳さを際立てる役割を担って誕生しました。
だから、仏殿こそ相応しい空間です。
生花もそうですし、龍などの障壁画も同様です。
 
そして、何よりも美しい自然や、美味しい空気、葛原が丘から吹き下りてくる山風が心を和ませてくれています。
だから・・・・、アート鑑賞も・・・、心にしみて来るようです。
 
私は意気揚々と浄智寺を下ろうとしました。
向こうから・・・・中学生のグループが登ってきます。
山門の前で記念撮影をするようです。
「おじさんがシャッターを押してあげるよ!」
私は声をかけます。
如何にも田舎から出てきた中学生です。
「何処から来たの?」聞くと、
「北海道の士幌です」
「ああ、十勝平野の士幌ね・・・。士幌は未だ雪が残っているんだろう・・・?」
聞けば、
「5月の連休明けに雪は全く消えますが・・・・」
返事です。
今日(4月21日)は横浜も冷たい雨が降っています。
今日予定されている八幡宮の流鏑馬も大変でしょう。
士幌は屹度雪が降っている事でしょう。
中学生も今頃、「鎌倉は春爛漫なのに・・・、士幌は雪だ」呟いている事でしょう。
 
イメージ 7
        浄智寺に上ってきた士幌の中学生。懐かしい匂いのするいい子達でした。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

大仏裏山の「山藤の花」

$
0
0
4月19日(金)新聞にオリコミ広告が沢山入っていました。
その中に、一枚目を惹いたものが・・・・・、足利フラワーパークのチラシでした。
円覚寺のアート展で足利フラワーパークの大藤の衝立を見ました。
今年は世界一の藤を見たいもんだ・・・・、思っていましたから、家内と一枚のチラシを手にして相談です。
”行くなら一番綺麗な日に行きたいものだ”
”入園料は幾らか・・・・?”
チラシには900円~1600円と案内されています。
家内の意見では、藤の花の咲き具合で入場料がフロートするんだそうです。
それでは、1600円の時に行く事にするか?
高い様な気もしますが・・・、それだけ見事な藤なのでしょう。
 
足利から東に走れば笠間稲荷で、此処は無料です。
日光例幣使街道は藤のフラワー街道でもあります。
幾つも見れば、1600円も薄まりそうです。
 
イメージ 9
  「アートエキスポイン円覚寺」で展示された小川勝久氏の作品。
  この藤は足利フラワーパークの大藤で、デジタル写真を処理した・・・・、写真だそうです。
 
藤棚から1mもの花房が垂れているのも良いものでしょう。
でも、つづら藤になって山地で樹に巻き付いて咲く藤も良いものです。
私は鎌倉大仏さんの裏山に山藤を見に行きました。
ハイキングで歩く人も沢山いますが・・・、総じて山は手入れが為されていません。
山藤は自由勝手に樹に巻き付いて、その先で花をつけています。
樹の間から…微かに富士の花房が見えますが・・・・・、
 
イメージ 1
      大仏裏山の山藤の花。巻き付かれた木は迷惑なものでしょうが・・・・、藤本来の姿が見られます。
 
山を下りて光則寺に向かいます。
本堂の前に椹(サワラ)があって、藤が咲くのです。
光則寺の奥様は様々な山野草や木花を咲かせておいでです。
紫陽花や海棠が有名ですが・・・、この藤も年々見事になっています。
藤棚ではなく、樹に巻き付かせているのは・・・・、藤の花本来の姿を大切にしているからでしょう。
 
イメージ 2
                                               もう藪手毬の花が咲き始めた光則寺。
イメージ 3
     光則寺の藤の花、山藤本来の姿が見えて・・・・、芭蕉の句
     ”くたびれて宿かる頃や藤の花”を思わせてくれます。この句は大和八木ですが。(笈の小文)
イメージ 4
 
大仏通りを光則寺に入る角を曲がったところにある民家です。
家の壁中に山藤が絡んでおいでです。
仕舞屋(しもたや、店じまいした店)かと思うと、窓の先には洗濯物が干してあります。
余程、藤の花がお好きなのでしょう。
でも、藤が巻き付けば家の傷みも進行します。
それに、甘く香しい藤の香りでも、四六時中嗅いでいると・・・・、息苦しく感じないのかな?
懸念でもあります。
でも、こうして藤の好きに任せておいでなのですから・・・・、それもお好きなのでしょう。
こんな人こそ、根っからの雅な人なのでしょう。
 
イメージ 5
                                  光則寺参道にある民家、藤の花が家中に絡んでいます。
イメージ 6
         一本の藤ですが壁中を伝って屋根に届きそうです。部屋の中は甘い香りで包まれている事でしょう。
イメージ 7
                                         右奥の茶色い壁が浅羽屋さんの勝手口です。
 
藤の家の裏が浅羽屋さんです。
浅羽屋さんは長谷寺の門前参道に面してお店を構えています。
老舗のかば焼き屋さんですが・・・、今年二月、惜しまれて二の鳥居前の本店を店じまいされました。
長谷寺店は継続して営業されるのでしょう。
現店主のお姉さまが筆者のクラスメートでした。
利発な娘さんで、フエリス女学院に進学されました。
閉店に際しては口うるさい姉さんだったことでしょう。
 
せっかくここまで来たのですから・・・・、最後に長谷寺の藤の花を見てから、昼食に致しましょう。
浅羽屋さんも鰻にこだわらず、天丼やシラス丼も始めたようです。
アナゴ丼や焼き鳥丼はメニューにないようです。
 
イメージ 8
         長谷寺の藤の花、藤棚の下でお弁当を広げると最高です。トンビにも狙われなくて安全ですし・・・。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

長寿寺の観音堂

$
0
0
鎌倉の居福呂坂に新しく「海抜35m」の表示が出来ました。
もしも、東日本大地震並みの津波が起きたら・・・・、
この坂を越えて北鎌倉までもが津波に襲われる事になるのでしょう。
坂の中腹に長寿寺があります。
その脇を南に折れれば亀ヶ谷の切通しになります。
今の季節はシャガが咲き、6月には紫陽花や山百合が彩る、美しい切通しです。
 
今でこそ、立派な本堂が建ち、京風の庭が整備された長寿寺ですが、長い間荒れていました。
庭全体が梅園のような印象でした。
昭和43年春、私は梅園を訪れ、その中にひっそり建つ小堂を見上げていました。
二間四方で茅葺屋根の簡素なお堂です。
この寺の開山堂かとも思いました。
お寺に訊くと、観音堂で以前は奈良柳生の円成寺にあったのだそうです。
 
イメージ 2
                      長寿寺の観音堂。今日はこのお堂の話です。
イメージ 3
                                                長寿寺観音堂を庫裏から見る
 
 
私は前年に訪れた円成寺での感動を思い起こしました。
円成寺は真言宗御室派の古刹です。
お寺全体が浄土式で建てられ・・・・、その中心が阿弥陀如来が祀られている本堂があります。
そのご本尊の北側隣に、客仏のように置かれた大日如来がありました。
薄暗闇の中で、智拳印(ちけんいん)を結んだ姿が浮かんでいました。
連子格子の隙間から差し込む光が如来のお顔を照らしていました。
弧状のの眉根が伸びて、伏目に見下ろす長い目、小さな鼻に引き締まった口元、
頬や顎は引き締まって・・・・、青年のような瑞々しや、理性に満ちていました。
全身を覆っていたと思われる金箔は剥げて・・・、下地の黒漆露出していました。
お顔にはまだらに金箔が遺されていますが・・・・、
偶然の落剝がこの密教のご本尊の荘厳さを引き立てているようでした。
 
イメージ 1
            運慶の処女作と言われる円成寺大日如来像(国宝)出典「運慶と鎌倉彫刻/平凡社」を複写。
            この本は昭和39年の初版ですから、この写真は円成寺本堂の片隅で写されたものと思います。
 
この大日如来を大正年間美術院の新納忠之介が修理します。
この時台座から57文字の墨書が発見されました。
この像が安元1年(1175)年に作り始め1年を要して、
大仏師康慶の実弟子の運慶が作った・・・、記録されていました。
当時運慶は20代半ば、興福寺仏所のリーダーは父康慶でありました。
平安末期戦乱で焼け落ちた南都は再建に慌ただしく・・・・、
田舎の円成寺の注文に倅に”お前がやれ!”命じられたのでしょう。
青年運慶はこのチャンスを意気に感じ、若い血を燃やして、情熱を注いで大日如来を彫ったのでしょう。
それは、仏の中の仏大日如来であると同時に・・・、理想とする人間像であったと思われます。
そんな自負心が父康慶もしていなかった・・・・製作者名や製作年月日を台座に隠したのでした。
まるで、現代の作家がサインするように・・・・。
この大日如来がルネッサンスのように新時代を画した仏像であり、人々の精神であったと思います。
また、運慶が興福寺仏所(慶派)の次期リーダーであることが自他ともに確認させたのでした。
 
 
 
イメージ 4
                                    観音堂の扉には天女が描かれています。
イメージ 5
            観音堂の内部。正面は聖観音像、組み入れ格天井から壁に向けて天女、迦陵頻伽、散華が描             かれています。明治まで運慶の大日如来像が安置されていました。
 
明治になって、檀家を持たない寺院は困窮しました。
興福寺でさえ五重塔を売却しようとしたのでした。
円成寺はこの時、大日如来の納まっていたお堂を売却しました。
お堂は長寿寺に移されました。
お堂がそんなに価値が在ったのか?
疑問はお堂の内部を見れば合点が行きます。
 
左右の扉にはに天女が、室内の壁や天井には迦陵頻伽(かりょうびんが/想像上の美しい姿、声の鳥、鳳凰)
が描かれています。
また、天からは散華(花)が舞っています。
組み入れ格天井も見事な細工です。
観音堂にしても、開山堂に使っても・・・、良い小堂ですから・・・、お金に代えられたのでしょう。
 
お堂のお主であった大日如来は、本堂に移され、その片隅に置かれたのでした。
 
イメージ 6
                                                      組み入れ格天井
 
以来、円成寺のご住職は大日如来を祀る多宝塔の建立が悲願になりました。
先代住職「田畑賢住氏(故人)」は多宝塔を建立しました。(1990年)
でも、お堂は大日如来の荘厳さを引き立てるには物足りない建物でした。
私達のように本堂の片隅で、暗がりで拝した人は口々に”昔の方が良かった”口をそろえました。
そこで、円成寺では今春から新しく拝観収蔵施設を建築することにしたそうです。
現多宝塔には芸大の生徒さんの模造を展示するのだそうです。(朝日新聞2013,3,28の記事)
 
どんな建物が出来るのか・・・・、楽しみです。
 
私は長寿寺の境内を廻ります。
もう、境内の周遊道には筍がニョキニョキ出ています。
シャガが一面花を咲かせ・・・・、紫大根と春を競う様に謳歌しています。
もう、荒れ果てた長寿寺の面影は全くありません。
老梅が生き残っているだけです。
 
イメージ 7
   長寿寺は関東御坊足利基氏(もとうじ)が父の菩提を弔うために尊氏の遺髪を納めたお寺です。この宝篋印塔   に遺髪を納めたのでしょう。
 
イメージ 8
                               長寿寺の遊歩道、竹林に群生して咲くのはシャガです。
イメージ 9
        手前は紫大根、奥の白い花はシャガです。初夏になれば山百合が咲きます。
イメージ 10
    長寿寺ではお堂にペットの位牌を祀っておいでです。私は親爺に愛犬の遺骸を墓地に埋めて厳しく叱られま     した。命は輪廻する。来世は四足で生まれ変わるかも知れないのだから・・・・、お寺には四足は葬ってはなら    ない・・・、と。どちらが正しいか、解りませんが・・・・・、
    あの大日如来を祀ったお堂にペットの位牌を祀るのは抵抗があります。円成寺にお返して、「大日堂の里帰     り」を期待してしまいます。(長寿寺さん関係者に:勝手なこと言ってスイマセン)
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

鎌倉のシャガの花

$
0
0
シャガの花が見頃です。
我が家の庭にも自生していて、後から後から咲き続けています。
門の脇は樹下であり、岩場でありながら・・・、シャガが根を張って・・・・、
タイルの上まで勢力圏を伸ばそうとしています。
少し湿った、日陰が好きなようで・・・・・、兎に角環境を選ばない凄い生命力です。
 
鎌倉には其処此処にシャガが咲いています。
井戸の脇、竹林の中、切通しの崖、見かけますが・・・・、
櫓(やぐら、横穴の墓)の岩壁に咲いていると、ドキッとするほど綺麗です。
 
イメージ 1
                                             扇ヶ谷海蔵寺の櫓に咲いたシャガの花
イメージ 2
                                                 竹林に咲いたシャガの花(長寿寺)
イメージ 3
                                        底なしの井戸(海蔵寺)に咲いたシャガの花
 
シャガの学名はIris japonica (日本のアイリス/虹の花)と言うそうですが、
原産地は中国だそうです。
海を流れ着いたか・・・・、誰かが日本に持ち帰ったか、帰化植物と言う事でしょう。
花を見ると、雄蕊も雌蕊も退化してしまったのか見えません。
従って、種子は出来ません。
 
花が終わると子房が受粉も出来ずに、残されています。何の役にも立たない子房です。
その代わり、根っこが横に這って、その先で新しい株を芽吹かせて・・・、増殖してゆきます。
ですから・・・、シャガは全部同じ個体が増えたもので・・・・、同じ花が咲きます。
三倍体と言うわけです。
 
イメージ 5
                     鎌倉山生野家のシャガの群落、こんなに花があっても皆同じです。
 
シャガの群生地が鎌倉山にあります。
私の中学時代からの友人生野さんの家の前です。
山の東斜面が窪地になっていて・・・・、窪地全体にシャガが群生して、毎年毎年見事に花を咲かせるのです。
反対側の西斜面が棟方志功さんのお宅になります。
窪地ですから様々な種子が飛んできて、根を下そうとするのでしょうが、
シャガが地面を覆ってしまうから・・・・、他の植物の侵入を許さないのでしょう。
一面のシャガの花です。
 
雄蕊も雌蕊の退化しているので、花蜜も出ないのでしょう。
綺麗に花が咲いても・・・、蝶も虫も寄ってきませんし・・・、甘い香りもしません。
スッキリ、サッパリしています。
 
イメージ 6
 
 
万葉集でシャガが謡われているのかな?
思って「万葉花/ニッポン・リプロ」で調べてみました。
すると「はなかつみ」として「姫シャガ」が出ていました。
更に次の歌が紹介されていました。
   をみなへし さき沢におふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも  
                          万葉集巻4-675 中臣女郎(なかとみのいらつめ)
題詞に中臣郎女大伴家持に送る歌5首とあります。
また「さき」とは平城京北にある水上の池周辺とガイドしてくれています。
更に、「花かつみ」に当てはまる花を、
「まこも」「野花菖蒲」「芦の花」「アヤメ」「カキツバタ」「デンジ草」など色々な説がある・・・・、補説しています。
 
イメージ 4
    「万葉花/ニッポン・リプロ」では「花かつみ」を「姫シャガ」であるとして紹介しています。
    花かつみは何の花なのか・・・、諸論があるのです。
 
ところで、先の歌の大意は次のようなものでしょう。
私、(名門中臣家の令嬢、中臣郎女)は大伴家持を一目ぼれしてしまいました。
私はかって経験の無い激しい恋の虜になってしまったの・・・・よ、
訴えた歌でしょう。
 
大伴家持は万葉集を編纂した人物と言われ、万葉集の1割が自作歌です。
だから…、送られた歌を中臣郎女の許可もなく編集したものでしょう。
肝心の返歌は載せられていません。
中臣郎女に押されっ放しで・・・、返歌に窮した事でしょう。
因みに家持の奥さんは大伴坂上大嬢(おおとも の さかのうえ の おおいらつめ)でした。
中臣家の令嬢の恋は実りませんでした。
 
イメージ 7
                                                       鎌倉山のシャガ(前述)
 
イメージ 8
                            棟方志功家、玄関脇にささやかながら・・・・、鈴蘭の花が咲きました。
 
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 

和銅発掘遺跡は自然のままで(秩父往還紀行①)

$
0
0
4月10日、今年も日本文化研究会OB仲間、19人と一泊旅行に出かけました。
4月10日を選択したのは、桜の花が見ごろになる筈だからです・・・・。
昨年は身延道で・・・・、桜にはピッタリのタイミングでした。
大切な仲間と・・・・、最高の桜を見たい・・・・、私達の望みです。
 
秩父往還道は荒川の源流に向けて中山道熊谷宿から、秩父大宮(現秩父市)を経て、
雁坂峠を越えて甲州「塩山」に至る・・・・、甲州街道の裏街道です。
甲府の人は「甲州路」とか「信玄路」等とも呼んでいます。
秩父は百巡礼結縁の地、ですから秩父往還は秩父巡礼に、
更には「富士登山」や「身延山」等に向かう参詣の道でありました。
 
近世になると、甲府や秩父で生産される生糸の輸送路として着目されます。
また、セメントを運ぶ目的で秩父鉄道が整備されました。
 
イメージ 1
                 和銅発掘遺跡は左の小山の沢にあります。 遠くの山が妙義山です。
イメージ 7
                                                   露天掘り跡から駐車場に戻る
 
私達の最初の目的地は「和銅採掘遺跡」です。
708年武蔵国秩父郡から銅が献上されます。
これを喜んだ朝廷は元号を「和銅」に改元し、日本最初の通貨「和銅開珎」を発行いたします。
その和銅・・・精錬を要しない自然銅の採掘された跡を中心に「和銅遺跡」が保存されています。
 
イメージ 4
         大きなモニュメントの右側、沢の辺りが銅の露天掘り跡です。
イメージ 5
                                           和銅を露天掘りした沢
 
「山笑う」とはこのことでしょう。
遠く妙義山が霞んで見えます。
山桜に花桃、雑木は芽吹いて若緑色です。
そして、山道を辿る足元には山吹が鮮やかに咲いています。
”春が来た・・・・歓び”は樹にも、花にも、鳥にも・・・・、そして私達にも公平で共通です。
鶯が啼き・・・、小綬鶏が山奥から”コッチコイ、コッチコイ”招いてくれています。
和銅採掘遺跡は尾根道を下りて、谷川沿いにありました。
 
澤が崩れています。
岩が泥に混じって露出しています。
この岩は自然銅(ニギアカガネ)ではありませんが、銅の成分が含まれているのでしょう。
緑青色で、手に取ればズッシリ重いものがあります。
 
巨大なモニュメント「和銅開珎」があります。
この前で全員そろって記念撮影・・・・、周囲には短冊に俳句が書かれています。
今晩の遊び「俳句で遊ぼう」を思い出します。
私達は旅に出ると俳句を作って・・・・、”誰が作者であるのか…あてっこする遊び”に興じます。
 
イメージ 6
                                             身重な猫ちゃん、頭上に山吹。
 
和銅山を駐車場に戻ると・・・・、ペルシャ猫(?)が居ます。
観光客が来ると、餌をくれると思って寄って来るのでしょう。
見ればお腹が大きくて、もう地面に擦りそうです。
この春には何匹子供を産むつもりなんでしょうか?
 
和銅山の西に「祝山」があります。
この山の麓で和同献上のお祝いが催されたそうで、そのあとに遷座して社が建てられました。(聖神社)
境内には、「和銅鉱物館」があって、その中には出土品や百足などの神器(※)が展示されているのですが・・・・、
事前に申し込んでおかないと開いてくれないようです。
固く鍵がかかっていました。
(※:聖神社秘蔵の左甚五郎作の竜頭を源とする「黒谷の獅子舞」の獅子頭なども陳列されているそうです)
 
自然のままが素晴らしい・・・、和銅発掘遺跡でありました。
 
イメージ 2
                                         和銅献上祝典会場後が聖神社です。
イメージ 3
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

秩父札所「金昌寺」の狂気(秩父往還紀行②)

$
0
0
もう20年以上も前の事です。
アフガニスタンの北部バーミアンの大石窟が破壊されました。(報道2001年1月19日)
偶像崇拝を否定するタリバン勢力が追い込まれて、破戒の懸念はあったのでしたが・・・・、
懸念が現実になってしまいました。
私達日本人にとってはシルクロードは文化のルーツの一つ、蛮行としか思えません。
マスコミをはじめ、文化人は激しく非難しました。
 
でも、100年も前に私達日本人も、同じような蛮行に走った記憶があるんです。
人間が追い込まれたり、長い間抑圧された状態が続くと、一気に狂気に走る事が多々あるんです。
肝心なのは・・・、特定の民族や階級の人を追い込まない事、不条理な抑圧下に置かない事です。
 
イメージ 1
                      タリバンによって破壊される前のバーミアンの大石窟(出典:ウィキペディア)
 
慶応4年(1868年)維新政府は通称神仏分離令を発します。
更に明治3年には詔書「大教宣布」※を発します。
 ※「天皇には神格がある。我が国は神道を国教とする。日本国は祭政一致の国家である」と宣言した。)
これ等は決して仏教や寺院を排斥・批難したのではありませんでしたが、民衆は廃仏毀釈運動に走ります。
全国各地の神仏習合寺院は神社と切り離され・・・・、寺院は廃れ、堂塔は焼かれ、仏像は壊され、そして・・・・、
石仏は破壊されました。
更に、明治4年(1871)寺社領の上地令が布告されると、寺院は経済的基盤を失い・・・・、一層衰退してしまいます。
一昨日書いた柳生の円成寺の多宝塔が売却されたのも、
鎌倉東慶寺の仏殿が売却されたの廃仏毀釈がきっかけでした。
原因は、お寺が長い間幕藩体制下で民衆を抑圧し続けた、その鬱積が発奮されたのだと思います。
 
イメージ 2
                        今日の話題は秩父4番霊場金昌寺の首なし石仏群です。
イメージ 3
         半分以上が首なしです、でも首なしでも残ったのは良い方で、2000体以上が破壊され尽くしました。
 
江戸の市中を流れる大川(隅田川・荒川)の水源は・・・・、秩父です。
秩父は江戸市民にとって・・・・、聖地・霊地でありました。
近世になると、西国霊場、坂東霊場に続いて秩父霊場が脚光を浴びます。
日本百霊場の結縁(100番目の霊場)が秩父になります。
江戸市民は秩父霊場を巡る事が願望になり、ブームになります。
各寺院はご本尊を特別開帳したり、左甚五郎の彫刻を案内するなどして、集客に工夫をします。
 
そんな中で、4番札所「金昌寺」の住職はアイディアを絞ります。
寛永元年(1624年)寺を千体の石仏で埋めようと願を立てます。(金昌寺案内板より)
秩父の西「岩殿沢」に石を発見しこれを「功徳石」と呼びます。
この石は「凝灰質砂岩」ですから、石の表面は滑らかで、加工に適していました。
しかし、砂岩特有の風化しやすい性質がありました。
この石を切り出し、巡礼者に案内します。
「結縁に際して、功徳石を以って石仏を奉納すれば、恩恵に浴する事間違いありません・・・」と。
巡礼者は健康に結願出来た感謝の気持ちで石仏を奉納します。
住職の思いを超えて7年で3千体の石仏が奉納されたといわれます。
 
イメージ 4
     最も有名な授乳する観音様(慈母観音)
イメージ 5
                                          フェミニスト(?)の羅漢様
イメージ 6
                                                        秀作の如意輪観音像
 
金昌寺に現存する石仏は1300体です。
過半の石仏は破戒されてしまいました。
残った石仏も過半がお顔を壊されてしまっています。
江戸時代に百年以上をかけて作られた石仏が、わずか数年の間に破壊されてしまいました。
タリバンの破壊行為も、廃仏毀釈の破壊行為も・・・、同じでしょう。
 
しかし、狂気と非難するのは立ち位置の違った人が言う事です。
300年もの間、たいした働きもせず、人民を抑圧してきた坊主が憎い、寺院が悪い、
鉄拳を加えてやる・・・・、そんな思いで寺院を焼き、石仏を破壊したものでした。
破戒する当事者にとっては、正義の行為なのです。
 
何度来ても、何度見ても壊された石仏を見ると背筋に冷たいものが走ります。
でも、怖いもの見たさで・・・・、何度も何度も金昌寺に登ります。
 
ご住職は曹洞宗のお坊さんです。
綺麗な石仏も、壊された石仏も人間の所産ですから・・・、どちらも正面から正視してごらんなさい・・・!
そんなお考えで・・・・、修復もせず並べておいでなのでしょう。
 
石仏の脇からマムシ草が背を伸ばして、無くなったお顔の脇で不気味な花を咲かせていました。
偶然ですが・・・・、人間の心の奥の、もっと奥にマムシが巣食っている・・・・、事実でしょう。
それを自覚していれば、石仏を壊して・・・後世の人に非難されなくて済むんでしょうが。
 
最後に拙句ならぬ拙短歌を・・・披露します。
 
  斬首さる 石の仏の並び居る
         心に痛し 春の秩父路
 
  巡礼が 奉げ置ける川原石
         笑うがごとし 首なし地蔵
 
  傍らに マムシ草が首傾け
         諭すがごとく 心奥(おく)のまた奥
 
イメージ 7
       じっと石仏を見詰める巡礼さん(二番目の短歌)
イメージ 8
首なし石仏の傍らで鎌首を上げた様に咲いたマムシ草(左端) 3番目の短歌
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

足利の世界一の「大藤物語」

$
0
0
4月20日頃、新聞にオリコミ広告が入っていました。
見事に咲いた藤の花が全面に印刷されて・・・、”世界が息を吞む美しさ、世界一の藤を見に来ませんか・・・”
入場料は900円~1600円と幅を持たせて案内されています。
開花状況に応じたフロート価格設定です。
チラシのそこかしこから・・・・、商売上手、民間のセンスが伺えます。
経営主体は足利フラワーパークです。
 
イメージ 1
      今日の話題は足利フラワーパークの大藤です。
      幹周り4m2本の大藤が600坪の広さに枝を張って藤の花を咲かせます。
 
日本一の藤の花は何処? 聞かれたら・・・・、
私は・・・・、好きな藤は奈良春日大社に、宇治平等院に・・・・・答えますが・・・・、
日本一となると、イマイチ確信が持てません。
花の美しさは何処も大差ないのですが、花の咲く周囲の環境との調和が素晴らしい、
借景の妙に惹かれているのです。
花それ自体の美しさも大事ですが、周囲の緑や池、丹塗りの社なども環境が大事です。
 
日本一には確信が持てなくても・・・・、世界一に疑問を挟む余地のないのが・・・、
足利フラワーパークの藤です、だから・・・・、見に来て下さい・・・・・、
フラワーパークの広告は大変な自信です。
 
藤の花好きの私たち夫婦は4月26日4時半に早起きして、7時の開園を目指して出発です。
 
イメージ 2
 
大きな藤棚の下に案内が為されています。
野田長藤NO1(野田9尺藤県天然記念物)
南北36m、東西33m、幹回り4m、花房1.8m。
足利市朝倉町の早川農園で早川和俊氏が大切に育成していた藤を、
1996年2月に移植した樹齢140年の藤です。
幹にギブスをつけて、トレーラーに載せて20キロを移送しました。
移送時は50畳でしたが現在は600畳に拡大した世界一の大藤です。
 
大藤はこの野田長藤が3本、そして八重の黒龍藤が1本、都合4本の大藤があって、
どれも樹齢が140年に及ぶそうです。
この大藤に圧倒された私は・・・・、誰が、どんな思いで、このフラワーパークに藤を植えたのか?
興味深々です。
園内では午前7時過ぎ、職員が忙しく働いています。
職員に尋ねるのも気が引けます。
 
イメージ 8
   この小山が借景の中心です。塚本氏の話ではこんな小山でも権利が錯綜しているので、少しだけ躑躅を植え     てあるそうです。水の処理がパーク成功の要因だと思います。
イメージ 9
    この日は曇天でしたので池に藤は良く映っていませんでした。
    夜はライトアップされるので藤が上下二段に見える事でしょう。
 
TV局が来ていて、実況の中継と館主のインタビューをしています。
これは運が良い・・・・・、私達は暫くTVクルーと一緒に園内を廻りました。
また、私は自分の興味を館主に聞きました。
それらを纏めると以下の通りです。
 
現足利フラワーパークの館主は花守の「塚本こなみ」氏です。
同女史は静岡の生まれ、造園家の夫に嫁します。
興味はグランドデザインに在ったそうです。
そして1992年に女性として初めて樹木医の資格を取得します。
彼女のもとに足利の早川造園から依頼が持ち込まれました。
『大切にしてきた野田長藤を移植してフラワーパークにする計画にしたいのだが・・・・・、移植してくれないか!』
また、故郷の静岡からも八重崎の黒龍藤の対策が持ち込まれます。
 
イメージ 6
                  圧倒的な存在感の八重の黒龍藤。これは静岡から移植されたものだそうです。
 
移植する先は、足利市迫間町の現在地でした。
関東平野の北部、丘陵地を流れ下った渡良瀬川が平野に出て緩やかな流れるあたり、
赤芽柳が群生する湿地でした。
小高い山が連なり、柳も緑が眩しく、池や沼が連なる湿地です。
造園家でありグランドデザイナーであり、樹木医であった塚本こなみ氏の血が湧き立ちます。
心血を注いで藤の再生・移植をし、才能や感性を研ぎ澄ましてグランドデザインしました。
 
藤の花を美しく見せるには…、借景こそが大切である。
緑で囲んでやること、小高い山をシンボルにすること、水面に藤の花を映す事・・・・、
周遊して楽しい事、藤の魅力を様々に見せる事・・・・、
藤の紫を引き立てるように・・・・、その他の花(薔薇や躑躅)も咲かせる事、
それらの美しが喧嘩しないように・・・・・、ゾーンを分ける事・・・・、
 
世界中の庭園を見てきた成果を活かしてデザインしました。
 
イメージ 5
    右側が現館主であり、大藤の移植を成功させた樹木医であり、パークのグランドデザインをした塚本このみ氏
 
大藤の再生・復活にむけて、人事を尽くして手を施しました。
その上で神に祈りました”勢いよく芽吹いて花を咲かせてくれるよう・・・・・”
地元の神社に祈ってもらいました。
神主は大藤の根元に祠を建てて・・・・、神様に下りて来ていただき・・・・、復活を見守っていただきました。
1996年、大藤は見事に花を咲かせました。
「世界一」を自負して恥じない見事さでありました。
(早川造園は?)塚本このみ氏に深く感謝し、合わせてそのスキルを評価して、
初代足利フラワーパークの館主になっていただきました。
 
イメージ 3
 
”大藤の復活は奇跡である”
藤棚の下の立札に書かれています。
でも、塚本氏はそのように書かせて・・・、
一方ではこの湿地が藤には好環境であることを知っておいでだったのでしょう。
大事に育てれば、一本の木でありながら300坪もの広さに枝を張り花を咲かせる事も・・・、
総て勝算があった事でしょう。
そして、神様を招来する事が・・・・、藤にとっても、藤を観に来る観光客にとっても好ましいと思ったのでしょう。
 
イメージ 4
 
イメージ 7
   淡いピンクの藤は終わりそう、紫の長藤は4月末が最高で、
   白藤はゴールデンウィーク後半が見頃になるでしょう。黄藤は5月中旬でしょう。
 
イメージ 10
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

手作り鯉幟をあげて・・・・!

$
0
0
昨年の今頃は、胃癌が発見されてその手術方法を巡って、セカンドオピニオンを確認したり・・・・、
覚悟を決めるまで、重苦しい毎日でした。
 
一転、今年は爽快で、季節のめぐりを心底エンジョイしています。
矢張り健康であってこそ、見るもの、聴くもの、味わうもの・・・、楽しめるものです。
そんなわけで、毎日のように遠出です。
足利に渋川に・・・・、”山笑う季節”には山が見える地方にお出かけです。
でも、風景に何か足りません。
そうです・・・・、爽快な風に泳ぐ筈の「鯉幟」がありません。
昔は麦畑の向こうに・・・・・、鯉幟がはためいていたのですが・・・・。
今は子供が少なくなったので・・・、鯉幟をたてる家も少なくなったのでしょう。
鯉幟より五月人形を飾る家が増えたのかも知れません。
 
イメージ 1
    柏尾川で小学生手作り鯉を揚げる風景。これはロープのセンターを決める光景です。下流は大船になります。
 
 
4月27日、連休のスタートです。
この日は「柏尾川鯉幟」をあげる日です。
朝10時、「柏尾川魅力作りフォーラム」のメンバー30人が桜橋の袂に勢揃いしました。
私達「柏尾川ジョギング愛好会」は10時までの間はゴミ拾いで一汗かき、鯉幟揚げには3名を派遣しました。
 
”鯉幟あげ”は平成21年に始まりました。
ですから、今年で5年目になります。
最初の頃は鯉の数も少ないし、折角できた鯉もはためかないで、絡んでしまったり思い通りに行きませんでした。
それを、鯉の口に竹ひごで作った輪を入れたり、鯉の背を縫ったり・・・・・、またロープの張り方を工夫したり、
長足の進歩を遂げました。
 
イメージ 2
      東戸塚小学校は3年生5クラスが参加しました。学校名、クラス名が書かれています。
      戸塚小学校、倉田小学校、柏尾小学校、下郷小学校、鳥が丘小学校、矢部小学校、東戸塚小学校の7        校、約50クラスの生徒が参加してくれました。小学校の生徒はゴミ拾い、ガラスなどの危険物拾いなどもし      てくれています。私達フォーラムは鯉幟と8月に行う「追い込み漁」が子供達と一緒に行う行事です。
 
何よりも此処の鯉は小学生の手作りです。
区内、柏尾川に近い小学校7校が参加しています。
その一つ東戸塚小学校では3年生5クラスが参加しています。
クラス全員で鯉をデザインし、二枚の布に色を塗ります。
出来た布を柏尾川魅力作りフォーラムのメンバーが、縫い合わせて、口に竹ひご製の輪をつけます。
そして、ロープに括り付けます。
そうして、用意した鯉幟をゴールデンウィークの初日に揚げるのです。
5月12日まで揚げておきます。
 
メンバー30人程と戸塚区役所の区政推進課職員2人が息を合わせて鯉をあげます。
今年小学生が作ってくれた・・・、新品の鯉幟は橋の川上側に張ります。
風は総じて下流(南)から吹きますから、北側の鯉の方がよく泳ぐのです。
先ず全員でロープを持って桜橋の上で位置合わせをします。
中央を確認し、左右からロープを引っ張って・・・・、左右バランスの取れた位置を確認して、
更に、橋の下、どの位置まで下げるか決めたら・・・・、
仮止めします。
再度バランスや位置を確認して・・・、これで良しとなれば、本止めです。
一つ一つ、鯉幟が動かないように・・・、針金で固定します。
 
イメージ 3
      向こうが戸塚駅、左の建物がこの3月に落慶した区庁舎。左は鯉幟揚げの光景を見に来た保育園児
 
イメージ 9
              また明日見に来ようね・・・・! 保育園児は大喜びでした。
 
昨年使った鯉幟も揚げます。
此方は橋の南側に張ってあげます。
1時間余りをかけて・・・、50匹の鯉が揚がりました。
鯉は気持ちよさそうにはためいています。
今日は良い風が吹いています。
気温も上昇して、汗ばんできます。
川には本物の鯉も沢山泳いでいますし・・・、
カラスや鳩が行水をしています。
見物人も増えました。
ケーブルTV局もやってきて・・・、撮影しています。
5年目にもなると・・・・、少しは有名になって来たようです。
保育園児も見上げて・・・、歓声をあげています。
 
イメージ 4
     橋の手前側(南側)が昨年つくられた鯉幟。向こう側(北側)が今年作ってくれた鯉幟。
     子供達のメッセージが年により少し変わっています。
 
 
昨年の鯉は「日本頑張れ!」と書かれています。
小学生のメッセージは”日本頑張れ!” ”被災地めげるな!”だったのでした。
今年の鯉は・・・・、そんな共通メッセージは無いようです。
でも、よく見ると同じような思いが見えてきます。
 
鯉の鱗一枚一枚を生徒が分担して色塗りしたのでしょう。
一枚一枚の鱗に名前が小さく書かれています。
鱗一枚が剥がれたら鯉は命を落としてしまいます。
鱗1枚は鯉にとってかけがいの無いものなのです。
小学校一クラスにとって・・・、仲間一人一人がかけがいが無いのでしょう。
クラス全員で心を合わせて鯉幟をデザインし、色塗りしてくれました。
あえて子供達のメッセージを一言でいえば”みんな仲良し”のようです。
 
そんな鯉幟をこうして揚げられるのは・・・・、大きな喜びです。
 
イメージ 5
     ”仲良し”のメッセージが書かれた鯉幟。一枚一枚の鱗にも子供のメッセージが書かれています。子供達が       友達を大切に思う心が伝わってきます。この辺りは倉田小学校の生徒の作品です。27日は東戸塚、倉田       二つの小学校の校長先生にお会いできました。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
    これで鯉幟を揚げる作業は無事完了・・・、お疲れ様でした。
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

「ココ・ファーム・ワイナリー」のデッキランチ

$
0
0
朝7時足利フラワーパークに入り、続いて足利学校、鑁阿寺、足利織物会館と廻ると、流石に腹が空いてきました。
市内の石畳の道にある小洒落たレストランを横目にして・・・・、5キロほど山に向かって走ます。
今日のランチはココ・ファーム・ワイナリー(Coco Farm & Winery)です。
爽快な風、青葉若葉に、藤の花・・・・、こんな日には屋外で、ファームで食べたいものです。
でも、天気予報が・・・”午後から所により竜巻・突風が吹き雹(ひょう)が降るでしょう”・・・・、が気にかかります。
青空の一角に真っ黒な雲があって、動いています。
 
足利市街から北に向かいます。
街路樹は花ミズキで、今が見頃です。
1990年代、この樹が人気になり、ニュータウンには競って植えられました。
今では何処も見頃になりました。
道の分岐にはココ・ファーム・ワイナリーの看板が出ています。
こんな細道の奥にあるのか・・・、知っている人しか来ないだろうな・・・、思います。
 
イメージ 1
   「ココ・ファーム・ワイナリー」左の葡萄畑をこころみ学園の生徒が栽培しています。その葡萄を買い取ってワイ    ナリーが醸造し、レストランを運営しています。
 
昭和33年(1958)特殊学級の教員だった川田昇氏が生徒たちと勾配38度もある斜面を開墾し始めます。
目的は葡萄やシイタケの栽培でした。
”手間のかかる農作業こそが知的に障害を持つ生徒達にとって有意義である・・・”、判断がありました。
学校法人は「こころみ学園」30人の生徒を収容する施設として昭和44年立ち上がりました。
以来葡萄畑には50年余、一度も除草剤は撒かれたことがありません。
 
雑草がドンドン伸びてきます。
草刈りは生徒さんが手で抜き、刈ります。
こうした、手作業こそが生徒達を活き活きさせる・・・、思惑通りの成果を上げてきたようです。
 
生徒も一緒に年齢を重ねます。
今では最高年齢85歳、若い人は17歳、園の生徒134名を要する成人対象の知的障碍者更生施設と評されています。(「更生」とは嫌な名ですが国のネーミングです)
そして、此処で醸造されるワインは、
平成12年の九州沖縄サミット、平成20年洞爺湖サミットの晩さん会で使用されました。
 
イメージ 2
 
昭和55年(1980)こころみ学園の父兄が出資して「(有)ココ・ファーム・ワイナリー」が設立されます。
こころみ学園で出来た葡萄を素材にワインを醸造したり、レストランを運営することが目的でありました。
学園とワイナリーは一心同体でありますが・・・・、こころみ学園の運営には国の助成を受けています。
同じ事業体が一方で助成を受け、一方で酒税を納めるのは如何なものか? 
疑問を挟まれないように運営主体を分離し、会計も区分したのでしょう。
勿論、生徒達が丹精した葡萄がワインになって、消費者が美味しい美味しい、言ってくれる姿を自分の眼で確かめさせたい・・・、そんな意図であったのでしょう。
 
イメージ 3
                                                           ワインの醸造施設
 
イメージ 7
       雨水調整池の向こうが杉林で、この樹下で椎茸を栽培しているようです。山藤が咲いていました。
 
前置きの説明が長くなってしまいました。
雨水調整池の奥に駐車場があります。
レストランは池の下で・・・、葡萄畑を見上げる位置に在ります。
葡萄は今芽吹き始めた処です。
良く見れば小さなブドウの房がもう用意されています。
杉林の中では椎茸が栽培されています。
 
イメージ 4
                                                           芽吹き出した葡萄。
 
「お食事は室内でしますか? それともオープンデッキにされますか?」
訊かれました。
今日(4月26日)は平日です。
お客は疎らで10組ほどです。
私は葡萄畑を見上げるテラス席に座りました。
それにしても葡萄畑は急こう配です。
ウェートレスの人に尋ねます。
「畑仕事は命綱を使って行うのですか? 転げ落ちたら大怪我でしょう。」
すると、
「園の生徒さんが行います。別に命綱をつけているようでもなさそうですが・・・。」
転げ落ちても、ブドウの木に引っ掛かるのでしょうか?
少し、乱暴な様な気もします。
 
でも、こうして丹精を込めて、命がけで作った食材を「地産地省」するわけです。
心して、味わいたいと思います。
 
イメージ 5
                                   テラス席の向かいは急こう配の葡萄畑が見渡せます。
イメージ 6
         これがデッキランチです。ワインのようなグラスは・・・、ブドウ酢です。酢は癖になる美味しさです。
 
 
どのテーブルも「デッキランチ/1000円」を注文しているようです。
生野菜の盛り付けに骨付きウィンナー1本、それにパンが付いて・・・、プレートに載せられています。
私達も同じものを注文します。
「ワインはどうされます?」
「車で来ていますから・・・」
断りました。
 
食事が出来るまでの時間、私はワインの醸造所を見学しました。
新しい清潔な施設です。
出来たモルトは山に横穴を開けて・・・、寝かせているのでしょう。
「お一ついかがですか?、これはワインではありません。ブドウで作ったお酢です。ブドウ酢です。」
白ワインと味も香りも遜色在りません。芳醇な味であり香りです。
でもアルコール分は無く、体にも良いようです。
私は一本(800円)戴きました。
 
デッキランチ・・・、美味しかった事は間違いありません。
野菜は野菜の味、パンは小麦の味がして・・・・、一つ一つ美味しかったものです。
屋外で澄んだ空気を胸一杯に吸って・・・・、山風に吹かれて食べるランチは楽しいものでした。
北関東に行ったら是非お立ち寄りください。
 
食事が終わる頃、空が真っ黒になって、大きな滴の雨が落ちてきました。
慌てて・・・、席を移しました。
まあ、これも楽しいもんで・・・。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

藤沢凧と”天上大風”

$
0
0
今日(4月29日)は爽やかそのもの・・・・、気持ちが良いから境川に出かけました。
川に架かっている水道橋の橋脚に長元坊(小型の隼)が巣食っていますし、藤沢凧の凧揚げもしているでしょうから。
隼も凧も・・・・、五月の薫風を受けて気持ち良く飛んでいる事でしょう。
 
藤沢凧を揚げる会場は境川の下流、南俣野です。
境川河口から5キロほど遡ったところで、一面田圃です。
凧揚げ会場にはうってつけ・・・、一面の田圃です。
正月も凧揚げをしますが、田圃に水を張る前、ゴールデンウィークの頃が一番の「凧揚げ季節」です。
午後1時、もう沢山の凧が揚がっています。
ヒーフーミーヨー、数え上げれば8つも揚がっています。
私は「フ」と書かれた凧を揚げている家族3人に話かけてみました。
 
イメージ 1
        境川沿いの田圃が凧あげ会場である事を案内する看板。実はこの看板は伝統の藤沢凧保存会のもの        では無く、田中慶秋元沖縄担当大臣の後援会がたてたものでした。
 
「良く揚がっていますね。あれでどれ程糸を伸ばしていますか?」
質問をたて続けにしました。
お父さんのお答えは次のようなものです。
 
「糸はもう200mも出しています、だから上空100m位の高さでしょう。
もう、この高さに揚げてしまえば上空は良い風が吹いていますから安心です。
凧は遠くに揚がっていますから小さく見えますが、大きさは横幅が7尺(2,1m)あります。
ブン・ブンと風切音が聞こえますが、あれは糸と弓(竹で作った弓、その上に和紙を張っている)の風を切る音です。」言われると「鳴弦/神社で邪気を払う為に弦をブンと鳴らす神事」の音です。
若しかしたら凧揚げは邪気払いの神事がルーツかも知れません。
もう、1Kも下流には義経を祀った白旗神社があります。
 
イメージ 2
          この二つが相州藤沢凧保存会が揚げている凧。カギフは野菜農家関根さんの屋号です。
 
イメージ 9
          屋号「カギフ」の凧を揚げる関根さん家族、向こうが横浜に上水を送る水道橋。
          このパイプに隼が営巣しています。
 
「5月3日が本番ですね・・・」、先刻見た立て看板には同日11時の始まると案内されていました。
すると、
「いや、良い風が吹いている日が本番ですよ、今日が本番です。3日も風が良ければ本番です。」
「凧の表に”フ”と書かれていますが・・・、あれはお宅の屋号ですね?」
「そう、¬(かぎ)フと言うのが私の家の屋号で、野菜百姓をしています。
親爺が寝込んでいますので今年は快癒するよう屋号を描いた新凧を揚げました。
写真を見せれば喜んでくれると思います。」
いや、重たい事を聞いてしまいました。
 
「藤沢凧の事を聞かせてください」私は改めて質問攻めです。
「相州藤沢凧保存会は40年ほど前に出来ました。現在は7つほど凧が揚がると思います。
今あげているのは町の愛好家が多くて・・・・・。アッチは保存会ではありません。
普通の角凧ですが、尻尾を2本長く垂らしています。江戸凧は尻尾が無いんです。
勿論長い尻尾を2本付けると凧は安定して真っ直ぐ上がり易くなります。
昔はもう少し下流で揚げていたのですが、市街化が進んで此処まで上ってきてしまいました。
私達保存会がお百姓にお願いして田圃を使わせてもらっています。
親爺の遊びになってしまって…、子供が参加してくれると良いんですがね・・・・。」
 
イメージ 3
                       相州藤沢凧保存会の揚げたオカメ・ヒョットコ凧に寄ってくる長元坊(隼)
イメージ 4
                          飛ぶ姿が美しい・・・、長元坊。左下に凧の糸が見えます。
 
 
ブン・ブン鳴っているのが気に障るのでしょうか?
長元坊が凧に近寄って行きます。
暫くして・・・「何だこりゃ!」とも言いたげに・・・、スルッと迂回して、また巣に戻って行きます。
今頃はもう卵を産んで夫婦交代で抱卵しているのでしょう。
 
イメージ 5
       これが7尺四方の凧、ブーン・ブーンと鳴弦のように鳴るのは糸と弓(凧の骨)が風を切る音です。
イメージ 6
いよいよオカメ・ヒョットコ凧が揚がります。土手はスカンポ、田圃は蓮華草が咲いています。
 
 
相州保存会の皆さんがもう一つ「オカメ・ヒョットコ」凧を揚げはじめました。
鳶職の人達でしょうか? ニッカポッカに地下足袋姿が恰好良いです。
女性も居ます。
堤防の土手に行って凧をかざして・・・・、一気に凧糸を引きます。
ユラッと凧が揚がって・・・、見る見る離陸しました。
見物人から拍手が上がります。
30m程揚がったでしょうか?
でも、風が止んだら、落ちるのも一気です。
ストンと蓮華草の咲く田圃に落ちました。
 
イメージ 7
                             スカンポの向こうで、揚げる順番を待つ相州藤沢凧
 
「天上大風」・・・・・、良寛さんの凧を思い出しました。
半紙より少し大きな凧です。
文政11年、越後の国は大地震がありました。
翌年、良寛さんは五合庵から麓の燕の街に下りてきます。
真っ白い凧を持って子供達が良寛さんにせがみます。
「上人さん、この凧揚がらないよ・・・、良く揚がるように何か書いてくださいな!」
上人さんはやおら筆を執って、”天上大風”・・・・書いてあげました。
「もう少しだけ揚げれば・・・、良い風が吹いているから・・・、凧は良く揚がりますよ。」
そんな意味でしょう。
 
其処には、”もう少しだけ我慢して、頑張ればまた地震前のような暮らしが戻りますよ”
そんなメッセージもあったかもしれません。
”地上は地震があって、飢饉になって、まるで地獄のようであっても、天上は仏の慈悲の世界であって、
慈悲の風が吹いているんですよ・・・・” 
そんな思いが込められていたのでしょう。
天上大風は書も、その意味も、背景も・・・、如何にも良寛さんの世界です。
イメージ 8
                            これが良寛さんの「天上大風」,左下から右上に風が吹いている様です。
 
 
たかが子供の玩具であっても・・・・、凧には様々な思いが込められていたし・・・、
今も思いを込めて凧揚げをしている事を知りました。
 
相州藤沢凧保存会は未だ3つ揚げる計画のようです。
今日は6つ揚げる計画なのでしょう。
田圃で凧が順番を待っています。
その脇には美味しいお酒がスタンバイしているようです。
凧を揚げて・・・乾杯が待っているのでしょう。
 
土手にはもうスカンポが花を咲かせています。
帰り際にもう一度「凧上げ会場」の立て看板を見てみました。
小さな字で、凧上げの主催者は「田中慶秋後援会」と書かれています・・・、
相州藤沢凧保存会ではありません。
もう、民主党も、田中慶秋氏も・・・・・、上がりようもない勢いのようです。
一度風に背を向けてしまたら・・・、次の風が吹くまでは長い時間が必要です。
凧のようにはいかないようです。
 
イメージ 10
                   この凧は田中慶秋元議員への皮肉ではありません。ジョークです、念のため・・・・。
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

光源氏の香りを生み出す?ハーブのお庭

$
0
0
町に初夏の薔薇「木香薔薇」が目立つようになってきました。
この薔薇は病虫害にかからない事、棘が無い事、そして沢山の花をつけて、
樹全体として見栄えが良いのが長所でしょう。
鎌倉の畳屋のベランダ一杯に木香薔薇が咲き誇っています。
畳みの香りも良いが・・・・、木香薔薇は字の通り素晴らしかろう・・・・、
鼻を近づけてみましたが・・・、全く香りません。
八重の木香薔薇は匂わないようです。
 
イメージ 5
     鎌倉笠間の畳屋さん。二階のベランダまで木香薔薇が茂っています。この樹も字の通り香りの原料です。
     (一重の木香薔薇の花は芳香ですが、八重の花は匂いません)
 
北鎌倉駅を降りて5分、浄智寺の先に「山之内踏切」があります。
踏切の手前、左側に木香薔薇に囲まれた家があります。
壁に「香りお仕事」と書かれていますから・・・・、
この家はお店で、それも「香草」を商っていられる・・・・、想像されます。
 
突然にこの店が出来たのは15年位前、1998年頃だったと記憶しています。
当時はハーブやアロマは余り馴染みがありませんでした。
ですから・・・、このお店は時代を先行していたのでした。
 
私は・・・・、坊主の倅でしたから・・・、お線香の香りを吸って育ったもの、香りには敏感です。
でも、このお店に入る事はありませんでした。
店先にスペアミントにアップルミント、レモングラス等のハーブが植えられていましたから・・・、
少し洋風で、眩しいような感じを持っていました。
でも、木香薔薇が”寄ってらっしゃい”    招くので・・・、入店してみました。
 
イメージ 6
           木香薔薇に埋もれた「香り仕事」のお店。右脇に見えるのが横須賀線山之内踏切です。
 
イメージ 7
「香り仕事」の店内から表を見ると山之内踏切を渡る観光客が見えます。
このテーブルはハーブティーを戴くためのものです。壁には所狭しと「香りグッズ」が吊るされています。
 
笑顔で嶋本静子さんが迎えてくれました。
素敵なニットをお召で居られます。
新聞や雑誌の記事ではお着物で応じられているようです。
とても着物がお似合いです。
 
壁中にドライにしたハーブが吊るされています。
様々な香りグッズが並べられて・・・・、少し興味があります。
気になる庭は約70坪もあるでしょうか・・・、
一面ハーブと雑草と・・・、ごちゃまぜで生い茂っています。
小さな小屋が建っていて・・・、其処が嶋本さんの仕事部屋なのでしょう。
その庭に小さなテーブルが一つ、椅子が4脚、此処でハーブティーを戴けるようです。
嶋本さんと二人きりだと、ハーブティーを戴いて帰るか・・・、何か求めて帰るか・・・、迷ってしまいます。
 
イメージ 1
                                                 店主「嶋本静子」さんの新聞記事
 
レジの横に嶋本さんの仕事を紹介した記事が置かれています。
「空蝉を陶酔させ、藤壺を悩ませた光源氏の香りとは・・・・・何だったんでしょうか?
貴方も嗅いで見たくありませんか!」 大変興味深い書き出しです。
私は「光源氏はどんな香りを袖に潜めていたんですか?」聞いてしまいます。
嶋本さんのお話は概略次のようなものでした。
 
「練香(ねりこう)」は奈良時代に鑑真和上によって伝えられたといわれます。
さまざまな天然香料を調合して、蜂蜜や梅肉で練り上げたものを丸薬状に丸め、熟成させてから焚きました。
平安貴族はこの練り香を一段発達させます。
それは心と体の健康維持法であり・・・、雅さの競い合いでもあったのでした。
光源氏はそんな雅な文化の象徴ですから・・・・、屹度美女・インテリを陶酔させる香りに包まれていたと思います。
私は鑑真和上の作り方に忠実に作っています。
小さな江戸千代紙を貼った小箱が用意されています。
小箱に練り香の珠(まるで無患子の種のように真っ黒な団子です)を二つ入れて貰いました。(700円)
 
私の選んだのは・・・・・、エゴの花の香りがしました。
お線香の香りに似ています・・・、それでいて少し艶めいた香りです。
「これは…、エゴの花の香りですね。
もうじき・・・、お隣の浄智寺さんで…、白雲木の花が咲きますが・・・、楽しみですね。」
       (白雲木はエゴノキの仲間です)
嶋本さんににっこり笑って貰えました。
 
イメージ 3
      この小屋が練り香を作る作業場、手前のテーブルでハーブティーを戴けます。
イメージ 4
                    自生している草はどれもこれもハーブと呼んで良さそうな香草です。
 
 
お庭のハーブについてお聞きしました。
「私はハーブを売る事を仕事にしているのではなくて・・・、
ハーブを一緒に育てて、ハーブ使った品物を手創りすることを仕事にしています。
ですから、「手作り教室や講座」を営んでいます。
このお店の名も「香りお仕事」としたのはそんな手作りを提案しているからです。
 
ハーブは古代から香る事が人間にとって役立つことだとして・・・育てられてきました。
ハーブを嗅げば”気持ちをリラックスさせリフレッシュさせ・・・”  心身ともに元気にさせてくれます。
 
この狭い庭にハーブを自生させてきています。
見ての通り様々なハーブが、外来のものも日本のものも共存共栄しています。
この半日蔭地にあったものが自生しているんですね。
好みにあったものがあれば差し上げますよ。(200円)
 
イメージ 2
           練り香の作り方を案内した記事。下に写っている小箱に入れて練り香の珠を商ってもらえます。
 
ハーブの練り香も良いのですが・・・・、日本人とって最高の香りは青畳のそれでしょう。
あの匂いは井草の香りで・・・・、心身ともにリフレッシュさせてくれます。
 
もう、4年くらい前の事でした。
鎌倉光明寺の本堂の畳替えがありました。
私の生家の本堂でしたら精々20畳ですから・・・・・、一気に済ませられます。
100畳を超す大広間ですから・・・・、数日を要しました。
二人の職人さんが本堂の裏を作業場にして・・・・、畳を持ち出しては表を張り替えていました。
お坊さんに先立って・・・、青畳の香りをエンジョイさせてもらいました。
これから暫くの間・・・、香りも楽しみな季節です。
 
イメージ 8
                         早速、光源氏の香りを我が家の玄関に置きました。(5角形の小箱)
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images