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天晴れ「彫工・後藤利兵衛」の腕の冴え(浦賀西叶神社)

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天晴れ!彫工・後藤利兵衛の匠の心意気・・・・・

 
 
長い戦乱の時代が収束し、江戸時代、ようやく平和な時代が到来しました。
日光東照宮が建立され、興廃していた全国の社寺が再建されました。
大工さんが活躍し、左官屋さん、材木商人等も台頭してきました。
その中に「彫り物師」所謂「彫工」も居ました。
 
 
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                      (西叶神社拝殿正面の龍、今日の話題は作者の「後藤利兵衛」です)
 
大規模な社寺建築、それが京都や奈良にあっても発注は江戸幕府が行ったようです。
従って、全国の彫工は江戸に集まりました。
伝説とも言われる「左甚五郎」も飛騨高山から江戸に転居、寛永寺の龍や東照宮の眠り猫を彫ったと思われます。
江戸深川の木場辺りには、全国から腕利きの彫工が集まり、腕を競い合って、沢山の甚五郎が居た事でしょう。
江戸初期は彫工は名前を明かさず「家」とか「棟梁」の名が前面に出ていました。
主なものでも「岸上・和泉家」「嶋村家」「根本家」「高松家」「石川家」「後藤家」などがあります。
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                                       (西叶神社、拝殿格天井の28態の龍の図)
 
 
江戸時代も中期になると各地方に豪農・豪商が出現、地方での需要も拡大しました。
越後の石川雲蝶、信濃の喜平と八十吉などが登場します。
中でも評価されているのが安房国の彫工でしょう。
波の伊八(武志伊八郎信由)はその代表で、波を彫らせたら第一と評されました。
北斎画の「神奈川沖浪裏富士」は伊八の欄間彫刻に酷似しています。
 
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                                                     (上記龍の図アップ)
 
安房の国にどうして沢山の彫刻師が出現したのか?興味もあります。
先の伊八系の他に「後藤家」「武田石翁」(此方は石工として有名)が出現、「安房の三名工」と評されます。
 
安房の国の目と鼻の先が「浦賀」です。
浦賀は江戸時代小田原に次ぐ相模の国の大都市、加えて干鰯問屋が栄えました。
従って、安房の彫工の技が数多く残されています。
このブログでも東耀稲荷の格天井はじめ東福寺などを書きました。
 
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   (西叶神社の社殿、前面の拝殿は彫刻の塊り)
 
 
西叶神社は浦賀の町の中心地でありました。
その北側には浦賀奉行所があり、門前には干鰯倉庫が軒を並べていました。
倉庫の前は浦賀湾、此処から全国に干鰯が出荷された訳でした。
その隣からは咸臨丸が出航し、我国の一時代の舞台でありました。
 
西叶神社の背後は急峻な崖で、崖の上は三浦台地、今は瀟洒な住宅ですが、少し前までは一面の大根畑でした。
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                         (西叶神社、右側は干鰯の倉庫)
 
 
天保八年(1837)2月1日、浦賀の町は大火に見舞われます。
西叶神社も神社が焼失してしまいます。
1842年社殿は浦賀奉行や浦賀問屋衆の協力で再建されます。
建築費は3000両と言われます。(1両7.5万円換算で約2億円)
社殿彫刻を若干28歳の後藤利兵衛義光に依頼します。
 利兵衛は、安房の国朝夷郡北朝夷村(今の千倉町)の出身でした。
江戸京橋の彫り物師「後藤三次郎恒俊」のもとで修業中、この大役を仰せつかった訳でした。
ですから、全身全霊を込めて、自らの技量を遺憾なく発揮した訳です。
勿論、江戸時代初めまでは「家」が大事にされましたが、この頃になると「個」が、匠の名が大事にされます。
社殿の隅々まで、後藤利兵衛の彫り物で埋め尽くしました。
明治35年に八十八歳で没した人物ですから、幕末維新を勝海舟などと共に生きた人物でした。
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     (正面が浦賀湾、向いに東叶神社、海の右側から咸臨丸は出航した)
 
拝殿は入り母屋造りでありました。
その正面には千鳥破風(はふ)、軒は唐破風の向拝、彫刻には「松と鶴」を刻みます。
向拝の柱木の鼻前と側面には丸獅子を、梁(はり)には「梅に鶯」を浮き彫りしました。
廂には三匹の「子を連ねた竜」を付けました。
側面左右の虹梁には「菊花」の浮き彫りしました。
そして、参拝客が拍手を打って見上げる、その目の先、格天井は圧巻でした。
「二十八態の竜」を刻みました。
 
古今の彫刻に比し「俺の腕を見ろ!」と言わんばかりの作品です。
28歳の匠には「時代を創るエネルギー」を感じます。
 
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                          (松に鶴、梅に鶯の彫刻)
 
 
私と家内は叶神社の社殿を一周し、その隅々まで彫刻を眺めました。
社殿から一段下に社務所があります。
社務所の玄関の漆喰に目が止まりました。
鏝絵(こてえ)です。
伊豆の長八が開発した、漆喰を使った「レリーフ」です。
左官屋が「彫り物師なんかに負けじ」と玄関に鏝絵を描きました。
 
私と家内は指を刺しながら、絵解きをします。
中国の寓話が素材のようです。
唐子が三人居ます。
二人は、心配そうに大きな水甕を見詰めています。
利発な唐子が水甕の腹を割ったのでしょう。
水が勢い良く流れ出し、一人の唐子が水の中から救出されました。
この話がどの様な意味を持っているのか、私達は解りません。
 
しかし、幕末維新、時代を切り開こうとする彫り物師等に感服する事が出来ます。
「浦賀の町」はそれごと「幕末のミュージアム」の感がします。
 
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(社務所玄館の鏝絵、右側が心配そうに水甕を見詰める唐子二人、左が水甕を割って唐子を救出する図。二コマ漫画。意味するとこは良く解りません)
 
 
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猛暑日に、緋色のカンナ燃ゆ(鎌倉駅)

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猛暑日に、緋色のカンナ燃ゆ・・・・

35度以上の暑い日を「猛暑」と言うのだそうです。
9月に入っても、連日の猛暑です。
私の体も耐暑能力がアップしてきていると思いますが、9月と聞くと、顎が上がってきます。
 
夏は激しい色の花が多いようです。
カンナはその代表でしょう。
緋色のカンナは如何にも夏の花の印象です。
元々インドなど熱帯地方の花です。
今年の暑さは、カンナにとっては嬉しい事でしょう。
今年は一際目立ちます。
 
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鎌倉駅から雪ノ下に向う露地にもカンナが燃えるように咲いています。
この場所は、初夏には「立ち葵」の花が典雅に咲いていました。(既報告)
そして、今は「カンナ」です。
横須賀線の線路側に、200メートルの距離に一斉に咲いています。
歳時記ではカンナは秋の花になっています。
燃えるような夏の花なのですが、去り行く夏、秋の予兆を示す花なのでしょうか?
 
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              (左に鎌倉駅のホームが見えます。線路脇の空き地にカンナが自生しています)
 
悪魔が仏陀の霊力を妬みました。
ある時、仏陀の足に怪我をさせます。
傷から血が流れて、土に浸み込んで行きました。
その、血だまりから、発芽した植物がありました。
真っ赤な花が咲きました。
それが「カンナ」でした。
 
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真っ青な空です。
緋色のカンナは青空をバックにすると、一際鮮やかさを増します。
でも、良く見れば、雲も鱗状です。
空から、秋が近づいてきているようです。
 
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女遊びは身代を潰す(半裸女身像の意味する所は・・・・)

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金沢文庫称名寺に出かけました。
境内は草刈もされ、すっきりしています。
もうじき、薪能です。
その準備と、もうじき咲き出す彼岸花を迎える(目立たせる)用意でしょう。
 
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    (称名寺は人影も無く・・・・・・蝉時雨ばかり・・・・)
 
 
草刈のお蔭で、何時もは藪の中の石仏が目立っています。
石仏ご自身の体の重みでしょう、地中に脚が埋もれておいでです。
でも、眼前の景色が広がって嬉しそうです。
私の家内も改めて石仏を眺めます。
 
 
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    (境内隅の石仏、五輪塔群、上段は北条一族の墓地)
 
庚申塔があって、主尊は青面金剛像です。
一面三眼六手の怖ろしい形相です。
で・・・、左手第二手には女性を吊るしています。
この女性像を石仏同好者は一般に「ショケラ」と呼んでいます。
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                               (青面金剛像、左手第2手に吊るされた女性像、6手剣人型)
 
 
庚申塔の研究は柳田国男にはじまります。
その、最大の疑問がこの吊るされた女性像です。
奈良小泉の金輪院(庚申信仰のルーツと評される)の掛け軸などでは、腰下が赤い襦袢、上半身は裸で描かれています。
江戸時代、「湯女」を思わせる姿です。
昭和30年代、某研究者が「ショケラ」と呼びました。
呪言に「ショケラよショケラ、寝たかと思って見に来たか・・・・・まだ目は寝ぬぞ・・・」
とある事から、この女性像を「ショケラ」と呼んだのが始まりです。
「半裸女性像」では味気が無いし、石仏ファンだけが「ショケラ」と呼んでいます。
 
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       (称名寺、参道の青面金剛像、こちらは6手合掌型)
 
でも、私の住む戸塚でも、鎌倉でも庚申塔にショケラは描かれていません。(御霊神社などに例外は稀にありますが)
鎌倉から相模の中央部にかけて、庚申塔を彫った石工は湯河原石工と言われています。
彼等はショケラ/半裸女性像は描がかなかった思われます。
 
一方、此処金沢、そして浦賀の庚申塔にははっきりとショケラが刻まれている事が多いようです。
青面金剛はそれ以前の神や仏、帝釈天や不動明王、閻魔大王を兼ね備えた怖ろしい、力のある存在です。
青面金剛は半裸の女性の黒髪を掴んで、まるで猟師が獲物(ウサギ)を吊るしているようです。
ゾッとする光景です。
ショケラのある庚申塔は、江戸の町系石工の制作と思われます。
 
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    (私の住む倉田の青面金剛像、左手二手はロープ/縛る紐持っています)
 
 
私は称名寺境内の庚申塔が偶々ショケラを伴っているのか、それともこの一帯は一般的なのか、確かめる為に近くを回ってみる事にしました。
参道横の庚申塔にも青面金剛像はショケラを吊るしていました。
念のため、金沢八景の竜華寺にも廻ってみました。
この寺には境内に6基もの庚申塔が立っています。
青面金剛が刻まれた庚申塔には何れもショケラが吊るされていました。
 
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                      (竜華寺(州崎)あたりの街路樹は百日紅です。)
 
 
数多く庚申塔を見てきた経験から以下のことは事実です。
『相模に国の庚申塔はショケラを伴わないものが多いものの、金沢から浦賀にはショケラを伴う』
では、何故そんな違いが生じたのか?が疑問になります。
 
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   (竜華寺、6手剣人型青面金剛像、左二手にショケラを吊るしています)
 
 
庚申信仰の前提を整理しておきます。
1、庚申信仰は各家の家長(男)によって構成される「講」単位で信仰された。「男組み」である。(女性は23夜講)
2、男衆は庚申の夜集まって「この一ヶ月善行を積んだ、悪い行いはしなかった・・・・」確認、戒めた。
3、そんな庚申講の夜を18ヶ月(約3年)過ごすと、モニュメントに庚申塔を建立した。
 
鎌倉型の庚申講は総じて農村型の信仰と思われます。
集まった家長達は、豊作を祈って、子作りを祈願して、共同作業(水・茅葺・道普請など)を打ち合わせた事でしょう。
一方、金沢や浦賀(共通するのは港町。商業都市)の家長は商人・町民です。
彼等が話した事は、商売の話でしょう。
干鰯の仕入れ、販売価格のこと、回船問屋への支払いの事、そして話の最後は色町のこと・・・。
「色町通いは度を越せば身代も潰しかねない・・・・・」
そんな事から、町民の間の庚申講ではショケラ・半裸女性像が描かれたのではないでしょうか?
 
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    (竜華寺、6手剣人型青面金剛像、左二手にショケラを吊るしています)
 
現代は色町もありませんし、女遊びで身代を潰した話など耳にする事もありません。
代わって、浮気だ、離婚だ、慰謝料だ・・・・そんな話題は事欠きません。
 
江戸時代、青面金剛像の吊るしたショケラの意味する所は興味が尽きません。
民俗学はまだ解らない事が沢山あります。
土地土地によって現象や形が随分違います。
だから興味が尽きません。
 
 
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平家物語の「締めくくり」/六代御前の墓

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逗子は美しい町です。
町の背には、鷹取山や大楠山などの山並みが屏風のように連なっています。
山々の中腹には神武寺や岩殿寺など古いお寺が1000年を越える歴史を伝えています。
町の東寄りに田越川が流れています。源流は神武寺の山です。
川は逗子の海辺に注がれます。
砂浜には石原慎太郎の「太陽の季節」碑が立っています。
 
海あり、山あり、川あり、の町です。
鎌倉を二周りも小さくした、閑静な町ですから、芥川龍之介初め多くの文人がこの町を愛して、住まいました。
「逗子」の語感は厨子に通じます。「玉虫厨子」でも有名な、仏様を納める仏具です。
町の名前からして、祈りを想わせます。
 
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                         (田越川、朱塗りの田越橋の延長、山の麓に六代御前の墓があります)
田越川に丹塗りの橋(田越橋)が架かっています。
道を桜山に向って進んでも、神社は見当たりません。
神社の参道にあるから、朱塗りにしたわけでもなさそうです。
 
桜山の麓に大きな「塚」があります。
欅の古木の前に「六代御前の墓」と記された石柱が立っています。
その前には二本のタブの木が根を張っています。
塚全体を三本の古木が囲っています。
私達はこの塚の前に佇んで、しばし六代御前、平家物語の世界に高飛びします。
平家物語は諸本があります。
一般的には「平家の末裔はこうして亡くなりました、さしもの栄華を極めた一族は絶えてしまいました・・・・・」と締めくくられています。
平家の6代目の最期が描かれています。
 
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                                            (大きな塚が六代御前の墓です。)
 
六代御前とは「平高清」のことです。
でも、平家物語では本名を呼ばず、平家の本流「平正盛」から数えて6代目、平清盛から数えて4代目の本家本流、本家の6代目の「尊い方」、と言う意味で六代御前と呼んでいます。
「平高清が亡くなった」では平家物語最終章にはなりません。
「6代目の方が亡くなった」と書いて、平家一族が断絶した・・・ドラマチックになるのです。
 
平維盛は都落ちに際して、妻子を京都に残します。もしもの場合は再婚して欲しい、とも言い残し、熊野の海に入水してしまいます。(平家物語、実際にも公家と再婚する)
平家が壇ノ浦で滅亡後、六代御前は捕縛されます。
清盛の曾孫に当たる訳ですから、本来なら鎌倉に送られて斬首になるところでしょう。
ところが文覚上人(神護寺)が頼朝に助命嘆願します。
結果、六代御前の身は文覚上人に預けられ、剃髪して妙覚と名乗ります。
高尾山神護寺で修行することになります。(11789年・六代16歳)
 
ところが頼朝が亡くなり、世情も乱れる兆しが現れます。
混乱の種は早くから摘まなくてはならない、思ったのでしょう。
文覚も六代も謀反の疑いがある、と言う事で捕らえられてしまいます。
鎌倉に送られた六代は田越川の畔にあった処刑場で若い命を奪われます。(1189年・27歳)
 
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          (墓標は大きな欅の根元に置かれています。まるで欅爺さんのお膝の上です)
 
 
屹度、田越川を見下ろす現在地に葬られた事でしょう。
墓は質素なものだったでしょう。
幕府の”目”に配慮し、目立たないものの、六代の哀れを思い、その霊を慰撫し、閉じ込める必要がありました。 
人々は平家物語を読み聞きするたびごとに、「もののあわれ」を痛感しました。
同時に、鎌倉の東、田越川の畔に思いを馳せたと思われます。
葦の川原の「土饅頭」を思ったことでしょう。(土饅頭:土葬した墓地の盛り上がりを土饅頭と呼ぶ)
 
江戸時代、水戸光圀は全国の歴史を調査整理します。
鎌倉にも往訪します。
水戸藩士は強くその感化を受けます。
謀藩士は六代御前の塚を整備します。
現在の形はその時に出来上がりました。
鎌倉時代に作られた土饅頭は遥かに立派な塚になりました。
欅やタブの木はこの時植えられたものでしょう。
 
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     (塚の下にはお堂がありました。本尊に不動明王が祀られているのは、六台の怒りを封じ込めるため?)
 
 
何故、桜の木を植えなかったのかな?
此処は桜山(地名)であるのに・・・・・?
などと考えながら、欅の梢を見上げました。
欅の樹陰は清々しいものです。
もう、9月になって暫く経ているのに、「つくつく法師」の蝉時雨です。
 
「オーシー・ツク・ツク、オーシー・ツク・ツク」鳴いています。
蝉の名は沢山ありますが、坊さんの読経を思い起こすのはこの蝉だけでしょう。
漢字では「尽く尽く法師」と書くと思います。
 
私には「モー・いいよ」「モー・いいよ」言っているように聞こえます。
「暑いのはもう良いよ」とも聞こえますし・・・・
「悲しい事件はモー良いよ」とも聞こえます。
「人間は同じ過ちを繰り返す、モーイイよ、モーイイよ」と蝉の法師は言っているように聞こえます。
 
逗子は祈の町のように感じられます。
 
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                                            (不動明王のお堂から塚を見上げる)
 
 
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ボケ封じ観音様の「龍華寺」さん

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金沢文庫称名寺の門前を海に向って下ってゆきます。
金沢八景の一つ、州崎に出ます。
州崎はその東にある野島との間に出来た洲で、港町でありました。
安藤広重は版画で八景の美しさを江戸町民に案内します。
称名寺を起点にすれば、「称名晩鐘」「州崎晴嵐」「野島夕照」が一直線に連なっています。
でも、現在では都市化や埋め立てが進んで、当時の面影はなくなってしまっています。
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                          広重作、金沢八景「州崎晴嵐」
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                  (金沢八景全図/中央右が州崎、右上部が称名寺、左上部は能見堂 金沢区HP)
 
町の真ん中は州崎であったのでしょう。
州崎の真ん中に古刹「龍華寺」があります。
立派な構えのお寺で、何処か京風の”雅”を感じます。
門柱には「真言宗御室派」と書かれています。
御室仁和寺さんの系列のお寺です。
本堂の前には「御室の桜」境内には「牡丹の畑」があります。
流石に京都のお寺さんは良いなあ・・・・感じられます。
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     (龍華寺山門、左石柱に厄除け、ボケ除け観音と案内されています)
 
頼朝は京都で育っています。
武士の都を建設しても京風を意識していたと思われます。
神護寺の文覚上人を鎌倉に迎えます。
そして、此処州崎に浄願寺を建立します。
龍華寺の前身でした。
昨日案内した「六代御前/平清盛の曾孫」の命乞いも、神護寺に頼朝の肖像画が残っていた事も、両者の深い関係を残しているものでしょう。
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           (神護寺蔵、頼朝像は文覚上人と頼朝との浅からぬ関係を示しています。神護寺HP)
 
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  (鐘楼の先、赤い幟がボケ除け観音)
 
美しい茅葺の鐘楼があります。
その並びに、ま新しい観音像が立っています。
銅像自体が新しいのですが、そのデザインも始めて見るものです。
聖観音像の足許にお爺さん、お婆さんが居て、観音像を仰ぎ見ています。
銀色に光る珠のような物を奉げています。
「何だろう?あの珠は・・・」
良く見れば、桃のようです。
ああ、”厄除けの桃”です。
傍には「ボケ除け観音像」と案内されています。
お年寄りの厄除けはボケ除けでしょうから、厄除け桃を持たせたのでしょう。
     注:自宅に帰って「珠」を見ると、桃にしては殻を被っていて菩提樹の実とも見えます。何方か、ボケ封じ        の珠をご存知でしたら教えてください)
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                              (ま新しいボケ除け観音像)
 
ところで、私は町内の高齢者施設の運営を評価する役割を仰せつかっています。
4年程前、行政が認知症患者の事故が多発した折に、地域も施設の運営に参加(監査)するよう改めたものでした。
二ヶ月に一度運営委員会が開催され、報告を受けますし、施設内での催しや防災訓練にも参加します。
また、町内では地域のお祭にも招待しています。相互の交流が出来ました。
お蔭で、高齢者施設の存在が町内で一般化しています。
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  (高齢者施設での消防訓練の様子)
 
ボケが進行して、認知症と呼び、施設に入れてしまうのは最近の傾向です。
家族との団欒から隔離されてしまうと、ボケは一層進行します。
「ボケ封じ」は観音様に祈る、それも良い事でしょうが、
最大の対策は「家族関係の存続」でしょう。
 
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     (ボケ除け観音のお爺ちゃん、お婆ちゃん)
 
桃から産まれるのは可愛いお孫さんです。
お孫さんの面倒を見ていれば、お爺ちゃんお婆ちゃんにボケが入り込む余地がありません。
「子供が少なくなった」「子供が出来てもお婆ちゃんお爺ちゃんに世話を焼かせない」
そんな状況が、ボケ問題を引き起こしているように思われます。
 
でも、高齢者施設のお爺ちゃんお婆ちゃんを見ていると、思います。
笑顔も素敵ですし、清潔な服装です。
「今日のお昼は美味しかったですか?」
訊ねれば
「とても、美味しかった」
答えてくれます。
「何が美味しかったですか?」
聞いても、何を食べたか思い出せない、だけの事です。
でも、笑顔が続けば充分じゃないか・・・思います。
 
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                       (本堂から鐘楼、山門を見る。百日紅の先、垣根の内は牡丹畑)
 
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       (龍華寺観音像、脱乾漆像は天平時代盛んに作られたが、中世以降では珍しい。金沢文庫展覧会H        Pから。竜華寺の文化財は奥行きが深いようです)
 
竜華寺は古刹に相応しく数多くの文化財を蔵しているようです。
でも、新しさも兼ね備えた、気持ちの良いお寺さんです。
 
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酔芙蓉の花に想いを託して

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猛暑続きで、中々秋の気配がやって来ません。
屹度その為でしょう、芙蓉の花が中々咲き出しません。
ようやく、咲き始めたものの、雨が足りなかったためでしょう。
花の大きさがイマイチ小さいようです。
暑い夏は蓮や百日紅には好ましいのでしょうが、秋花には不適のようです。
ラジオでも、阿部文殊院(奈良桜井、)のコスモスは例年より不出来のようです。
早く寒くならないと、萩も彼岸花も不調になってしまわないか?
気掛かりです。
 
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 (撮影、鎌倉由比ガ浜。酔芙蓉は一日で散ってしまいます。咲き始めは白くて、次第に色を濃くしてゆきます)
 
 
芙蓉と言えば濃いピンクか白が定番でした。
ところが最近は酔芙蓉が目立ちます。
芙蓉は朝咲いて、夕方には凋んで、落花してしまう儚い花です。
朝は白くて、日が傾くにつれて朱色が増してきます。
その様子が美女がお酒に酔って、顔を赤らめてゆく、そんな風情に寄せて「酔芙蓉」とネーミングしたものでしょう。
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美人の事を「芙蓉の顔/かんばせ」と言いました。
芙蓉の花は平安時代から日本人に愛されてきました。
誰もが芙蓉の花を見ると、長恨歌(白居易)の楊貴妃を思いました。
楊貴妃の美しい顔立ちを芙蓉の花のようだ、表現しています。
玄宗皇帝が楊貴妃を失って、宮中に戻ります。
その寂しさを、芙蓉の花に託して表現します。
 
『宮中は庭も池も変わらない。芙蓉も咲いているし柳も茂っている。
 芙蓉の花は彼女の顔のようだし、柳は彼女の眉のようだなあ。
見れば、涙が流れ落ちて止まらない・・・・・・。』
 
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芙蓉の花は一日で散ってしまいます。
花の儚さは、楊貴妃の薄命と同じです。
そして、平安時代から日本人の心を覆った、「諸行無常」の世界観に通じます。
無常を詠嘆する心は、中世に入ると「平家物語」を生んでゆきます。
 
在来種の芙蓉の花は一日中白やピンクでありました。
新しい開発種(酔芙蓉)は、時間の経過と共に色を変え、日が落ちると落花してしまいます。
酔芙蓉は「風の盆恋歌」(久保田万太郎)によって出回りました。

     ゆめにみし 人のおとろへ 芙蓉咲く 
 
更に石川さゆりが歌いました。
♪~蚊帳の中から花を見る 
咲いてはかない酔芙蓉 
若い日の美しい 
私を抱いてほしかった 
            しのび逢う恋 風の盆~♪
   「風の盆恋歌」 石川さゆり
 
石川さゆりの方は諸行無常というよりは、耽美的な印象が濃く、永井荷風の世界のようですが・・・・・、お蔭で在来種を押しのけて、多く目にするようになりました。
いずれにせよ、人は酔芙蓉の花に様々な想いを託して咲いています。
 
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(撮影地/鎌倉雪ノ下)
 
 
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桂の木の文化(鉈彫りと鎌倉彫)

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北鎌倉、浄智寺門前の普茶料理店「鉢の木」の前に、桂の木があります。
丁度バス停がありますので、その樹陰でお客さんが待っておいでです。
お店の心遣いが感じられて嬉しい光景です。
 
桂の木は鎌倉彫の素材になります。
だからでしょうか?
最近、鎌倉市は桂の木を公園に植え始めたようです。
鎌倉中央公園の桂の林には、幼稚園児の歓声が木霊(こだま)しています。
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                 (新林公園の桂はもう黄葉が始まっています。手前のムクゲはまだ咲いています)
 
藤沢の新林公園にも桂の林があります。
20本はあるでしょうか?
椎や欅と一緒に、五目植えされています。
椎は常緑で団栗の実がなりますの。
欅は緑も落葉も見事です。
そして、桂は黄葉と何と言っても香が良いのです。
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                   (桂はもう落葉し始めています)
 
新しい版画板を買って来て、私は暫くその香を嗅ぎます。
鉛筆をナイフで削った時にも良い香りがします。
どちらも桂の香です。
醤油蔵に入ると芳香が充満しています。
あの香り、発酵・醸造する時の香です。
もう、新林公園の桂は一様に黄葉を始めています。
ハートのような葉っぱは、地面に散っています。
葉っぱは地中のバクテリアによって分解を開始しているのでしょう。
落ち葉の臭い(発酵臭)が辺り一面に漂っています。
 
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      (桂の葉っぱはハート形、もう実もなっています)
桂浜に桂離宮、桂の名前は全国にあります。
でも、桂の木を使った仏像、更に彫刻と言うと神奈川県がダントツです。
 
遣唐使によって唐から様々な仏像製作技術が日本に伝来します。
大仏さんの金銅仏(鋳物技術)、泥を捏ねて作る塑像、阿修羅像の乾漆像、そして木彫像でした。
ところが、平安時代には木彫像だけが存続します。
日本人の感性に木彫が最もフィットしたからでしょう。
そして、日本人の「総ての生き物に仏性が宿る」と言った考え方も影響した事でしょう。
仏師は樹を見て、樹に霊を感じて、鑿で霊(仏)を彫り出しました。
 
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京の都では、樹と言えば檜を使いました。
何と言っても木肌が白くて艶があって、美しかったからでしょう。
都の貴婦人の肌を思わせる、高貴さがありました。
ところが、神奈川では桂も使いました。
桂は木肌の色が茶系で、艶も劣っています。
でも、年輪が薄く、肌理も細やかです。
そして、柔らか、芳香が強いのです。
 
日向薬師には25体もの木彫仏があり、薬師三尊(重文)は桂材を使用しています。
山伏が愛用の鉈で彫った像と言う事で一般に「鉈彫り」と言われています。
彫り跡は丸鑿で仕上げており、荒々しい彫跡が特徴です。
都の仏像は彩色され、仏像のお体は金色に輝いています。
ところが、鉈彫りの仏像は、唇など部分的に彩色が施されても大半は樹の樹肌のままです。
 
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                             (日向薬師ご本尊の薬師三尊像、伊勢原市観光HP)
 
鉈彫りは江戸時代に入って、円空や木喰と言った遊行僧を輩出します。
「地方の文化」「庶民の文化」の流れになって行きます。
そう言えば、鉈彫りで有名な日向薬師も弘明寺観音も「行基」作と伝えられています。
円空も木喰も行基を師として尊敬しています。
地方の文化研究のテーマになる人物でありましょう。
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                                 (円空微笑物語www.enku.jp より)
 
 
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コスモスの花陰に潜む危険(大蟷螂)

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コスモスの花が目立ち始めました。
最近は黄花コスモモも目立ちます。
コスモスはメキシコの高原に自生していた植物、
18世紀、スペインがマヤ文明を滅ぼした際、咲いていた花を持ち帰り、マドリードで咲かせたそうです。
以来世界各地に伝わり、日本には明治20年に伝来したそうです。
それが、群生して咲いた美しさや、荒地や乾燥地でも生育する生命力の強さによって、一気に広まりました。
今では外来種でありながらも、「秋桜」と言った、日本名まで戴きました。
僅か100年余りの間に”日本国籍”を得た生物は他に無いことでしょう。
日本人はコスモスが本当に好きです。
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                              (新林公園棚田跡のコスモス畑、中央上部に蟷螂が居ます)
 
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                                (コスモスと花に憩うイチモンジセセリ、今日の犠牲者)
 
 
私が、地域振興整備公団に出向して、全国各地の開発のお手伝いをしたのは、昭和50年から2年間の間でした。そのとき、建設省道路局から黄花コスモスの種が配られました。
道路の則地や空地に種蒔きすれば、景観植物として、雑草対策にも最適だ!
そんな判断でした。
コスモスがピンクや白、赤と様々な色の花が五目に咲くのに対し、黄花コスモスは濃い黄色の花一色です。
遠目にも、黄花コスモスは目立っています。
 
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                                         (黄花コスモス、蝶は黄タテハ蝶)
 
新林公園の棚田がコスモスの花畑になっています。
私は、風に揺れるコスモスを眺めていました。
沢山の蝶が遣ってきています。
黄タテハに黄揚羽、紋黄蝶、何故か初秋は黄色い蝶が目立つようです。
蝶も花から花に飛んで、蜜を吸い、栄養を蓄えて、種を残さなくてはなりません。
今が勝負時なのでしょう。
せわしく飛び回っています。
 
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                                     (黄花コスモス、蝶は黄揚羽蝶)
 
コスモスの花陰でジッと、静止しているハンターがいます。
大蟷螂です。
花に遣ってくる蝶を捕食しようと、ジッとチャンスを窺がっているのです。
もう、腹も膨らんでいます。
大きな奴がメスです。
6本の脚のうち、前二脚が鎌状にギザギザが出来ています。
この鎌で獲物を捕まえて、生きたままかじるのです。
 
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                                 (イチモンジセセリを齧る大蟷螂)
 
イチモンジセセリ(蝶)が捕まりました。
鎌の間で身動きできません。
三角頭の下には大きな顎があります。
顎をずらせる様に動かしてイチモンジセセリの体が見る見る小さくなって行きます。
 
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    (ミソ萩の花で獲物を待つ大蟷螂)
 
 
昔、日活(映画会社)が青春路線からロマンポルノ路線に転換して、窮地を脱しようとしました。
ヒットしたのは「蟷螂夫人」シリーズでしょう。
メスの蟷螂は交尾中のオスの蟷螂を頭から齧ってしまいます。
オスは、一命を架して、交尾し、種を残すわけです。
メスはオスの栄養を体に蓄えて卵を産むわけです。
そうした姿を擬人化して、蟷螂夫人はヒットしました。
何故、メスは頭から齧るのか? オスは逃げようとしないのか?
考えた事があります。
屹度、オスは頭を齧られると、快感が走って、ホルモンが分泌、精子が活発に出るのでは無いかと思います。
蟷螂のオスは頭が無くなっても、交尾を続けます。
カマキリも人間も男にはマゾヒスチックな性格があるのではないかと思います。
 
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    (女郎蜘蛛はイチモンジセセリをグルグルに糸巻きして、体液を吸い取ります)
 
もうじき、蟷螂の共食いの光景も見られることでしょう。
コスモスの傍に吾亦紅も咲き始めました。
女郎蜘蛛も巣を張って、蝶を架けようと待っています。
美しい花畑は、同時に生死の危険スポットでもあります。
「種を残す」事は、自らの命を落として、次世代に命のバトンを引き継ぐ事です。
緊張感が辺り一面に漂っています。
 
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                              (ミソ萩の蜜を吸う紋黄蝶)
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                                  (此方は草陰に潜むイナゴ)
 
 
 
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百日紅の花もこれで見納め(鎌倉長谷寺)

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鎌倉大仏「高徳院」と長谷寺には沢山の観光客が押し寄せます。
大きな阿弥陀様、背丈の高い観音様がお客さんの目標でしょう。
とりわけ、初夏の紫陽花の季節は観光客が多く、ソフトクリームなど食べ歩いています。
竹下通りのような光景です。
でも、流石に初秋の今の季節は、人の姿も疎らです。
 
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               (長谷寺への道、左が対僊閣(たいせんかく)
 
今年の夏は百日紅の当たり年でした。
秋の彼岸まで、花が続くと聞かされても、流石に9月も10日を過ぎると勢いが失われます。
「長谷寺さんには、百日紅があったかしら?」
山を見上げると、長谷寺の諸堂の甍が見えます。
木々の間に赤、白の花が咲いています。
 
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    (長谷寺三門、左手の百日紅が見えます)
 
 
今年の夏、最後の百日紅を見ようと、長谷寺の門を潜りました。
寺伝では天平8年(736年)と徳道上人が長谷寺を開基します。
楠の大木から2体の十一面観音を造り、その一体を奈良初瀬の長谷寺の本尊とし、もう一体を祈請して海に流しました。
その十一面観音像が此処に流れ着き、鎌倉長谷寺になった、とされています。
江戸時代になると徳川家康によって朱印状が渡され、諸堂を整備されます。
江戸の町から江ノ島・長谷詣でが流行します。
由緒ある観音様(関東4番札所)を拝みたい、そんな人達が押し寄せます。
 
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長谷寺は鎌倉を代表する観光寺院としての歴史があります。
奈良長谷寺が牡丹で有名なように、鎌倉長谷寺は四季折々花が絶えません。
でも、狭い境内です。
工夫して、花を活けています。
そして、夏はムクゲに蓮に・・・・思いの他沢山の百日紅が咲いています。
 
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三門南、高山樗牛の碑の傍には大きな百日紅があります。
其処から眺めると、観音堂の石段に向けて、朱・白の花が緑陰に見渡せます。
観音堂の前は広場になっています。
南端からは由比ガ浜が望めます。
もう、連なっていた海の家は撤去されて、ウィンドウサーフィンが波間に漂っています。
麓を見下ろすと、大きな朱の塊りが見えます。
「ああ、麓のお堂にも百日紅があったのだ!」
驚きながら、観音堂の広場を下りました。
 
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長谷寺山門の北側に庫裏があります。
その東に天平風の美しい御堂があります。
扁額には「海光山」と書かれています。
長谷寺の大半が観光に供されているのに対し、このお堂と庫裏だけが団信徒の用に供されているのでしょう。
 
御堂の庭に百日紅が咲いています。
御堂に座って、浄土のお経を聞きながら、諸仏を見上げます。
白砂の庭に、朱色の百日紅が散るのでしょう。
この一角こそ、最も長谷寺らしい・・・と想ったりします。
 
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  (本堂(海光山)前の白砂と百日紅・・・清潔感が清々しい)
 
京の都で、心身の病気になった都人は長谷寺に籠もりました。
紫式部も和泉式部も・・・・・。
観音様のお足許で、初瀬籠もりを終えると、心身共に回復し、再び宮中のお努めを開始します。
「リハビリ」のお寺でした。
現代人は1ヶ月もお寺に籠もる余裕はありません。
半時ほど、お寺に遊んで、また元気を貰わなければなりません。
それを「癒し」と言うのでしょう。
 
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                             (観光バスが着くと沢山の観光客が押し出されてきます)
 
 
癒しに最も効果的なのは、美しい花でしょう。
線香花火のような朱色の百日紅は癒しに最高のようです。
 
今年の夏は百日紅を随分楽しみました。
感謝します。
 
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                         (池から観音堂のある山を見上げると百日紅が・・・・・)
 
 
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悲しいほどに真っ白な「芙蓉」(瑞泉寺にて)

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芙蓉の花が見頃です。
鎌倉瑞泉寺には真っ白いな芙蓉が咲きます。
瑞泉寺は冬の白梅が有名ですが、夏から秋にかけては真っ白な芙蓉が主役になります。
本堂前の前に進もうとすると、両側から芙蓉が迎えてくれます。
緑の葉っぱに、真っ白な花はより一層白さが際立ちます。
 
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                         (瑞泉寺本堂前庭に咲いた真っ白い芙蓉。今年は株が大きいようです)
 
芙蓉の花は「楊貴妃」に擬えられます。
楊貴妃の芙蓉は屹度赤い芙蓉でしょう。
白い芙蓉はもう一人の美女「西施」を思わせます。
 
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  (楊貴妃の美しさは芙蓉に例えられます。屹度赤い芙蓉だと思います。海蔵寺にて)
 
 
中国の土産物店に入ると、必ずと言っていいほど「四大美女図」の軸が売られています
「西施」は着物の裾をめくって、水に脚を浸しています。
お顔は透き通るほど白いのです。
「佳人薄命」を思い起こします。
佳人薄命は蘇軾の「薄命佳人詩」が出典です。
”古より佳人は多く命薄し
      門を閉じ 春尽き 楊花落つ”  (楊花とは柳の白い綿毛のような花の事です)
佳人は、美女を意味するだけでなく、理性や知性、品格も備わっているような女性のことです。
 
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                              (瑞泉寺本堂の花頭窓には、真っ白な芙蓉が良く似合います)
 
西施の話は紀元前5世紀中国は春秋戦国時代に遡ります。
西施は貧農の娘、薪を売って家計を助けていました。
突然に呉王夫差(ふさ)に宮中に呼び出されます。
宮中では様々な教育を受けます。
目的は呉の敵国「越」の王様句践(こうせん)を女色に溺れさせ、駄目男にする為でした。
 
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                                  (芙蓉の花では大蟷螂が蝶を待ち構えています)
 
 
句践は西施の「天性の美しさ、そして素直さ、知性」に溺れてしまいます。
見る見る越国は傾いてしまいます。
越国は滅び、西施は呉に戻ります。
しかし、呉国は彼女を悪女として扱います。
呉も滅んではいけない、西施は革袋に入れられ、揚子江に流されてしまいます。
 
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美しさは西施にとっては薄幸の原因になってしまいます。
でも、現代に日本において「佳人薄命」は死語になってしまったようです。
 
昨今は美人も長生きします。
この人は若かった時さぞかし美しかっただろう・・・、思って
「お若い時はさぞや持てたでしょう?」
なんて言えば
「今もモテモテだったりして・・・・」
大笑いされてしまいます。
 
つい、先年、「佳人薄命」を思い起こすニュースがありました。
「大原麗子孤独死す!」
昔の美女は家の為、国のため、病気の為、薄幸にして死にました。
これを「運命」と呼びました。
でも、現代はこのような「阻害要因」は無くなりました。
でも、逆に「孤独」社会から断絶してしまう・・・・・そんな不幸が身近になってきたようです。
 
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酔芙蓉が咲く「農道」

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昨日は瑞泉寺の白芙蓉を案内しました。
遅れていた芙蓉も今が見頃です。
そこで、酔芙蓉の道を歩こうと、南足柄に出かけました。
 
酒匂川は箱根外輪山や丹沢の山陰から流れ出します。
急に山が開け、平地に出た辺り、大きな扇状地を形成しています。
美田が続き、山が聳え、水清い、文字通り「山紫水明」の地です。
 
その農道に酔芙蓉が植えられて、今では名物になっています。
 
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                    (1キロ余りの農道の両脇に酔芙蓉700本、芙蓉100本が混植されています)
 
富士山は宝永の大噴火をします。(1707年)
火山灰で酒匂川の底も上がってしまいます。
1711(正徳1年)酒匂川は大決壊を引き起こします。
山間に避難した農民は名主田中丘隅(きゅうぐ)の指揮下、河川改修、農地整備事業を行います。
今も残る「文明堤」「東堤」「西堤」が先人の思いを伝えます。
東堤横にある福沢神社では狩猟に来た福沢諭吉が、「此処に来た時は必ず石を拾って堤に積上げ、木を植えた・・・・」、そう言われているそうです。(山川歴史散歩)
開成町、文明小学校、こうした名前にも村興しの歴史が窺われます。
 
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 (酔芙蓉は朝は白花、陽が昇るにつれて、赤く染まって行きます。写真は昼過ぎ。私を酔わせてどうするの!そんな風情でしょうか・・・・?)
 
南足柄市には立派な企業が立地してきます。
富士フィルム、富士ゼロックス、アサヒビールなどが山間地や田圃を埋めたて、工場パークにしました。
隣の松田町には第一生命も進出しました。
瀟洒な住宅も開発されました。
 
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平成10年、考えました。
都市化する地域と農業を中心としてきた地域環境をどう整備するか・・・・?
農業の弊害にならないこと、都市近郊の環境としての期待役割・・・・・
そこで、約1キロの農道に酔芙蓉700本、芙蓉100本を植えることにしました。
手法は「緑のトラスト」事業。
地域住民が汗を流して、平成12年完成しました。
「地域の歴史に根ざした、未来志向の事業」と評されます。
 
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                 (酔芙蓉の間から箱根外輪山金時山が覗けました)
芙蓉の花の向こうに金時山や足柄山が紫色に霞んで見えます。
田圃では稲刈りが始まりました。
沢山の雀が飛んで、新米を食べています。
酔芙蓉は雀の止まり木、隠れ木の役割をしています。
来週には彼岸花も咲き始める事でしょう。
「芙蓉祭り」も開催され、イチジクや栗おこわも楽しめそうです。
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  (芙蓉の中に菊芋の花が盛んに咲いて、色を添えていました)
 
 
もう、時計は1時を廻りました。
酔芙蓉も朱色を濃くしています。
強い日差しで汗をかいています。
昔、祖母とこんな道を歩いた事があったような気がしてきます。
腹も減ってきました。
 
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                                                 (芙蓉に止まった雀)
 
 
今年の夏初め、紫陽花の季節に訪れた事がありました。
その折、瀬戸屋敷で蕎麦屋の「あしがら翁」が美味しいと聞きました。
そこで、昼食を取ることにしましょう。
新築3年目のお店は誰かのお宅に誘われたような感覚でした。
この主人も脱サラ、新居の居間を好きなお蕎麦のために開放したとの事。
お蕎麦を戴きながら思いました。
もう、信州や出羽では蕎麦畑に真っ白な花が咲いている事でしょう。
 
酔芙蓉は今週末が見頃です。
 
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   (マスコミや地域で紹介されている、蕎麦屋さん)
 
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巴御前夫婦の墓(小田原善栄寺)

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小田原から山北町に向って、酒匂川の西岸を昇ってゆきます。
小田原城下には寺が連なっています。
味噌醤油の醸造蔵があって、昔ながらの懐かしい街並みが続きます。
二宮尊徳の生家があって、500メートルほど先に菩提寺の「善栄寺」があります。
県道(新道)は寺の裏を走っていますので、何時もは素通りしていましたが、かねがねお参りしたい、思っていました。
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                      (善栄寺山門まえの六地蔵)
 
 
門前は堀が切られており、勢い良く清流が流れています。
堀は開渠ですので、脱輪しないか心配です。
今でも、この堀で野菜を洗っているのかも知れません。
善栄寺の門前に立つと、昔この寺に来たような錯覚に陥ります。
門前に苔むした六地蔵さんが迎えてくれて、その向かいには庚申塔が立っています。
正面に大きな本堂が聳えています。
でも、トタンの屋根です。
以前は小田原にも茅場があって、村人が総出で屋根の葺き替えをしていたのでしょう。
でも、瓦では重過ぎるし、銅葺きはお金がかかるし、止むを得ずトタン葺きにしたのでしょう。
質実剛健なのが、曹洞宗寺院の特長です。
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本堂前に大きな五輪塔が二基祀られています。
案内が掲示されています。
向って右側が木曽義仲、左が巴御前、カップルのお墓です。
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お二人の墓は全国各地で見ました。
先ずは、木曽義仲の菩提寺、木曽福島の徳音寺です。
御嶽山を背にした、木曽川を見下ろす位置に一族のお墓がありました。
 
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                               (『巴御前出陣図』 蔀関月東京国立博物館蔵)
 
井上靖は巴御前を生き生きと描いています。(歴史小説・兵鼓)
片手に恋を、片手に剣をもって、栗毛の馬に跨って戦場を、時代を駆け巡ります。
日本のジャンヌダルクを思わせます。
倶梨伽羅峠に平家を打ち破るものの、源頼朝との間に不破が生じます。
倅「義高/8歳」を、頼朝の娘大姫と婚姻させ、鎌倉に送り込みます。
しかし、頼朝の不信感を払拭出来ずに、義高は逃亡し、大船常楽寺の裏山に殺されます。
木曽義仲夫婦は義経に追われて、宇治川の戦いに敗れ、琵琶湖畔の粟津に逃げ延びます。
此処で義仲は最期を迎え、巴御前を「女の助けは無用」として故郷に逃げるよう諭します。
後年、この場所に尼になった巴御前は戻って、「義仲寺」を建立、自らの墓標も寄り添わします。
 
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                                               (門前庚申塔の三猿)
 
巴御前は木曽に逃げ延びられず、和田平太郎胤長に捕られ、鎌倉に送られます。
頼朝の指示もあったのでしょう、巴御前は侍所別当の和田義盛に賜ります。
(この段は後世の創作とも思われます)
ところが夫和田義盛も和田の乱で戦死してしまいます。
独り身になった巴御前は、先の琵琶湖畔に詣で、義仲寺を建立します。
また、小田原には律宗の僧、善法真栄上人を勧請して善栄寺を創建します。
 
ジャンヌダルク「巴御前」は身辺の不幸に耐えて91歳の一生を終えます。
(一般には没年不詳ながら1247年説もあるようです)
後半生は、先立った英雄や「ままごと倅夫婦」霊を弔って過ごしたと思われます。
また、憎かった筈の頼朝も死に、実権は執権北条氏に移っていました。
平家物語の”無常”を老いの身に感じていた事でしょう。
 
戦国時代になると、小田原北条氏が覇者として隆盛します。
小田原北条氏三代「北条氏康」には賢婦の誉高い瑞溪院が登場します。
気丈婦として心通じるものが大きかったのでしょう。
巴御前開基の寺という因縁によって当寺に帰依します。
善栄寺を再興し、自ら私財を投じて堂宇を完成し、
宗派を現在の曹洞宗に改めます。
その時に、木曽義仲、巴御前の墓を建立したのでしょう。
自身の墓は本堂裏にあります。
その前を奥に進むと、二宮家の墓があります。
数基の墓標がありますが、「二宮尊徳」の名は見つけられませんでした。
いずれかの墓標の背中にその戒名が刻まれているのでしょう。
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 (二宮尊徳の戒名だけが角卒塔婆に記されていました)
 
お寺の看板はご住職ですが、屋台骨を背負っているのは奥さんである事が多いのです。
だから奥さんに敬意を込めて「大黒さん」と呼んだりします。
小田原善栄寺は「女の寺」であるのでしょう。
 
 
全国各地に木曽義仲・巴御前のカップルのお墓がある事は、後世人々の共感を呼んだ証でありましょう。
 
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                             (木曽義仲、巴御前の墓、背中から写す)
 
 
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                      (善栄寺再興の祖瑞溪院を祀る宝篋印塔 〔ほうきょういんとう〕 )
 
 
 
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夏の思い出「玉紫陽花」の花

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友人が北海道旅行から帰ってきました。
十勝岳に登ったとのこと。
山麓の紅葉は例年に無く美しかったとのこと、
夏が暑く、急激に冷えたからでしょう。
今年の紅葉は期待できそうです。
でも、1週間は遅れているとの事でした。
 
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                                           (今夏最期の夏花、朝顔)
 
我が家の朝顔も儚げになってきました。
初夏を彩ってくれた紫陽花も枯れてしまっています。
家内からは「枯れ花」を刈り取るように言われていますが・・・・、
なんとはなしに放置しています。
もう、夏は過ぎ去ろうとしています。
夕方からは虫の音が庭一杯に響き渡っています。
 
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                                                  (姫紫陽花の枯れ花)
 
紫陽花は初夏の花でありながら、初秋から咲き始める紫陽花もあります。
名前は「玉紫陽花」、多分、その蕾が、まん丸の苞が枝先に着きますので、この名が付けられたのでしょう。
まん丸の玉は、十五夜のお団子のようでもあり、棒術の先端のようでもあります。
鎌倉の随所に玉紫陽花の花が咲いています。
 
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                    (まん丸の蕾が割れて、玉紫陽花の花が顔を出します。瑞泉寺にて)
 
地味で雅味のある花ですが、庭木として植えられることは無いのでしょう。
タネが流されて、着根、自生したものと思われます。
浄智寺の参道にも、瑞泉寺の参道にも咲いています。
 
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   (浄智寺の玉紫陽花)
 
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   (瑞泉寺の玉紫陽花)
 
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                      (海蔵寺の玉紫陽花、どれも山から落ちる渓流沿いに咲いています)
 
 
何処も、渓流沿いです。
1メートル前後の灌木です。
額アジサイ、山紫陽花に似ています。
でも、数段地味な花です。
お寺さんは「折角咲いたのだから、そのまま咲かせてあげましょう・・・」
そんな雰囲気を持った花です。
時折、お嬢さんが「今頃紫陽花が咲いているわ!」
指差しますが、今頃咲くのが「玉紫陽花」なのです。
「初夏に咲いても私に気付かないでしょう!」
呟いているようです。
 
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   (玉紫陽花の葉裏)
 
夏が終れば、秋が順番待ちしています。
それぞれに、楽しみが詰まっています。
 
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 (玉紫陽花の下には手水鉢があって、観音様が見詰めておいでです。この上の段にお茶室が設えられています。羊歯が青々して神が宿るのが解る様な美しさです。瑞泉寺にて)
 
 
 
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藤沢のブドウ畑(岸田果樹園)

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境川は相模の国と武蔵の国の境になっている川でした。
町田市が東京都の飛び地になっているのも、境川が蛇行しているのが原因で無いでしょうか?
川は河岸段丘を形成、二級河川ながら広大な流域を持っています。
藤沢市からは片瀬川と名前を変えて江ノ島で相模湾に注ぎます。
河岸段丘上右岸(東)上を鎌倉街道上道が通っていました。
史跡に恵まれています。
左岸(西側)上には藤沢街道(江ノ島道)が走って、平行して小田急江ノ島線が通っています。
昨今は都市化が急速に進み、藤沢街道の商業集積も相当なものです。
 
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(藤沢街道から少し下ると果樹園が続きます。今日話題の岸田果樹園のブドウ畑)
 
藤沢街道の雑踏を出て、少し河岸段丘に下りれば其処は果樹園が続きます。
栗に林檎、梨にイチジク、葡萄にキュウイと種類が豊富です。
河岸段丘の中を細道が通っています。
この道は野菜に果実を売る店が点在しています。
私は、再三此処で農家から直接購入します。
 
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(キュウイの向こうが岸田果樹園の長屋門)
 
果樹園の中で最も歴史のありそうなのが、岸田果樹園さんです。
高倉中学の周囲はブドウ畑が取り囲んでいて、総てこの岸田さんの農園です。
 
「果樹直売」の幟に連れられて細道を辿ると、突然に立派な長屋門が見えます。
この奥が岸田さんのお宅、この門が販売店です。
岸田さんのお話では、このあたりは砂地が多く、ブドウ栽培には適しているのだそうです。
そして、畑で完熟するまで実らせて採り入れるので、甘味が増しているのそうです。
30種もの葡萄を栽培しているそうで、高級種を長く販売しているようです。
既にファンも多く、長屋門の中は順番待ち状態です。(葡萄狩りはしていません)
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                             (岸田果樹園のある細道)
 
昔から、藤沢本町にメルシャンワイン工場があります。(前に書いた化粧地蔵の前です)
「何故?藤沢にワイン工場があるの・・・・・?」
実は藤沢は葡萄の産地でもあったのです。
 
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                           (葡萄は高級種が多いようで・・・・)
 
果樹園の道を歩いていると、実に爽やかです。
葡萄の木漏れ陽も優しいですし、涼やかな秋風も吹いてきます。
道の先には鯖神社の杜もみえます。(源義朝(源頼朝の父)をご神体とする)
石仏巡りにも最高な小道です。
 
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北条の心を伝える寺「東勝寺」(鎌倉古道)

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藤沢市の北部、境川の中流に高倉町があります。
その河岸段丘の岸辺に佇まいの凛とした禅寺があります。
石柱には「円覚寺派・東勝寺」と書かれています。
「東勝寺」と言えば、北条氏の菩提寺です。
鎌倉の宝戒寺は後醍醐天皇が滅亡した一族の慰霊のために建立した寺でした。
白萩が有名でもう1週間もしたら咲き始めることでしょう。
宝戒寺は北条一族の屋敷跡に建てられたものでした。
滑川を渡れば、東勝寺跡があって、衣張山の登山口には「腹切櫓」があります。
14代執権北条高時が自害した場所でありました。(31歳)
 
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            (山号を”点灯山”と呼びます。北条の灯りを再びつける、と言った意味でしょう)
 
東勝寺は鎌倉上道を約6キロ、町田に遡った処に北条氏に心寄せる人達が建立したものでした。
鎌倉五山を建立し、鎌倉武士団の棟梁代行として役割を果たした北条氏でした。
その気風が、小さいながらも気位の高さを窺わせる伽藍です。
参道には萩や花虎の尾の花が咲いているのも北条のお寺らしいところです。
 
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                                               (萩が咲き始めた東勝寺)
 
北条高時は父貞時が死亡、僅か9歳にして執権になり後見人に安達氏や長崎高資が立ちます。
諸国で悪党と呼ばれる新興勢力が台頭し、正中の変はじめ倒幕計画が発覚します。
そんな中で肝腎の北条高時は「犬追い」や「田楽」に溺れ暴君、暗君として描かれます。
増鏡が太平記など後醍醐天皇治世下に、公家の視点で書かれたからでしょう。
最期の執権が「うつけ者」を要職に着けて置く事は考えられません。
夢想礎石を京都から招聘した人物です。
相当の人物であり、腹の据わった人物だと思います。
お蔭で、幕府滅亡に際して、鎌倉の町は破壊されなかったのだと思います。
だからこそ、後醍醐天皇は一族の慰霊に務め、
此処、鎌倉と目と鼻の先に東勝寺の建立に目くじらを立てなかったのでしょう。
 
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                                                 (萩と紋黄蝶)
 
本堂から裏に廻りました。
ご住職が20メートルはあるでしょうか?
太い孟宗竹を刳り貫いておいでです。
聞けば今週末、お寺さんで「ソーメン流し大会」を行うとの事。
地域の子供達、その親御が集まって楽しむとの事でした。
我が町内でも「ソーメン流し」は夏の行事、
でも、孟宗竹を二つに割って、ソーメンを流す装置を作ります。
ご住職のは表、四分の一を刳り貫くので作業は大変です。
子供達はご住職のこの苦心を知っているのかな?
でも、何れ気付く事もあるでしょう。
 
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六地蔵は参道に新しいものが、墓地入り口には歴史を感じるお地蔵さんが並んでおいでです。
その足許に、陶製のお地蔵さんが沢山並んでいます。
みんな笑顔で、雰囲気は「こけし地蔵」さんです。
「誰が、何のために、何時ごろ」作ったのか興味を持ちました。
ご住職に窺いたい、思ったのでしたが、ソーメン流しの竹細工に集中されていたので、聞かずに失礼しました。
 
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                                    (六地蔵さんと握りのお地蔵さんたち)
 
お地蔵さんに願いをかける、その願いを形にするためにお地蔵さんを自分で作る、
また、願いが成就したら、その御礼にお地蔵さんをつくる・・・・・・。
経緯はいろいろあるでしょう。
「石を彫ってお地蔵さんをつくる」のは素人には困難です。
でも、陶土を両手で捏ねるのなら、素人でも出来ます。
お地蔵さんはこけしと同じ、面倒な持ち物も飾りもいりません。
裸のままの人形です。
で、一生懸命に作ると、自分の顔にも、お母さんの顔にも似てきます。
小さな手を合わせているのは「祈る気持ち」の表れでしょう。
大きな耳や目はしっかり見る、聴くことの重みを表しているのでしょう。
お地蔵さんの脇に「仏性」と書かれた石柱が立っていました。
きっと、陶製のお地蔵さんに「仏性が現れていますよ・・・!」
心の中の仏になる「核」、大事にしましょうね!
そんな呼びかけかもしれません。
 
東勝寺は佳いお寺です。
 
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100年目のお神輿里帰り(茅ヶ崎腰掛神社)

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9月19日、例年なら彼岸花が満開に咲きます。
今年は未だのようなのは、夏の猛暑の影響でしょう。
秋の気配を楽しみたい、茅ヶ崎の丘陵に向いました。
 
小出川は大庭城址公園あたりを源流にして、藤沢から茅ヶ崎に、東西に流れ、湘南カントリークラブの横から相模川に流れ込む二級河川です。
その河畔は彼岸花の名所であり、約12キロ田園の中をウォーキングする人が目立ちます。
今年の彼岸花の見頃は1週間後でしょうか?
チラホラ咲き始めた、そんな状況です。
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                               (花畑の先に小出川、向こうの森は腰掛神社)
 
お花畑を楽しんでいると、南側の森の辺りから、花火が「ドーン・ドン」打ちあがりました。
「何だろう?」
彼方の杜を眺めていると、祭り囃子の音が聞こえてきます。
私の背後(西)が慶応義塾の湘南キャンパス、向かいが茅ヶ崎里山公園の方角です。
その前の森(市指定・天然記念物)が腰掛神社。
今日は腰掛神社の秋祭り・例大祭なのでしょう。
囃子の音に誘われて鎮守の森に向いました。
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   (腰掛神社の例大祭、二基の神輿は里山公園を出発し、尾根道を鎮守の森まで担がれてきました)
 
 
日本武尊が東征に際してこの地の石に腰掛けて大山(西)を眺めた伝説に由来します。
神社本殿の脇に大きな真ん丸い石があるそうですが・・・・・今日は人混みが激しく到底本殿まで近寄れません。
それもそのはず、今日は100年目の大祭なのだそうです。
 
茅ヶ崎の海側に南湖町があります。
其処に金比羅様が祀られています。
金比羅様のお神輿を新しくしたい・・・・・でも。
そこで、腰掛神社のお神輿(明治10年製作)を譲り受けたのだそうです。(明治43年)
以来、南湖町、金比羅様では譲り受けたお神輿を大切に扱って来ました。
ですから、マダマダ現役、よい状態です。
130年以上も担がれたわけですから、もう6世代もの氏子を見てきたお神輿になるわけです。
そこで、今年は金比羅様のお神輿に里帰りしていただき、二台のお神輿で例大祭を盛上げよう・・・
そんな企画でした。
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(手前が腰掛神社のお神輿、向こうが金比羅宮のお神輿、100ぶりの里帰りになりました)
 
茅ヶ崎では「浜降り祭」が有名です。
7月の海の日に市内から40基ものお神輿が海に担ぎ出されて、”ソイヤー・ソイヤー”
波飛沫を浴びます。
塩水にお祓いされて、また各々の神社に戻ります。
烏帽子岩が眺めている・・・・・そんあ湘南最大のお祭です。
 
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                                    (腰掛神社のお神輿)
 
今日は新しいお神輿、古いお神輿、腰掛け神社の森でのそろい踏みです。
祭り半纏を見ると、腰掛け神社、金比羅神社をはじめ幾つもの神社の氏子が参加しているようです。
茅ヶ崎はマダマダ御祭を盛大に行う組織、力が揃っている・・・そんな証なのでしょう。
今日は午前中に神事が集中していて、午後からは演芸なの度お楽しみ・・・・
夜店も並ぶ事でしょう。
 
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            (仲良く並んだ新旧のお神輿、どちらも100歳を越えても綺麗で傷み一つもありません)
 
 
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                 (今夕暮れの出し物案内が農道に貼られていました)
 
 
 
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カップル道祖神の意味するところ(ご長寿祝辞)

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9月20日は敬老の日、私の住む横浜の上倉田町でも、「長寿お祝い会」が開かれました。
私は役柄、最初に来賓祝辞を述べなくてはなりません。
渇舌が悪いと自覚していますので、写真を準備して参りました。
 
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                    (お地蔵さんの姿を模った双体道祖神は相模の国の特徴です)
 
 
この(上)写真、何処の何なのかお解かりですか?
倉田の道祖神です。
同じ大きさ、デザインの道祖神が三体あります。
二つが隣の舞岡町との境の尾根道に、もう一つが子之八幡社の参道に立っています。
お姿は僧の様でもありお地蔵様の様でもあります。
倉田の町の境に立って、町に厄病や災難が遣ってこないように見守る「賽の神」でありましょう。
私達が現世を別れて三途の川を渡る時、守っていただくのがお地蔵様です。
ですから、道祖神をお地蔵さんのようにしたのでしょう。
でも、お二人です。
何故二人なのでしょうか?
現世も夫婦二人で苦楽を共にした、来世も二人で三途の川を渡りたい・・・・・
そんな思いが二人のお地蔵さんの姿にしたものでしょう。
 
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この(下)写真を見てください。
金沢文庫称名寺から1キロほど坂道を下って、州崎町にある龍華寺さんに最近祀られた「ボケ除け観音」さんの足許に居る、お爺さんお婆さんです。
何かを観音様に奉げています。
私は「桃の実」だと直感しました。
「厄除けの桃」は神社に良く見かけるからです。
でも、ツルツルの桃に比べてこれは深い皺が目立ちます。
 
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昨日のニュースに、「奈良山之辺の”纏向遺跡”から2000個もの桃の種が出土した」
載っていました。
邪馬台国卑弥呼の遺跡ではないか・・・・・?
そんな議論も湧いています。
桃の実は桃太郎も生まれた、幸福の源泉です。
さらに、桃の種は子々孫々幸いを伝える「命」であります。
だから、お爺さんお婆さんが”桃の実”ではなく”桃の種”を奉げているのでしょう。
お爺さん、お婆さんの”種”は子から孫に更に曾孫に伝わってゆきます。
 
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奈良山之辺「纏向遺跡」から出土した桃の種(読売新聞HPから)
 
 
                                               
長く人生を楽しむには夫婦仲良く現世を楽しむ事、もしも伴侶に先立たれても、伴侶を「千の風」にして、ご近所と仲良く現世を楽しむ事・・・・・、
それが、「厄除け」「ボケ除け」になるのでしょう。
私達の先人は「カップル道祖神」にそんな姿を残しました。
私達はカップル道祖神のように夫婦仲良く、ご近所と親しみながら現世を楽しみたいと思います。
 
今日はご長寿の祝辞に、カップル道祖神を紹介させて頂きました。
   「おめでとうございます・・・・!」
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 (龍華寺のボケ除け観音、足許の爺さん婆さんの奉げ持つものは”桃の種”、 龍華寺は同席した議員さんの       菩提寺と言う事で、感謝されました。)
 
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秋のボラ、柏尾川にて

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北海道では鮭が遡上する季節です。
今年は暑かったので、秋刀魚同様に鮭も姿を見せないとか・・・・少し心配です。
でも、遅れているだけで、寒くなれば寒流が南下、鮭も姿を見せる事でしょう。
鮭が遡上するのは産卵するため・・・・・、
淡水で産卵、幼魚が海に帰って、成魚になって故郷の川にまた戻る訳です。
 
逆に海で産卵、幼魚が淡水に戻ってくるのがボラです。
春先にボラの稚魚が群れを成して遡上します。
数年前、品川の立会川にボラが遡上、その量の多さが話題になったことがありました。
そして、成魚は秋になると海に戻って産卵します。
隅田川では、ボラは良く食べられたそうですが、川底の藻などを食べるので、汚れた川では悪臭を伴うようになってしまいます。
ですから、最近は全く食べられなくなってしまったようです。
 
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                                        (群れで泳ぐボラ。柏尾川)
 
秋になると柏尾川も水が透き通って、魚影を良く観察できます。
ボラは「大きなメダカの学校」のようにして、群れて泳いでいます。
少し増え過ぎの気配もある「川鵜」の胃袋を満たしているのがこのボラでしょう。
鷺も鵜も「鵜の目鷹の目」でボラを狙っています。
 
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                                        (大きいのも小さいのも群れを成すボラ)
 
4年程前、柏尾川の支流「岡津川」で魚数調査をした事がありました。
県治水課職員から「最も魚数が多かったのは何だと思いますか?」
クイズが出されました。
私は柏尾川の観察経験から「ボラでしょう」確信して答えました。
「違います!正解は鮎です」
教えられました。
相模湾に注ぎ込む相模川も酒匂川も鮎の漁場です。
柏尾川に鮎が居ておかしくは無いのですが、最大魚種とは意外でした。
私は質問しました。
「では柏尾川で鮎を釣って、川岸で塩焼きしても良いのですね!」
答えは
「相模川等には漁協がありますが、柏尾川にはありません。誰も罰したり文句を言ったりするものは居ないと思いますよ」
「では、何時か柏尾川で芋煮会をやってみたいものです・・・」
 
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                       (ボラを食べるダイ鷺、柏尾川)
 
 
 
ボラの話に戻しましょう。
関東ではボラの稚魚を「オボコ」と呼びます。
漢字に直すと「未通女」と書きます。
「オボコを食べると少女の味や匂いがするのかな?」
想像したりします。
大きくなるに従って、オボコは「イナッコ」「スバシリ」「イナ」「ボラ」のいなります。
そして最後が「トド 」だそうです。
「とどのつまり」に使われる「トド」です。
成長魚、出世魚は数多くありますが、最も多く名を変えるのがボラなのでしょう。
と言う事は、最も人間に身近であった、美味しく食べられた魚だったのでしょう。
今では卵が「カラスミ」になる魚・・・として知られる程度です。
でも、川に臭さが無くなれば、江戸前の握り寿司のネタに復権するかもしれません。
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   (蒲の根元で又卵を抱き始めたカイツブリ、年中子育てしています。カイツブリもボラを食べてます)
 
どんな味がするのか・・・・
知っているのは「川鵜」かもしれません。
でも、川鵜は鵜呑みするだけで、ボラの味は知らないかもしれません。
「背びれがないイナセな魚だ!呑み易い・・・・!」
答えるかも知れません。
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  (ボラを食べる川鵜、青鷺。大型の水鳥の胃袋を満たしているのがボラだと思われます)
 
 
柏尾川の川風も秋の気配です。
ボラも海に帰る気配です。
季節はドンドン進んでいってしまいます。
年齢と共に時間の進みが速くなってしまいます。
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  (柏尾川の川鵜)
 
 
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夜咲く花、二態

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昨夜は十五夜、横浜でも素晴らしい満月を仰ぎ見る事ができました。
夜咲く花は、月明かりが明るい満月こそ期待しているのでしょう。
「夕顔」に「宵待ち草」、そして「白粉花」に「カラスウリ」・・・・・数多くあります。
 
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                                     (共同通信社NW・インターネット)
 
蝶や昆虫の眼は色彩は判らないそうです。
ただ、明るい色に吸寄せられる・・・・、
従って、夜咲く花は出来るだけ目立つ明るい色になるか、強い芳香を漂わせる・・・どちらかでしょう。
 
私が小さかった頃、母と姉が映画に行くと言います。
「私も連れてゆけ」、おねだりして行ったのが「夜の蝶」、
改めてインターネットで調べると、昭和31年、京町子、山本富士子が演じる水商売をする女同士の戦いでした。
小学3年生にはインパクトが強く、私の性格(趣向?)形成には少なからず影響を及ぼしたと思います。
成人してから、高瀬川(京都)、道頓堀川(難波)の夜、”映画のロケ地は此処ではなかったか!”思うことが何度かありました。
 
話がそれました。
夜の蝶とは「蛾」のこと。
昼間は様々な花が咲いて、目立つものも多くあります。
夜になれば、花にとってはライバルも少なく、蛾を吸寄せるには月明かりが最高です。
 
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                                                  カラスウリの花
 
カラスウリは真っ白い、投網を投げたような真っ白い花をつけます。
妖艶と言うか、悪魔的な美しさです。
吸寄せられて、絡みとられと、殺されるような感覚も覚えます。
もうじき、真っ青な実が着いて、晩秋になれば真っ赤な実がなります。
”カラスウリ”の名がついた由縁の”瓜”です。
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川原の土手に、道端に白粉花も夕方から花を開きます。
花が筒状で、先が開いて、密腺が花の奥にあるのは、蛾を長い間花に留まらせる”トラップ”なのでしょう。
受粉を終えれば、子房が膨らんで丸い黒い種が出来ます。
黒いのは種の皮だけ、中は白い塊りです。
白い塊りを押しつぶせば”粉”になります。
白粉の由縁です。
少女の頬っぺたにチョコン、塗ってあげたいような、白粉です。
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   (夕暮れから花を開く白粉花)
 
花は太陽の下に咲いて、綺麗な蝶を集める・・・・・
これがノーマルな世界です。
花も月明かりにこそ目立って、蛾を集めて受粉させよう・・・・・
こうした世界は矢張りアブノーマルな世界です。
でも、アブノーマルな世界にこそ、強い刺激とトラップがあります。
一度溺れると、中々這い出る事ができません。
今週も、トラップに嵌った人のニュースが駆け巡りました。
押尾学に野口美香、田代まさしに・・・・・、
懲りないのもその世界の特徴でしょう。
 
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(白粉を塗ってあげたいな!)
   
 
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赤い鳳仙花(今泉不動尊にて)

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夏から秋にかけて、鳳仙花が咲きます。
小学校の校庭に、お寺の庭に、一寸古風なお宅の玄関に・・・・・、
私の生家にも毎年鳳仙花が咲きました。
種蒔きした訳でもないし、宿根草でもないのに・・・・
毎年種が散って、何時しか背丈を延ばして、暑い最中に咲き出して・・・・、
そして秋になると紡錘状の果実が出来て、一寸触ると果実が弾けて、黒い種子が四方八方に飛び散ります。
種が飛び散るのが面白いので、大きく膨らんで、透き通ってきた果実を選んで、触りました。
息を止めて、指先を伸ばして、触ります。
強く触れば、弾けるのは解っています・・・飛び散る瞬間を楽しみます。
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                                           (今泉不動尊の鳳仙花)
鳳仙花の花言葉は”私を触らないで”、
少し、意味深です、
でも、触ると私は弾けてしまいます、だから触らないでね・・・・
花言葉の由来は簡単です。
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小学校の校庭に咲いているのは、理科の実験で使うから。
インク液を吸い上げさせて、茎を薄く輪切りにしました。
顕微鏡を覗くと、茎の構造が見えました。
導管があって、師管があって・・・・、
 
赤い花弁を絞って指の爪に垂らせば、赤い爪に染まりました。
明礬を加えれば赤色は一層冴えて、長持ちしました。
少女は遊びながら、夢を見ました。
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                                  (六地蔵の足許に咲いた鳳仙花/今泉不動尊)
 
鳳仙花は鳳凰の鳳の字と仙人の仙の字の合成語、
想像できるように「漢方薬・鳳仙」の原料になる花だそうです。
仙人の薬ですから、何でも良く効く、
全草を乾かし、膏薬にして「打ち身や捻挫」、傷薬に、
肝臓・腎臓・膵臓・目・鼻を活性させるし、 鼻炎・アレルギー性皮膚炎・気管支喘息にも効果があるそうです。
冷え性にも、また種をエキスにして飲めば避妊薬にもなるそうです。(子宮を収縮させるそうです)
まさに万能薬、だからこそ「鳳仙花」なのでしょう。
室町時代宋国から日本に伝わり、薬草として尊重されました。
そして、自生し、愛される草花として定着しています。
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                                 (水子地蔵を慰める鳳仙花/今泉不動尊)
 
鎌倉今泉の「今泉不動・称名寺」の境内には鳳仙花が自生しています。
何れも濃いピンク色です。
弾けた種が雨水に流されて、境内の隅で発芽したものでしょう。
石仏の周りに咲いています。
花陰で、仏達も癒されているように見えます。
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                                             (セイタカ童子像)
 
境内の奥には不動明王の祀られた櫓(やぐら)があります。
櫓の前には、黄色い「釣船草」が咲き始めました。
鳳仙花はこの釣船草科の花なのだそうです。
仲間にはインパチェンスもあります。
どれも半日陰を好んで生育します。
此処、今泉不動は円海山の西、山陰にあります。
屹度、鳳仙花にとっては最高の生育環境なのでしょう。
 
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                                             (櫓の前に自生する釣船草)
 
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                              (二つの櫓には各々不動明王が祀られています)
 
「私を触らないで」花言葉には、でも「一寸ならいいわよ・・・・・・」
そんな複雑な気持ち、少女から女性に変ろうとする・・・・、
含まれているのかもしれません。
 
島倉千代子も、中島みゆきも、加藤登紀子(韓国民謡)赤い鳳仙花を歌いました。
女性の気持ちを映し易い花なのでしょう。
 
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  (地蔵さんは自らの体が重いので膝上まで地中に潜ってしまいました、手前は鳳仙花)
 
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