Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

閻魔コオロギの忠告

$
0
0
高校野球も今日が準決勝、もう大詰めです。私が応援していた佐賀北高校も地元の東海大相模も、1回戦で敗退,鳥取の八頭高校はベスト16まで頑張ってくれました。八頭高校を応援していたのは、
同校のある鳥取県 八頭郡智頭町が八咫のおろちの伝説の地であり、三杉産業という、企業があって30年前、お世話になったからでした。
同社は製材企業から物流に多角化し、都内では「杉の木屋」の名で食品スーパーを展開してしておいでです。外苑西通りに面した同店は近くの明治学院大学図書館『重文』の雰囲気もある人気店です。(白金の紀伊国屋の感覚ですが決して高くはありません)
イメージ 1
台風8号で土石流が発生した南木曾、木曾地方では土石流を「蛇が走った」と表現します。
この夏は初めに南木曾で土石流が発生しました。木曾では「蛇が走った」と評します。次に高山でもッ集中豪雨が発生し「龍が走った」呼ばれます。
イメージ 2
月19日高山市を流れる苔川では護岸が崩壊し、車両が次々に川に呑み込まれました。九州ではこうした災害を「龍が走った」と評します。
そして今回の広島の土石流は「八咫のおろちが走った」そんな感覚です。
私は八咫のおろち伝説は素戔嗚尊が神代川河口部分の治水を実施したそんな話であろう、思っていましたが広島の惨状を見ていると、あっちの沢こっちの沢、何処の沢からも土石流が発生しています。一つ一つの沢がそれぞれ頭で8つもの沢(頭)にが土石流が流れ下って、家々や人命を吞んで行ったと思われます。
イメージ 3
蛇・龍も怖いけど八咫のおろちは一番怖いと思いました。
残念なことに日本中の里は山が近く、沢が入り組んでいて、「八咫のおろち」が走りそうな地勢にあるのです。
此処半世紀、日本人は都会に住みたいとして、田舎を見捨ててきて山を切り捨てて来ました。そのた咎めを山の神が下したのでしょう。
 
前置きが長くなりました。酷暑の上に災害が多発した今夏でしたが、ようやく明けそうな気配です。私は変わりもせずベッドに横たわって夜明けを待ちます。
床下からは閻魔コオロギがコロ・コロ・コロリと啼き続けています。
何故こんなに清んだ啼き声なのに閻魔なんて怖い名が付いたの考えます。
先ず床下から聞こえるので、地獄から聞こえると思ったのでしょう。
可愛い声ですから閻魔さんの声には思えません。
閻魔の声なら「夜からす」でしょう。夜烏はギャーギャーと無気味な声です。カラスと名が付いていますが実際は五位鷺の幼鳥「星五位」の啼き声です。
イメージ 6
五位鷺の幼鳥「星五位」星は幼鳥に白い斑点があるから付けられました。五位鷺の観察は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/1030223.html?m=lc&sv=%B8%DE%B0%CC%BA%ED&sk=0
コオロギが閻魔の歩名が付いているのはその顔が怖気げだからでしょう。頭部が四角く角張っているうえに、複眼が大きくて額に縞模様がついてます。従って、怒っている閻魔様のように見えます。
イメージ 4
 閻魔コオロギ正面から見るとオニヤンマのようで怒った閻魔大王のような顔です。
イメージ 5
閻魔コオロギは啼き声は可愛いのですが顔が怖いので閻魔の名が付いたと思われます。
私達はイソップ物語の「蟻ときりぎりす」に馴染んでいますが、キリギリスの啼き声はお世辞にも綺麗とは言えません
コオロギの方が遥かに綺麗でバイオリンに近いのです。ですから「蟻とコオロギ」の方がしっくり行きます。
床下のコオロギは啼き止みません。耳を傾けているとお婆ちゃんの話が想い出されました。
ある夕方私はお婆ちゃんと縁側に座ってコオロギの啼く声に聞き入っていました。
コオロギが何と言って居るのか解るか私に聞きました。
勿論私は解りません。
「風鈴のような声だね」としか言いようはありませんでした。
お婆ちゃんは話してくれました。
コオロギは夏が終わる頃地獄から這い出してきて教えているんだよ
ちんちろりん ちんちろりん
肩させ 裾させ 寒ささがくるぞ
ちんちろりん ちんちろりん
もうじき冬になるから針仕事を急いで防寒対策をしなさい!」
地獄から這い出して教えてるんだよ・・・・
私は背筋を寒くしました。
「人間は亡者になって地獄に堕ちても、子供の事が心配で「早く冬支度を済ませなさい」教えている・・・、そんなに愛情が深いものかと教えられました。
イソップ物語は勤勉に働く事を教えるのですが、日本の言い伝えは人間の本質に性に根差すものがありました。
 
今回の広島の土石流を見ていると。都市の生活が欲しいからと言って、山を崩して住宅にするのもいい加減にしなさい。山は山で役割を果たしてきているんです」神様のお叱りの様に聞こえます。ヒートアイランド現象の要因はアスファルト舗装ですからも吸水性の良い方法に代えて自然に順応する方向にハンドルを切り替えるべきでしょう。
八頭の三杉産業さんが期待される時代が巡って来たようです。
廃材や間伐材を使ったバイオマス事業。小水力発電事業等、同社に熱い目が注がれる事でしょう。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

隠れキリシタンの実像「1」

$
0
0
 
今日25日は、日本文化研究会の仲間は京都で合宿中で、宗守氏ののご厚意で「官休庵」の見学も予定されています。行けないのは残念ですが、何れまた機会もある事でしょう。その研究会の秋セミナーで私は「隠れキリシタンの実像」と題しててレポートする事にしています。6月に「地蔵信仰の系譜」を発表して以来、ずっと日本のカトリックの諸問題を考えて来ました。ようやくその発表資料も脱稿しましたので、今日から数回に分けてその要点を書かせていただきます。ご関心のない方には冗長なだけでしょうが、お付き合い下さい。
折しも、「軍師官兵衛も親友高山右近の推薦でキリシタンになり、何れ棄教する事になります・・・・」そのあたりにも日本でキリスト教が根付かない要因が潜んでいるんです。
 
筆者が「隠れキリシタン」をテーマにした理由
1、筆者は曹洞宗の寺院で産まれたものの、カソリックの学校に進学(栄光学園)し、二つの宗教のはざまで思い悩みながら育ちました。学校には私の他にも数名寺院の倅がいました。総じて住職はカソリックの規律の正しさに好感をもち子供を預けているようです)
2、近代日本人は漱石も藤村も西洋文明の洗礼を受けながら、東洋の知恵との間で思い悩みました。
実は新しいこの問題に最初にぶつかったのは江戸時代のキリシタンでした。古くて新しい問題なのです。
3、筆者は全国の隠れキリシタンの遺跡を見て歩きました。鄙びた村でマリア観音を見るたびに日本人の「隠れキリシタン好き」に驚いてきました。
4、アジア諸国にキリスト教は布教率が高いのです。ところが西洋文化をいち早く吸収した日本だけが布教率が低いのです。その理由を解き明かしたい(韓国30%/日本1%)
イメージ 6
路傍の慈母観音もマリア観音と呼ぶほどに日本人は隠れキリシタンが好きです。
①キリスト教徒急増期の背景
今日は先ずキリスト教が日本に伝来した時の問題から解き明かします。
ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは 1549年(天文16」でした。
イメージ 5
城の上層をデウスを祀る天守閣にして大棟に十字架をたてました。金閣寺の上層が仏間であることを考えれば戦国封建領主はデウスを仏の位置に置き換えたように見えます。写真は南蛮屏風(神戸市立美術館平凡社日本お美術から転載) 
コメス・デ・トレースガスパル.・ビレラルイス・フロイス等宣教師は来日すると、織田信長や戦国領主に接近しました。戦国領主は貿易の利益や鉄砲・火薬・航海術・医術等に魅せられて率先してキリシタンを保護します。宣教師も本国に布教の成功を過大に報告しようとします。戦国領主は自宅(城郭)の最上層にデウスを祀って天守閣」にいたしましたし、領内の寺院はセミナリオ(教会)に改装させました。領民は領主の命令に従ってキリスト教に改宗しました。仏教やキリスト教を捨てて一神教を信仰する、その時にあるべき心の葛藤や苦悩をを体験しませんでした。
ローマに報告された日本のキリスト教信者数は4万人でしたが、史家は40万人と推測しています。
②キリスト教増加基調の変化
1587年(天正15年」秀吉は博多で「伴天連追放令」を出します。
秀吉がキリスト教に寛大であった理由はキリシタン大名であった高山右近への期待があったからでしょう。九州平定を目前にしてサン・フェリッペ号船長の説明を受けます、スペインが世界帝国を実現した事情は、「まず宣教師を送って布教させ、後に兵をやって占領してきたのだ」。
島津との戦いを通して「十字架の旗の下で戦う戦士に違和感をお覚えていた秀吉は、キリスト教徒の兵隊の姿に一向宗の戦いを思い起こさせたことでしょう。その予感は1639(寛永16)の島原の乱で的中します。
黒田孝高が真っ先に棄教したものの高山右近は自らの信仰を捨てず領土や財産のすべてを失い、世間を驚かせます。
右近は天16年(1588年)に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで15,000石の扶持を受けて暮らしたもののマニラに追放されます。右近の領地は京都の南高槻でしたが、同地に茨木と名があるのはキリストの棘冠に因んだものでありましょう。筆者は茨木カントリーで遊ぶたびごとに右近の事を思い起こしていました。
イメージ 1
官兵衛は親友の高山右近に推薦してもらい洗礼を受けてキリスト教徒になります。NHKのセットでは寺院を改装したセミナリオでした。
イメージ 2
薩摩の島津に攻められた豊後の大伴宗麟(キリシタン領主)は官兵衛に助成を頼みます
イメージ 3
能登七尾の本行寺の高山右近像(ゼウスの塔)も残っています  
③キリシタンの弾圧期
 日本との貿易権を狙うイギリスやオランダの告げ口や、神仏勢力の暗躍もあって徳川秀忠は1632年禁教令を出します。
利害関係があって回収したキリスト教徒でしたから、環境が逆転すれば棄教する事も容易でした。
④キリシタン殉教期
その後明治維新になるまで禁教令は持続し、何度も殉教者を輩出します。
宣教師はこのころになると、自分も含めて日本お信徒の信仰の堅さを本国に報告します報告によってローマではアジアの片隅で強い信仰があって迫害に抗している事実をロマンを持って聞いたと思われます。それはキリスト教の創世記にローマ「ネロ帝時代に受けた迫害と地下に潜伏した話を思い起こしたと思われます。
隠れキリシタン secret [hidden, clandestine] Christian (in the Tokugawa period)という言葉自体が日本人信者がじぶんを「隠れ」と呼んだものでもなく、宣教師等外の人の呼び名なのでした。
イメージ 4
大磯にある澤田美紀記念館に保存されている隠れキリシタン遺跡、流石に澤田さんのコレクションは本物です。
 
今回はキリスト教の伝来時から問題があって、キリスト教の真髄が日本に伝わらなかった事情を説明しました。次回は伝わったキリスト教自体の問題(聖書の翻訳など)を取り上げます。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

隠れキリシタンの実像2

$
0
0
昨日は1549年(天文16)フランシスコザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教が日本に伝来しその後半世紀の間に40万にも及ぶ信者を拡大した経緯を説明しました。この伝来時の課題は次の点に要約されました。
1、先ず戦国大名がキリスト教に改宗しました。それは貿易や新しい知識技術(航海術・火薬・医術)に関心があるからであり、一神教に帰依したわけではありませんでした。一本民衆は殿様の命令でキリスト教に改宗したのであり、命令次第ではキリスト教を棄教するのも簡単でした。
 
優れた政治家であった秀吉もキリスト教には関心があったものの、特段禁教する素振りは見せませんでした。しかし、キリスト教を理解していなくとも次の様なの危険性は見抜いていたと思われます。
1、「神の前では「総ての人間は平等である」と説く教えは一向一揆を支えた教義に通じる。
2、実際に戦場では足軽がロザリオを首から吊るして果敢に戦っていましたし、武士は、兜に十字架を載せて戦っていました。その果敢な戦いぶりに違和感を覚えてたと思われます。
3、加えて難破したサン・フェリッペ号船長か、「スペイン帝国の世界戦略は先ずキリスト教を伝播させ、次いで兵隊を送って侵略する」。と聞かされた。。
秀吉は九州平定の目途が立った (1613年(慶弔14)「キリスト教禁教令」を出します。翌1614年にはキリシタン大名高山右近内藤和安マニラに追放します。1597年(慶長1年)、京都奉行石田三成は京都周辺の宣教師を捕縛して鼻や耳を削ぎ、長崎に送ります。長崎の西坂の丘で26人の宣教師・信者が磔の刑に殉教します。これがこの後300年弱に及ぶキリシタン弾圧・殉教の始まりでした。
敬虔な彫刻家の船越保武氏は26聖人像をその地に祀られます。
イメージ 1
長崎西坂の丘に祀られた26聖人像、船越保武氏の作です。
イメージ 6
大殉教図この図はローマのジェズ協会が保有しているもので、宣教師が本国に日本信者や宣教師の信仰の強さを報告したものでしょう。
秀吉の後を継いだ家康も対キリシタン政策では変わりませんでした。
貿易などの実利は手放さないもののキリスト教への警戒心はもち続けていたと思われます。ところが日本との貿易権を狙うイギリスやオランダの中傷(三浦按針)や、神仏勢力の暗躍もあって徳川秀忠は1632年禁教令を出します。そして、先ず江戸近在のキリシタン、宣教師を捕縛します、キリシタン発見には密告や踏絵を活用しました。江戸市中のキリシタン宣教師は鎌倉や茨城や水上など江戸近郊に潜伏していました。日本各地から、捕縛されたキリシタンはれ )小伝馬町の牢に入れられていmさしたが、キリシタン51人が市中引き回しの上に三田札の辻の刑場に連れて来られました。大衆のの目の前で火炙り礫系に処されたのでした。1623年(元和9年
イメージ 7
踏絵はキリシタンを判別するためにキリシタンのたいせつな遺物を踏ませたもの。狡猾な手法として欧米人から嫌悪されて来ています。
 
その中には鎌倉の小袋谷に潜伏していた。鎌倉伝道所責任者ヒラリオ孫左衛門夫妻、巡回中であった、のフランシスコ・ガルベス神父(フランシスコ会)それに看彷ジョアン長左衛門の姿もありました。何れも懸賞金目当てに密告されたものでした。鎌倉の雪ノ下教会にはその案内が展示されて、毎年厳かにミサが営まれています。、処刑場に近い高輪教会ではミサが執り行われますし住友不動産三田ツインビル西館(ラ・トゥール三田)の公共緑地には「元和のキリシタン殉教碑」が建てられています。
イメージ 10
教師は本国に殉教報告を克明にしています。左は逆さ釣りで殉教したマヌカル・ボルゲス、右は礫刑で殉教したパウロ・三木。京都外語大図書館蔵この他に雲仙地獄攻責め火炙りなど過酷を極めました。
イメージ 2
イメージ 3
雪ノ下教会のヒラリオ孫左衛門夫妻は稲村ケ崎の浜辺で捕縛されました。雪ノ下教会案内図
鎌倉伝教所は小袋谷にあったようです。小袋村の住人はキリシタン親族として厳しい監視の目が注がれました光照寺は住人の面倒を見ながら「仏式によって先祖を供養していることを寺社奉行に届け、親族の出生・死亡・結婚届等も管理し、届けました。同寺の山門の梁にかかるクルス門はその記憶でありましょう。
イメージ 4
鎌倉材木座にある七所神社の処刑されるキリシタンを思わせる石像。
イメージ 5
戸塚富岡八幡宮裏の地蔵尊
イメージ 8
光照寺山門のクルス紋同寺は隠れキリシタン親族の面倒を見続けて来ました。。
更に、元和の殉教の後10年足らずで、島原で農民一揆が勃発します(1626(寛永3)。たかが農民の一揆とたかを括っていたのでしたが、天草四朗時貞に導かれた一揆軍は思いのほか強く、幕府の鎮圧軍は混乱します。改めて幕府は信仰を核にした民衆の結束力を思い知らされたものでした。幕府は長崎を中心に組織的なキリシタンの摘発を進めます。(浦上崩れ/組織地域の摘発を崩れと表現します)
生江戸時代を通して禁教令は続きました。
1862年1月(文久元年12月)、開港して間もない横浜居留地で、一風変わった建物の献堂式がおこなわれた。瓦葺き屋根の上に十字架を載せたその建物の正面には、大きく「天主堂」の文字が掲げられていた。これが横浜天主堂、開港後の日本にはじめて誕生したキリスト教会堂でした。。続いて長崎でも大浦上天主堂が建てられます。(1685(慶應1)
しかしが明治政府は幕府の禁教令を続けます。1686年(慶応2)井上馨は長崎に着任した「五榜の掲示」でキリスト教の禁止が確認します。問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことを確認、「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案をした。政府では517日(425日)に大阪で御前会議を開いてこれを決定した(浦上4番崩れ)。隈公閑話』
諸外国は頑迷な新政府を激しく非難します。欧米へ赴いた遣欧使節団一行がキリシタン弾圧が不平等条約改正の障害となっていると報告し、1873年「明治6年)キリシタン禁制は廃止されました。こうして300年に近い禁教令は廃止されたのでした。
以降、キリスト教各派は競って日本での布教活動に勤しみます。西洋文化はは雪崩の如く日本に入って来ます。各地に教会や学校が建てられました。す。
「隠れキリシタン」ももう隠れる必要は無くなりました、キリスト教の学校の門戸は開かれ、教会のの扉は常時開かれました。ところがこの時点でも「隠れキリシタンは」隠れてることを選択しました。それは300年の習慣が隠れさせたのか、もっと別の問題があるのか、それが次の問題です。
その問題を解く事がキリスト教が日本で普及しない本当の理由と思われます。
イメージ 9
現山手教会のマリア像『フランスから寄贈)横浜天主堂が同教会の前身です。枝垂れ桜の樹下で夢のように綺麗です。「雪のサンタマリア/キリシタン禁制下に移行する頃のマリア絵」の童話を思わせます。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

隠れキリシタンの実像③

$
0
0
昨日までは日本にキリスト教が伝来し[禁教]とされとなり、弾圧、沢山の殉教者が出た経緯を説明しました。そうなると、宣教師もキリスト教信者も表に出れば処刑される現実に遭遇します。
ローマ時代と同じく地下に潜伏せざるを得ません。250年余りの潜伏の時間が経過しました。
この間に信仰されたキリスト教は変質を強いられ明治維新を迎えると、結論的には「ローマカソリックの教えとは異質なものになっていましたので、明治維新後、自由になっても教会や神父の招きに応じませんでした」。
今日は潜伏したキリシタンの信仰がどのようなモノであったのか報告いたします。
イメージ 2
マリアの下右がザビエル、左がイグナチウス日本人が描いたマリア15玄儀図1622年ころ京都図書館蔵」、日本人の絵画技術が西洋波になった事が解ります。「キリシタンの文化」朝日新聞社より転載
1、ロザリアが教える事
宣教師ルイス・フロイス「日本史の著者」は日本での布教に実績がありましたが、日本人の特長を次のように指摘して、本国から布教用具の支援を求めています。その指摘は、日本人はキリスト教を理解して改宗したのではなく。キリスト教が旧来仏教神道のも霊験があり、呪術性が濃いと評価していました。キリスト教が一神教で合理性がある、から受容されたとは言い切れませんでした。
1、日本人はロザリアを異常に大切にする。
 数珠を、日本人は大切に致します、数珠に代わるものとしてロザリアを求めたのでした。(数珠はお経の回数を確認する道具であり、呪術的な霊験あると思われた)。キリスト教に改宗すると先ずお守りとしてロザリアを求めました。高山右近は京都から挽物士を迎え(木工用のろくろくろを使う大工)ロザリアを作らせました。
2、日本人は「お札」(護符)を欲しがる 紙に十字架を書いたりお札をお守りとして尊びました。
 
 
2、日本語聖書の事
宣教師は聖書を持参し、ミサではラテン語で聖書を読んで、伝教師が平易に日本語で説明していました。ザビエルは日本入国前に日本語による聖書を用意し、説法を容易にする為「29か条の教理」を用意していましたし、印刷機を京都に持ち込んで、聖書等の印刷をしたのでした。(残念なことにこの時の聖書は残っていません。ただ襖の下張に使われた聖書が発見されて、日本語の聖書があったことが証明されています。)
イメージ 3
南蛮屏風図天守の図。左が宣教師右端に日本人伝教師(水/洗礼用を運んでいます)印刷された冊子の聖書)を二人は読んでいます。
一般信者が日本語の聖書に接する事は稀であったと思われます。(一般的には明治になってヘボンが聖書を和訳して出版したのが最初の日本語の聖書と言われています)、江戸時代を通して聖書は口伝によって伝えられてきました。
慶応1年(1865)「天地始之事」写本が発見されました。隠れキリシタンが口伝してきた旧約聖書(天地創造)を筆録したものです。
イメージ 5
宣教師は聖書の和訳を始め教理を解り易く用意していましたが・・・。
天地創造の要点は。天主(デウス)は土をこねてご自身に似せて人間の形を作られた。土人形に息を吹きかけ「命を与えて」人間を作られて、次いで日月火、風、塩を作られ生物を作られた・・・」天主を大日と言い。その特長を100相と表現するなど、仏陀を意識した表現でありました。
こうした教えが当時の日本人にも現代の日本人にも馴染み難いものがあったと思われます。
ザビエルの教理書「ドチリナキリシタン」は人間は死後(最後の審判を経て)に、天国で再生する為には(信・望・愛)が重要であると説きました。
は先ずデウスをじ、天国での再生をみ、隣人の実践に努めなくてはならないと教えました。
イエズス会宣教師は日本の宗教的な情操が呪術生を重んじて居る事をわきまえてそれに適応するようにして、キリスト教を布教しようと致しましたが、真髄を、一般信者が理解していたとは思えませんでした。
 
一般的な信者の姿を良く表現している童話があります。「雪のサンタ・マリア/安中栄子著」です。
イメージ 1
著者の安中さんは長崎の26聖人記念館で一枚のの前で目が釘付けになります。表装された掛け軸には「雪のサンタマリア」と表題がついていました。
 
イメージ 9
この絵を調べると出所は長崎県の外海の農家の納戸から竹筒の中に納まっていただそうです。
著者はセミナリオ(中等学校)の絵画教師ニコラオの指導で日本人画学生孝輔の作と設定します。
孝輔はフレスコ画も学びますが日本の画法も習熟していました。先輩ジョアンのマリア像を手本にして待ちあ像を描きます。何時しかマリア像を描くと自分の母親の姿に似て来るのでした。孝輔には美しく優しい妹「八重」がいます。八重には幕府の密偵が留吉が言い寄って来ています。幕府は封建領主有馬晴信とその家族を礫刑に処し、キリシタン弾圧を激しくします。危機が迫った孝輔はジョアンの出国先マカオに向けて出航します、
出国に際し前々から八重から頼まれていたマリア像の絵を遺します。それがこの絵だというのです。日本人はフレスコ画を学びながらも伝統の技とも合わせて素晴らしいマリア像を描いていたのでした。それは髪の毛は墨絵のようで凛とした顔立ちの輪郭は大和絵の技法であり、マリアの崇高さは家族愛と強い信仰心の現われでした。私は「雪のサンタマリア」の表題はマニラで雪を降らせたマリア様の奇跡に依るものと思います。八重は育児所と呼ばれる貧民の託児所で働いていました。マニラの貧民窟ではこうした奇跡の話をよく聞きます。
イメージ 4
イタリア人司祭ジョパン二が密航した際新井白石が尋問した「西洋気紀聞」その折ジョパン二が所有していたマリア像
イメージ 6
納戸神様と呼ばれる潜伏キリシタンの床の間に祀られたマリア様浮世絵師がマリア様を描いたように見えます。
イメージ 7
結婚の際には先ず納戸神様に報告いたします。
 
 
長崎県の平戸から五島にかけては、今も隠れキリシタンの集落が残されています。彼等は長崎の教会や神父の誘いに対して見向きません。               代わりに江戸時代通してきた潜伏キリシタンの信仰守り続けています。
興味深いのは葬儀です。家族に死者が出ると、
1、村の当番役に葬儀執行役(神父役)を依頼します、そのほかに補佐役、会計役を決めて貰います。信心講という組織です。
2、神父役は故人に死後洗礼を施します。これは仏式葬儀と同じように生前信仰は無くても死んだら戒名を貰うようなものです。
3、先ず仏式で葬儀をあげます。家族は別室で経消しの祈祷をします。
イメージ 8
経消しの壺呪術は呪術で打ち消すそんな感覚でしょう。
4、その上で神父役の元に集まってミサ(葬儀」を執り行います。
ミサを行うのは先祖がミサによって天国に行ったので、故人も天国に送りたいと思うからです。うした考えはキリシタンとして捕縛された際の抗辯に窺がえました。
①自分は邪教の徒ではありません。、                            家のしきたりでマリアという仏を祀って来ました。                       マリア様を祀れば悪事災難を防ぎ無病息災にて、作物も良く出来ます。
是非とも来世は親子兄弟宜しき所に生まれ、安楽のなり泰のです。その為に私は内密にしてマリア様という観音様を拝んできたのでした。
キリスト教は呪術を否定するモノですが。潜伏キリシタンは呪術性が顕著であります。
神学者は江戸時時代の弾圧が信仰を歪めたものだと指摘非難しますが、昨今の民族学者は呪術性が濃くなった中にこそ、日本民俗のの宗教性が顕著だと言います。
私には、神仏信仰の天照大神や大日如来の位置にゼウスが入れ替わり、念珠がロザリオに代わり、観音様がマリア様に入れ替わっただけで、大きな変化は無いように思えます。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 

お祭りの夜

$
0
0
NHKラジオ「ラジオ深夜便」は明方3時になると明けがた時になると日本の歌になります。今朝は平尾正晃でした。
「お祭りの夜」が流れます。小柳留美子さんの澄んだ声が響きます。私はデビュー当初のるみ子さんのえくぼ顔と絣姿を想い出しました。
イメージ 1
「瀬戸の花嫁、私の城下町、更には「祭りの夜」と宝塚を出て清純イメージで人気を博したるみ子さんでした
次いで、何処のお祭りだったのか推測します。昨晩も郡上八幡出では盆踊りで踊り明かした事でしょう。郡上八幡も似合いそうです。
 
青年宣教師フロイスは真っ直ぐに京都に上ります。総じて日本人に好意的なフロイドでしたが、日本人の純潔感については嘆き驚い報告します。。当時のヨーロッパは一夫一婦制であり姦淫は厳格に戒められていましたから、複数の男性と交わる女性や複数の女性を娶る男性に驚いたのでしょう。「どうして礼儀正しく信心深い日本じんなのに、少女が純潔を重んじないのか?理解が出来ないとしています。
イメージ 2
フロイスの本国への報告書は「日本史と呼ばれ、当時の日本を伝える一級の資料になっています。(ウィキペディアから転載)
フロイスは信長の信任を得て京都での布教活動をサポートしてもらいます。
天主堂(教会」にとどまらずカレジオ(学校)やセミナリオ(中等教育施設を建て、聖歌隊を組織し降誕祭や復活祭を盛り立てましたし、盛んに劇を催して聖書を理解させようとします。。そんな姿は現代のキリスト教の布教活動に先行するものでした。今もキリスト教の教育活動は活発で総じて純潔を始め倫理教育に熱心であります。
イメージ 3
男子はキリストを女子はマリア様を目指して、キリスト教の教育は純潔を大切に教えます。純潔の象徴は鉄砲百合やマーガレット、学校の徽章等にデザインされています。 
 
屹度フロイスはお祭りの夜に、少女が青年に手を繋がれて暗闇に消える情景に驚嘆したのでしょう・・・・・・。
るみ子さんは男運が悪かった、何故男運が悪かったのか、可愛い顔にデビュー当初の清純イメージと大人のボディーのアンバランス、足が短ければオッパイが小さければ屹度、歌姫として一生をおくれたことでしょう。私は夜がしらじら明けるころ、ベッドの上に横になって、フロイスとるみ子さんに思いが交錯してしまいます。
でも、フロイスの驚きは17世紀初頭の日本ではなく21世紀の日本にも当てはまるようです。今はお祭りの夜を過ごすような鎮守の森は無くなって、盆踊りもイマイチ盛り上がりませんが、純潔を軽視する風潮は江戸時代変わりません。70年代80年代まではにっぽんじんは「エコノミックアニマル」と揶揄され、世界中で軽視されましたが、今は従軍慰安婦問題」「日本農協の買春ツアー問題」がアジアで糾弾され一方で「日本若者のセックスレス」が問題のようです。フロイスが現代を見たら「やっぱり日本人は純潔感が不足している」と嘆くか、「日本人よもっと頑張って子孫を明日にの為に増やそう!」激励するか、解りかねます。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

桃尻は罪なものです

$
0
0
急に涼しくなってきました、加えて5時を過ぎても夜が明けません。楽しんできた床下で啼いていたコオロギ君も声が微かになってしまいました。ラジオでは夜明け時間を案内しています、福岡は5時50分、那覇は6時10分だそうで、横浜より1時間も遅いんだそうです。夜明けが早いのは得をするような気分になります。
私の住む町内(戸塚区上倉田)では毎年春秋に一斉清掃をします。道路脇雑草を見ていると、ソロソロ今年もその時期が来たようです。
 
清掃で毎回難儀な場所があります。日立の工場脇向かい自動車学校脇の道路の草です。猫じゃらしや蚊帳釣り草が繁茂しているんです。これを清掃するのが一番大変です。以前道路局に難儀だから雑草地も舗装してくれるよう依頼したのでしたが「駐車車両が増えるだけだ」と言われて却下されてしまいました。その道路脇に桃の木とネズミモチが植わっています。誰が植えたのか、道路局ではなく、自動車学校であろうと推測しています。
元々は日立も自動車学校も「倉田耕地」という美田でした。日立製作所が工場を拡張したのがきっかけになり、田圃の区画整理が実施されました。その時の水路や畦道が青道、赤道が端に押しやられ、異常に道路の幅が広くなったのでしたが、舗装されずに雑草が繁茂していたのです。
 
イメージ 1
左が日立戸塚工場、その拡張で手前の田圃が区画整理され日立の工場が出来自動車学校が出来ました。田圃に遭った水路や畦道は東南に寄せられた結果道路が異常に広くなってしまいました。広い道路の端は土で雑草地になっていました。その雑草対策として自動車学校が道路用地上に桃と鼠モチの木を植えたのでした。写真は(筆者作成倉田の歴史から転載)
自動車学校は、田圃を耕していた農家が土地を手放すことを避けて、土地を組合に預けて自動車学校にしたものです。農家の感覚で経営していますので労働争議が頻発しています。その度ごとに私は労使双方から説明を受けます。自動車学校は運転教習所の周囲の雑草地に桃も鼠モチを植えました。
桃の木は実桃ですから花は見栄えがしません。でもしっかり実が成ります。野鳥が命を繋ぐ実のなる木ですが、誰も取らないので、桃は地面に落下して腐ってしまいます。腐り出すと蠅や虫(蚊)が湧いて困りものです。
なんだかんだとお騒がせな雑草地であり桃の木なのです。
この秋の町内一斉清掃の下見を兼ねて自動車学校脇の雑草地に出かけてみました。
イメージ 3
ここが問題の雑草地、右は車道ですから舗装されています。田圃時代の名残の青道は土ですので雑草が生い茂っています。其処に熟した桃の実が落下して腐りますので蚊や蠅が繁殖しています。
もう桃の実は熟しているのですが草叢で腐り始めています。樹には沢山の桃が実っています。誰も桃を取らないのです。
「この桃は所有者不詳です。熟して腐ると迷惑なので採取してください(町内会)とでも看板を吊るしたいとも思ったりします。
桃も人間に取られて食べられたいでしょうに・・・。
イメージ 2
これが熟した桃の実です。祖母の仏壇に供えてみました。良い匂いです。
そう思いながら梢を見上げると、小枝が折れるほどに沢山の桃の実が実っていました。桃を舌から見上げると、桃尻という言葉を想い出して変な気になります。
もう20年も前でしょうか野村証券の調査部長でテレビに良く出ていた、植草一秀氏が警察当局に収監されました。容疑は女学生の桃尻を撮影したという迷惑防止条例違反でした。本人は冤罪を主張しています。既に早稲田大学や野村証券のポストを失い社会的制裁は十二分に受けています。
私は植草氏を擁護するわけではありませんが彼は気の毒だと思っています。
桃尻がを見えそうなミニスカートでシースルーのエスカレーターに乗るのが問題です。桃尻は迷惑なんです。叔父さんは健康なら、ついつい眼が行ってしまいます。
序で言えばエスカレーターの設計者や認可したものが問題です。植草氏のような凡人がレンズを向ける様な建物を作ってはいけません。(この段は次に詳しいですhttp://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-3f8a-2.html
こんなことは古代に久米の仙人が太腿をチラ見して神通力を失い雲から落下した時にも問題でありました。
イメージ 4
熟した桃の実を見上げると「桃尻娘」を髣髴してしまうのは叔父さんの元気な証です。桃尻を放っておけば蚊が増えてデング熱を拡大させます。
桃を見上げながら、あらぬ問題に想いを馳せました。
筆者は車椅子を使っています。車椅子に座ると目線がローアングルになります。
植草氏に教えてあげた息気持ちになります。
「植草さん、車椅子に乗れば手鏡なんか使わなくても良いんですよ!」
こんなことを書くと今後家内や友人のチェックが厳しくなりそうです。
 
明日は「桃尻の48願」を書く事にしましょう。
イメージ 5
仏壇に桃を供えました。背後の仏像は岩手天台寺の聖観音像です。鉈彫り観音像は弘明寺(横浜」小山寺(栃木)から奥州古道に沿って天台寺に広がっています。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

私の四十八願

$
0
0
私が小学校の4年生の夏休み明けでした。京人形の様に美しい少女が転校してきました。先生が黒板に白いチョークで名前を書きました「四十八願幸恵」書きましたが、誰も読めません。少女は蚊のような細い声で「よそなが幸恵です、栃木の佐野から来ました。お友達になって下さい・・・。」話しました。
四十八願と書いて「よしなり」、「よそなり」と読ませる方も居られるようです
先生が「よそながさんです。仲よく遊んで勉強してくださいね・・・・・」言われ、私の前の席に座らせました。以来半年、私は四十八願さんの首筋を見ながらの授業が始まりました。
彼女は何時も少し俯いて寂しげでした。その姿は夕菅(ユウスゲ)を思わせました私は今でも「夕菅/ユウスゲ』の花を見ると四十八願さんを想い出します。
実は五年生になる春に彼女は又転校してしまったのでしたが寂しさを覚えた私は「風の又三郎」ならぬ「霧の夕子」だと思いました。
イメージ 1
これが夕菅です萱草よりは色が薄く、薄幸のイメージです。昨年は浅間山の麓で沢山見たのでしたが・・・。
 
私は転校して空いてしまった四十八願さんの席を寂しく眺めていました。
家に帰ってお婆ちゃんに四十八願さんのことを話しました。
祖母は次のように説明してくれました。
その子は真宗のお家の子なんだよ。日本には親鸞という偉いお坊様がいらして。阿弥陀様の四十八願を教えられた。阿弥陀様が未だ空蔵菩薩だった頃「自分は総ての人が幸せになるまでは修行を続けて、西方浄土には行かないと誓われた」その教えを広めたのが親鸞様で、信者が栃木県の「思い川」の辺りに多く棲んでいられた。だから四十八願さんと言えば親鸞聖人の教えを奉じた人だよ。親鸞聖人は家もお寺も持たなかった。稲田御坊と呼ばれた草庵で人々を導かれた・・・。家の宗祖は道元禅師、真宗の宗祖は親鸞様、どちらも立派なお坊様でお釈迦様への道を右回り左回りで導かれた程の違いしないんだよ・・・。」
 
イメージ 2
稲田御坊御坊の周囲で親鸞聖人の教えに導かれた人が48願と姓を名乗ったのでした。稲田御坊は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893298.html?m=lc&sv=%B0%F0%C5%C4%B8%E6%CB%B7&sk=0
 
稲田御坊は筑波山の北の寒村にあります。日本人の信仰の原点とも呼べる聖地であります。巨大な本願寺に少し反感のある人でも稲田御坊は有難いと拝むものです。
イメージ 3
テレビやCМに露出が目立つAKB48見ているだけで元気になるような気がします。お隣のお嬢様のような近親感が人気の秘密でしょう。
 
テレビや新聞のCМにAKB48を見ない日はありません。日本でも世界でも「可愛い」と共感を呼んでいるのです。エンターテーメン的には韓流の少女時代の方が遥か上を行っているのですが、AKB48は隣の少女であり、コスプレの可愛らしさを売っているのが奏功しているようです。
私が気に食わないのは彼女たちの背後に隠れて銭勘定をしているだろう人々で、私には越後獅子の親方(胴元)が見えのです。コスプレの可愛らしさが消えてしまったら・・・卒業させていますが、「卒業は」嘘で「終業」が正確で、捨てられてしまいます。
エンターテーナーにすればAKB60が想いついた筈です。60人なら2人でも3人でも4人でも5人でも随意に組めます。お座敷が声が懸ったらAKB48の名前で何組でも派遣できます。
AKB48にしてAKB60にしなかったのはエンターテーナーに四十八願の知識があったからでしょう。
叔父さんの能書はこの程度にして、今日もAKB48の桃尻を見て元気になりましょう。
もう10年程前でしたが卑弥呼の墓とも言われる纏向古墳から大量の桃の種が発見されました。当時の解説ではシャーマンの卑弥呼がその若さを保つために桃の実を奉じたので、死んでも桃を供えたのではないか?とされていました。桃尻を見て元気になろうとするのは叔父さんだけでは無かったのです。加えて桃太郎は桃から産まれます。桃は若さと同時に命の象徴だったのです。
イメージ 4
纏向遺跡からは大量の桃の種が出土し、桃がシャーマン卑弥呼の若さや呪力の源と思わせました。
イメージ 5
桃太郎は桃を割ってその種だと思わせます。
私は今日も梅干しを戴きました。
夏バテの原因は体に蓄積した乳酸の所為で乳酸を輩出させるにはクエン酸を摂取するのが有効で、我が家にはクエン酸を含んだ梅干しがストックされているんです。梅干しをしゃぶっていると大きな種が口中に残ります。ついつい割って中身を食べたいと思います。梅の種は「天神様」と呼ばれていて、食べてはいけない祖母から教わりました。桃の種はもっと巨大です桃の種は若さを保つ弁天様かもしれません。これこそ食べてみようかと思います。桃の仲間である杏の種は杏仁豆腐になり、漢方として貴重と言われていますので、桃の種は体に良さそうな気もします。
確かな事は青梅や若い桃の種は避けた方が良い事です。若い果実は有毒の事が多いのです。熟せば無毒になって動物にも人にも食べて欲しいとサインを出しているのです。アボガドの種は大きいので食べたい人も多いでしょうが、若いのは避けた方が無難です。
青い果実は避けた方が良いそれはもう大人の常識です。
橋下さんに「キモイ」と酷評されたのは山本景大阪府議どんな下心があって青い果実にラインしたのか解りませんが。
青いのは美味しくないしその上、種は青酸カリに似た猛毒があるんです、そんなの大人の常識です。
イメージ 6
お婆ちゃんに桃を供えました。
私の四十八願は空蔵菩薩のそれより遥かに現実的で、脳梗塞の後遺症を消して家族と友人と過ごす時間を満喫する事です。それには桃の生命力を摂取する事が肝要ですが、家内は果糖の取り過ぎをチェックしていますので、今夏は桃は眺めるだけにしておきましょう。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 

隠れキリシタンの実像④

$
0
0
今まで3回「隠れキリシタンの実像」と題して、江戸時代地下に潜伏したキリスト教の実像を説明してきました。要点は
1、イエズス会のザビエロがキリスト教を伝え、戦国大名の加護を受け、急速に信者を増やしました。[ 戦国大名は「知的欲求」・「貿易に依る経済的欲求」,「火薬鉄砲等の軍事的欲求に」によってキリスト教に接近しました。
2、しかし、秀吉・家康によって全国の統一が進み世の中が安定するにしたがって、キリスト教と統一者との間に距離が生じ、「神の前に総ての人は平等である」と説くキリスト教に封建社会を根底から覆す危険性を感じた為政者は「禁教令」を発布し、次第にキリスト教弾圧を強めました。
3、以来キリスト教徒は地下に潜伏して250年「信心講」を形成して存続してきました。その内容は本来のキリスト教とは大きく隔たった、呪術性の濃いものになっていました。従来の仏や神の位置にデウスやキリストマリアを置き換えたものになっていたのでした。
イメージ 5
潜伏したキリシタンが信奉したた神は「納戸神様」と呼ばれ、農家の床の間や納戸のの奥に潜められた神様でした。その位置は天照大神観音様が祀られた位置で、代わってマリア様を祀りました。
4、従って明治になり「信教の自由」が保証されても、潜伏したキリスト教徒は表に出て来ませんでした。自分等が伝えてきたキリスト教と違っていると皮膚感覚で拒否したのでした。
 
今日は江戸時代「潜伏してきたキリスト教がどうして本来のキリスト教」とかい離してしまったのかを説明いたします。
勿論第一はキリシタン弾圧が厳しくかつキリスト教徒の摘発が巧妙だったことがあげられます。
次いで重要な事は指導者の不在です。どの宗教も概してカリスマ性を持った指導者がいるものです。ところがキリスト教は250年もの間弾圧が続くと、その間宣教師は不在にならざるを得ませんでした。指導力を発揮する人物も出現しませんでした。
キリスト教を教えるツールの第一は聖書でありますが、フロイスが日本語聖書を印刷したにもかかわらず聖書は新者の手元には行き渡らず、口伝に依る他ありませんでした。
更に神父や牧師が不在だと言う事は、信仰を深める手段を講じ信者を指導する事(一般に秘跡と呼ばれます)が出来なかったことです。具体的には次の活動が出来なかったのでした。
洗礼(入信する儀式仏教の得度に相当。
イメージ 1
島原の乱の旗頭は使う聖杯(キリストの血を受けた器がデザインされています。
堅信/7歳になって本人の意思で進行する事を再確認させる儀式
聖体式/教会で出されるパンと葡萄酒を戴く儀式パンはキリストの体気葡萄酒は血液でキリストの血肉を体に取り込むことでキリストの教えに従うと誓う儀式
イメージ 2
東慶寺の聖餅箱(聖体であるパンを収めた容器。多分ミサで使っていたものを天秀尼(豊臣秀頼の娘)の道具箱であったものと思われます。蓋のイエズス会のマークと伝統的な蔦葡萄の模様が漆を使って良く調和しています
懺悔/人は生きていれば罪を犯すものです、 しかし罪を告白し悔悛する事で許しを得られるとする儀式
塗油/死期が間近と思われる病人に油を塗って聖書の文言を唱えて救済を祈る儀式、死後の世界に旅立つにあたり当人を聖別する意味と推測されます。
⑥ 品級(叙階)聖職者になる儀式俗世と縁を切り妻帯もせず一生を神に仕える事を意味します
婚姻/キリスト教では「結婚しないで済むならその方が望ましい」と考えます。中世ヨーロッパでは、倫理を質す意味で「神前で誓い神の祝福を受ける手順を取る事にして、結婚を認めました。
神父不在は、以上のような儀式を執り行う事が出来ない事を意味していました。これでは日常的に信心を維持してゆくことが困難であると言わざるを得ませんでした。
神父不在でしたから、信心講では身内の中で神父役や庶務役会計役を決めて運営をしていましたが、組織維持は出来ても、信仰を深めて存続させることは出来なかったものと思われます。
イメージ 3
長崎県外海(そとめ)海岸の景色。青い海と教会( 明治以降に新築)隠れキリシタンはこの辺りから五島に潜伏しています。(写真は三沢博昭氏撮影「/長崎の教会から転載」
イメージ 4
青い海と鄙びた漁村と尖塔のある教会とが悲しいキリシタンの歴史をひそめて調和しています。心惹かれる外の風光です。(出典前記)
 
隠れキリシタン」ももう大分書き進めて来ました。そろそろ〆たいと思います。
次回は東南アジアにはカソリック信徒が多いのに(特に韓国)日本はマイナーです。その原因を考えます。
韓国には今次ローマ法王が訪問されましたし、以前から統一教会が存在感を高くしています。日本では、何故キリスト教が勢いがないのか原因を探ります。それで最終回です。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 

防災の日二こそ思う八咫の大蛇の神話

$
0
0
郷9月1日は、関東大震災のおこった日、加えて第二次世界大戦が勃発(ドイツ軍ポーランドに浸入)大韓航空機がロシア軍用機によって撃墜されたのも9月1日でした。無事に暮れれば良いのですが。そう思うと昨晩はテレビでスーパー台風を特集していました。天災が徐々に大きく深刻になるようです。でも、広島の土石流については警告も避難指示も解除され始めて、今週中には避難していた人も自宅に戻れそうな様子です。写真で見れば、日本中何処にでもありそうな山間の谷戸ですから、明日は我が身の想いで画面を見詰めた人が多いのではないでしょうか。私の住む戸塚の上倉田も谷戸が多く加えて近年の無謀な宅地開発です。ハザードマップを広げれば、上倉田には「濃いピンクの斜線で」塗りつぶされた「崖崩れ危険地区」が多く指定されていることが確認できます。川向の戸塚町に比べると危険度が高いんです。
イメージ 1
戸塚区の防災ハザードマップ斜線濃いピンク色が崖崩れ危険地域、上倉田の盛聖徳寺の辺りが我が家で、周囲の広域避難場所は東戸塚小学校であることを示しています。一瞥して柏尾川の東側(三浦台地」に崖崩れ警戒地域が週cひゅうしていて、川の西側(多摩丘陵大地)に崖崩れ危険り域は無い事が解ります。
生家の盛徳寺の裏山も崩されて宅地だ墓地だと転用されてしまいました。寺の裏山には三宝荒神様が祀られていましたから・・・・昔から崖崩れが多かったものと思います。近くの子之八幡神社には「堅牢地神」が祀られています。神社もお寺も崖崩れや土石流の災害忌避を祈願していたのです。
先日車が流された高山も、崖崩れや土石流にで悩まさて来たのでしょう、千光寺には円空さんの荒神さまが祀られていました。大きな臼の正面に四角い顔を刻んだのが荒神様だそうです。大地が臼のように安定していてほしいと思ったからでしょうか?
イメージ 2
円空の荒神様、農家にあった大臼の正面に顔を刻んだようなお姿です。大地の安定感を祈ってこんな姿が荒神様だったのでしょう。
 
先日の読売新聞のコラムに広島の土石流発生地域「八木」には「蛇王池の伝説」があってが昔から地盤が悪く子子孫孫土石流への警告が伝えられてきた。とと書いていました。確認したら翌朝からテレビは同じ内容を何度も報道していました。テレビ局員にはオリジナリティーが乏しいようで活字をフォローしているだけのようです。「いずれも、伝説を無視した無謀な開発が招いた惨事である」主張しているようでした。でも、テレビはオリジナリティーは無くても訴求力は新聞を上回っていました。
イメージ 3
イメージ 4
「八木蛇落地悪ダ谷」とはよくネーミングしたものです。
天から蛇(龍)が降って下りた地盤のの悪い谷間の意味でしょう。
八木とという事は蛇が下りた谷が八本遭った意味でしょうか。
今朝から芸備線も再開通するそうです。二両編成の車両に乗って鳥取に向かえば八頭郡智頭町に出ます。広島のお神楽「八咫の大蛇」の発祥の土地です。
私はズット須佐之男命神話は河口部の洪水を治めた神話と思っていましたが、今次の大惨事で、太古にも天から蛇が下りてあっちこっち8本の谷間に土石流を引き起こした、そんな神話であったのだろう、と思い当りました。
イメージ 5
石見神楽の人気出し物「八咫の大蛇」は谷戸に頻発した土石流を治めた須佐之男命の神話と思われます。現在も広島と石見で演じられます(写真はウィキペディアより転載しました。
 
私が建設省の関係で長岡ニュータウン事業に出向した時の事でした。信濃川の河岸段丘を大規模開発する事業でしたが何と二年間もかけて土砂対策の実証実験をしていました。
信濃川河岸段丘は凝灰岩の古い地層で「腐り礫」という名が付いていました。岩が古くて腐って礫に変じて居る意味です。この古い岩場には沢山蛇が生息していました。昼間ジープで計画地を見舞わっているとマムシに遭遇します。すると技官が道具を取り出して、素早くマムシを捕獲します。捕獲したマムシは電熱器でカラカラに焼いて夜のビールのつまみに出されました。夜ホテルオータニで元気が出過ぎて眠れませんでした。長岡事務所では夜の面倒まで見てくれませんでした。懐かしい想い出です。
この礫状の土は水を含みやすく鉄砲水を引き起こし易いのでした。その為に擁壁の強度や構造を如何にするか、砂防ダムをどのように設計すべきか、その基礎資料とするものでした。「人間は身の程をわきまえて自然に対しては謙虚にすることそれこそ防災の心がけ」だ。と思います。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 

秋刀魚の腸(はらわた)

$
0
0
昨夜は熟睡したし、、今朝は眼覚めも良いし、久々に青空が覗いているし、朝顔も最期の花を咲かせています。鶉もワン君もウサギちゃんも元気です。
イメージ 6
齢14歳を越えた兎ちゃんこの夏も無事に越して食欲活発です。
イメージ 1
今年も新秋刀魚が売り出され始めました。(写真はラ楽天のサイトから転載)
昨晩は秋刀魚を食べました。
丸ごと一匹を真ん中でカットして、頭が私、尻尾を家内が食します。丸ごと一匹食べたいものですが、それでは一食で私のカロリーオーバーしてしまいます。
イメージ 2
この夏はソーメンに秋刀魚の蒲焼きで昼食にしました。
二人して一匹の秋刀魚を食べていると、小学生の頃を思い出します。
夕飯は母と祖母三人で食べる事が多かったのでした。
私の前には頭の方の半分の秋刀魚が皿に乗っていました。
十二分の大根おろしが添えられて。
尻尾の方が骨も少ないし身離れが良いので食べやすそうです。
「尻尾の秋刀魚と交換してほしい」と言えば母はきっぱりと言いました。
男の子は尻尾を食べてはダメ、男は頭を食べなければ・・・」叱るような口調でした。
お婆ちゃんは「頭の方が美味しいんだよ、腸には栄養が詰まっているし、この味が解らなくては男になれないよ!」なんて言居ました。
イメージ 3
昨晩は秋刀魚の頭半分がおかずでした。
それにしても秋刀魚の骨は細くて多いのでした。骨の周囲には脂肪分が多くて美味しい事は解りましたが腸の苦味は好きになれそうもありませんでした。
でも、秋刀魚の骨と格闘しているうちに、魚の食べ上手になりました。
イメージ 4
秋刀魚の腸胃がないので内臓の過半が肝臓と胆嚢です。小骨と脂肪が目立ちます。
博多の料亭で中居さんに
「お客さんは魚の食べ上手ですね!」誉められたものでした。
「此処では秋刀魚は出ないでしょうが小さい頃秋刀魚ばかり食べさせられましたから・・・」答えました。
さんまの腸が美味しいのには訳があります。
秋刀魚はプランクトンしか食べませんので、腸ばかりで胃はありません。胃が発達している魚は貝や小魚を食べますので、毒素や寄生虫が宿ります。
だから鯛や河豚の腸は食べられないのです。秋刀魚の腸(はらわた)は腸や肝臓で、苦みは胆嚢です。だから、食べられるしビタミンなど滋養分が豊富なのです。
今年は秋刀魚も食べたし、最近は定期的に便通もあります。
私の身体がドンドン充実してゆくのが解ります。
秋刀魚君の命を戴いて私の体がしまって行っています。
只管、秋刀魚に感謝するばかりです。
家内の話では新秋刀魚はまだお高いとの事、冷凍の秋刀魚の3倍もするのだとか、冷凍と生とどの程度の違いがあるのか気になります。
少しショッパイ思い出を呼び覚まいながら、さんま一匹を夫婦で戴きました。
秋刀魚君ご馳走様でした。
 
イメージ 5
 
 追記
生秋刀魚と冷凍秋刀魚では、お刺身にしない限り冷凍で生と遜色ないそうです(旨味も栄養分も)
次回は冷凍で済ませましょう。500円もするようでは秋刀魚と思えません
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

野辺送り

$
0
0
ラジオから井上陽水の「少年時代」が頻繁に流れて来ます。
夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれに さまよう
青空に残された 私の心は夏模様
夏まつり 宵かがり
胸のたかなりに あわせて
八月は夢花火 私の心は夏模様
夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれに さまよう
八月は夢花火 私の心は夏模様
「風あざみ、宵 かがり、夢花火、」何の意味だかさっぱり分かりません。
イメージ 5
晩夏の野薊の花風薊は秋風に揺れる薊の花の意味でしょう。
薊は春の花ですから過ぎ行く夏を惜しむ花でもありませんし。「宵の篝火」となれば薪能、で秋でしょう。「夢花火」は夏の思い出でしょう。少年時代は美しいものが好きですからし、過ぎ行く夏を惜しむ心象風景なのでしょう。井上陽水程の大家になれば、歳時記なんて超越した存在で、多くの歌手がカバーしています。
北原白秋がこの歌を聞いたら青筋を立てて怒られることでしょう。季節感が五目のごとく混乱していてると
名曲であるかは別にして「風薊は」既に国民の季節感に根差してしまったようです。少年時代・風薊を聞いていると想い出します。、
私達日本文化研究会の仲間は昭和42年の酷暑の中京都で合宿していました。京都の暑さは並大抵ではありません。私は1年生でAさんは二年生で日吉の代表でした。Aさんの学年は仲良しが多くて酒も恋愛もお遊びも活発でした。Aさんはその少年時代の歌詞のごとく飛ん居られて、何を言われていられるのか意味不明なところがありましたが、誰からも好かれて抜群のリーダーシップを発揮されていました。あの頃の愛語「混沌」を身で呈しているような方でした。
 
そんなAさんがこの夏突然に逝れたのでした。
末以来私の心は「夏模様な」「野辺送り模様」でら、Aさんの訃報に憑りつかれたままです。
クラブ活動は1年間隔でタイプがチェンジするようで、日本文化研究会は学究肌の硬派が目立った2期を筆頭に偶数期は硬派が奇数期は軟派が目立ったようです。
右に左に揺れながらも半世紀も続いているのですから立派なものです。
イメージ 2
化野念仏寺公式サイトから転載しました。http://www.nenbutsuji.jp/
昭和42年Aさんはクラブの日吉代表で、京都合宿のリーダーでした。
その日も、日中は私達を連れて嵯峨野「野々宮神社」から竹林を通って化野の念仏寺に向かっていました。途中には平家物語で有名な祇王寺もありますし。その門前には「横笛・滝口入道」で有名な、滝口寺もあります。恋と墓の細でした。
Aさんらはこの合宿で「もののあわれ」を痛感したのか、三田祭では「中世の心」と題して「無常観の系譜」を発表されました。
三条通りに面した修学旅行生向けの旅館に宿泊しました。食事を終れば懇親会、Aさんは伝統の踊りを披露されました。
踊りはクラブの創始者Nさんが京都育ちだったせいもあってか被露された「愛染かつら」です。多分寝つけずに、鴨川の川原に出て、川風を浴びながら踊って歌って居られた事でしょう。
「愛染かつら」でピンと来なければ「旅の夜風」です。各期踊り手が一人出て総勢6人の男性が踊りました。私の同期代表はМ君でした。
京都の風景と男女を描いた歌詞が私達の心を捉えていたのでした。
女は無口の人が良い、男は雄々しく困難に立ち向かってこそ武士です。
            花もあらしも ふみこえて  往くが男の いきる道
泣いてくれるな ほろほろ鳥よ  月の比叡を 独り行く
やさし彼の君 ただ独り  発(た)たせまつりし 旅の空
可愛い子供は 女の生命(いのち) なぜに淋しい 子守唄
踊り手が乳児をおぶって一人で歩む姿が踊りの白眉で、笑いと拍手が湧きました。
 
昼間歩いた化野は古代からの墓地で私達が歩いた道は「野辺送りの道」でした。念仏寺には千基にも及ぶ無縁仏が並んでいます。盆にはその1基1基に蝋燭の炎が灯されるのです。
宿から東を見れば祇園の方角が東山で、その山腹は鳥辺山です。西を望めば船岡(蓮台野)で右も左も野辺送りの道です。
イメージ 3
野辺送りNHKの「おひさま」から・・・。道端で草も昆虫も悲しんで葬列を見送ります。
野辺送りとは、葬列の意味です。今は霊柩車に乗せて焼き場まで送り、親族が骨を拾いますが。戦前までは土葬が大半でしたから、遺骸は棺桶に納めて担いでお墓まで運びます。概して墓場は山の麓にありましたので。葬列は山道をゆっくりゆっくり上って行きます。道の両脇には秋草が生い茂り花も咲いています。草叢に居たバッタは葬列に驚いて飛び出してきて、棺桶の上に乗っかります。ですから精霊バッタと呼びましたし、トンボが葬列の周りを飛び回ります。精霊蜻蛉と呼びました。人々も虫も人の命のはかなさを悲しんでいるものと思いました。
勿論、蝶も葬列の周囲を飛翔しました。人々は蝶を故人の霊だと思いました。
霊柩車に乗せて焼き場に送る現代のシステムは会葬者に死を考え悲しむ時間を奪ってしまいました。もう15「年も前に「送り人」映画が上映され好評でした。ロケ地は山形県でした。山形の大歌人斉藤茂吉は「赤口」を発表して、母を失った悲しみをが表現されました。日本人の作った一番に感動的な挽歌です。
古代から日本人は野辺送りの葬列に並んで故人を偲んで送る歌を作ったものでした。
 
この夏私はAさんを送りました。先人に倣って私も挽歌を作ろうと思いました。
これから残された人生、私はこの悲しさに何回も何回も耐えなくてはならない事でしょう。そお、思うと憂鬱になります。そこでAさんの挽歌を作って親友のМ君にメールしました。「僕らは長く生きて相互に悲しませないようにしよう」そんなメッセージでした。メッセージは葉書にして同期諸氏に送りました。そうしたらМ君からもに挽歌が送られてきました。
イメージ 1
これが「露草に託した「死ぬまいぞ!」メッセージです。つゆくさのなかに精霊バッタが居ます。
夏の日に共に歩いた野辺道を今は君一人で上りゆくらむ
露草もなべて散るとは知るものの君を送りし寂しさを如何せむ
М君の作られた挽歌は
 先輩の逝きしは悲し目交いに愛染かつら踊る影見ゆ
 自ずから生死はあるもこの夕べ蜩の声虚しく聞こゆ
愛染かつらの踊りをМ君はAさんから伝授され42年の合宿で初踊りしたのでした。もう、遊行寺の桂も色づいてきました。屹度京都の桂も色づき始めて居る事でしょう。
イメージ 4
 これが湘南で最大の桂です。いち早く黄葉します。落ち葉は土で醗酵して上品なお味噌の芳香を発します。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 

ルツボの花が教えてくれる事

$
0
0
昨日は「野辺送り」の話をしました。今日は、野辺道で良く見かける山野草を紹介します。
お墓に通じる細道の道端に群生して咲いています。薄紫色で小花が土筆のような形で咲きます。名前「ルツボ」です。合金を作るときの壺を坩堝と言います、球根がラッキョウのような形ですので、坩堝はルツボの球根からきているかもしれません。
盆だ彼岸だとお墓詣りの季節ですから、人々は野辺道の草刈りをします。背丈の高い草が刈られるとルツボは「これ幸いと」伸び出てきて直ぐに花を咲かせます。まるで初秋のカタクリのような山野草です。
鎌倉の朝比奈にある無縁墓地はルツボが群生して咲くので毎年観に出かけます。ルツボが咲き終えたら彼岸花が咲いて、次に、 栢の実がなります。
イメージ 1
この上品な薄紫の花がルツボです球根植物で、ラッキョウのような球根に栄養を蓄えます。
イメージ 2
場所は朝比奈切り通しを越えて六浦側の共同墓地の入口です。これだけルツボが群生すると韮のような匂いが一帯に漂っています。
イメージ 3
ルツボの背後の巨大な樹は栢木で沢山実がなります
イメージ 7
カタクリの群生、カタクリも手入れの行き届いた墓地に群生する事が多いのです。ルツボと似たところがあります。
 
昨年は「八重の桜」で盛り上がりました。
会津松平の家訓「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」に殉じたようなお話でしたが、私がこの言葉を初めて知ったのは中学2年生の英語の授業でした。当時米国大統領にケネディー氏がが就任され、その就任演説を丸暗記させられました。ケネディー大統領の愛語が上杉鷹山の「為せば成る・・為せずばならぬ・・・・」だと言うんでした。上杉鷹山は歴史の教科書には出て来ませんでしたので、この時初めて知りました。
上杉家は越後から会津、更に米沢に移封されます。その度ごとに藩財政は悪化します。120万石の会津から15万石の米沢に移れば歳出は歳入に見合う様にカットせざるを得ません。今風なら社員を八分の一に首切りする事になったでしょう。でも鷹山は藩士6千人を一人もリストラせず、全員の雇用を継続して藩士には節約を奨め、新田の開発や武家の内職として紬や木工品(お鷹ぽっぽ)を奨励するなどして、藩財政を立て直します。勿論節約は自ら率先して実施しました。
イメージ 4
コシ油の木(朴のような灌木)を使ったお鷹ぽっぽ、鷹山が藩士の内職として奨励した。20年も前までは鷹がデザインされていましたが最近は縁起物のフクロウが目立ちます。筆者がサラリーマン時代は丸善で1000円程度で売られていましたので良く接待麻雀の満願賞に購入しました、中高年齢層には上杉鷹山は人気があったのでした。
現在も企業家に「尊敬する人物は?」聞けば上杉鷹山の名が良く聞かれますでも、鷹山のように自ら痛みを耐えて社員を大切にする人は稀です。
企業家族であったブリジストンでさえ、リストラ致しました。ブリジストンのリストラ社員は3462人でした。1993年3月23日ブリジストン社長室で、勤続40年の、もと管理職 野中将玄三さんは海崎社長に迫りました「私は腹を切るから、社長は方針の転換をしろ」と迫り、自ら割腹して果てた事件がありました。当時私の勤めていた銀行も窮していましたから野崎さんの気持ちは良く解りました。でもそのころから日本の労働行政は企業家の言い分寄りに傾きます。リストラによって社員の首切りはフリーになり、代わってアルバイトの採用市場を拡大しました。アメリカ風に労働市場が開放されたのでした。その愚政を改革と評しました。
 
鷹山は、「飯粮集」を発行します。同本には125種類もの「救荒書」植物が記載されています!救荒植物は冷害などで飢饉の時山野草の中で食べられる植物の事です。
イメージ 5
白屈菜(ハックツサイ)クサノオウも救荒植物として紹介されています。http://www.e-yakusou.com/sou/sou198.htmより転載させていただきました。
「飯粮集」には食べ方まで書かれているのです。
当時天明の大飢饉が発生しする気配がありましたので、貧した人が矢鱈に山野草を食べて体を害しないように配慮したものでした。
 
今時の政治家は事あるごとに「改革・改革と叫びますが一体誰のための改革であり産業奨励なのでしょうか?、鷹山のそれは藩士の雇用を守るための藩政改革であり農民の命を守るための対策でありました。
救荒植物の一つとしてルツボも彼岸花も栢も紹介されています。彼岸花もルツボも球根を洗って長い時間をかけて水に晒して毒抜きをするように説明しています。
現代は飽食の時代救荒植物を食べる場面はは考えられませんが、200年も前までは飢饉が続いて地獄の様相でした。
第二次安倍内閣が進水しました自称は「実行実施内閣」だそうです。「公約ばかりで何にもしないよりは、実行・実施内閣は良いんですが誰のために実行するのか目先の人気取りでなく、将来の国の実益をしっかり見つめて国政改革の舵取りをしてほしいものです。口先だけ「上杉鷹山が師です」、と言いながら民を見ていないのは国士と言えません。
イメージ 6
共同墓地の彼岸花この花の球根も救荒植物として食用になります。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 

酔芙蓉と千の風

$
0
0
二一〇日も過ぎたというのに、西日本の各地が荒れています。 昨夜は集中豪雨事で京都の綾部は洪水とか、親しくさせて戴いた幻一(まぼろしはじめ)さんのお寺が無事で居られるのか心配です。
イメージ 1
綾部の住職幻一さんの木版画豪雨でもこんな風ならいいんですが・・・。
街中では、酔芙蓉の花が目立ち始めました。芙蓉は中国の国花ですから、中国に行けば何処でも良く見られます。大半がピンク色です。中国では楊貴妃を想わせる色でなければ芙蓉とはみなさないのでしょう。
イメージ 2
楊貴妃の美しさは入浴シーンで、ピンクが基本色です。 
イメージ 3
日本では白い芙蓉を好んで栽培しました。露を宿した芙蓉はまさしく仏花です。(瑞泉寺)
日本では白い芙蓉もあれば、午前中は白くても、夕方萎む頃には赤く染まるものもあります。昼間は白で、夕方になると赤く染まる風情を色白美人がお酒に酔ったようだと、見なして酔芙蓉と呼んだのでしょう。
庭先に咲く見事な酔芙蓉を見ていると、その家の主人が想われます。昼間は色白の女性を眺めて、夕方になると、お酌をして貰い「お前も一杯どうだ!]なんて言って強引に飲ませて「私にお酒を飲ませて私をどうする気なの?」なんて言われてたい下心、が見えるようです。
イメージ 4
これが酔芙蓉です。を白と赤と両方の芙蓉を一日の中で楽しもうという欲張りな品種改良で、如何にも日本人がしそうなことです。(円覚寺で)
イメージ 5
酔芙蓉は日中は白く夕方には赤く染まるのでこの名が付きました。
私には酔芙蓉の花を見ていると思い出す歌謡曲があります。石川さゆりさんの「風の盆恋歌」です。
蚊帳の中で一人寝をしながら庭先の芙蓉の花を見ているのでしょう。もう私も若くはありません。芙蓉の花も明日朝には散ってしまう儚さです。
貴方は今夜も来てくれません。
若かった時の私を抱いてくれなかった貴方を恨むばかりです・・・・・。
蚊帳の中から 花を見る
咲いてはかない 酔芙容
若い日の 美しい
私を抱いて ほしかった
しのび逢う恋 風の盆
生きて添えない 二人なら
旅に出ましょう 幻の
遅すぎた 恋だから
命をかけて くつがえす
おわら恋唄 道連れに
イメージ 7
蚊帳美人図(東京国立博物館)http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0041980作者: 歌川国貞
挿入歌として「おわら節」が入ります
さゆりさんの歌は天城越えで突然に艶っぽくなりましたが、「風の盆恋歌」は一段の艶歌で小唄の風情があります。
「今年もおわら風の盆」は九月三日に終了しましたが、雨に泣かされても賑わった事でしょう。http://www.yatsuo.net/kazenobon/参照
富山平野八尾は平野の南西部飛騨山地の入り口に在ります。八尾の名の通り谷間の丘陵地です。冬の季節風が厳しい、仏具の街です。
ですから、風には強い思い入れがあるのでしょう。一般には旧盆も終わって秋風の吹き始めた頃に「盆行事」を行います。210日も無事に済ませて先祖に感謝するものだったのでしょう。
秋風が揃いの浴衣の裾を乱して通って行きます。菅笠の間から踊り手の横顔が覘きます。
イメージ 6
 
              出典風の盆公式ホームページ菅笠の間にのぞく踊り子の横顔が気になりま。もう二年も昔でしたか「千の風になって」がヒットしました。
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
風アメリカ合衆国で話題となった詩『Do not stand at my grave and weep』の日本語訳でした。愛した人はお墓に眠ってわけではありません。愛した人は色々な風になって時にはあなたを慰め、時には励まして吹いているんです・・・・、風が吹いたら私だと思い出してください・・・・そんな歌詞でした。日本人に共通した感覚でしたから素直に受け入れられヒットしたのでしょう。「風の盆」には「千の風」にはないドロドロした民族の想いが込められています。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

困ったもんだ「やぶ蚊」君には!

$
0
0
首都圏はデング熱で大騒ぎです。致死率1%にも満たないのにこの騒ぎではアフリカの人達は呆れている事でしょう「日本人はボケているんじゃないか?」心配するかもしれません。
イメージ 8
今日の話題はやぶ蚊です幻さんの真似をして羅漢さんで遊んでみました。
足を組んで姿勢を正して、重心が丹田に注がれたら息を整えて1.2.3と息を吸います7.8.9と息を吐きます。
でも、遠くからブーンと悪魔が遣って来ます。
近寄るなあっちに行け、決して刺すな念じても悪魔は容赦してくれません。
イメージ 1
今日の写真は我が家に棲む蚊の天敵です。これは女郎蜘蛛
我が家でも今年はやぶ蚊が多く出るので騒いでいます。ワン君はお腹を、兎ちゃんは耳の内側を刺されて困っています。家内の足も無残にボツボツしてきました。昨年までは蟇蛙君が蚊をやっつけてくれていたのに、交通事故で憤死してしまったのでその報いです。娘が池や睡蓮鉢にメダカを放流してくれました。お蔭で少しはやぶ蚊が気にならなくなりました。改めて蟇蛙君のお墓に冥福を祈ります。
イメージ 2
蜻蛉もやぶ蚊の天敵です
イメージ 3
スズメバチも蚊を食べます。我が家にもスズメバチが営巣した事がありましたが
私は1日2回抗凝固薬(プラザサキ)を服薬しています。脳梗塞の予防薬ですから、私にとって今、一番大切な薬です。
やぶ蚊は人の皮膚を破って針を差し込み唾液を注射して血液が凝固しないようにします。その結果、刺された跡が痒くなるし、デング熱もマラリアも伝染するのです。私の飲んでいるプラザサキは蚊から抽出した薬だ・・・とは聞いていません。が健康雑誌の広告に「抗凝固薬は飲んではいけない薬」にあげられているのを見て少し気になっています。
イメージ 6
我が庭の主として君臨していた蝦蟇君、昨年、自動車事故で亡くなってしまいました。その為か今年は蚊がお騒がせです。
イメージ 7
庭の雨蛙君この蛙も蚊を退治してくれていますが
このデング熱騒動で一番心配しているのが営団地下鉄でしょう。
銀座線でも丸ノ内線でもやぶ蚊が随分出ます。一年中出るので厄介な存在です。
線路内に地下水が湧き出るし一年中し暖かいので、、やぶ蚊が繁殖しているんです。
代々木公園駅で繁殖したやぶ蚊は瞬時に都心全域に広がってしまう事でしょう。
私が営団地下鉄の担当をしていたころは営団はグッピー(メダカの仲間)線路の側溝に放ってやぶ蚊退治をさせていました。
今はそんな話は聞きませんから、もうやめたのかも知れません。
 
 
私の大好きな奈良の地場産業に「蚊帳」があります。奈良町の略中央に吉田蚊帳(株)さんがあって、今も盛んに事業をされています。元々奈良は麻の栽培が盛んなうえに漢方も盛んでしたから、麻糸に蚊の忌避剤を染込ませて蚊帳を作る素地があったのでしょう。伝統地場産業であって、世界中に貢献、誇れる事業だと確信しています。奈良を訪れると同社の暖簾を潜って新商品(暖簾やふきんなど)を見るのが楽しみです。
イメージ 4
奈良街で暖簾を守る吉田蚊帳株式会社http://yoshidakaya.co.jp/3_47.html
イメージ 5
            蚊帳のイメージ
 蚊が多いのは困ったもんですが、逆境を克服してこそ産業は育成されるものです。
テレビには代々木公園のやぶ蚊退治に大量の薬剤を散布している光景が映っています。薬剤の大量散布はやぶ蚊もコオロギも鈴虫も殺してしまいます。こんな間違いはもう半世紀前に経験しました。農薬散布によって蛍も見られなくなってしまいました。自然の摂理に従うのが最良と反省した筈でしたが・・・。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

線香花火の綺麗サビ

$
0
0
ボケ防止もあって毎日ブログを書く習慣を守っていますが、夜が開けて来ると寝床で構想を練ります。在庫は相当数あって、その日の暦等を参考にして適当な素材を書きはじめます。明方ラジオでさだまさしの歌「線香花火」が流れていましたので。今日は線香花火で書いてみる事にしました。さだまさしさんの線香花火の歌詞は4番まであります。1番は「流れ星」で恋の祈りに始まります。1番は女性の帯に蛍が止まって、線香花火の弾が落ちてお終いです。恋の最後を象徴しているのでしょう。起承転結の最期は夏の終わりに相応しく段で構成されています。https://www.youtube.com/watch?v=4DDy0m0BQKI
イメージ 1
伝統的な国産の線香花火出典http://worldjc.com/8970/筒井時正玩具花火製造所) 
日本人が創作した線香花火も安い中国産に押されて、壊滅的でありましたが昨年から一部の方の熱意で復活してきました。
イメージ 2
吊船草の園芸種が鳳仙花です。種が弾ける様子は線香花火を思わせます。
イメージ 3
これが釣船草です。種に触れるとパンと割れて種が飛び散りますので息を止めて手を伸ばします。線香花火を手にしたときと同じ緊張感です。
線香花火は江戸時代に日本人が開発したものでしたが、近年は中国産に圧倒されて、略壊滅的でありました。日本人は安いから中国製を手軽に買ったものの、パッパッと光ったと思ったら直ぐにお終い、余りのあっけなさに落胆した人が多かったのではないでしょうか。これではいけない「本当の線香花火の楽しさを伝えたい」情熱が国産の線香花火を復活させたのでした。(筒井時正玩具花火製造所等) 
線香花火にには、さだまさしさんの歌詞にあるような起承転結が無くては、日本人は満足しないのです。
イメージ 4
これはオシロイバナ夕方咲くので「夕化粧」と艶っぽい名もあります。小花が四方に向いて咲くさまが線香花火のようです。
 
今日(9月7日)は雷雨の心配がありますが家内は友人Aさんを偲ぶ会に出かけます。私は錦織佳さんが活躍している全米テニスでも見て過ごすことに致しましょう。
さださんは線香花火に恋をイメージしましたが、私の年齢になると「命」です。
子育てに夢中だったころは実家の庭先で両親(故人)と7人で線香花火に興じました。両親も私達夫婦も一番に幸せな時間でした。
今年は線香花火も出来ませんでした。夕化粧の花に、百日紅の花に風蝶草の花に線香花火を想いました。
来年は孫と一緒に線香花火を楽しみたいものです。
さすれば夜空から両親も眺めてくれることでしょう。
寝床で線香花火を題にして短歌を練ってみました。
 
ふた親とまだ小さき子らと庭先で線香花火に興じた初盆の頃
 
風上に我が親が立てば子供等は煙い煙いと逃げ回りたり
 
今年も線香花火は見ないまま秋風吹いたり、我歩きし跡を振り返る
 
我が妹も良き齢を重ねたり、来年こそは孫を呼びて花火に興じまむ
 
「もう一本」子供等は最後の花火に夏の終わりを知る。
 
共々に最期の一瞬(とき)まで命輝かせたきもの 線香花火のように
 
鳳仙花息を止めて手を伸ばす、線香花火を見守る如くに
 
百日紅天空より舞い散りたり手水の上 線香花火の如くして
 
イメージ 5
我が生家の手水鉢に浮かんだ百日紅の花小花が四方に向いて咲く姿が線香花火のようです。
イメージ 6
これは風蝶草です。赤い花もあります。園芸種は大きな雄蕊雌蕊が飛び出していて、線香花火のようです。撮影場所は南軽井沢です。
花火と言えば「打ち上げ花火」です。打ち上げ花火が夜空に咲く大輪の花向日葵であれば線香花火は川原撫子でしょう。小さくても健気で物語のありそうな日本人は好きなのです。”侘びサビ・綺麗サビ”の伝統です。
和蝋燭も線香花火もお鷹ぽっぽも伝統地場産業で、文化産業です。もう、ICメモリーは中国には敵わないでしょう。でも、中国の環境問題が課題になれば日本の品質が再び脚光を浴びる事があるでしょう。地方早創成は安倍内閣の課題です。地場文化をキーワードにしてほしいものです。竹下内閣のように地方ばらまきで線香花火のようにあっけなく終わって欲しくはありません。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 

藤沢の大栢木

$
0
0
今日は24節気の白露です。もう白露なのか!季節の進むのが速いので驚くばかりです。小さいころは1日が長かったのに、天命(「五十にして天命を知る」(論語)」を過ぎてから坂道を転がるように一日一日が過ぎて行きます。転げ落ちた先には大きな穴が開いていて、穴は黄泉の入り口なのでしょう、そう思うと私の天命は「生を明らかにすることのようです。そのように確信して、当面は病気克服に注力する事に致しましょう。
イメージ 8
蜘蛛の巣に光る白露。撮影場所南軽井沢正面霧の奥に浅間山が隠れています。
今年は白露が仲秋のスタートと重なりましたが、今日の天気予報では名月はみられそうもありません。満月は来月まで先延ばしの事と致しましょう。
イメージ 1
長谷川等伯枯木猿猴図」京都・龍泉庵/東京国立博物館ホームページより転載。茅の老樹には母子の猿(観音)がいて、その脇には老猿が手を伸ばしてぶら下がっています。この猿は栢の実をたらふく食べての次には池面に映った月を取ろうと手をの伸ばしているのです。この先には枝が折れて老猿は池に落ちてしまう事が懸念されます。
今年の栢木の実はどうなんでしょうか?団栗や栢が不作だと山の動物は大変です。
私の生活圏にも栢の大木は沢山あります。先日書いた朝比奈の共同墓地にも栢の大木があって横浜市の銘木に指定されています
藤沢の常光寺の墓地にも栢の大木があります
イメージ 3
処が常光寺の山門正面が本堂境内を覆う傘のような大栢樹があります。
イメージ 4
 山門に貼られた湘南句会の作品
イメージ 5
常光寺境内は緑陰が広がってとても涼しいのです。加えて石仏が数多く祀られています。(庚申塔などに藤沢市の文化財指定が数多くあります。
栢の大木は梢を四方に張っていますので、実は本堂の屋根の上に音を立てて落下しますし。眠っていた墓標の如意輪観音の頭上にも当たります。「痛いわ!」如意輪さんがお顔をしかめて居るようです。
 
イメージ 6
墓標の如意輪観音さん、眠りを覚ますように栢の実が落下してきます
イメージ 2
イメージ 7
常光寺の墓地の中央に栢の大木があります
 
墓地の中に野口米次郎氏の墓があります。慶応を卒業し新聞記者として渡米します。同氏は日本文化の海外紹介に尽力しました。詩人としても活躍し晩年は慶応に戻って教鞭をとりました。
同氏は定光寺で産まれたのでした。イサムノグチの父としても有名です。日文研の仲間であるT名誉教授は西行の研究を一段落され、
今は日本文化の世界へのアピールに注力しておいでですが、その志の先達のような方です。
定光寺の墓地続きに弁慶の墓があり、その東が「飯盛り女の墓」で有名な永勝寺があります。藤沢本町は見所が多い街です。
先刻から「アサイチテレビ」で「個人情報が漏れた話」をしています。情報漏えいは迷惑ものです。
「漏れる」「漏れる」と連呼するもんですから、想い出しました。私は天命を過ぎてからは朝の尿意に弱くなってきたのです。そう思うと想い出しました川柳を・・・。
京女くるり捲くって立小便)
これは愛嬌もありますが。
「朝顔の外にこぼすなまつたけの露」
此方は男性はお馴染みです。女性は馴染みは無いでしょうが・・・。
イメージ 9
小諸の古物商で見つけた朝顔の再利用
 
前日中のトイレ文化の比較をしましたがhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48179996.html。小便器を「朝顔」と呼んだり。男性自身を松茸と呼んだり、小水を露と呼んだり、奥ゆかしいものです。更に、使わなくなった朝顔の写真のような使い方を見ると感心するばかりです。加えて焼き物自体が古伊万里風です。日本文化の繊細さを自慢をした処で”今日の落ち”に致します。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

月と芭蕉

$
0
0
昨日は仲秋の満月でしたが、横浜は生憎で雲の中に隠れてしまっていました。今日(9月9日)は十六夜です。十六夜の方が一五夜よりもまん丸で大きい事が多いのが私の経験ですので、今晩を楽しみに致しましょう。月見の名所と言えば姥捨て山の「田毎の月」です。
イメージ 8
鎌倉光明寺の十六夜(昨年撮影手前は山門」
私の生家の庭には芭蕉が自生していました。組寺の龍宝寺(大船」にも雲昌寺(藤沢)にも芭蕉はありました。禅寺に芭蕉は欠かせないものです。当時の私はお寺には俳句好きが多いので芭蕉を植えるのが趣味なのだろうと軽く思っていたのですが、最近は少し深みが出て来ました。。芭蕉の葉陰から眺める月が綺麗ですから。
 
「月は村雲」と言います。根拠は兼好法師です。
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、
なほあはれに情(なさけ)ふかし。
(徒然草/草第百三十七段・部分)
月は「欠けた月や雲間に隠れた月にこそ趣がある・・・」の意味でした。
芭蕉の葉陰でチラチラ見える月ならもっともっと趣がありそうです。
芭蕉の葉陰でみえたり隠れたりする月なら一層情趣が深そうです。
芭蕉の葉っぱが野分で破れていたら一層趣深いものでしょう。
夏の芭蕉の葉は大きくて破れていません。でも台風が来れば持ち堪えられません野分が吹いたら破れてフェニックスのように葉をチリジリにして吹き流して遣り過します。
 
お坊さんにすれば芭蕉は墨染めの衣のようです。托鉢行で疲れれば墨染めの衣の裾や袖は破れてしまいます。
破れた芭蕉の姿は自分自身の投影でもあるように見えたことでしょう。
イメージ 1
若冲の重要文化財「月夜芭蕉図」(相国寺承天閣美術館蔵)鹿苑寺(金閣)大書院障壁画)
破れた芭蕉の葉裏から満月が見えています。満月は悟りを意味しているのでしょう。
 
イメージ 2
藤沢の弥勒寺本堂前の芭蕉
イメージ 3
芭蕉の花芭蕉は英名をジャパニーズ・ バナナと言う程に日本に目立ちます。上のらくびーボールの上に小さなバナナ上の実がなります。大風が吹くと葉の葉脈に沿って裂けて破れて椰子のようになって風邪を柳に吹き流します。
 
私は中学生の頃「禅と日本文化(鈴木大拙著」)」を読みました、その中に「禅と俳句」の段がありました。
芭蕉の旅自体が托鉢姿ですし、最後の紀行は「野ざらし紀行」ですから、命がけの托鉢業が全国行脚だったのでした。
イメージ 4
 若冲の野晒図(西福寺)野晒紀行のイメージです。賛は月になっています。
旅先で遺骸を晒すことは覚悟の上だったのでしょう。禅と俳句には次のエピソードが紹介されています。芭蕉の代表句「古池や・・・」の作成プロセスを理解するうえでも面白い話です。
芭蕉が佛頂和尚のもとで参禅していた時の事でした、和尚小坊主を連れてが突然に芭蕉の庵を訪れ、「近頃はどうしておられるかな」と問うた。その挨拶を小坊主がの勘違いして、「今日とは如何?」と公案として繋いでしまったのでした小坊主の拙さがきっかけで「今日」(today)とは何かという話になりました。
イメージ 5
若冲の「池に蛙図」
師の公案と勘違いした芭蕉は「今日とは雨が通り過ぎて青苔が潤っているようなものです」と答えます。和尚は「その青苔がまだ芽も生えていない時にも、今はあったであろう」と突っこみました。たまたまこの時、方丈庭園で「ポチャン」と音がしたのでしょう、このとき芭蕉がぽつんと放った言葉が、「蛙とびこむ水の音」でした。「古池や」の上の句がをつけて、代表句が出来たというのです。
佛頂和尚はこの解を芭蕉の「禅の境涯」と評価して見性を認めたのでした。
漢文の公案は迷路に誘い込まれるようで難解ですが流石に和言葉にすれば公案も解り易いものがあります。
言葉よりも絵や庭は解り易いものがものがあります。
若冲の観察眼は凄味があります。鶏図ばかりが有名ですが、魚や野菜果物も驚異的な眼力を示しています。
イメージ 6
若冲の果菜涅槃図。釈迦涅槃図は誰しも知っていましたから。お釈迦様の位置に二股大根を置いたこの図はパロディーのように捉えられていますが、八百屋の長男であった若冲でしたから二股大根は自分を産んでくれた母親と捉え、母の死を弔う意味とおもえます。総じて仏画が多く敬虔な仏教徒であった若冲でしたからあらゆる野菜や果物に感謝していたと思われます。
イメージ 9
此方は若冲の魚涅槃図出典「日本の美」小学館複写お釈迦様の位置はクロマグロのようです。
イメージ 7
若冲の胡瓜図。右に精霊バッタが描かれています。胡瓜を食べて命を繋ぐる感謝の気持ちを表現していると思われます。
野菜図の胡瓜や二股大根は満月のようなものでありましょう。お月様は捕まえようも無い門で、毎晩形を変えます金子みすずは林檎の実を捥いで歌いました。。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。
ひとつ林檎をもいだ子は、
    ひとつお鐘をならします。
    ひとつお鐘がひびくとき、
    ひとつお花がひらきます。
人生は月を探す旅のようなもののようです。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 

月山とカメムシ

$
0
0
秋風が吹きだして、燕が群れています。これから南国に飛び立つのでしょう。燕に入れ替わりで雁がシベリアから渡って来ます。ラジオではもう大雪山の黒岳では紅葉が始まって、今年は10年に一度の見事な紅葉だそうです。もう1か月もすれば津軽も染まっている頃でしょう。その頃の津軽の浜辺には沢山の小枝が散乱します。
イメージ 4
南国に飛び立とうと集まった若い燕君
雁がシベリアを飛びたつ時に小枝を嘴に咥えてきたものでした。長旅に疲れたら海面に小枝を浮かべて休息を取るためのもの。津軽まで来たらもう必要はありません。そこで津軽の浜辺に落して行きます。そして来春に戻ってきて、また咥えて海を渡るのです。
春が過ぎても小枝が残っていたらそれは、内地で命を絶った気の毒な雁の証です。津軽鰺ヶ沢の人達は小枝を拾い集めて浜辺で焚きます。不運な雁を弔うためだそうです。
イメージ 5
 近江八景堅田の落雁図(広重)
3年前私は日文研の仲間と出羽の月山に行きました。月山に登れば良かったのですが、麓の湯殿山神社に詣でて一泊しました。その晩部屋に「カメムシ」が出現して大騒ぎになりました。カメムシの臭さは大変で、一晩眠れなくなってしまいます。仲間の鼾は我慢できてもカメムシの臭さは我慢を越えています。
何しろカメムシを牛乳瓶に入れておくと自らの臭さでカメムシ自身が失神するという程の臭さです。
今年は愛媛の済美高野球部は見られませんでした、昨秋にカメムシ事件を引き起こして1年間試合禁止処分を受けてしまっているのです。ファンは安楽投手の剛速球を見られませんでした。カメムシ事件とは2年生が1年生の口の中にカメムシを放り込んだという虐めがあったのでした。今秋のドラフトでは安楽選手が脚光を浴びる事でしょう。
我が家には今年もカメムシ君が出現して、近所の迷惑になっていないか心配です。カメムシのターゲットはマユミの実で吸いに集まるのです。
いつも地味な姿のカメムシです。事典で見ると亀の甲羅模様のある翡翠のようなカメムシもあります。もっときれいなカメムシが現われないか楽しみにしているのですが今年も背中がこげ茶で腹が浅黄色いツートンカラーです。
 
イメージ 1
マユミの実に集まってくるカメムシ君、背中に亀の甲羅のような模様もある種を待望しているのですがいつもこの代わり映えしない種が占領しています。
イメージ 2
此方は姫リンゴの実に寄ってきたカメムシこの樹はカミキリムシの虫害で枯れてしまいました。
イメージ 3
これはオリーブの実に寄ってきたカメムシ
 
 
私達は月山の麓の寺寺を巡って即身仏(ミイラ)を詣でました。月山は死者の魂が登る山として東日本では篤い信仰を集めていました。江戸時代後半になると東北地方は冷害と飢饉で餓死者が続出する惨状になります。坊さんや修験者が生きながらに土中に埋もれ仏になります。その功徳によって人々が村々が救われると信じたのでした。ミイラに法衣を着せて即身仏として祀っている寺が散在しています。
イメージ 6
月山の山頂、月山神社と宿坊が見えます左の山は鳥海山です。
森敦は文学上の行きづまりに直面して湯殿山に近い注連寺に入りひと冬を越します。そして書いたのが月山で、ようやく芥川賞の栄誉を受けます。そのきっかけになったのがカメムシの観察でした。
 
注連寺の小部屋で森さんもカメムシに悩まされます。泊まっていた小部屋は蚕の部屋だったのでした。カメムシは茶碗に止まってアッチコッチ這いまわります。森さんはある事に気づきます。カメムシは何度も滑りながら、茶碗の縁に登って行きます。縁からブーンと飛びたつのです。森さんはつい笑ってしまいます。カメムシは飛べるのだから茶碗の底から飛びたてばよいのにわざわざ苦労して茶碗の縁まで這い登らなくても良かったのに・・・。
そう笑った瞬間にハッと思いつきます。
「茶碗の底から縁まで這い登る努力を何度も何度も重ねること自体に意味があるのだ」それが生きる意味なのだろう・・・・。ほとけはまるでカメムシを見る自分のような目線で人間の生きざまを見て居る事だろう・・・、気付いた森さんは雪融けの中バスに揺られて注連寺を後にしたのでした。
イメージ 7
真「如海上人」の即身仏注連寺には「鉄門海上人」が祀られています、小説「月山」森文学については下記に書きました
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

茸の誘惑

$
0
0
9月に入ってからよく雨が降ります。陰暦で9月は長月、学校では「夜長月」と教わりました、葉月が過ぎて、夜が次第に長くなるので、夜長月と呼びます。素直でない私は昼が短い月の意味で「短月」でもいいじゃないか直ぐに思いましたが、どうも言い難いようです。別に「雨長月」ともいうのだそうで、確かに今月は良く雨が降ります。「穂長月」ともいうのだそうで、稲穂が長く伸びる月の意味だそうです。「穂長月」は目出たい名で良さそうです。そう言えば米屋の店先に新米の文字が躍るようになりました、銘柄は「房錦」、房総で出来るたお米が日本一早いようです。
秋の夜長は読書がすすみます。今は柳田国男の「火の昔」を読んでいます。
イメージ 9
市立図書館にインターネットで借入予約を入れておいて戸塚図書館行けば横浜市立図書館の蔵書は総て借りられる(除く禁貸出図書)ので便利になりました。大変なのは家内です。カートを転がして街中に往復30分出かけます。
昔の人にとって夜が長くなるのは憂欝だったことでしょう。灯りが欲しくなります。蝋燭は高価だし、松脂を灯して灯りを取っていたそうです。赤松の樹に傷をつけておけば松脂の塊が採取できます。ゴムや漆を取るようにして松脂を取って灯りにしていた、それが菜種油にガス灯に革新されて、現代のLED電灯につながるのです。そう言えば、私の生家の裏山にも巨大な赤松が生えていました。昭和40年代に松喰い虫で枯れてしまい、その時に幽霊で評判になりました。今頃の季節です。「盛徳寺の墓地に幽霊が出る!」噂は戸塚でもちきりでした。父は慌てて松の根魂(松の根に出来る松脂の塊)を掘り出して噂の根を断ちました。
 
この夏は随分雷が落ちました。夏に雷が落ちると秋に松茸が豊作だと聞きます。新聞には上田や大町の松茸が載っていました。菌糸が雷で刺激されて活性化するんだそうです。
イメージ 1
大町の美麻温泉木喰荘の松茸の記事至福の時が過ごせそうです。
 
今年は、久々に国産の松茸が食べられるかもしれません。中国産松茸では有毒の心配が先きだちますが北朝鮮産なら安心です。この秋は北朝鮮からの朗報が待たれます。「拉致された方々が笑顔で松茸を土産に帰還されたる。」そんな光景をぜひとも見たいものです。
我が家には松茸は出来ませんが椎茸は栽培しています。
春秋の変わり目に食卓を賑わせてくれます。
イメージ 2
我が庭の椎茸毎年舞岡自然公園でクヌギの枝打ちがあるのでその廃材を戴いて、菌打ちしています池の縁に置いておけば立派に生育します。
庭には腐りかけた樹木が放置されいるので得体のしれない茸が芽を出します。
家内が視つけて私に報告します。でも、私は大半が解りません。平茸のようにも見えるしシメジにも見えます。結局は食べない事が一番賢明だと言う事で眺めるだけに致します。
イメージ 7
西隣のお屋敷に植木屋さんが入り「日陰になるので枝を下しても良いですか?」尋ねられたので「よろしく」と答えておいたところ樹木の芯を切られてしまい数本が枯れてしまいました。これはムクゲでの大木の根元です。腐り始めた裂け目から「猿の腰掛」が出て来ました。
 
イメージ 3
落ち葉を堆肥にする為積み上げた処に育った平茸に似たきのこ。菌糸が四方八方に延びています。
イメージ 4
梅の倒木に生えたシメジに似たきのこ
イメージ 6
こちらは落ち葉の堆肥から生えだした榎茸に似た茸。
イメージ 5
これは棗「ナツメ」の腐樹に生えだした木耳「キクラゲ)状のきのこ手前は夕顔の花。この樹もお隣の植木屋さんによって死を迎えました。筆者は木耳で間違いないと確信しているんですが・・・・。
樹木は様々な事情で死を迎えます。ブナの森ばかりではなく、我が家の庭でも、「死」が新たな「生」を生むドラマが繰り返されているのです。庭を支配していた木が倒れると、樹木は腐り始め、茸が生えて樹木が土に還るのを促します。新しく出来た天空からは光が地面に注ぎます。すると新しい芽が吹きだします。腐った樹木の栄養をたくましく吸って・・・。狭い我が庭さきでも死と生が循環しているのです。
いっそ、庭のキノコを鍋に入れてキノコ汁でも食べたいものだ思いますが。
私は未だ生に未練はあるし家内を道連れにすると、怒る人が多いので、キノコ汁は当面諦める事に致します。
せめて、山梨の右左口村にでも行ってホウトウ入りのキノコ汁を食べたいものです。
茸汁は不思議なもので沢山の種類の茸をを入れるほ程美味しくなるものです。その真実は叔父の田舎で体験しました。肉には山鳥を使いました。
何時かの機会に友人のI君の南軽井沢の山荘に集まってブナ林でキノコ狩りをして、晩は茸汁を堪能したいものです。鍋奉行は山荘の主人I君になる事でしょう。それまでには、茸の勉強に精を出しておいてもらう事にしましょうイメージ 8
若冲の茸の図、もし若冲が「茸涅槃図を描いたならば釈迦の位置に松茸がそしてシメジや平茸などは周囲を囲むことでしょう。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

葛ソーメンで「鰊そば」

$
0
0
春を告げる鳥と言えば鶯です。春を告げる魚と言えば鰊です。偏を魚に旁を東にした国字からも解ります、では春を告げる花と言えば梅です。木偏に東と書かなかったのは既に棟という字があったからでしょう。私は今年の夏の日文研京都合宿は出たかったのですが行けませんでした。残念と思っていたら無性に「鰊そば」が食べたくなりました。
私の食習慣が京都に行けば「鰊そば」名古屋なら「味噌煮込みうどん」奈良ではソーメンと決まっているのです。鰊そばとは、江戸風のかけそばの上に身欠き鰊の干物を甘辛く煮つけて乗せたものです。鰊は春3月になると蝦夷渡島半島沖に群れます。これを取って卵を数の子にします。卵を取った残りの体を開いて天日に干しあげます。これが身欠き鰊です。北前船は米を積んで蝦夷に向かい蝦夷地で鰊や昆布を積んで江戸を廻って大坂で鰊や昆布を卸します。鰊も昆布も上方の食事を豊に致しました。
1861年「文久1年」松野七郎へ兵絵衛は4条河原町で蕎麦屋を開業します。鴨川を挟んで南座の真向いの好立地でした。かけそばの上に身欠きにしんの甘露煮を載せたお蕎麦でしたが、寒い京都では大人気になりました。松葉はお店を南座の北にも増やして・・・・、京都には欠かせない名物店になります。詳細は松葉のホームページをご覧ください。http://www.sobamatsuba.co.jp/about/index.html
イメージ 1

           
松葉の看板商品「鰊そば」9条葱の薬味が添えられます。
無性に鰊そばが食べたくなって家内に話しました。お蕎麦は何にしますか?通常ならスーパーで求める道祖神蕎麦「生」か流水麺です。どちらも行けるんですが、私は高木さんから戴いた「葛そーめん」を傍にするよう指示しました。
葛に滋養分ががある事と胃腸に優しい事が特筆されます。この夏の疲れを除くには最適です。
イメージ 2
これが九州産葛を使ったソーメンです。この葛ソーメンを使って鰊そばにしました。
イメージ 3
これが自家生の葛ソーメン鰊そばです。
 
葛ソーメンは京風のお吸い物です。松葉は何故京風のお澄ましではなく江戸風の醤油味汁にしたのか改めて疑問に思いました。風味と良いし歯触りといい葛は上品で京風のお吸い物です。その上にドデンと身欠き鰊の甘露煮殿が乗りました。久々に良いマッチングでした。
 
もう街には初秋の風が吹いています。床下の閻魔コオロギも鳴き声が澄んできました。風が吹けば葛の白い葉裏が見えまあす。
イメージ 4
これが葛の花上り藤です。
イメージ 6
 
これが登り藤の家紋逆転すれば下り藤です
葉裏が翻れば鮮やかな葛の花が顔を覘かせます。赤紫の鮮やかな花です。藤の花は花房が垂れ下がりますから「下がり藤」です。一方屑の花は空に向けて房状に登って行きますから「上り藤です。上り藤と下がり藤が絡み合うと如何ともなしがたいものがあります。これを葛藤と呼び、誘惑が断ちがたい事を言い表します。
 
中学の倫理の授業で神父が校舎の裏山で枯れた葛と藤の蔓が絡んで共倒れした枯れ木をを伐採してきて、欲望に負ければ葛も山藤も共に枯れてしまうんだ。説明しました。その熱血神父も数年前亡くなりました。私は様々な誘惑が断ちがたい事を社会人いなって実感しました。でも「葛藤に負けまい負けまいと思う気持ちが強すぎて必要以上に摩擦を生んでしまったような気がします。
イメージ 5
酒井抱一/月に秋草図 酒井抱月葛の葉裏の向こうに月が見えます。月が青くなっているのは銀が錆びはじめた為です。上り藤が月に向いています。出典:東京国立博物館
葛ソーメンは秋月がルーツの高木さんから戴いたものでした。葛切りはは次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48242615.html「秋月の名産葛切り」
友達の応援を受けて、私のリハビリは着実に進んだこの今夏でした。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images