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危機を脱した雨蛙

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梅雨の晴れ間を鎌倉の広町緑地に出かけました。
多分、蛍が出ているだろうから・・・・、その様子を確認しよう・・・・、そんな目的でした。
 
昭和47年、鎌倉の西、七里ヶ浜を見下ろす尾根一帯に開発計画が上がりました。
南側は西武の七里ヶ浜、西は片瀬山、北は鎌倉山・・・・・、周囲は開発が進んでいました。
”鎌倉の緑を残そう” 市民が立ち上がります。
平成8年、鎌倉市は一帯を48haを「都市林」として保存する方針をだし、
平成15年「国庫補助事業」として決定します。
 
民間人が小さな土地を多数買って、開発を阻止する・・・・、そんな手法ではなく
都市林公園として一帯を保存整備しようとするものでした。
既に38haの買収を終えています。
「都市林公園」とは聞きなれませんが・・・・、広町緑地に行けば解ります。
市民の近くに森林を遺して・・・・、その自然の中を散策して・・・、豊かな自然に触れましょう・・・、
そんな計画です。東京では砧緑地なども都市林公園でしょう。
 
ウィーン郊外にある「ウィーンの森」はその代表でしょう。
沢山の人が森の中を散策する姿が見られます。
鹿肉を食べさせるレストランも森の中にあります。
今は整備途上ですが、いずれウィーンの森のように快適な都市林になる事でしょう。
 
 
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            広町緑地の案内図(NPO鎌倉広町の森市民協議会のHPから転載)
 
広町緑地の入口は「御所ヶ谷」です。
天皇が来られたのかな? 謂くありそうな名前です。
御所ヶ谷の正面には小山があって、竹ヶ谷城跡と案内されています。
中世(?)には砦のようなお城があったのでしょう。
広町緑地の南側は旧東海道・・・・、日本武尊が東征に通った道です。
若しかしたら・・・・・・、此処に日本武尊が逗留したのかも知れません。
 
谷戸の土手にはもう山百合が咲いています。
此処は南斜面がが多いので山百合も早くに咲き出すのでしょう。
他の雑草に負けまいと一生懸命背伸びして、その先に数輪の大輪の花を咲かせています。
芳香が辺り一帯に漂っています。
もうじき、半夏生も白くなることでしょう。
 
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                                       広町緑地には山百合が咲き始めました。
 
 
長い間休耕田であった棚田も改めて耕されて・・・・、田植えを終えています。
如何にも市民が手植えした・・・・、下手な植え方です。
私の母が植えたような・・・・、
真っ直ぐに田植えするのは・・・・、相当の技量が必要です。
でも、疎らで曲がりくねった田植えも…、心がこもっていて良いもんです。
燕が田の上を低空で飛んでいます。
二度目の巣作りをするつもりなんでしょうか?
土を咥えて、飛んで去ります。
 
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   広町緑地では・・・、長い間休耕田であった棚田も耕されて・・・、
   この辺りに源氏ボタルが舞っている筈です。
 
 
 
畔で奇妙な鳴き声が聞こえます。
”クエッ・クエッ・・・”二度鳴きすると・・・、10秒ほど鳴き止みます。
暫くたつと・・・、また”クエッ・クエッ” 鳴きます。
私は・・・・、水鳥のクイナが隠れているのかな? 目を凝らしました。
どうも・・・・、鳴き声は土の中から聞こえてくるようです。
土の中にはオケラが棲んでいるんですが・・・・、鳴き声が全く違います。
鼠かモグラか?
そっと、鳴き声のする辺りに近寄ってみました。
 
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田の畔で、雨蛙が山かがしに噛まれて、苦闘中でした。その蠢き声が響いていました。
 
驚いたことに、鳴き声は雨蛙でした。
足を山かがし(蛇)に咥えられています。
山かがしは雨蛙を呑み込もうと、鎌首に力を込めています。
吞まれてたまるか! 雨蛙は前足で草を掴んで・・・、離すまいと必死です。
 
雨蛙の背は綺麗な鶯色です。
お腹は真っ白です。
白いお腹が膨らんで・・・・・、萎むときに”クエッ・クエッ”と鳴くのです。
”助けてくれ・・・!” とも聞こえますし・・・・・、”お前なんかに吞まれてたまるか!”とも聞こえます。
 
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雨蛙が鳴くと・・・・、雨が降ると言いました。
だから…雨を呼ぶ蛙が雨蛙で・・・・・、田植えには欠かせない蛙さんです。
でも、雨を呼ぶ鳴き声は軽快で・・・・、「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」と賑やかです。
夜の田圃で最も鳴いているのは・・・、この小さな雨蛙です。
「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」は雄が雌に、
”僕は此処に居るよ・・・・!” 呼ぶ声です。
でも、流石に断末魔の雨蛙・・・・・、鳴き声は普段と大違いです。
 
山かがしは・・・、これも未だ小さいものです。
多分昨年の夏に出生し、未だゼロ歳児でしょう。
一寸大きなミミズのサイズです。
でも、小さいからでしょう、赤や黄色の鮮やかで無気味な警戒色です。
こんな大きさではアオサギやノスリに見つかったら・・・・、そく捕食されてしまうでしょう。
カラスだって、カケスだって・・・・、好物にするものでしょう。
だから・・・・、目立ちやすい畔から早く安全な叢の中に引きこんでしまおう・・・、
必死です。
 
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    山かがしは自分自身が安全な叢に身を隠してじっくり呑み込もうとしますが、
    雨蛙は草にしがみ付いて・・・・、必死です。蛇は太さも1㎝足らず長さも30㎝足らずの幼生です。
 
一見すれば、雨蛙の幅は山かがしの3倍以上あります。
如何に山かがしの顎が取り外し自由でも、3倍以上横幅のある雨蛙を呑み込むのは無理というものです。
山かがしの身の丈に合った・・・、足が生えたばかりのオタマジャクシが頃合いの獲物でしょう。
そんなオタマジャクシなら田圃の中に沢山いそうです。
でも、山かがしの本性は・・・、小さなオタマジャクシではなく、成長した雨蛙を選ばせたのでしょう。
 
誰でも、雨蛙は好きで、山かがしは嫌いです。
若いころの私なら・・・・、雨蛙を救出してあげたことでしょう。
でも、今回はじっと見守るだけにしました。
雨蛙も山かがしも必死に・・・、命を懸けて奮戦しているんですから・・・・、
私が空からゴッドの手を差し伸べるのは・・・、遺憾でしょう。
 
既に、山かがしは私の存在に気付いて・・・・、急いで草叢に身を隠そうと焦っているようです。
鎌首を10㎝ほど上げて、雨蛙を空中に持ち上げます。
そのまま、草叢に隠れようとしますが・・・・、雨蛙は握った草を離しません。
お蔭で・・・・・・、山かがしの意に反して・・・・、二匹は畔で格闘し続けています。
 
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    絶体絶命の雨蛙ですが・・・、逃れたい本性は草を離しません。
 
 
”このままでは・・・・、自分自身が危ない・・・・!”
山かがしは危険を察知したのでしょう。
空中から見詰める私の視線がノスリの眼のように見えたのかも知れません。
”ペッ” 雨蛙を離しました。
そして、慌てて草叢の中に隠れてしまいました。
山かがしは獰猛なようですが、実は臆病な蛇なのです。
人間や猫に遭遇すると、さっさと逃げてしまいます。
青大将のように向かってくることは滅多にありません。
 
危機を脱した雨蛙は、足の筋肉の奥深く蛇の刃が突き刺していた・・・その傷も深いのでしょう・・・、
特に血が出ているわけではありませんでしたが・・・・、
暫く足を伸ばしたままで、だらんとしていました。
充分休んでおもむろに・・・・、好きな田圃の中に向けて動き出しました。
 
まあ、これで良かったのでしょう・・・・。
都市林では生物の営みが観察できる・・・・、それが一番の魅力です。
 
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             窮地を脱した雨蛙、しばらく休息してから田圃の中に消えて行きました。
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【追記】
このブログを書き上げた時、NHKラジオ「スッピン」で蛇の目傘を話題にしていました。蛇の目傘は死語か?という事です。コメンテーターの高橋源一郎氏もアンカーの藤井アナも蛇の目とは和傘の事だ、と説明していました。
写真中の蛇の眼が丸い事から・・・・、傘に同心円状の絵柄を描いたものが・・・、蛇の目の傘の事であります。
偶々、和傘の絵柄に蛇の目が多かったことから、和傘と同義語のように扱われていますが、正確ではありません。屹度クレームが出て訂正されることでしょう。
気持ち悪い蛇ですが眼はまん丸で可愛いもんです。 
 
 
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如意輪観音と紫陽花の花

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ブログを始めて今日で2000回になりました。
私自身、長く続けたもんだ! 驚きです。
でも、書きたいことは尽きません。
自然や文化遺産は・・・・、様々な表情を見せてくれますから、それを書き綴れば・・・・、当面止める気になりません。
毎朝、今日は何を書こうか? 
思うと、書きたい話が幾つか脳裏に浮かびます。
 
此処数日の長雨で紫陽花は生き生きとして、大輪の花を咲かせています。
我が家の紫陽花も生き返ったようで、仲良しのデンデンムシを集めています。
植物も虫も、梅雨時には雨が欲しいのでしょう。
 
もう一つ、梅雨時こそ美しいものに石仏があります。
関東の石仏は安山岩が多いので、雨に濡れると黒く光ります。
雨に濡れてこそ、美しく輝くのです。
とりわけ、紫陽花に囲まれた石仏は・・・・、嬉しそうで、美しさも輝きます。
美女を撮影するときレフ板を使って柔らかい光を集めます、
紫陽花はレフ板みたいなもんだな・・・・、思います。
 
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   我が家の門に咲いた紫陽花。デンデンムシが集まってきます。この葉っぱが美味しいのでしょうか?  
 
堀辰雄の樹下に次の一節があります。(信濃路大和路)
「右手を頬に当てて、頭をかしげている姿がちょっと面白い。一種の思惟像とでもいう様式だろうか、そんな難しい言葉でその姿を言い表すのは少しおかしい。
もう少し、何といったらいいのか、無心な姿だ。それを拝しながら過ぎ去る村人だって、彼らの日常生活の中でどうかしてそんな姿勢をしていたこともあるかも知れない。親しいなにげなさなのだ・・・。」
 
この石仏は信濃追分の泉洞寺の境内にある、同氏の文章で有名な如意輪観音だ。
でも、堀辰夫が樹下とした、大きな欅の大木は切り倒されて今は無い。
戦後、貧したお寺が売ってしまったのだそうだ。
お蔭で、陽がさして、苔は落剝してしまい・・・・、
今の如意輪観音であれば文学者の創意を刺激しなかったかもしれません。
 
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                   堀辰雄が紹介した信濃追分泉洞寺の如意輪観音。堀辰雄は右手で頬杖を
                   と書いていますが、実際は写真のように左手です。こんな間違いも愛嬌でしょう。
 
如意輪観音に惹かれた堀辰雄は大和に行っても石仏を探します。
でも、同じように優しく惹きつけてくれる石仏は見出せませんでした。
 
「数年前信濃の山の辺の村で見つけたあんなような味わいのあるものは一つも見いだせなかった。私は時々あの笹むらの中で小さな頭を傾けていた観音像を好んで思い出していた。」
信濃や相模は如意輪観音が多いのですが、大和は滅多に見ません。
大和の石質は如意輪観音の優しさには不向きな面もあります。
石仏にも地方地方で好みがあるのでしょう。
 
私は紫陽花の花に囲まれた如意輪観音を探して、鎌倉から葉山を巡ります。
如意輪観音の思惟する姿は、お釈迦様が菩薩であられた時代に・・・・、
どうやって人を導こうか・・・・、思い悩んでいたお姿であると言われます。
もう、位は如来の域に達せられたお釈迦様ですが、あえて菩薩の位に留まられて、
煩悩に焼かれる人間を・・・救う為には・・・、どのようにして仏陀への道を教え弘めるか、
思惟する姿が・・・・、半跏思惟の不思議な姿で居られた・・・・、そう伝えられています。
 
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                                        葉山新善光寺の如意輪観音像
 
 
私達が見る過半の如意輪観音像は江戸時代に作られた、墓標仏です。
成人の女性が亡くなると・・・、その墓標に好んで如意輪観音をたてました。
屹度、美しく優しかった故人の面影を留める姿が・・・・、如意輪観音だったのでしょう。
その人に花を奉げます。
紫陽花の花を奉げたい・・・、思ったのでしょう。
何故なら・・・・、江戸時代の死亡率は梅雨の季節が高かったからです。
伝染病が多く、特に食中毒で死ぬ人が多かった時代です。
その時の悲しみや愁いを留める花は・・・・、紫陽花なんでしょう。
加えて、墓地に紫陽花を植えておけば、雑草が繁茂しない・・・、そんな実利もあります。
 
シーボルトもお滝さんの面影を紫陽花に見つけて、オランダに持ち帰りました。
名は「お滝」としました。
 
紫陽花は石仏を、とりわけ如意輪観音を引き立てる花です。
梅雨が明ければ・・・・、酷暑の季節を迎えます。
それまで、しばらくの間は紫陽花と如意輪観音のセットを観に、あっちこっちにお出かけです。
 
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                                            新善光寺の観音像
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                              極楽寺門前の古道具屋さんのまえの如意輪観音。
 
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    鎌倉鎖大師の如意輪観音。典型的な墓標仏で舟形光背の左右に戒名と没年が刻まれています。
 
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                       長谷観音の聖観音は名物の紫陽花に顔も隠れています。
 
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                                  此方は三浦の妙音寺、七福神前の紫陽花
 
 
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     鎌倉光照寺の如意輪観音。苔と雨が美しさを引き立てています。 
     梅雨は石仏が一番美しい季節です。
 
 
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庭の主『蟇蛙』君、土に還る

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6月の第三土曜日(今年は6月15日)は町内の一斉清掃です。
梅雨の合間ですが・・・・、思いのほか天気に恵まれます。
今年も、この日だけは青空が覘きました。
 
土曜日ですから、これからお出かけの家族も多い事でしょう・・・・、
朝8時半スタート、約1時間で終了します。
家内は一斉清掃開始前に家の前の道路を掃こうと出かけました。
そして、悲しげにして戻ってきました。
「庭の蛙さんが轢かれて、道路で死んでいる・・・・」
私は、慌てて道路に出てみました。
 
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                                            我が町の一斉清掃風景
 
蟇蛙に遭ったのはもう10年以上も前の事でした。
庭で草むしりをしていた家内の悲鳴が響きました。
私はてっきり青大将が出現して、家内が驚愕したもんだろう・・・、庭に出てみました。
植え込みの陰、菊鉢の裏に大きな蟇蛙が”ドデン”居座っていました。
私は笑いをこらえて説明します。
「これがガマガエルだよ、シロクの蝦蟇・・・、と呼ばれる・・・・・。
蛙は旅から無事帰る・・・・、お金が財布に返る・・・、というので世界中で縁起物なんだよ。
ガマガエルの大物が庭に棲んでいるなんて・・・、素敵じゃないか!」
 
家内も同意したようで・・・・、庭にガマ君が棲むことを認めてくれました。
 
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                                      我が庭の主、ガマ君の雄姿です。
 
ガマガエルは概して夜行性で・・・・、夜にノソノソ庭を歩き回って、虫やミミズを好んで捕食しています。
朝方に、戻って来るガマ君に遭遇する事も度々ありました。
我が家の犬君もガマ君には一目置いていて・・・・、庭を横断するガマ君に吠えもせず・・・・、
遠巻きして見詰めていました。
ガマ君は朝帰りをしながら…、実に威風堂々としています。
私が朝帰りする場合には・・・・、そんな風には行きません。
 
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       犬小屋の前を通って、ご帰還するガマ君。前の写真と色が違うのは保護色で変化するから。
       粋な縦縞模様は変わりません。
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       ご帰還したガマ君(満天星の木と煉瓦の間)を敬礼して見送る我が家のワンちゃん。
 
ガマ合戦から帰還するときは、壮絶です。
指が折れたり、体中に浮腫みや傷を負って・・・、今にもバッタリしそうな貧相な格好で帰ってきます。
私は何度かそんなガマ君を植木鉢の陰に休ませました。
目の前には好物のミミズを置いて・・・・、
ぐったりしたガマ君は直ぐにはミミズを口にしませんでしたが・・・・、
二日もすればミミズも無くなって・・・・、ガマ君も消えています。
屹度、ミミズを食べて・・・・、また夜になるとお出かけしているのでした。
毎年、ガマ合戦から無事帰還したか・・・・、心配していました。
何しろ、相当の老兵なんですから・・・・。
 
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昨晩も出回ったのでしょう。
道路と言ってもお寺の参道で、お寺に用のある車しか通りません。
夜にお寺に登る車などありませんから・・・・、早朝に車が通ったのでしょう。
轢かれて・・・・、出血して・・・・、地面には2箇所大きな血の塊が黒々しています。
我が庭に帰還しようとして・・・・、轢かれてしまったのが最初の出血地点、
そこで、しばらく止まっていて・・・・、やおらホームに戻ろうと1mも進んだ地点で息絶えたようです。
 
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      お寺の参道で轢死したガマ君。左の血痕痕が事故現場、そこから我が家の庭に
      1m這った所で息絶えたようです。
 
若しかしたら、また生き返るかも知れない。
私はガマ君の体を何時もの植木鉢の脇に横たえました。
数時間後見てみると・・・、もう蠅がたかってきています。
見つけた時より一層硬直・白蝋化してきています。
もう、生き返る期待は消えてしまいました。
 
長い間・・・・、一緒に生活してきたガマガエル君です。
犬やウサギ、鶉等のペットとは異なります。
ペット達は私の支配下ですが・・・・、ガマガエル君は私の同僚です。
同僚を事故で失った悲しみは深いものがあります。
もう、愛嬌のある・・・・、我慢が得意の・・・、あの顔を拝むことは出来ないのです。
地面に顔を寄せて・・・、ガマ君のデスマスクを覗き込みます。
中々に哲学的な顔をしています。
 
鳥獣戯画の昔から日本人はガマガエルと親しくしてきたんですから・・・・。
私のガマ君への愛着は1000年の歴史文化を引き継いでいるんです。
 
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               不運を嘆くことも無く、眼を閉じたガマ君のデスマスク。哲学的な顔つきです。
 
植木鉢の横に弥勒様を置いています。
大昔三越本店で求めた石仏です。
これが・・・・、ガマ君の墓標です。
ガマ君の屍は弥勒様の下で土に還ります。
魂は天に上ります。
南無阿弥陀仏。
 
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                                  弥勒様の下で、ガマ君は土に還ります。
 
昔からの諺があります。
『井の中の蛙、大海を知らず。されど空の高さを知る』
大海を知らずは当然です。
ガマ君は我が家の庭が生活圏だったのですから・・・・。
でも、空を見上げて・・・その高さを知っているんです。
私も・・・・、天空の彼方にあるものを知りたい・・・、思います。
 
 
 
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房総「紅花」のロマン

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6月16日(日)は強い雨でした。
神奈川は大雨注意報、千葉には大雨に加えて洪水注意報まで出ていました。
かねて家内と「千葉房総の長南町に紅花を見に行こう!」約束していました。
でも、この雨では・・・・、躊躇しましたが、矢張り出かけました。
 
木更津から房総横断道を30キロ余り走ると、田圃の中に古風な大堂が聳えて見えてきます。
お堂の大棟の上には・・・・、菊と桐のご紋章が金色に輝いています。
このお寺が長福寿寺です。
平安京に遷都した桓武天皇の勅願寺です。
1200年余りの悠久の時を経て・・・・、歴史ロマンを伝える古刹です。
 
私達夫婦はこのお寺に度々詣でます。
春秋の彼岸、夏のお盆・・・・・・・、両親の墓がその先の白子町にありますので・・・・・、
墓参の序にこの寺に上るのです。
 
このお寺が「紅花栽培」に努力しているのは良く承知していました。
でも、肝心の紅花が咲く風景は観たことがありませんでした。
「今年こそ、長福寿寺の紅花を見よう・・・・!」
話していたのでした。
ネットで調べれば「紅花フェシティバル」は6月23日(日)で、
長南町のお嬢さんが紅花娘に装って・・・・、もう一つの花を添えるそうです。
紅花餅つき大会もあるそうです・・・・。
でも、23日には所要があって出かけられません。
そんな次第で、雨対策をして早朝に出発しました。
 
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                              堂々とした長福寿寺の本堂、手間の畑一面に紅花が咲きます。
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    これが昨年の紅花娘さんです。 飾らない、素顔の可愛い長南町のお嬢さんが紅花染の着物で・・・・、
    紅花と一緒にご本尊阿弥陀如来に花を添えます。(長寿寺本堂に掲示されていました)
 
延喜式(927年版)には長南町から紅花が献上された・・・、記録されています。
菅原道真の子「菅原滋殖/すがわらしげいく」は房総半島に国司として着任します。
そして、この地に住み着き自ら「長南次郎」と名乗ります。
 
当時から都人の間で珍重されていたのが「紅花餅/貴婦人のお化粧の紅」でした。
菅原滋殖は紅花の種(苗)を持参して、この地で育成させまさいた。
そして紅を税として献上させたのでした。
 
長南氏は千葉の有力者千葉氏と外戚関係を結び発展してゆきます。
しかし、中世になると足利成氏(しげうじ)に攻め込まれ、占領されてしまいます。(1456年)
長南一族の主流は居残り里見氏に仕えますが・・・・、多くの一族は福島や山形に移り住みます。
紅花の種を持って行き、各地で紅花栽培をいたします。
 
江戸時代以降は、紅花と言えば山形の特産品ですが・・・・、
そのルーツは房総の長南町と言われています。(長南町研究者、中村就一氏の主張)
 
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       大雨の長福寿寺本堂。本堂前に二頭の象さん(吉ゾウ君とユメちゃん)が迎えてくれます。
       本堂の大棟に輝いているのは菊と桐は勅願寺であったことを示しています。
 
例年、10万株の紅花を咲かせて、長福寿寺を飾っています。
今年はもう一工夫して、畑に段差をつけて三段にしました。
奥を高く、手前を低くして・・・・、一目して奥行をつけて見渡せるようにしました。
また、奥から次第に咲き出し・・・・、最後の手前が咲くようにしました。
紅花は咲き始めはオレンジ色で、次第に紅が強くなるのだそうです、
咲かせる時期をずらせて・・・、紅花のグラデーションを見せたい・・・、そんな思惑です。
これも、紅花に対する愛着の表われでしょう。
少しでも紅花を綺麗に見せたい、紅花を知ってもらいたい・・・・、お寺さんの尊い、有難い工夫です。
 
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   今年は紅花畑を奥が高く、手前は低く三段にしたので、よく見渡せます。
   咲き始めはオレンジ、散り際は紅になります。加えて雨が降ると色が濃くなるようです。
 
此処の紅花は鋭い棘が花を覆っています。
街の花屋さんで売っている紅花には棘がありません。
勿論、棘が無い方が扱いやすいし・・・、花を生けようとする乙女(?)の指先を痛める事もありません。
でも、お寺さんは育種改良された「棘なし紅花」ではなく、棘一杯の紅花を選択しました。
苗は奈良の万葉植物園から・・・・、伝統の種を戴き、育成してきたのだそうです。
1200年のロマンを伝えるには・・・・、棘一杯の、薊(あざみ)のような紅花でなくてはいけません。
 
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鋭い棘が花を覆っています。棘で指を傷めないよう、朝露で湿っているうちに花摘みをします。
 
天気予報通りの強い雨が降っていて・・・・、
参拝客も殆どいません。
昨日NHKラジオでニュースにもなったのに・・・・、お寺さんは肩透かしを食ったような感じでしょう。
でも、花は概して雨や朝露に濡れたほうが綺麗になります。
とりわけ、紅花は雨に濡れると・・・・、赤い色素が滲んで出てきます。
総じてオレンジ色の花ですが・・・・、散り始めの花は濡れると紅色が勝ってきています。
 
紅花摘みは朝早くするそうです。
乙女が花摘みをするとき・・・・、棘で指を痛めないようにするには・・・、
朝露に濡れている時の方がいいからです。
綺麗な紅色を出すには花に含まれる黄色色素(サフロール)を取り除き、
い色素(カルタミン)を抽出しなければなりません。
サフロールは水に溶け易く、カルタミンは水に溶けない特徴を使って・・・・紅を抽出するのです。
朝採りした紅花を水に浸けて黄色色素を流してしまいます。
紅が増した花摘団子を乾かして・・・、また水に晒します。
これを何度も繰り返す事によって・・・・、紅花餅になります。
紅花餅を猪口(陶器製)に盛って紅として、貴婦人の化粧道具になるわけです。
 
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                                 紅花には強い雨がしきりなしに降り注いでいました。
 
長福寺のご住職は二代かけて紅花復活に尽力して来られました。(現住職/今井長新師)
親子二代の情熱、紅花ロマンが雨の中で咲いています。
 
紅花畑は幾筋もの畝で育成されています。
各畝には育てたボランティアさんの写真と名前を貼った小さな看板が付いています。
10万株の紅花・・・・・、百万の花には・・・・・、沢山のボランティアの情熱やロマンが籠っています。
花が美しい・・・強く感じるのは、紅花ロマンが籠っているからでしょう。
1200年余り伝わってきたロマンは・・・・、色褪せることはありません。
 
こんなお寺さんの試み、素晴らしいと思います。
自然と歴史文化の調和に、喝采を送りたいと思います。
 
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        境内のスモークツリー、咲き始めは赤いのですが次第に白くなるそうです。向こうの花が紅花です。
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             お寺の周囲は田圃です。大雨を喜んで(?)境内には沢山のオケラ君が出て来ていました。
 
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    お土産は紅花の花束(400円)、この花束は棘がありません。(前掲写真と見比べてください)
    矢張り紅花は棘が無いと・・・・、つまらないものです。
    女性だって、美しい、優しい・・・・だけでなく・・・、
    時には棘を出す・・・、そんな方が魅力があるもんです?
 
 
 
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素晴らしい東総の「馬乗り馬頭観音」

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6月16日(日)、午後になると雨も弱くなってきました。
木更津の市街に戻って、お寿司を戴き、かねから気になっていた「馬乗り馬頭観音」を巡りました。
千葉県の東総地方にだけ特異の馬頭観音像が祀られているのです。
木曾にも同じような馬頭観音を見た事がありますが、このあたりだけに密集して祀られているのです。
 
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     これが儀軌に従った一般的な馬頭観音。三面八臂の憤怒相で、人間の欲望や邪悪な心を
     食い尽くす・・・と考えられました。馬が地面に根差した草を根こそぎ食い尽くす姿を見て、
     煩悩を消し去ってくれると期待したものと思います。(撮影:藤沢鎌倉古道近く新興住宅地)
 
木更津の鎌足には坂東30番「高蔵寺/高倉観音」があります。
巡礼の旅人は木更津に船に乗って、街道(現在の国道16号線)を歩いてきました。
高倉観音の道標に導かれて・・・・・、山中のお寺に向かいます。
その道標が馬頭観音でした。
家内が助手席に座って、”もう少し先よ” ”このあたりじゃない?”
リードしてくれます。
石仏はカーナビに載っていませんし・・・・・、雨の日の石仏巡りは難渋します。
でも、見つけた時の喜びはひとしおです。
加えて、濡れた石仏は一番綺麗ですし、写真に写した時も石の質感が良く出るんです。
 
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    木更津の矢那ダムの畔にある馬乗り馬頭観音像。馬頭観音は一般に三面八臂で描かれますが、
    この像は一面です。少し彫が浅いので一面しか刻まれなかったのです。
    でも、馬頭印を結んだ憤怒相をした観音は迫力あります。
    榎の樹下で滴が伝って・・・・、良い味が出ていました。寛政6年(1794)作。
 
 
全寮制の暁星国際学園の近くで、高校生三人組に訊きました。
高校生は良く承知していて・・・・・、”この道筋、ダムを背にしてありますよ” 教えてくれました。
形の良い榎の樹下に馬乗り馬頭観音は立っていました。
脇には「鎌足を考える会」の作った案内板が建っています。
道標を兼ねた馬頭観音ですが・・・・、基台にはお墓と同じような細工(線香たて、花入れ)がしてあります。
馬の供養塔を兼ねていたものでしょう。
 
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JR久留米線東清川駅の北に小櫃川が流れています。
椿橋を渡って、川の右岸、堤の上に馬頭観音が祀られています。
雨も上がってきました、でも道はぬかるんでいます。
 
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    小櫃川の堰堤で水面を見詰めている馬乗り馬頭観音像。右に中郷文化財保存会の作成した
    案内板が建っています。案内板には馬の供養塔であること、一帯で最大の馬頭観音であること
    を示しています。田の中にある小島はお墓です。
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        寛政8年(1796)の作、三面八臂の本来の形で刻まれています。正面のお顔だけに
        白い苔が生えています。凹凸に応じて苔の生える種類が異なっています。
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   眺めていると、雨蛙が上ってきました。馬頭観音は”何のようだ!” 言っているようです。
   冷えた体を石の温もりで温めに来たのかと思っていましたが・・・・、石に集まる小虫が目的のようです。
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      馬の鐙の陰に集まった虫たち。足長蜂は濡れた巣を修理しています。
      ダンゴ虫やヤスデが集まっています。雨蛙はこれを捕食しようとしているようです。
 
案内板には馬の供養塔である、されていますが・・・・、もう少し説明します。
農耕に肥料や穀物の運搬具として活躍した馬も寿命がきました。
農家は悲しみながらも弔います。
小櫃川の畔、馬頭観音の前に骸を運びます。
馬頭観音が農村の共同供養塔でありましたから・・・・。
運ばれた馬の魂いは天空に上ります。
残された骸は・・・・・・、専門の人によって解体されます。
皮など有用な部位は利用されます。
無用な部位や血は川に流されました。
 
私達は更に北に上って、有吉地区で馬頭観音探しをしました。
やみくもに探しのではありません。
先人の加来利一氏の調査結果をコピーして、探します。(http://kaku-net.jp/indeuma.html)
その写真を持って・・・・、この辺りにある筈だ・・・・、道端を探して走ります。
道行く人に
「こんな馬頭観音なんですが・・・、この辺りなんです、知りませんか?」
尋ねまわりました。
 
そんな中で加来氏も見つけていなかった新馬頭観音に遭う事が出来ました。
畑に出ていた木村さんに尋ねたところ・・・・、
”そんな馬頭観音なら私の屋敷内にあるよ・・・! 観ていきんしゃい!”
そんな次第で・・・・屋敷内に入らせていただきました。
家の西、屋敷森に竹藪と葉蘭の藪がありました。
その葉蘭をかき分けて・・・・、葉陰に隠れている馬頭観音を見せて戴きました。
立派な馬乗り馬頭観音で・・・、奉納されたのは忠兵衛門さんです。
木村さんのお父様で・・・・、明治の作ということになるそうです。
 
旧家には屋敷神様が祀られているもんです。
多くの場合お稲荷様やお弁天様になります。
私の生家は両方が祀ってありました。
木村家の場合、馬頭観音が屋敷守だったのでしょう。
という事は、まだまだこのあたりの旧家を見て回れば・・・・、
もっと多くの馬頭観音を見つける事が出来そうです。
 
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                     木村家の馬乗り馬頭観音像。古式に彫られていました。
 
もう一基馬乗り馬頭観音を紹介します。
有吉寺(この近くにも一基祀られていました)から農道を北に400m程行った処にありました。
「石の仏様なら平野さんと宮崎さんの生垣の境にあるよ・・・・」
畑で働いていたお婆様に教えられました。
そこで、写真におさめていた所・・・・、先刻自転車に乗っていた叔父さんがやってきて・・・、私達にこう言うんです。
これが馬頭観音というのか? 知らなかった。
でも、こんな話は聞いたことがある。
このあたりの家主が馬に乗ってこの辺りまでやってきたところ、突然に馬が暴れたんで落馬してしまった。
ところが打ち所が悪くてそのまま死んでしまった。
この場所の祟りを畏れて・・・…、観音を祀ったのだ・・・・と。
 
私は藤原実方を思い出しました。
実方が笠島道祖神の前を乗馬したままで通り過ぎようとしたところ、
道祖神の怒りに触れて馬が暴れて、
実方は馬の下敷きになって亡くなった・・・、というのです。(宮城県名取市)
良く似た話は各地にあるものです。
 
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    屋敷の垣の間に祀られている馬乗り馬頭観音像。天保6年(1835)作。
 
 
多くの仏様は蓮の花に乗っておいでです。
これを蓮華座と呼びます。
花祭りのお釈迦様は白象に乗っておいでです。
これを鳥獣座とよびます。
乗った動物が仏様の特長を如実に表しているものです。
文殊菩薩は獅子座にのっておいでです。
大威徳明王は牛に乗っておいでです。
鵞鳥(がちょう)に乗った梵天、
孔雀に乗った孔雀明王、
狐に乗った荼吉尼天
猪に乗った摩利支天・・・・・、
でも、馬に乗った仏様はありませんでした。
もっとも古くから人間の乗り物として活用されていた馬ですから・・・・、
仏様を乗せた馬があっても良さそうなものです。
 
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                                猪に乗った摩利支天像(鎌倉材木座の五所神社)
 
 
そんな素朴な疑問を抱いたのが・・・、この辺り東房総の人達だったのでしょう。
でも石仏で、馬座の観音像を掘り出すのは大変です。
削る石の量が多くなります。
だから・・・・、馬乗りの石仏は敬遠されたのでしょう。
でも、東房総では、馬に乗せた石仏を祀りたい・・・・、
馬に乗った仏なら・・・・、馬頭観音に決まってるじゃないか・・・・!
素直な感覚で馬乗り馬頭観音が一般化したのでしょう。
 
 
加来利一氏の調査を一覧すると馬乗り馬頭観音は49基に及びます。
最も古いのが元禄17年(1704)東国吉になります。
質量ともピークは18世紀後半、寛政年間のようで明治まで続きます。
石工の名前は今のところ全く解っていないようです。
でも、木更津の石屋さんやお寺を巡れば石工の名や人柄は未だ解ると思われます。
房総には波の伊八が出現しました。
欄間木彫職人は名を遺しましたが・・・・、
石工は地味で名を表しませんでした。
でも、几帳面で頑固な石工の事です、大福帳のような記録を残していたかもしれません。
 
今回も鎌足の会や中郷文化財保存会が案内板を出していました。
郷土愛のある人達が「馬乗り馬頭観音」の全容を発表してくれそうな・・・、期待を持っています。
 
之から・・・・、房総への墓参りの帰りに波乗り馬頭観音を探して、巡ることに致しましょう。
 
 
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桜桃忌と半夏生

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葉山の新善光寺の無縁の墓標を見ると、気付く事が二つあります。
その一つが、童子・童女のお墓が多い事です。
昔は、子供のうちに亡くなる事が多かったのでしょう。
もう一つは、季節が今頃から盛夏にかけて、半夏生に亡くなる事が多い事です。
 
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     葉山新善光寺の無縁仏墓標群。江戸時代の墓標は子供が多く、
     6月から8月にかけて亡くなった子が多い事が解ります。
 
 
半夏生(カタシロ草)が名の通りに半分化粧したように、白化してきました。
半夏生は農家にとって大事な節目で、この季節までに田植えの農作業を終えずばなりません。
それは、稲の生育を促す意味ですが、
もう一方ではヘビーな田植え作業を終えて、十分身体を休める意味もあったのでしょう。
半夏生の季節には天から毒の雨が降ると言われ、
井戸の蓋をしっかり閉めておくそうです。
生野菜を食べる事は避けて・・・・・、良く煮・焼した料理を口にします。
 
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       鎌倉山崎にある鎌倉中央公園に自生する半夏生、今年も見事に化粧しました。
 
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      半夏生は頂部の葉っぱが白化します。その白さ、怪しさが化粧を思わせます。
      花は白化した葉っぱの下にあります。塩辛トンボが休んでいました。
 
私は4月に生まれました。
その年の6月、同居していた叔母が亡くなりました。
その叔母の遺影が本堂の脇、位牌堂に長く置かれていました。
遺影の前で、祖母が私に言い聞かせました。
『美沙緒(故人の名)は生煮えのじゃが芋を食べて亡くなったんだよ。お前が産まれて直ぐに体調を崩したんで・・・・、奥の間で療養していたんだが・・・。お前は小部屋に移されていた。
美沙緒は”赤ちゃんは部屋の隅に置いてはいけないよ・・・・、鼠に食われるといけないから・・・・、大部屋に移しなさい・・・” 言っていたんだが・・・。お前は美沙緒の生まれかわりだからね・・・・。』
 
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     桜桃は店に出始めました。これは我が家のスモモです。今年は小さくても沢山実りました。
 
「半夏生の季節には妖怪が徘徊して・・・・・、妖怪に捕まると・・・、不幸なことになる。」
昔の人はそう確信していたのでした。
不幸なことに、そんな妖怪に憑りつかれたのが太宰治だったのではないでしょうか?
今日、6月19日は桜桃忌です。
1948年6月19日、玉川上水に入水自殺した太宰治とその愛人山崎富栄の遺体が発見されました。
6月19日は太宰治の誕生日でもありました。
 
ラジオ深夜便で林聖子さん(太宰治の隣人で親しく面倒を見ていただいた)が言われていました。
太宰治は2度も自殺未遂を図っているが、(そのいずれにも理由や事情は理解できる)
3度目はあり得ない。
太宰治は自殺するんじゃないか?
噂が立って、噂の火の元が自分だと判った時、聖子さんに向けて言われたそうだ。
「私は今は死ねないよ、この子ども(ダウン症)を遺しては逝けないよ・・・」
当時『斜陽』を発表し、作家活動も順調で、新聞連載を抱えていたのでした。
聖子さんは暗に、自殺は愛人の山崎富栄さんの懇請によるものだろう・・・、言われているようでした。
 
太宰治にしても、その家族にとっても妖怪「半夏生」に捕まった・・・、そんな事件だったのでしょう。
半夏生の季節は理性では抗しえない、狂気があるように感じます。
 
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                                片瀬の新林公園の半夏生。白くなり始めました。
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                                              半夏生に紅シジミ蝶が休んでいました。
 
東京帝大文学部の学生だった頃、太宰治は最初の自殺未遂を図っています。
人妻でカフェの女給をしていた田部シメ子と鎌倉の腰越の小動岬から入水します。
太宰治は救出されましたが、シメ子は亡くなります。
シメ子は太宰の作品に再三登場することになります。
 
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    帝大文学部の学生だった太宰治が自殺未遂した腰越小動岬。 遠くの白い灯台は江の島港。
 
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    手前が稲村ケ崎、七里ヶ浜を経て小動岬が見えます。 三崎の向かいは江の島になります。
    太宰治の最初の自殺行為は風光明媚なこの景色の中で行われました。
 
 
腰越の近くに半夏生の自生する湿地があります。
その一つが鎌倉山崎の「鎌倉中央公園」です。
その棚田跡に半夏生が自生しています。
此方は有名ですので、多くの人が訪れて、紹介されています。
もう一つが藤沢片瀬の「新林公園」の棚田跡です。
此方は公園の奥ですので、訪れる人も少なく紹介されることも滅多にありません。
新林の方が広いし、自然のままですから・・・、情緒もあります。
 
半夏生が白いのは・・・・、夜の蝶(蛾)を誘うからでしょう。
そんな生態自体が・・・・・、夜鷹を思わせて・・・・・・・、
行き着くところは妖怪のようです。
変な者に憑りつかれないように・・・…、夜見る事は避ける事にしましょう。
 
でも、男には心の片隅に妖怪に憑りつかれたい・・・、それも美しい妖怪なら、もっと良い・・・・、
そんな願望が隠れているのも事実でしょう。
 
TVで20代、30代の死亡率の半分は自殺である・・・・、報じています。
今日も、沢山の若い人が三鷹の禅林寺を詣でる事でしょう。
太宰治は彼らの憧れであり、自殺願望は心の片隅に何時も潜んでいるものでしょう。
それが、顕れるのは何時?
今でしょう! 半夏生の季節です。
 
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青い紫陽花、赤い紫陽花

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紫陽花の花も後半に入り、次第に色濃くなってきました。
紫陽花は女性に人気があるように思います。
水色が涙を連想させるからでしょうか?
それとも、花の色が変わるので・・・・・、移り気な女性の本性に共感するからでしょうか?
 
長谷寺や明月院の狭い境内に、連日1万人ものお客さんを集め、
その多くが若い女性であるんですから・・・・・・、少し妬いてしまいます。
 
 
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                      明月院の紫陽花、明月院ブルーと呼ばれる青い色が特長です。
 
紫陽花は虹のように七色に変化する・・・・、言われています。
何故、色が変わるのか? 多くの人が興味を持ちます。
その仕組みを調べると・・・・、ほとんどの人が
「紫陽花は酸性土壌ならブルーに、アルカリ性土壌なら紫になる・・・」説明しています。
 
明月院の姫紫陽花は、最初は白っぽく、次第にブルーが濃くなります。
そして、緑色に変わってきます。
紫陽花の花は実は萼(ガク/花弁を支える葉)ですから・・・・、次第に葉緑素が勝って来るのでしょう。
白・青・緑の狭い範囲の変化です。
 
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                            明月院の紫陽花は白・青・緑の狭い範囲で変化します。
 
一方、葉山の新善光寺の紫陽花は赤が勝っています。
白・赤・緑の間での変化です。
 
長谷寺の紫陽花は・・・・・・・、沢山の種類が植えられていますので・・・、
様々な色の紫陽花が楽しめます。
何れにしても、ひとつの紫陽花の花が七色に変化する・・・・、そんなことはありません。
 
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                                葉山新善光寺の紫陽花は赤が主です。
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              葉山新善光寺の紫陽花、赤い花の中に青い花がありますが株が違うんです。
 
 
私の生家のお寺は明月院と同じブルーの姫紫陽花が植えられていました。
お寺ですから・・・、山の中腹にあります。
法面が多く、傾斜地の草刈りは大変でした。
そこで、一本の姫紫陽花を・・・・挿し木して増やして、法面に植えました。
そうすれば・・・・、草刈りをしなくて済みますし・・・・、
紫陽花の根が張って、土砂が流されることを防いでくれます。
日陰でも育つので(躑躅は日向でないと育ちません)
無精者の我が成果にとっては格好の植木だったのです。
 
度々、草木灰を紫陽花の根に撒きました。
肥料として、消毒効果も期待できますから・・・。
灰ですから・・・・、アルカリ性であると思いますが・・・・、青い花は赤くはなりませんでした。
 
その紫陽花を挿し木にして・・・・、現在我が家の庭で咲いています。
元からのブルーです。
同じ庭に一本紫陽花を植えました。
一見したところ花も葉っぱも同じ姫紫陽花です。
此方は、新善光寺と同じ赤い花を咲かせます。(最後の写真)
 
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   ご存知長谷寺の紫陽花。幾つもの種類の紫陽花が植えられているので、様々な花を楽しむ
   ことが出来ます。でも一つの花の変化する幅は七変化とは程遠い狭い範囲です。
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                                       長谷寺、風鐸、灯籠は経蔵です。
 
私は、紫陽花はその土壌のPH(酸性度)で色を変える・・・・、というのは誤りだと思います。
その色は土壌のPH(酸性度)で決まるのではなくて、種によって決まっているもんだと思います。
若しも、リトマス試験紙のように変化するのであれば、紫陽花の植木鉢に土壌の酸性度を変化させるような試薬を使って、花の色を変化させれば楽しいと思います。
そんな試薬も販売されていませんから・・・・、
紫陽花の花が酸性度によって変化する・・・、というのは風評ではないのでしょうか?
 
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         我が家の紫陽花、青いのは生家から持ってきた姫紫陽花、赤いのは植えたもの。
 
紫陽花の花は色々姿形も、色も違っています。
女性に個性があって、それぞれに魅せられるように・・・・、
紫陽花の個性も輝いて見えます。
 
明月院、新善光寺、長谷寺、成就院それぞれに紫陽花の色も形も異なります。
有名寺院だけではなく、街中の路地裏にも、切通しにも紫陽花が花を咲かせています。
鎌倉を歩く楽しみは・・・・この季節、紫陽花あってのことでしょう。
 
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                            鎌倉由比ヶ浜通り、麩饅頭屋さんの店先の紫陽花。
 
 
 
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切り岸に咲いた山百合の花

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お伽話の桃太郎ではお婆さんは川に洗濯に、お爺さんは山に柴刈に出かけています。
お爺さんが出かけたのは裏山のクヌギやナラの雑木林です。
柴とはその下草や小さな樹木の事でした。
雑木林は誰の所有地という事でもなく、謂わば集落の共有林でありました。(入会地と呼びます)
集落の人は誰でも柴刈が出来ましたし、クヌギやナラは伐採して炭の原木にしました。
春になれば山菜を採取し、秋にはキノコ狩りをしました。
柴は何に使ったのか?
柴は飯を風呂を沸かす燃料になりました。
釜戸で柴を焼いて飯を炊き、汁を沸かしました。
 
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   釜戸、柴が焚かれて煮炊きされていました。柴は雑木林で採取されましたから、
   雑木林は充分手入れされていました。
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      折り焚く柴の記の作者新井白石の墓、鎌倉玉縄の龍宝寺にあります。
      此処にも山百合が自生しています。
 
古来日本人には、”柴を焚く”事に大変な思い入れがありました。
  思い出づる折り焚く柴の夕煙 むせぶも嬉し忘れ形見に (新古今集)
新井白石の随筆「折り焚く柴の記」の本歌になりました。
 
聖帝仁徳天皇は高台に登り、民の釜戸から煙が立っていない事を確認し、租税を免除します。
「民の竈」で焚かれているのは柴でしたから、
煙が立ち上っていれば民の暮らしは順風だと判断できたのでしょう。
課税は総ての民の竈から夕餉の煙が立ち上るまで我慢されて、
御所(天皇の住まい)は雨漏りがしたまま放置されました。(今の政府と大違いです)
そんな次第で、有史以来日本人は雑木林の柴を刈ってきました。
 
 
ところが、昭和30年代からガスが一般化して、民の竈も風呂もガスを燃やすようになりました。
雑木林は忘れられ、荒れ放題で、下草も柴も刈らなくなってしまいました。
その為に・・・・、何処の雑木林でも採れたキノコも、
特に松林で採れた松茸も松露も出来なくなってしまいました。
松茸が出来るのは・・・・、今もセッセ・セッセと柴刈りをしている北朝鮮くらいです。
春一番に咲いていたカタクリも、下草の中に埋もれて姿を消してしまいました。
初夏に咲いていた山百合の花も・・・・、滅多に見なくなってしまいました。
 
明治時代、日本の輸出品はダントツの一位が生糸、二番目が茶、三番目が百合でした。
百合の花言葉は「純潔」、聖母マリア様に奉げられる花でした。
だから、西洋では私達が思いつかない程の需要があったのでした。
山百合はヨローッパに伝わり、ハイブリッド種のカサブランカができました。
 
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      鎌倉の朝比奈にある切り岸と思われる巨大な土手。土手には山百合が自生しています。
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     朝比奈の切り岸に咲いた山百合。
     冬の内に良く草刈りしてあるので山百合には格好な自生地になっています。
 
 
今年は暖かいので、もう山百合が咲き出しました。
でも、柴刈をしないので・・・・、山百合の咲くところは限られています。
柴刈を丁寧にしている所にしか山百合は生き残っていません。
 
山百合が咲く場所・・・・・・、それは、親爺の秘密の花園です。
私は幾つか秘密の花園を知っていて・・・、この季節見て回ります。
心配なのは山百合の球根を盗掘する心無い人が居る事です。
次に心配なのは柴刈をしている奇特な人が・・・、死んだり病気になってしまう事です。
だから・・・・、雑木林等に山百合が今年も咲いているのを確認すると・・・・、嬉しくなります。
 
山百合は順風な成育環境であれば、年々球根を太く大きくさせます。
大きい球根からは・・・・、その分数多くの花を咲かせます。
ひとつの球根から20輪もの花を咲かせることもあります。
”良く咲いてくれました” 百合を誉めてあげたくなります。
同時に、柴刈を欠かせない・・・・・、私の見ず知らずの人の丹精に感謝いたします。
 
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   良くこの針金のような茎で重そうな花を支えられるものだ、と感心します。
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      20輪を超す花数です。花の数は百合の年輪と発育状況を示しています。
 
神奈川県下で最高”山百合の花園”は鎌倉の朝比奈切通し近辺だと確信しています。
鎌倉霊園の法面にも咲いています。
切り通しの道筋にも咲いています。
で……、最高の場所は朝比奈の「切り岸」です。
 
鎌倉石は柔らかいのが特徴です。
だから・・・・簡単に細工が出来ます、耐火性も高いので釜戸の素材になりました。
崖面を削って・・・・、切り岸にしました。
切り岸とは岩の表面を削って作った砦のようなものです。
鎌倉節が切り岸の上に陣取って、敵軍を迎え撃つ…そんな軍備の要塞です。
切り岸の下を通る敵軍を壊滅する・・・・、そんな目的でした。
名越の切り岸は特に大きいのですが・・・・、朝比奈の切通しにも切り岸があります。
 
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切り岸の下部は櫓(お墓)になっています。櫓の上から垂れ下がって咲いた山百合の花。
 
切り岸の上に、点々と山百合が咲くのです。
若しかしたら・・・・、いや多分800年ほど前からこの切り岸の上に山百合が咲いていたことでしょう。
新田義貞による鎌倉攻めは、化粧坂切り通し、極楽寺切り通し等北西部で行われました。
ですから・・・・、東に位置する朝比奈切り通し、切り岸で戦闘は行われなかっと・・・、想像します。
でも、後醍醐天皇の皇子「護良親王」は二階堂で殺害されます。(12社の大刀洗)
その首は私の住む戸塚の柏尾で洗われます。(柏尾の王子神社境内の首新井の井戸)
その前後では朝比奈の切り岸には沢山の武士が警護した事でしょう。
 
悲劇の歴史のあるところ、華やかな花が良く似合います。
 
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   朝比奈切り通しの入口「光触寺」の墓地、向こうの土手、五輪塔の上に山百合が咲いています。
 
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  光触寺の塩なめ地蔵尊にカサブランカ(山百合のハイブリッド種)が供えられていました。
  金沢街道を朝比奈切り通しを越えてやってきた塩の行商人が”今日も良く売れますように・・・・!”
  お地蔵さんに塩盛りして出かけました。完売して・・・お地蔵さんにお礼を言おうとしたところ、
  塩が無くなっていました。
  塩をお地蔵さんが舐めてしまった・・・・、憶測して「塩舐め地蔵」と呼ばれるようになりました。
  その説話を思い出してみると、お地蔵さんの右側が溶けてしまっています。塩をお地蔵さんが取ろうとされ      て、・・・・溶けてしまったのかも知れません。それじゃあ、お地蔵さんはナメクジかカタツムリのようですが。
 
 
 
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日蓮聖跡(龍口寺)のデイゴの花

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紀元前566年4月8日、北インド(現ネパール)のルンビニー苑での事でした。
釈迦族の摩耶夫人は無憂樹の花枝を折ろうと、手を差し伸べられました。
その時、脇からお釈迦様が誕生されました。
地上に降りられたお釈迦様は7歩進まれて、右手で天を、左手で地を指されてこう言われました。
「天上天下唯我独尊」。
世界中で私は唯一人です、だから命あるものはみんな尊いんだ・・・・。
お釈迦様も、そのもとに集まった動物も等しく・・・・、命あるものは尊い・・・・・。
最初に説いたお釈迦様の教えでした。
「7歩」歩かれたのは・・・・、地上の六道の、その一歩先がある事を示されていました。
そこは何の憂いも無い世界です。
輪廻から一歩脱した世界です。
 
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    手塚治虫の仏陀、釈迦誕生の場面、無憂樹下で産まれたお釈迦様の周りに森中の動物が
    お祝いに集まってきています。お釈迦様が尊いのは当然ですが・・・・、命あるものは等しく
    尊い・・・、との教えに偉大さがあります。
 
先日TVを見ていたら、京都市動物園でキリンの「未来」が子供を産み落とす場面が出てきました。
何と、キリンは立ったまま子供を産むんです。
子供は地上1.5mの高さから、羊水と一緒にドバっと落下します。
そして、その次の瞬間子キリンはスックと立ち上がって、二歩三歩歩くんです。
その時、お釈迦様誕生の場面を思い出しました。
キリンも、鹿も出産の時地上に臥していたら、ライオンや虎のような猛獣に食われてしまいます。
だから・・・・、立ったままで産み落とされ、・・・・・・・・、それでも子供は骨折もせずに・・・・・・、
直ぐに歩き出します。
生命力の偉大さに驚愕するんですが・・・・・・、「命は尊い」教えに納得する場面です。
 
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   京都市動物園で今年5月17日キリンの赤ちゃんが産まれました。(産經ニュース、同HPから転載)
 
お寺では4月8日を灌仏会と呼び、花祭りをしてお釈迦様の誕生をお祝いします。
様々な花で飾った花御堂の中に灌仏桶を置き、甘茶を満たします。
お釈迦様の誕生仏を置き、柄杓で甘茶をかけてお祝いします。
お釈迦様が誕生された時、天から9つの龍が清浄の水を注いだと言われます。
甘茶は天から降り注いだ甘露水の意味でしょう。
 
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無憂樹は仏教の三大聖樹の一つに数えられます。
釈迦誕生の場面を飾ると同時に、最初の根本になる釈迦の教え諭す樹でした。
だから、菩提樹や沙羅双樹と同じように・・・・、日本で自生している無憂樹らしい樹を探しました。
多くのお寺は百日紅を無憂樹に充てました。
でも、どこか違います。
 
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         今日の話題は腰越龍口寺に咲き始めたデイゴの花。無憂樹の代わりでしょう。
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       龍口寺山門の右にデイゴ(無憂樹の代わり)、左に日本菩提樹が植えられています。
 
最近はデイゴの樹を無憂樹に充てる寺院もあります。
江の島の向かい、腰越の龍口寺もそんな一つです。
 
龍口寺の山門の左に菩提樹が、右にデイゴ(海紅豆/かいこうず)が植えられています。
デイゴは今花の盛りで、毎朝沢山の花弁が散っています。
落ち葉ならぬ「落ち花掃き」がひと仕事のようです。
このデイゴ、平成7年第64代横綱曙太郎が植樹した・・・、案内板が建っています。
お寺に訊くと、門前の竜の口商店街の寄進だそうで、その会長(酒屋さんで閉店された)が
谷町筋であった事から横綱の曙に来てもらい、植樹して貰ったのだそうです。
きっと、無憂樹には百日紅よりデイゴの方が良く似ている・・・、という事で選択されたのでしょう。
樹は未だ20歳前後ですが、菩提樹を凌ぐ樹高であり樹勢であります。
 
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    山門の向こうに見えるのがもう花も終えた菩提樹。山門の手前側のデイゴと対になっています。
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 龍口寺は日蓮上人竜の口の法難で有名な聖跡です。崖には日蓮上人が閉じ込められた土牢があります。 
 
山門は大阪の鴻池組が寄進したものだそうです。
お寺がさして大きくないものですから・・・、山門の大きさも目立つ大きさではありませんが、
細工物が凝っています。
とりわけ欄間彫刻は眼を見張る迫力であり、精巧さであります。
欄間は門の前後左右に裏表、都合8枚あります。
どうみても・・・・、仏教(?)説話に思われます。
私はお寺に登る事にお訊ねするんです。
訊く相手は本堂の右、朱印を戴く事務所なんですが・・・・・・、
「私は解りかねます、詳しい人に訊いてみます・・・・、
詳しい人は不在です・・・・、解りません。」
そんな繰り返しです。
 
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   山門の屋根のかぶった位置には鳳凰が彫られています。この位置は多くの場合懸魚と呼ばれる
   鯱の尾鰭が飾られているのが多いのですが・・・・。
   デイゴの花弁は鳳凰の口から吐かれる炎のようにも見えました。
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     華麗、精巧な山門欄間の彫刻。流石に宮大工がルーツの鴻池組の寄進です。
 
 
そこで、欄間を見て回ります。
どうも、恩讐の彼方に(青の洞門)の中国版のようです。
親を殺された? 仇を追って全国を訪ね歩きます。
漸く、仇を見つけた処・・・・、その仇が人物なんでした・・・・。
悪事は恨んでも・・・・、人は憎まず・・・・、
親の仇の衣を剣で刺して・・・・・、敵討を討ち果たした(積りになる)・・・、そんな話のようです。
 
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  山門の欄間には長者(?)に靴を差し出す図が刻まれていました。
  説話の詳細は解らないであります。 8枚の紙芝居を見ている様な感じです。
  デイゴの花の向こうにもうじき青空が出る事でしょう。
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                             欄間彫刻のクライマックス、仇の衣に剣を指す図。
 
デイゴの花の向こうに、山門の欄間彫刻が見えます。
花も欄間等の彫刻も良いもんです。
良く似合います。
この日は曇りでしたが・・・・、梅雨が明ければデイゴの花は青空を背にして、花の命が輝く事でしょう。
梅雨明けは早そうな予感です。
 
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   毎朝こんなに花弁が散るのでは花掃除も大変です。
 
 
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露地の枇杷

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街中にたわわに実った枇杷を見る事が出来る季節になってきました。
近所の一人暮らしのお婆さんが「枇杷の実」をプレゼントしてくれました。
去年まで、毎年私が高鋏で採ってあげていたんですが・・・・、
今年は高鋏を買って、自分で採ったのだそうです。
枝つきです。
私が絵を描くのをご存じで・・・・、わざわざ枝つきを用意してくれました。
枇杷の深緑の葉と、オレンジ色の実のコントラストが美しく、季節を教えてくれるのです。
 
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   今日の話題は露地の枇杷です。オレンジの実と葉のコントラストが魅力です。
   葉も表は艶のある深緑、葉裏は毛深いサップグリーンの対比で魅力があります。
 
 
私の生家には3本も枇杷の木がありました。
何処のお寺にも枇杷の木があったもんです。
実が食べられること、常緑樹で庭木としても適していたこと、
そして何にもまして、「大薬用樹」と言われるほど薬になったからでしょう。
葉っぱの汁は毒けし、外傷薬になる・・・・、聞いていましたが実際に使った事はありませんでした。
今も「枇杷の葉茶」があるようですから・・・・、役立つことは間違いないのでしょう。
概してお寺の庭に自生している植物は薬になるようです。
 
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  旧家には枇杷の木が必ず植わっているもんでした。(藤沢新林公園の小池家)
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   鎌倉雪ノ下和辻哲郎旧宅のお庭のシンボルツリーは枇杷の木でした。(中央桜の左)
   枇杷は哲学者に良く似合います。
 
 
枇杷の実が青いうちに袋かけしました。
そしていよいよ収穫です。
完熟した枇杷は柔らかいので手で捥ぐのが一番良い方法でした。
私は木登りが得意でしたから、家族の期待を背負って枇杷の木に登って、手捥ぎ致しました。
採れたての枇杷を縁側で食べました。
大きな種を数個含んでいます。
真っ黒い種は庭先に捨てられました。
枇杷は発芽が良くて、数本の幼木が育っていました。
でも、その枇杷が実る事はありませんでした。
枇杷は中々生育せず、実がなるまでは10年近くかかるものでした。
”桃栗三年柿8ねん、枇杷は早くて13年”
言われるほどですから。
 
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     戸塚俣野のお百姓さんに庭先に枇杷、この程度の大きさですと樹齢は100年を越している事でしょう。左の道は鎌倉古道「下道」になります。
 
ニュースで今年も房総富浦の枇杷が皇室に献上された・・・・・、報道されました。
枇杷と言えば長崎が有名ですから・・・・、何で房総なのか?
気になりました。
調べてみると、皇室献上が始まったのは明治42年(1909)からだそうです。
中断があったりして今年が99回目になったそうです。
千葉県の農業総合研究センターが審査員で、
数多くの出品者の中から「天皇陛下に献上するに相応しい色艶」のある枇杷を選別しました。
明治42年では、長崎の枇杷は皇室献上したくても、運べなかった事でしょう。
傷んだ枇杷では相応しくありませんから。
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          皇室献上枇杷の品評風景(千葉日報のHPから転載)11人の審査員の意見により最上品が献上されたそうです。
 
皇室献上枇杷は露地物だそうです。
温室物の方が管理が行き届いて・・・見た目も良く出来るのでしょうが、
質素な育て方をしなくては対象にならないのでしょう。
 
因みに皇室献上の桃は福島県の伊達産だそうです。
来月天皇皇后両陛下は福島県を見舞われるそうです。
私は、皇太子、雅子妃もご一緒されるのを心待ちしています。
皇室の方々が(特に雅子妃殿下が)福島県の桃をご賞味される・・・・、
そんな写真が公開されるのを楽しみにしています。
”福島より山梨の方が近いのに・・・・、何故桃は福島で山梨でないのか?”
何でも疑問を挟むのが私の習性ですが・・・・、
解りません。ご存知の方は教えてください。
 
”桃は福島で良かった・・・・!” 思うのは日本人なら誰しもでありましょう。
風評被害を克服して、この夏は福島産の桃を戴きましょう。
 
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   皇室献上桃は福島です(サティス製薬HPから転載)
 
 
2006年、種なし枇杷の品種登録されました。
もう数年もすれば店先にも種なし枇杷が出回る事でしょう。
枇杷は美味しいんですが・・・・、柿や林檎、桃に比べて種が大きのが欠点です。
この点に改良を加えて・・・・、三倍体、4倍体の枇杷を育種しました。
種なし西瓜と同じ技術で種なし枇杷を作りました。
 
将来種なし枇杷が一般化しても・・・・、皇室献上枇杷には相応しくないものでしょう。
露地物、天然もの、質素素朴なものが日本文化の伝統ですから・・・・。
 
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   横浜の野毛にある成田山の枇杷の木。お稲荷さん、弁天様の頭上に枇杷がたわわに実っていました。これは総てカラスやヒヨドリの餌になる事でしょう。”こんなに美味しい枇杷を食べないなんて…人間さんはどうかしているよ!”鳥たちは思っている事でしょう。弁天様の琵琶は枇杷の形です。琵琶の方が古いんでしょうか?
 
横浜にも鎌倉にも・・・、露地物の枇杷が目立ちます。
でも、どの枇杷も収穫されないで・・・・、野鳥やリスの餌になっています。
それも、カラスが好んで食べているようです。
枇杷は日当たりの良い高い所から熟しますから・・・、
カラスは上から食べ始め・・・・、徐々に下がって行きます。
人間様より一手早くに食べ始められますから・・・・、
木全体がカラスの好物になってしまっています。
 
観察していると、カラスも枇杷の種は苦手のようです。
果肉だけを食べようとして・・・・、太い嘴で突っ突きます。
その度に相当数の枇杷の実が落下してしまいます。
ですから・・・・、枇杷の木の根元には枇杷の実が散乱してしまっています。
樹上の実が少なくなったら・・・・、樹下に散った実を食べよう…、そんな算段でいるようです。
 
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    片瀬の旧家の庭先の枇杷の実
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     旧家の御主人が手で捥いでくださいました。
 
鎌倉片瀬の旧家の玄関先の枇杷を眺めていました。
高鋏では無くて・・・・、物干し竹の先端を割って・・・・、挟んで枇杷の実を取ろう・・・、
そんな手作りの道具が傍らに置かれています。
懐かしさもあって、しばらく眺めていると、主のお婆さんが出てこられました。
「立派な枇杷の木なんで、眺めていました。これで何歳くらいですか?」
「私が植えましたんで・・・・・、70歳くらいでしょうね、この樹は早くて7年目くらいで実がなりました」
「殆どカラスに食べられてしまうのですが・・・・、私も少ししか食べられないのですが・・・・
でも、これでいいんですよ。誉められたんで少しお裾分けしましょうね・・・・」
言われて下枝から数個取って下さいました。
私はその場で戴きました。
小さくても完熟していて、瑞々しく、甘い枇杷でした。
懐かしさが口中にひろがりました。
 
矢張り枇杷は露地ものだなあ・・・・、痛感しました。
 
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   瑞々しく甘い枇杷の実。 この後、手が糖分で粘々して困りました。
   露地物の枇杷は甘さが凄いんです。
 
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    残りの枇杷は花瓶に生けました。これから絵が描けたら良いんですが・・・・。
    一つ一つ、私と家内の胃袋に収まってしまう事でしょう。
 
 
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海の家の建設も進み、夏は真近です。

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逗子海岸の花火大会も終わりました。
材木座海岸での「乱材祭」も終わりました。
海岸の清掃も進められて、今は「海の家」が急いで建設中です。
 
最近は台風も大型になりましたので、昔ながらの掘立小屋では吹き飛ばされてしまうかもしれません。
砂を掘って大きなコンクリートブロックを埋めて、その上に柱を立てて海の家を建設しています。
沢山の人が働いています。
普通の家の建設は先ず上下水道が設えられるのでしょうが、砂浜では順番はお構いなしです・・・・、
柱や壁が出来てから・・・・、水道の配管工事を行ったりも・・・・・、しています。
水道工事業者も大忙しですから、建築の段取りは無視しているようです。
水道管は砂を掻き分けて埋めて行きます。
 
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逗子海岸の花火大会前風景。梅雨の晴れ間に富士山が覘いています。この後雨模様になったので
筆者は急遽帰宅しました。
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材木座海岸の乱材祭、お祭りが終われば砂浜が空くので、海の家の建設が始まります。
 
 
例年海開きは7月1日で、海の家のお終いは8月末日です。
ところが、今年は海開きは7月9日、お終いも9月9日になりました。
何で遅らせたのか解りませんが・・・・、海の家の建設は早くに終えて・・・・、
引き渡さないと間に合いません。
その後、アルバイトを集めて研修の仕事や、保健所などの立ち入り検査もあるのでしょう。
でも、今年も海の家が鎌倉や逗子の海岸を取り囲むことでしょう。
 
砂浜で建設工事を見ていると・・・・、夏は直ぐそこまで来ているぞ! と、実感させられます。
気の早いお嬢さんはもうビキニ姿で甲羅干しをしています。
 
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     逗子海岸では海の家の建設が進んでいます。今年も結婚式場までできるようです。
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       逗子海岸では海の家の建設と清掃が並行して行われていました。
 
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                                  鎌倉材木座海岸での海の家の建設風景。
 
鎌倉の由比ヶ浜、材木座、七里ヶ浜海岸の命名権(ネーミングライツ)が売り出され、
地元企業の豊島屋さんが落されました。
社長(慶応卒)は「変な名前を付けられるのが嫌だから、自分が落した」言っておいでです。
「これから鎌倉市民の意見を聞いて決める」仰っています。
鎌倉市民も一安心です。
海開きまでに発表するのかと思っていた所、一年かけて決めるのだそうです。
来年の今頃は市民納得の名前が付く事でしょう。
若しかして・・・今のままだったりして・・・・・、
豊島屋さんのロゴか鳩サブレーの絵が付いたりするかもしれません。
 
鎌倉の海岸も・・・・日本中の海岸は(特段な事が無ければ)国有地です。
だから、砂浜を綺麗にするのは国の責任ではないでしょうか。
海の家の借地料は大凡300万円位だそうです。
海岸に立錐の余地も無い程建築されている海の家を見ていると・・・・、
借地料は鎌倉市の歳入にならないのが不思議です。
海浜組合の収入になるんだそうです。
ならば、鎌倉市は年間の清掃代金を海浜組合に請求するのが妥当で・・・・・、
名前を売ろうとするのは・・・・・・、最後の手段でしょう。
行政の権限が複雑で、得体のしれない組合が入っているのも不明瞭です。
漁業組合なら良く見えるんですが・・・。
 
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                                  滑川河口で甲羅干しするお嬢さん
 
海の家は日本らしい「便利施設」です。
鎌倉は東京から60キロの距離にある海岸です。
ブリスベン(クイーンズランド州の州都)から60キロの位置にゴールドコーストがあります。
ロングビーチはロスアンゼルスから40キロ弱の位置にあります。
どちらも有名な海岸の観光地です。
広い砂浜は砂浜のままです。
日本式の海の家があれば、便利だと思うんですが・・・・、ありません。
海の家は無いんですが・・・・、有名なホテルがあり、レストランやフィッシャーマンズワーフがあります。
海水着への着替えやシャワーはホテルで・・・・、
食事はレストランで・・・・、
足はマイカーになります。
海の家は着替えも、シャワーも、食事も総て出来ますし、
電車に乗って行き帰りをします。
何でもできる・・・・屋台村のような感じです。
屋台村では様々なイベントが行われます。
 
夏が待ち遠しいのは、ビキニのお嬢さんだけではありません。
 
 
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    一昨年、材木座海岸でのフラダンス。踊っているのは立教女学院の女学生さん達。
 
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  昨年の鎌倉の花火大会(由比ヶ浜海岸)http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46479677.html
  今年は7月23にちです。公式サイトはhttp://www.hoshinoyabeach.com/です。
 
 
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箱根登山鉄道の紫陽花

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鎌倉の紫陽花はもう後半で、色が褪せ始めました。
これから緑になり、初冬には枯れて白くなってしまいます。
枯れた紫陽花は「髑髏小町※」のようで、別の意味で目を惹くものです。
   ※美人の小町が髑髏を野辺にさらしたという故実
 
サラリーマン時代、私は国鉄戸塚駅から大手町まで通勤していました。
車窓から紫陽花を見るのが朝の楽しみでした。
 
東戸塚を通過すると、直に日本最古のトンネル「清水トンネル」に入ります。
トンネルを抜けると、ドッグワン(ドッグフードメーカー)があって、その土手に紫陽花が咲いていました。
鶴見保線区に入ると、線路脇の紫陽花は増えました。
鶴見川の河川敷、大森貝塚の土手など、たて続けに紫陽花が咲いていました。
保線区の職員が植えて、育てたものでした。
 
紫陽花は、土手が崩れないよう守る意味と、雑草対策、そして私達乗客へのサービスであったのでしょう。
保線職員の仕事は命がけの仕事です。
地味で、縁の下の下働きです。
そんな仕事をする人ほど、優しい心情を持っているもんです。
その優しさが・・・・・・、線路脇に紫陽花を植えさせたものでしょう。
 
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     箱根登山鉄道「大平台駅」、この駅で鉄道はスイッチバックします。
     この先の小涌谷、宮ノ下駅間で1926年、速度制御不能になり大事故になりました。
 
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               大平台駅に近い「紫陽花小道」から通過する登山鉄道を見る。
 
「線路の紫陽花」と言えば・・・・、箱根登山鉄道の紫陽花です。
6月24日、今にも雨が降りそうな一日・・・・、紫陽花電車を見に出かけてみました。
紫陽花のライトアップは6月22日に始まり、
6月28日には「夜の紫陽花号」の座席指定始まるのです。(湯本~強羅300円、座席指定料金390円)
箱根の紫陽花が見頃になってきた・・・・・・、そんな季節です。
 
箱根の強羅には「県民寮」という施設がありました。
自炊しながらゆっくり・安く、湯治を楽しむ・・・、そんな施設でした。
風祭、入生田、湯本の辺りの線路には、当時から紫陽花が咲いていました。
麓にお紫陽花が咲いても、強羅辺りでは蕨やゼンマイ、コゴミ等の山菜が生えていました。
箱根は高低差が大きいので、麓は初夏でも山上は未だ初春でした。
山菜を取って、天麩羅やおしたしにして・・・・、おかずにして食べました。
湯治客同士、山菜料理のお裾分けをしました。
 
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      大平台駅に近い地点、紫陽花見たさに電車は満員、立っている人も沢山です。
 
小田原電気鉄道(現小田急電鉄)が全線電化されたのが1900年(明治33年)でした。
すると、その先「湯の坂道」の温泉街をつないで・・・・・、
「箱根にスイスのような登山鉄道を作ろう・・・・!」気運が盛り上がります。
事業主体は小田原電気鉄道ですが・・・・、
物心両面で力があったのは「益田孝(鈍翁)三井物産創業者」でした。
湯元に発電所等を建設して・・・・1919年(大正8)湯元~強羅間の箱根登山鉄道が開業します。
更に1921年(大正10)早雲山(上強羅)までケーブルカーが延伸します。
 
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   宮ノ下駅のホーム。紫陽花見たさで「入場券」を買おうとしたら、こう言われました。
   「入場券はありません、紫陽花を見たいのなら自由に入って下さって結構ですよ!」
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                     宮ノ下駅に進入してきた電車、終点の強羅駅は次の次の駅です。
 
しかし、急勾配の登山鉄道でした。
スイスの登山鉄道の技術を導入しても、
当時の技術水準では車両が速度制御不能になり脱線する事故も発生しました。
大雨が降れば土砂崩れがあり、線路が土砂に埋没したり、湾曲してしまったり・・・・、
平地の線路とは違った困難がありました。
 
箱根登山鉄道の保線職員の苦労は大きなものであったことでしょう。
そして、その苦労苦心は今も少しも変わらない事でしょう。
大雨が降れば、雪が積もれば箱根の道路は通行禁止になってしまいます。
でも、箱根登山鉄道は・・・・、滅多な事では運転見合わせは致しません。
支えているのは・・・・・、保線職員の頑張りでしょう。
 
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            運転席の窓ガラスにも紫陽花が映っています。 まさに紫陽花電車です。
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                                       宮ノ下駅のホーム
 
線路の脇に紫陽花を植えることは、創業以来続けてきたものでした。
線路の法面補強対策として・・・・、紫陽花ほど好都合な植物はありませんでしたから。
 
昭和51年、保線職員によるボランティア組織「沿線美化委員会」が発足します。
自発的に紫陽花の植栽が加速致しました。
昭和60年、紫陽花の数が1万本に達し、「紫陽花電車」の名が一般化します。
平成22年には「第1回かながわ観光大賞」を受賞します。
平成23年、紫陽花ウィールスの大流行で痛手をこうむりました。
そして、今年は相当の回復を見たのでした。
 
紫陽花の花を観る事は・・・・、
その美しさを愛でる事が第一ですが・・・・、
美しい花の向こうに・・・・、保線区職員の綺麗な心情が見えてきます。
だから・・・・、感謝しつつ眺めます。
これで、湯本~強羅間300円、JRに比べて実にお安いものです。
 
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  同じような姫紫陽花が多いんですが、ブルーと赤とがあって、それが別々に群生しています。
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           此方は小田急入生田駅で待機するロマンスカー。この辺りはもう色褪せ始めています。
 
 
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大磯こゆるぎ浜の「青鳩」

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週末、神奈川新聞に「大磯照ヶ埼海岸に今年も青鳩が来た!」記事が載りました。
毎年夏が来ると此処だけに沢山の青鳩が集まってきます。
丹沢や大山の山中に居た青鳩が大磯に集まって、群れを為すのです。
湘南の住人は「今年も青鳩が来た!」季節を感じ、愛らしい姿に目を細めます。
私のようなウォッチャーが集まってきます。
 
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     大磯照ヶ埼海岸、此処から西がこゆるぎ浜になります。
     湯河原海岸で発見された殺人蛸の案内板がたっていました。
 
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      これが青鳩です。朱が入っているのが雄、入っていないのが雌です。
      キジバトに比べると少し丸みをもった体です。鶯色の羽根毛が綺麗です。(案内板を複写)
 
大きな群れは50羽ほどです。
小さな群れは10羽余りです。
幾つもの群れが次々に磯の岩の上に飛来してきます。
そして・・・・岩礁の上に出来た水たまりで・・・、潮水を飲んでいます。
潮水を飲んでいるのは1分あまりで・・・・、長居は無用とばかり・・・、
急いで飛び去ります。
飛び去る先は高来神社の森です。
 
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                                  群れて飛んで高来神社の森に戻る青鳩
 
高来神社の森はご神体ですから・・・・・・、人手は入っていません。
此処が鳩君のねぐらであり、食事場であり、身を天敵(鷹や隼)から身を守る場所なのでしょう。
此処にいる限り安全なのでしょうが・・・・・、
塩水のミネラルが欲しいばかりに、危険な磯にやって来るんでしょう。
磯では鷹や隼に襲われれば身を守る術はありません。
唯一、危険分散を図る意味で群れになるだけです。
唯朝早く、夕方、猛禽類の飛ばない、目が効き難い時間に飛来してきます。
7月になれば、100羽くらいの大集団も出現するそうです。
 
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      高波が磯に打寄せると、岩場に水溜まりが出来ます。其処が潮水の飲み場なんです。
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大磯・・・・・・、と言っても大半は砂浜です。
でも、大磯港の西に岩礁があって・・・・、此処が大磯の地名の謂れでしょう。(西に小磯もありますが)
 
相模湾の潮流は、伊豆半島の東岸をから、小田原から片瀬、由比ヶ浜に流れているのでしょう。
真鶴の辺りは大きな岩がゴロゴロしていますが、
小田原では小石大の石や砂に変わり・・・・・、
大磯では砂が増えて・・・・・・、片瀬になれば砂ばかりになります。
大磯の砂浜を「こゆるぎ浜」と呼び、名勝「さざれ石」もあります。
 
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この浜辺がこゆるぎ浜です。緑の中に建っている建物が大磯ロングビーチ(西武プリンス)
その西、小高い丘が吾妻山です。幼稚園児は小石ひろいです。
 
小田原の地名は「小由留木(“こゆるぎ”)」が語源で、
草書体で書いた文字が「おだわら」と読み誤ったのが始まりだそうです。(小田原観光課)
では「こゆるぎ」は・・・・というと「磯」にかかる枕詞です。
   こよろぎより遠く引く潮に浮かべる月は沖に出にけり  (兼好法師)
   こゆるぎのいそぎて来つるかひもなくまたこそ立てれ沖つ白浪
   こゆるぎのいそぎて逢ひしかひもなく波よりこずと聞くは誠か (金葉集・源 顕国)
 
大磯から西に向かって広がる海岸が「こゆるぎの里」と呼ばれていました。
広く、ゆったりした砂浜で・・・・、波が打寄せては帰ります。
波は小石や砂を引き摺って・・・・・、潮騒が里に響きます。
半農半漁の里人が慎ましい生活をしている・・・・・、日本中何処にでもある砂浜の風景です。
でも、枕詞になったのは・・・・・・、此処が特に歴史・文化の陰影が濃かったからでしょう。
 
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                                             こゆりぎ浜のさざれ石
 
 
「こゆるぎ浜」を見下ろす小高い丘の上に吾妻神社があります。
日本武尊は足柄峠を越えて相模の国に入りました。
相模湾を渡って・・・安房の国に入ろうとします。
でも、海が荒れていて出航する事が出来ません。
そこで、愛する妻の「弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)」が、
荒ぶる海神の怒りを鎮めるために海に身を投じます。
 
東征を終えた日本武尊は帰路に妻を失った海を眺めようと小高い山に登ります。
山から…こゆるぎの浜に降りてきました。
浜辺に弟橘媛命の櫛が流れ着いていました。
櫛を手にして日本武尊は・・・・・
”ああ・・・・わが妻よ!” 叫んで号泣します。
そして、再び山に登って山頂に櫛を埋めました。(吾妻山)
その場所に「吾妻神社」が建てられました。
   (こゆるぎ浜は次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45974543.html)
 
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               大磯こゆるぎ浜のどんど(左義長)
               次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45960341.html
 
「さざれ石」は国歌「君が代」にも謡われています。
さざれ石は・・・・・・、そうこゆるぎ浜にゴロゴロ転がっています。
少し大きそうなのを拾いました。
家内の使う漬物石になりそうです。
ご神体の石ですから・・・・・・、良い漬物が出来る事でしょう。
 
幼稚園の生徒が大挙して遣ってきました。
みんな・・・・ビニールの袋を持っています。
さざれ石の「石拾い」です。
持ち帰って・・・・、何に使うのでしょうか?
黒い石はお父さんの顔に・・・、白い石はお母さんの顔になるのでしょうか?
私の拾った石は・・・・・、羅漢さんの顔に、達磨さんにうってつけです。
  
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                       手前が漬物石、奥が達磨さん、羅漢さんになる予定です。
 
こゆるぎ浜には・・・・・、
バードウォッチャーの一群、小石拾いの幼稚園児、浜辺で投げ釣りをする人、人、様々です。
みんな、もうじきやってくる夏の盛りの前・・・・、しばしの静寂を楽しんでいるようです。
 
夏の盛りになれば・・・・、青鳩はもう二回りも大きな群れに成長している事でしょう。
次回はもっと早い時間に来ることにしましょう。
もっと、良い写真が撮れそうな期待があります。
 
美しい浜に、悲しい伝説と、稀代の英雄と、綺麗な青鳩と・・・・、
左義長の祭りと・・・・・・、美しいものが織りなしています。
大磯は・・・・・、魚も野菜も美味いし、美味なパン屋さんもあります。
一度は名物の鰻屋さんの暖簾を潜ってみたいもんです。
 
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         これは青鳩では無くて・・・・、何処にでもいるカワラハトです。向こうが照ヶ埼海岸
 
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町内のパン屋さんへの愛着「ぷち・らぱんカフェ」

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私は、早起きです。
ですから、朝食も早いし、ランチも早く済ませます。
喫茶店のモーニングサービスでランチを済ませる事が度々です。
町内にサンマルクカフェがありますが・・・・・、最近は余り好きでなくなりました。
少し遠いのですが、鎌倉や藤沢まで足を延ばします。
コメダ珈琲、星乃珈琲店のモーニングサービスを戴きながら、短歌・俳句の推敲をするのが・・・・
楽しい時間です。
推敲が一段落したら・・・・、新聞を閲覧します。
   
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     片瀬の星乃珈琲店。蔵の空間が最高です。此処で推敲すると・・・、良い短歌になるような気がします。
 
味噌屋のお蔵には良い麹菌が棲んでいて、美味しい味噌が熟成するように、
喫茶店の空間は、私のボケた脳味噌を活性化させてくれます。
喫茶店は椅子に腰かけて、空間を楽しむ処のような気がします。
だから・・・・、室内の天井の高さ、窓のデザイン、壁や梁のインテリア、少し薄暗い光、音楽・・・等々
居心地の良い・・・・、脳が活性化し・・・心が休まる・・・・、空間提供事業のような気がします。
 
元町には沢山のカフェベーカリーがありますが・・・・、何処もお洒落な空間が売りです。
美味しいパン、健康志向、癒しでお洒落な空間・・・、この三つがキーワードでしょう。
 
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   これが戸塚駅東口、旧東海道に面してオープンしたプチ・ラパンカフェ。左隣が理髪店、右隣が酒屋さんです。
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                  お店は旧東海道に面した、大踏切の傍です。駅舎も2分の距離です。
 
ところで、私の住む町に「ぷち・らぱん」というパン屋さんがあります。
店主の青木さんは町内にお住まいだし・・・・・、町内会でのお付き合いもあって・・・、親しくさせて戴いています。
最近町内会に顔を出されないので、どうしたのか尋ねると、
「矢部町にぷち・らぱんカフェ」を開いたんで、忙しくて・・・、言われていました。
それでは・・・、早速、味見をしに行こう、というわけで雨の中、隣町までランチに出かけました。
 
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                 これが町内にあるプチラパンの工場・店舗です。随分大きくなりました。
 
ぷち・らぱんカフェはJR戸塚駅に近い、旧東海道に面してありました。
この辺りは大踏切の立体交差で市街地再開発事業が進行中です。
そんな中で地権者が商店用貸しビルを建てたのでした。
3軒並びの長屋建物です。
その真ん中がぷち・らぱんカフェで、お隣は理髪店と酒屋さんです。
 
ぷち・らぱんが開店したのはもう25年も前になります。
戸塚にも美味しい食パンを作る人が居るもんだ・・・・、最初の印象です。
それが、菓子パンが増え始め・・・・・、今では菓子パンが主です。
ネーミングはご主人がされました。ウサギがパンを抱いている商標デザインは奥さんの作品です。
店の名の通りのプチラなパン屋さんは工場を拡げ、お店も広がりました。
そして、今年カフェも始めたのです。
ご夫妻の勤勉さが、地域パン屋さんの拡大発展を支えてきたのでした。
 
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                   これがメイン商品の食パン、ウサギのデザインは奥さんの作品です。
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                 多商品、少量の製造販売です。もうメインは菓子パンです。
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     お店の真ん前は銭湯の矢部の湯です。銭湯は2時開店です。
 
ぷち・らぱんカフェは店内にイートインコーナーが設えてあります。
同様なお店が増えています。
トツカーナモール(戸塚駅西口再開発ビル)の地下一階にリトルマーメードがあります。
辻堂の湘南テラスにもドンクがあって、イートインコーナーがあります。
どちらもコーヒーが350円で、好きなパンを食べる事が出来ますし、簡単なランチプレートも用意してくれます。
ぷち・らぱんカフェは同じ価格設定をしたのでした。
 
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                                      店内に貼られたKAHOさんのポスター    イメージ 5
                  お店のテーマソングを作って歌っているKAHOさんの新聞記事
 
ミニコンポからは心地良い歌声が聞こえてきます。
歌っているのはシンガーソングライターのKAHOさんです。
戸塚駅東口のぺデストリアンアンデッキでライブをやっている人です。
最近の活躍が目覚ましくて、朝日新聞や読売新聞(横浜版)で記事になり、
関内ホールで演奏会も成功裏に済ませているようです。
 
♪クロワッサン、クリームホーン、カレーパン
 今日はどれにしようかな
 手のひらサイズの幸せを頬張る
 ひとくち またひとくち
 優しさって美味しいね
 KAHOさんが作って歌っている「プチらパンの歌」です。♪
 
私はランチセットをオーダーしました。
厚切りの食パンにチーズとツナを載せて・・・オーブントースターで焼いたものです。
アイスコーヒーにお菓子が付いて・・・・、500円です。
コメダ珈琲(モーニングセット400円、ミニサラダ200円)、星乃珈琲店(モーニングセット400円フレンチトースト、スフレパンケーキが美味しい)と同じ価格設定です。
 
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              私がプチ・ラパンカフェで注文したセットサービス、500円です。
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    これがコメダ珈琲のモーニングセット400円、プラスミニサラダ(200円)です。
    価格設定は同水準ですが、健康への配慮や空間の居心地良さで・・・、コメダが上です。
 
喫茶店で飲む珈琲のお代には・・・・、珈琲の味と同時に戴く癒しの空間に払われていると思います。
スーパーで菓子パンやサンドイッチを買って・・・・、ベンチコーナーで食べるのではないのですから・・・・、
満足感がイマイチです。
町内の友人のお店ですから・・・、辛口に云うのは憚れますが・・・・・、
これは、何処か大事な所で勘違いしているな・・・・、思わざるを得ません。
これなら・・・・、町内のサンマルクカフェの方に足が向いてしまいます。
安普請の建物なんですから・・・・・・、その欠点を補うに余りあるサービスが必要です。
パン自体の美味しさを強調するようなメニュー、そして珈琲の価格設定に努力が必要でしょう。
 
地域住人が期待している事は、美味しいパンが焼けている事が第一です。
事業を拡げる事も良いんですが・・・・・、大きな会社では出来ない・・・・、
小麦粉自体の味が引き立つパンを作り続けて戴きたい・・・、思います。
 
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    ぷち・らぱんカフェの最大の欠点はこのお店空間の居心地の悪さです。
    この空間で戴く珈琲に350円の価格設定は難しいと思います。
    パンは売れていますが此処でコーヒーを戴く人は少ないでしょう。持ち帰って家で戴いた方がお利口です。
 
 
 
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野毛の街の「ジャズ喫茶ちぐさ」

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昨日は私が住む町の「カフェベーカリー」の話をしました。
今朝は、横浜市民自慢のジャズ喫茶ちぐさ復活の話をいたしましょう。
 
日本最初のジャズ喫茶ちぐさは昭和8年(1933)開店します。
日本は良い時代でした。
先ず店名は何故『ちぐさ』なのか?
店主『吉田衛』さんが亡くなられた今では解りません。
想像するしかないのです・・・・・、
私は「埴生の宿」の歌詞を思い出します・・・・・。
♪庭のちぐさも我が宿 (中略) 花はあるじ 鳥は友 おお わが宿よ たのしとも たのもしや♪ 
お客さんが埴生の宿のように寛いでジャズを聴いてほしい・・・、思ったのではないでしょうか?
 
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   今日の話題は日本で最初のジャズ喫茶を始めた吉田衛さん。
   大きなスピーカーボックスの上に載っていました。
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                                 今日の話題「ジャズ喫茶ちぐさ」の全容
 
 
吉田さんは出征します。
戦地では鉄砲の弾を撃つ訳では無く・・・・、楽器を手にして兵士を慰問していたんだそうです。
まるで、ビルマの竪琴の水島一等兵のように・・・・、
そして昭和22年(1947)に帰還します。
横浜は、とりわけ軍需工場に近かった野毛の街は跡形も無く灰燼に帰していました。
でも、昭和23年(1948)ジャズ喫茶ちぐさを再オープンさせます。
 
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   戦後間もない野毛のカストロ横丁。闇市が開かれ、野毛は戦後復活の原点でありました。
   昭和22年、ジャズ喫茶ちぐさが再開開店しました。珈琲1杯10円、レコード1枚3000円の時代でした。
 
横浜の街には外人さんが溢れていました。
彼らは母国の音「ジャズ」を愛好し、聞きたがりました。
兵士は宿舎でVディスク(ビクトリーレコード/兵隊さん慰問用のレコード)を秘かに持ち出して・・・・、
ちぐさで訊きたいと思ったのでしょう、何時しか沢山のVディスクが集まりました。
   (現存50枚うち13枚が正常だそうです)
Vディスクを筆頭に当時は貴重な輸入レコードが聴ける店として評判になります。
総じて貧乏なジャズミュージァんは、店に通って採譜して・・・・感性や耳を鍛えていたそうです。
渡辺貞夫さん、穐吉敏子さん、日野皓正さんらが通いました。
また、ハナ肇、植木等、谷啓等を擁したクレージーキャッツも良く聴いていたそうです。
 
 
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       ちぐさのオーダーのアンプ、写真他2機あって、どれもちぐさのロゴが入っていました。
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                                          ジャズ喫茶ちぐさの入口
 
平成6年(1994)店主吉田さんは亡くなりました。
でも、ちぐさの常連客がお店を継続して営業を続けました。
しかし、」ジャズ喫茶自体が流行らなくなり、平成19年(2007年1月31日)閉店してしまいます。
ジャズ喫茶の財産、3000枚のレコードとアンプやスピーカーなどの装置をどうするのか?問題になりました。
偶々ちぐさの常連客だった横浜中央図書館の課長さんが頑張ってくれて・・・・、3年間を期限に保管してくれました。そして・・・・・、執行猶予期間3年が経過して・・・・・・、いよいよちぐさをどうするか!
ジャズファンには喉元に匕首を押し当てられた・・・、そんな状況になったのでした。
 
 
 
3年間の間に常連客やジャズファンの「ちぐさ復活」への期待や思いが強くなって来ていたのでしょう。
平成23年(2011)、野毛Hana*Hanaで開催された「ちぐさアーカイブ プロジェクト」を契機に再開発の気運が盛り上がります。
中核になったのはちぐさ会会長の遊佐正孝氏でした。
そして、2012年2月、期待を背負って開店したのでした。
 
野毛の街はどこも不良っぽい空気が流れています。
男っぽい街です。
女性が一人でイタリアンにいたら・・・・、ワイングラスをプレゼントしたくなる・・・、そんな街です。
みなとみらいの高層オフィスで働いた親爺も、OLも1日を終えて疲れた体や心を癒したい・・・・、
真面目な人は、音楽通りを通って、紅葉坂の県立音楽堂に向かって、クラシックに耳を傾けるんでしょう。
少し、不良の血が濃い人は・・・・、大岡川に沿って野毛の街に向かいます。
 
夜は賑わうんですが・・・・、昼間は閑散としています。(此処が街造りの欠点です)
でも、ジャズ喫茶には戦後復興期の野毛の街に思い出を宿している・・・、
私のような年代の親爺が集まってきます。
そして、露地に流れるジャズの音に惹かれて・・・・、ちぐさの扉を開きます。
 
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   毛沢東の餃子、隣はエリアワンダーランド(なんのこっちゃ?)、向こうには宗教勧誘の一団が居ます。
   如何わしさが、野毛の魅力です。思えば、私達の心の中もこんな風に如何わしさも、そうでない気持ちも
   ごちゃ混ぜです。野毛の街並みに似ています。 其処が人を惹きつける魔力です。
   突き当りに寄席(にぎわい座)があります。 手前に(軽自動車の前)にちぐさがあります。
 
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   ちぐさは露地の交差点の角にあります。 お隣のリオンはジャズバーです。
 
ボリュームは絞っていますが・・・・、放送局仕様の圧倒的な音が響いています。
先客は窓際に一列・・・・、もう圧倒的な音に浸りきっています。
ウーファーはJBL製です、ツイターはAY(平塚にあった音響メーカー今は無い)製だそうです。
下腹に響くような音ではなく・・・・心地良い音です。
円覚寺で沢山の僧侶が読経している・・・、その響きのよな心地良さがあります。
 
珈琲(500円)を注文して、2列目の席に座ります。
私のテーブルにレコードのアルバムが置かれます。
200ページもあるファイルです。
”聴きたいレコードがあればかけてあげますよ・・・・!”
そんなはからいです。
 
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                     ちぐさ特注のスピーカー、ウーファーはJBLのスピーカーです。
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    レコードのアルバム、お客は此処から聴きたいレコードを指名する事が出来ます。
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     オーディオテクニカのプレーヤーです。右のメモはお客さんのレコード注文です。
 
 
他の人のブログに「石巻カレー/東北復活支援/800円」もメニューもあるようですが・・・・、
案内は出ていませんでした。
喫茶店には珈琲以外の匂いは・・・・、ご法度のように思います。
この薄暗い空間は・・・・、いい音に浸れる・・・・・、それ以外に何も必要でないのでしょう。
私は書棚に用意してある本を閲覧し(その記事でこのブログを書いています)、
壁にかかった有名なアーティストや、創業者吉田衛さんの横顔(プレート皿)を眺めます。
 
私がサラリーマン時代は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」に踊らされました。
今も、踊って騒いだ後の空しさが残っています。
だから・・・・、同期会だ、ゴルフ会だ…、案内こそあっても出席していません。
そんな私ですが・・・・・・、
ジャズの良さが・・・今更ながら解ってきたように思います。
職場の上司は無類のジャズファンでした。
もう、10年以上もお会いしていません。
職場(銀行)が破綻して以来・・・、賀状のやり取りも途絶えました。(出さなくなったのは私の方ですが)
このうす暗い空間で・・・、この音の中に居れば・・・、お互いに認め合う事が出来るような気がしてきます。
ジャズは生まれた時から・・・、心の傷を癒す音楽だったからでしょう。
 
あの人はどうしているのかな! 思いながらちぐさを後にしました。
同時に吉田衛さんが羨ましく思いました。
自分の好きなように人生を送って、
沢山の人が事業を継続してくれて、
お客さんも、継承者も…全員を幸せな気持ちにさせている・・・、
素晴らしい事です。
 
 
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  みなとみらいや関内のオフィスで働いて・・・、まじめな人は桜木町駅から音楽通りを県立音楽堂に向かいます。少し不良な人は駅から川沿いに野毛の街に向かいます。
写真は音楽通りにある日本最初のガス灯、今もガスが灯りをともしています。
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     野毛にはジャズを聞かせるカフェバーが数多くあります。
 
 
 
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野毛の「ハーモニカ横丁」

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今日は横浜の下町野毛にある「ハーモニカ横丁」を紹介します。
ハーモニカと言えば、昭和の匂いがします。
西岸良平さんの漫画「3丁目の夕日」にはハーモニカが似合います。
私達世代はハーモニカ一本あれば、歌えました。
それが、何時しかギターにその役割を譲りました。
今は小学生もハーモニカより、ピアニカを使っています。
私の町内には親爺のハーモニカクラブがあって、東戸塚小学校祭りをはじめ、催事には合奏しています。
 
ハーモニカ横丁はその形もハートも昭和の記憶を良く留めています。
 
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   横浜野毛のハーモニカ横丁、正式名は「都橋商店街」です。大岡川寄りは二階が見えます。
   一階の商店は背側だけが見えます。
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    此方側が通り側のハーモニカ横丁です。1階は商店ですが二階はバーや居酒屋です。
    横丁の正面の位置には交番があります。
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   野毛の成田山、手前に琵琶をもった弁天様、頭上には枇杷が実っていました。
   向こうに聳え建っているのがMM21のランドマークタワーです。野毛らしいアングルです。
 
野毛山の略頂上に野毛動物園があります。
浜っ子は誰しも遠足をはじめ、何回も行った所です。(今も無料)
山を野毛本通りを下って来ると、左にランドマークタワーが見えて、手前の谷の下に野毛成田山あります。
野毛本通は大道芸が演じられるので、話題になっています。
最近はお洒落なお店が出店してきています。
何故かイタリアンレストランが多いのも特徴です。
野毛は下町ですから・・・・、下町にはイタリアンが似合うのでしょうか?
因みに山手の元町商店街にはフランスレストランが多いのも特徴です。
 
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   野毛本通りに面したイタリアンレストラン「キンピラ」の店内。昼間は空いていますが、夕方からは
   お客さんが並びます。右手にワインボトルが並んでいます。
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  キンピラのランチ、フワフワのオムライスが800円です。野毛のイタリアンは何処も大変に美味しくて、
  安いんです。
   
そんなイタリアンレストランにも新しい風が吹いているようです。
立ち飲み・立ち食いのイタリアンが多いんです。
特にバジルが人気で、もう野毛に5店も立地しています。
ワインの樽を立てて、テーブルにしています。
沢山のワインが用意されていて・・・・、グラスでついでくれます。
ピザ(500円)はもちろん、本場イタリアのおつまみを用意してくれます。
人気の鰯のおつまみ料理は300円です。
 
店員はイケメンぞろいです。
バジルの経営方針はイケメンを社員にすること・・・・、
そうすれば女性客がつく、女性が集まれば男性客も寄ってくる・・・、
そんなコンセプトだと思います。
イケメンが上手に小さなフライパンを使って、料理を作ってくれます。
女性客はチラッと横目でイケメンを見やります。
 
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   立ち食いのイタリアン「バジル」の店内から通りを見る。
   道路側にテーブル席が2つあります。女性の一人客が文庫本を読みながらワインを楽しんでいました。
   イタリアンの新風のように見えますが、これこそ本来のイタリアンレストランなのかもしれません。
   立ち食いなら、お隣のご婦人に気軽に声をかけられます。”一緒に食べませんか?”とか、
   ”このワイン、そのお食事にあいますよ・・・!” なんて言いながら・・・・、
   会話が楽しめるかもしれません。
   イタリヤ野郎の女性たらし(?)はこんなお店が多いからではないでしょうか?
 
野毛本通りを下って、運河(大岡川)を渡れば伊勢佐木町です。
運河の手前までが野毛街です。
野毛側の欄干の袂に交番があって、交番を含んだ長屋のような建物が「都橋商店街」です。
札幌のススキの、福岡の中州にありそうな「呑兵衛横丁」の風情ですが・・・・、
両大都市の歓楽街にもこんなに風情のある飲み屋横丁はありません。
私は札幌でも福岡でも単身生活をしていますので・・・、断言できます。
もともと、運河沿いの呑兵衛横丁は自然発生的で、屋台が進歩した様なものですから・・・、
ハーモニカのように間口の揃った・・・、企画したような居酒屋街とは相容れないものです。
”何か、複雑な面白そうな歴史が潜んでいるな!”
直感です。
 
1964年(昭和39年)東京オリンピックが開催されます。
横浜市内ではバレー(横浜文化体育館) サッカー(三ツ沢蹴球場)が開催されます。
沢山の外国人を迎えるにあたって、横浜市内を整理しようと動きます。
お客さんは伊勢佐木町、野毛町に遣って来るだろうと思われました。
そんな時、野毛の街中にあった屋台を整理しようとなりました。
屋台を撤去するために、運河沿いに移転先を用意することになりました。
そうして出来たのが「都橋商店街」でした。
 
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   野毛の街には屋台が並んでいました。
   この移転先としてハーモニカ横丁(都橋商店街)が用意されました。
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      都橋商店街のオープン風景、一階は戦後の闇市の雰囲気を残しています。
      二階は飲食・居酒屋が並んでいるようです。
 
野毛の街を歩いていると空き家がほとんど無い事に気付きます。
空き家が出来ても・・・・、すぐに後のテナントが入るのでしょう。
イタリアンレストなんなら・・・・、ミナトミライの中にも、赤レンガ倉庫の中にも沢山あります。
でも、清潔な、現代的な街には・・・・、物足りなさを感じるシェフもゲストも居るもんです。
その物足りなさを埋めて余りあるものが野毛にはあるのでしょう。
それに、テナント料も安くて済むので・・・・・・、リーズナブルな価格設定が可能になります。
そうして出店されたイタリアンが・・・・・、
本場イタリアの雰囲気を醸し出せるのでしょう。(私はイタリアに行ったことは無いんですが)
 
陽が沈み始めると・・・・、関内やMM21に勤めたOLやサラリーマンが・・・・・、開放感に浸りたい・・・、
そんな思いで少し不良の匂いのする、少し汚れた野毛の街に出てくるんでしょう。
 
だから、野毛の街は夕方に始まるようです。
野毛の街を紹介するんなら・・・・、夜の表情を紹介しなければいけないのでしょう。
 
でも、街は夜だけではありません、昼も夜も賑わっていなくては・・・・・、夜のあだ花で終えてしまいます。
昼も人が集まるように・・・・、もう一工夫が必要なような気がします。
大道芸も街中アートもそんな努力の一つのような気がします。
そんな努力の積み重ねが、若い世代の「立ち食いイタリアン」を成功させ・・・・、夜は勿論、昼も楽しい街に変身させているようです。
ハーモニカ横丁にも空き家はありません。
 
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       これが野毛の本通です。手前側が野毛山、向こう側が伊勢佐木町です。
 
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     此方は親爺好みの場肉屋さん。夜にしか食べられないのは残念です。今度夜来ようっと!
 
 
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尊い「筆子塚」の伝統

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筆子塚を見に、千葉県富津の真福寺に出かけました。
お寺の甍を目標に近づくと・・・・、子供達の遊び声が響いてきました。
♪もうーいいかーい・・・、まーだだよ!♪
かくれんぼ遊びの声です。
境内に入ると・・・・・、子供と保母さんが遊んでいます。
見ればほとんどの子供が裸足で遊んでいます。
保母さんも裸足ですから・・・・、保育園が裸足を推奨しているんでしょう。
 
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     裸足でかくれんぼ遊びに興じる子供達。保母さんも裸足です。
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                富津の真福寺の経営する旭保育園、幼稚園は七夕飾りが用意されていました。
 
保育園児に訊きました。
「裸足で足が痛くないの?」
「ううん! 痛くないよ、裸足は気持ちがいいんだ・・・・」元気な答えが返ってきました。
 
保母さんに写真を見せて、訊きました。
「この筆子塚を見学に来たんですが・・・・・、
墓地にある・・・・、書かれているんですが・・・・、ご存じありませんか?」
保母さんは園内に戻って訊いてくださいました。
すると、若いお坊さんが出てこられて・・・・・、墓地を案内してくださいます。
親切過ぎて・・・、反って恐縮してしまいます。
 
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                   此方が真福寺の本堂です。車は墓地業者屋参拝客のものです。
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     若住職(右)が墓地の奥、筆子塚まで案内してくださいました。
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                                  泰山木の芳香が辺り一面に漂っていました。
 
若いお坊さんは真福寺の副住職で、普段は旭保育園、幼稚園の運営に係っておいでなのでしょう。
泰山木の下を通ります、辺り一面芳香が漂っています。
高台に岩場があって、櫓状に掘ってあります。
そこが歴代住職とそのご家族の墓地なのでした。
中央にお地蔵様の祀られた祠があって、その左側に卵塔が並んでいます。
此方が歴代住職のお墓です。
卵塔の西端に目標の筆子塚がありました。
 
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   中央の祠の向こう側が歴代住職のお墓、手前側が寺族のお墓。
   目指す筆子塚は岩壁に近い左から三番目にありました。
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              筆子塚全容 お地蔵さんの左右に宥慶和尚の名が、
              台座に建立趣旨、年月日が刻まれていました。
 
日本の近代化を支えた要因の一つに、教育水準の高さ、
読み書きそろばんが出来る人が多かったことがあげられます。
教えられた場所は、お寺でした。
お寺の住職が近所の子供を集めて、教えていました。
江戸時代に入ると寺小屋が出現し、後半には急増します。
明治維新、政府は教育改革に着手します。
国造りの基本は教育にある・・・・、「米百俵」の考え方は日本中に共通していました。
尋常小学校は寺小屋の看板を差し替えて整備されました。
 
寺子屋が学校でした。
だから・・・・、教わる子供は「寺子」と呼ばれました。
教えられた教科は”読み書きそろばん” だったのでしょうが・・・・、
もっと奥深く躾や倫理など人格的な薫陶が為されたのでしょう。
寺子達は先生(住職)に感謝し、尊敬していたことでしょう。
そんな先生が亡くなると、報恩の気持ちで塚(墓)を建立しました。
その塚を「筆子塚」と呼びます。
何故か「寺子塚」とは呼びません。
 
筆子塚は多くのお寺に在ります。
千葉県の筆子塚は3845基を数えるそうです。
     (筆子塚資料集成/千葉県のデータが整備されているのは地誌の研究家川崎久雄氏の功績です)
 
若いお坊さんは説明してくださいました。
「真福寺は真義真言宗の中本寺(高野山と末寺の中間で地方の中核になるお寺)で、
学問寺でした。
そんな生い立ちもあって、江戸時代歴代住職は寺小屋も運営していました。
寺子さんが感謝して「筆子塚」をたてて下さったんですよ。」
 
筆子塚は良くある五輪塔などではなく、端正なお顔の地蔵菩薩でした。
高さ135㎝で、その光背には「カ」の種子、左右に「宥慶/ゆうけい」と刻まれています。
屹度寺子屋の先生のお名前でしょう。
台座には「為報師恩僧俗弟子等謹令刻」と書かれています。
寛文元年(1661)12月14日とあります。
ですから筆子塚としては最も古いものと思われます。
 
第18代住職の宥慶和尚さんが亡くなられました。
そこで、
”その訓育を受けた俗人達が謹んでその恩に報いんがためにこの石塔をたてました。寛文1年12月・・・”
そんな意味でしょう。
 
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お地蔵さんを選んだのは宥慶和尚のお姿がお地蔵さんに似ていたからでしょう。
生き地蔵さんのような宥慶和尚だったことでしょう。
 
お地蔵さんの目線の先、少し右側を見れば富津の海が開けています。
もうじき、海水浴客で賑わう事でしょう。
そして、真福寺の末裔たちは自分と同じように教育に勤しんでいます。
”子供達に裸足で居る事は・・・、体にも心にも良いもんだ・・・、”
宥慶和尚は自分の末裔が、教えている事を見て、聞いて、満足しておいででしょう。
 
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                      筆子塚(奥一番右端)は富津の海を見渡す高台にあります。
 
顔(つら)の皮は薄く、足の裏は鍛えて厚くすることが良いと聞きます。
大地を足の裏で感じて育った子は・・・、良い子に育つ事でしょう。
♪ 仰げば尊しわが師の恩・・・・♪
卒業式の歌を思い出しました。
 
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    右から二つ目が宥慶和尚の筆子塚、一番左が宥圑和尚の塚、この一角4基の塚は筆子塚と思われます。
    宥慶和尚の筆子塚は最古で、最も美しいし、ハッキリと塔を建てる目的が刻まれていました。
 
 
 
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夏越え神事の「茅輪くぐり」(鎌倉で)

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先週末、町内一斉清掃をいたしました。
その時、指を切ってしまいました。
土手のススキを伐採しようと、左手でススキを握った瞬間、強い痛みが走って鮮血が迸りました。
指先がススキの葉先で剃刀で切ったように割れていました。
その瞬間、”茅の輪”を思い出しました。
夏越え(なごえ)の茅輪くぐりは、この茅を編んで作った輪を潜る事で穢れや罪、汚れを祓う事なのでしょう。
茅の葉先の鋭さが穢れや邪気を切り落とす・・・・、古代の人はそう思ったのでしょう。
 
本来は注連縄も茅の葉を編んで作りました。
でも、茅は少ないし、編むのに手が折れるので大半が青味の残った稲わらを使っています。
私の町内では氏子で注連縄を作ります。(子之八幡社)
注連縄造りの技が引き継がれているのです。
 
でも、最近の神社ではプラスチックの紐を編んで作った注連縄が目立ちます。
何れ・・・・大相撲の土俵もプラスチック製になるのではないかと・・・・・、心配です。
江の島神社(下社)には年中茅輪が置かれていますが、これもプラスチック製です。
神社の世界では、天然ものを使ってほしいものだ・・・・、思います。
 
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   鎌倉大町にある八雲神社の注連縄もプラスチック製です。
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   鎌倉腰越の小動神社(こゆるぎじんじゃ)の注連縄もプラスチック製です。注連縄は天然の茅で
   毎年編んで作るのが伝統です。
 
 
先ず、腰越の龍口明神社を参詣しました。
この神社は鎌倉最古の神社で、五頭龍大神を祀る神社です。
向かいの江の島神社とは「江の島創成の伝説」で結ばれています。
 
真新しい茅輪が出来ていて、潜り方も親切に案内してあります。
先ず、茅輪に一礼して、左足を先にして茅輪を潜って、左のまわります。
そして茅の輪に戻ったら次は右足を先にして茅輪を潜ります。
三度目はまた左に回ります。
何の事はありません、神主さんが「祓い串」を使うあれと同じです。
 「みな月のなごしの祓する人は千年の命のぶというなり」
と唱え唄を口ずさみながら茅輪を潜るのが作法だそうです。
社殿のお隣「斎館」では茅輪造りを終えた氏子さんがビール片手でお祝いしています。
 
私は、茅輪の素材を確認してみました。
指を切りそうな・・・、ススキの葉で作られていました。
屹度近くの広町緑地辺りで今朝伐採したものでしょう。
地のススキで、氏子が共同して茅輪を作る・・・・、この作業をすれば穢れは吹き飛ぶことでしょう。
 
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 腰越の龍口神明社は江の島向かいから腰越の新興住宅地に移転しました。
 でも、神事は昔ながらのスタイルで継承されています。
 
次いで、江の島神社に回りました。
明日が海開きですから・・・・、片瀬も江の島も大変な混雑です。
加えて今日は日曜日です。
 
茅輪は・・・・、何時もの位置に在りました。
プラスチックの茅輪の周囲に真新しい茅が巻かれていました。
茅の量が少ないので・・・・、地になっているプラスチックが覘けて見えます。
私は茅の素材を確認してみます。
此方は手を切るような鋭さはありません。
萱(スゲ)が使われているのです。
チマキを包んでいるあの茅です。
萱笠に使われる茅です。
 
此方は近くの引地川か境川の川原から採取したものでしょうか?
 
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                      江の島神社「辺津宮」の茅輪、石段の途中から列をなしていました。
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  江の島の茅輪は萱(すげ)を使っていました。萱もススキと違って葉先が剃刀のような鋭さはありません。
  幅広で、牛や馬の飼料にもなります。萱の隙間からプラスチックの芯が垣間見られました。
 
 
矢張り、一番の人出のあるのは鶴岡八幡宮です。
今年は例年以上の人出のようです。
11時から2時間おきに、計4回のお祓いが執り行われます。
参拝客はお祓い料を納め、形代(かたしろ)等の用具を求めます。
そして、大祓い(夏越えの祓い)の作法や意味を教わります。
11時の最初の大祓いの前にはもう300人余りの人が舞殿の西広場に集まっていました。
 
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           鶴岡八幡宮夏越えの祓いのポスター。茅輪の緑と神主の白装束が清々しい。
 
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     茅輪の前で記念撮影。
     茅輪を潜れるのは神事に参加した人だけです。(潜れないように柵が用意されています)
     八幡様の茅輪はススキで出来ていました。流石に専門職が作っただけあって、姿形も立派でした。
     
 
10人余りの神主さんが、この日は真っ白な神服姿で登場します。
祝詞をあげます。
私は祝詞の内容に聞き耳を立てます。
「夏越えの祓い」はその字の通りです。
1月から6月まで、半年の間に体に心に澱んだ穢れや邪気を払って、
これから迎える夏場を乗り切るためのお祓いです。
我が国文化の伝統は、体の汚れも、心の汚れも嫌い、穢れなさを尊ぶものでした。
子供の時から一番の侮辱される評価は「汚い奴」「卑怯な奴」「弱い者いじめをする奴」でした。
それが昨今は「金に汚い奴」「弱い者いじめをする奴」「人を騙す奴」「小利口な奴」がのさばって・・・・、
伝統の文化は忘れられて来てしまったようです。
夏越えの祓いは「綺麗な心」「正直な心」「素直な心」を大切にして過ごしたい・・・、
そう思わずにはいられない、そんな祝詞でした。
 
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      神主さんにお祓いを受けます。頭を下げて祓い串を受けます。”左・右・左”茅輪潜りとおんなじです。
      穢れは左から来ることが多いのでしょう。
 
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   体の汚れを白い紙を用いて浄めます。身体の汚れは神に移され、紙吹雪になって舞います。
 
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   身体の中や心の汚れは人型に移します。汚れを移した人型は集められ海に流すか焼いて浄めるのでしょう。
 
 
参拝客は可愛い巫女さんの案内に従って、身体を清めます。
浄めに使った白い紙が吹雪になって舞いました。
次いで、人型に切った紙に向かって息を吹きかけます。
身体中に溜まった汚れを人型に移して、清めて(焼いて)貰うのです。
そして、最後は神主に連れられて、茅輪を潜ります。
左回り、右回り、最後にもう一度左回り・・・・、∞の形に茅輪を潜って・・・・、夏越え祓いの神事は終了です。
 
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                                              先ず神主が茅輪を潜って見せます。
 
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     次いで、神主さんの先導で参拝客が茅輪を潜ります。炎天下茅輪潜りが延々と続きました。
     
 
 
日本中が汚れてきました。
「明浄正直」に過ごそうとすると、反って周囲の反発や妬み嫌味を受ける様な・・・、嫌な風潮が目立ってきました。
「プラスチックの注連縄は問題だ!」
大声で叫べば・・・・、嫌われることでしょう。
周りが汚れれば・・・・、適当に自分自身も汚れておいた方が無難に過ごせます。
 
周りの人に煙たがれても、神様だけには好かれている、守られているそんな人になりたいものです。
そうしながら・・・、この夏も心身ともに健康に過ごしたいものです。
 
八幡様の茅輪は専門職員が作ったものですから・・・、姿形も美しいものです。
方は、龍口神明社の茅輪は素人の氏子が作ったもので・・・・、形はイマイチですが、
ハートが感じられて良いもんです。
 
 
 
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相模大山の山開き

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昨日(7月1日)は海開き・山開きが各地で行われました。
でも、TVニュース新聞も富士山を報道するばかりで・・・・、他の山開きは見向かれませんでした。
ユネスコの文化遺産指定効果なので致し方ありませんが・・・・・、
山岳信仰で見れば、大峰山(奈良)の方が古く、江戸時代は大山(相模)の方が人気があったのでした。
 
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                                      今日の話題「藤沢四谷辻の不動明王像」です。
 
7月1日午後3時、藤沢の四谷辻(茅ケ崎バイパスの西側出口)を通りました。
藤沢宿から大山詣でに通る道です。(田村道と呼びました)
此処に大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)の「一の鳥居」があります。
鳥居の手前、東海道に面して祠があって不動明王が道行く人や車を見下ろしています。
 
不動明王の前に濛々と煙が立っていました。
黄色い法衣を着られた坊さんが護摩を焚いておいでです。
ご近所の信者の方が集まって、手に手に樒(シキミ)の若木の小枝を持っています。
その小枝を護摩の火にかざします。
その時に濛々と煙が立つのでした。
 
護摩で清められた樒の小枝は玄関に置きます。
すると、厄災を防いでくれるのだそうです。
親切な叔父さんが
「あなたもどうぞ!」・・・・・、私に樒を一枝分けてくれました。
護摩を焚いておいでなのは、八松山明王院宝珠寺(俗称北の寺)のご住職、
辻堂の地名はこのお寺さんの名に起こった・・・・、私はそう思っています。(他説もあり)
大山詣での信者さんは藤沢宿から辻堂を経て四谷の一の鳥居を潜りました。
江の島神社から次の聖地大山阿夫利神社に向かったのでした。
 
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      右が田村道にかかる大山阿夫利神社の一の鳥居になります。
      左の不動明王の祠の前で護摩がたかれました。導師は明王院宝珠寺のご住職です。
 
私達が旅行をプランするとき、2泊3日で考える事が多いと思います。
大きな目的地を二つ選んで、三角形に回ります。
そうすれば、同じ道を二度通ることも無く、沢山の物見遊山が出来るからです。
江戸っ子は旅行好きで・・・・、多くの人が三角ツアーをプランしました。
行きは東海道を下ります。
戸塚宿辺りから「鎌倉道」の標識が目立ち始めます。
柏尾川に沿って江の島に向かうか、境川に沿って江の島に向かいます。
多くの人は藤沢遊行寺の前から江の島道に入りました。
此処には江の島神社一の鳥居がたっていました。(今はありません。広重などの錦絵には描かれています)
江の島神社詣でが終わると、大山道に入り大山阿夫利神社を詣でます。
帰路は「青山通り」を戻ります。
現在の国道246号線です。
三軒茶屋で一服し(此処にも大きな道標があります)江戸の市街に戻ります。
青山通りの名は「青山通り大山道」が正式名でした。(勿論往路を青山道にする人も多かったでしょう)
 
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     護摩の火に手持ちの樒をかざします。樒は濛々と煙を揚げます。
     浄められた樒を持ち帰り玄関に起きて邪気除けに致します。向こうの道路は一号線(東海道)です。
 
私は横浜に住んでいます。
相模は何処からでも大山の山容が眺められます。
大山の峰々を麓にして、富士山が高い所に聳えたって見えます。
一番に神々しのは・・・・・、富士山ですが・・・・・、
大山は農業に直結しています。
その名の通り大山に雲がかかれば雨が降ります。(あぶり・・・・雨降り神社)
だから・・・・・、大山さんは五穀豊穣を司る神様が棲んでいられて・・・・、死んだらあの山に魂が戻るんだ・・・、
そう思っていました。
 
相模の人にとっては大山は精霊の宿る山ですから入山することは憚れました。
山に入れるのは入峰修行を専らにする山伏や修験者に限られました。
ところが江戸時代になると夏の一定期間にだけ、山頂に祀られている神を拝むことが出来るようになりました。
初日が「山開き」で、最終日が「山仕舞い」になりました。
 
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                             これは東海道二宮から始まる大山道(二の宮道)の分岐標
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   此方は横浜俣野の龍長院前にある大山道の道標を兼ねた不動明王。
   国道1号線の排気ガスを被って真っ黒です。
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  これは戸塚の柏尾にある大山道分岐点にある不動明王の祠。
  この傍の不動坂はこの祠があるのでネーミングされたものです。
  何時も渋滞で車が動かないので”不動坂”というのではありません。
 
 
今では一年中、男も女も山頂に登る事が出来ます。
足が弱い人はケーブルカーに乗れば行けます。(ケーブルカーの乗り口までも石段が長いんですが・・・)
 
私の大山にかける思いの深さは、大山寺のご本尊「不動明王」にあります。
このご本尊は数少ない鉄仏なのです。
鉄仏とは鉄製の仏様の事です。
京都や奈良の金属製の仏像は銅だけです。
ところが、東日本には90体ほどの鉄でできた仏様が出現します。
出現するのは鎌倉時代です。
相州伝と呼ばれる刀鍛冶が出現し、日本刀が進歩します。
鉄製の農機具は生産性に格段の進歩を可能にしました。
鉄に対する”思い”は鉄仏を出現させたと思われます。
西日本に鉄仏が無い事実は、鉄は東日本の人々の気質にもあっていたのでしょう。
 
そんな鉄仏は数多くありますが・・・・・、
五穀豊穣を司る大山のご本尊が鉄仏の不動明王であることは、
最も尊いと思われます。 
  (大山阿夫利神社は次に書きました http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46564587.html
                         http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45843831.html)
 
四谷辻の不動明王はそのご本尊の分身のようなものです。
この田村道を辿れば、ご本尊の鉄の不動明王に続きます。
こうして、藤沢の一の鳥居の前で山開きの法要が営まれる・・・・、
大山さんは相模では一等、有難い聖地です。
 
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    鎌倉覚園寺の不動明王像(鉄仏)、関東地方には鉄仏が多くあります。鉄仏は鉄に対する”思い”が込められて    いると思われます。
    銅に比べれば融点が高く、仏像にするには困難を伴うからです。(写真は鎌倉仏像巡礼から転載)
 
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       大山寺の不動明王像。本堂で拝観可能ですが写真に撮れません。これは大山のHPからの転載です。
       この写真では不動三尊像の迫力は全く伝わりません。
       鉄の荒々しい皮膚、重厚さが拝観者を圧倒してきます。
 
 
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酒仙人のお墓(智蔵寺行人墓)

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紫陽花の明月院の北、裏山を超すと今泉に出ます。
緑の濃い一帯で、鎌倉湖と呼ばれる溜池があります。
この今泉に江戸時代末期、磯田広吉が出現します。(1756年~1828年)
これが大変な酒好きで・・・・、酒で身上を潰した会津の小原庄助さんのような一生を送ります。
でも、一点広吉には狂歌(川柳)を好み、その判者であり、「狂歌酒百首」を含めて3編の著作を発表しました。
 
昨今は某生命保険会社の頑張りで、サラリーマン川柳が好評です。
そんな影響でしょう、今泉では川柳愛好会が発足し、活発に創作活動に励んでいるようです。
判者の広吉(酔亀亭天広丸/あめのひろまる)はあの世から、
”良い傾向だが、イマイチだな!” 辛口の評を下している事でしょう。
天広丸のサインは徳利でした。
 
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   鎌倉今泉の白山神社、この参道に面して「天広丸」の狂歌碑があります。
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   これが「天広丸の狂歌碑です。
   文字は広丸の自筆だそうですから、達筆で相当の人物であったと思われます。
      くむ酒は これ風流の眼なり
              月を見るにも花を見るにも 「狂歌酒百首」  
 
六本木1丁目の善学寺には広丸の次の狂歌碑があります。
      心あらば 手向けてくれよ  酒と水
              銭のある人 銭のない人 (同)
酒好きこそ風流の極み、と確信している広丸はあの世に行っても風流に過ごしたい・・・、そう祈願したのでしょう。
金のある人は私の墓前に酒を供えてくださいな・・・・、お金のない人は無理しないでお水をちょうだいな・・・!
そんな狂歌です。
  (今泉の狂歌活動や善学寺は次に出ています。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/write.html)
 
この狂歌は屹度沢山の酒好き、風流人の共感を得たに違いありません。
時空を超えて・・・・私の周囲には
”その通りだ・・・・!” 拍手しそうな友人が沢山います。
 
旧鎌倉道を北に向かった私の住む戸塚区倉田町でも酒好きが出現します。
倉田町の蔵田寺は戸塚の風流人が集まって、俳句などの文化活動を行っていました。
戸塚宿のリーダー伊勢屋(酒屋)の鈴木富永です。(今も鈴木家は戸塚で名家です)
その墓地に酒樽が残されています。
(この酒樽墓標は次に書きました。
 
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                                      倉田の蔵田寺にある酒樽墓標。
 
 
世の中には酒好きは沢山いて、あの世に行っても酒を飲みたいものでしょう。
でも、墓標まで酒樽にするのは・・・・、もう凡人の域を逸脱して狂人でありましょう。
だからこそ・・・・、狂歌なのでしょうが・・・・。
伊勢屋のような墓標は滅多にあるもんじゃない・・・、思っていました、
ところが、今泉より、倉田よりズット田舎に、とんでもないお墓がありました。
 
今までが前置きで、これからが今日の本題です。
 
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                                          南房総市山名にある智蔵寺
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   禅寺の風格がある智蔵寺本堂、欄間の波彫刻が初代伊八の作です。
   案内板には甲斐武田氏の末裔の寺であったことが記されていました。
 
 
場所は南房総市の山名で、字の通りの山中です。
智蔵寺(曹洞宗)には初代伊八の欄間彫刻がありますので、伊八ファンは良く承知のお寺ですが、
そうでもなければ、先ず参詣者が訪れない山寺です。
そのお寺さんの墓地の奥に酒樽墓石があります。
 
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                               溝口家の墓所にある「行人墓」、一見して異様です。
 
墓石を下から見て行きます。
基台には精巧な唐獅子が彫られています。
その上に酒樽が置かれています。
酒樽(こもかぶり)には無漏(むろ/もろさない)と書かれています。
酒飲みはコップ酒の受け皿に漏れたお酒も大切に飲むもんです。
そのことかといえば、煩悩から解放された境地を示すものでしょう。
お酒を飲んで世間の煩わしさや憂さから解放された境地・・・、とでもいうものでしょうか?
 
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                          酒樽上の行人像、でも、茶碗に瓢箪を持って自酌しています。
 
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酒樽の上に半跏ふ坐した行人がいます。
行人の光背には月山・湯殿山・羽黒山と刻まれていますから、この行人は出羽三山のそれということになります。
三山の下の段には坂東・秩父・西国と併記されています。
ですから百観音と出羽三山の重層信仰の表われでありましょう。
行人は右手に茶碗を、左手の酒を入れた瓢箪を持って、自酌しています。
でも、いくら飲んでも酔っぱらうわけでは無く・・・・、正常な理性的な顔をしています。
酒は飲んでも、飲まれない・・・、そんな顔でしょうか?
 
三芳村村史によれば、この行人は「溝口八郎右衛門」で、大変な酒豪であったそうです。
没年は天保14年(1643年6月13日)90歳だったそうです。
 
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                               酒樽の背には辞世の狂歌が刻まれています。
 
また、酒樽に戻ります。
酒樽の背には辞世(狂歌)が刻まれています。 
  百の銭 90は此処で飲み別れ 六文を持って末の道中
6文銭は三途の川の渡り賃の意味でしょうから・・・・、差し引き4銭は酒代になるんでしょうか?
算術は別にしても・・・・酒豪の面目躍如たるものを感じます。
 
對馬郁夫氏の意見ではこの墓標の作者は武田石翁であろうということになっています。(房総の石仏百選)
石翁は現鋸南町に居た名工でした。
その作品は日本寺の羅漢群・観音群に遺されています。
 (この項は次に書きました
 
 
石翁の技量も凄味がありますが、酒豪「八郎右衛門」も大変なもんです。
こんな石仏を眺めていると痛感します。
江戸時代って面白かったんだなあ・・・・!
酒を飲んで身上を潰したら・・・・、現代では総スカンを食らう事でしょう。
身内からも、子孫からも、近所からも、侮蔑されることでしょう。
でも、天の広丸も鈴木富永の孫も、八郎右衛門も皆から認められていたように思います。
酒飲みで風流で・・・・、屹度義に厚く情にもろい人物だったことでしょう。
そんな価値観、人間観が失われて久しいように思います。
「人間性の解放」 この意味では江戸時代は今よりも進んでいたのかも知れません。
少なくとも酒飲みにとっては・・・・。
 
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     智蔵寺山門前の六地蔵、櫓に祀られていました。自然環境が良いので石仏も美しいのです。
     行人像も良い梅の木苔が付着しています。
 
 
 
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