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小安の里の合歓の花

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街に里山に「合歓の木/ねむのき」の花が目立つ季節になりました。
毎年七夕の季節になると、合歓の花が咲き出します。
流し雛で有名な鳥取では七夕に「合歓流し/ねむながし」が行われます。
合歓の木の枝と大豆の葉を川に流して、 邪気をはらうのです。
 
薄紅の、化粧用の刷毛(はけ)のような花が、空に向かって咲いています。
夏を歓迎して讃歌を歌っている様に思えます。
合歓の花を観に葉山の小安に行きました。
 
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  今が盛りの合歓の花。これから8月いっぱい咲きますが一番花の咲く今頃が一番綺麗です。
  羽根毛のように見えるのは雄蕊です。
 
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  撫子ジャパンがワールドカップで優勝した時のお祝いが何故か化粧用の羽根毛でした。
  合歓の花を髣髴させます。(写真は楽天のサイトから転載)
 
 
湘南国際村の裏(南)側に小安通りがあります。
湘南国際村と海岸通りを結ぶ新しい道です。
道の両側の分譲地は未だ買い手がつかず、ススキが生えています。
そんな土地に大楠山から合歓の種が飛んで来て、自生したものでしょう。
未だ、若木ですが道路端に数本花をつけています。
 
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    高台の上が湘南国際村の個人住宅ゾーン、手前が事業用地。事業用地(研修・研究用施設用地)は買い手が    つきません。その都市計画道路脇に合歓の木が自生しています。
    状況から三井不動産が植樹したものではありません。大楠山から種が飛んで来て自生したものでしょう。
 
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      坂を下って、トンネルを越せば海岸通りに出ます。この辺りが子安海岸です。
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    子安通と海岸通りの交差点。道路の向こう側は断崖で子安浜に降りられます。
    沢山のワンちゃんを連れているのは・・・・、預かっているものでしょう。
    湘南国際村ではこんなサービス事業もあるようです。
 
合歓の木、漢字を見れば、「夫婦和合の樹」ということになります。
私の若いころ、伊勢志摩に「合歓の郷ホテル&リゾート」が出来ました。
結婚式場もあり、新婚さんには人気のリゾートでした。
花の姿が良いから・・・・、それとも夜になると葉を閉じて寝てしまうから・・・・、
夫婦和合の樹になったのでしょうか?
いずれにしても、花や葉の優しい姿が・・・・夫婦がお互いを思いやる・・・・、
連想させて「合歓」の名や字があてはめられたのでしょう。
 
「合歓の木」と言うと私の世代は美智子妃殿下が少女(15歳)の時作られた「合歓の木の子守唄」を思い出します。
懐かしさからYOU-TUBEで聞いてみようと・・・・ネットで検索しました。
昔は吉永小百合さんや鮫島百合子さんの歌が聞こえたんですが・・・・、
代わって外人さんが歌っていて、リスナーの評価も英語ばかりでした。
I love this song.
This song is writen the lyrics by our Empress Michiko when she was 15 years old.
I respect our Empress,her beautiful and avuncular mind.
This is a beautiful lullaby.
と好評です。
この歌は、秋篠宮殿下ご誕生をお祝いしてレコード化されました。
 
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  海岸通りに面して子産石(こうみいし)が祀られています。子宝を授かる、安産を祈願する神聖な石です。
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   子を授かるように、安産であるように祈願します。その時子産石の前の小石を預かります。
   大願成就したら…、お礼参りに・・・・、子安の海に出て新しい小石を届けます。
 
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     この石だらけの海が子安の海です。この海岸の小石をお礼参りに使います。
 
小安の里の謂れは「小産石/こうみいし」があるからでしょう。
海岸通りに面したスープカレー屋さんの駐車場に小産石が祀られています。
丸い石で、妊婦さんの膨らんだお腹を思わせます。
この丸い石が霊験があって、触れば安産なんだそうです。
勿論、子供の無い人は授かる事が出来ます。
近くには子安地蔵尊も祀られています。
妊婦さんは、小安石の前にある小石を拾って・・・・、出産時握っています。
すると、丸い子をスルッと安産することができるそうです。
出産のお礼には子安海岸で新しい石を拾って、小安石にお供えします。
その小石がまた次に妊婦さんに握られる仕組みです。
 
小安は合歓の花に相応しい里といえるでしょう。
梅雨の晴れ間、良い海風が吹いてきて、合歓の羽根毛も葉っぱも気持ちよさそうに揺れていました。
 
 
 
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      向こうの尾根が大楠山になります。
 
 
最後に拙い作品をお見せします。
 
【小安の合歓の花に寄せて/連作】
 
  次々に 合歓の花々 咲き出でて
        追憶の彼方の 悔恨を呼ぶ
 
  しがらみを 千切りて流す 合歓の花
         五月雨の波間を 浮きつ沈みつ
 
  悔恨も 恥辱も総て 花に託け(あずけ)
         大海原の水底(そこ) 補陀落(ふだらく※)に届けん
 
  水無月の風 心の飢餓を 癒さんと
         合歓の花をば 揺らして行けり
 
  愛憎の 修羅を燃やした 合歓の花
         昔も今も 変わらず咲けり
 
  合歓の花 紅く淡く輝きけれど
         やがて消えゆく 野分立つ頃
 
  昨日が今日 今日は明日へと 移りゆく
         花の命も 果かなしけり
 
  終の日は いずれ来ん事 確かなり
         今は暫しの 季節(とき)を 生きんか
 
 ※ 補陀落とは海の底にあるという観音菩薩の浄土の事です。
    古来熊野の海は補陀落と呼ばれ、多くの人が入水しました。これを補陀落渡海といいます。
 
 
 

 
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浜木綿のような佳人(吉野とみ子)

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今週末、鎌倉も海開きです。
海の家も突貫工事で、慌ただしい様子です。
由比ヶ浜の稲瀬川河口を見ていたら・・・・、もう浜木綿(はまゆう)が咲いているではありませんか。
例年に比べれば10日も早いでしょう。
今年は夏が早いんです。
 
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    歌舞伎で有名な稲瀬川、河口部は小魚が群れているので子供の格好の遊び場です。
    此処に浜木綿が咲きます。
 
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     由比ヶ浜に咲き出した浜木綿の花。ついこの前までは浜昼顔が咲いていたのに・・・。
 
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                                             浜木綿に砂の女(?)
 
浜木綿は慶応大学の南校舎前に咲いています。
同学の経済学部を卒業した吉野秀雄を偲んで植えられたものです。
吉野秀雄の歌碑も建てられています。
   図書館の前に沈丁咲くころは 恋も試験も苦しかりにき
 
吉野秀雄は浜木綿の花がお好きでいられました。
真っ白い花、由布のようなその姿、そして艶のある緑の葉っぱが歌人のハートを鷲掴みにしたのでしょう。
昭和29年(1954)秀雄は鎌倉小町の自宅からバスを乗り継いで、横須賀の佐島の天神島に向かいます。
此処が当時は浜木綿の北限だったからでした。
浜木綿のように美しく、優しい奥様とみ子さんに見送られて・・・・。
天神様の森に歌碑が建っています。 
       この島を北限とせる浜木綿の
               身を寄せ合ふがごとき茂りよ

        草質(くさだち)といへど逞し浜おもと
                佐島の磯にいのち根づきし
 
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       天神島の吉野秀雄歌碑。吉野秀雄と浜木綿は以下に書きました。
 
吉野秀雄が生きていたころは未だ由比ヶ浜に浜木綿は自生していなかったのでしょう。
それが・・・・・、地球温暖化の効果で・・・、三田にも由比ヶ浜にも浜木綿は自生するようになったのでしょう。
吉野秀雄が由比ヶ浜の浜木綿を見ていたら・・・・、
天神島のそれより、もっと、もっと万葉風の秀歌が作られていたことでしょう。
 
吉野秀雄の人となりを示す話があります。
 
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       晩年の吉野とみ子さん。良いお顔をされています。若い頃も大変な美人だったことでしょう。
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     八木重吉と愛娘桃子、詩集は昭和46年購入したもの。
 
その話をするには夭逝した不遇の詩人「八木重吉」の話をしなければなりません。
 
八木重吉は神戸の御影の師範学校で英語教師でした。
頼まれてとみ子の家庭教師をいたします。(1921年/大正10年)
とみ子は滝野川の女子聖学院高女の編入試験を受けたのでした。
とみ子は見事に合格を果たします。
同時に重吉の恋心が燃えあがります。
 
重吉は周囲の反対を押し切って翌年結婚します。
こうして、重吉24歳、とみ子18歳、初々しい新婚生活が始まります。(1922年/大正11年)
その翌年には最愛の長女「桃子」が産まれます。
3年後には長男「陽二」が産まれます 。(1925年大正14年1月)
親子4人、聖家族が実現し、幸せな生活が続きます。
 
ところが、重吉は結核を患ってしまいます。
幸せな結婚生活は4年余の短さで終焉してしまいます。(1927年10月26日没、重吉29歳、とみ子23歳)
その後、1937年(昭和12)に桃子(14歳)が、1940年(昭和15)には陽二(15歳)が重吉と同じ肺結核で逝ってしまいます。
こうして、病魔肺結核の餌食になりとみ子は天涯孤独になってしまいます。
 
とみ子は重吉の残した手書きの詩集を懐にしながら・・・・・、生きて行きます。
 
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     天神島の南側では浜木綿も咲き始めました。ご夫婦が仲良くスケッチをしておいででした。
 
とみ子は縁があって吉野秀雄の家で家事手伝いをすることになります。
とみ子は美貌でありましたし、知的でもありましたから…、秀雄も気になっていたかもしれません。
とみ子が盥に洗濯板を使ってゴシゴシやっている姿を見て・・・・、秀雄は愛おしく思う様になりました。
  われに嬬(つま) 子らには母のなき家に 
      えにしはふかし きみ来りける
と詠んで求愛します。
とみ子は秀雄の愛を受け入れます。
 
秀雄には先妻との間の4人の子も居ました。
複雑な家庭になりそうなところですが、とみ子の優しさは暖かい家庭生活を実現させます。
秀雄は次のように詠っています。
  在り経つつ 貧しかりとも朝な夕な
        やさしき妻が声は澄むなり
 
吉野秀雄はアララギを代表する詩人で、小林秀雄らに高く評価されていました。
一方、八木重吉は詩人としても無名でしたし、その自由律といった詩風も認められていませんでした。
秀雄は妻が前夫を深く愛し続けている事を受け入れて、更にその手書きの詩集を読みます。
そして、珠玉ともいえるその作品と、重吉の人となりを認めます。
そして、八木重吉の詩集を上梓します。
 
 
1952年(昭和27)八木重吉25回忌に、吉野秀雄、とみ子夫婦は相模原の重吉の生家を訪れます。
 (現八木重吉記念館)
秀雄は重吉の墓前に次の歌を供えます。
  重吉の妻なりし いまのわが妻よ
     ためらはずその墓に手を置け
 
  われのなき 後ならめども妻しなば
     骨わけて ここにも埋めやりたし
 
一人の美しく優しい女性を愛した、二人の男性が居ました。
二人は生前知り合う事はありませんでしたが・・・・、その作品を通して無比の親友になっていたのでした。
 
秀雄が案じたように、自分自身は先に亡くなります。(1967年昭和42年/64歳)
とみ子は1999年(平成6年)94歳で後を追いました。
屹度秀雄の挽歌の通り・・・・、とみ子は分骨されて、重吉、秀雄と夫々に添っている事でしょう。
 
東戸塚小学校の図書館で「八木重吉詩集」を見つけました。
私が学生だった頃は、クリスチャンの人ぐらいしか知らない詩人でしたのに・・・・、
驚いて尋ねると、先生に教えられました。
「素朴な琴/代表作」は5年生の教科書に載っていますよ・・・!」
            素朴な琴   八木重吉 
          このあかるさのなかへ
          ひとつの素朴な琴をおけば
          秋の美しさに耐えかねて
          琴はしづかに鳴りいだすだらう

 
私の脳裏にこんな光景が浮かびました。
あの世に3人が集っています。
真ん中に佳人が居て、その右に若い病弱そうな青年が居ます。
左には痩せた益荒男が居ます。
益荒男は偉そうに言っています。
「俺が、お前の詩を世間に広めてあげたんだぞ・・・・・、感謝してるのか?」
すると・・・・・・、若い方がブツブツ言い返します。
「詩は私の魂だから・・・・・、作品が良かったのですよ、私の詩は教科書に載っていますが・・・、貴男の歌はどうですか・・・?」
佳人は二人の遣り取りを楽しそうに聞いています。
佳人の前半生は大荒れでしたが、誰もが羨む良い一生でした。
二人の素晴らしい人に心底愛されて過ごしました。
 
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  浜木綿(はまゆう)は「由布/ゆふ」が語源。神主さんが使うお祓い神具です。(八幡宮の茅輪)
 
今年も神保町の古書店で販売会が催されるそうです。
今年売り出される最高の呼び物は・・・・・、太宰治の手紙だそうです。
手紙は「女とは別れる、これから故郷の津軽に帰る・・」そんな私信だそうです。
でも、書かれた4日後太宰は多摩川上水に投身してしまいます。
太宰ファンが多いので、相当の高値になる事でしょう。
鎌倉は太宰が最初に自殺未遂した所ですから・・・・、鎌倉文学館で落札したら良いのに・・・、思ったりしますが・・・・。
 
男女の愛憎は様々な姿で現れます。
とみ子が一番に幸福であることは間違いない事でしょう。
 
浜木綿の花は神主さんがお祓いに使う由布がルーツです。
とみ子には浜木綿が一番に似合う様に思います。
それは秀雄が一番に大切に思っていたからであり、
純粋無垢な、神々しい花だからです。
 
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    浜木綿は梅雨明けの頃が一番綺麗です。天神島の北浜で一昨年撮影。
 
 
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緋色のカンナと日本軍の弾丸(秋谷海岸)

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明治31年、民俗学者の柳田国男は島崎藤村に話します。
「黒潮が流れて、三河の伊良子岬には椰子の実が漂着しているよ・・・・。」
柳田の話は詩人の琴線に触れて、椰子の実を発表します。(明治33年/新小説)
更に昭和11年、日本放送協会は作曲家大中 寅二に依頼し、「国民歌謡/椰子の実」を放送します。
こうして、私達は「椰子の実」を愛唱するようになりました。
 
「椰子の実」 
 名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月    (以下略)
 
黒潮が運んできたのは、椰子の実だけではなく”民族も文化”も運んできたんだよ・・・・、
柳田国男の着想だったのでしょう。
 
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                                今日の話題は葉山秋谷海岸のカンナの花。(一昨年撮影)
 
黒潮が運んだのは椰子の実だけではなく・・・・、もっと身近な椿や水仙花・浜木綿も運んできたのでしょう。
何れも、海浜に近く自生地があります。
種や球根が潮水に乗って、遥々南の国から日本の海岸線に漂着して、自生しているのでしょう。
その自生地が徐々に北上して・・・・・・、全国各地に椿や水仙が海岸線に自生しています。
 
若しかしたら、カンナも潮水が運んできたのかも知れない・・・・、
思わせる場所が三浦半島の秋谷海岸にあります。
潮水は黒潮のような地球規模の海流でなくても、相模湾の潮の流れかもしれません。
海岸に咲いたカンナが波に土を洗われて、その芋(地下茎)が剥きだしになって、海に流れだし、
向かいの岸辺に打ち上げられました。
そして、そこに発根して、他の植物を圧倒して・・・・・、この季節に咲き誇るのでしょう。
 
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カンナの魅力は、艶のある大きな葉っぱでしょう。
そして、圧倒的な存在感のある葉っぱの上に、鶏のトサカのような花をつけます。
真っ青な空、群青の海、入道雲を背景にカンナが咲く風景は、夏ならではです。
でも、いったん台風が吹いたら・・・・・・、カンナは気の毒な有様になってしまいます。
自慢の大きな葉っぱは破れて千切れてしまいます。
トサカは吹き飛ばされて・・・・、もう見る影もありません。
まるで、着飾った少女が夕立に遭遇して、綺麗な着物がぐしょ濡れになってしまったようです。
カンナの泣きべそが聞こえてくるようです。
 
だから・・・・、野分立つ前、今頃が見頃なのです。
 
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         秋谷海水浴場を囲むように咲くカンナの花。海中の立錐状の岩が立岩です。
 
 
秋谷海岸には名勝「立岩」があります。
海中から突き出たローソクのような岩です。
その東が砂浜で、秋谷海水浴場になります。
海の家こそありませんが、周囲には有名なレストランやプリン屋さんがあります。
砂浜の背には一面カンナが咲くのです。
カンナは緋色の花で、花の芯には鹿の子のような模様があります。
実に情熱的な花です。
もう、砂浜では水遊びをしている子供や、甲羅干しをしている人も居ます。
 
 
 
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                               秋谷海水浴場に咲き出したカンナの群生
 
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立岩の北は断崖です。
断崖は長者岬まで続いています。
この断崖の岩場にもカンナは群生しています。
海水浴場のカンナと同じ種です。
2年程前までは見事な群生でしたが・・・・、
今年は株が急減してしまいました。
理由は・・・・、看板が建っているのですぐに想像できます。
日本軍の弾丸(信管)が発見されて、その捜索をしたのでしょう。
捜索に際して、カンナの根っこを掘りあげました。
だから・・・・・・、地下茎を苛められたカンナは減ってしまったのでしょう。
 
でも、生命力旺盛なカンナの事ですから・・・・・、直に復活することでしょう。
こんな荒地ならば・・・・、こんな潮風が強い場所なら・・・・、ススキやセイタカアワダチソウに負ける事はありません。
数年先には以前にも増して、カンナが見事に復活することでしょう。
 
旧日本軍の弾丸が火を噴いたような・・・・、カンナは緋色の花です。
でも、なんでこんなところで弾丸が発見されたのか? 一寸したミステリーです。
 
 
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    秋谷海岸長者岬側のカンナは急減してしまいました。昨年、このあたりの整備工事が行われたのが
    原因でしょう。
 
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     今年はこの程度です。右奥が長者岬、その右岩場の上の白亜の建物がホテル音羽の森です。
この砂浜は、海中が急に落ち込んでいるのか? 遊泳禁止です。
 
 
 
 
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平塚の七夕祭り

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7月6日、暑いの、暑いの、加えて湿度が高くて、これでは体に応えます。
と言っても、ようやくお天気になったので、平塚に七夕祭りを見物に出かけました。
もう、習慣ですから・・・・、致し方ありません。
午後から慶応大学日本文化研究会セミナーに参加して、暗くなってから帰宅しました。
帰れば、梅雨明けしたとの事・・・・、
これで、明日は夜空が見上げられそうです。
と言っても、7月7日に牽牛・織女星が最接近するわけではありません。
二人が年に一度会うのは、太陰暦の7月7日ですから・・・・、
仙台のように旧暦で七夕祭りをしなければ、情緒も意味もありません。
 
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平塚の七夕は戦後に始まりました。
目的は商業振興策でした。
お盆休みの八月では商業振興策にはなりません。
未だ、夏物商戦最中の7月にしてこそ、意味があるのでしょう。
だから・・・・、ハナから情緒よりも、売らんかな!、食わんかな! なのでしょう。
それは、それで楽しいもんです。
何しろ、7月5日、6日、7日の三日間で170万人も集めるんですから。
親爺は子供を肩車に乗せて、恋人はお揃いの浴衣姿で、女学生は娘らしい花柄の浴衣に着飾って、
皆して、七夕を祝うんですから・・・・、楽しさに満ちています。
 
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                                      ご存知かぐや姫(表)、お人形が電動します。
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                                         かぐや姫の後半部分(前段の裏面)
 
私はお婆ちゃん子でしたから、平塚七夕の始まったころから、見物に来ていました。
楽しみはお祭り位しかありませんでしたから、平塚七夕は格好の楽しみでした。
でも、私の記憶では竹飾りが並んでいました。
太く、高い竹を竿にして、その天辺から大きな紙飾りや吹き流しが垂れ下がっていました。
総て、紙製で・・・・、童謡の通りに笹の葉がさらさら鳴って、五色の紙短冊が吊り下げられていました。
それが、今では紙に代わってプラスチックが吊り下げられ、電飾看板に仕掛け人形が並んでいます。
 
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      本来の竹飾りは学校が実施していました。ピンクのゼッケンを着ている女学生は清掃をしていました。
 
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保育園児の描いた絵は「ゴミ対策」でした。
 
商業主義が跋扈しているかといえば・・・・、
女学生がゴミ掃除をしているし、迷子対策やら・・・・、ボランティアが目立ちます。
日本の社会も成熟してきたなあ・・・・、痛感します。
 
暑い昼間より、涼しい海風が吹き出す夜の方が良さそうです。
明日は最終日、是非お出かけください。
湘南で最大の催事ですから。
 
 
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                               この通りがメインの湘南スターモールです。
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     此方の通りがパールロードです。平塚駅を降りて二つの通りを周回できるようになっています。
     歌舞伎18番の電飾が吊り下げられていました。
 
 
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     八重の桜の飾り
 
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筆者はこれが伝統的な七夕飾り(竹飾り)だと考えています。(南足柄の瀬戸屋敷)
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鎌倉鶴岡八幡宮の吹き流し。手前の葉は梶の木。
 
 
 
 
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七夕に見る日中比較文化

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昨日は7月7日、家内を誘って横浜の県立歴史博物館、開港資料館に出かけました。
横浜港からの輸出入の6割が、上海なのです。
横浜と上海の深い関係を確認する・・・・、そんな企画は素晴らしいと思いました。
 
そして、ランチです。
朝顔市が出ている伊勢佐木町で食べるか、最近面白いお店が進出している野毛に行くか、
何時ものように横浜中華街に行くか・・・・・、迷ってしまいますが・・・・・・・、
今日は七夕ですから・・・・・、上海の七夕が見られる・・・・・、中華街に出かけました。
 
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                                横浜開港資料館のポスター
 
七夕は中国に始まった節日の一つ、太陰暦の7月7日の夜に行われます。
だから、「7日の夕」と書いて”たなばた”と読ませるのでしょう。
この日になれば、南から空の真上に天の川(銀河系)が出現します。
そして、一等星の織姫星(琴座のベガ)とひこ星(わし座のアルタイル)が天の川の東西に現れます。
年に一度天の川を渡って二人が会う事を許された”特別な日”なのです。
 
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       良縁祭で賑わう横浜中華街の媽祖廟。神殿前の石段踊り場に縁結びの神様「月下老人」が出て、
       その右側に竹飾りが出ています。竹は日本と同じですが、短冊が違います。
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       媽祖廟の月下老人(中央)。縁結びの神様です。 左に中国スタイルの竹飾りがたっています。
 
中国の七夕祭りは太陰暦で行われますから・・・・、今年は8月13日になるそうです。
でも、中華街では日本式に太陽暦の7月7日にも行われていました。
一番は媽祖廟です。
神殿前の踊り場に縁結びの神様「月下老人」が祀られ、その側らに青竹が立てられて・・・・、
笹には沢山の金色飾りが吊るされています。
お祭りの名は「良縁祭」・・・・、良縁に恵まれるように・・・・、月下老人と書かれたハート型をした栞(短冊?)
を戴き、その背面に願い事を書きます。
そして、笹に吊るすのです。
何か、バレンタインデーが二回もあるようです。
でも、中国の七夕の方が本来の意味に忠実な様な気がします。
 
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      神殿の手前に竹飾りが出ています。竹に飾られているのは短冊ではなく、金色の札(栞?)です。
 
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     月下老人の傍らの竹に飾られた金色のハート型をした栞(?) 表面に良縁祈願の文字が、
     裏面に祈願者の名や願文が書けるようになっています。
 
 
奈良時代には七夕節日行事が日本にも伝わりました。
でも、日本にはもともと棚機津女(たなばたつめ)の伝説がありました。
棚機津女という巫女が水辺に出て禊をして、水神様の降臨を待つ祭事をしていたのでした。
日本の農村には雨で穢れを祓うという意味と、稲作には不可欠な”雨乞いの行事”でもあったのでした。
伝来した七夕行事は、日本古来の伝統行事と習合します。
そして宮中では乞巧奠(きこうでん)という行事が催されました。
清涼殿の東の庭に莚を敷いて、天皇は庭に出て牽牛と織姫が会う事を祈ります。
女官たちは織姫に対して詩歌・裁縫・染織などの技芸上達を祈りました。
それが江戸時代市中でも行われるようになり、手習いごとの願掛けになって行きました。
 
一方宮中では、
天皇は御田植をはじめ稲作を行います・・・・、それは牽牛のお仕事でしたし、
皇后は織姫のようにお蚕を育て、糸を取り、織物に励まられます。
日本文化の象徴の姿が天皇皇后のお姿・・・・、牽牛と織姫になりました・・・・。
それが1500年も経つと日本は、本家本元の中国に比べれば随分違った姿になりました。
 
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                    広重画の江戸七夕図、現在の七夕の風景とほぼ同じです。
 
 
中国と言えばシルクロードの始まりです。
明治時代になれば、自慢のシルクが日本に抜かれてしまいます。
高級シルクは西陣等になり、クズのような粗末なシルクも結城紬や秩父紬になり…、世界を席巻してしまいます。
中国と言えば陶器も一等でした。
でも、日本陶器は景徳鎮をしり目に、中国陶器を凌駕してしまいます。
中国が日本を過剰に意識するのは、何もシナ事変等の戦争が原因ではなく・・・、
日中の文化摩擦にあるような気さえします。
 
私達は日本人ですから・・・・、日本式七夕の方が情緒もあるし、文化的な奥行もあるような気がします。
でも、良縁祭に見ると中国式七夕の方が、本来の意味に忠実なような気がします。
 
文化の摩擦、葛藤と捉えずに尊重しあう事が必要なように思われます。
 
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                            良縁祭(七夕)の媽祖廟
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                                                  此方は中華街関帝廟
 
 
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取り壊しは勿体ない・・・・「崇善公民館」(平塚市)

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7月6日、朝9時平塚駅の駅頭に降りたちました。
七夕見物に来たのでしたが、まだお祭りには早いし、先ずは宿場町平塚を散策しようと決めました。
七夕の主会場は湘南スターモール、旧東海道です。
でも、東海道線の平塚駅は宿場町を避けて随分北に建てたのでした。
駅から南に、スターモールを過ぎて暫く歩いたところにようやく江戸見付がありました。
見付台のように石垣が積まれて・・・・、少し雰囲気があります。
ここから約2キロ西に京見付があって、その間が平塚宿です。
 
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                平塚宿の江戸見付、駅前からこの辺りまでが七夕の屋台が出ていました。
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       平塚宿の案内図、右端に江戸見付、崇善公民館があります。今日の話題はこの公民館です。
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                                               これが平塚宿の京見付
 
私の目の前を着物姿の女性がスイスイと歩いて行かれます。
強い南風が吹いて、髪も裾も乱れがちですが・・・・、美しい歩き姿です。
”立てば芍薬・・・…、歩く姿は百合の花” を思い出します。
江戸見付の西側に緑地があって、テントが張られています。
その中に吸い込まれて行かれました。
 
テントには案内がしてあって・・・・・・、「淡交会湘南支部」と書かれています。
今日は七夕に際して、裏千家のお抹茶の接待があるんです。
私の前を歩いて行かれたご婦人は、裏千家のお師匠さんだったのでしょう。
そして、その会場が「見付台公園」なのでした。
 
お接待会場の準備を終えて・・・・、皆さんで七夕の竹飾りを作っておいでです。
もう、数十年前、少女時代に戻ったように・・・・、楽しげに短冊を笹の葉に吊るしておいでです。
 
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     淡交会湘南支部の抹茶接待会場。向かいの建物が崇善公民館です。
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                                淡交会のみなさんが竹飾りを作っておいででした。
 
大きな楠木が葉を茂らしていて・・・・、その向こうに素敵な木造建築が見えます。
2階建てで、コロニアル建築(板張り建築)です。
入母屋屋根は瓦葺で、その交わった処に懸魚がかかっています。
屋根は寺院建築、板張りや窓は西洋建築で・・・・・・、所謂昭和モダニズム建築です。
建物の入口には「崇善公民館」と書かれています。
淡交会の皆さんはこの建物から出入りされています。
 
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   立派な楠木の向こうに崇善公民館が建っています。
   この楠は日清戦争の講和条約の結ばれた記念として、神奈川県知事中野健明が県下の学校に
   植樹させたもの。従って樹齢は80歳を超えています。
   案内板には平塚尋常高等学校の生徒の想いが残されている・・・、書かれていました。
 
 
公民館は畳敷きの部屋もあって、其処でもお抹茶の接待が受けられるようです。
そして・・・・・・、その隣にコンクリート1階建ての建物があって・・・・・・・、
この建物でお湯を沸かして、お抹茶をたてておいでです。
この建物にも歴史を感じます。
 
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      崇善公民館の建物、左続きに理科室があって、キッチンとして使われていました。
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     崇善公民館の北面、入母屋、木造二階建て建物で、屋根部分は仏式、壁や窓は西洋建築です。
     これが、戦後建てられた平塚市議事堂でした。
 
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   旧平塚尋常高等小学校理科室。此処で淡交会の皆様がお抹茶をたてておいででした。
 
崇善公民館・・・・とは古い名前です。
公民館の室内に貼り紙があって・・・・、その歴史が案内されていました。
話は明治6年に遡ります。
維新政府は教育に熱心に取り組みます。
平塚新宿八幡別当であった等学院は寺小屋だったのでしょう。
其処に校舎を建てて「崇善館」と呼ぶ学校に致しました。
まるで、江戸時代の藩校のような名前です。
教える内容は寺小屋も学校もたいして変わらなかったことでしょう。
 
明治13年、崇善館は「平塚小学校」に名を変えます。
更に、明治27年には学制改革によって「平塚尋常高等小学校」になります。
学校の敷地は5400坪、生徒数はなんと4000名、日本最大の小学校でした。
 
ところが、大正12年、関東大震災で全壊してしまいます。
再建されました、昭和5年にはコンクリート1階建ての理科室が建築されました。
でも、昭和20年7月平塚は空襲を受け、小学校の建物は理科室を残して全焼してしまいました。
今、淡交会の皆さんがお抹茶をたてている、その建物が平塚尋常小学校の理科室なのでした。
 
そして、この場所に1950(昭和25)年、平塚市議事堂が建てられました。
それが現在の「崇善公民館」で、この昭和モダニズムの色濃いこの建物です。
平塚市は堂々とした、伝統を重んじながらも・・・・、民主主義の新時代を感じさせる「議事堂」を建てたのでした。
材木を触ってみれば、節目が目立った粗末な木材が使われています。
戦後間もない、物資も不足した時代でしたが、民主主義は地方でから・・・・、理想を形にした建物でした。
 
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         まあ、節目だらけの杉板の板張り建物です。
         質素な中にも、民主主義の時代に対して、期待を感じさせる・・・・、歴史的価値のある建物です。
 
「良い建物ですね・・・・!」
職員さんに声をかけました。
すると・・・・、思いがけない返事が返ってきました。
「この建物は取り壊しが決まっているんですよ・・・・!
何しろ、こんな建物ですから耐震基準にあわないんですよ・・・・、
公民館が耐震基準にあわないんじゃ・・・・、問題でしょう!」
 
私は思います。
耐震基準何て・・・・、後から決めたもの。
文化的、歴史的価値は耐震であろうがなかろうが・・・・、関係ありません。
人が集まる建物なら・・・・、お茶室だって耐震基準を満たすべきでしょう。(※)
耐震基準をお茶室に求めれば・・・・・・、大半のお茶室は取り壊される運命です。
神社の大鳥居や狛犬は耐震対策が施されていなければ・・・・、撤去して然るべきです。
でも、撤去しないのは文化的・宗教的価値を認めているからでしょう。
文化財とは・・・・・・、歴史的、文化的価値があるから大事に後世まで伝えようとするものです。
   ※ 建物の一定以上の大きさが対象になりますから、お茶室は耐震基準の適用対象外になります。
      また、鳥居などの構築物は地震になれば倒壊の危険が大きいにもかかわらず、
      耐震基準適用の対象外になります。 
 
平塚市には横浜ゴム迎賓館建物もあります。
私にとっては崇善公民館は文化的価値に置いて遜色ないものに見えます。
 
平塚から大磯にかけては和洋折衷のモダニズム建築が沢山あります。
耐震基準も大切ですが、壊してしまえば元も子もありません。
地域の文化財資源として保存するように期待します。
私の眼には崇善公民館も尋常高等小学校の理科室も、価値があると映ります。
 
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             横浜ゴム迎賓館建物(明治45年)国の有形文化財。市民会議室として利用されています。
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  お隣大磯町にある旧木下家別邸、大正元年に建造された日本最初の頃のツーバイフォー建築。
 
 
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マリア道に咲く忘れ草の花

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大磯の街の山側、国府本郷の丘陵に「マリア道」と呼ばれるだらだら坂の道があります。
昔は丘陵の尾根に修道院があって、シスターが歩いて大磯の街まで出かける姿が見られました。
棚田に降りて働く人が見れば、修道女が尊いマリア様のように見えたのでしょう。
大磯の街は小さい割に、小さな教会が数多くあって、マリア様にも馴染みが深かったのでしょう。
 
真夏の暑い盛りに、鵜のような真っ黒な礼服を着たシスターが、だらだら坂を下りて来られたのでした。
修道院は昭和30年代までありましたが、今では星槎大学のキャンパスになっています。
マリア道の谷側は棚田が続いていたのですが、今では大半が耕作放棄されて、一面雑草が生い茂っています。
 
マリア道の傍らには石仏が見られます。
石仏好きの私は四季折々の表情が見たくて・・・、再三出かけます。
マリア道の谷戸観音は次に書きました:http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45977076.html
 
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    大磯駅前にある沢田美喜記念館。教会でもあります。隠れキリシタンの展示室になっています。
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  路傍の石仏、案内板には馬頭観音と書かれていますが、角があって、どう見ても牛のように見えます。
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     双体道祖神、背の畑はブルーベリーに変わりました。
 
 
棚田に立派な温室が建ちました。
温室の中を覘くと・・・・、蜜柑が育っています。
大磯の名産蜜柑「湘南の輝き」を育てているのです。
この蜜柑の美味しさ、瑞々しさは近々に案内致します。
 
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棚田の畔に藪萱草が咲いています。向こうの温室は大磯の名産蜜柑「湘南の輝き」を栽培しています。
山端の向こうに大磯の海が見渡せます。
 
暫くだらだら坂を上ると、棚田の中に藪萱草が群生して、見事に花を咲かせていました。
棚田の畔に藪萱草が自生していて、他の雑草を駆逐したのでしょう。
まるで、尾瀬や霧ヶ峰のキスゲのように群生して咲いています。
シスターが居たら・・・・、屹度足を止めて藪萱草の花を眺めたことでしょう。
もう、農夫もシスターも此処には居ません。
 
藪萱草、藪に咲く、萱(かや)のように強靭な植物なのでこの名が着いているのでしょう。
一般に「忘れ草」と呼ばれています。
憂きこと、悲しい事を忘れさせるほど綺麗な花だというネーミングなのでしょう。
そして、花は”一日花”です。
今日咲いていた花も明日の朝には萎れてしまい、翌朝にはまた別の蕾が花開く・・・、
そんな生態もこの名の由来なのでしょう。(英名/Orange Daylily)
 
強烈な緋色の花弁、そして緑の萱のような葉も鮮烈です。
実に日本の夏の里山を象徴する花です。
 
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                          棚田の畔に沿って生い茂った藪萱草、見事に夏を彩っています。
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                                       緋色は日本の夏に相応しい色だと思います。
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  僅かに耕された棚田に鴨が生息していました。白いガードレールがマリア道です。
  丘陵の頂に星槎大学の校舎が見えています。この建物が修道院なら・・・・、良いのにな!
  私の感慨です。
 
マリア道には合歓の木が目立ちます。
合歓の花ももう盛りを過ぎてしまいました。
代わって、ミソハギや向日葵、西洋朝顔が咲き出しています。
シスターが居たらば・・・・、「まあ綺麗ね・・・・」
立ち止まってばかりで・・・・、なかなか大磯の街まで出られない事でしょう。
街まで出なければ・・・・、お食事の用意もままならない事でしょう。
 
でも、美しい山野草も、神様の授かりものでしょうから・・・・、
道草ばかり食ってしまっても・・・・、諌める人は居ない事でしょう。
 
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                                   マリア道の傍らに咲き始めたミソハギの花
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                      マリア道を見下ろす位置には紫陽花やコスモス咲き始めました。
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                                     マリア道の電柱に絡まって咲く西洋朝顔の花
 

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その後の「ひょっこりひょうたん島」人形。

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マリア道から大磯の街に戻ってきました。
もう、昼食の時間です。
大磯の街には美味しいお店が数多くあります。
鰻屋(圀よし)や寿司屋(富久寿司)は高いし、林亭のとんかつや・カレーはヘビーだし、
杉本(焼き鳥屋)は月曜日はお休みだし・・・・、
パンの蔵でパンを買って、喫茶店で食べようか・・・・・・?
考えます。
でも、暑いので・・・・・・・、先ずは冷たいものが欲しいものです。
 
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   交差点の向こうが鴫立庵の森、交差点を渡っているのは大磯小学校の生徒さん。
   手前右がギャラリーさざれ石です。
 
大磯小学校の生徒さんが鴫立庵の前を、海に向かって歩いて行きます。
ふと見れば、焼き鳥「杉本」の前に井戸(雁の井戸)があって、そのベンチにお人形が手招きしています。
「ギャラリーさざれ石」と書かれています。
この露地の奥にもギャラリーがあって、写真を中心に展示しています。
大磯は小さな町なのに(?)ギャラリーが沢山あるんです。
歳を取ったら、大磯のように魚もパンも、豆腐も蕎麦も美味しくて、
文化と自然の豊かな街に住みたいもんです。
 
お人形の招きで、「ギャラリーさざれ石」に入りました。
お人形は陶人形です。
何処かで見たような、懐かしさを覚えます。
作者は鈴木若弥さん、略歴を確認して思い出しました。
 
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                ギャラリーさざれ石の敷地内には大磯の古井戸の一つ「雁の井戸」があります。
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                           道行く人を招いている陶人形。背後がギャラリーさざれ石です。
 
鈴木若弥さんはふくよかなお身体の叔母ちゃんで・・・・・、新潟の出身でした。
1967年人形劇団ひとみ坐に入ります。
NHKの「ひょっこりひょうたん島」の人形創作に係ります。
でも、1971年に退団し、人形の素材をアクリル樹脂や布に変えます。
更に1980年、素材を土に変えて、陶人形作家になります。
 
小田急江ノ島線六会駅に近い「亀井野」に6坪ほどのアトリエを構えて作家活動に勤しんでいられるようです。
聴けば、今日は展示初日で、今週末の土日(7月13・14日)にはお顔を出されるそうです。
さざれ石のオーナーさんも、人形作家の鈴木さんもほぼ同年齢の叔母ちゃんで、
人懐っこさも、ふくよかなルックスも共通しています。
 
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                          角の生えた子鬼が”龍を捕まえたぞー!” とばかり持ち上げている人形。
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             バオバブの木の下で寛ぐ坊や、バスケットには御馳走が一杯です。
             猫ちゃん(?)ワンちゃん(?)が期待しているようです。
 
どの作品にもみじかな物語があるようです。
素朴で、人間の好意や善意を素直に表現しています。
鬼も善意の顔をしていますし、赤ずきんちゃんの狼も善人の顔です。
そんな人形の素材は土が最高だったのでしょう。
土は信楽の土を使っているようです。
釉を使わないで、素焼きして、焼き上がった人形に彩色しているのです。
どの人形を見てもほっこりした気持ちになれます。
大きな作品でも、2~3万円で求められます。
 
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     一番目立つのが「招き猫」です。手前の猫は魚の絵が描かれた鈴で遊んでいます。
     鈴木若弥さんの脳裏にはひょうたん島の次に「猫チャン島」があるようです。
 
 
ギャラリーさざれ石は大磯の名勝「さざれ石」の海辺が直ぐ近くにあるから…、ネーミングされたのでしょう。
もともとは、ギャラリーではなく普通の民家だったようです。
オーナーの趣味(道楽?)が嵩じて、その1階大半をギャラリー兼喫茶店い大改造してしまったようです。
時代は稼ぎでは無くて・・・・、趣味や生甲斐に変わってきているのでしょう。
オーナーは良いお顔をしています。
陶人形と似ています。
 
喫茶室の名前は「青鳩」です。
さざれ石の海岸に青鳩が1000羽もやってくるのです。
   (大磯の青鳩は次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47383945.html)
 
青鳩は夏になると丹沢の山から大磯の海岸に群れを成してやって来ます。
高麗山や湘南平の山をねぐらにして、朝晩に潮水を飲みに磯に姿を現します。
鴫立庵の森に集まって、群れを成して磯に潮水飲みに遣って来るんです。
 
庭先には青鳩の美しい羽毛が落ちているそうです。
だから・・・・、喫茶コーナーは青鳩とネーミングしたのだそうです。
さざれ石も青鳩も大磯ならではの良い名前です。
   ギャラリーさざれ石:大磯町大磯1174 電話0463-67-9662
   アトリエ風(鈴木若弥):藤沢市亀井野572-5
 
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                                             窓には青鳩がデザインされていました。
 
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      手前青い壁のブロックが喫茶の「青鳩」、奥の白い壁が「ギャラリーさざれ石」になります。
       このカウンターでおばちゃんが美味しいコーヒーを沸かしてくれます。(500円)
      おばちゃんから「この大磯蜜柑は美味しいんですよ・・・・!(お隣)のケーキよりズット美味しい」
      お蜜柑を戴きました。湘南の輝きという名の温室蜜柑でした。
      実に瑞々しく甘いミカンでした。聞けば大磯駅前の「地場屋ほっこり」で売っているとの事、
      早速に求めて帰りました。
 
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   7個780円の温室蜜柑「湘南の輝き」、少し高いのですが、美味しい事間違いありません。
   マリア道にあった温室で栽培されているようです。
 
 
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上総富津の石窟寺院

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石窟寺院と聞くと私は特別な感慨があります。
アジャンタ、エローラ、サンチー、敦煌等々、仏教遺跡は石窟寺院が多い事もあります。
石窟だから・・・・、よく保存されている事もあります。
何よりも、原始的な仏教の姿を留めている様に思うからです。
様々な人が石窟寺院に籠りました。
そして、自分の信仰を形あるものにしようと、大岩壁に如来や観音菩薩を刻みます。
その情熱が岩壁に磨崖仏として残されました。
原始仏教の姿を留めているのが、石窟寺院であり、磨崖仏であるように思います。
 
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   今日の話題は上総富津にある石窟寺院、やぐらの壁に石仏が刻まれています。
   手前の石柱には頂部に首なしの観音像が置かれていますが、その碑文に「行基菩薩が一夜で作った、
   札所33番岩屋観世音菩薩(正面)。
   側面には四国秩父の札所を写した、寛政9年/1797年8月4日建立、法印大龍」と刻まれています。
   江戸時代初期頃から石窟寺院が建立され、1797年に大龍和尚さんが整備した・・・・、そんな記録でしょう。
 
アジャンタ等の世界遺産でなくても、磨崖仏に己の信仰を刻んだ遺跡は数多くあります。
私の家の近くにも「大船定泉寺」も石窟寺院です。
「田谷の洞窟」として馴染まれてきました。
 
三浦半島には埋もれたような石窟が数多くあります。
多くが海に面した断崖にありました。
古代から、三浦の走水から船を出せば、房総の富津の港に着きました。
富津港には湊川と呼ばれる小河川があります。
河口から1キロ弱山に入った辺りが数馬という部落です。
 
数馬部落の湊川を見下ろす山腹に、「大悲山岩屋堂清巌寺」、通称「岩屋堂」と呼ばれた石窟寺院がありました。
このお寺は上総国札所33番の結願寺でありました。
ご詠歌に、「今朝までの親と頼みしおいづるを むいで納めるきよいわの寺」と崇められました。
ところが、近年になってご本尊の十一面観音を失った事から、今は寂れてしまった・・・、と言われています。
(房総の石仏100選對馬郁夫氏)
もう、トタン屋根は錆びて腐っていますし、お堂も荒れ放題です。
でも、石窟にはライトが設備されていました。
 
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    下の道が国道410号線(富津から久留里方面を結ぶ)川は湊川。この山は鷺の営巣地でした。
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   私達が鷺のコロニーに踏み込むと、無気味な鳴き声を立てて鷺が舞いあがりました。
   此処は凄いパワースポットです。霊に弱い人はお勧めできません。
 
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                                        荒れ果てはお堂の室内
 
湊川を見下ろす山腹に分け入ります。
竹藪が目立ちます。
花が咲いて、枯れた竹もあれば、今年育った青竹もあります。
私と家内が山腹の竹藪に踏み入れると、一斉に”ギャー・ギャー”と鷺が泣き叫びます。
数羽が空に舞いだします。
気持ちいいものではありません。
私は鳥葬を思い出しました。
何故なら・・・・、この石窟は・・・・・、何処から見てもお墓なんですから・・・・。
 
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  中世は櫓(お墓)として活用されていたと思われます。岩壁が崩れて砂になり、
  地面には無数の蟻地獄が棲んでいました。
 
最初は縄文時代人の横穴式住居跡だったのでしょう。
この石窟からは石棒(男性のシンボルの形をした石)などの神具が見つかりました。
中世にはやぐらとして、お墓に利用されたのでしょう。
そして、何時か、誰かが 石窟寺院にした・・・・・、と思われます。
 
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                             此処が秩父札所入口、仁王像が立っていました。
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    秩父札所の観音群。泥質砂岩が水を含んで、凍って、ふやけて・・・・・、風化しています。
 
案内板にはこの石窟を彫ったのは、行基菩薩である・・・、書かれていますが、それは信仰の世界の事で、
史実とすれば、古代のものでは無く、近世のものでしょう。
何故なら・・・・、石窟の壁に彫られている夥しい数の石仏は・・・・、秩父札所の観音群だからです。
そして、上段の石窟には四国八十八箇所の仏が刻まれています。
江戸時代に入って、札所巡りが盛んになります。
そんな時代背景があって、千葉の富津に有名な札所を巡ったと同じご利益のある石窟寺院を建立したのでしょう。
整備したのは寛政9年(1797)、大龍という和尚さんでした。
 
 
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                                               此方も秩父33観音群です。
 
岩は泥質砂岩です。
近くの鋸山の岩(房州石と呼ばれる凝灰質砂岩)より遥かに柔らかい岩です、
だから、風化が進んでいます。
薄明かりの中で見れば、これは十一面観音、馬頭観音等々判りますが、
ディーテールはもうわかりません。
彫り易かったが・・・・、壊れやすい石でもあったのでした。
石仏も風化して砂や土に戻るのが運命でしょうが・・・・、哀れにも見えます。
 
相当のパワースポットですから・・・・、気の弱い人、霊に憑依されやすい人が一人で行かれるのは、
お勧めしません。
 
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                              此方は上の段の石窟で、四国札所の仏が並んでいます。
 
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   四国札所の石窟から、下の段「秩父札所」への通路を見下ろす。
 
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           突き当りの庚申塔。相当数の客仏があります。
           客仏とは他所で祀られていた仏が、何らかの理由や経緯で此処に移されたものです。
 
 
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茄子の鴫焼き

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毎日うだるような暑さです。
でも、夏野菜はこの直射日光を浴びて、一層美味くなっているんでしょう。
そう思うと、有難い太陽さんです。
 
我が家では、毎日三食、野菜が出されます。
どの野菜も、それぞれに美味しんですが・・・・・、
私は、何が一番かと聞かれれば、お茄子です。
多分、茄子と胡瓜(瓜)は古代から日本人の食卓を賑わしてきたものでしょう。
 
もうじき、お盆です。
精霊棚にパプリカやズッキーニ等ニューフェイスの野菜を供えたら、ご先祖は眼を白黒させるでしょう。
”夏野菜は茄子と胡瓜じゃないか! せめて許されるのはトマトとカボチャまでだ!”
と叱責されるかもしれません。
 
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     今日の話題は茄子のお料理「鴫焼き」です。この紫かかった濃紺が「茄子紺」と呼ばれるカラーです。
 
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     此方は青茄子の花です。
     最近では従来の茄子の他に白い茄子や青い茄子が市中に出回るようになりました。
 
 
祇園祭の頃でした。
京都の中村楼のお呼ばれしたことがありました。
街中が「コンチキチン」、独特の鉦の音が響いていました。
今年も、京の暑さは尋常では無い事でしょう。
でも今頃は、コンチキチン・コンチキチン、と暑さを忘れて夏祭りに興じている事でしょう。
 
加茂茄子の焼き物が出てきました。
丸い加茂茄子を二つに切って、炭で焼いて、味噌を乗せたお料理です。
茄子好きの私は、「鴫(しぎ)焼きですね・・・・!」訊くと、
「これは、茄子の味噌田楽です!」訂正されてしまいました。
 
加茂茄子や水茄子はまん丸です。
まん丸の茄子を焼いたところで、鴫のようには見えません。
だから、味噌田楽が正しいのでしょう。
でも、お精進で育った私は、茄子の焼き物は総て「茄子の鴫焼き」だと思い込んでいました。
 
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     これが我が家の「鴫焼き」です。茄子を丸焼きにして二つにカットしたもの。
     茄子のヘタが鴫の嘴のように見えるので「茄子の鴫焼き」の名が着いたものと思います。
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  これも茄子の鴫焼き。焼き茄子の上に挽肉を味噌や酒で煮た味噌和えが乗っています。
   (NHK今日の料理から転載) この他に味噌田楽のお味噌が乗ったものもあります。
 
お坊さんは肉食を禁じられています。
でも、お肉は美味しいし、食べれば力も出ます。
そこで、なんだかんだ言いながらお肉を食べようと案じました。
「四足動物は殺生できないが・・・・、二つ足の鳥や足の無い魚は禁じられていない・・・・」
屁理屈を立てて、鳥を食べました。
更に兎も食べてしまおうと考え、・・・・・、ウサギを一羽二羽と数えます。
兎は鳥だから食べても構わない・・・、主張したりしました。
姑息なのは今も昔もお坊さんの特性です。
 
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鴫は秋に渡ってきます。だから、茄子と鴫を一緒に料理する事は出来ませんでした。
 
 
そんなことはありません。
鳥も魚も生き物で、殺生して胃袋を楽しませることは禁じられています。
そこで、お精進には様々な工夫をいたします。
 
雁が食べたいので・・・”がんもどき” を、
雉を食べたいので豆腐を使って雉焼きを創作しました。
お茄子も鴫のような姿に料理して、”鴫焼き”としたのでした。
 
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                    お豆腐を使って雁のようにしたから「がんもどき」と呼ぶ精進料理です。
 
普通「鴫焼き」と言われるのは次の3種があります。
何れも長茄子を丸焼きにするか、縦に二つに切って焼きます。
その上に生姜を擦って載せたもの・・・、これが居酒屋などで良く出ます。
一番簡単で、茄子の味が際立つ料理です。
次いで、焼きナスの上にお味噌を田楽風に乗せるのも、鴫焼きと呼んでいます。
そして、焼きナスの上に鳥の挽肉を味噌で炒めたものを乗せます。
鶏肉が使われていますから・・・・、これが一番茄子の鴫焼きに相応しいものだ・・・、
とも思えます。
関東では、これ等を何れも「鴫焼き」と呼んでいます。
 
私は鴨や鶉、雉までは食べたことがありますが、雁も鴫も食べたことはありません。
鴫は雑穀もミミズや昆虫も捕食しますから・・・・・、屹度雉のように独特の臭みがあるものだと思います。
その臭みを消すために、山椒や茗荷を刻んで味噌にあえて、鴫の肉に乗せて食べたもんだと推測します。
 
鴫は西行法師の歌(※)でも知れるように晩秋に渡って来る渡り鳥ですから・・・・・・、
夏野菜の茄子とは季節がずれています。
だから・・・・、鴫を茄子と一緒に食べることは不可能でした。
だから、上段三説のうち、鴫のお肉と焼き茄子を一緒に食べる料理はあり得ないでしょう。
   ※西行法師と鴫は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46951228.html
 
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    大磯町の茄子畑。ひと夏に一本の木(草)から70個程度収穫できます。
    こんなに働き者の野菜は他にありません。
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                        収穫真近のトウモロコシ畑。(藤沢亀井野の日大の試験農場で撮影)
 
茄子は焼いても美味しいし、漬物にしても美味しいもんです。
油とのマッチングも良いので麻婆茄子など中華料理の食材になります。
一本の木(草?)から、次々に花だ咲き、無駄花が無い・・・・諺に言われる通りに秋口まで実がなります。
トウモロコシは木(草?)は大きいのに1本か、多くても2本しか生りません。
効率的には最高です。
でも、トウモロコシやトマトに比べれば極めて安いお値段です。
トウモロコシは150円、かたやお茄子は一本10円位です。
気の毒な程お安く売られています。
一本当たりの効率を計算すれば、トウモロコシは150円×2個=300円、
一方茄子は1個10円でも、10円×70個=700円、ですから茄子の優秀さが判明されます。
諺の”親の意見と茄子の花は千に一つの無駄は無い”
は茄子のこの効率の高さを評価したものでしょう。
 
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   大磯の茄子農家の庭先で。
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   大磯城山の真楽寺門前の野菜畑。カボチャも夏野菜の代表です。でも、長持ちするので冬にも食べられます。
 
旬な野菜程安くて、栄養分も豊富で、食べれば精がつくものです。
暑い夏を遣り過すためには・・・・、暑い夏こその旬の野菜をガツガツ食べる事が一番でしょう。
茄子を食べて・・・、体を冷やして・・・・、健康に秋を迎えたいもんです。
 
祇園祭には行けなくても、全国各地の八坂神社では夏祭りです。
私の住む戸塚でもお祭りです。
15日は「天王祭」と呼ばれて少しエッチなお祭りです。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43697465.html)
 
祇園の中村楼にも行けませんが・・・・、
今晩も、防犯パトロールを終えたら・・・、ワタミで茄子の鴫焼きでも戴こうかな?
でも、ワタミは選挙で浮かれているようだから・・・・・・、別の居酒屋に行こうかな?
思います。 
 
そろそろ結論を述べましょう。
”鴫も食べたいものだが・・・・・、未だ夏で食べられない。
仕方がないから・・・・、茄子を焼いて・・・・、鴫のような格好にして・・・・
茄子を鴫に見立てて食べる事にしょう・・・。”
それが、鴫焼きでしょう。
雁を見立てたのが「ガンモドキ」、雉を見立てたのが「雉焼き(豆腐を醤油と酒で煮たもの)」です。
お坊さんが、鳥を食べたいものだが・・・・、それが出来ないから・・・・、
せめて・・・野菜で「見做し料理」を工夫したものでしょう。
 
もうじき土用の入りです。
鰻も希少になってきました。
ウナギの蒲焼きも、見做し料理で我慢せざるを得ない・・・・、そんな時代がきそうな気配です。
 
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                                             オクラの花。もう芙蓉のようです。
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                                  瓜、下はトマト。何れも藤沢亀井野で撮影。
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    瓜にトマト、もう夏野菜は三度三度食べても飽きません。
 
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女学生の夏薔薇の収穫

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7月11日(木)、朝のNHKTVで”JAPAナビ「行列のできる街藤沢」がオンエアされていました。
太目タレント石塚英彦さんが藤沢の亀井野にトマト農家を訪ねていました。
 
藤沢の魅力は海だけでは無い、北部の丘陵には野菜農家や果樹農家が広がり、
瀟洒な一戸建て民家も連担しています。
私の勤めていた長銀も子会社の「長銀不動産」が、
昭和40年代藤沢北部の善行の丘陵を開いて善行団地を開発しました。
私は直接同開発に携わったことはありませんが、グループ最初の宅地開発でしたから・・・・・、
深い関心がありました。
 
同社も銀行も破綻してしまいましたが、善行の開発は成功だったようで、
住人は素敵な湘南ライフを満喫しているようです。
富士山は眺められるし、小田急に乗れば海に出られます。
団地の周囲は野菜農家が囲んでいます。
湘南の田園は山紫水明にして美味探究が可能です。
 
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   藤沢の善行駅から都市計画道路を善行団地をぬけた辺り。遠くに日大藤沢「生物資源科学部」が、
   見えてきます。このあたり一帯に野菜農家があります。
 
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       善行神社の庚申塔。同社は善行団地開発に際して、八坂神社とお稲荷さんを合祀して
       団地向かい、都市計画道路に面して建てられたものです。沢山の石仏が集められています。
       団地開発に際して、計画地内の祭祀も厚く遇する事が大事です。
 
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                     同、双体道祖神、藤沢メルシャン前の「化粧地蔵尊」に酷似しています。
 
善行の駅を降りて小田急江ノ島線に沿ってお隣の六会に向かいます。
日大の「生物化学資源学部」のキャンパスが見えてきます。
善行団地の開発道路に沿って幾つもの温室が現われます。
これがトマトハウスです。
このハウスで、湘南トマトが栽培されています。
 
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     トウモロコシ畑(飼料用)の向こうに日大キャンパス棟が見えます。この辺りは同大学の試験農場です。
     道は総て未舗装です。
 
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    日大の試験農場の善行寄りにトマト農家「みどりファーム」があります。此処がNHKで撮影されました。
 
 
 
NHKでオンエアされていたのは「みどりファーム」でした。
火曜日の朝6時半から、木曜日は午後2時半から販売されます。
でも、人気で直ぐに売り切れてしまいます。隔週の土日にもお店が開きます。
開店時にお店の前を通る事は稀にしかありません。
 
お店に入ってみると、朝一TVの写真が壁に張られていました。
みどりファームは閉店していても、この辺りは沢山の農家がロードサイドで野菜を売っています。
地産地消ですから新鮮ですし、栽培している畑や土を確認できるわけですから・・・・、
こんなに良いことはありません。
安心して地産のお野菜をエンジョイ出来ます。
 
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               藤沢亀井野にあるJA藤沢の経営する「ワイワイ市場」、地産の野菜が人気です。
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                                生産者のメッセージが添えられたトマト売場です。
 
一帯に日大の花弁園芸研究室やフルーツバイオサイエンス学科が農場を開いています。
今では日本の農道は畦道さえもがアスファルト舗装されています。
これは明らかに行き過ぎです。
畔を舗装すれば、鼠やモグラは困ります。
彼らは一見すれば害を為す動物ですが・・・・・、害をするものだから・・・、敵視するのは間違いだと思います。
 
日大の試験ファームは昔ながらの無舗装です。
農道を走ると土埃が立ちます。
 
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                                    温室栽培の薔薇を収穫して戻る学生さん
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     試験農場の温室栽培の薔薇、言われた通り花数は少なく端境期です。
 
ビニールハウスの陰で、女学生が屈んで何かを見詰めています。
何だろう? 私も覘いてみました。
すると、真っ黒な毛虫です。
こんな毛虫に触れたら・・・、綺麗なお肌がブツブツにかせてしまいそうです。
女学生たちは温室栽培の薔薇を出荷していたんです。
そうしたら・・・・、バラの葉に毛虫がたかっていた・・・、
それに気づいて・・・・、これは何じゃ?
見詰めていたんでした。
 
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                                    薔薇を冷蔵倉庫に運びます。
 
                                
毛虫も出るし、蜂も飛び回っている・・・・、
だから学生たちは全身を覆った作業服を着ています。
まるで消防隊員のような格好です。
朝の収穫を終えて温室から出てきました。
顔には玉の汗が噴き出ています。
ビロウードのような光沢のある臙脂色の薔薇です。
訊けば、これから市場に出荷するんだそうです。
学生さんの研究も、市場に出して換金するまでフォローするのです。
良い花を作るだけではなく・・・・、市場に期待されている花を栽培して、
経営として成り立たせることも大切な課題なのでしょう。
 
私の学生の頃は農学部は人気がありませんでした。
今、学生ならば・・・・、こんな素敵な学生さんたちに混じり込んで、
園芸植物や野菜栽培に精を出していたかもしれません。
人生に遣りなおしは出来ません。
でも想像するのは人間の特権です。
特権を使って想像すると幾つもの真実が見えてきます。
 
大企業でも100年も繁栄する事は稀にしかありません。
今人気の企業も、将来も人気であることはあり得ないでしょう。
でも、農業など自然を学ぶ事業は・・・・、人間が社会を作り始めた時からズット変わらずに人気の事業でした。
 
学生さんに温室の薔薇を写真に写して良いか、許可を貰いました。
薔薇は今は端境期で、良いものは無くなっています。
「冷蔵庫に今日出荷するものを集めてありますから・・・・、そっちを写されるようお勧めします」
言われました。
 
私は倉庫の中に3棟もある冷蔵庫の一つに入りました。
幾つもの種類の薔薇がバケツに入っていました。
この冷蔵庫に一時集荷して・・・・、それから市場に出荷するようです。
先刻、毛虫で大騒ぎしていた女学生たちが・・・・、
「暑い!暑いわ!」叫びながら冷蔵庫に走り込んできました。
”助かるー!・助かるー!”
冷蔵庫で涼むのが楽しみなようです。
 
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                          冷蔵倉庫に集荷され、出荷・出番を待つ薔薇の花。
 
温室の中では、薔薇も暑かろう・・・・、
勿論女学生は大汗をかいています。
だから・・・・、冷蔵庫で暫し休憩して、元気を回復して市場に出て行くんでしょう。
 
薔薇も、女学生も同じように綺麗に見えました。
夏は大汗をかいてこそ、良いもんです。
 
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           試験農場の向こうに聳える日大藤沢キャンパス。
 
 
 
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腰越の天王祭

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7月14日は全国の八坂神社で例大祭が行われました。
勿論、総本社の京都では、祇園祭の山鉾巡行で賑わった事でしょう。
私の住む戸塚でも八坂神社で「天王祭」が行われました。
鎌倉の腰越でも「天王祭」が盛大に催されました。
少なからず、感動の腰越天王祭でした。
今日は腰越天王祭をレポートします。
 
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   左が江ノ電腰越駅、右が江ノ電電車道。電車道沿いの5町が競ってお祭りです。
   写真は5町のうち神戸町(ごうこまち)の山車です。未だ朝10時、山車の屋根にはお人形はありません。
 
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   八幡太郎義家のお人形を山車の上に設置します。このお人形はカラクリで回ります。
   でも、江ノ電の架線が邪魔して動けません。この山車は明治11年製作、以降3代目だそうです。
   前代の山車は辻堂の某神社に譲られたそうです。細工の素晴らしさは唖然とします。
 
 
子供のころ思っていました。
「天王祭」ではなくて「天皇祭」ではないのかな?
日本人にとって、「てんのう」といえば天皇陛下の「天皇」だすから・・・。
 
長い時間をかけて仏教と神道は習合してきました。
厄病を治める神道の神様は素戔嗚尊(すさのうのみこと)、
仏教では牛頭天王で、両者は同じものと考えられていました。
ところが、明治の維新政府は、「神仏分離令」を発布し、
八坂神社の祭神は素戔嗚尊であって、仏教の「牛頭天王」とは異なる・・・・・、
命じました。
 
日本人にとって、素戔嗚尊は出雲の神様、日本神話の世界の英雄でありました。
一方、牛頭天王は厄災を祓ってくれる荒ぶる神様です。
有難味や実益は牛頭天王にありました。
だから・・・・、八坂神社の例大祭は牛頭天王を祭る大祭、という意味で「天王祭」の名が存続しました。
京都の天王祭は八坂神社の地名の祇園祭でした。
祇園とは仏教の「祇園精舎」に由来します。
 
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    お神輿を先導して山車が海岸通り「腰越浜」まで運ばれます。
    写真左の山車が素戔嗚尊、右が源頼朝です。
 
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   右が神功皇后、新羅征伐の為鎧を着ておいでです。赤ちゃんは応神天皇になる。
   皇后に仕えているのが武内宿祢。写真は山車に乗せた姿。山車とお人形が別々に展示されていました。
   江ノ電の架線などの為に動かせないからです。
 
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  此方は腰越状の場面。腰越状は義経が兄頼朝の嫌疑を説く為書いた書状。読み上げているのは弁慶。
  此処の山車は焼けてしまいました。お人形だけの展示です。
  何れのお人形にも精霊棚が設えてあって・・・・、盆の行事であることが解ります。
 
小動神社は腰越の外れにあります。
参拝客は・・・・・、大半が神社に詣でるわけでは無く・・・・、
「人形山車」やお神輿が設置された「お旅所巡り」を巡ります。
それらは江ノ電の電車道に並んでいますから、電車道に人が集まってきます。
 
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              森閑とした小動神社。神様はお神輿に移られているので、これでも良しでしょうか?
 
 
午前中のクライマックスは腰越浜で行われるお「神輿海中渡御」です。
湘南甚句が詠われます。
お神輿は”どっこいどっこい、どっこいそりゃ”の掛け声で、左右に大きく揺れます。
この掛け声は多分、湘南地方独特のものでしょう。
江戸の「ワッショイ・ワッショイ」や「セイヤ・セイヤ」、「ソイヤ・ソイヤ」等とも違います。
でも、小さな子供も”どっこいどっこい、どっこいそりゃ” 声を張り上げています。
 
掛け声も、山車も・・・・、同じ天王祭りでも千差万別です。
其処が日本お祭りの良い所でしょう。
 
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  山車のカラクリ、ハンドルを操作すると屋根の上のお人形が上下します。
  これなら江ノ電の架線をよける事が出来ます。
  他の山車は方向を変換する事が出来るものもありました。
 
真新しいお神輿です。
ギラギラに輝く太陽の光を反射して眩しいばかりです。
世話役に訊けば、今年は7年毎に盛大に天王祭が催される年に当るのだそうです。
加えて今年は巳年(江の島神社の遣い)ですから・・・・、思い切って盛大に催されるんだそうです。
だから・・・・、思い切ってお神輿を正装させたんだそうです。
 
先ずお神輿をバラバラに解体して、各材に漆を塗り直し、金メッキをし直しました。
作業は浅草の神輿の会社に発注しましたが・・・・、作業は分業で行われるので、
東北地方で各パーツの整備を終え、浅草で組立て直しんだそうです。
 
「500万円位かかりましたか!」訊いたところ、「もう2本くらいかかりました・・・」 お答えです。
もう2本というのはの、500万円を2本という意味で1000万円なのか、2000万円なのか・・・・、
良く解りません。
いずれにしても大変なお金が必要になるわけです。
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    新品のように調されたお神輿、膨大なお金がかかりましたが・・・・、素晴らしい出来栄えです。
 
新調されたお神輿が、江ノ電道から路地に入ります。
腰越の浜辺に担ぎ出されます。
砂浜は熱を帯びています。
担ぎ手は良く心得ていて・・・、全員足袋を履いています。
大半が屈強な・・・・親爺です。
刺青の入っている人も目立ちます。
笠間稲荷の法被を着ている担ぎ手も居ます。
訊けば、今日は腰越、明日は茅ヶ崎・・・・、
夏祭りの巡業をしているんだそうです。
腰越の氏子は直ぐ分ります。
肌の白い、インテリ風な人が地元子です。
 
沖合には沢山の船が出ています。
対岸の江の島神社でも、「神輿海中渡御」をしているのです。
海を挟んで南北で、「神輿海中渡御」です。
 
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                          いよいよ午前中のクライマックス「神輿海中渡御」です。
 
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                                        遠方が片瀬東浜の海水浴場、大変な人出です。
 
神輿海中渡御」が終われば、しばしの間休憩です。
弁当が配られ、飲み物が配られます。
午後に向けて英気を養っておかなければなりません。
 
江の島の八坂神社のお神輿を迎えに行きます。
午後2時江の島神社のお神輿がやって来ます。
腰越神社、八坂神社は何れも素戔嗚尊を祭神に祀る兄弟のような関係です。
二つの神社のお神輿が龍口寺の門前で落ち合って、クライマックスに向かいます。
江ノ電も暫くダイアを変更して・・・・・、お祭りに遠慮しているようです。
でも、江ノ電道は大混雑、大変な熱気です。
 
八坂神社のお神輿が江の島に戻る、夕方まで賑いが続くそうです。
私は・・・・戸塚の天皇祭に参加するため・・・・、午後3時に退却しました。
明日は江の島の八坂神社のサイドからお祭りをレポートして、全体が見えるようにいたします。
 
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      江ノ電はお客さんが乗りきれないほどの大混雑です。
      江ノ電道も、お祭り客が溢れかえり・・・・、事故が起きないか心配です。
      地元の人は良く承知しているから大丈夫でしょうが・・・、私のような見物人が一番危険です。
      ついつい、お祭りに夢中になって、電車や車に注意が行かなくなってしまいそうです。
 
 
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兄弟神輿at腰越天王祭

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昨日は腰越の天王祭を小動神社サイドからレポートしました。
此処の天王祭は海を挟んだ江の島の八坂神社でも、お祝いされます。
両神社の合奏による祭りであることが特長です。
そんな訳で、今日は江の島の八坂神社サイドから報告いたします。
 
 
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  腰越浜の正面が江の島です。江の島大橋の東側の片瀬海水浴場の賑わいが腰越浜までの伸びています。
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 江の島では6月~7月には潮が引くと海底から「砂の道」で出現します。
 この現象を地元では「トンボロ」と呼んでいます。
 モン・サンミッシェルでも同様の現象が確認できると聞きます。まるで、江の島の神のお渡り道の様にも見えます。
 筆者はトンボロとは蜻蛉(とんぼ)路の事だと憶測しています。この日もトンボロが現われていました。
 
 
11時に小動神社のお神輿は浜に降りて、海上を渡ります。
神様は海上お渡りがお好きですし、担ぎ手は祓われます。
同じ時刻に、江の島サイドでも、トンボロの脇から八坂神社のお神輿が海に入ります。
両社の神様は同じ素戔嗚尊(すさのうのみこと/牛頭天王の垂迹神)です。
 
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    江の島八坂神社の海上御渡り。此方は真っ裸という事ですが・・・・褌はしています。
    向かいが腰越浜になります。(江の島の観光HPからお借りしました)
 
腰越の人達は江の島八坂神社の「里帰り」と呼んでいます。
何故かと尋ねると・・・・、こんな歴史が隠れていたのでした。
 
大昔、海が荒れて腰越にあったご神体が大波にさらわれて、流されてしまいました。
ところが、ご神体の神像(木製・素戔嗚尊)が御窟前の海中で発見されました。
ご神体は江の島神社の境内に八坂神社が建立され、末社として祀られました。
 
江の島神社といえば弁天様が有名です。
神様は美人三姉妹の女神様です。( 奥津宮/多紀理比賣命、中津宮/市寸島比賣命、辺津宮/田寸津比賣命)
この神々が仏教との習合によって弁才天になったのでした。
この三姉妹は実は、天照大御神(伊勢神宮)の娘であります。
天照大御神の弟が素戔嗚尊ですから、三姉妹神は素戔嗚尊の姪ということになります。
江の島神社と八坂神社とは近縁であるんです。
 
浜降り神事が済むと、小動神社は八坂神社をお迎えに江の島に渡ります。
また、小動神社の神様もお神輿に乗ったまま、龍口寺の前の広小路までお出迎えされます。
午後1時過ぎ、お神輿の担ぎ子も一服終えて・・・・・・、小動神社のお出迎えを受けると出発です。
 
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    路地裏に設営されたお旅所から、お神輿が出立です。小動神社まで往復3キロの長行程です。
    担ぎ手は江の島神社がメインですが、諏訪大社や笠間稲荷等々、全国各地から集まっているようです。
 
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               御幣を奉げて先導する巫女さん、今は涼しげなお顔ですが・・・・・、大変な暑さです。
 
八坂神社のお旅所は江の島の東側、腰越の向かいにありました。
軽自動車一台が通れる程の小路の民宿の玄関先に設えられていました。
普段は人影のない小路に人が、この日に限って通れない程に人が込み合っています。
七つものお囃子の連が並んでいるのです。
 
お囃子の中心は天王囃子という里神楽だそうですが・・・・・、各連によってお囃子の音はまちまちです。
子供囃子連もあれば、三味線を抱えた伯母さんの囃子連もあります。
例年は二つ程度のお囃子連なのだそうですが、今年は特別なんだそうです。
失礼ながら、学校のマーチングバンドも祭り浴衣に着替えて、腰越天王祭に急遽出演している感じです。
それが・・・・、尊く、天王様(素戔嗚尊)もお喜びのことでしょう。
天王様は子供と美人がお好きなんですから・・・・。
 
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  江の島神社参道を練る八坂神社のお神輿。これから橋を渡って、
  龍口寺前広小路で小動神社のお迎えを受けて、小動神社まで一時の里帰りをします。
 
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                                              江の島橋を渡る八坂神社のお神輿。
 
「江の島にこんなに沢山の人が住んでいましたっけ?」
尋ねれば、色々な伝手(ツテ)を使って、盛大になるように努めたんだそうです。
江の島の住人は400人足らずですが、
島内には旅館、レストラン、江の島タワー等様々な職場がありますので、多くの人が働いています。
そんな人達が”今年は特別”とばかり協力しているのでしょう。
 
 
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                        江の島道を龍口寺前に到着しました。延々と囃子のパレードが続きます。
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    龍口寺前から小動神社まで人の波です。この道は暫くの間江ノ電の電車道でもあります。
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     この江ノ電が通ったならば、電車道は暫くの間お神輿の天下になります。江ノ電様の通るまでお神輿も
     道端に控えています。
 
龍口寺門前の広小路には囃子連が到着します。
見物人からも拍手が湧きます。
200mも延々と続く囃子連の行列の最後に、お神輿が練っています。
小動神社のお神輿が(神)が出迎えています。
二つの神輿が並んで、ある時は小動神社が先になって、暫く並行していたかと思うと、
次には八坂神社が前を行きます。
こうして、兄弟が1年置きに会って、喜び合う様に、二つのお神輿が棲家のあった小動の岬まで練って行くのです。
 
 
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    手前が小動神社、向こうが八坂神社、二つの神輿が並んで、時に前後して小動神社に向かいます。
 
 
八坂神社のお神輿が江の島に戻るのは日も傾く頃と聞きます。
私の住む戸塚の八坂神社のお祭りも今晩がクライマックスの「お札撒き」です※。
戸塚の鎮守を詣でないわけには行きません。
そろそろ、家に戻る事に致しましょう。
  (※ 戸塚の天王祭は次に書いたことがあります。未だ戸塚天王祭で検索するとトップの中の一つとして読まれています。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43697465.html)
 
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                     幾つもの山車が見守る中、二つのお神輿が小動岬に向かって行きます。
 
 
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鎌倉野菜広場「かんた村」

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鎌倉関谷に大きな立体交差点があります。
都市計画道路遠藤藤沢線(戸塚環状3号から藤沢に向かう道)と江ノ島線(国道一号線、原宿と江の島を結ぶ道)がクロスしています。
緑豊かな田園地帯でありましたが、住宅地として人気があります。
瀟洒な戸建て住宅や中型マンションが目立ち始めてきました。
そんな中に、昨年秋面白い施設が出来ました。
名前からして興味をそそります。
「かんた村」と呼ぶんです。
 
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    鎌倉関谷のかんた村。例大祭の幟は日枝神社、かんた村の西の山にあります。
    道路わきには新しい住宅が目立ってきました。 
    中央が鎌倉石積の釜戸、野菜の蒸篭蒸しをします。秋には芋煮会や収穫祭が予定されています。
 
 
ところで、”かんた”って何ですか?
訊いてみました。
「”かんた”とは、蜘蛛相撲に使う蜘蛛の事だよ、夏が過ぎると野山に蜘蛛(女郎蜘蛛)が目立ち始めます。
この蜘蛛を捕獲して、相撲を取らせるんです。
大人は賭け事にして、子供も夢中になった遊びですよ。」
何の事は無い、中国で盛んな「コオロギ相撲」のようなもののようです。
日本では今でも子供達は甲虫の相撲を取らせています。
     (YOU-TUBEに出ています。http://www.youtube.com/watch?v=yT8aWH4Hhrg)
女郎蜘蛛の相撲を鎌倉では「かんた相撲」と呼ぶんだそうです。
 
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   これが「かんた」こと女郎蜘蛛です。これを棒に先に止まらせて、戦わせます。
   棒から落された方、お尻を咬まれた方が負けになります。
 
かんた村の創業者はこのあたりの古参の農家「石井廣志」氏でした。
同氏が子供のころ近くの日枝神社の境内でかんた相撲に興じたんでしょう。
そのころの遊び心をそのままに、大人になっても故郷の広場で遊びたい・・・・、
そんな思いがこのネーミングになった事でしょう。
 
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  これが龍宝寺境内で保存されている石井家住宅です。かんた村の村長石井廣志氏は石井家の末裔です。
  シンプルな田の字の間取りの美しい民家です。鎌倉郷氏の家として国の重文になっています。
 
 
東側の丘陵は玉縄城跡です。
城址の南側には龍宝寺があって、その境内には石井家住居が保存されています。(国の重要文化財)
かんた村の村長さんが、その石井家の分家です。
 
石井さんは地域の歴史や生活を大切にされています。
かんた村の壁には昭和20年代、30年代の写真が沢山掲げられています。
どの写真も、懐かしい時代のありふれた風景です。
農家の庭先で大豆を乾かす作業、牛に鋤を曳かせて田起こしをする作業・・・等々、
作業する農夫も牛も輝いています。
龍宝寺の資料館には夥しい数の農機具が展示されています。
江戸時代から昭和まで使われてきた農機具です。
その幾つもが石井家の愛用品だったのでしょう。
 
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        農家の庭先で大豆を収穫している光景(昭和29年)、皆楽しげです。(かんた村の室内壁面)
 
 
農業は地域の基幹産業でした。
産業という意味のほかに、
「地域の人の絆を結ぶ・・・」、「地域の風景を守る・・・・」、そんな社会、国土の意味もじゅうようでした。
そんな、鎌倉関谷の「人の絆」と「景色」を壊したくない・・・・、
そんな思いが「かんた村」のネーミングに託されたのでしょう。
 
関谷の農業といえば「鎌倉野菜」です。
今が夏野菜の収穫の最中です。
道路を走れば畑で実った野菜を見る事が出来ます。
春に植えられた野菜が青々と茂って、梅雨時に花をつけ、今実っています。
目の前の野菜は美味そうですし、安心して食べる事が出来ます。
目前の畑で出来た野菜を食べる事は体にも良いし、鎌倉の田園風景を守る事になります。
そして、私の様に農家産まれでありながら、農業から離れて久しい者には・・・・、
生産農家と触れ合う機会も作ってくれます。
 
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                                   かんた村のメニュー。
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               かんた村夏野菜カレーはキーマカレーの上に沢山の夏野菜が盛られていました。
 
 
かんた村の庭先では鎌倉石を積み重ねて作った釜戸が置かれています。
土日休日の昼ごろにアツアツの夏野菜のせいろ蒸しがいただけます。(じゃが芋やトウモロコシ)
 
人気のメニュー夏野菜カレーを戴きました。
中々のボリュームで、挽肉もたくさん入っています。
夏野菜が何種類も入っています。
 
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   かんた村の野菜売り場。(10時開店)、今は様々なお茄子が売られていました。
 
東日本大震災が日本社会の変換を促しているように思います。
このままでは日本の社会や文化は壊れてしまう、「チェンジするのは今だ!」とばかりに・・・・。
農業を大切にして、「人の絆や緑の国土を大切にしなさい!」、そんな神の啓示のようです。
 
農業が、農業が人と人の絆を守って行くものであり、同時に国土対策事業であります。
大都市周辺には農園都市が期待されている様に思います。
農園都市は大都市勤労者のベットタウンである以上に、
農業を見て楽しんで、自然に触れ合いながら過ごせる、そんな町です。
 
大都市のレストランで食事するよりも、郊外に出て農園レストランで、
目の前の採れたて野菜を食べる方に魅力を感じます。
地ビールや地ワインも用意されている・・・・、そんなライフの方が遥かにリッチです。
 
かんた村はこの秋に1年を迎えます。
でも、まだまだ工夫が必要のように思えます。
その一つが食器です。
使い捨てのプラスチックのスプーン、発泡スチロールのトレーが使われています。
ロハスの人は食器ににもこだわりがあります。
使い捨ては好きではありません。
 
ゴーヤのカーテンの陰には良い風が吹き通ります。
今年何度目かのかき氷を戴きました。
もう、氷川神社の森からは油蝉の鳴き声が響いています。
ついこの前まではニーニーゼミだったのに・・・・。
ヒグラシ蝉が啼きだせば・・・・、お盆の入りです。
季節の移り変わりの速さは年々慌ただしくなってきました。
 
かんた村の成功を期待しています。
秋になれば、収穫祭、芋煮会で賑わう事でしょう。
野菜はこんな広場でワイワイガヤガヤしながら食べるもんです。
 
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     かんた村の食堂で、かき氷(100円)、ゴーヤのカーテンでは白い実がなっていました。
 
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  迷った挙句、求めたのは様々なお茄子でした。左端の白茄子は意外にも皮が厚かったです。
  今年のお盆の迎え火、送り火の乗り物の牛は白茄子にしましょう。義母が「今年の乗り物は白いのね!」
  無邪気に喜んでくれそうです・・・・。
 
 
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期待の湘南高校三回戦で散る

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全国各地で高校野球の熱戦が戦われています。
神奈川県大会も3回戦が始まりました。
これからが、楽しみです。
17日は天気も薄曇り、野球見物には格好でした。
新聞で今日の試合を確認します。
我が家に近いのは「俣野の薬科大球場」です。
でも、藤沢鵠沼の「八部/はっぷ球場」に出かけました。
湘南高校がなんとシードされているのです。
湘南VS海老名の公立高校同士の対決は・・・・・、面白そうです。
 
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   鵠沼は白鳥(鵠)の棲む沼の意味です。住宅地の中に沼が残されて、ボランティアの活動で蓮が咲きます。
   毎朝、この沼の畔の公園でラジオ体操が催されているそうです。
 
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                           鵠沼は緑豊かな住宅地です。瑠璃カズラが盛りでした。
 
1949年湘南高校は甲子園に出場します。
この時代は総じて西の高校が優勢でしたものの、全国優勝してしまいます。
33年ぶりの「深紅の優勝旗の箱根越え」と言われたそうです。
今年、若しも東北の高校が優勝したら「深紅の優勝旗の白河越え」と言われることでしょう。
昨今では神奈川県の高校は甲子園で再三優勝していますから・・・・・・、優勝慣れしているようですが・・・・、
当時の感動は如何ばかりでしょうか。
以来、県民には湘南高校ファンが沢山います。
 
もとより湘南高校は神奈川県下で最も優れた文武両道高校で、
サッカー部や吹奏楽部が全国優勝しています。
そんな湘南高校が今年はシードされたんで・・・・、近年沈黙していたファンが大挙して応援に来ていました。
1塁側のスタンドは満員です。
 
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    鵠沼運動公園にある八部球場。向こうが3塁側、海老名高校の応援スタンド。
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                       1塁側、湘南高校の応援スタンド
 
鵠沼公園駅(江ノ電)から北に向かえば「鵠沼」があって、今は蓮が盛りです。
南に向かって10分ほどの処に鵠沼運動公園があって、八部球場があります。
野球場から西、鵠沼神明町に湘南高校があります。
歩いて数分、まさに湘南高校野球部のホームグランドです。
 
 
湘南高校の先発は「山田投手」でした。背番号は7、2回戦で先発した宮台選手(背番号1)はレフトです。
山田選手は2011年3月11日、卒業式前日に仙台で東日本大震災に遭遇してしまいました。
父親の仕事の関係で高校は湘南に通う事になったそうです。
宮台選手とは同じ歳(3年)ライバルとして競って、シード校に導いたのでした。
 
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   湘南高校はピンチの連続、総じて押されていました。でも、ノーエラーで守り抜いていました。
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         湘南高校の攻撃は、四球を選んでもここ一打が出ませんでした。
 
でも、この日は直球が上ずり、得意のスライダーも切れが悪かったようです。
1回に1点を失点してしまいます。
でも、3回湘南はワンチャンスを活かして同点に追いつきます。
しかし、その後も総じて湘南は押され気味、海老名の打撃は浮いた球を確実にヒットしてゆきます。
 
応援席からは高校野球にしてはきついヤジが飛びます。
「此処は湘南のホームグランド、リラックス、リラックス」 なんて言うのは良いんですが、
「どっちがシードだ!」とか
「偏差値で圧倒しろ!」 なんていう訳のわからないヤジが飛びます。
応援席は私のように同校OBでは無い者も多いようです。
 
とうとう5回山田投手はつかまってしまい、連打を浴びて3点を失点してしまいます。
素人目の私にも継投の遅れが指摘されました。
その後、エースの宮台選手が引き継ぎ、無失点で投げ切りました。
一方海老名のピッチャーは見事に継投を決めて・・・・・、1失点のまま逃げ切ってしまいます。
 
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                           1-4で湘南は完敗でした。 でも、良いチームでした。
 
 
チェンジの度ごとにアナウンスされます。
「このようなお天気です、日射病や熱射病に気を付けて、水を飲んだり日陰に入りましょう・・・・!」
ああ、炎天下では日射病と言って、熱中症とは違うんだ・・・・、気付きます。
私は手拭いに水を浸して、頭上や首筋に巻いて日射病対策です。
観客席の上段に登れば海風が渡ってきます。
 
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    応援席にはジュースが配られてきました。暑さ対策でしょうか? 美味しくいただきました。
    こんなの初めてです。
 
出かけるときの気持ちでは、午後の試合「西湘VS橘」も観戦する積りでした。
でも、体力が心配です。
湘南高校の応援団の後を追って、スタンドを出ました。
野球場入り口では野球部選手が整列して応援団を迎えていました。
「応援ありがとうございました!」
選手が深々頭を下げます。
これに対して、応援団や吹奏楽部は・・・・
「この夏も応援する機会を戴きました・・・・、ありがとうございました」
此方も腰を折りました。
”良い高校だなあ、部活動が盛んなんだな!”
”野球も(部活動も)礼に始まり礼に終わるんだ!”
教えられるような光景です。
私の小学校の友人も沢山いました。それらの顔が思い浮かびます。
 
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                                    応援席に挨拶します。
 
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     グランドを出れば、野球部部員が整列して応援団を出迎え、感謝の礼を再度してくれました。
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      応援生徒も、吹奏楽部部員も、今度は野球部員に礼をしました。”こんな機会を呉れて有難う”
 
私の傍らの引率の先生に伺いました。
「残念でしたね、海老名高校の打撃はシャープでした。先発はエースの宮台君では無かったんですね。?」
すると、先生はこう答えられました。
「ローテーションでしたから・・・・、」
お顔には「もう少し先にまで進むつもりで、ローテーションを組んでいたんだが・・・・」
そんな風に書かれているようでした。
 
広島では山中から女子高生の遺体が発見されました。
最初は16歳の女子高生が同学年の友人を殺した・・・・・自発で発覚したのでした。
でも、不自然です、少女が山奥に友人を引き出して殺せる筈ありません。
事件は集団リンチ事件の様相を思わせています。
 
教育における野球の功績を想います。
暑いさなかに、野球に集中し、そんな選手を声を張り上げて応援する・・・・、
負けてしまっても、お互いに礼をして感謝を表現する・・・・。
湘南の海風にも似て爽やかな風を体一杯に浴びて帰る事が出来ました。
 
また、高校野球の応援に出かける事にしましょう。
 
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   応援女学生のリボンは初代校長赤木愛太郎氏に因んだ三色なんでしょうか? 良くお似合いです。
 
 
 
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天王祭の「お札撒き」

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7月14日~16日の3連休は全国の八坂神社で例大祭(天王祭)が催された事でしょう。
京都の町衆が信仰した神社本社ですから、その末社も各地の街中にある事が多いようです。
私の住む戸塚も宿場町の丁度中央に八坂神社があり、天王祭がにぎやかに催されました。
 
戸塚の八坂神社は少し有名です。(地元民として少し自慢!)
それは「天王祭にお札撒き」が行われるからです。
八坂神社は多分、東海道53次全宿場にあった事でしょう。
どの宿場でも天王祭が催され、お札撒きが催されていたそうです。
それが、何処も廃れて今では戸塚宿だけがこの風習を今に伝えているのです。(八坂神社の案内板に記載)
「何で戸塚だけ残されているんだろうか?」
「何故だろうな?何故かしら?(昔の本)」で育った私は直ぐに疑問に思います。
その理由は・・・・・、戸塚のお札撒きの”囃子歌”に秘密があるように思います。
戸塚のお札撒きの際に歌われる囃子歌が人気があって、歌いやすく、聞き易かった・・・・、要するに愛されていたからではないでしょうか。
 
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  天王祭に賑わう戸塚の八坂神社。戸塚村の村社です。戸塚区27万人のお祭りです。
  今日の話題はそこで催される「お札撒き」神事です。
 
天王祭のお札撒きが注目されるのは・・・・・、
江戸時代末期の「ええじゃないか」と呼ばれる民衆運動に展開したからです。
江戸時代末期、地震は頻発し飢饉になる、物価は高騰する、加えて黒船は来る、
内憂外患に民衆の不安は高まります。
民衆の不安は不満になり、爆発寸前になります。
その不安・不満を討幕の方向に向けたのが・・・・”ええじゃないか運動”でした。
どうも、運動は長州から始まって、京都で火を噴きました。
丁度祇園祭の季節でした。(岩倉公実記)
 
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      慶応4年、ええじゃないかの騒ぎ。お伊勢参りのお蔭参り、抜け参りの伝統に、天王祭りのお札撒き、
      それらに、当時の社会不安や民衆の抑圧されたエネルギーが爆発して「ええじゃないか運動」が勃発
      しました。これが討幕のベクトルを強くしました。
 
 
内憂外患で不安が高まるが・・・・、それでも日本はどうにかなるだろう・・・・、何があってもいいじゃないか!
踊り狂う民衆の上には天からお札が降ってきました。
お札は天照大神や弟の素戔嗚尊(すさのうのみこと)のものです。
思い出してみれば日本の国は、天照大神から現存の天皇にいたる皇統が連続してきた神国ではないか。
屹度うまくいって、幸せになるんだろう・・・・・、だから、
神が幸せを導いてくれるだろうから・・・・・・・、”ええじゃないか”となりました。
 
何があってもええじゃないか! 漠然と思う気持ちは・・・・”何をしても良いじゃないか!”という事にひろがります。
「米問屋を襲って、米を奪っても良いじゃないか!」
「両替商を襲って金を奪って良いじゃないか!」
「隣の嫁さんと交わっても良いじゃないか!」
最後のは推測ですが・・・・、とんでもない方向にまで広がってしまいます。
でも、民衆のエネルギーは討幕に進み、皇統に戻せば日本は神国何で・・・、どうにかなるさ・・・、
そう思ったのでしょう。
流石に維新政府はアナーキーな民衆運動を許可しませんでした。
だから、ええじゃないか運動は一瞬にして立ち消えてしまいました。
 
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  戸塚の天王祭は戸塚区最大のお祭りです。屋台の数は平塚の七夕に匹敵する多さであり熱気です。
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                          あさひ町通り界隈は露地や駐車場まで夜店や飲食する人で埋まります。
 
ええじゃないか運動の素地になった「天王祭のお札撒き」だけが続きました。
それも、戸塚を残して総ての宿場町で行われなくなってしまいました。
だから・・・・、戸塚の天王祭のお札撒きは民族的な価値があるんです。
 
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  夕方街中でお札撒きした一行は夜7時半ごろに八坂神社の舞台に戻ります。
  舞台で反時計回りに練ります。囃子歌が何度も歌われます。群衆は間もなく撒かれるお札を拾おうと
  待機しています。
 
 さあ来い子供 天王様は 囃子がお好き
 泣く子は嫌い 喧嘩も嫌い
 ワイワイ囃せ 天王山に登って
 獅子の毛むしって 膠(にかわ)で貼って
 これ見ろ弥吉さん
 弥吉の女房 ないないよ
 無い毛が生えた(注)
 ここらで撒こか
 入り色混ぜて 有難いお札
 授かったものは 病をよける
 コロリ(疱瘡)も逃げる ソラ撒くぞ
 
 今年も豊年だ 豊年だ 満作だ
 お米も取れる 粟も麦もとれる 
 野菜もとれる 木の実も実る
 親縁寺のお小僧が 椎の実とって食うとって
 蜂にちんちん刺されて 
 痛いとも言わず 痒いとも言わず
 タダめそめそと 
 ここらで撒こうか 色々混ぜて
 有難いお札 授かったものは 病をよける
 コロリも逃げる ソラ撒く撒くぞ
 
(注)灰色字は戸塚郷土史の記述の通り。これでは一番が短い、そこで「神奈川県の祭り」で調べると青字がぬけ     ている事が判明した。実際の囃子歌は例年1番が繰り返されていたが今年は3番が加わっていました。
   3番は油を舐める話を歌っていました。
   親縁寺は時宗(一遍上人)のお寺、戸塚町の外れにあります。お札撒きは一遍上人が始められたもの、その関    係で親縁寺が詠われたものでしょうか?
   歌の内容は病気(疱瘡)除け、そして豊作の予祝(従って性的なもの)が主たるものです。
   なお、戸塚は東海道中膝栗毛でも「戸塚の大キン玉」が採取されていて・・・・、江戸を立って最初の宿場町です   から、開放的な話題が多くなっています。戸塚の大キン玉の話は何れかの機会に報告します。
 
 
 
今年も踊りは9人、他にリーダーが一人。大幣持ちが一人います。
リーダーは島田のぼてかずらを被って、派手な長襦袢を見せつけて、裾をからげています。
大きな団扇を持っています。
リーダーの脇には音頭取りが居て、もう一人翁顔で大幣を奉じた者が居ます。
この幣を中心にして9人の女装した男たちが音頭取りの歌に唱和して、踊りながら周回します。
そろそろ撒こうか! まだまだ早い! 囃子歌はまた最初に戻ります。
8分ほど歌い踊ると、いよいよお札撒きがはじまります。
全員が舞台の前に揃って、団扇でお札を煽ります。
お札は空中を舞って・・・・、群衆は手を挙げてお札をキャッチします。
 
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  島田を被ったリーダー、大幣を奉じた翁、その周囲を踊り子9人が踊りながら巡ります。
  このスタイルは遊行念仏を髣髴させます。
 
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   団扇で煽ってお札を撒きます。 お札は空に舞います、群衆はお札を拾おうと必死です。
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前回この天王祭のお札撒きを記事にしたのは2010年7月でした。
お札撒きをしているのはリーダーはじめみんな変わらないようです。
全員元気でお札撒きをして、善男善女に幸いをもたらしているのでしょう。
暑いさなか、このお札撒きを続けているからこそ・・・・全員健康なのでしょう。
人に喜ばれることをする、それがそのまま自分の健康や幸いになって戻ってきているのでしょう。
子供も減ってきた昨今です。
お札撒きの囃子歌も平成版に改定する必要がありそうです。
 
  サー来いシルバー
  天王様は囃子がお好き
  陰口嫌い 虐めも嫌い
  ワイワイ囃せ 天王山に登って
  皆で踊れば 足腰ピンだ
  ここらで撒こうか 色々混ぜて
  有難いお札 授かったものは
  癌もよける 痴呆も逃げる 脳卒中もおさらばだ
  ソラ・ソラ撒くぞ ソラ撒くぞ
 
勿論これは筆者の愚作です。
時代と共に囃子歌も変遷するものでしょう。
 
 
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歴史博物館での小さな論争?

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ユネスコの文化遺産の指定もあって、富士山人気が盛り上がっています。
我が家でも以前は富士山が見えたのですが、今ではマンションの陰に入ってしまい全く見えなくなりました。
マースエンジニアリングの社長は富士山が好きで、御殿場に家を建てその屋上に風呂を作られました。
風呂に入りながら富士山を眺める・・・・、すると良いアイディアが浮かぶんだそうです。
富士山が見えるので家を建てた・・・・・、そんな人も将来とも富士山が眺められるか・・・・・、
よく吟味しないといけないのでしょう。
 
神奈川県歴史博物館で「神奈川から見た富士」の展示が為されている・・・・、聞いたので出かけてみました。
日曜日の横浜馬車道は人影も少なく、落ち着いた雰囲気です。
歴史博物館は旧横浜正金銀行本店本館(東京銀行元横浜支店)です。(明治37年、国の重要文化財)
東京銀行から譲られて、歴史博物館に利用しています。(入場料300円)
「神奈川から見る富士山」が好企画だったのでしょう、お客さんも入っていました。
 
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        神奈川県立歴史博物館。この建物は旧横浜正金銀行本店本館。(明治37年、国の重文)
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                                 横が馬車道です。日曜日の昼下がり、人影のありません。
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       「神奈川から見た富士」は好企画で、観客も多かったようです。
 
 
各フロアーに説明員(学芸員?)がいて、見学者の質問に答えてくれます。
弥生時代のコーナーに、馬の埴輪が陳列されていました。
偶々、学芸員が私の傍に来られたので、質問してみました。
「馬の埴輪が副葬品として作られたのは解りますが、馬自体どんな役目を担っていたんでしょうか?」
すると、説明員はこう答えられます。
「馬は農耕に使われていたと思います。」 (案の定・・・・私も学校でそう習いました)
 
私は、自説をとなえてみます。
「私はズット馬頭観音を考えてきました。馬頭観音は江戸時代に祀られましたが、古代から作られていました。
何故、馬頭観音が厚く信仰されたのか? 考えるとこの埴輪に行き着きます。
馬は神様の乗り物だったのではないでしょうか?
何故なら、この埴輪には鈴など数多くの飾り物が付いています。
農耕馬なら鋤を取り付ける馬具などが付いている筈でしょう・・・・。」
 
説明員は主張を覆しません。
「一般に埴輪の馬は農耕に重要な役割だったので・・・・・・。」
同行した家内は・・・、迷惑そうな表情で眺めています。
「どうせ、結論何て出ないんだから・・・・・、どっちの説が正しくても良いじゃないか!」
 
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   この埴輪の馬が農耕馬であったのか神の乗り物であったのか? それが争点でした。
   (写真は歴史博物館のHPから、同館のお土産品です。)
   絵馬とか馬の藁人形は神社で良く見かけます。馬は神の乗り物だったから・・・・・、考えました。
 
 
古代のコーナーに移ります。
私達は日向薬師の薬師三尊像の摸刻品の前で足を止めます。
この像は神奈川特有の鉈彫りで国の重要文化財になっています。
日向薬師では拝観できますが、暗い厨子の中なんで良く解りません。
でも、最近では4年くらい前国立博物館の「一木に込められた祈り」で拝観しました。
 
桂の木肌の瑞々しさと、鉈彫りのリズムが如何にも東国の仏像です。
神奈川県民自慢の「おらが国の仏様」です。
私は説明員に言ってみました。
「このプラスチック製の摸刻像、良く出来ていますね! いつも感服します。」
すると女性の説明員は多少の剣幕で私を責めます。
「これは模刻像ですが、樹を鑿で彫刻したもんです。プラスチック何てあり得ません。
重要文化財を型取りする事なんか禁じられています。」
私は、応えます。
「私は実物を何度も見ています。桂の木肌に丸鑿で刻んだ跡の瑞々しさが魅力の一つです。実物は鑿跡がシャープです。この模刻品は型取りしていますから・・・・、丸鑿の角が緩いんです。・・・・・・・私の眼に間違いはありませんよ!」
 
家内は「今日のお父さんは博物館で喧嘩ばかり売って歩いている・・・、こんなところが嫌なんだ!」
表情に出ています。
 
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   国立博物館展示「一木に込められた祈り」のアルバムから転載。これが実物の日向薬師写真です。
   最初から漆彩色や金箔を塗らず、桂の木肌を活かして、丸鑿の後を遺して仕上げています。
   こうした造りは平安時代に相模で盛んに作られました。論争は歴史博物館に展示されている摸刻像が
   木造であるのか、プラスチックの張子であるのか…、という事でした。
 
 
 
説明員は戻って行かれました。
そして、責任者(学芸員?)に確認したのでしょう。
近代のコーナーで私を見つけて・・・報告してくれました。
「あの時代、摸刻像を作る為に仏像の型取りが許されていました。日向薬師像は確かに型取り、彩色像です。
でも、プラスチックではなく樹脂だそうです。」
私は答えました。
「ああそうですか! 樹脂ですか。それにしても上手に出来ていますね。
実物を良く見ていなければ騙されてしまいますね・・・・。」
私の心中では
「プラスチックと樹脂とどう違うんだ?」
樹脂といえば解り難そうだからプラスチックと言ったまでの事です。
 
私も説明員(学芸員?)と同じ性癖があるようです。
自説にこだわって、他の人の意見が聞けなくなってしまうしまうような性格があるんです。
サラリーマン時代にはこの性格で、何度も失敗してきましたが・・・・。
今でも変わらないようです。
家内も失笑しているようです。
私自身も「困ったもんだ・・・・」思います。
 
   注:各フロアーに居る人の資格が解りません。監視要員でありますが、同時に”説明しますので質問してくださ       い!”と案内されています。説明要員であることは確実なのですが、その資格が解らないので、説明員と書      きました。
 
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    広重画、保土ヶ谷宿。富士山を眺めながら坂道に入ります。道は権太坂でしょうか?
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   広重画、「六郷の渡し」六郷川(多摩川)を渡れば川崎で川崎大師の甍が見えます。
   神奈川の名所図は多く富士山が遠景に描かれています。風景や生活の中にある富士も文化遺産です。
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     今はもうない「横浜真葛焼」のコレクションもこの博物館の魅力です。
 
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「辻の盆」で地域おこし

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バブルが去って以来、各地で「地域おこし」を真剣に取り組むようになりました。
藤沢では、商工会議所が核になって、藤沢の自然資産、歴史資産を見直し、
何をしたら「藤沢の町おこし」になるか・・・・、検討した結果が「盆踊り」による町おこしだったのでしょう。
藤沢の名の起こりは「藤沢山遊行寺」です、遊行寺の念仏踊りこそ「盆踊りのルーツ」、と確信して、
遊行寺と藤沢の街中を「盆踊り・遊行念仏踊り」で練り歩き、辻堂海浜公園で「辻の盆」を実施することにしました。
夏休みの始まった7月20に、第7回「辻の盆」が、一週間遅れて第8回「遊行の盆」が実施されます。
私は、7月20日辻堂海浜公園に「辻の盆」を見物に行ってみました。
 
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              一遍上人が鴨川川原で遊行念仏する光景。櫓の上で踊る姿は盆踊りを思わせます。
 
一遍上人絵巻絵(国宝)では鴨川の川原に櫓を組んで、その上で一遍上人が先導して踊っている光景が見事に描かれています。
踊りの最後には「お札撒き」が実施されたことでしょう。
現代の盆踊りと殆ど変わらない光景です。
これが、盆踊りの始まりか?
言いきれない事でしょう。
若しかしたら、弥生時代からこうした光景で踊られてきたのかも知れません。
ジャワ島の踊りなど、盆踊りに髣髴させます。
盆踊りは海上の道の民族の踊りであって、その踊りを「遊行念仏」のスタイルに採用したのが一遍上人だった、考えるのが良いように思います。
それだけに、盆踊りは私達日本人の血を沸かせるんでしょう。
 
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   とにかく広く、松の緑が美しい辻堂海浜公園です。
   此処ではサザンの音楽会等大きなイベントが行われます。
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          芝生の上に茣蓙を敷いて家族が座って見物です。赤とんぼが画面の上を泳いでいました。
 
県立辻堂海浜公園はとにかく広いんです。20ヘクタールもあります。
周囲を美しい黒松が囲んでいます。
盆踊りには最高の会場です。
 
夕暮れが近づくともう赤とんぼが群れを作って飛んでいます。
浴衣を着た坊やが赤とんぼに気付いて指さします。
お母さんも指さす先を見詰めています。
 
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公園の向日葵も咲き揃いました。
海辺ですから・・・・、わざっと背丈の低い向日葵を植えました。
何時もは見上げる高さの向日葵ですが・・・・、此処では坊やの目線の高さで咲いています。
向こうの坊やは池の中にジャブジャブ入っています。
芝生の上に座って、家族が盆踊りを見物しています。
此処は実に子供多い街です。
今年は徳洲会湘南病院が辻堂駅前に進出してきました。
同病院はこのお祭りの後援者であります、テントを張って骨密度測定などのサービスを実施しています。
 
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皆で輪になって踊る・・・、その前座に高円寺の朱雀連が阿波踊りを始めました。
高円寺の阿波踊りは2日間で120万人も集まる・・・・、町おこしの成功例です。
訊けば今年で5回目の出場だそうです。
阿波踊りの手を掲げて踊る姿は一遍上人の踊る姿と似ています。
屹度、踊る悦びを体で表現すると・・・・、同じような姿になるんでしょう。
 
祭り提灯には「遊行の盆実行委員会」「藤沢観光協会」の名が書かれています。
「辻の盆」も主催者は「辻の盆実行委員会」です。
実行委員会のメンバーには、藤沢商工会議所を筆頭に地域の組織(法人・市・法人)と個人で出来ているんでしょう。
 
お祭り出来られる絆纏は「絆を纏ぐ」と書かれています。
希薄になりつつある「人と人との絆を強く纏ぐ」のが祭りの効果なのでしょう。
同じ釜の飯を食えば・・・・、何も言わなくても分かり合えるような気持ちになれます。
でも一緒に阿波踊りを踊れば・・・・、人と人との連帯は確かなものになる事でしょう。
 
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                     高円寺朱雀連の阿波踊り、東の空にお月様が上ってきていました。
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                                      西の空には陽が沈もうとしています
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高円寺朱雀連のリーダーの踊り指導があって・・・・・、阿波踊りの輪が櫓の周囲に出来ました。
リーダーは左回りするように案内します。
夕陽の方に向かって踊って下さい・・・・・、そう説明しました。
西の空の・・・・・・、夕陽を皆が見上げます。
逆に海側、東の空にはお月様が出ています。
上弦の月も丸みが増して・・・、今夜は十三夜のようです。
 
皆が踊れるのは「清のズントコ節」です。
三池炭鉱節も踊られます。
もう、日本には炭鉱も記憶から消えようとしています。
でも、盆踊りは忘れられません。
屹度、染色体に刻み込まれているんでしょう。
「辻の盆」も今晩が一番の盛り上がりを見せる事でしょう。
屋台も沢山出ていますし、健康で楽しい事請け合いです。
お出かけされることをお奨めします。
 
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                           三池炭鉱節も踊られて、盆踊りはいよいよ佳境です。
 
柏尾川に沿って帰路につきました。
土手には月見草が今を盛りに咲いていました。
先刻まで飛んでいた赤とんぼは月見草の花陰で眠っている事でしょう。
 
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                                      柏尾川堤の咲いた月見草、中央は上弦の月です。
 
 
さあ、7月21日は衆議院議員選挙です。
選挙は7時に始まります。
投票管理者の私は6時に会場入りしなければなりません。
今日は長丁場です。
もう10年も投票管理者を勤めています。
これも、誰かに代わりたいのですが・・・・、誰も引き受けてくれません。
ボヤいても致し方ありません。
このブログもこの辺でアップして、ソロソロ出発です。
 
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「松下政経塾」、エリート故の欠陥

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昨日は参議院議員選挙、私は投票所の管理責任者として終日働きました。
無事に、何事もなく選挙を終えて、投票箱を選管事務局に引き継ぎ、選挙会場を清掃し、帰宅したのは9時、
TVでは予想通り自民党の圧勝、民主党の一層の退潮が報道されていました。
一時は台風の眼であった維新の会も一時の勢いも消えてしまったようでした。
 
選挙会場で熱心に選挙公報を見詰めていた選挙人から質問を受けました。
「神奈川選挙区では11人立候補しています。このうち何人が当選するんですか?」
私はこたえます。「4人です」
「何故、選挙公報には4人区である、記載されていないんですか?」
 
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   神奈川選挙区選挙の公報、11人の政見が印刷されているだけで4人区であるとの記載はありません。
 
 
また、別の選挙人から質問を受けました。
「参議院議員比例区には沢山の候補者が並んでいます。案内には候補者の名を書いても、政党名を書いても良い、書かれています。この違いは何処にあるんですか? 衆議院議員選挙の比例区の名簿とどう違うんですか?」
私は答えました。
「政党名、個人名、双方を合計して各政党への議席配分が決まります。その議席配分から個人名での投票数の多い順に当選者が決まります。だから、是非個人名で書かれるようお勧めします。」
 
選挙人は更に言われます。
「非拘束名簿式比例代表選挙でしょう、そんなことは知っています。
何故選挙公報にその事が書かれていないんですか?
 選挙公報には選挙する人が知りたいこと、知っていたほうが良い事・・・・、総て書かれているべきでしょう!」
 
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         自民党の比例区選挙の候補者を記した広報。自民党はアイウエオ順に
         共産党は意図的に(当選期待順?)に並んでいました。選挙の仕組みが解り難いんです。
 
選挙人のご意見の通りだと思いました。
選挙は総じて選挙させてやる・・・・、そんな見下ろし目線が消えていません。
投票所に出向いて「1票を投じる」そんな選挙人の視線が欠けている様に思います。
 
選挙会場を社会教育の場と捉えて、親子連れで来る人も多く居ます。
選挙が民主主義の原点である・・・・、そんな大事な事を子供に教えています。
選挙制度がドンドン複雑になって・・・・、大人でも解り難くなっています。
大人を教育する・・・・、投票所にはそんな機会も用意してあって良いんじゃないでしょうか?
例えば、選挙会場の隣に会場を用意して、その時々の選挙の争点や、財政状況を説明するなど・・・・・。
 
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   2009年横浜開港150年祭。
   横浜市は博報堂に委託してイベントを実施しましたが大赤字を垂れ流してしまいました。
 
昨年前横浜市長であった中田宏氏が衆議院議員選挙に立候補しました。
同氏は2009年横浜市長を退任し、日本創新党を旗あげしていたんです。
横浜市長の仕事を遣り遂げたわけでは無く・・・・、横浜開港150年祭の大赤字を放り投げ、
女性スキャンダルに嫌気がしたからだと思われます。
そして、維新の会が良さそうだと気付くと・・・・、早速船を乗り換えたのでした。
選挙区選挙で信任を受けたのではなく・・・・、比例区選挙の中に名を滑り込ませていたんです。
私は、鶏が蹴散らかして・・・・、迷惑を返りみない・・・、そんな光景を思い起こします。
一度、横浜市長としての仕事を総括してから……、国政に転じるのが「男のケジメ」だと思うんです。
 
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                        茅ヶ崎の松下政経塾(同法人のHPから転載)
 
中田宏氏は松下政経塾の10期生でした。
その1期生が野田佳彦氏でした。
松下政経塾卒業生は共通した脆弱さがあるように思えます。
エリート臭さがプンプンとしているのですが・・・・・、そのエリートは往々にして弱さを併せ持っています。
自分よりもIQの高そうな人に対しては上目遣いになってしまいます。
だから・・・・、理財局や外務省の高官の言いなりになってしまいます。
野田民主党が官界を牛耳られず、消費税倍増を約束し、
防衛官僚の主張に従って「尖閣問題」に火を点けてしまいました。
国益に反した事は間違いないでしょう。
 
松下政経塾OBに共通した特長は弁が立つ事です。
中田氏も野田氏も演説が上手で、泥鰌の比喩など心憎いものがあります。
でも、理想で国民を引っ張って行く迫力に欠けている様に思います。
同時に地面を這いつくばって耐え抜いてゆく・・・・、松下幸之助のような迫力に乏しいと感じます。
 
松下幸之助氏の財産が原資になって、
同氏の創案によって昭和54年茅ヶ崎の汐見台に出来たのが松下政経塾でした。
ここで3年間勉強する者には生活費が支給されます。(20万/月)
至れり尽くせりの施設ですし、待遇でしょう。
卒業すれば、様々な出世街道が用意されています。
政界に進出するにも・・・、沢山の人や組織が支援してくれます。
お蔭で現在は衆院27人、参院7人の議員を擁しています。
昨年12月民主党が大敗を喫するまでは衆院に31人も居ました。
 
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                        こんなかわいい子には、素晴らしい日本国を託したいもんです。
 
過保護に育って、成功の道が約束された政治家にリーダーを期待するのは無理があるようです。
彼らは度々坂本竜馬等維新の立役者の言を引用し、現代の竜馬の様に振り舞います。
でも「維新」「革新」と標榜しても、私達の知っている維新を成し遂げた人物とは違います。
明治維新の立役者維新の志士は何れも下級武士でした。
坂本竜馬も高杉晋作も、吉田松陰も・・・・・、私達が敬愛する維新の立役者は、
貧乏で、庶民視線でモノを見て・・・、高い理想と愛国心がありました。
 
現在の「維新の標榜者」は・・・・、その反対局にあるようです。
「口先の弁が立ち」「目先が利いて・・・・・、強そうなものに引っ付いて」「勝者に摺り寄って」
「大きな夢も」「熱い情熱も」無い事は透けて見えます。
 
墓場の松下幸之助も思っている事でしょう。
「松下政経塾」を建てたのは間違いだった。
もやしのような政治家や経済人ばかり育ておって・・・・。
お蔭で、松下電器をパナソニックになんてチェンジして、毎年7千億円も赤字を垂らし流して・・・・、
政治家だって・・・・、毎年50兆円もの借金を重ね折って・・・・・。
汗水たらして、歯を食いしばって赤字を無くそう・・・・・、借金を自分の代で完済しようとする気力が無い。
実に情けないもんだ。
 
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     政治家はもやしのようなエリートではなく、鬼百合のようなしたたかさで社会を導いて欲しいものです。
 
 
 
 
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家内に感謝、梅の楽しみ方・・・あれこれ。

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我が家の庭の東端に大きな梅の木があります。
2階建ての屋根より高く梢を伸ばしています。
普通の冬至梅で、毎年沢山梅の実を生らせてくれます。
梅の実は大半が地面に落下して、そのまま土に戻ります。
私は、屋根に上って、手の届くところの梅の実を手捥ぎします。
其処までが私の仕事で、後は家内の仕事です。
 
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   我が家の屋根から見た梅の木、直径40㎝位の老樹です。今年は小粒ながら大変な量の実を付けました。
     遠方の観音像は筆者の生家で、京都太秦で筆者が鋳造依頼したものです。
 
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       こんな状態に熟したところで梅の実を手捥ぎします。 手捥ぎした梅を中心に加工します。
 
手捥ぎしただけでも大変な量の梅の実です。
家内は梅の実をあらゆる方法で手を加えて、製品造りをいたします。
私は、あれやこれや注文を付け、要するに私の好みに作ってもらい、食べるのが役割です。
 
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   手捥ぎした梅の実を熟し具合によって三つに分類します。手前が梅干し用です。
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     この程度の梅は梅酒に致します。
 
もう完熟した梅の実は”梅ジャム”に致します。
家内の様子を見ていると、大凡以下の手順のようです。
先ずは綺麗に洗って、串を使ってヘタを取ります。
梅の実を煮ます。低温で2,3度煮ると、柔くなります。
梅肉を取出し、種を除きます。
こうして、出来た梅肉に適量の砂糖を加えて煮詰めます。
(一般には砂糖の量は梅の実の三分の一程度と言われているようですが、我が家では砂糖の量が少ない)
今年は瓶3個分の梅ジャムを作りました。
これが、甘いのか、酸っぱいのか、どちらにも感じられる絶妙な味です。
癖になる美味しさです。
6月半ばに作って、もう2瓶目を食べています。
8月中には全部食べ尽くしてしまいそうです。
 
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   これが癖になる美味しさ、梅ジャムです。冷蔵庫で保管しなければいけないので3瓶作りました。
 
 
次に熟した梅の実は梅干しに致します。
もう、30年近く家内は作り続けていますから・・・・、大ベテランです。
一時は梅酢に白い黴が生えるし・・・・、
黴を畏れて塩を多く加えれば・・・・、身体に良くないし・・・・、
その塩の程度・・・・・・・・、所謂塩梅(あんばい)が難しそうです。
でも、ここ数年、白カビが生える訳でも無く・・・・・・、
梅干しの土用干し風景を確認する事が出来ます。
2階のベランダ一杯に梅干が干されます。
家内は強い日差しを浴びながら・・・・、玉の汗を出しながら・・・・・、
大ざる三枚に梅干しを一個一個並べます。
昼ごろに梅干しを裏返しします。
日光消毒と、色づけの意味があるのでしょう。
朝に干して夕方取り込んで・・・・・、再び梅酢に漬け込みます。
これを3度繰り返せば・・・・・、仕込み作業は大凡終了です。
まあ、大変な作業です。
 
梅干しは我が家では食べきれません。
子供達やお友達にあげています。
もうとっくに、教えてくれた母の技量を越えていると思います。
 
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     土用干しの梅干し、この大ざるで3個分作ります。大半はあげてしまいます。
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      ベランダで土用干しの風景。右側にも同量の梅が干されています。
      家中に梅干しの香りが漂っています。ラッキョウも漬けていますから・・・・、微妙です。
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   これが今年の梅干しです。
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  此方は平成18年の梅干しです。
  年々赤紫蘇の紅色が褪せて、茶色に変わってしまい、しまいに黒くなってしまいます。
 
 
青い梅は・・・・・・、梅酒に致します。
更に青い梅は砂糖漬けに致します。
 
梅は先ず花を楽しみ、一年中体を喜ばせてくれます。
 
さあ、これからラジオ体操に出かけます。
昨日は選挙疲れで・・・・、寝過ごしてしまいました。
 
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   中央が梅酒、左右は砂糖漬け。最近は葡萄酢を飲んでいるので梅酒の量は減りました。
 
 
 
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