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家族団欒のお味”ごんぱち”

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彼岸の入り9月20、今日は小出川に彼岸花を見て、ランチは「ごんぱち」に行こう、決めました。
我が家からは小田急湘南台駅の先、藤沢北警察署の東を真っ直ぐに南下すると、慶応大学の前に出ます。
そのまま、真っ過すぐ進んで打戻しの信号を左折します。
この辺りはもう農家しかありませんし、牛糞の醗酵する里山特有の臭気が一面に漂っています。
”こんなところにレストランがあるのか?”
出店する人は奇特な人ですし、わざわざ来るお客も”物好き?”です。
慶応の北、表通りにはレストランは幾つも並んでいます。
 
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   藤沢市遠藤の田園、”お化けかぼちゃ”はハローウィンで活躍するんでしょうか?
   左の杜が慶応大学のキャンパスです。
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  慶応大学の東側には小出川が流れ、その両脇は彼岸花が咲きます。今日明日(9月22,23)は彼岸花祭りです。
 
道端に「ごんぱち」の看板が立っています。
メニューも書かれています。
最初が「ほうとう」ですから・・・・・、甲斐の国の田舎料理かな? 
期待が高まります。
田舎道から折れて、更に細道に入った、農家の屋敷がごんぱちでした。
入口に「水琴窟」が設えられているし、樹齢100年と書かれたスダジイやタブの木が屋根の上まで茂っています。
 
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古谷まさとしさん、さちこさん夫婦は35年前六会でレストランを始められたそうです。
お店の名は”へっころ谷” 痩せていて陽も当らない谷・・・、という意味だそうです。
江の島道に面したお店は息子夫婦に預けて、自分たち夫婦はこの遠藤・打戻に農家を求めて、
お店を開きました。2005年6月の事でした。
90年の古屋を改造して、農家レストランを開店したのでした。
 
信条は「地産地消・身土不二(しんどふに)」、お店にさりげなく書かれています。
地産地消はエコの現代、よく言われています。
産物を運べばエネルギーを消費します。生産地で消費しましょう、運送距離を少なくしましょう・・・・、
そんなスローガンでしょうが、それ以上に次の意味があるようです。
”生産地で、旬に食べる”事が美味しく、健康にも良いのです。
 
身土不二(しんどふに)は仏教用語です。
一般には因果応報の意味ですが、字面を読めば「身体と土は離されない」となります。
「地元の土で出来た旬の食品が体に良い」と読めます。
古谷さん夫婦は学識豊かなようです。
 
暖簾を潜ると、左側が土間、右側が板間の座敷になっています。
土間はオープンのキッチンに改造されています。
板間には幾つもテーブルが置かれています。
特に庭先畑に面したテーブルは掘り炬燵形式になっていて、座り心地も最高です。
縁先には山ブドウが棚になっています。
今年は早くて八月末に実がなってしまったそうです。
 
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    掘り炬燵形式のテーブル、目の先が縁側でその先が山ブドウの棚、その先が畑です。
    自作の作物が食事に供されます。
 
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     土間がオープンキッチンになっています。本棚には農業の本とおいしんぼう(漫画)が並んでました。
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                            お台所で働いているのが古谷さちこさんです。
 
 
私は一番に書かれている「ほうとう」を注文しました。
直ぐに天然だしをとる芳香が流れ出します。
これは・・・・、美味そうです。
 
待っている間店主の古谷まさとしさんと雑談です。
「店主はお坊さんですか、”昌坊”と書かれていますし・・・・」
訊けば
「昌坊は・・・、私は俳句をしますから・・・・。」
「そこらじゅうに安産と半紙に書かれていますが・・・・・、安産の神様でも祀られているんですか?」
訊くと・・・・お答えは・・・、
「今年は何故か妊婦の多く来られます。最初の方が”ヌルッと安産”書かれたら・・・・、お腹の大きくない方も
安産と書かれました。」
この家にも、この近くにも安産の神様は祀られていないそうです。
安全な食べ物を美味しく戴く・・・・事が安産に繋がる事でしょう。
 
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お店の名は”ごんぱち”です。
私はその意味を尋ねました。
「ごんぱちとは・・・・、そこに置いてある鉢の事だよ。
この鉢で小麦粉やそば粉を練るんですよ。
甲府では嬉しい事があっても、悲しい事があっても鉢で粉を練って食事を作ります。
家族みんなでほうとうやそばを食べます。
家族みんなで団欒する・・・・、あの喜びをお客さんと味わいたい・・・・、
そう願いを込めて”ごんぱち”と名付けました。
 
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   このお粉の練り鉢のことを甲斐では「ごんぱち」と呼びます。
 
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 これがほうとうです。甲斐のお味噌を使って・・・・、野菜たっぷりのほうとうでした。
 肉類は入っていなくて・・・・、サッパリした味でした。煮豆も漬物も甲斐の味でした。820円です。
 
運ばれて来たときは食べきれるか心配になる大きな丼に入っていましたが・・・・・、
何のことは無い・・・・、スルスルと食べきってしまいました。
 
次回はとろろ汁を戴こうかな・・・・、楽しみです。
 
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  店内では山田さんの個展「布絵」が展示されていました。常時何かを展示しているようです。
 
 
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一宮海岸通りのレストラン「シーガル」

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別に房総一宮の海岸通りにあるレストランが好きだ・・・・、というわけではありません。
けれども白子にある祖父母の墓参りを終えると・・・・、
自然と一宮に足が向かってしまいます。
このあたりのレストランが何故だか好きなのです。
昭和の晩年、良い時代の名残が私を癒してくれます。
 
白子海岸にお墓があります。
その墓参りから横浜に帰る途中には茂原の街を通過するのですが・・・・・、
私達は一宮に向かってしまいます。
前には「ソレイユ」という名の洋食屋に入り、美味しく戴きました。
今日は(9月22日)はその500m程白子寄りにある「シーガル」という名のお店に入ることにしました。
以前、喫茶で寄ったのでした・・・・、モンブランケーキを戴いたのですが、大変おいしかったのでした。
 
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     手前が99里海岸から続く海岸通り。レストランのシーガルの看板と瀟洒な南欧風の建物が
     目標です。
 
一宮川の堰堤では沢山の親子が釣りをしていました。
今日は「親子ハゼ釣り大会」で、張り切っているようです。
今晩はどの家も「ハゼの天麩羅」が食卓に上る事でしょう。
 
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   一宮川の岸辺にはハゼ釣りをしている親子が一杯でした。中央の建物は芥川龍之介が逗留した
   旅館「一宮荘」
 
 
川を渡って海岸通りを500mも行けば右手に瀟洒なレストランが見えてきます。
白壁に煉瓦で縁取りをした・・・・、南イタリアにありそうな瀟洒な佇まいです。
庭には大きな楡の木があって、その周囲にテーブルが並んでいます。
空間には沢山植木鉢が置かれて、ハーブが育成されています。
この日は陽射しも強かったのですが・・・・、室内よりもお庭で食事を楽しむ人が多いようです。
ガーデンで食事をしている人はみんな犬づれです。
”今日はシーガルでランチにしようや! ”
ペットと一緒に出かけてきたのでしょう。
・・・・・、でもメニューにはペットの食事はありません。
自分の食べる分を、ペットとシェアーしているようです。
 
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      窓の外、ハーブのガーデンにもテーブルが置かれています。
      アンテークなインテリアが所狭しと置かれています。
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        ハーブガーデンでお食事を楽しむ事も出来ます。ペット連れは嬉しい事でしょう。
 
店主はおばさん、もう一人の叔母さんと仲良く厨房に入っています。
アルバイトの叔母さんが注文を取り、お皿を運びます。
3人で大忙しです。
叔母ちゃんトリオのお店です。
 
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   厨房には伯母さん二人が頑張っています。インテリアには主人が買い求められたのでしょう、南欧の
   品々が飾られています。
 
看板に「シーガル」1987と書かれています。
1987年に開店した、26年も続いているお店だという事でしょう。
そのころは、伯母さんも素敵なマダムだったことでしょう。
浅黒いサーファーが”マダムの処で食事しよう・・・・!” 賑わったのでしょう。
でも、マダムの人となりと、リーズナブルな価格設定と、味の良さで・・・・、長く繁盛しているようです。
 
「シーガル」とは鳥です、看板には太めの鵞鳥のような絵が描かれています。
「海の鵞鳥」で思いつくものはありません。
店主に訊くと・・・…、「シーガルとはカモメの事です・・・」当然のように答えられました。
「そうか・・・・・、カモメのジョナサンに感動して・・・・、その名にしたのか・・・・」
思いつきます。その先の「ソレイユ」は「太陽がいっぱい」からネーミングしたように・・・・、
一宮のレストランは名画がお好きなようです。
 
それにしても看板のシーガルは太っちょで、カモメには見えません。
これではメタボが過ぎて、到底空高く飛べそうもありません。
私はスカイラークを思い出しました。
都下のヒバリ団地で茅野夫妻が始められたのがスカイラークでした。
看板のヒバリは、空を向いてこそいますが、太っていて到底飛べそうもありません。
雲雀では無くて・・・…、鶉みたいだな…、常々思っていました。
 
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                                            茄子とトマトのパスタ
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                                                          ミックスピザ
茄子とトマトのパスタ(900円)、ミックスピザ(850円)を注文しました。
サーファーの胃袋を満たす量なのでしょう、私達には充分すぎるボリュームでした。
野菜の味も生きていて、美味しく戴きました。
オーソドックスな味で、少し濃い目でした。
完熟トマトならではの甘みと酸っぱ味でした。
パスタにはサラダとフランスパンも添えられていました。
アイスコーヒーも充分な量でした。
 
伯母さん仲良し三人組の営業が末永く続く事をお祈りいたします。
 
 
【追記】 レストラン・カフェテラス「シーガル」
  千葉県長生郡一宮町一宮1078-1 電話0475-42-3603 
【追記】
これから町内会の敬老の日企画で「倉田歴史ウォーキング」に出かけます。町内歴史資産を廻って
最後はすかいらーくグループのジョナサンで食事会です。
戻ってから校正します。
 
 
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屋上田圃はビオトープ

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戸塚区役所にジョギング愛好会のメンバー募集のチラシを置いてもらうために、出かけました。
区役所は一昨年、戸塚駅西口出来た再開発ビルに移転しました。
白亜のビルです。
地元住人にとっては、気恥しさが先立つ戸塚で一番のビルです。
3階には駅からストレートで入って来れます。
其処に区民広場があって、チラシ置き場を置く事が出来ます。
沢山の任意団体があって、各団体が仲間を募っています。
”お仲間集め”には最高のサービスです。
 
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戸塚区役所は駅に隣接したビルです。今日はこのビル8階屋上の田圃の話です。
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       中段左側に置いてもらったのが「ジョギング愛好会」のチラシです。
 
 
区役所に行くには柏尾川を渡ります。
川では戸塚小学校の生徒さんが網と魚入れを持って、魚とりに夢中です。
訊けば、2年生だそうです。
観ていると、女の子の方が身体も大きいし、活発なように見えます。
網を持って魚を掬うのは女の子で・・・・、男の子は魚入れを持っています。
”捕れた・・・・!” 覘くのは男の子で、魚を掬うのも掴むのも女の子です。
小学校低学年では、女子がリードしているような光景で・・・・、笑ってしまいます。
 
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 ペアになって魚を掬います。魚を掬うのは女の子、入れ物を持っているのは男の子です。
 澄んだ水の中で・・・・、生物多様性を確認する授業です。
 
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先生と水かけをして戯れる生徒さん・・・・。
 
区役所の8階には農政関係の部署が集まっています。
此処から、屋上に出られます。
この屋上には田圃や畑があります。
来庁者に憩うって貰うと同時に、屋上緑化、そして子供達の学習に使われています。
一石2丁ならぬ、3丁の効果があります。
5月には、戸塚小学校の5年生が田植えをしました。
もうじき稲刈りも予定されています。
 
区役所に来る度に私はこの屋上田圃を見て帰ります。
来る度に新しい発見があって・・・・、その一つ一つが感動ものなのです。
 
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                        戸塚区庁舎屋上の水田、もう稲穂が頭を垂れています。
 
期待通りに稲穂が実って頭を垂れています。
でも、田圃に張られた水は雨水か、時には水道水だったことでしょう。
どちらも栄養分の無い水です。
でも、良く実っています。
子供達が追肥をしたのでしょうか?
観察した限り・・・・そんな様子もありません。
 
少し話は変わりますが、総じて作物は連作出来ません。
特に茄子科、瓜科の作物は地の栄養分の吸収力に長けているので、4年間は間を置かなければ出来ません。
毎年作り続けると、収穫量が減少するばかりか病虫害にも弱くなります。
小麦だって・・・・、畑作作物は連作は禁じ手なんです。
ところが、稲作は、厳密には水稲だけが連作が可能なんです。
可能というばかりか・・・・、我が国では2000年も水稲の連作をしているのです。
 
稲はインドの北部が故郷だそうです。
お釈迦様の生まれた処と一致するのは偶然でしょうか?
日本の水稲は中国南部の種だそうです。
呉越両国の国境あたりだそうです。
この辺りからベトナム・ジャワにかけては、水稲は枯れません。
稲を刈り取れば、ヒコバエが伸びて、また新しい稲穂を実らせます。
日本も冬が寒くなければ毎年田植えをしなくても・・・・・・、お米の収穫が可能だそうです。
こんな水稲があったから・・・・・、東アジアは狭い面積に沢山の人口を養い、
文明を発達させることが出来たのでしょう。
 
 
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 稲刈りをした刈り跡からヒコバエが青々と育っています。日本の冬が寒くなければこのまま稲は再生して
 新しく稲穂を実らせます。
 
水稲は水田に育てられた稲だからこの名があります。
畑で育てられれば陸稲(おかぼ)です。
陸稲は・・・・、連作が出来ません。
水稲だから・・・・・・・、連作が可能なんです。
秘密は水田にあります。
水が張られた田は、天然のビオトープです。
先ず植物性のプランクトンが発生します。
プランクトンは空中の窒素を吸収して増殖します。
植物性プランクトンが食物連鎖の始まりになります。
窒素分は死骸になって土を肥やします。
だから・・・・、追肥をしなくても水稲は育つのです。
稲は水田という肥料工場に根を張っているようなものなんです。
 
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  屋上田圃の脇にはメダカが増えていました。
 
何処から飛んできたのでしょう、バッタも居ますし、イナゴも居ます。
閻魔コオロギも鳴いています。
メダカも増えて、活発に泳いでいます。
吾亦紅に撫子、女郎花が秋風に揺れています。
屋上田圃を見るように・・・・、ベンチも置かれています。
私はしばし、腰かけて秋の風情をエンジョイします。
 
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   屋上田圃の脇には吾亦紅、女郎花が盛りです。撫子はもう種をつけていました。
   次回来たら、南部農協に頼んで数個の種を戴く事にしましょう。
 
 
水稲の向こうには薩摩芋に南京豆が育っています。
でも、屋上畑ですから・・・・、土が少なく少し掘ればお芋も顔を出しそうです。
でも、葉っぱを見る限り大豊作の気配です。
戸塚小学校の生徒さんが、稲刈りと同時にお芋と南京豆を収穫する事でしょう。
 
眺めていると、カラスが飛び降りました。
南京豆の陰に屈んで何やら突っ突いています。
やおらカラスは、飛び立ちました。
そして、フェンスの上に止まりました。
大きな嘴(くちばし)には南京豆が咥えられています。
”権兵衛が種まきゃ、カラスが穿る”
私の好きな民話を思い出しました。
 
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   向こうが薩摩芋、手前が南京豆を栽培しています。カラスが飛んで来て南京豆の根元に屈みました。
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   南京豆を咥えてフェンスの上に止まった嘴太カラス。
 
 
江戸時代、信州の片田舎のお話です。
権兵衛は武士の家に生まれましたが、農夫になる希望を持っていました。
お父様が亡くなると武士を捨てて農夫になります。
荒れ地を開墾して畑を耕します。
でも、農業は初めての事で要領を得ません。
種を撒くソバから、カラスに食べられてしまう状況で、農家からは笑い者でした。
それでも諦めず懸命に農業をし続けた結果、権兵衛は村一番の農家になりました。
 
藤沢周平ワールドのような話です。
企業戦士だった我が同僚も八ヶ岳の麓に農地を借りて百姓をしています。
晴耕雨読ならぬ、晴耕雨飲の日々とうかがっています。
カラスがフェンスの上で言っているようです。
”お前も種まけ、さすれば俺が食ってやる・・・!”
それも、理に適っているようです。
 
 
 
 
 
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湯立神楽の面白さ(御霊神社)

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鎌倉界隈ではお祭りというと「湯立神楽」が催されるところが多々あります。
藤沢の白旗神社、金沢の富岡八幡宮が有名です。
私の家の近くでは舞岡八幡宮で営まれます。
神主は大きな鉄釡にグラグラ湯を沸かせて、笹竹を湯に立てます。
湯煙が濛々と立ち上がります。
笹竹を右に左に振ります。
熱い飛沫が観衆の頭に降って来ます。
湯煙の立ち具合で吉凶を占い、熱い飛沫を浴びれば良い一年になります。
 
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        舞岡八幡宮の湯立神楽。神主は呉竹を湯の中に立てて大幣のように大きく振ります。
        濛々と湯けむりが上り、熱い飛沫が観衆に降り注ぎます。
 
高校の授業で盟神探湯(くかたち)を教わりました。
古代日本で実施されていた神明裁判の事です。
中国の正史である三国史の魏志倭人伝に有名な記述があります。
「卑弥呼は邪馬台国に居住し、鬼道で衆を惑わした」
鬼道とはシャーマニズムの事でしょう。
盟神探湯はその一つで、 ある人の是非・正邪を判断する為に、
熱い湯に手を入れさせて、火傷になればその人は悪人で、何でもなければ無罪である・・・・、
そんな判決を下しました。
湯立神楽は盟神探湯そのもので、卑弥呼の時代にタイムスリップさせてくれる・・・・、そう思うんです。
 
鎌倉界隈で営まれる湯立神楽は良く見かけますが・・・・・、
何と言っても親切で、良く解るのは御霊神社(長谷)です。
神主さんが説明を丁寧にしてくれます。
御霊神社の例大祭は「面掛け行列」で有名ですが、
湯立神楽も良いもんです。今日は神楽を、明日は面掛行列を紹介します。
どちらも鶴岡八幡宮で「坂の下」の氏子が営んでいたもののようですが、
八幡宮での営みが中断され、
坂の下の氏子達が自分の村の鎮守様の祭礼に伝えてきたものと言われています。
 
 
鶴岡八幡宮は京都の石清水八幡宮を勧請したもので、源氏の氏神様です。
石清水八幡宮は九州の宇佐八幡宮を勧請したものですから・・・・・・、
卑弥呼の故郷に近い所に遡ります。
祭神は応神天皇です。
日本の書紀には神功皇后(女性)が天皇に準じる扱いをされています。
(皇后を卑弥呼と観る説も有力です/吉竹武彦/女帝の古代日本)
神功皇后は熊襲(九州)を征伐し日本の統一を為します。
更に朝鮮半島に進出、新羅など三国を従えたと伝えられています。
新羅から帰国した神功皇后は応神天皇を筑紫の国で産みます。
応神とは「神明に応じる」と書くのですから・・・・、神(天照大神)の神明を実行した天皇の意味でしょう。
応神天皇の子が仁徳天皇、日本古代史の中核になります。
八幡宮は神功皇后から応神天皇、仁徳天皇の三代を祭神として祀っています。
 
前書きが長くなりました。
いよいよ、湯立神楽(鎌倉神楽)を案内致します。
12座が次々に演じられました。
そのおのおのについて神主さんが説明してくださいます。
最初は打ち囃子(うちはやし)です。
笛・太鼓・大胴を音合わせします。
この場所でこれから神楽を演奏致します、神様に祈念し、
奉仕者、参列者、の心を高揚させる所作だそうです。
 
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   湯立神楽は御霊神社東側の庭を斎庭にして営まれます。二人の氏子が主役のお湯を焚いて本番を待ちます。
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  第1座「打ち囃子(うちはやし)」全員が揃うとお椰子が奏されて心の準備を終えます。
  今年は9月18日に営まれました。
 
続いて第2座は初能(はのう)が奏じられます。
神楽の聖域に邪悪なものが入らないように浄められます。
神主は三宝の上に盛られた神饌の白米を白扇の上に載せます。
これを四方に撒きます。
稲の呪力で浄められるのだそうです。
 
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  第2座は初能(はのう)、左手の白扇の上には神饌の白米が載せられています。右手は鈴を持っています。
  邪気を鎮め、浄めます。
 
第3座はお祓いです。
神主が竹に紙垂を挟んだ小さな幣を両手に持って、四方をお祓いします。
神様が降臨する「ひもろぎやま」(五色の紙垂で飾られたピラミッドの形をした小山)、お湯、釡、参列者など
祭りの場所全体を浄めます。
お湯にはお神酒を注ぎます。
 
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   第3座お祓い。神主が竹に紙垂を挟んだ小さな幣を両手に持って、四方をお祓いします。
第4座は御幣招き(ごへいまねき)になります。
お祭りをする「斎庭」も浄められました。
斎庭の中央に設けられた山(やま)に神々のご来臨を仰ぐために神主が舞います。
「神招き」の舞です。
 
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   第5座「湯上げ」、右手のお釜から濛々と湯けむりが立っています。このお湯を笹に掬って、
   向こうの神前に供えます。


いよいよ第5座「湯上げ」が始まります。
山に来臨された神々を拝する最初の所作になります。
邪霊や邪気を鎮め清められた「お湯」を、まず最初に神々に献じます。
神主は真っ青な呉竹をグラグラ煮えたぎった釜に差し込み、
湯煙の立つ呉竹を本殿に捧げます。
これで神楽の前半が終わります。
 
第6座(中入れ以降)が後半で、お楽しみの時間です。
それこそ「神楽/神様と一緒に楽しむ」時間です。
奉仕の神主さんも狩り衣をぬいで宴会用(・?)の半纏を羽織ります。
神楽の場に居合わせた人にはお神酒と赤飯が配られます。(前の方の人だけ)
戴いた人は神気を体に取り込めて・・・・、うれしい事でしょう。
  
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   右の神主さんは釡に笹を立てて掻き湯をしています。左の神主さんは笹を持って振ります。
   参列者の頭に飛沫が飛びます。
 
第7座「湯立ち・掻き湯」
湯立神楽のクライマックスになります。
神職は戸塚小雀の御霊神社の神主さんに交代されました。
小雀の御霊神社の神主さんは今年百歳になられたそうです。
そこで敬意を込めて、一番大事な神楽をお願いしたのでしょう。
お願いした神主さんいも、受けられた神主さんにも敬意を払います。
参列した私達も達者で百歳まで長生き出そうな気になってきます。
老神主さんは神招きの祈念を込めて御幣を煮えたぎった釜の中に入れて、お湯を掻き混ぜます。
釜の底から立ち上がる「湯の泡」の様子で今年の吉凶を占うんだそうです。
濛々と湯気が立ちました。
この湯気の事を「湯花」と呼ぶそうです。
湯花は大銀杏の梢の上まで上って行きました。
神主さんが報告されました。
「今年は見事に湯花が上がりました」
今年は”吉”で間違いない事でしょう。
 
第8座は「大散供/だいさんく」です。
錦糸の羽織に着替えられた神主さんが二人、白扇の上に神餞の白米を乗せて、舞ながら回ります。
笛や太鼓が鳴って、舞に同調します。
神主さんは左手に鈴を持って、鈴も鳴ります。
最初の白飯撒き(初能)に比べれば、楽しさいっぱいの神楽です。
 
第9座は笹舞(笹マイ)です。
羽織を着た二人の神主さんが、湯たぶさをとって四方に向かって舞います。
今年の豊作・豊漁と、氏子のや参列者の無事息災を祈念します。
笹から煮えたぎったお湯が飛沫になって四方に飛びます。
熱い飛沫は神様の息吹であって、これを浴びた人は福にあやかれる訳です。
参列者にも、銀杏の大樹にも、根元の石にも・・・・、等しく熱い湯が降り注がれます。
”熱い”叫びながらも・・・・、皆嬉しそうです。
 
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第10座は射祓(いはらい)です。
神主さんは小さな弓を持って現れました。
襟首に5本の矢を挿しています。
そして、四方に向かって、中空に向けて弓を張り、矢を射放ちます。
矢は邪気を射祓い、邪悪を射据えて、招福除災を祈念するのでしょう。
大相撲の弓取り式と同じ意味でしょう。
参列者は競って矢を拾います。
5本目の矢は・・・・、神殿に向けて構えられましたが・・・・、放たれませんでした。
 
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                      第10座は射祓(いはらい)です。中空に向けて矢を放ちます。
 
第11座は剣舞(けんまい)です。
一人の神主さんは赤いお面をつけています。
天狗は鉾を持っています。
勇ましく舞います。
舞には邪悪を踏んで鎮め、天地の気の乱れを正し、邪霊を鎮める意味が込められているのでしょう。
邪霊を鎮めれば・・・・、裏を返せば「豊年満作・大漁感謝・天下泰平」良いことづくめになります。
 
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  第12座は毛止幾(もどき)、天狗は鉾を持って邪悪を鎮めます。山の神はお杓文字を持って
  参列者の頭をたたきます。そして、二人で飴玉を参列者に撒きます。
 
第12座は毛止幾(もどき)になります。
11座の途中から黒面で縮れ毛の・・・・、山男が現われました。
山の神は天狗の真似をしながらおどけたり、手にした大きな杓文字で参列者の頭を小突いたりして、
笑いを誘います。
そして三宝の上に盛られた飴玉を参列者に撒いて回ります。
大いに盛り上がった処で・・・・、お神楽は終了です。
この盛り上がりは午後2時半からの面掛け行列に持ち込まれます。
この最後の神楽の舞が「毛止幾(もどき/真似をする」と呼ばれるのは屹度次のような意味が込められているのでしょう。
神楽の真似をして(もどきをして)毎日を過ごしましょう。
邪悪な心を戒め、鎮めて日常を過ごしましょう。
そうすれば、新しい命が常に宿って、毎日が充実して、楽しくも充実した日々が送れます。
昨年胃癌手術をした私には・・・・、湯立神楽の意味が素直に解ります。
 
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           御霊神社、湯立神楽の斎庭の上にはたわわに銀杏が実っていました。
 
 
 
 
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鎌倉御霊神社の面掛行列

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昨日は御霊神社(鎌倉長谷坂の下)の湯立神楽を案内しました。
9月18日、午後2時半お神楽が終わると、続いて面掛懸行列が始まります。
異形の面をかぶった男達が、お神輿の先導をしながら練り歩くのです。
稲村ケ崎小学校の生徒さんが総出で(?)行列に並びます。
大きな子は旗や弓矢等を捧げ持ち、小さな子供達は山車を引いて行きます。
先生やPTAのお母さんでしょう。
子供の面倒を見ながら従います。
子供は滝の汗・・・・、強い日差しが容赦なく降りかかっています。
でも、神様は元気な子供が大好き・・・・、子供達も期待にたがわず頑張り抜きます。
見物人から小学生への応援の声がかかります。
延々と行列は続くんです。
 
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 坂の下「星の井通り」を練るお神輿。前方極楽寺坂。神輿を担ぐ装束もお神輿も八幡宮のそれと同じです。
 お神輿の前に面掛行列があります。
 
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 御霊神社の紋所は鷹の羽の矢羽紋です。狩り衣を着た少年、重い弓具をかけて汗だくでした。
 背後の旗竿も子供が持っています。風が強かったので重労働だったと思います。ごくろうさんでした。
 
 
鎌倉鶴岡八幡宮の秋の例大祭(放生会)、では京都の石清水八幡宮に倣って、面掛行列を始めました。(1187年)
行列をしたのは鎌倉の西外れ、坂の下に住んでいた雑色でした。
坂の下の坂とは「極楽寺坂」で、その坂下でした。
雑色とは古代雑役をしていた下層の人達です。
     (雑役:掃除などの仕事、力仕事のほかに音楽芸能を行った)
坂の下の人達は鎌倉時代から明治維新まで700年間、鶴岡八幡宮の例大祭で面掛行列をしていたんです。
ところが1868年(明治元年)維新政府は神仏判然令を発布し、八幡大菩薩を禁じます。
古代から日本人は仏教が日本に伝わると、仏が神として日本に現れた(垂迹)と考えました。
八幡様の祭神は応神天皇(誉田別命)ですが、阿弥陀如来が垂迹したものと考え、
八幡大菩薩の名を贈っていました。
八幡大菩薩を禁じ、応神天皇と阿弥陀如来を判別させたのでした。
その為に、鶴岡八幡宮の仏教の色濃い部分は追放(堂塔や仏像は破壊)されました。
面掛行列もこの時に禁じられてしまいました。
 
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                                    行列の先達は天狗面をつけた猿田彦です。
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                                  先達をする猿田彦の命
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1番面の爺、2番面の鬼、3番目の異形が続きます。
 
 
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                                3番面の異形と4番面の鼻長
 
坂の下の人達は八幡宮での面掛行列を禁じられてしまうと・・・・・、
自分達の鎮守様「御霊神社」に持ち帰り、続けてきました。
お蔭で、面掛行列と言えば御霊神社と言われるほど有名になりました。
 
   
伎楽面(ぎがくめん)をかぶった10人の行列です。
東大寺や法隆寺の伎楽面に比べれば時代が下がっている事は間違いありませんし、お顔も異形面ばかりです。
古色蒼然としたものもありますが、新しい面もあるようです。
全体として、異形の人達の仮装行列の観があります。
1753年仏師「後藤斎宮」(鎌倉彫中興の人物)が伎楽面を彫って八幡宮に奉納し、現存している・・・・、
記録されていますから・・・・・、相当部分は江戸時代中期のお面なんでしょう。
此処にも仏像彫刻から転身した鎌倉彫の歴史が潜んでいます。
 
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                                                    6番面の翁
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                                                 7番面は火吹男(ひょっとこ)
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                                                 8番面は福禄(ふくろく)
 
面掛け行列と言えば、当麻寺や久米寺等の25菩薩行列を思い出します。
全国各地に残されていますが、私の生活圏では自由が丘の九品仏でも催されます。
古代から中世にかけて、人間が亡くなると・・・・、
阿弥陀様が25菩薩を遣わせてその魂を迎えにくる・・・・、信じられました。
聖衆来迎図と呼ばれる絵画が描かれます。
当麻寺の曼荼羅は中将姫の伝説・・・・、聖衆来迎図です。
更に、聖衆来迎図の舞台版のようにして・・・、
菩薩面をかぶった25人もの仏様が渡って来る行列も始まりました。
 
明治の維新政府はこの25菩薩行列と八幡宮の面掛行列を混同したのではないでしょうか?
御霊神社の面掛行列には仏教色は感じません。
どちらかと言えば・・・・、
仮装行列で、お祭りの中でこの日は心底無礼講で楽しもうとする庶民の意図を感じます。
国家神道に比べて・・・・俗信と呼ばれた神々の世界です。
俗信を排除しようとしたんでしょうか?
 
 
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  9番面は阿亀(おかめ)、そのあと(10番面)に「とりあげ」と呼ばれるお産婆さんが従います。
 
面掛行列は延々と続きます。
8番面のお亀が一番人気で、その大きなおなかを撫でると子宝に恵まれる、安産になる・・・、
信じられているようで、若い女性も、もう済んでいそうないそうな伯母さんも競っておなかに手を当てていました。
こうした形は本家本元の宇佐八幡で始まったようで・・・・、
宇佐八幡では若い女性のお尻をつねっても良いそうです。
お尻をつねられた女性は・・・・、お祭りでなければ”セクハラしないでよ”怒るのでしょうが、
この日ばかりは笑ってくれるそうです。
なぜなら・・・・、つねられた女性は安産になるそうです。
私は見たことが無いのですが・・・・・、神様でなくても(セクハラ叔父さんでも)つねられて霊験があるんでしょうか?
千葉富津の観蔵寺(88番霊場)でもお祭りの日は女性のお尻をつねられる・・・・、案内されていました。
 
面掛行列通り過ぎてしまうと、また元の静寂な街並みに戻りました。
もう1時間も経てば夕暮れです。
私は極楽寺坂を越えて稲村ケ崎に出ました。
夕焼けを見る為です。
期待通りの茜色に空が燃えていました。
お祭りで火照った体や心を秋風が快く冷やしてくれました。
 
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    稲村ケ崎から見た夕焼け、向こうは江の島です。サーファー帰宅します。
 
 
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巫女さんに伝わる”黒髪の美学”

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NHKTVの朝の連ドラ「海女ちゃん」も今日でお終いです。
TVは続いて「あさいち」を映しています。
私は音だけ聞きながら・・・・、PCでブログを書き終えようとしています。
有働由美子アナウンサーが「黒髪は良いよね・・・・」 同意を求めています。
昨今、ようやく黒髪人気に注目されてきている・・・・、言うんです。
私は、”当然だろう! 日本人なら・・・・” 思いながら画面に目線を移しました。
 
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   NHKTVの「あさいち」で黒髪が話題になっていました。
 
数年前、ベトナムを旅行しました。
タクシーに乗って、ゴムのプランテーションの中を、ベトナム解放戦争の拠点「クチ」に向かいました。
一本道を自転車が走り抜けて行きます。
真っ白いシオザイを着た女学生が、長い黒髪をたなびかせて自転車で疾走してゆきます。
タクシーに気付いて先行させてくれます。
私は「綺麗だなー」見惚れてしまいました。
昔は黒髪は日本女性の魅力の一つでありましたが・・・・・・、昨今では珍しくなりました。
ベトナムの女学生に改めて日本の美学を思い起こさせられました。
 
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   ベトナム解放戦線のクチ拠点に近いゴムプランテーションを自転車で行く女学生。
   真っ白いシオザイに長くストレートな黒髪が美しいのです。
 
日本女性は世界中から憧れられているようです。
人気の一つが肌理のこまやかな白い肌、黒く長い髪でしょう。
眼の青い欧米人にとっては・・・・、黒い瞳も惹かれるところかもしれません。
でも、日本人は天賦の良さに気付かなかったのかも知れません。
少しでも目立ちたい、人の注目を集めたい・・・・、茶髪やガングロが流行っていました。
でも、昨今は黒髪に改めて注目されている・・・・、言うんです。
黒髪は清楚で気品がある・・・・、主張します。
その代表が梅ちゃん先生を演じた「堀北真紀」さんだそうです。
黒髪は色気があって大人に見える・・・・、その代表がグラビアモデルの「壇蜜」さんだそうです。
 
私は・・・「当然ジャン」と思います。
源氏物語ではそんな若い女性と成人した女性の美しさを再三表現しています。
例えば16歳の女三の宮の美しさを次のように表現しています。(口語文で言い改めます)
「表着は紅梅でしょう、濃い花薄い花が沢山重ねられています。桜の織物も見えます。
黒い御髪は着物の裾まであざやかです。大変に美しくて・・・・・丈に七寸ほど余っています。」
少女らしい紅梅、桜の着物に、真っ黒な黒髪が見事な美しい少女です・・・・、表現しています。
一方39歳の紫の上を次のように説明します。源氏は47歳紫の上は御病気で臥していました。
「紫の上は暑苦しいからという事で髪を洗われました清々しい表情で横になったままで長い黒髪を投げ出しておいででした。髪は水を含んで直ぐには乾かないものの・・・、一本も膨らんだり乱れた髪の毛は無く、大変にサッパリした感じで居られました。
紫の上は源氏の心が定まらない事を嘆いて出家しようとしましたが、それも許されず、
病気のまま亡くなられてしまいます。
成人した女性の美しさも黒髪で表現しています。
 
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   源氏物語絵巻。女性の髪は先ず長く縮れていない事、次いで黒く艶やかな事が大事にされました。
   結髪しないで扇のように垂れ流していました。これが美しい黒髪の要件でした。
 
髪は美しい事以上に、恋や貞淑の象徴でもありました。
伊勢物語には次の歌があります。
 くらべこし 振分髪も肩過ぎぬ  君ならずして垂れかあくべき
私は髪あげする程に成長しました。夫に定めているあなた以外に誰の為にも髪をあげません・・・。
童女は放髪と呼ばれる下したままの髪で、一人前の女性に成人すると夫になる男性の髪を結いあげさせました。
 
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    長くストレートな巫女さんの黒髪。平安時代からの日本女性の美しさが脈々と受け継がれています。
    (鎌倉鶴岡八幡宮、秋分祭で)
 
古代、長い髪は同時に社会的な地位の象徴でもありました。
働く女は髪を短く切って結髪していました。
裾まで伸ばした髪が貴族である・・・・・、社会的な地位の象徴でありました。
では行動の制限になってしまいます。
 
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        「お市の方」武家にありながら公家の姿で描かれています。社会的に高い地位を表現するには
        長く黒く、扇のような形での垂髪で描かれています。
 
 
中世になると公家さんだけが垂髪で武家も多くは結髪するようになります。
近世になると、髪は髷に結わえられます。
歌舞伎が人気になると、役者の真似をして様々な髷が結わえられるようになります。
すると、今度は襟首の美しさが見いだされ、簪などの装飾が競われるようになります。
更に現代になれば・・・・、それこそ様々です。
流行もありますが、その原動力は「少しでも目立ちたい」「人の注目を集めたい」意識でしょう。
「自分自身の美しさを際立たせたい・・・・」そんな考えこそ大切だと思うのですが・・・・、
希薄になっている様に思います。
 
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     秋分祭で奉納舞を終えて戻る巫女さん・・・、外人さんが熱心に写しています。
 
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                      放生祭での巫女さんの黒髪(鶴岡八幡宮若宮で)
 
日本人の黒髪の美しさを見るには・・・・・、
そうです、お巫女さんを見るのが最高です。
鶴岡八幡宮には外人さんが目立って多くなってきました。
旅行者は決まって、お巫女さんの黒髪に惹かれて・・・・写真を撮っています。
日本人は意識していないのですが・・・・
日本人の黒髪の美しさはグローバルスタンダードなのです。
 
昨今”可愛い”は世界の言葉になっていると聞きます。
キティーちゃんのようなキャラクター、ドラエモン等のアニメ、AKB48のようなアクトレス・・・・、
様々な文化を評して”可愛い”文化なのでしょう。
でも、そんなブームの背後にあるのは、欧米人の黒髪・肌理の美しい日本女性への憧れがあると憶測します。
 
「黒髪の美学」「時代を越えて美しい髪の極意」が日本で深化することを期待します。
「手間がかからない」「一目が集まる」そんな理由で黒髪が見直されるのも悪いわけではありませんが、
”日本女性が美しくあり続け、世界から憧れる”には、自分自身の天賦の美しさを再認識することが重要です。
それは、源氏物語の世界でもあります。
 
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      腰越祭で江の島神社の巫女さん。美しい方でした。
  黒い色を「漆黒」「紫黒」「黒とび色」「鉄黒」「黒檀」等様々表現しますが、女性の髪の美しさは
 「濡烏/ぬれからす」「濡れ羽色」と表現します。青(緑)みを帯びた、濡れた様に輝く黒をさします。
 濡烏の髪を見ると叔父さんはゾクゾクする程感動します。
 
 
 
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鎌倉山「山椒洞」を懐かしむ(ミノ氏の老醜)

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昨晩、日本TVで「秘密のケンミンショー」を見ました。
山形の「芋煮」を紹介していました。
刈り入れが終わった頃、隣近所で河原に出て、芋煮会を楽しんでいました。
芋煮は「農家の”結”」の表われと思っていました。
ところが地元識者の解説では、北前船での荷運び(最上川など)に際して、風待ちの時にもてなした農家料理だったのだそうです。
勉強になりました。
 
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   ケンミンショーで山形の芋煮が紹介されました。ミノ氏の渋面はノリを悪くしていました。
 
キャスターは久本雅美さんとミノモンタ氏、
久本さんは笑顔と話術で番組を引っ張っていました。
ミノ氏は”心此処に在らず”と云った表情で・・・・・・、
番組の華やいだ気分に乗っていませんでした。
早く降板させて、心身ともに回復したところで検討した方が良いのに・・・・・、
他人事ですが思いました。
 
私は森永卓郎氏が最適だと思います。
同氏の識見で番組の奥行が深まると思います。
 
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    2007年春の山椒洞建物、春霞で霞んでいなければ上方に富士山が見えます。
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   取り壊し中の山椒洞、眼下に江の島が眺められました。
 
7年前の2007年の事でした。
ミノ氏はTBSの”あさズバTV”のキャスターとして華々しく活躍していました。
ある朝、不二家問題を俎上にして、
「こんな会社は早く撤退してほしいもんです」  叫んでいました。
消費期限切れの原料を使っていた問題が報道されていたのです。
私は傲慢なミノ氏の言葉に違和感を覚えました。
不二家には固定したファンも居ます。
社員も沢山います。
そんな会社の幕引きを一塊のキャスターが軽々に口にすべきではありません。
其処まで言うのなら自分自身で確認したのか・・・・・、
マスコミ人ならば・・・・・取材して、レビューしたのか?
疑問に思いました。
世論を背景にして、大衆を扇動しているとしか思えませんでした。
扇動する事が自分自身の価値をアップする・・・・、思っているのでしょう。
 
ところが、不二家は2007年を底にして奇跡的と思える回復を示しました。
2013年3月期は売上899億、営業利益16億(前期比54%増)を達成しました。
ミノ氏に”死ね”罵倒されながらも、社員が歯を食いしばって頑張った成果でしょう。
でも、不二家の社員は今次のミノ氏の不祥事に関して、
”ミノ、死ね”とは言わない事でしょう。
”反省して、復活できるものなら・・・、してみろ!” 思っている事でしょう。
 
それにしても、企業の嘘つきは後を絶ちません。
日本人のモラルが低下している、証左なのでしょう。
素材の偽りは、ホテルからデパートに飛火しました。
「いい加減にしてくれ、恥ずかしい」 思います。
 
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  週刊誌はミノ氏への追及を止めません。私にはどちらも同じ穴のムジナに見えます。
 
バカ息子をコネで日本TVに入社させた事もマスコミ人なら憚れる事でしょう。
そして、今次の問題はバカ息子の刑事事件ではありません。
ミノ氏は大きな思い違いをしているようです。
 
他人の過ちは事大に厳しく非難しておきながら、自分の過ちは問題にしない・・・・、
そんな姿勢がマスコミ人として不適格である・・・、として糾弾されているのです。
他人を過大に非難したのですから・・・・、自分自身に対してはより一層厳格に対処してこそ、世間を納得させることができるのです。
TVキャスターとしては失敗だったから・・・・TBS「あさズバTV」は降板したのだが、
日テレのバラエティーのキャスターなら許されると思っているのでしょう。
そんな都合の良い使い分けは大衆には通じません。
バカ息子がバカ親爺を衆目に曝してしまったのです。
 
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    山椒洞の母屋の在った後に建てられた建物。
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不二家事件を口汚くののしっていた頃、ミノ氏は鎌倉山の山椒洞を購入しました。
山椒洞は鎌倉山のお蕎麦屋さん「檑亭」の懐石料理のお店でした。
相模湾を見下ろし、眼下に江の島、その遥か上方に富士山が眺められる、湘南最高の風光の位置にありました。
 
建物は昭和8年(1933年)に時の司法大臣岩田宙造が建てた別荘でした。
岩田氏の後は女優の田中絹代が居を構えていました。
それを檑亭が取得して、懐石料理店に供していたのでした。
 
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  鎌倉山の野紺菊、この先米屋の角を左折(海側)するとミノ邸です。
 
山椒洞には祖母の白寿のお祝いに、三回忌の精進落しに使いました。
我が生家のルーツは世田谷や杉並でしたから、お客さんをもてなすには山椒洞が最適だったのでした。
 
一見すると数寄屋風の建物ですが、中に入ると待合はシャンデリアが吊り下がってソファーのある洋室でした。
そしてお部屋は畳敷きで・・・・、和様が混在した様式でした。
これこそ、昭和モダニズムの建物なのでした。(鎌倉市の景観重要建築物)
それに、”檑亭・山椒洞”と言ったネーミングにも、
坊主としての父の思い入れがありました。
 
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    檑こ木(すりこ木)は精進料理の必須のお道具です。檑こ木は山椒で作りました。
 
お客さんも父も禅の僧侶です。
精進のおもてなしの料理は”すりこ木”と”すり鉢”を使って作ります。
ゴマの味噌和えも、味噌汁も、山芋もすり鉢に材料を入れて、すりこ木で擦って、混ぜて作っていました。
父はお客さんに
”すりこ木を駆使して作りました、お召し上がりください”
そんな思いで山椒洞にお招きしたのでした。
 
”すりこ木”を漢字に改めると「檑こ木」になります。
そして「檑こ木」は山椒の幹を使って作っていました。
山椒の木が手にも馴染みやすいし、その香が素材の味を引き立てるのです。
山椒は若芽は筍の煮つけに添えたりしますし、実は粉にして蒲焼に振り掛ける、
和の胡椒です。
 
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    石垣の上には有刺鉄線と監視カメラが備えられてガードしています。
 
鎌倉の人は山椒洞に特別な思い入れがありました。
その3000坪の敷地を買い上げて、建物は総て取り壊してしまいました。
巨大な石垣を構築して、その上には有刺鉄線と監視カメラを据え付けました。
多くの人が苦々しい思いで、ミノ氏の豪邸を見上げました。
でも、一つだけ山椒洞の思い出を留める樹木が残っています。
ミノ邸に隣接して巨大なハゼの樹が残っているのです。
山椒洞のお部屋からは真っ赤に染まった櫨が近景に見られました。
その櫨が約1m、ミノ邸から外れていたので、伐採されずに残りました。
 
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  色づき始めたハゼの大木、右側がミノ邸の庭園になります。右奥の建物がミノ邸です。
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  ハゼの根元には自然薯が色付いていました。
   ムカゴも実って、これを食べれば大地を摂取するような気になれます。
 
 
ミノ氏の無分別を糾弾した週刊文春は”「山椒洞」の場所は呪われている”
馬鹿な記事を書いていました。
この辺りは古戦場であったし、田中絹代も晩年は不幸であった・・・・、
ミノ氏も此処に転居したとたんに奥様を失い、今またバカ息子の災難を浴びている・・・・・、
そんなマスコミらしからぬ記事でありました。
 
ミノ氏には、不二家のように不祥事から立ち直って、
事件前以上のパフォーマンスを示せるように、潔さが求められます。
ケンミンショーに老醜をさらすようでは、
再起は出来ず、鎌倉山の豪邸は近々手放すことになるでしょう。
日本の税制は甘いもんじゃないのです。
 
私には豪邸が鎌倉絵画館のようにして一般公開される時を楽しみにしています。
鎌倉文学館のように、絵画館があっても良さそうなものです。
鎌倉山で晩年を過ごした棟方志功、昨年亡くなった平山郁夫をはじめ文学者以上に絵描が鎌倉には沢山住んでいたのでしたから・・・・。
それに、風光明媚な鎌倉山の海側斜面に一つくらい公園があっても良さそうなものです。
何時の日にかまた山椒洞のお庭に立って、湘南の絶景を眺めたいものです。
 
 
 
【追記】2007年当時、山椒洞の行方を心配して次を書きました。
 2010年、現状を次に書きました。
 
 
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桂の落ち葉の季節

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立冬も過ぎて落ち葉の季節になりました。
今日は我が町の鎮守さんで7・5・3の祝い神事が行われます。
盛り立てる為、毎年農家の実方さんが鉢植えの菊を飾ります。
先日今年の花の状況を聴くと、怒っていました。
『今年は菊の育ちが悪いので困っていた。農協から腐葉土を購入したんだが・・・・。
”若しかして?” 思いながら、菊の根を確認してみると、
ゴロゴロと甲虫の幼虫が出てきたんだ!
その幼虫が菊の根に悪さをしていたから・・・・菊が育たなかったのだ。
慌てて、自前の土に植え替えたのだそうだが・・・・、気付くのが遅かった。
今年は期待しないで欲しい・・・。』
言っておられた。
 
園芸用の腐葉土も天然で作れば、甲虫も卵を産むであろうが・・・・、
それじゃあ、園芸用としては不適格・・・・・、品質管理も難しいものです。
 
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                 子之八幡社の753祝神事に飾られる菊鉢。農家の丹精の賜物です。
 
「焚火」という童謡があります。
”垣根の垣根の曲り角、焚火だ焚火だ落ち葉焚き・・・・”
そんな、季節感ある童謡です。
 
でも、横浜では焚火は出来なくなってしまいました。
落ち葉は土に戻すか、ゴミとして捨てなくてはなりません。
一昔前までは、河原で野火が見られましたし、
田圃では脱穀した後の籾殻を焼いていたもんですが・・・・、
焚火禁止ですから見ることも出来ません。
都市化が進んで、焚火に依る混乱を未然に防止するためか、
CO2削減の為か、良く解りません。
 
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                  これが桂の樹です。(遊行寺の放生池の畔で・・・・)
 
一番早く色が黄葉して、落葉するのは「桂」です。
木を偏にして、佳いと書いて「桂/かつら」と読みます。
日本人はこの字を見て、桂の事だ、確信したのでしょう。
漢字をうんだ中国では「桂」の字は金木犀を表現していました。
中国では、”芳香が素晴らしい良い木だ” そんな評価だったのでしょう。
日本人は、木肌は美しいし、細工もし易い、版木にも仏像にも、お椀にもなる・・・、
そこで、この字を「かつら」にあてはめました。
 
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  鎌倉中央公園の桂の林。桂の落葉は味噌を醸造する時の香りがします。
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                  藤沢新林公園にも桂が多く植樹されています。
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   新林公園のランドマークツリー「ラクショウ」。曙杉の弟のような樹です。
 
鎌倉彫の原材料になる桂ですから・・・・、湘南には桂は目立ちます。
鎌倉中央公園には見応えのある桂の林があります。
新林公園にも桂が欅と混植されています。
どちらも樹齢は40年程度でしょうか、もう壮年の風格があります。
もう、大木ですから手入れも大変です。
ソロソロ倒木して、学校教材の版木にしたら良いだろう・・・・、思います。
勿論伐ったら、また新しい木を植えて、40年後に版木にするのです。
 
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  遊行寺の中雀門の上に茂る桂(左)と三宝松(右)。
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  遊行寺は保育園児の遊び場になっていますから、境内の宝篋印塔も半分倒されています。
  その向こうに茂る桂。
 
 
一番大きな桂の樹は遊行寺にあります。
放生池の畔に大木があるんです。
お隣が三宝松です。
松は青々しているのに対し、桂は黄葉して、落葉も進んでいます。
松は針葉であるのに対し、桂は心臓の様なハート形をしています。
ことごとく対極にあるような樹が二本、青空に向かって梢を拡げています。
三宝松は多分密教で使う「三鈷」に由来し、魔除けの意味があるのでしょう。
お正月の松飾に使います。
 
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  三生池から流れ出る溝に浮かんだ桂の落葉。ハート形をしています。水澄ましが休みます。
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        水面に浮かんだ落ち葉を見詰める坊や。桂と松の落ち葉が浮いています。
 
 
桂と三宝松の樹下で保育園児が落ち葉拾いをしています。
屹度ハートの形をしている桂の葉を拾っているんだろう・・・・、
思いながら近寄ってみました。
 
訊けば、何か虫が落ち葉に乗っている・・・言うんです。
良く見れば、水澄ましが落ち葉に寄り添って体を休めています。
 
別の子は三宝松の落ち葉を拾い集めています。
何にするのか訊けば・・・・、「ラーメンにするんだ」そうです。
そう、松の葉っぱはラーメンかパスタを想像させるのでしょう。
女の子が大銀杏の根元に居て・・・・・、お飯事をしています。
僕は、女の子に松の葉ラーメンを届けるのです。
子供は自然を見れば、発見が沢山あって、楽しく遊べるのでしょう。
 
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   銀杏の陰で松の落葉のラーメンを届ける坊や、向こう陰の女の子と飯事遊びです。
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  これが遊行寺のランドマークの大銀杏。垂れ乳が見事です。
 
ベンチに座って、インスタントラーメンを食べようとしていたOLさんがいます。
保育園児の会話を聞いて、大銀杏の反対側に移動してしまいました。
屹度、恥ずかしかったんでしょう。
 
遊行寺には平和な時間が悠々と過ぎて行きます。
もう、菩提樹の実も大半が落ちてしまいました。
 
 
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    大銀杏の陰でインスタントラーメンを食べるOLさん。お飯事は大銀杏の逆側です。
    今年の銀杏は期待薄です。
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   遊行寺の銘木1号は菩提樹です。桑にも桂にも榎にも似た大樹です。実が僅かに残っていました。
 
 
 
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方代さんの故郷にみる地蔵尊

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10月9日、太宰治の富岳百景の舞台になった「天下茶屋」で、
名物の「ほうとう」を戴きました。
御坂街道を下って、次の目的地右左村(うばくちむら)に向かいます。
右左口村は私の愛する山崎方代さんの生まれた土地なのです。
瑞泉寺の木下一真師の随筆で大凡の輪郭はとれているのですが、
実際に行くのは初めてです。
方代さんが次のように詠った故郷を確認して、お墓詣りするのが目的です。
  ふるさとの右左郷は骨壺の
              底にゆられて わがかえる村
 
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  山崎方代さんの生家のある「右左口村」、此処は中道往還の宿場町でもありました。
   方代さんの育ったころは養蚕業が主だったようです。方代さんの生家は突き当りです。
   山は迦葉山、その峠(右左口峠)を越せば本栖湖になります。
 
 
右左口村は甲斐と駿河を最短で結んだ「鎌倉街道・中道往還」にあります。
峠を越えた先は本栖湖で、その先は丸畑の山裾を通って、富士川の岸辺を通って下れば、駿河湾に面した興津に出られます。
駿河湾の海産物を馬の背に載せて、甲斐まで運びました。
甲府の名産品「煮貝」もこの道を運ばれました。
勿論、江戸時代この道を辿る旅人は、身延山久遠寺を詣でた事でしょう。
丸畑で育った木喰少年(幼少期の名は解らない)は日本橋の薬商人に手を曳かれて、右左口村を通って、江戸に向かいました。
16歳でした。
 
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   右左口村下宿にある円楽寺(真言宗)、此処の墓地に方代さんは眠っておいでです。
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  方代さん「観相院方代無煩居士」が眠るお墓に奉げられた塔婆。
  毎年放代会が方代忌にお参りしています。
 
私と家内は円楽寺に入りました。
大きな銀杏が一本境内に茂って、そろそろ黄葉し始めていました。
この寺の門前にある小林家が方代さんの父「龍吉」さんの生家です。(下宿)
竜吉さんは此処から右左口村上宿にある「迦葉山敬泉寺」門前にあった山崎家に入り婿します。
でも、貧乏人の子沢山、方代さんの兄・姉は8人も幼くして亡くなっていました。
龍吉さんは、”生まれた子供が生きるも死ぬも、神任せ・・・・”
そんな思いで”放題・・・・・・、方代”の名を付けたと言われます。
一生を独り者で、一所不住の生活をし、酒を愛し、天衣無縫に生きた方代さんです。
この”生きるも放題・・・・死ぬも放題・・・・” 
方代の名が生きざまを決めたのかも知れません。
 
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方代さんの生家に近い観音堂。石段横に「馬糞を拾った父の思い出の歌が紹介されています。
そんなに貧困とは信じがたいのですが・・・・。
 
今は7・5・3のお祝いの季節です。
100年も昔は子供が成人する事は稀だったのでしょう。
ようやく3歳になった、5歳におなった、いよいよ7歳になった・・・・、そんなお祝いです。7歳まで育てば・・・・・体力も充実するので成人する期待も大きくなります。
7歳までは神任せ・・・・・・、7歳を越えたら責任を持って育てたのでしょう。
 
円楽寺の墓地を家内と一緒に放代さんのお墓を探しました。
目指すは「山崎家の墓」、でも100基を超えるお墓の半分は山崎家です。
ですから……、墓誌銘を確認して回ります。
歌人のお墓なのですから・・・・、歌碑が建っているか・・・・案内板が在っても良さそうですが、何にも見当たりません。
ようやく、旧墓地の外れに目指すお墓がありました。
黒御影の角柱に「山崎家の墓」と刻まれています。
そして、その脇には墓誌銘が刻まれていて、父龍吉さんはじめ家族のお名前が刻んでありました。
でも幼くして亡くなった兄・姉の名は・・・・、
放代さんは教えらていなかったのでしょうか?
刻まれていませんでした。
 
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  円楽寺の無縁墓地の六地蔵、絵馬風です。
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 同じく円楽寺無縁墓地の絵馬風六地蔵尊、こうした無縁仏に拝すると、
 方代さんの兄姉のように名も貰えずに亡くなった水子の霊を思い起こします。
 
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   無縁墓地の地蔵尊、お名前は「紅雲童子」でした。石に塗られた丹がわずかに残っています。
   此処は八ヶ岳に沈む夕日が見事なアングルです。
   方代さんの墓は向こうの竹藪の上、右手にあります。
 
円楽寺では八角堂を建てて、新しい墓地を整備しました。
その一角に無縁墓地があります。
墓標塔にはお地蔵さんが目立ちます。
幼くして亡くなれば、子供を三途の川の畔に出て導いてくれるのがお地蔵さんでした。
日本人が自分で作ったお経が和讃で、その代表が江戸時代の「地蔵和讃」です。
亡くなった幼子は賽の川原に出て、石を積みます。
  「一重組んでは父のため
   二重組んでは母のため
   三重組んではふるさとの
   兄弟我身と回向して
   昼は独りで遊べども
   日も入り相いのその頃は
   地獄の鬼が現れて・・・・・・・・」
父母の孝養を尽くそうとします。
でも、地獄の鬼が出て折角積み上げた塔を壊してしまいます。
 
そんな子供を守るのがお地蔵様です。
ですから、6体のお地蔵様をまるで絵馬の様にして建立したのでしょう。
無縁仏には6地蔵さんが絵馬風にして建てられていました。

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    墓碑には父母のほか祖父、横浜に嫁いだ姉などの名が刻まれています。
     幼くして亡くなった兄姉の名はありません。
    
私達は右左口村の下宿から街道を上って、上宿に向かいます。
上宿には敬泉寺があって、その門前に「山崎放代生家跡」があります。
貧農の倅と聞いていましたが、中々に広い敷地です。
放代さんの歌は貧農を強調し過ぎ? 憶測いたしました。
でも、この家で方代さんは生まれて育ったのは間違いありません。
 
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   右左口村上宿の迦葉山敬泉寺本堂。使われなくなった石臼は敷石に使われていて、
    六文銭のようです(六文銭は三途川の渡し賃)。この門前に方代さんの生家がありました。
 
生家跡を見下ろす位置に観音堂がありました。
私達は観音堂に登りました。
正面に八ヶ岳が見渡せます。
その左手には甲斐駒を先頭にして、南アルプスが続いています。
でも、午前中は雨でしたから・・・・、アルプスの頂は雲間に隠れて見えませんでした。
 
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    生家に建てられた・・・・「ふるさとの・・・・わがかえる村/前掲」の歌碑。
     遠方に赤い屋根の観音堂が見えます。
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 観音堂からの右左口村全景。手前が敬泉寺本堂です。
 鐘楼の左休み所があるのが方代さんの生家(公園・駐車場)です。
 遠方正面が八ヶ岳、左に南アルプス、夕焼けが美しいロケーションです。
 
 
 
観音堂の前にお堂が在って、十王像が並んでいます。
閻魔大王を筆頭に・・・・、10体の裁判官の像です。
奪衣婆もあります。
閻魔さまはお地蔵様のもう一つのお顔です。
ですから、地蔵信仰が強い村は、閻魔信仰も強かった土地です。
方代少年はこの閻魔様の足元で育ったのです。
 
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  観音堂の十王像、方代少年にこれらの像が情操を与えたことでしょう。
 
 
 
 
 
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田谷・竹林の方代さん

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日本文学には「放浪・遍歴」という太い柱があるようです。
古事記では高千穂を追放された素戔嗚尊(すさのうのみこと)も、日本武尊(やまとたけるのみこと)も全国を行脚します。この二人は日本統一を果たす為に出雲、熊襲、蝦夷をはじめ全国を旅します。
でも、この二人の旅は英雄伝であって、放浪の旅とは言えないでしょう。
 
都を落ちて、地方を旅した文人としては、平安時代の在原業平、藤原実方、中世の西行、近世には芭蕉や良寛、そして近代には種田山頭火、尾崎放哉(おざき ほうさい)、昭和には山崎方代が現われます。
 
古代から現代まで、遍歴放浪への憧れは日本人のDNAに埋め込まれ、
文化史の柱になっていると思われます。
 
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  平成25年方代忌(瑞泉寺)にて撮影。
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  瑞泉寺の方代歌碑「手の平に豆腐を乗せていそいそと いつもの角を曲がりて帰る」、
  今日はこの歌を作った横浜戸塚の田谷時代を取材しました。
 
 
1914年(大正3)山梨の右左口に生まれた方代さんは尋常小学校時代から俳句に親しみます。
新聞や雑誌に投句して入選します。
1938年(昭和13年/24歳)横浜に嫁いだ姉「関くま」の下に引き取られ、
以降職を転々とします。
1941年(昭和16年)には千葉の高射砲部隊に入隊し、台湾やジャワチモールに出兵します。
しかし、右目を失明してしまいます。
昭和21年には病院船で帰還します。
昭和25年には全国の歌仲間を訪ねて放浪の旅に出ます。
そして、昭和43年(1968年/54歳)戸塚の田谷に移り住むようになりました。
 
この頃から鎌倉の吉野秀雄氏に知遇を得て、その指導を受けるようになります。
更に、吉野氏の口添えによって小林秀雄氏や唐木順三氏に紹介され、
その推薦を受けるようになります。
齢も重ねたし、文壇の実力者の知遇も得た、姉の住まいは横浜だし、
戸塚の田谷が万事都合が良かったのでしょう。
 
田谷では加藤さんの農業を手伝います。
同家から300メートルほど離れた竹林の中に小屋を建てて貰い、此処での住み込み生活が始まります。
 
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   信号は「山王口交差点」この右角によろず屋がありました。此処で方代さんはお豆腐を買って左     の道をまっすぐ進んで加藤家の角を左に曲がってその先300m竹林の家に帰りました。
    今は山王口交差点の右側には大きなパチンコ店と日帰り風呂があります。
 
 
 
私は加藤家に訪問しました。
お婆ちゃんが出て来られ、方代さんの思い出話を聞かせて貰いました。
 
方代さんは誰からも愛された方でした、
農作業もお上手でしたし・・・・、良く働いてくれました。
主人が竹林の中に小屋を建てて、其処に住まわせました。
農作業は季節的なモノですから・・・・・、暇な時は良く出かけておいででした。
加藤家はバス通り(山王口停留所)によろず屋を出していました。
方代さんはそのお店でお豆腐を買って帰り、
豆腐を肴に小屋で一杯やるのが楽しみだったのでしょう。
冒頭の瑞泉寺の和歌は、此処の我が家と方代さんの小屋との分岐点が最適な歌なんです・・・・。
 
お婆さんは私の注文に従って、土間の上り框の上に方代さん関連の封筒を並べてくださいました。
でも、残念なことに方代さんの直筆は無かった(少なかった)ようで、多くが瑞泉寺の大下一真師のものでした。
 
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  これが方代さんの面倒を見た田谷の加藤家。
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   加藤家で見せて戴いた方代さんの関連資料
 
 
竹林は千秀小学校(当時は豊田小学校の千秀分校、現状は千秀公園)の脇にありました。
ですから、日中は子供の声が聞こえたことでしょう。
 
方代さんが鎌倉の手広に転居した後は、無人になってしまいました。
加藤さんの倅が住んでいましたが、失火してしまい現代は礎石だけが残っています。6畳間一間に、台所トイレが在ったようです。
 
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   千秀小学校の案山子
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   方代さんはこの竹林の中の住んでいました、まるで良寛さんの八合庵のようです。
    農作業をしているのは方代さんに遊んで貰った須藤さん。
 
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  向こうの緑色の屋根が加藤家。その角が和歌で歌詠われた”何時もの角”です。
  手前は蜜柑、ユズも混植されていました。
 
竹林の東は畑で法蓮草や小松菜を栽培していました。
その東は棚田で・・・・、その境に土止めをかねて柚子が植えられてありました。
法蓮草の収穫をしていました須藤さんに尋ねてみると、
「子供のころに遊んでもらいました。
善い人でした・・・・、最近は此処まで訪ねて来られる人が居ます。」
私は尋ねます。
「此処の柚子、方代さんが採った事もあるでしょう?」
「湯豆腐に柚子は良いもんですから・・・・・、採られた事でしょう。人が食べなければ野鳥が食べるだけです。良かったらお持ち帰り下さい。でも棘が強いから、怪我をしないように注意してくださいな・・・・。」
仰ります。
 
須藤さんも良い人でした。
もう1か月余りで冬至です。
それまでもつように、小枝を二本貰いました。
玄関の花瓶に生けました。
 
 
竹林の方代さん・・・・、憧れの良寛さんを髣髴させる住まいだったようです。
 
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  竹林の中にある小屋の礎石。マムシ注意の看板がありました。
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  芋など野菜を貯蔵したと思われる横穴
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  真っ白なジンジャーの花が未だ咲いていました。辺りは脱穀を終えて捨てられた籾殻は一杯でした。
 
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此処は千秀公園、以前は豊田小学校千秀分校でした。手前が竹林で方代さんが住んでいました。
 
 
 
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むべの実も赤紫に染まりました。

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横浜では昨日(11月11日)、木枯らし1号が吹きました。
今朝はグンと冷え込みました。
これで、紅葉前線もグッと近づく事でしょう。
庭には尉鶲(じょうびたき)がやって来ました。
梢の先でヒッヒ、カッカと啼いています。
人懐っこい野鳥で、私が近づいても逃げる素振りはありません。
愛くるしい眼で此方を見て、尻尾をプルプルと振ります。
まるで、”今年もシベリアから遣って来ました、春までお邪魔します”
 挨拶してくれているようです。
 
木枯らしも、ジョウビタキもシベリア高気圧が運んできてくれるものです。
屹度シベリアに抑留されて、同地で亡くなった53000人の魂も、
ジョウビタキの翼に乗って祖国に戻っていることでしょう。
 
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   シベリアから渡ってきたジョウビタキ。漢字にすると尉鶲、火打石を叩くお爺さんの意味です。
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      此方は4年前出現した白いジョウビタキ。私達は”お嬢”と呼んでいました。
      でもその冬だけで、その後は姿を見ていません。
 
今年は台風が沢山発生しました。
横浜には26号が上陸し、28号はカスって行きました。
30号はフイリッピンを襲い、1万人に及ぶ命を奪ったようです。
台風の去った後は、東日本大地震の津波を髣髴させる惨状でした。
30号が日本に来なかったのは・・・・、
シベリア高気圧が張り出してきてくれていたからです。
亡くなったフィリッピンの方々には悪いんですが・・・・、シベリア高気圧のお蔭です。
 
ジョウビタキが啼きだすと、ムベ(郁子)が紫に染まります。
 
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   これがむべの花。芳香が素晴らしいのです。淡いジャスミンの香りです。(東慶寺)
 
西国霊場の30番は竹生島宝厳寺です。
31番には琵琶湖を船に乗って南に縦断して行きます。
近江八幡の長命寺です。
 
天智天皇がこの辺りで老夫婦に会います。
老夫婦は8人もの子供を育てていました。
天皇に長寿の秘訣を訊かれて、お爺さんは答えます。
「私達夫婦は此処で採れる無病長寿の霊果物を食べていますから・・・。」
言って一つの紫の果物を差し出したそうです。
天皇はその果物を口にされました。
「むべなるかな・・・・・/もっともな事である」
以来、その果物は「むべ/郁子」と呼ばれるようになりました。
 
私はこの話が好きで・・・・、長女の名を郁子にしました。
 
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                       青いむべの実(東慶寺にて)
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                      熟れたむべの実(東慶寺にて)
 
 
アケビは薄紫で果実が縫合線でパッカリと割れます。
だから「開いた果実」の意味でアケビなんでしょう。
むべは青いうちはアケビと似ていますが、熟れると随分表情が異なります。
でも、食べれば味は良く似ています。
仲の良い姉と弟のようなものです。
 
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           庭先のアケビ、今年は初めて家でもアケビが実りました。
 
 
11月10日、北鎌倉の東慶寺ではお茶会が催されていました。
お茶室の脇には四ツ目の垣根があって、むべが絡んでいます。
垣根の根元にはお茶の樹が育てられていて、盛んに花を咲かせています。
そう、茶は山茶花のお父さんのようなものですから・・・・、
垣根の植木としてはお茶の方が山茶花より先なんです。
 
お茶室を覘く事は出来ませんが・・・・・・、
茶花は山茶花では無くて、お茶かも知れません。
茶とむべと・・・・、どちらも不老長寿の妙薬のような植物です。
 
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   東慶寺では四ツ目垣に茶の樹とむべを育てています。手前右側に咲いているのが茶です。
    (白い花弁に黄色い葯が…、娘の様に可愛いんです)
 
「用意ができました」・・・・・・、庫裏で待機されていたお客様に連絡されたのでしょう。
三々五々、お着物の奥様方がにじり口に向かいます。
私は・・・・奥様方を眺めます。
ひときわ鮮やかなお着物のお嬢さんが続きました。
お孫さんなのでしょう。
今秋、お茶席デビューかも知れません。
 
私の口から「むべなるかな・・・・・」
天皇のような言葉が出そうになりました。
 
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  むべの垣根の向こうをお茶席に向かう奥様達、お孫さんも混じって楽しそうです。
 
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    壁に懸けたむべの実。赤いのはマユミの実です。マユミも野鳥が庭に届けてくれたものです。
    (野鳥の糞に混じっていたもの、庭に自生した)背にある紫の布で包まれたのは家内の和弓です。
    弓はマユミの木を材料に作られています。
 
 
ジョウビタキもむべもシベリア高気圧が運んで来てくれるようなものです。
暑い夏は小笠原高気圧、寒い冬はシベリア高気圧、交互に現れて私達日本の四季はメリハリが効いています。
冬は寒く無くては冬と言えません。
 
 
 
 
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イワシャジンと羅漢像

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今年は未だススキが綺麗です。
箱根仙石原に出かけて、その北外れにある長安寺(曹洞宗)に向かいました。
私達夫婦は毎年紅葉を見にこのお寺に登ります。
今年の紅葉の気配を確認するのも目標です。
 
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                 箱根仙石原のススキ、今年は長く楽しめました。
 
紅葉が染まり始めていましたが・・・・、
今年は如何でしょうか?
桂の黄葉を見る限り、今年の紅葉は期待薄のような気がします。
 
長安寺の裏山には曹洞宗のお寺らしくお稲荷さんが祀られています。
その周囲に羅漢像が置かれているんです。
どれもこれも現代人の作のようですし、未だ増えているような気がします。(未確認ですが・・・)
個性を大切にする現代人には、羅漢像は恰好な素材なのでしょう。
個性あふれる羅漢像を拝して回るのは、楽しい事です。
 
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 長安寺の裏山、樹林の中にお稲荷さんが祀られています。そして、今日の話題の羅漢像
 が置かれて、その足元に可憐な岩沙参(いわしゃじん)が自生しています。
 
 
この裏山は杉や翌檜(常緑樹)と紅葉や栗(落葉樹)が混植された雑木林です。
その薄暗い樹下が岩沙参(いわしゃじん)に自生していました。
仙石原の湿性花園にも良く見られますが、
植物園で見るのとお寺で見るのとでは趣が違います。
雑木林で咲いている岩沙参は・・・・
美しさも、輝きも植物園に倍しているように思えます。
 
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    岩沙参の花はベルのようで、ベルが並んでいる姿はハンドベルの様に見えました。
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岩沙参の花は釣鐘人参(つりがねにんじん)に似ています。
人参の”参”の字もあります。
でも調べてみると桔梗の仲間だそうです。
 
桔梗と同じ藤色で・・・・、ベルの形をしています。
細い茎の先に並んでいる姿は、クリスマスで聞くハンドベルのようです。
子供達が並んで、ベルを握って振り下ろすと、
澄んだ音色でクリスマスキャロルが奏でられます。
 
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            羅漢像の岩場が岩沙参の生育には最高の環境なんです。
 
岩沙参は羅漢像の足元に咲いています。
屹度、岩を彫って作った羅漢像の足元に種が飛んで来て、
其処に自生したのでしょう。
岩に這う様にして育つのがこの花の得意技なんですから・・・・。
岩沙参の花が羅漢像を飾っています。
羅漢像の個性的な表情は、岩沙参の美しさをクローズアップさせているようです。
 
もうじき長安寺は紅葉で染まります。
紅葉の季節でも岩沙参は咲き続けます。
でも、人々は梢の先を見上げて紅葉にばかり心を奪われてしまいます。
足元には可憐な岩沙参が精一杯咲いているんですが・・・・・。
 
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                           長安寺はもうじきに紅葉に染まります。
 
 
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弁慶塚の大樹

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兄頼朝の怒りを買い、義経は奥州平泉に匿われます。
ところが、藤原泰衡に裏切られ自刃したと伝えられます。
文治5年(1189)の事でした。
義経の首は黒漆が塗られた櫃に入れられて、鎌倉に送られます。
頼朝は首確認のために梶原景時、和田義盛を使わせます。
腰越(?)で二人は義経の首であることを確認して、頼朝に報告します。
 
義経の首は沖に流されて行きます。
その首は金色の亀に乗って境川を上って、鵠沼に打ち上げられます。
鵠沼の漁師が義経の首を拾って、井戸で洗い、葬ります。
ところが、鎌倉では天変地異が続きました。
頼朝は義経の霊を鎮魂するため、白旗神社の建立を命じます。
白旗神社の周囲には、義経首塚をはじめ幾つもの遺跡があって、
悲話を伝えています。
 
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   白旗神社の海側、境川に近い「義経首洗い井戸」手前左には義経塚が移されています。
 
 
義経悲話には必ず弁慶が影に寄り添います。
小男の義経に従ったのは大男の弁慶・・・・・、
二人が揃って歌舞伎「義経千本桜」「勧進帳」等が創作されました。
弁慶は衣川を見下ろす高舘で義経の最期を守りながら、
全身に矢を受けて命が果てたと言い伝えられています。
ですから、弁慶の首も義経と一緒に鎌倉まで送られたか、解りません。
でも、白旗神社やその周囲には弁慶の遺跡が幾つも残されています。
 
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  白旗神社の境内にある弁慶の力石。
 
白旗神社の社殿の脇には「弁慶の力石」が残されています。
大きな力石ですから・・・・、持ち上げる事は困難です。
だからこそ、弁慶力石の名が付いているのでしょう。
お祭りでお神輿を担いだ力自慢がトライして、
”弁慶さんには敵わない” 言った事でしょう。
 
藤沢本町にある常光寺の裏には「弁慶塚」があります。
義経首塚、義経首洗井戸、白旗神社の南側ですから・・・・・、
まるで義経を守るような位置です。
死して後も義経を守り続けているんだ・・・・、弁慶の志を伝える様な「弁慶塚」です。
 
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   藤沢本町の常光寺の墓地にある弁慶塚。(奥の木の祠)今日の話題は手前の大樹です。
 
弁慶塚は小高い丘の中腹に祀られています。
周辺は弁慶の祟りを畏れた為でしょうか、開発が控えられて樹林で守られています。
入口には銀杏の大樹があります。
この銀杏の姿が惨じいのです。
太い幹がありますが、中は空洞です。
空洞の中に入って見上げれば、幹の内側は炭化しています。
少し離れて見れば・・・・状況が推測できます。
或るとき、雷が銀杏の大樹に落ちたのでしょう。
雷光が瞬き、大音響が轟いて、電気が幹を真っ二つに裂いて大地に流れました。
幹からは火が噴きました。
でも、銀杏は防火樹です。
滅多な事では焼けません。
一瞬火を噴きましたが、直に鎮火させてしまいました。
 
幹は焼けても、皮も根も生きていました。
銀杏の生命力は少しも衰えず、樹皮を太らせて新しい幹を育てて生き長らえました。
 
 
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   弁慶首塚入口、看板の後ろの銀杏の大樹が今日の話題です。
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   銀杏の大樹は南半分が腐ってしまっています。幹は雷が落ちて裂けてしまっています。
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 大樹の幹には洞が出来ています。内側は落雷の際に火が噴いたのでしょう、炭化しています。
 
弁慶の首塚は鎌倉石を積み上げた石段の上にあります。
石段を登り切った処にも大樹があります。
此方は「タブの樹」です。
樹皮は蚊取り線香や仏前のお線香にする・・・・、タブの樹です。
此方は、雷が落ちた訳ではなさそうです。
でも、幹は腐ってしまって洞になっています。
洞は南側(山側)から広がっています。
でも、大木が倒れないように、樹皮が太って、お相撲さんが四股を踏むような格好で耐えています。
その姿が、一人で泰衡の大軍を迎え撃っている弁慶のような迫力です。
 
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 弁慶塚は常光寺の墓地の一角、石段の上にあります。
 次の話題は石段の上右手にあるタブの大樹です。
 
弁慶塚は表面には細工が為されています。
先ず、表面に刻まれていた諸々の字が削られています。
その上に新しく「弁慶塚」と刻まれています。
白旗神社でさえ最初は相模の国つ神「寒川比古命/相模神社」が祀られいたのでした。頼朝の命令で寒川比古命が義経に主祭神の地位を譲ったのです。
墓標が誰かから、弁慶に移されたのでしょう。
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    弁慶塚、元々は誰かのお墓を削って作り変えたと思われる細工が透けて見えます。
 
 
江戸時代、歌舞伎で義経・弁慶主従が人気になって・・・・、
この常光寺の墓地の一角を「弁慶塚」と呼び始めたのかも知れません。
大樹が鬱蒼と茂る雰囲気が弁慶を髣髴させたのも・・・・・
弁慶塚の名の起こりかも知れません。
 
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  死んでも義経を守った弁慶を思わせるタブの大樹。弁慶タブとでも呼びましょう。
 
弁慶のような青面金剛(庚申塔の主尊)が幾つも並んでいました。
 
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   弁慶のような庚申塔(腰越)
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      此方が弁慶塚の庚申塔、すこし滑稽な感じですが・・・・・。
 
 
 
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稲村ケ崎の石蕗の花

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今年は10月中も暑い日が続いていました。
そして今週に入ると急に寒くなってしまい・・・・、冬に突入したようです。
秋はあったのか、なかったのか・・・・・、
瞬く間に過ぎ去ってしまったようです。
もっとじっくり秋を楽しませて欲しいものです。
 
7・5・3の祝い神事で村の八幡社に上りました。
スダジイの根元にツワブキ(石蕗)の花が咲いていました。
光沢のある深緑の葉っぱ、黄色い菊に似た花が寄り添う様に咲いていました。
石蕗だけに梢の間から陽の光が差し込んで・・・・・、
石蕗の花に神様が降りて居られるように見えました。
石蕗の美しさにしばし見惚れてしまいました。
 
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    今日の話題は岩場に咲いた石蕗の花です。(鎌倉腰越の岩場で)
     逆境が石蕗の美しさを際立てます。
 
石蕗は禅寺のお庭にも良く見かけます。
樹木や石庭の足元に生けられて・・・・景色を引き締めています。
庭園の石蕗も良いもんですが・・・・・・、やっぱり石蕗の美しさは
海を見下ろす岩壁でこそ際立つものです。
一茶もそんな景色を吟じています。
    ちまちまとした海もちぬ  石蕗(つわ)の花   (一茶)
 
”ちまちま”とは菊の様な黄色い小花が沢山集まって、寄り添うように咲いている状態を表現したものです。
石蕗の花がちまちまと寄り添うようにして咲いています。
冬の寒い海を見下ろして、長い間咲期続けています。いじらしいように・・・。
そんな句でしょう。
筆者は”もちぬ”という言葉に”長持ちする”この花の特長を言い表していると解釈しました。
 
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石蕗の字も”岩に咲く蕗”と書きます。
勿論、”艶のある蕗”が語源で、”つやぶき”という和言葉を漢字に転換するときに、
”石蕗/いわふき”を充てたのでしょう。
 
私の生活圏には一茶の句にマッチした場所が幾つもあります。
でも、最もドラマチックで美しさが際立っているのは・・・・・稲村ケ崎でしょう。
そこで、稲村ケ崎に向かいました。
 
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   稲村ケ崎、此処に自生している石蕗が今日の話題です。 
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   稲村ケ崎の頂上から七里ヶ浜・江の島を眺める。手前には石蕗の花が盛りです。
    春先まで咲いて、タンポポのような綿毛になって散って行きます。飛んでいるのはトンビです。
 
 
稲村ケ崎には30mもあるでしょうか・・・・、断崖絶壁です。
岬の頂上には黒松が自生しています。
黒松の根が崩れそうにしている岩を抱え込んでいます。
いずれ大岩もろとも松が落下して来ないか・・・、心配です。
 
そんな、黒松の根元に、大岩の陰に、絶壁の上の猫の額ほどの空間に、
石蕗が自生しているんです。
脇のススキは枯れてしまっていますから・・・・、
石蕗の深緑の葉っぱと黄色い花が目立ちます。
 
葉っぱが光沢があるのはキューティクルが覆っているからでしょう。
女性の髪の毛と同じです。
キューティクルは花弁にも豊富に含まれているようです。
このキューティクルが海風にも、北風にも、塩にも負けずに・・・・、
長い間美しさを留めておく秘密なのでしょう。
 
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                        稲村ケ崎頂上付近の岩場に咲いた石蕗
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     石蕗は日陰でも生育します。細道の先は断崖です。(此処も稲村ケ崎の頂上付近)
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      突端の黒松を掴んで眼下30mの海を見下ろす。
 
 
稲村ケ崎の突端に出て、岩場の咲く石蕗を見下ろしました。
眼下30メートル先は海で、打寄せては返す波の波頭が白く砕けています。
長く見ていると吸い寄せられそうです。
落下すれば命は飛んで消える事でしょう。
此処は古戦場で幾度も悲劇が繰り返されました。
パワーが強すぎるスポットですから・・・・、長居は危険です。
突端の先から・・・、早めに引き返し安全な公園に引き返しました。
公園では日曜画家がスケッチを楽しんでいます。
平和な景色と悲劇のスポットが同じなんて・・・・、何とも皮肉なもんです。
 
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     稲村ケ崎公園
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    稲村ケ崎は開成中学ボート部遭難でも有名です。(親子の象は遭難の碑)
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   鎌倉を代表する絶景スポット稲村ケ崎で油絵を描く人。背には石蕗が優しげです。
 
石蕗を醤油で煮ると焦げ茶色の伽羅(香木)のようになります。
伽羅蕗は食べれば苦いので多くは食べられません。
大人の味で佃煮に似た保存食です。
食べたいものですが・・・・、健気に咲いている石蕗ですから、
手折る事も出来ません。
 
でも、こうしてブログに書いておけば・・・・・・、家内がお友達に貰って・・・・・、
食卓に出してくれるかも知れません。
湯豆腐に冷酒なんて・・・・、いいもんでしょう。
 
 
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鎌倉一茶庵系の”結”の蕎麦

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「新蕎麦入りました」蕎麦屋の呼びかけに弱いんです。
胃を切ってから未だ1年4か月ですから、蕎麦をツルツルと呑み込むわけにはゆきません。
良く噛み噛みしながら食べなくてはなりません。
野暮ったい食べ方ですが、そうしなければ直に胃が受け付けてくれません。
でも、新蕎麦の呼びかけでついつい蕎麦屋の暖簾を潜ってしまいます。
 
鎌倉には実に蕎麦屋が多いんです。
日本中で一番多いお店はラーメン屋と聞きますが、
鎌倉では蕎麦屋はラーメン屋を凌ぐ激戦地です。
ミシュランでも材木座の梵蔵http://bonzokamakura.com/about/が栄誉を受けました。
 
数多い蕎麦屋さんの中で、最も混んでいるのは多分八幡宮前の「一茶庵」だったでしょう。
足利の一茶庵の蕎麦に感動して、その指導を受けて出店したお店でした。
鎌倉の蕎麦好きに愛されて40年以上も経っていましたが・・・・、
昨年忽然と消えて、今では”あら珠”という名の日本料理店が店を出しています。
 
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   八幡宮前に在った鎌倉一茶庵は「あら珠」という名の日本料理店になりました。
   鎌倉一茶庵の店主挨拶は次に出ています。http://www.issaan.net/
 
鎌倉にあった一茶庵は閉店してしまいましたが、
「鎌倉一茶庵」の名で丸の内の新丸ビルに出店しました。
丸ビルに出店するに際し、資本も人材も新店舗に集中させたのでしょう。
”何れ、鎌倉には店を出すんだ” 閉店挨拶にはそんな心情が吐露されています。
 
 
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   右側が腰越・西鎌倉・手広を繋ぐ生活道路。
    此処に面した民家風の建物が今日の話題の「結」です。玄関わきに柚子が実っていました。
 
 
腰越から神戸川に沿って手広に向かって走ります。
モノレールの西鎌倉駅の間、約1キロの間に蕎麦屋が3店もあります。
最近出来たのが「結/ゆい」というお店です。
結とは由比ヶ浜の”結”であり、強い連帯、共同体を表現する言葉です。
良い名前だな・・・・、思いながら新蕎麦の貼り紙に惹かれて暖簾をくぐりました。
杉の香りがします。
壁一面を素肌の杉板が張られているんです。
窓は、古い民家の障子・ガラス戸がはめ込まれています。
でも障子紙は貼られていません。
古い素材も新しい感覚で使われています。
まあ、こんな車通りも少ない場所に、蕎麦屋が軒を連ねて・・・・、
相当に自信があるんだろう・・・、思いました。
 
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   壁は節の眼一杯の杉板です。良い香りです。
   ”黄落や黄に黄をかさね黄をかさね”の句は恩人がお祝いに呉れたものだそうです。
   八幡宮の大銀杏を吟じたものでしょう。
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窓はガラス障子戸を裸で使っていました。生家に帰った様な安堵感を催させるインテリアです。
窓際には全国各地の酒や焼酎が並んでいました。夜は賑わう事でしょう。
 
ご主人が出てきました。
人懐っこい感じの好青年(?)です。
私は
「お若いのに、お店を構えられたんですね。凄いですね!どちらで修業されたんですか?」訊きました。
すると、笑いながら答えられました。
「私は・・・・、もう若くは無いんですよ・・・・。
八幡宮前の一茶庵に居ましたが・・・・、同店が閉鎖したのを機会に独立しました。」お話を総合すると、材木座の梵蔵の兄弟子という事になるようです。
一茶庵は足利一茶庵と同じくお弟子さんを多くとって修行させ、
本人に意欲があれば喜んで独立させたのでしょう。
梵蔵も材木座の裏通りですし、腰越の結も立地としては最悪の部類です。
”蕎麦好きが車で遣って来る”事を期待するほかありません。
蕎麦に自信がなくては進出は憚れる場所です。
 
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私が入店すると、後から後からお客さんがやって来ました。
駐車場は2台しかありませんから・・・・、これは大変です。
 
この日は北海道の蕎麦を使っていました。
信州そば、近江蕎麦など日によって使い分けているんだそうです。
10割蕎麦も可能ですが、私は普通の2・8の蕎麦にしました。
蕎麦だけでも腹一杯なんですが・・・・・、トロロ飯も好きなんで・・・
「蕎麦定食/とろろ飯付き」に致しました。
 
美味しかったか?
それは期待通り・・・・、真面目で誠実な蕎麦の味でした。
腰越から江の島方面では此処が定食になりそうです。
 
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   これが結の蕎麦定食(950円)とろろ飯が付いています。
 
 
【追記】
今日はこれから東戸塚小学校祭りに参加します。
我が町内は「焼き芋」「真っ赤チン釣り/横浜ではアメリカザリガニの事をマッカーサーとか真っ赤チンと呼びます」の二つで盛り上げます。
 
 
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小学校で冬のザリガニ釣り

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昨日は東戸塚小学校のお祭りでした。
もう、今年で22回目になります。
私の町内がお祭りに参加し始めて今年が4回目になります。
小学校のお祭りと言っても、お祭りの”場”や”イベント”を用意するのは父兄や地域であって、子供達はお祭りを楽しむお客さんです。
 
音楽会・運動会・授業参観等で子供達は父兄や地域を楽しませてくれます。
学校祭りはそのお返しの様な場です。
 
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     入学式の行われた東戸塚小学校、正門前を柏尾川が流れています。
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    東戸塚小学校は横浜でトップクラスのマンモス小学校です。お隣は日立です。
     朝礼台を新しくする計画です。
 
東戸塚小学校祭りの収入や祝い金で、学校は施設の整備を行っています。
横浜市の教育資金が圧迫されているんで・・・・、
お祭りの収益金で施設の整備をしてきました。
一昨年は陶器用の電気窯の修理をしました。
昨年は給食施設、今年は朝礼用の台です。
どれもこれも、30万円前後の費用がかかりました。
年間の資金計画の作成に際して、文用具などのチマチマしたものは市の資金を充て、何か纏まったものはお祭りの収益金を充てています。
私達も
”朝礼用の台が錆びてきたし・・・・、子供たち数人が朝礼台に乗るには狭すぎる”
と言われると、祝い金を出したくなります。
 
今年は日立製作所が参加するようになりました。
学校のお隣が日立製作所ですから、毎朝子供達と社員さんが揃って登校、通勤してきます。
”お早うございます”挨拶する関係が望まれてきて・・・・、徐々に期待される状況に近づいてきました。
日立は今年初めて参加しました。
理科室での「電気の実験」体育館での「音楽隊」の演奏でグット親近感が増しました。
挨拶も一層スムーズになって来ることでしょう。
子供の教育は学校だけに責任ではなく、父兄、地域も応分に責任を負うべきです。
地域と言えば町内会を思い出しますが、商店街や企業も地域の一員です。
リストラの続く日立ですが、私達は愛着があります。
 
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  東戸塚小学校の前は柏尾川です。私達は子供達を誘って「追い込み漁」を実施しています。
 
 
私達は「自然が一杯!柏尾川」「焼き芋店」の二つをやって来ました。
私は町内会長ですから両方の責任者ですが、
焼き芋店は副会長と青少年指導員会長がやってくれます。
ですから、「自然が一杯!柏尾川」の展示が私の責任領域になります。
 
 
 
柏尾川は相模と武蔵の分水嶺から西側に降った雨が信濃村や柏尾村を水源に、
戸塚町を経て江の島に流れ込みます。
昔は農業用の水源として地域住民に親しまれた川でしたが、最近は流域に田圃が無くなったので・・・・、生活排水や雨水が流れる川になってしまいました。
大雨が降れば洪水になるし、津波でもあれば海の水が逆流してくる危険があります。度々堰堤の工事が行われてきました。
厚さ20センチほどのコンクリートの壁が両側に設置されてきました。
お蔭で隅田川の様に岸辺に下りて水と親しむことはし難くなっています。
 
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  自然が一杯!柏尾川のパネル展示。今年はアメリカザリガニを前にしました。
 
私達は子供達に柏尾川という貴重な自然資産を見直して、川に下りて親しんで欲しい・・・、期待しています。
その施策の一つが「柏尾川の追い込み漁」であり、東戸塚小学校での「自然が一杯柏尾川」の展示です。
でも、理科室での発表には子供達も期待しているほど遊びに来てくれません。
”どうかしたいもんだ・・・・”
思っていた所、今年は日大の「生物資源科学部」の藤桜祭で「海老釣り」を見ました。これが良い、思って展示の傍で海老釣りをすることにしました。
日大の生徒さんにも協力してもらって80匹程のザリガニを田圃で捕まえました。
それを、子供達に釣ってもらうのです。
 
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アメリカザリガニは米国のルイジアナ(ミシシッピ川の河口)に棲息していました。
昭和2年、牛蛙を食用に育てる為、鎌倉の岩瀬に在った養殖施設に20匹のザリガニが持ち込まれたのでした。
柏尾川に逃げ出したザリガニは日本中にひろがって、
代表的な帰化動物になってしまいました。
 
成体のアメリカザリガニは赤くなるので、横浜では「真っ赤チン」と呼ばれました。
戦後は米国総司令官の名をとって「マッカーサー」等と呼ばれ、愛されてきました。
日本の川や稲田の水路がザリガニの生育に恰好な環境だったのでした。
 
でも、熱帯域が故郷のザリガニです。
日本の冬は寒帯ですから・・・・・・、適応するのは困難に思われます。
ところが・・・・・、ザリガニの環境対応力も驚異的なモノでした。
 
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   ザリガニ釣り(手前右)の効果でパネルを見てくれる子供達も増えました。
 
私の子供達に教えたいところは「生物の環境対応力」でした。
ルイジアナでは「夏眠」するザリガニは、秋に卵を産みます。
DNAには秋に卵を産む、書きこまれているのでしょう。
だから、日本でも今頃のザリガニは抱卵しています。
抱卵したまま越冬するのです。
地中に穴を掘ったり、岩陰や土管の中で冬眠状態で過ごします。
そして、春になったら活発に動き出します。
 
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   夢中でザリガニ釣りをする子供達、順番待ちの子も出ています。
 
子供達は期待通りに海老釣りに集まって来ました。
お祭り委員会の提案によって、シールラリーをして、5枚を集めった子供に限って釣りをして貰い・・・、飼育する子にはプレゼントしました。
それでも、ザリガニ釣りは順番待ちのフィーバーでした。
此処までは私の思惑通りでした。
 
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でも、肝心な一点が思惑違いでした。
この寒さでザリガニは動きが鈍く、食欲も低下しているんです。
目の前に鶏肉や煮干し、イカリング、ちくわ、
どれを吊るしても関心を示さないのです。
だから、釣れません。
そのうち脚が釣り糸に絡んでしまい、無様な格好で釣り上げられてしまいます。
 
でも、子供達は大喜びでした。
多くの子供が持ち帰りましたが・・・・、しばらくすると
「お家では飼えないのでお返しします・・・」
持ち帰る子が目立ちました。
「ペットショップで買った生き物は柏尾川に流してはいけないのだけれど、ザリガニは柏尾川に居たんだから・・・・、飼えなくなったら柏尾川に放しても良いんだよ・・・。」
説明しましたが、お母さんの口ぶりは絶対禁止のようです。
 
教育の機会はそこらじゅうにあるんですが・・・・、
絶対禁止は子供の成長にマイナスだと思うんですが・・・・。
パネルを見れば・・・・・・、環境適応力の偉大さに眼を奪われると思うんですが・・・・。
 
家で無理して飼って・・・・・死んでしまっては可哀想ですが、
でも、子供達は死んでしまった原因を考えます。
環境適応力があるのに・・・・、環境が違ってしまったから・・・・、死んでしまった
生命が生きて行く環境を考えます。
それは、人間の生きて行く環境でもあります。
 
子供達に話しました。
「ザリガニは固い鎧の様な殻を脱ぐとき、柔らかくなってしまいます。
これを脱皮というんだが、ザリガニはこの時死んでしまう事が多いんだよ。
脱皮しないと成長できないのだ。
殻はカルシウムで出来ているから、脱皮する前にバランスある栄養を充分とっておかなければならないんだ。
君たちも中学、高校、大学、社会人 大人になる前には何度も成長の段階を越えて行かなければならないよね。
その時失敗しないように、純分体に心に栄養を蓄えておかなくてはならないよ・・・・!」
子供達は、眼を輝かせていました。
 
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 男の子も女の子もザリガニを貰って嬉しそうです。みんな♂・♀の見分け方を理解できたと思います。
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小僧さんのチンチンが蜂に刺された囃子歌

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11月9日、戸塚小学校の創立140年祭に出かけました。
同校は明治6年の開校ですから、歴史の重みに驚きます。
式典後の会食の席で、実行委員長(PTA会長)と同席できました。
委員長は親縁寺のご住職です。
そこで、私がかねてから疑問に思っていた事を訊いてみました。
 
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  戸塚小学校創立140周年記念式典。素晴らしいお祝い式典でした。
  (写真は放課後合唱団と”ふるさと”を合唱した様子)
 
『天王祭の囃子歌ですが、最近は中抜きで面白くありません。
何で、中抜き、さび抜きにしてしまったんでしょう。
他愛ない囃子歌にしまったのか残念でなりません。
あの歌の二番に、
「親縁寺の小僧さんがチンチンを蜂に刺された・・・」段がありましたね。
親縁寺の小僧さんの段には 民族的な意味が隠れているのでしょうかね?
ミミズにおしっこをかけると、チンチンが腫れる・・・・・、謂われたものでしたが・・・』
 
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  戸塚の天王祭でお札を撒く光景。この時の囃子歌の内容が今日の話題です。
  天王祭は次ぎに書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47436117.html
 
ご住職は私の質問に答えてくれました。
「天王祭の囃子歌は当寺にありますから、来られたら案内できますよ。
仰る通り当寺の小僧さんが”蜂の巣におしっこをかけてしまって、怒った蜂にチンチンを刺されてメソメソ泣いていた”段があります。
当寺が八坂神社に近くて、昔は東海道に面していたので、歌われたんでしょう。
 (今は200m程後退しています)
 
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   親縁寺、時宗のお寺です。戸塚で一番に大きな境内で、落ち着いた風情です。
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  親縁寺の無縁仏塔、水子供養塔の様相を呈しています。
 
私はご住職に水を懸けました。
東海道を7キロほど下れば遊行寺さんです。
盆踊りも一遍上人の為された踊念仏が始まりと聞きます。
親縁寺の小僧さんの段は、時宗のお寺が庶民に親しまれた、俗謡に強い影響を与えた事を示している様におもいます。
八坂神社に近いお寺なら他にもありますが・・・・。
 
でも、ご住職は期待通りには応じてくださいませんでした。
この俗謡の被害者であったと思いましたが・・・・。
 
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   広重の戸塚大坂の図。昭和30年代までは見事な松並木があって、絵に描かれていました。
   仮名手本忠臣蔵「おかる寛平、道行の場」の舞台にもなっています。
   親縁寺はこの大坂の登り口にありました。
 
短小コンプレックスの話を聴いたことがあります。
先ずペニスの元を強く絞めておきます。
その上で、蜂の巣におしっこを懸けます。
すると、怒った蜂がチンチンを刺します。
でも、縛ってありますから蜂の毒は全身には回りません。
その結果、チンチンだけが大きくなるんだそうです。
日本では実験した話は聞きませんが、韓国では在ったそうです。
 
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      戸塚から茅ヶ崎バイパス出口付近小和田の道祖神。
      立派なチンチンは豊作満作・子沢山を叶えてくれます。
 
 
弥次郎兵衛と喜多八が東海道を下る「東海道中膝栗毛」に、
戸塚宿の「大きんたま」が出てきます。
「戸塚の大睾丸といふ事有りて、むかし元禄年間(1688~1704)の事にや。
東海道戸塚宿に大睾丸の乞食ありしと云ふ。又この宿 に明和安永 (1764~1781) の頃にや、二代目の大玉あって、享和(1801~1804) 頃までも存命にて有りけりと」(『想山著聞奇集』)
 
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                   仮名垣 魯文の戸塚の大金玉の挿絵
 
『東海道中膝栗毛』が刊行されたのは享和二年(1802)でしたから、弥次さん喜多さんが戸塚で見たのは二代目の大きんたまだったのでしょう。
金たまが膨れたのは寄生虫が原因で、白くて細い虫が陰嚢に巣くった為のようです。
大金たまを見世物にして生活していた乞食の人の生活力に敬服してしまいます。
戸塚の大金たまは4斗樽と評されていたから、狸以上のサイズでしょう。
 
 
 
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親縁寺の小僧さんの段は、この大金たまの印象が強くて生まれたんじゃないかな・・・?
私の直感です。
 
天王祭の囃子歌は幕末に流行っていたものでした。
”いいじゃないか運動”京・伊勢方面から流行り始め、東海道を上って来ました。
各関所で天王祭が催され、お札が天から撒かれて・・・・、世直し運動に発展したと聞きます。
今では各宿場ではもう廃れてしまいましたが、
戸塚宿だけが今も伝えて来ています。
 
最後に天王祭の囃子歌を載せておきます。
 
 さあ来い子供 天王様は 囃子がお好き
 泣く子は嫌い 喧嘩も嫌い
 ワイワイ囃せ 天王山に登って
 獅子の毛むしって 膠(にかわ)で貼って
 これ見ろ弥吉さん
 弥吉の女房 ないないよ
 無い毛が生えた
 ここらで撒こか
 入り色混ぜて 有難いお札
 授かったものは 病をよける
 コロリ(疱瘡)も逃げる ソラ撒くぞ
 
 今年も豊年だ 豊年だ 満作だ
 お米も取れる 粟も麦もとれる 
 野菜もとれる 木の実も実る
 親縁寺のお小僧が 椎の実とって食うとって
 蜂にちんちん刺されて 
 痛いとも言わず 痒いとも言わず
 タダめそめそと 
 ここらで撒こうか 色々混ぜて
 有難いお札 授かったものは 病をよける
 コロリも逃げる ソラ撒く撒くぞ
 
 ノンノン様は幾年
 13と7つよ
 まだ年は若いね
 若い子を産んで
 誰に抱かしょ
 お前に抱かしょ
 お前は何処何行った
 汝買いに 茶買いに
 油屋の前で
 滑って転んで
 油一杯こぼした
 その油どうした
 太郎どんのワンワンと
 次郎どんのワンワンが
 全部舐めてしまった
 そのワンワンどうした
 太鼓に張って
 天王さまで
 ドンドコドン
 八幡様もドンドコドン(注)
 お羽黒様もドンドコドン
 太鼓が鳴ったら賑やかだ
 大根が煮えたら ほらふきだ
 此処らがよかろ
 赤・青・黄色色々混ぜて
 油断をすると
 お札を拾えぬぞ
 ソラ撒く 撒くぞ
    八坂神社の西近くに冨塚八幡宮、東近くに羽黒神社が祀られています。
 
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  団扇に載せて、天王様のお札を撒く光景
 
 
 
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トロロ芋への愛着

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植えた訳ではないのですが、庭の木蓮の木に「山芋」の蔓が絡んで、6~7mも伸びています。
山芋だけが黄色く染まって、晩秋を告げています。
近づいてみれば、ムカゴと呼ばれる大豆大の肉塊が出来ています。
ムカゴご飯が戴けそうです。
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 何時の間にか我が家に庭に自生して大きくなった山芋、黄色く染まってムカゴが付いています。
 
 
山芋は日本原産です。(Dioscorea japonica)
ジネンジョウ(自然生)、ジネンジョ(自然薯)とも呼びます。
人間の手が加わっていない、自然そのもののお芋だ・・・・、そんな名です。
これを食べれば、自然そのものが採りこまれるので、
体そのものが健康になりそうです。
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  黄色く染まり始めた山芋。中央下の軍配の形をしたものが種で黒く透けて見えます。
  種とムカゴの二つの方法で増殖します。我が家の山芋も野鳥が運んだものでしょう。
 
私は山芋を掘るのが得意でした。
生家はお寺ですから、裏山が広がっています。
山色の葉が黄色く染まったら、その根元に目印をつけておきます。
掘り起こすのは黄色い葉っぱが散った後が最適です。
山芋の蔓や葉っぱにあった滋養分もお芋に蓄積されています。
そんな状態でお芋を掘り出します。
2mもある芋掘り鑿(掘りん棒)で傾斜地を掘り出します。
朝顔と呼ばれる和式のトイレの形に穴を掘ります。
穴の背の位置に山芋を位置させて・・・・、焦らずにじっくりじっくり掘ります。
裏山一帯は赤土(関東ローム層)です。
富士山などの火山灰が堆積した地層と聞いています。
この赤土が山芋を美味しくさせているんです。
穴には土の匂いが充満しています。
その先に白い肌をした山芋が姿を現します。
掘り出した山芋は折れやすいのです。
そこで笹竹を使って、添え木にします。
竹で包まれた山芋を持ち帰りました。
 
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 我が家では時々とろろご飯にします。鶉がドンドン卵を産んでくれるんで、納豆やトロロに落とします。 農協で買ってきた山芋は水っぽくて粘りが足りません。本物の山芋とは違います。
 
 
父は山芋が大の好物でした。
山芋を下し金で擦ります。
山芋の粘りは強力で、硬い塊状です。
これを擂鉢(すりはち)に移します。
父が修行僧で、総持寺の典座(台所)で擂鉢料理を習ったのでしょう。
小さく刻んだ野菜を煮込んだ”だし汁”で伸ばして行きます。
麦ごはんと一緒に食べれば「麦とろ」ですし、
白米にかければ「とろろご飯」になります。
この時だけは「父の期待」を実感し、答える事が出来ました。
トロロご飯を頂いているとき、話したものでした。
”お地蔵さんを戴いているようだね・・・・・”
山芋を食べればお地蔵さんが体に入って、
自分を守ってくれそうに思いました。
 
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  箱根仙石原の穂し乃庵のとろろ蕎麦。これは美味しい。
 
山芋には秋の中に根元の目印をつけておかなくてはいけません。
木枯らしが吹き出すと、その字の通りに山芋の茎は枯れて、根っこから離れてしまいます。
目印が無いと何処を掘ったらお芋が掘り出せるのか解らなくなってしまいます。
もうひとつ、掘った後の穴を見れば技術が解ります。
朝顔状に美しく掘られていなければ・・・・・、下手という事になります。
掘った後は可能な限り埋めておきます。
誰かが穴に落ちたり、土砂崩れの原因にならないように・・・・。
そして、掘り出した後のお芋の首の部分は土に埋め込んでおきます。
来春になればそこからまた芽を出して、来秋も山芋の恵みを得られるからでした。
これ等は山芋掘りの最低のマナーでした。
 
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  藤沢六会の「へっころ谷」。このお店は「ほうとう」と「麦とろ」が目玉です。
  藤沢街道を六会駅前交差点から少し藤沢より、道路の北側にあります。
  茅ヶ崎里山公園近くにある「ごんぱち」はお父さんのお店です。
  「へっころ谷」は少し若者向けです。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47568308.html
 
お寺の裏山も手が入っていません。
都市計画道路にも指定され、戸塚土木(関東地建)に買収されていますから・・・。
フェンスに囲まれて山芋は空しく染まっています。
山のお宝が勿体ないと思います。
でも、今では山芋掘りの道具も売っていません。
野菜屋か農協の店先で買うだけです。
山芋、長芋、自然薯、とろろ芋・・・・、等々様々な名で売られていますが・・・、
どれもこれも畑で作ったものです。
過栄養の黒土で栽培したものですから、太くて、黒くて、そして水っぽいのです。
粘り気は少ないのです。
そして、何よりも美味しくないんです。
「大地の滋養分を食べている・・・、」
自然薯を食べるときの感動が無いんです。
 
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  藤沢「へっころ谷」の麦とろ(850円)山芋を人参、牛蒡、等三種の野菜を細かく刻んだ
  だし汁で伸ばしています。
  筆者は胃を切って間もないので麦とろは胃に負担が多いと思っていましたが、
  全くその心配が無いのに驚きました。
  噛まないで呑み込んでもトロロには消化を促進する効果があるようです。
 
最近は麦とろ飯を看板にするお店も出てきました。
六会には「へっころ谷」というお店があります。
前店主が甲斐の出身で、へっころ谷とは貧乏な谷で、山峡は狭いし、地味は痩せていて、日当たりも悪いんだそうです。
そんな斜面に自生しているのが自然薯で、悪い環境だからこそ美味しいお芋になるのです。
へっころ谷の店主は茅ヶ崎の里山公園近くに転居して、お店は息子夫婦に譲られました。
「山芋は何処から・・・・・?」
訊けば、秦野、大山の麓と答えられました。
土の香りがする、美味しい麦とろでしたが・・・・・
我が思い出のトロロに比べたら・・・・、やっぱり畑で栽培した山芋なのでしょう。
 
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 「へっころ谷」のカウンターはお客さんの注文が並ぶので、見ていて飽きません。
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  へっころ谷の店内。蔵書は自然食品の関係ばかりです。
   窓の外は朝顔が絡んで未だ咲いていました。
 
 
来月は丸子宿の丁子屋さんに行く予定です。
小夜の中山と併せて行く予定です。
父の友人が森町にいて、良く出かけたようです。
父が愛していた丁子屋さんの麦とろを家内と一緒に食べてみたいと思っています。
 
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  東海道53次丸子宿。名物とろろ汁の看板が見えます。
  精がつくとろろは旅人に喜ばれたのでしょう。1596年丁子屋平吉が始めました。弥次喜多道中でも  登場し、芭蕉も「梅わかな 丸子の宿のとろろ汁」と吟じました。
  店の角に梅の木が描かれています。
 
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林檎の香りは悪魔のささやき?

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今年は花梨(かりん)の当たり年のようです。
今年も、友人から2個戴きました。
毎年玄関に転がしておきます。
花梨のお蔭で玄関は芳香が充満します。
玄関を開けると、花梨の香りに包まれます。
ゆったりした気分になります。
何処か、懐かしさを感じます。
 
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   玄関に置いた花梨の実。
 
 
待てよ、花梨はバラ科の植物、
同じバラ科の果物の代表は林檎じゃないか?
玄関に置くには、花梨も良いが、林檎の方が見た目も良いし、
食べる楽しみもある。
思いついて、八百屋の店先の様に林檎を積み上げてみました。
林檎の香りは花梨のそれに似ていますが、林檎の方が上品というかマイルドです。
それに・・・・・、林檎にはやさしい思いでも数多くあります。
 
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    玄関に積み上げた林檎
 
今年は一度だけ映画館に行きました。
家内を誘って、湘南テラスモールで食事をして、「奇跡の林檎」を見ました。
林檎は美味しいもんだから、虫が沢山つきます。
病虫害に弱いんです。
そこで、大量の農薬を使います。
薬害で奥さん(菅野美穂さんが演じる)が醜くなります。
主人公(阿部サダヲさんが演じる)が無農薬・有機栽培にチャレンジします。
美しい岩木山の麓で夫婦の挑戦が描かれてゆきます。
 
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   奇跡の林檎(映画の案内から転載)
 
子供のころ、良く腹を下しました。
すると、先ず梅酢を飲まされました。
茶碗一杯の梅酢を飲み干すのは苦痛でしたが、子供心に梅酢を飲めば胃腸に巣食った細菌が無くなってしまうと確信していました。
そして、林檎を擂ってもらって、ジュースにして飲みます。
リンゴジュースは弱った胃腸を覚醒させてくれました。
梅酢とリンゴジュースのセットは、魔法の胃腸薬でした。
 
私は昨年胃を切りました。
術後、六君子湯という漢方薬を飲んでいます。
お医者さんが胃腸の活動を促すから・・・・、決められましたから。
でも、漢方薬より林檎の方が遥かに薬効があります。
便通が良くなりますし、快調・快腸です。
神様、素晴らしい果実を感謝します・・・。
西洋林檎が日本に来たのは明治になってからだと聞きます。
林檎が食べられる、様々な種類の林檎を食べ較べられる・・・・、
それだけで現代に生まれて良かった・・・、と思います。
 
それなのに、リンゴは何で”禁断の果実”なんでしょうか?不可解です。
イブが悪魔の誘いに従って、林檎を食べてしまったので・・・・、人間は善悪に苦しむことになりました。
悪魔の誘惑は毎日のようにありますが・・・・・・、
万引きをする、他人の悪口を言う、嘘をつく、麻薬を吸う、ねたみを持つ・・・・・・、
懺悔し尽くせない程の誘惑がありますが・・・・、
人は悪魔の誘いに負ける事は滅多にありません。
 
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   小布施の林檎畑。赤いのは信濃ゴールド(?)、黄色いのは王林(?)。
   種の多いのも林檎の特長で、楽しみです。
   向こうのお寺は岩松院で庫裏には剥いた林檎をサービスしてくれます。
   林檎を食べながら小布施の街中を歩くのは最高です。
   林檎喰い 羅漢を拝す 岩松院 (子規のパクリです)
 
悪魔の誘いは”林檎を食べたい”と思う程強いものなんでしょう。
でも、比喩としては適当とは言えません。
それに、女性のイブの方が悪魔の誘いに弱かった・・・・、
思うのは女性蔑視のように思います。
 
何で、林檎が旧約聖書(創世記)で悪役になっているのか・・・・・?
不思議に思いました。
そこで、林檎を割ってみました。
縦に刃を入れると、林檎の断面は綺麗なハートになりました。
横に刃を入れると、鮮やかな五芒星(星印)が現われました。
どうも林檎の姿は呪術を思わせるものがあります。
呪術に身を任せるな・・・・、そんな意味なのでしょうか?
 
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     林檎を縦割りすればハート形になります
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   林檎を横に切れば、ハッキリとした五芒星が現われます。
 
宗教は何れも香りを大切にします。
ストレスを取り除き、脳を覚醒させ、心を鎮静させるには・・・・、香りが大切です。
お線香も献花や香木である樒(きしみ)も”香り効果”があります。
玄関にお線香や樒を置く事は憚れますから・・・・、林檎が最高です。
帰宅して玄関の扉を開ければ、林檎の香りが包んでくれます。
外出時の緊張がほぐれ疲労がとれる思いがします。
私の自律神経が快調に動き出します。
 
 
 
【追記】これから能登に旅に出ます。2泊3日、大学時代の仲間17人とのグループ旅行です。
 
 
 
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時雨降る「下時国家・能登安徳天皇社」

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11月22日、夜8時能登旅行から帰宅しました。
家内から訊かれます。
「今晩は如何しますか?」
「夕食は、林檎一つを戴くよ、胃が怒っているようだから・・・・」
私の前には林檎が、家内は冷蔵庫の中から、残り物をみつくろって雑炊です。
 
能登旅行の思い出が話されます。
 
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  能登路の旅は恋路浜から始まりました。殆ど時雨れていましたが時折雲間が破れて
  陽が差し込みました。
 
「三日間とも時雨が降りやまなかったけど、冬支度を急ぐ今時が最高だったね!
天気予報では明日から快晴のようだが・・・・、錦秋の能登より・・・・・・
時雨の方が旅情も深かった。」
「時雨に加えて強い季節風が吹き、雷鳴がとどろいて・・・・・・、
突然に真っ暗になって霰が叩きつけられて、呆然としていると・・・・、
俄に雲間が切れて虹が現われる。
快晴ではこんな劇的な天気の演出は見られませんよ。」
 
「それにしても、こうして旅行を楽しめるのは・・・・、あと何年あるでしょうか?
体を大切にして・・・・・、出来るだけ友人らとの旅行を続けましょうね。」
自分の体を大切にすることが、連れ合いを愛うことに気づきます。
 
このブログでは今日から数日間、奥能登旅行を紀行させて戴きます。
 
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    見附島は空海の聖跡でした。島の岩は珪藻土、七輪になります。
     見附島の樹木はさながら浜焼きの魚・貝のようです。
 
飛行機の小さな窓には雨が流されてゆきます。
能登空港に着いたのは午前十時でした。
恋路ヶ浜で昼食し、見附島を巡ってから能登半島を横断して西能登に向かいます。
 
岩国山の南裾、町野川を見下ろす位置に下時国家(母屋/重要文化財)があります。
何故、日本最大級の民家が奥能登にあるのか・・・・、ちょっと不思議です。
私達は時雨降る中、傘をさして下時国家の土間に入りました。
受付のお嬢さんは突然の観光客の集団に驚きながらも、嬉しそうです。
 
大きな囲炉裏に火を点けました。
濛々と煙が上がって、高く組まれた梁を燻して行きます。
私達が狸でないかチェックしているのかも知れない・・・・、楽しくなって来ました。
 
でも、煙に目鼻が傷んだのは短い間で、
囲炉裏の輻射熱が私達の冷え切った体を温めてくれました。
囲炉裏に火をひれるのは、時雨の中を訪れてくれたお客さんの”おもてなし”なんでしょう。
私達は佐野助左衛門の「鉢の木」を思い出しました。
 
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   下時国家の母屋、左の白壁が蔵でお道具・衣装などの展示場になっています。
 
 
 
高倉天皇の父は後白河天皇、母が平時忠の妹である滋子(後の建春門院)でした。平清盛は娘の徳子(後の建礼門院)を高倉天皇に嫁がせます。
治承2年(1178年)、二人の間に誕生したのが安徳天皇です。
治承4年(1180年)わずか二歳で天皇に即位しましたが、
政治の実権は外祖父である清盛が握っていました。
 
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  平家の家紋「揚羽蝶」を錦糸で刺繍された打掛。これを着た人の年齢で盛り上がりました。
   平家の”雅”を想いました。陣羽織も数多く展示されていました。

治承5年(1181年)清盛は亡くなります。
栄華を極めた平家は衰亡の一途をたどります。
安徳天皇は平家一門とともに、一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦と敗走します。
文治元年(1185)3月、源義経率いる源氏の軍勢に破れ、
安徳天皇はお歳八歳で二位の尼(平時子)に抱かれます。
「浪の下にも都の候ぞ・・・・・」二位の尼と共に水底に沈む場面は、
平家物語のハイライトです。
 
壇ノ浦で平家一門が滅亡した後、
平大納言時忠は能登に配流され、生涯を終えました。

時忠の子は平時国でした。
以来当家は平の姓を時国に改めます。
時国家は町野川の河口から1キロの上流に位置しています。
上流の上時国家、下流の下時国家に分かれます。
戦国の世を生き永らえるには二分する事が策だったのでした。
真田家が幸村、信幸の二家に分かれ、幸村の家は切れてしまいます。
時国家はニ家ともに現在まで存続しています。
 
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   下時国家の庭を見下ろす位置に建てられたお社。
 
安徳天皇の御遺体は赤間関の阿弥陀寺境内に埋葬されました。
阿弥陀寺には御影堂(安徳天皇社)が建てられました。
阿弥陀寺は明治の廃仏毀釈により赤間宮と改称し、官幣中社となります。
昭和60年、源平八百年を期に赤間神宮から下時国家に御分霊が親授され、
時国家の庭に「能登安徳天皇社」が建立されました。
今も24代当主が奉持されています。
大切に安徳天皇の霊をお守りする姿は尊いし、気持ちよいものです。
 
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   右端が説明のお嬢さん。囲炉裏を囲んで聞き入っているのが私の友人です。
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   囲炉裏に吊るされた自在鉤の意匠。上は「月と兎」月の精である兎は子孫繁栄や
    豊穣をもたらす。下が「瑞雲」吉兆として慶ばれました。
 
現在の下時国家母屋は、寛文10年(1670)、時国家12代藤左衛門時保の時に分家して、加賀藩領のこの地に移ったものです。
時国時保は加賀藩の山役や塩吟味役を勤めました。
北前船の寄港地として時国家は栄たのでした。
 
桁行13間、梁行八間の大きな屋敷建物で、
入母屋造りで、茅葺の大きな屋根が圧倒します。
勾配はやや緩く、4方に瓦葺の庇を巡らしています。
間取りは大きく、庭に面して奥座敷・中座敷・下座敷と並んでいます。
土間は大変に広く母屋の間口の約半分を占め、3本の独立柱が支えています。
3階建て相当の建物で、見上げれば巨大な梁組が目を引きます。
天井裏は隠しの倉庫になっていて、飢饉に供えて米を備蓄していたそうです。
でも、どうやって天井裏に上ったのか未だに不明だそうです。
 
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    主屋の半分は土間になっています。
     北前船がやって来ると、ここで塩、米等の物産を商ったのでしょう。
 
沢山の下人が此処で食事をしました。
壁には棚があって、学食のように食べ終わると食器を棚に戻していたそうです。
大農家であり、同時に能登の物産(塩や塗り物)を商っていた商家の時国家の生活を偲ばせます。
 
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梁を見上げる。3階建て相当の屋根裏があります。この梁の間に板を張って蔵にしていたのでしょう。
 
 
 
下時国家の隅々までご案内して戴きました。
何時しか時雨が上がって、庭が明るくなって、縁には光が射して来ました。
 
表に出て、大きな茅葺屋根を見上げました。
屋根の上の雲天上には其処だけ穴が開いて、青空が覗いていました。
茅葺屋根には雨垂れが玉になって光り、落ちてきます。
枕の草紙に雨露がの様を誉めた段があります。
『10月の頃です。軒の上に架った蜘蛛の巣に雨が降って、白い玉が貫いたようになります。大変に”あわれにおかしいもの”です』
私達は茅葺屋根の上から下に、水晶玉が輝きながら伝い落ちる様を見詰めました。
 
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   茅葺屋根の軒を見上げる。葦(?)の先に茅が三層に編まれて、積み上げられています。
    時雨が激しく軒に落ちていました。
 
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  下時国家の玄関、私達は左手の口(相模では蜻蛉口と言います)から土間に入りました。
   この写真を写す時だけ陽が射しました。
 
 
白い玉は茅葺の先端から軒下に落ちます。
この落ちる様を道元さんは「露命」と表現されました。
誰もが何れは露命に散る運命です。
同じ露命ですから、哀れなのは避けられません。
でも、清少納言のように”おかしい”ものにしたいもんです。
そして、露命の落ちる先はこんな綺麗な軒先にしたいものです。
 
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   時雨が上がると雨垂れが玉になって茅葺屋根を伝って落ちていました。
 
 
 
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