テレビも新聞も今年の紅葉の見事さを報道しています。昨日は[日光のいろは坂]今朝は[甲府の昇仙峡]でした。今年は蕎麦も茸も藻屑蟹も豊作豊漁だそうで。私も病で無ければ早速友人を誘って出かける事でしょう。でもこの身体では思うに任せません。書庫から山頭火を引き出してきて埃を払い、山頭火のお供をして旅に出る事にしましょう。
行き先は一昨年友人と行った豊後の耶馬渓です。
防府駅前の山頭火像、小郡駅前にも銅像があります。筆者の博多時代車で1時間でした。
種田正一は1940年昭和15年10月11日山口県の防府市の富豪の家に生まれましたが、実父が放漫で正一が早稲田大学在学中に破産し正一は大学を中退せざるを得ませんでした。加えて正一自身も激しい神経衰弱に痛みます。防府に戻った正一は父の新規事業(酒造業」手伝いますが、事業も失敗し父は出奔、弟は自殺します。正一は友人の支援を受けて熊本に出て、奥様(種田サキオ)と二人で古本屋を営みます。
熊本での生活では常に空虚感や欠落感が付き纏い酒におぼれるようになっていました。その日も泥酔していました。正一は突然にし路面電車の前に飛び出してしまいました。乗客も野次馬も正一を激しく批難します。一部始終を見ていた新聞記者が正一の腕を掴んでを有無を言わせず、市内の報恩禅寺(曹洞宗/千体佛)住職・望月義庵に預止めました。
正一にとっては初めての僧坊生活でしたが、静かなれらでの生活に馴染んで行きます。1924年((大正14年)には、得度し「耕畝」と改名し、味取観音堂の堂守となります。観音堂の坊守となって名前も「耕畝」と付けられました。「耕畝」という名からすれば周囲も種田正一がは、田畑を耕作して、普通の僧侶になるチャンスになることを期待していたのでしょう。
ところが、正一はそんな普通の僧侶への道を自ら閉じてしまいます。
師からは永平寺に入山し修行を積むよう諭されたのでしょうが、「永平寺ではお酒は禁じられている」知るや、折角の坊守の安定を捨てて旅立ってしまいます。
熊本から東を向けば阿蘇山です。
昭和8年(51歳)長府町での山頭火この後体調を悪くし自殺未遂し昭和13年没す(56歳)(出典山頭火の生涯/大山澄汰著)
自らを山頭火(俳人としての雅号)と名乗ります。山頭火とは「納音/とつおん」の一つですが、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」でした。正一は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入ったと言っています。九州の住人は阿蘇山を愛していますから、静かに田畑を耕すな生き方よりも阿蘇山のようにありたいと思った事でしょう。
り、熊本から東に向かいます。最初の目的地は朝の東南にある都城でした。都城には山頭火を支援してくれる友人が居たのでした。途中五個荘椎葉村で有名)民家(の山村を歩きます。
「分け入っても分け入っても青い山」
秋山巌さんの作品
五個荘、馬見原、から高千穂に向かいます。行方が決まっているのではありません。黒い法衣を着て鉄鉢を持ち、農家の軒先に立ってお経を風呪して、乞食しながら浮草のごとく、流れる雲のごとく大自然に任せて行けるとこまで歩いて行く日課です。
食べられなくなったら潔く死のう、これが山頭火の心意気だったのでしょう。
一日歩けば頭汰袋の底には小銭が溜まっています。小銭を数えて木賃宿に泊まりました。
宿の文机の脇にはお酒が少々。そして旅日記を綴ります。ほろ酔い気分で宿で友人や別れた奥さんに葉書を書きます。葉書を受け取った友人は、山頭火が次にどこに向かうか承知しました。そして向かった先では別の友人が歓迎してくれましたし、郵便局に為替で生活費の支援してくれていました。
そんな次第で、40代でありながらも旅を続ける事が出来たのでした。椎葉村は蝉しぐれでした。木賃宿で突然に旅日記を燃やしてしまいます。俳句が生きが居であった山頭火は旅日記を綴る自分に何処か未練がましさを感じたのでしょう・。
かなかな啼いてひとりである
ひとすじのみずをひき一つ家の
秋焼き捨てて日記の灰もこれだけか
河合玉堂氏の「彩雨」山頭火の句のイメージです。
托鉢していると様々な人の喜捨を受ける事になりました。
ある農家では奥から老婆が腰を曲げて出てきて報謝してくれました。
老婆を見ると山頭火は世話になった祖母を想い出します。父の放漫で大種田家は没落してしまっても、祖母だけは正一を引き受けてくれたのでした。祖母の厚恩に対して自分は何も報いていない。ただ肉親を心配させて悩ましただけである、思うと情けなくなってしまいます。何のために毎日日記を綴っているのか解らくなってしまいます。自分は「俳句にだけ命を懸けているので言い訳のような日記は焼き去ってしまいもっと身軽になろう」、思ったのでしょう。そこで、焚いてしまったら、灰が少しだけ残ったのでした。自分の行乞(托鉢行)もこの程度に軽いものであった、自省するのでした。
山頭火は旅日記を焼いてしまいます。心の重みも落してしまいタイ、そんな気持ちだったのでしょう。
高千穂から豊後にかけて、は温泉が沢山あります。山頭火の足は竹田(子守唄で有名)から湯の腹温泉、更に由布院温泉に向かいます。温泉に入って疲れた両足を投げ出して、全身を温めますそして焼酎で身体を中から温めます。更に胸の奥まで大気を吸って、温泉水が胃腸に効くと聞いて腹一杯温泉を飲みます。大自然に身を任せて句作に励みます。
自分の作品は数多くの友人そして恩師の萩原井泉水先生、後輩のライバル尾崎放哉が期待している、確信しているのです。彼等に読んでもらいたい、そうして句作に埋没したのでしょう。
子供達が山頭火の後を着いてきました。大きな傘を被った禅僧姿が子供達には興味があったのでしょう。更に暫く行くとお寺参りのお婆さんにすれ違いました。行きずりにお婆さんは鉄鉢に2銭を投じて呉れました。みれば2銭の一枚は白銅貨[5銭)でした。山頭火は老婆を呼びとめて白銅貨をお返ししました。山頭火は人々の報謝を喜んで受ければ受ければ良いだけで、托鉢行は老婆の仏心、自分の仏性を呼び覚ませば良いだけで食べる為だけではないのですから。何時しか、山頭火は乞食から行乞(托鉢)様になってきました。谷川に映る自分の顔が何時の間にか「良い顔」になって来たのに気づいてにんまり致します。
豊後路は柿が名物です。山頭火は時雨を避けながら柿を齧りつつ、」托鉢のの足を速めた事でしょう。
投げ与えられた一銭の光だ
馬に踏みにじる草は花盛り
ゆっくりと歩こう萩がこぼれる
豊後路は温泉も酒も焼酎も人情も豊かな土地でしたから山頭火の托鉢行の目的地としては最適でした。写真は山移集落の酒屋さん(ほのぼの茶屋兼営
都城から高岡に向かいました。
朝8時に宿を立ったのでしたが悪寒がしてきます。
お堂を見つけてその板敷の上で寝転んでいると
童に呼び起こされます。
童はこの上でお休みなさい。言って茣蓙を敷いてくれました。
悪夢のような時間が2時間ほど経過して目が覚めました。
周囲を見回しても童の姿はもう見えません
大地冷え冷えとして熱のある体を任す
このまま死んでしまうかもしれない土に寝る
少し元気になったのでの軒から軒に行乞しながら回ります
ある家ではお婆さんが山頭火の読む修証義(道元の教えの真髄を説いたお経)を読みました。お婆さんは山頭火の読むお経に聞き入るばかりで、断りもしなければ喜捨もしてくれません。次いで山頭火は観音経を読み始めます。ようやくお婆さんは鉄蜂に1銭を投じてくれました。1時間お経を読んでいたので、山頭火の熱は完全に引いて建興を回復していたのでした。山頭火は漢音様のご利益と直感したのでした。
山頭火は早めに托鉢を打ち切りお風呂に入って寝る事にしました。勿論お酒でほろ酔いになって・・・。そして書き綴ります。
歩かない日は寂しい
飲まない日は寂しい
作らない日は寂しい
山頭火は天涯孤独でした寂しいのは当然です。でもこの言葉の裏を返せば「一人で無心に歩き、一人で飲んでいる事、一人で句作に励んでいれば・・・・、と寂しくないと解ります。山頭火は無心になる事で寂しさを忘れる事が出来たのでした。
そして山頭火はこの秋の旅の白眉「耶馬渓」に入って行きます。明日は耶馬渓の山頭火を書いてみます。
五箇荘から豊後に懸けては温泉が無数にありました。温泉に入って地酒を飲みほろ酔いで句作に励むのが生きがいでありましたし徹する事で、修行であったのでしょう。(写真はの共同湯/湯の壺)