昨日は奈良町に良さを「庚申堂」を素材に案内しました。
今日はもう一つ、奈良町に伝わる地蔵信仰を案内いたします。
奈良時代、奈良町のある辺りは「元興寺」の伽藍でありました。
北から東大寺、興福寺、そして元興寺が並んでいたわけです。
元興寺は明日香の法興寺(飛鳥大仏)が平城京に移ったもので・・・・、
南都七大寺の一つに数えられる大寺院であった訳でした。
ところが、中世になると廃れてしまいます。
興福寺や東大寺に再建の熱気があった時代、元興寺は荒れ果てて、
大伽藍は虫喰いになり、大半の堂塔は朽ち果て、極楽坊や観音堂を残すだけの状態になります。
とりわけ、室町時代活発になった「大和土一揆」で元興寺は炎上してしまいます。
元興寺の伽藍の中で残された極楽坊。境内で夥しい地蔵石仏が祀られ地蔵盆が行われます。
荒れ果てた元興寺跡地でしたが・・・・、、初瀬街道、伊勢街道に面していました。
跡地に市が立ち、商人が住み着き、賑わいが生じます。
そんな人達の心の支えになったのが、地蔵信仰でした。
中世以降、元興寺跡で勃発した地蔵信仰は全国に伝播し、
数ある仏の中で日本人に最も身近で親しみのある仏様になったのでした。
元興寺の境内には数えきれない数の地蔵石仏が並んでいますし、
今でも地蔵盆(8月23日前後)には沢山の善男善女が集まって、お地蔵様は万灯篭の炎に揺れます。
もう、900年余り、お地蔵様に祈ってきた・・・・、長い歴史の重みを伝える地蔵盆会です。
奈良町の辻辻にはお地蔵様が祀られています。
奈良町の北は猿沢の池で、池を見下ろす位置に南円堂(上段・重文)があります。
その石段の下は地蔵石仏が祀られています。
奥が興福寺三重塔(国宝)、手前地蔵石仏群。
数ある仏の中で最も人間に近い姿をしているのは・・・、間違いなくお地蔵様です。
日本人がお地蔵様を信仰したのは・・・、間違いなく自分に似た、お父さんに似た姿をした仏様だったからでしょう。
如来は異形です。
貴族的な衣装をまとった菩薩に比べて・・・、お地蔵様の頭は丸坊主(比丘形)です。
袈裟だけを身を包んでおいでです。宝珠と錫杖だけを持っておいでです。
その姿は衆生の声(祈り)を聞きつけて、取るもの取りあえず早速に遣ってきた・・・、そんな姿です。
そんなお地蔵様は身近な僧侶を思わせる姿でもありました。
伝香寺辻の地蔵石仏。桜が散っていました。
伝香寺本堂(重文)、左に大きな地蔵石仏があります。 その左の宝物館に裸地蔵尊が祀られています。
奈良町に接して伝香寺があります。
この寺には裸形で袈裟を着た地蔵菩薩立像があります。
通称「裸地蔵」として呼ばれ、着せ替え人形のようで・・・・、愛されるお地蔵さんです。
地蔵盆(新暦7月23日)では着せ替え法要が行われます。
鎌倉時代に裸形の仏は流行しました。
仏典に記された仏様は人間の姿に程遠い姿でした。
これを、人間に近い姿に戻したい・・・、
そんな気運の中から裸形で仏を刻んで、袈裟を着せる・・・、そんな着想でした。
江の島や鎌倉八幡宮の弁天様もそんな裸形着装の仏様です。
裸形地蔵像の体内からは願文が発見され、仏師は善派の中心人物「善円」で、1228年の造仏であること、初願したのは比丘尼の妙法、唯円であったことが判明しています。(重要文化財)
伝香寺の裸地蔵尊。7月23日の地蔵盆で、着せ替え法要が営まれます。
伝香寺は鑑真和上の弟子思託律師によって始まったと伝えられています。
伝香寺には天正13年(1585)大和郡山城城主であった筒井順慶の墓があります。
筒井順慶が亡くなるとその母「芳秀宗英尼」が再建したと伝えられています。
お墓の周りも本堂の周囲も椿が植えられています。
伝香寺の「散り椿」として有名です。
順慶は明智光秀旗揚げに際して「洞ヶ峠」を決め込んだことから・・・・、人気はありません・・・、
秀吉に疎まれ・・・・、
若くして病死してしまいます。
一枚一枚花弁を落としてゆくさまが・・・・、順慶を思わせるのでしょうか?
伝香寺は「散り椿」でも有名です。
元興寺には一体何体のお地蔵様が祀られているか?
数え切れない数です。
伝香寺にも優れた地蔵石仏が祀られています。
そして、奈良町の辻辻にも、
興福寺との境になる猿沢の池近辺にも・・・・、夥しい地蔵石仏が祀られています。
昔も今も、お地蔵さんにお祈りする日本人が続いている・・・・、
見ると安堵します。