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憂いは深し秋海棠

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秋台風は「種子島で東に曲がらないで、昌直ぐ北上して呉れれば」と思うのですが、毎回決まったように種子島で方向転換して日本列島沿いに遣って来ます。真っ直ぐ北上していればソウルですが、ソウルはもう冬の高気圧の下で気温は7度の寒さです。熱帯生まれの台風は寒いのは苦手で、偏西風に乗って東に方向転換してゆっくりゆっくり関東に向かうようです。台風19号の予想進路通り、テレビでは九州や四国の状況を映していますからこれは大変危機感が高まりました。でも杞憂だったようで今朝は晴れ渡っています。昨晩の雨もはたいしたことは無く、風台風でした。我が家の老木が倒れて、お隣の屋根、新設したソーラー発電機を壊したら心配です。
そんなことで私は外の気配を伺いながら一夜を明かしました。
携帯を見れば13日の7時35分に「避難準備情報」が入って、日が変わった14日の0時30分に「避難解除情報」が入っていました。18号では支社人も出した横浜市職員も安堵していることでしょう。
家内は今朝も暗いうちから庭に出て風台風の被害状況を確認して回っています。ワン君も兎ちゃんも寝不足の様子で出てきて「飯はまだか」催促している気配ですから、先ず一安心しました。
町内をリハビリ歩行していると秋海棠の花が目につくようになってきました。
海棠の咲く頃に今年は入院していましたから見られませんでした。その分秋海棠に眼を奪われてしまいます。
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鎌倉妙本寺の街道の海棠の花。小林秀雄が中原中也の恋人を略奪しこの花を眺めながら葛藤したので有名です。
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同上アップです。向こうのお墓は比企一族の墓です。
秋海棠は春海棠のように華やかな花で秋に咲くのでこの名が付いているのでしょう。秋は地味な花が多いのでピンクの秋海棠は本当にお目立ちです。
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厠の脇の秋海棠の花(葉も花弁も乙女チックなハートです。(海蔵寺)
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路地に咲く秋海棠の花
9月9日は「重陽の節句」ソロソロ菊の花のお料理が食卓を飾るでしょう。菊もホトトギスも秋の花は総じて[老い」を感じさせます。冬には枯れてしまうので、その直前をイメージさせるので「枯れる前の華やかさ」をイメージさせるのでしょう。そんな中で 秋海棠だけは若々しく命を感じさせます。葉っぱもハートならば花弁も一枚一枚がハートの形です。神様が秋海棠をデザインされた時パレットの上にはハートしかなかったのでしょう。
若しかしたら神様もこの時「片思い」していたのかも知れません。
そんな訳で秋海棠の花言葉は「片思い」です。「私を見て視て!私片思いなの、でも綺麗でしょう!」乙女が言っている様に見えるのです。
春海棠は「略奪愛」ですから、春と秋では随分違います。略奪愛には悲しむ人が出ますが、片思いは犠牲者は出ませんし、少女も片思いの時が一番綺麗なのです。
片思いの思い出を偲んで秋海棠の花は頭を垂れながら秋風にゆれています。吾亦紅と言い、秋海棠と言い、野薊といい、秋の花には憂いが深いものです。
 
君待つと我が恋ひ居れば 我が やどの簾動かし秋の風吹く   【額田 王女】(ぬかたのおおきみ)
 
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吾亦紅の花
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野薊(南軽井沢で撮影)
 
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青は侍の色

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昨日「10月14日」は台風一過の晴天でした。空は底抜けに青く。風は軽くて爽やかで、気温も25度まで上昇して、好い日でした。ラジオの世界の天気では北京は3度でスモッグで視界不良との事日本の自然は実に恵まれています。
台風や火山で神に恨み辛みを言いそうでしたが、昨日は感謝感謝でした。でも今朝は寒いし、雨が降り出してきました。
秋が深まると、日一日一日空気が澄んで空が高くなるようです。そんな空気や空に呼応してブルーの花が目立つようになってきました。
鎌倉の街を歩けば路地裏に桔梗が咲いていますし、庭隅に咲く笹竜胆も今が盛りです。山に行けば、釣鐘人参もウツボカズラも青色です。
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台風一過空は空気も軽く底抜けのブルーです。
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源氏の紋所笹竜胆も青です
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マツムシソウも青です。
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釣鐘人参イワシャジン(岩沙参)の仲間も青です。
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布袋草も青です。
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鎌倉露地の桔梗(大仏次郎屋敷近く)
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ウツボカズラ(鎌倉の広町緑地)
古代「禁色/きんじき」が厳しく管理されていました。
禁色といっても、お坊さんが女性と交わる事を禁止したのでもなく、高貴な色を着ることを禁止したものです。
上着(袍(ほう』の色は最上位を(櫨染こうろぜん)と呼びは天皇以外誰も使用することが出来ない絶対禁色でした。その次の色は青(青(青白橡)。赤(赤白橡)等と決め皇太子の色にしました。宮中に参上する時、外出する時、家で寛ぐ時でも禁色は守らなくてはなりません。しかし、天皇から禁色を解かれれば合は皇太子しか着られない青も黄丹も着ることが許されました。られたのでした。
春になれば女性は黄色や朱色の着物を着たくなるものでしょうから。禁色も解かれれば得意満面であった事でしょう。そこで御簾の下から裾を見せたのでした。
でも、白と黒は別格で、白は汚れや穢れの無い色で神々しいと思われましたので、斎宮を始め神に仕える人達が着られrれましたし、黒は死者への喪を表現する色でした。だから黒白は着る事は憚れました。
でも、庶民が着る服は次第に汚れて黒くなるもんです。一番安い染料は団栗(黒)でしたから、汚れたような黒は一般色だったようです。
 
源氏が竜胆の花を家紋にしたのも、袴や上着にしたのも、武士が青を好んでいたからでしょう。
この伝統は江戸っ子の祭り半纏にも承継されているようです。鎌倉でも藤沢でもお祭りの着衣は白い晒が基本です。でも晒の上に着る半纏は青が目立ちます。
鶴岡八幡宮の例大祭で赤い袴の巫女さんを観るのも眩しいのですが、青い袴に白い上着、そして黒い烏帽子姿・・・は清々しくていいものです。
清少納言風に言えば「いと おかし」「うつくし」「きよげなり」誉め言葉を浴びるものでしょう。
中世になって武士の地位が上がって来ると武士は好んで青を使う様になります。青は心に二心(ふたごころが無い)意味であったのかも知れません。武士は好んで青を着ました。
武士の肖像画と言えば青い裃を着ています。
新撰組もブルーの半纏を着ました。
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藤沢江の島のお祭りも青い祭り半纏斑点が目立ちます
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鎌倉八幡宮の例大祭白い晒に烏帽子をかぶって袴は青で穢れない姿でお神輿が神前から街中に練って行きます。
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鹿島大明神の鯰絵「自身除けの護符絵)大神様は青い苞を着て居られます。平賀源内の肖像画など武士は大抵が青い上着です。
 
 
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蓮の露

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今朝は随分冷え込みました。窓から外を見れば富士山の頂に白いものが見えます。ラジオでは安曇野に白鳥が飛来して来たとか。もう冬は真近かのようです。
図書館に頼んでおいた手毬(瀬戸内寂聴尼)が届いたそうで、家内に取って来てもらいました。
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戸内寂聴さんの書かれた手毬。筆者は落涙止まらず2度読みいたしました。遠藤周作さんの「沈黙」以来の感動の書でした。装丁は中島千波さんでした。
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「手毬」の構想は貞心尼さんの「蜂の露」を基本にしたもの。貞心尼さんの筆は師の良寛さんに似て美しく自由闊達でありました。
手毬は貞心尼が師「良寛和尚」の遺稿や想い出をを整理して「蓮の露」に記した、その遺稿集をベースにして、良寛和尚の信仰を小説に著したものです。
良寛貞心尼の舞台であった新潟や出雲崎や寺泊の旅行記は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42295771.html
今では良寛さんは知らない人も居まないでしょう。それもこれも貞心尼さんが遺稿集を整理されたからです。私の敬愛する相馬御風も吉野秀雄も貞心尼さんが「蓮の露」を著さなければ、無為な一生を終えていたことでしょう。貞心尼さんの功績は大きなものがあります。
貞心尼は押しかけるようにして良寛に弟子入りして、良寛の最期を看取ります。そして師の思い出を整理して冊子にまとめ、お位牌に供え朝晩供養しますそれが「蓮の露」でした。貞心尼は「自らの追憶の料」として記した、と書いています。屹度地蔵和讃を唱えていたことでしょう。若しかしたら「手毬歌」だったかもしれません。寂聴さんはわらべ歌だと言いたげです。
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23歳で夫と死別した貞心尼は1828年【文政10】貞心尼30歳、良寛70歳」島崎の木村家の離れで遭います。寂聴さんは二人の間には恋愛感情は無く良寛の慈悲と貞心尼の憧れだけがあったと説明しています。
根拠は蓮の露の次の総門うたでした。「もう遅くなったのでお帰り下さいと言う気持ちで良寛は歌にします。
誘いて行かば行かめども人の見て怪しめ見ラらばいかにしてまし。
この歌に対し貞心尼は次のように返します
「鳶はとび雀はすずめ鷺はさぎ烏はからすなにか怪しき」仏に仕える身ですから何もやましい事はありません。
どちらかと言えば貞心尼の勝気な性格や積極性が目立ちます。
 
蓮は、清らかさや聖性の象徴として称えられています。 「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という姿が共感を呼んだのでしょう。泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされました。貞心尼さんにとって良寛さんの短歌や漢詩が、蓮の葉に輝く露のように珠玉に映ったのでこの名を冠したのでしょう。
今はもう蓮の葉は野分で千路に破れています。加えてこの寒さですから、直に枯れてしまうでしょう。
永井荷風は蓮が野分を受けて流す姿を観て荷風の名を名乗りました。蓮は浄土や来世をイメージするだけでなく現世の実相も見せつけるものでありました。蓮の実は枯れてしまうと泥水に浮かんでいます。その姿が髑髏(どくろ、されこうべ)のようにも見えます。小野小町は若いときは美しく、高名を欲しいままにしたものの、何処で死んだかも判りません。日本中に小町の墓があって野垂れ死にした、と伝えられます。
日本人は小野小町を無常と憐み、を蓮の花に連想しました。
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枯れた蓮池殺伐とした景色が寂寥感を深くします。
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鎌倉八幡宮の源平池の蓮
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枯れて沼に浮いた蓮の台この形が蜂の巣の語源です。この上に仏が座られるので、仏座都下蓮台と呼ばれます。
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美人の代表小町の一生は最後に髑髏小町になります。日本人の死生観に強い影響を与えました。
「蓮の露」には、貞心尼が良寛の噂を聞き良寛に憧れて以来押しかけるようにして弟子にして貰い、最後に良寛を看取るまで、二人の間で遣り取りされた相聞歌が記されています。
飾らずにストレートに心情を吐露する歌は万葉集を髣髴させるものであり、プラトニックな愛は万人の共感を呼び、とりわけ良寛の最期は落涙を止められません。
良寛様は下痢をしてなくなります。貞心尼は掌で患部を触ります。下を綺麗に拭いてさし上げます。仕上げに男の印を指でチョンします。良寛さんは貞心尼の掌が温かくて気持ちが良いと言われてを伏せます。
良寛さまの身体がドンドン冷えてゆくことに気づきます。貞心尼は布団に入り自らの体温で良寛さんのお身体を温められます。
すると悟って居た筈の良寛さまはハラハラ涙を落し。「死にたくない」と仰りました。三条地震では「死ぬときは死ぬこと、それが災難を逃れる妙法である」と看破していた良寛さんなのに不思議です、「悟りが冷めて凡夫に戻ってしまったのか」驚きます。寂聴さんは良寛さんが「優しい人に囲まれているので死にたくない」と言わせたのでした。
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良寛が1828年三条地震に際して同地の資産家山田さんに宛てた手紙「災難に遭う時節には死ぬときは死ぬ」これが災難除けの妙法と書いている。(出典良寛朝日新聞社」
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「天寒し自愛せよ」の言葉が胸を打つ良寛の手紙「出典同上」
 
そして流石に寂聴尼さんです。で、手毬と手毬歌を介して良寛の信仰と法華経の真髄を解り易く説いて下さります。明日はそのあたりを書く事にします。
 
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月の兎の話(良寛長歌)

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昨日に引き続き瀬戸内寂聴さんの「手毬」を素材に書きます。
私達は童謡の「兎」では次のように歌いました。
 「兎、兎なにみて跳ねる十五夜お月さん見て跳ねる」、
童謡は“月の兎”の話は『今昔物語』から採っています。
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今昔物語の兎は「今は昔、天竺に兎・狐・猿、三の獣がいて、菩薩行を競っていました。と始まります。
その三匹の獣の前にやつれた老人が現われます。すると、、猿は木の実を拾い、狐は川原から魚を咥えて老人に奉げました。ところが兎はあっちこっち探しても奉げる物が見つけられません。そんな兎を見て老人は「お前は他の二人とは違うな」と言います。
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法隆寺玉虫厨子下段の正面が』、『雪山童子施身聞偈図』側面が、『捨身飼虎図』、で仏の慈悲を現わしていると言われます。
すると兎は切なそうな顔をして、「猿さん猿に柴を刈ってきてくれ、狐さん、火を焚いてくれ」と言うなり。      自らは燃え盛る火の中に身を捨てたのでした。
老人は実は天の神様の「帝釈天」でした。
帝釈天は「兎の捨身した姿こそ慈悲行であり尊い、あまねく人の見せるため月の表に映すことにする。」こうして私達はお月様を見上げる度ごとに仏の慈悲を想い願う様になったのでした。我が身を捨てて他人に施す、慈悲行の行の教えは法隆寺の玉虫の厨子、『捨身飼虎図』、『雪山童子施身聞偈図』はじめ数多く描かれています。仏教の根幹にある教えでありました。
良寛さんもこの兎さんの話がお好きだったのでしょう、長歌にされています。
貞心尼も良寛さんの長歌を書き写していました。
石の上 古(ふ)りにし美世に(石の上は古いにかかる枕詞です)
有りと云ふ 猿)と兎と狐とがとが 友を結びて
朝)には 野山に遊び夕には 林に帰り
かくしつつ 年のへぬれば
かくしつつ としのへぬれば
久方)の 天(あめ)の帝(みかど)の (久方は天の枕詞です、天の帝は帝釈天の事です) 
聴きまして 其(が実(まこと)を
知らむとて 翁となりて
そが許(もと)に よろぼひ行きて
まうすらく
(中略/兎が捨身をしたのを確認して)
翁は是を 見るよりも
心もしぬに 久方の
天(あめ)を仰ぎて うち泣きて
土に僵(たお)りて ややありて
胸打ち叩き まうすらく
汝らみたりの 友どちは
いづれ劣ると なけれども
兎は殊に やさしとて
骸(から)を抱て ひさかたの
月の宮にぞ 葬りける

この長歌は、兎の捨身の心、慈悲行を賞賛しています。
良寛さんは、悲しい思いをした人に向かって「月を見るごとに此の兎をを想いなさい」と諭しました。
 
貞心尼は木村家の庵に良寛さんを訪ね雅ます。でも良寛さんは不在でしたので
肌着と手毬と手紙を置いて立ち去ります。
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良寛さんが愛用したと伝えられる手毬(長岡分水館蔵)貞心尼は手毬の芯にゼンマイの綿毛を詰めて鈴を蚕の繭に入れて作りました。その結果良く弾み搗くと鈴の音が響きました。良寛さんも大事にされた事でしょう。この手毬は絹糸で鳳凰がデザインされています。
 
すると直に良寛さんから礼状が届きます。
「折角お越しいただいたのに不在して失礼いたさいました。またお越しください、私もお会いしたいものです。手毬と肌着をありがたく頂戴しました。」
つきてみよ ひいふうみいよいむなやこことおとおさめてまたはじまるを
(手毬をついてみなさい、1.2.3.4.5.6.7.8.910で返してまた1.2.3・・・・・」といった極単純な歌が添えられていました。
良寛さんは禅僧ですから、座禅に際しては1.2.3.4と呼吸を整えたことでしょうから。禅の修行法くらいに受け止めるのが普通で、この数え歌に深い意味があるとは思いもよらないものでしょう。
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良寛手毬図。分水町良寛記念館蔵三森三九の絵に良寛さんが讃を書き加えたもの。
 
そしていよいよ貞心尼は良寛さんに遭う事が適います。
貞心尼は初見なのに昔あった事があった様な懐かしさを感じて初めて会ったような気がしません。そこで
「人間には前世があるのでしょうか?」質問します。
すると良寛さんは
「おそらく前世はあるし来世もあるであろう」と答えられます。
すると貞心尼は
「おそらく私は良寛さんの娘か可愛がっていられた兎かも知れません」と答えます。
13夜(慈悲の仏様勢至菩薩の晩)に良寛さんの「月の兎」を読みました。目が潤んでしまい13夜のお月様には兎が一杯に見えました。
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我が家の玄関、兎が重なって3匹に見えてしまいます。、鼠は縁起物です。林檎は香りが良いので置いています。山茶花がもう咲き出しました。
寂聴さんは「手毬」の前半で「月の兎の長歌を紹介しています。それは読者に慈悲行とは何であるかを読書の間中に考えさせる為でありましょう。私は筆者の思惑通りに、読み終わるまで慈悲行を考え続けました。3年前の大津波今月の御嶽山の噴火災難を観るにつけて、慈悲行に思いを馳せざるを得ません。沢山お遭難者の家族が悲嘆に呉れながら13夜の月を見上げて居る事でしょう。
寂聴さんは[月の兎の」ほかに良寛さんの手毬歌も紹介しています。
手毬歌は小説の進行とともに第に変化しながら深化して行きます。私達読者手毬歌の変化に導かれて考えが深化してゆくのです。 
貞心尼は初見のお別れに際して次の歌を口に出しました。
「君にかくあい見ることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおもう」
即座に良寛さんは返歌します。
「夢の世にかつまどろみてゆめをまたかたるゆめもそれがまにまに
 
次に手毬歌が登場するのは若くして遊郭に売られた娘「きく」が歌鵜場面でした。
 
「菊」は遊女に身を落としていますが、良寛さんを実の親と思い込んでいました。自らの悲哀な身の上と良寛さんに迷惑をかけたという思いから、貞心尼を頼りに出家しようとするのでした。菊は貞心尼が造りかけ手毬を戴いて無心について見せ雅う。その時の手毬歌が次の通りでした。
「お仙」は俗謡であり「お菊」と代えて変えても良いのでしょう。
お仙おせん
何故髪結わぬ
櫛が無いや鏡がないか
櫛や鏡はたくさんあれど
父さん死なれて三吉(弟)は江戸へ
何を楽しみに髪結うぞ
 
遊女のおせんよ(お菊よ)何故お化粧をしないのだ
私は父さんも兄弟ももう居ません。私には何も楽しみは無いのでお化粧する気になりません
当時の女性は生まれた家が貧乏であれば遊郭に売られ悲しい一生が運命だったのでしょう。手毬歌は苦界に沈む女性の泪を流し去る歌謡だったのでしょう。それだけに哀切であり美しいのです。
次の場面で、寂聴さん遊女のきくには次の手毬歌を自作させます。
ひい・ふう・みい・よう・いつ・むう・なな
七つ並んで雁が行く八つ山越え海越えて九つ困苦の旅の果、
とうでとうとう着いたとか蓮の花咲く極楽へ
雁になりたや籠の鳥翼切られて繋がれて」
貞心尼が良寛さんを看取る場面でも手毬歌が登場します。
 
貞心尼は良寛さんとの永遠の別れの場面で突然に心の中の幕が切って落されたように、悟ったのです。その悟りを歌で良寛さんにお見せします。
「君なくば千たび百たび数ふとも十づつ十を百と知らじを」
人の世は前世現世そして来世と輪廻します。この世の悲しみは1.2.3.4と数えられます。10数えればまた1から始まります。10を10回重ねれば百になるし、千にもなりますから、10の繰り返しです。
手毬をつくのは、輪廻に身を任せ祈るようなものです。良寛さんとのお別れは辛いけれども「身を輪廻という法に任せて祈るながら生きて行きます。」そんな覚悟を師良寛さんに伝えたのでした。
良寛さんが最初に貞心尼に贈った歌の真意にようやく気付いたのでした。
ところが弟子の悟りに喜び笑う筈の良寛さんはハラハラと涙を落します。
。悟り切っている筈の詩師匠が泣く筈はありませ。ん貞心尼も驚きます。
良寛さんは「優しい人々に囲まれて黄泉に旅立つのが寂しい」とい言うのでした。
悲しい時には泣いて、うれしい時には笑ってこそ禅の悟りがあるのでしょう。
2年前私は工藤美代さんの小説「良寛の恋 炎の女 貞心尼」を読みました。同じく「蓮の露」を素材にした小説で当時話題になりました。読後感は女性週刊誌を読んだような後味の悪さが残りました。貞心尼と良寛さんとの間で肉体関係があった・・・と推測して。相馬御風らのプラトニックな関係を否定するものでした。流石に寂聴さん宗教的な造詣の深さが感動をより高めてくれました。
 
 
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親友と囲みたい「闇鍋」

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、昨日(10月17日」の昼食はデイサービス施設(マナーハウス南横浜)で取りました。1食800円で3品バランスある食事を用意してくれるんですからた助かります。メニューは先に渡されていて「水団/すいとん」と案内されていたので、どんな水団だか楽しみにしていました。主菜は「秋鮭」副菜は「篠田巻き煮」という事ですから、どれもこれも私の好物です。
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これがデーサービスのマナーハウスのランチです。ヘルシーで昔ながらの懐かしくも優しいお味です。
左上から柴漬け法蓮草のお浸し、篠田巻き煮 秋鮭水団(右手前)でした。
楽しみにしていた水団は醤油味で油揚げの刻みに豚の細切れ、人参大根そして南瓜が煮込まれていました。肝心の水団は小麦粉の団子でしたから、一昨年大分の耶馬渓の「ほのぼの食堂で食べた」「団子汁」http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46884487.htmlを想い出しました。9品300円の価格設定に驚くと地域の老人の使える昼食代は300円だと教えられました。
団子汁は素戔男尊(スサノオ)が隼人を征伐するに際して食べた軍事食と教えられました。まるで信玄の戦時食「ホウトウ」のようなもんです。味も楽しみも共通するものがありました。
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これがデーサービスの水団、群馬風でした。
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これは甲斐のほうとう、ほうとうも水団も小麦粉を練ってグルテンにして野菜汁に落して煮たものです。水団を紐状にしたのがホウトウでしょう。日本で小麦粉を栽培する前、団栗や栃の実も粉に曳いて水団状にして食べたと思われますので、水団は縄文時代にまで遡る民族食と思われます。
我が町内を流れる柏尾川も台風18号では危機寸前で大洪水になりました。我が町内も床下浸水でありました。
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台風18号で洪水危機寸前に至った柏尾川(戸塚区のホームページから転載)
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柏尾川の堤防中敷きで芋煮を楽しむ人々。U字溝を倒して竈にして鍋を掛けています。戸塚は工場地帯ですから山形出身者も多く毎年仲良くやっているのです。
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この日は醤油味付けで牛肉の芋煮でした。山形でも村山地方の芋煮です。荘内地方では味噌味豚肉になります。
その柏尾川も昨日は水も引いて散歩する人も目立っていました。
昨年はこの柏尾川の堰堤中敷きで芋煮会をする人も目立ちました。
楽しげに芋煮をしている人を見ながら、私は町内でも「芋煮忘年会」をしたいと思いましたが、脳梗塞でそれどころではなくなってしまいました。
そこで、次に思い立つのは学生時代の仲間と「芋煮会」をしたくなります。親友とは芋煮では収まらずの「闇鍋会」になってしまう事でしょう。
闇鍋とは自分以外には不明な突飛な材料を複数人で持ち寄り、暗中で調理して食べる鍋料理です。食事を目的とした料理というよりは遊びやイベントとしての色彩が濃いものでした。
 
親友のI君の軽井沢の山荘には木の実も茸も沢山とれます。
キノコ汁に水団を流し込んで、猪の肉を煮込みます。
畑に出れば、収穫されなかった冬瓜や南瓜が転がっていますし。八百屋の店先には食べた事も無い茸や野菜が並んでいますしスーパーの鶴屋に行けばイノシシの肉も鯉の切り身も売っています。それらを各人の好みに任せて適当に買い込んできて鍋に突っ込みます。味付けは地元の味噌(山吹味噌)でしょう。お酒はI君の仕込んだ「南五味子(なんごみし)酒」です。(実葛の実を浸け込んだ果実酒)
私はかねて食べたかった団栗と烏も見向かないという「烏瓜がどの位不味いものか鍋に入れてみたいと思います。
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I君の山荘で食べたいキノコ汁、これに水団が加われば闇鍋・闇汁です。
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I君の山荘に生えてきているブナシメジ風の茸
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軽井沢の畑に放置されている冬瓜
茸を闇鍋に入れて食べたら食あたりする危険もあります。I君は秋になると[キノコ狩り」の会に参加していると聞きます。しっかり勉強してもらっておくことに致しましょう。
軽井沢の山を下れば「水澤のうどん」があるし。美味しい下仁田の葱もあります。
来年は私が体を完治させて、悪友らと「水団入り闇鍋」を楽しみたいものです。
屹度悪友らは羅漢さんのような表情になる事でしょう。
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 闇鍋を観て「こんなもの喰って大丈夫かな?」思い叫び出した羅漢さん(紫の花は岩シャジン」です。
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「そらみろ!」やっぱり食中りだと、しゃがりこんでしまった羅漢さん。
 
 
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土手南瓜VSおたんこ茄子

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街に南瓜飾りが目立ってきました。そう今年もハロウィン祭が近づいてきました。
一昨日は新嘗祭でした、西洋版の新嘗祭もあって当然です。
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ハロウィン祭の主役は南瓜です。南瓜が栄養分豊富なので厄除け福招き(シンデレラの馬車)にされwたのでしょう。
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これは南瓜ではありません。出来そこないのズッキーニです。野菜には必ず出来損ないが出現します。
 
「冬至に南瓜を食べれば夏病みせぬ」といいます。
冬至に南瓜を食べておけば翌年の夏まで健康で居られるとの意味でした。
冬は潜伏していた病が発病し易いものですし。昨今はノロウィールスはじめ香港だスペインだとインフルエンザウイルスが問題になるのも冬季です・・・・・。だから南瓜を食べて冬を遣り過すに勝る策は無さそうです。
江戸時代文化の粋は遊郭から発信したと言われます。
「粋/いき」は身なり振る舞いが洗練されていて恰好が良いと感じられた事で、人情に通じ遊び方を良く知っている人を表しました。
古代は宮廷人中世は僧侶や武士の美意識であったものが近世になると「庶民の生活に」美が重きを置かれてきたのでした。
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ここれはゴーヤです。陽が当たって収穫が遅れると割れてしまって内臓が見えてしまいます。南瓜も同じようなもので土手に実った南瓜は往々にして割れてしまっています。こんな状態の遊女を土手南瓜と悪く言ったのでした。
遊郭でとんでもない遊女に当った時に「何だこの土手南瓜!」と悪態をついて、捨て台詞を吐いて去りました。一方遊女は「なによ!このおたんこ茄子。わっちの方から願い下げだよ二度と来て下さんな!」とやり返しました。
南瓜も茄子も気の毒なものです。
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秋も深まると本来は長茄子でも。小さくて短なままで種を作ってしまいます。こんな短い茄子を「短小野郎/お短んこ茄子!と言って悪態をついたのでした。
 
土手南瓜は誰も耕作しない土手に育った南瓜です。良く育っているので美味しいのですが、見てくれは悪いし,割れてしまった内臓が見えてしまっているのです。その姿から女性の大切な処が拡がってしまっていることを表していたのでしょう。一方おたんこなすは男性のアソコが短小であることを指摘したのでしょう。秋も深まると流石の茄子も大きくは稔れずに小さいままで枯れてしまいます。
南瓜だ茄子だと言いあっている遊女や町民は野暮とか無粋と呼ばれ「粋の文化)ではさげすまれたのでしょう。
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鎌倉野菜売り場の茄子も様々です。子茄子の漬物も美味しそうです。
 
大根も美味しい季節です。精進揚に鰤大根に、おでんに毎日大根を食べています。勿論秋刀魚の焼き物には大量に大根おろしを添えます。
でも最近の大根は辛くないので不満です。
諺にも「大きな大根辛くは無い」と言います。
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これはまた見事なエロ大根です。時無し大根(20日大根とも呼びます)ですから辛くありません。辛くなくては間抜けです。(大磯で)
農家直営の野菜売り場に出かけます。すると、大きな大根や二股大根、おたんこなすに土手南瓜が並んでいます。どれも見てくれが悪いので定価では売れないと判断され、安く値付けされているのです。でも味が劣るのではありませんし、見てくれが悪いものほど美味しい事が多々あるもんです。人間界でも醜(しこめ)ほど情が深いものです。ですから私は土手南瓜やおたんこなすを選んで求めてきます。
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これが野生の茄子(悪茄子」です。
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「A tomato a day keeps the doctor away.」(トマトが赤くなると医者が青くなるとはトマトが医者いらずであることを言います。でも日本語への訳が素晴らしいと思います。赤と青の対比が良いセンスです。
 
土手南瓜におたんこ茄子」出来損ないと蔑まれてもどちらも味に栄養に遜色はありません。
精々土手南瓜やおたんこ茄子を食べて医者いらずでこの冬を越すように致しましょう。書いていたら筑前煮を食べたくなりました。そう今晩の軍師官兵衛は朝鮮出兵ですから筑前煮が出てくるかもしれません。肥前も肥後も蓮が美味しいんです。お肉は鳥にしているか鯰にしているか興味があります。
 
 
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母の愛は深し「月影地蔵」

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昔から「父の恩は山よりも高く、母の愛は海よりも深し」と言われます。
新聞やテレビの家庭相談を観ていると母親の子育ての悩み相談が目につきます。
多くの原因は「携帯電話」「スマートフォン」に係るものです。子供達がコミュニケーション・ンツールに振り回されてしまって、子供同士、家族間で断絶し孤独化してしまう、危うさが垣間見られます。
我が子に「勉強しなさい」心配になり小言を言いたくなるのは母親の常です。
中江藤樹の母もそうでしたし、弘法大師のお母様でさえ、息子が天下第一の高僧と呼ばれるようになっても、高野山に会いに出かけます。流石に高野山に登れないと判ると麓の九度山に逗留しされます。弘法大師は月に九度は野山を下り麓の慈尊院に行かれることになりました。
鎌倉時代には阿仏尼が居ます。有名な十六夜日記の著者です。
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極楽寺橋の民家が展示している十六夜日記「東下りの場面」お人形小母さんが息子さんの作品を展示しているのです。書は十六夜日記です。
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同上裁判の模様
『十六夜日記』(いざよいにっき)は一〇月16日に書き始めた事からこの名が付いています。
でも十六夜は満月の翌日で、いざよう(展望する)の意味です。
母親の息子(藤原為相)に所領を相続させたい一心で京から鎌倉に下ります。その間の紀行文が十六夜日記でした。阿仏尼は鎌倉の外れ極楽寺裏の月影谷に住みました。
月影谷は極楽寺の開基忍性の墓にも近い深い谷間です。
そんな地形と、月が出れば樹木の陰が地面に映る(月影が見える)との意味なのでしょう。月影は勢至菩薩の慈悲、母親の愛情を思わせます。
阿仏尼は鎌倉での住まいを次のように詠っています。
「あづまにてすむ所は月かげのやつとぞいふなる。浦近き山もとにて風いとあらし。」
鎌倉では京都の生活と違って相談相手も居ないし、山蔭で海鳴りの音と嵐の音が激しくて寂寥だったことでしょう。
阿仏尼の頑張りで所領は安堵され、藤原為相は播磨の所領を相続いたします。
藤原為相は定家以来の和歌の家でしたから、鎌倉にも和歌文化が定着します。ママゴン阿仏尼は財産(土地」と稼業(和歌)両面で倅の役に立ったのでした。
今も月影谷は寂寥感あふれる場所で、月影地蔵尊が祀られています。
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鎌倉の極楽寺坂、坂の峠に極楽寺橋があって右側に導き地蔵尊左が極楽寺になります。真っ直ぐ行けば稲村ケ崎小学校、学校の端を左折して住宅地の奥に月影地蔵尊が祀られています。地蔵尊の裏山は極楽寺の墓地が拡がっています。
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これが月影地蔵尊です。沢山の石仏が囲んでいます。石仏にはびっしり苔(梅の木苔)がついて蒸しています。
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 月影には如意輪観音が目立ちます。白い模様は梅の木苔です。
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 月影地蔵は木彫です。何時も綺麗にお掃除が行き届いています。千羽鶴は稲村ケ崎小学校の生徒さんの作です。
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月影地蔵には悲しい説話が残されています。此方はダメな親と立派な娘の話です。
露(つゆ)という名の親孝行な娘がいました。母親は北条業時(なりとき)に仕えていましたが、心掛けが悪く、あるとき高価な磁器を割ってしまいました
。 露がその疑いをかぶったため、業時は露を呼んで「母が割ったのだろう」と尋ねました。
しかし、露は「自分です」と言って譲らなかったので、業時は仕方なくふたりに暇を出しました。 母親は慌てて罪を白状しましたが追放され、露も人に預けられてしまいました。
業時は露に高価な梅小紋の小袖をあたえましたが、母親が持って姿を消してしまいます。
露は母親と別れた悲しみから病に倒れて、幼くして亡くなりました。
人々は露を哀れんで、露が生まれた月影ヶ谷にお堂を建てました。 墓には梅の木苔がびっしりとつき、人々は「梅小紋の小袖を着たかったのだろう」と言い伝えて来ました。
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梅花模様の小袖(説話とは無関係です)
 
母親は子を想い、子は母を想うそれが道理です。月と地球のように引力が均衡していれば安定して美しい均衡が保たれます、一方が強くなりすぎてまた一方に我欲が挟まれば偏愛になり執着になってしまいます。均衡させることが重要なようです。
 
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[蜩の記]鑑賞記

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今年の春私が脳梗塞で入院した時の事です。先輩のK氏のお見舞いを受けました。香しく真っ赤なイチゴと、文庫本の「蜩の記」を置いて行かれました。家内とk氏と3人で、イチゴを戴きかったのでしたが、私の食事制限も厳しくて、イチゴは家内が持ち帰り、仏前に奉げて娘と戴いたことと思います。
私は「蜩の記」を読み始めました。K氏は三菱商事で活躍して、思う存分才能を発揮されました。サラリーマンは満足な仕事が出来た人と私のように、未だ仕事(長銀)での傷を弾きづって居る者とは大違いです。思いながら、K氏を眩しく見ながら同氏がこの本を推薦した気持ちを思いあぐねていました。
舞台は私の大好きな豊後(大分)の小藩です。屹秋月藩や杵築藩を思いやりながら読書に没頭しました。何処か以前家内と見観た映画「蝉しぐれを想いだしていました。「小説は文武両道に長けた檀野庄三郎(岡田准一)の目を通して展開してゆきます。檀野庄三は家老の命令を受けて戸田秋谷(で汚名を被ったまま切腹しろという決断」従容として受け入れる武士(戸田秋谷/役所浩二)を監視する任務を帯びていました。
戸田秋谷は藩の正史を記述する事が任務であり。家老は正史に自家の秘密を記載されることを懸念していたのでした。お話は百姓一揆や、農村での心温まる話を織り込みながら展開してゆきます。檀野庄三郎は戸田秋谷が人物であること、そしてその家族愛に次第に心を寄せて行きます。家老の懸念は次第に深まって行きます。秋谷は10年前に主君の側室と不義密通した事が事由で10年後の切腹執行を命じられていたのでした。不義密通とは世継ぎ争い「正室お美代の方」と側室「お由の方の子との争いだったのでした。世継ぎ争いが表沙汰になれば三浦藩はおとり潰しになってしまいます。そこで秋谷は汚れをすべて引き受けて切腹する事が武士の役割と覚悟していたのでした。
小説は謎解きをしながら次第に佳境に入って行きます。
現代もサラリーマンはしがない会社勤めです、正義は貫きたいと思っても会社の為自らを折る事も多々あるものです。小説は終末に向けて読者の涙を誘います。
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新聞に「蜩の記」の映画広告が目立つようになりました。そこで家内を誘って昨日(10月17日)辻堂にある湘南テラスモールに同映画を観に出かけてみました。想い起して見れば前回此処に来たのは「奇跡の林檎」を見た時でした。ですから約1年ぶりという事になります。
109シネマコンプレックスの開館時間は10時です。私達はバスに電車を乗り継いてら、今回初めて開始20分前に着きました。もうモールは秋の装いです。
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辻堂駅西口に開けた湘南テラスモール109シネマコンプレックスが併設されています。
 
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私は原作を読んだ上での映画鑑賞でした。
原作は物語の展開のほかにミステリー小説を読む読む楽しみがありました。でも原作通りにしては観客が混乱すると思ったのでしょう。映画では早々と種明かしをしてしまいます。戸田秋谷が切腹する理由は側室「お由の方/剃髪後松吟尼/寺島しのぶ)との不義密通であった事。秋谷とお由の方は幼馴染であり、お由の方は唯一秋谷との思い出を大切にして日々生きている事。日々生きる事は秋谷とて同じで10年後の8月8日まで(切腹執行の日)までの蜩の様に生きる事であったのでした。大団円では秋谷の長男は立派に元服しますし、美しい娘薫(堀北真希」は檀野庄三郎と結ばれます。そして松吟尼は秋谷との思い出の中で生き続けます。
一人の武士の死に際の潔さがその武士の家族や大切な人を活かしたのでした。
原作の良さを打ち消してしまっているのはこの話の展開を解り易くするために前半に説明してしまっている事でした。
そして残念なことが一つあります。美しい人の生き様を引き立てるのは美しい自然や美しい民家、勤勉な農民なのですが・・・それは良く表現されています。でも民家が岩手の遠野のそれなのです。撮影舞台を遠野だったのでしょう。豊後にはもう美しい自然も民家も無いのなら致し方ありませんが、実際は豊後にこそ美しい自然や民家や石積みの棚田が広がっているのです。私のように豊後が好きな者にとっては遠野は興醒めです。でも映画の脚本には原作にない、素晴らしい創作が入っていました。
秋谷の娘薫は庭先に植えた柚子の木を見上げて、檀野庄三郎に言います。
「桃主栗3年柿8年と言います、柚子は10年で花が咲きます。父は10年後の8月8日に切腹する事になっています。」
庄三郎は薫に向かて言います。「私はお父上を守りたいと思います。そしえお母上も郁太郎も守りたい。そして・・・・・」
薫は「そして私を・・・・・」声を詰まらせて家に駆け込みます。
日本の四季は美しいそして薫(堀北真希」は美しい、感服するのでした。イメージ 4
読者は檀野庄三郎(岡田准一)の目を通して反省を揺るがしかねない事件の真相を知って行きます。そうして同時に戸田秋谷(役所広司)の生きざまに共感してゆきます。現代も企業人の多くは戸田秋谷のような生きざまを余儀なくされているのでしょう。
 
岡田准一が演じる檀野庄三郎は文武に長けた清々しい人物です。そして戸田集国の娘薫/堀北真紀)は美しい娘で、二人は想いを同じくします。
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撮影舞台は民話で有名な遠野でした
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大分県天ケ瀬の民家豊後には現在も美しい民家が残されています。時に石積みの棚田など大変に美しいものがあります。撮影を豊後でして欲しかったそう思うものです。秋谷の奥方が花茣蓙を作っている場面等があるし、石仏が度々写されていました。どちらも遠野では無くて豊後です。
薫は庭先に植えた柚子の木を見上げて、言います。「桃主栗3年柿8年と言います、ユズは10年で花が咲きます。父は10年後の8月8日に切腹する事になっています」
庄三郎は薫に向かて言います。「私はお父上を守りたいと思います。そしえお母上も郁太郎も守りたい。そして・・・・・」
薫は「私も・・・・・・・・」呟いて家の中に駈け込んでしまいます。
自然は美しいし、自然に溶け込んで生きる家族も美しいものです。
映画では秋谷が心血注いで書き上げた「蜩の記/三浦藩正史」を墓前に捧げる場面まで描きます。そして、正室が家老と豪商が仕組んだ人物であった事も報告しています。「歴史は真実を書きとどめなくては後進の生きる鏡には成り得ないと」歴史観を述べて終わります。
 
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「交響曲第一番hiroshimaに騙され続けて居たかった。

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もう皆さん忘れてしまったかもしれませんが去年の今頃は「佐村河内 守」さんでもちきりでした。雑誌もテレビも連日佐村河内 守が取材され。同氏の作品「交響曲第1番hiroshima]が流れ東北大震災の「レクイエム」のピアノが響いていました。
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 昨年の今頃評判であった佐村河内 守氏と交響曲第一番hiroshima
その直後に私は脳梗塞を発症したのでした。その病床に4年先輩のTご夫婦にお見舞い頂き佐村河内 守氏のDVDと文庫本を戴きました。同氏が広島での被爆者の子供として産まれ(1963年)全聾でありながら、克服して交響曲第一番hiroshimaを作曲し、更に東北大震災犠牲者を弔んでにレクイエムを発表、遺族を激励する姿を見せて私を激励されるお心づもりであったのでしょう。病室に再生装置も無かったので私は文庫本を読み始めました。前半は全聾になるプロセスを伝記風に書いて居ました。それは突然に船から振り落とされて、海中に沈んでゆくような感覚で説明されていました。私は壇ノ浦で海中に没した安徳天皇を思い浮かべていました。海底に都があると説明は受けたが真っ黒な海は絶望に誘うだけでしたでしょう。今思い返せば交響曲はゴーストライターの新垣隆の作品であり、新垣氏がこの自伝を書いたのか、又は別人が書いたのでしょう。
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T先輩から戴いた村河内 守氏の自伝とDVD「交響曲第一番hiroshima」色々不幸が重なりましたが作品自体は劇的で古典派音楽で良かったです。
確実な事は佐村河内 守氏も新垣氏もゲーム業界の人間だったようで、同業界では様々な人間の才能をパッチワークでも繋いで売れる作品を作る事が最優先されていたのでしょう。元々佐村河内 守氏派俳優を志したのですから、演技はお手の物だったと思われます。
でも時間が経てば事件の大凡の輪郭が判明してきました。佐村河内 守氏は新垣氏にゴーストライターとして謝礼「200万円」を払っていたのです。だから週刊文春に「佐村河内 守氏は全聾ではない、実際は私が作曲したのだ・・・」と告発したのは信義則に反しています。ゲーム業界ではネタバレリスクを避けるべき「守秘義務契約は結んでいないでしょうから、佐村河内 守氏丹新垣氏の信義則破りを訴える術べはないでしょう。今佐村河内 守氏は土下座行脚をして迷惑をかけた人々に謝罪して回っているのだそうです。某総理大臣は一時四国にお遍路周りをして贖罪に努めたそうです。でも昨今の言動を観ているとお遍路もポーズだったようで白けてしまいます。
一方新垣氏は才能を認知されて仕事が殺到しているんだそうです。何処か理不尽な感じがしますが佐村河内 守氏hさ身から出た錆びと諦めめずばならない事でしょう。
退院してDVDをかけてみました。
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日本フィル大野和士氏により指揮された聴き応えのある交響曲でした
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幸い絶頂期の村河内 守氏と称賛すした指揮者のと大伴直人氏。DVDにより転写)
私達世代は音楽と言えば古典派を教わりました。バッハからベートーベン、印象派のモーツアルトこそ音楽と教わって育ってきましたから「交響曲第一番hiroshima」は耳に馴染むものでした。不協和音がガンガンなるのは「運命」のようなもので原爆投下の不安や恐ろしさをお表現するもので、鐘の音は平和であった広島や祈りの街広島を表すものでしょう。そんな次第でなクラシックファンには聴き易く歓迎されたのでしょう。お蔭で大ヒットになりました。。私のように現代音楽と言えば難解と思って避けている世代には好評でした。
ネタバレしてお気の毒なのは「交響曲第一番hiroshima」を最初に評価された三枝成彰氏や指揮者の大伴直人氏そしてフィギュアの高橋大輔さんでした。。みんな一流の方ですが評価を落とし、高橋大輔氏は先日現役引退を発表しました。その後我国は理化学研究所の小保方晴子氏のSTAP細胞論文盗用問題、野々村議員の泣きべそ会見が続いて「どうなってしまったのか?日本人は」状態に陥りましたし。神もお怒りなのでしょう。天災が続いています。
昨日は小渕通産大臣が辞任し、秘書や地元町長が事件の責任者として、名乗りを上げています。
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レクイエムを弾かれる田部京子さん
 
私は佐村河内 守氏にも新垣氏にもズット騙し続けて欲しかった想うものです。
不幸な運命をそのまま受け入れて、克服してこそ生きる事でありますし。そんな生きざまを示す音楽として聴き続けたかったものです。
嘘つきはいけない事は今昔物語イソップ寓話にも数多く乗っています。「どうせだますなら、閻魔様の前に出るまで騙しつづければ社会の役に立ったものを、悪人仲間の妬みでバレテしまうなんて、最低です。新垣氏批難はさておいて、先輩の心遣いは有難く頂戴いたしました。ネタバレが笑い話に出来る日ももうじき来ることでしょう。
私が一番気がかりなのはマスコミが揃って 佐村河内 守氏を叩いている事です。ゴーストライターを囲っているのはマスコミでしょう。一寸話題のある人が現われると本を書かせます。実は本人に成りすましたゴーストライターが書いたにもかかわらず、その嘘を一切批判しません。売れれば良い売ったものが勝ちだ悪しき習慣を作っているのはマスコミです。佐村河内 守氏は生きるために必死で、嘘をついたまでです。嘘は生きるための方便でしょう。日本人の品格が問題だと思います。
 
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何時か食べたい我が家のアケビ

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(木通」と書いて何て読むかご存知ですか?木通で「あけび」と読みます。辞書で調べると「あけび」の果肉は「甘くて食べられる上に利尿効果があるから」と説明されています。小水が出る事が木を通す事なのでしょうか?という事は尿道(または男性自身」が「木」なのでしょうか・疑問は解かれるばかりか
一層に疑問が膨らみます。良く似た熟語で「未通女」を牽いてみまっす。これで「おばこ」と読みます。説明は生娘とか処女とされています。筆者はアケビの果実が女性自身を思わせる事を想い出します。「」通」の字にはセクシャルな意味があったように思います。
そんなことはさておき。我家は木通棚を作りました。昨年は受粉させた結果沢山の木通の実がなって、眺めて楽しみました。けれども今年は花の時期に入院していましたので、確実に受粉させることは出来ませんでした。
家内が裏山に登ってアケビの花を採取してきて受粉させたのでしたが不成功だったようです。
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これがアケビの花です花弁の中央に5本の雌蕊が立っています。一方雄蕊は茶筅のように先端が曲がっています。雌蕊の付く花は濃い紫で、雄蕊の花は薄い紫で、雌雄の花がが異なっています(カボチャなどと同じ雌雄異花です。確実に受粉させなければ実がなりません。
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これが昨年実った我が家のアケビです。実に建てに割れ目が出来て、割れ目が開いて中の白いバナナ状の物体がでてきます。これがよーぐるとのようなあまみがありまさう。でも黒くてかたい種が沢山あって全体として食べにくいのが難点です。食べるのは周囲の殻状の果肉です。山形の民宿などに行くと天麩羅や酢の物にして食べさせてくれます。苦味が魅力です。細い蔓が沢山見えていますがこれを採取しておいてアケビ細工にするのです。
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木通を下から眺めるのはまたいいものです。”口開けてはらわた見せる柘木通かな」とは二心が無い」事を言い表したものでしょう。柘榴も腹を見せています。イメージ 5
これは藤沢の農協市場で売られていた木通6個入りで200円でした。相当のツウでなければ求める事は無いでしょう。
 
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我家の場合は夕顔の棚ではなくて木通の棚が似合いそうです。夕顔棚納凉図 久隅守景筆
 
木通は花が終わると一斉に細い小枝を伸ばします。この小枝を放置しておくと木通は野放図に伸びて樹形が混乱してしまいます。こまめに新枝を伐採する必要があります。数年前までは家内が鶴を保存して3年分くらい纏まったらアケビ細工をしたいように見えましたが、もう私がこんな状態なので断念したようです。鎌倉の鎌倉女学院前にアケビ細工の専門店があります。私の好きなフレッシュバーガーの二階です。今頃はお店も賑わっていることでしょう。行ってみたいのですが、そうも行きません。
そう思っていると「倉田の染物屋さんのショーウィンドーに木通細工が陳列されている」家内の報告です。そこで。家内に連れ添ってもらいながら観に出かけました。
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我家の近く不動産屋の半部yンに出店している洗い張り屋さん、着物を染め変えてくれます。店主は大手百貨店の呉服部に居られたのですがリストラされて、お姉さまの出店している不動産屋の半分を借りて「洗い張り」をしておいでです。ショーウィンドー左がアケビのバック、右は竹細工の籠です。
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このアケビ細工のバックは58800えんでした。鎌倉の由比ヶ浜の専門店に行けば8000円程度でしょうか。
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お店の陳列品。右端の黒い紬は「古志紬」山古志村で作る紬だそうで、渋いものでした。10年前山古志村は中越地震で大変でした。
 
木通は花を見て良し、実も良し、蔓は細工になるしこれも良しです。
来年の春はもう一本木通を求めて、受粉が自然に行われるようにいたしたいものです。
木通は苦味が特徴ですし、小水の通しを良くすると言う事は美容効果もあり、若返り効果もあるという事でしょう。来年は我が庭で収穫した木通を天麩羅にして蓮根に比べて美味しいかやっぱり不味いか報告したいもんです。
 
追記:筆者はバッグの素材を あけびと思い込んでいましたが実際は「山ブドウ」でありました。お詫び申し上げます。質感はアケビと山ブドウは酷似しています。
 
 
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18号台風が顕かにしたもの。

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一昨日は「降霜」という事で、実に寒くなって来ました。
寒いのは苦手ですが、この寒さでデング熱の縞蚊も死んでしまうでしょうし、紅葉も期待が高まって来ます。台風も出尽くしでしょうし、「秋晴れ」は来月に期待して日一日行く秋をエンジョイしたいと思います。
台風18号では驚きました。横浜市内では使者が名も出ましたし、河川洪水に加えて、我が町内は床下浸水が発生しました。原因は柏尾川の氾濫でも無く、柏尾川に流す前、下水溝が満水で洪水を起こしたのでした。
我が倉田町では昔の架線土砂でを埋めたままで下水溝が柏尾川までつながっていませんでしたので、柏尾川に雨水が流れる前段階で洪水になってしまったわけでした。
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尾川は洪水寸前まで水嵩が増加しました。でも寸前で水は曳きました。その代わり柏尾川に繋がる下水溝の譜整備が顕在化して床下浸水になりました。
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  40年前は小河川だったのでしたが埋め立てて道路にしたため下水溝は満タンになって雨水が吹き出し都市型洪水を惹き起こしました。町内は土嚢運びで大騒ぎでした。
およそ、横浜市の都市計画は出鱈目で、表面は上手に取り繕ってあっても、全体の設計がアバウトなんです。
私の携帯にも緊急の避難指示が入って来ました。メールには「土砂崩れ危険地域の確認はホームページでして下さい、」案内してありました。300万市民がホームページにアクセスした結果、瞬時に洪水になってしまって、市民のストレスばかりがたかまってしまいました。
町内会では「何処が危ない、此処はどうか?」「何処のマンホールから水があふれ出していたか?」盛り上がりましたが・・・・。
「でも横浜は良い方よ、お隣の鎌倉は土砂崩れと高波で、終日退避だったそうよ・・・。」意見が出ました。
言われてみれば、横浜の乱開発もひどいが、鎌倉は街中が危険に見えてきます。
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台風18号の土砂崩れを報じるテレビNHK画面は緑区
 
鎌倉の中でも乱開発がひどく、危険に満ちているのは鎌倉山です。
傾斜地の南斜面は日当たりも良いし気色も開けているので、宅地として価値が高いのです。
谷側に住宅を建てて入口は山側にします。屋根の上は駐車場になります。屋上から出入りして1階が玄関地下2階が居間になります。土砂崩れの危険は別として、窓からは七里ヶ浜の海と富士山の眺望が開けています。でも家自体が土砂の防御壁を兼ねているわけですから、危険極まりありません。普段から湿気も高い事でしょう。
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鎌倉山の春景色
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乱開発で目を覆うばかりの鎌倉山傾斜地の下は西武の七里ヶ浜タウン
そもそも横浜も鎌倉も高さ3メートルを超えて土砂を切り崩す行為は「開発行為」であり、工事をするには開発許可が必要です。許可を与えるに際しては近隣住民の同意が必要です。崖下の住人は土砂崩れで命の危険が伴うので軽々に同意できません。ところが、一定期間お知らせ看板を掲載しておけば同意は得られたものと見做されるようで、開発のピッチは上がる一方です。
2004年横浜市では緑税をスタートしました。一人900円を徴収し、緑の保全に役立てる計画でした。当時の市長は中田宏氏(現維新の党国会議員)でした。
市長の説明は「40年前の横浜の被緑地率は60%30年前は40%2004年は30%。被緑率30%をデッドラインにする為に900円位負担してください」というものでした。
市民の大半の意見は「開発行為を制限すれば済む問題だから、新税は反対する」でした。
ところが、たいした議論も無いまま新税は導入され、年間30億円ほどの歳入が費消されています。
その結果が台風18号によって暴露され3人もの死者を見たのでした。肝心の被緑率は下げ続け既に30%を切ったばかりか、昨今はその発表も差し控えられています。
中田氏もNHKの番組が「低俗かどうか?」糾すばかりでなく、受信料の適正問題(低所得者にとっては負担が重い問題/負担能力に対して不公平である)を正してほしいものでした。
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 国会でNHKの番組が低俗であると意見する中田宏前横浜市長。どうでもよい事を質問するより反省すべき問題があると横浜市民は思っていますが。・・・。
テレビで林現市長が言い訳をしておいでです。緑区で土砂崩れが起きたその危険は開発手続き中に解っていたのでしたが開発課での事務引き継ぎが適正でなったことでお詫びいたします。
横浜市民は苦々しい思いでテレビ画面を見詰めました。横浜の土砂崩れや都市型洪水は前の中田市長と現市長に引き継がれなかったものです。上が厳格でなければ担当課もその場限りの事務引き継ぎが為されてしまいます。住民の命を真剣に守る心構えが無ければ、こうした開発行為が拡がってしまいます。
今も私の町内では尾根道を都市計画道に工事が進捗中です。ところが私の町内だけが土地買収に応じていません。地権者が道路に面した土地の利用価値が上がるようあれこれ注文を出しているからです。道路が出来れば被緑率は大幅に下がるし土砂崩れ危険個所が大幅に増えます。緑の地図が赤い地図に塗り替わるのです。
横浜市民が何を期待しているのかは明白です・・・。
広島の惨事を見るまでも無く杜撰な開発行為によって命が危険にさらされています。
コンクリートで固める「国土強靭化計画」は麻生セメントには好都合でしょうが、開発しないで手付かずに置く事が最良です。昨晩はNHケーで南方熊楠を放映していました。私は低俗だとは思っていません。粘菌に紙神を見出し、南方曼荼羅をイメージするのは民族の根幹です。中田さんが低俗番組二チャンネルを合わせているだけで、国民を低俗だと見くびっているのが原因だと思うのですが。私は似非政治家は嫌いです。
 
 
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蛇の脱殻で金運を掴む?

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私が脳梗塞で入院して、お見舞い戴いた人から
「脳梗塞は薄皮を剥ぐように、徐々に回復しますから焦らずにゆっくりリハビリに励んでください。でも大切なのは回復したいという意欲です」と激励されました。そのお言葉が嬉しくて、以来私の支えです。
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青大将の脱殻、これを財布に入れておくとお金が溜まると言い伝えられてきました。
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水辺で脱皮したので脱殻が水面に浮かんで膨れていました。(藤沢新林公園)
私は「薄皮を剥ぐように」という言葉が「蛇が脱皮を繰り返して逞しくなるように」と聞こえました。
そして、蛇と言えば三輪明神、鎌倉の銭洗弁天江の島の弁才天を想い出します。
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江の島弁天洞窟の石の像
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何れも「財宝・金運・豊饒・健康に恵まれる神様で蛇はそのお使い(化身)です。
私は蛇は嫌いですが、無益に殺したりはしませんでした。
ですから、この齢になってから運に見放されるのは意外な気がします。
今日は蛇について想いだすことを綴ってみます。
 
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鎌倉佐助稲荷の蛇の神像。
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鎌倉の銭洗弁天。お供え物は蛇の好きな生卵です。
【蛇は何故神の化身と思われたのか】
蛇は長くて足がありません。何も食べなくても長期間生きて行けます。
古代の人々は蛇の生命力の強さに畏怖したのが蛇が神に昇華した理由の第一であったでしょう。
そして稲作が始まると、稲作に大事な水が湧きだすところに蛇が棲んでいましたから、蛇は水神でありお米を食べる鼠を丸呑みしてしまうので、畏怖する心が「豊饒の神」にステップアップしたと思われます。
近世になって貨幣経済が浸透してくると、貨幣として銀貨が使われ出しました。一分銀は一見して蛇の鱗のように見えます。そうした事実が重なって、近世では蛇は「金運」の神に祀るようになったと思われます。現代はお金が何よりも大事にされる気運ですから。金運の神様として大切にされています。
 
【蛇と鼠】
私の生家の本堂の天井裏のことです。
彼岸の法要の最中に天上裏が騒がしくなりました。
私は何が起きているのか大方予想がついているので驚きませんが、お檀家の方は天井裏で何が起きているのか気が気ではありません、天井を見上げて不審気です。
天上裏からはバタバタ小動物が走り回っているようなのです。
我が生家には米蔵が無いので本堂の片隅に巨大な米櫃を置いていました。米櫃を狙って鼠が棲んでいるのでした。
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鼠を丸呑みする青大将
私の脳裏には、鼠の家族が青大将から逃げ惑う姿が映ります。そのうち、鼠は天上らの隅に追いやられて、その隅角で恐怖のあまりすくんでしまいます。
青大将はそんな鼠を頭から丸呑みしてしまいます。
蛇と鼠の追いかけっこは暫くして終わってしまいます。そして本堂には静寂が訪れます。
でも、静寂は次の凄惨な場面の序曲なのです。私はその場面も予測しているので、黙って何事も無く過ぎる事を期待して瞑目しています。
本堂の縁側には優しい秋の日差しが降り注いでいます。
本堂の三和土に大きな音が響きます。
そう青大将が、天井裏から庇に出てきて、庇から三和土に落下したのです。
青大将に丸呑みされた鼠は青大将の腹の中でのたうち廻っているのでしょう。腹の中で鼠が動くので青大将は苦しくてなりません。早く鼠に死んでもらいたいので。青大将は庇から落下したのでした。
でも、鼠も生命力があって、中々死にません。三和土に落下した青大将も自分の命を守るためには早く安産な場所に隠れる必要があります。そこで、檀家の方々が見守る目の前で、本堂の縁の下に消えてしまいました。
うつらうつら眠気を感じながらお経を聞いていたお檀家の人々は一部始終を見て、警策で叩かれたように目を覚まして、現実娑婆世界の厳しさに醒まされます。
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筆者の生家の本堂のイメージ本堂の庇の下は固い三和土で菊鉢が並んでいました。お檀家は縁側に座布団を敷いてお経を聞きながら秋の彼岸法要に参加しました。その目の前に巨大な青大将が落下してきたのでした
 
弁財天は財宝・利得・商売繁盛の神、音楽の仏神、でもあります。
芸術・水の神と、多くのご利益があります。

その化身である白蛇が住み着いた家は、金運や財運に
恵まれるという言い伝えが古くからあり、白蛇は蛇の中でも
特に神聖で縁起がよいとされています。
足がなく、細長い身体で脱皮を繰り返す。
他の生き物に比べて、長期間餌を食べなくても
生きていける強い生命力…。
昔の人々にとって、その生態はまさに「神秘的」でした。
そして蛇は田畑をあらすネズミを食べてくれるとして、
豊穣の神とされ、さらに恵みの雨をもたらすとして、
天候の神としても崇め奉られてきました。
鎌倉の稲瀬川の源流銭洗弁天や佐助稲荷は鎌倉の豊饒を司る聖地だったのでしょう。今も霊気が漂っています。坂道で蛇に遭遇する事も多々あります。
昔の困り者はは鼠でしたが、今は台湾リスです。
庭木も水木や椿などの自然樹木も台湾リスの食害で次々に立ち枯れしています。
台湾リスはお稲荷さんの鳥居をアッチコッチ飛び回って怖いものなしです。
せめて、お稲荷様の化身である狐さんが居たら、台湾リスにストップをかけてくれそうな気がするのですが。
「鎌倉の野良猫にリスをやっつけたらご褒美をあげる」そんな風に出来たら幸いなのですが。
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佐助稲荷の鳥居を飛び跳ねている台湾リス。生態系を破壊する。困りものです。
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佐助稲荷のお使いの狐さん。昔は鎌倉にも狐が居たのでしょうが、今は狸が少々、狸の親類のハクビシンや洗い熊が跋扈しています。コレラが台湾リスの天敵になればいいのですが。
 
 
 
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山頭火の豊後托鉢行①

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テレビも新聞も今年の紅葉の見事さを報道しています。昨日は[日光のいろは坂]今朝は[甲府の昇仙峡]でした。今年は蕎麦も茸も藻屑蟹も豊作豊漁だそうで。私も病で無ければ早速友人を誘って出かける事でしょう。でもこの身体では思うに任せません。書庫から山頭火を引き出してきて埃を払い、山頭火のお供をして旅に出る事にしましょう。
行き先は一昨年友人と行った豊後の耶馬渓です。
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防府駅前の山頭火像、小郡駅前にも銅像があります。筆者の博多時代車で1時間でした。
種田正一は1940年昭和15年10月11日山口県の防府市の富豪の家に生まれましたが、実父が放漫で正一が早稲田大学在学中に破産し正一は大学を中退せざるを得ませんでした。加えて正一自身も激しい神経衰弱に痛みます。防府に戻った正一は父の新規事業(酒造業」手伝いますが、事業も失敗し父は出奔、弟は自殺します。正一は友人の支援を受けて熊本に出て、奥様(種田サキオ)と二人で古本屋を営みます。
熊本での生活では常に空虚感や欠落感が付き纏い酒におぼれるようになっていました。その日も泥酔していました。正一は突然にし路面電車の前に飛び出してしまいました。乗客も野次馬も正一を激しく批難します。一部始終を見ていた新聞記者が正一の腕を掴んでを有無を言わせず、市内の報恩禅寺(曹洞宗/千体佛)住職・望月義庵に預止めました。
正一にとっては初めての僧坊生活でしたが、静かなれらでの生活に馴染んで行きます。1924年((大正14年)には、得度し「耕畝」と改名し、味取観音堂の堂守となります。観音堂の坊守となって名前も「耕畝」と付けられました。「耕畝」という名からすれば周囲も種田正一がは、田畑を耕作して、普通の僧侶になるチャンスになることを期待していたのでしょう。
ところが、正一はそんな普通の僧侶への道を自ら閉じてしまいます。
師からは永平寺に入山し修行を積むよう諭されたのでしょうが、「永平寺ではお酒は禁じられている」知るや、折角の坊守の安定を捨てて旅立ってしまいます。
熊本から東を向けば阿蘇山です。
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昭和8年(51歳)長府町での山頭火この後体調を悪くし自殺未遂し昭和13年没す(56歳)(出典山頭火の生涯/大山澄汰著)
自らを山頭火(俳人としての雅号)と名乗ります。山頭火とは「納音/とつおん」の一つですが、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」でした。正一は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入ったと言っています。九州の住人は阿蘇山を愛していますから、静かに田畑を耕すな生き方よりも阿蘇山のようにありたいと思った事でしょう。
り、熊本から東に向かいます。最初の目的地は朝の東南にある都城でした。都城には山頭火を支援してくれる友人が居たのでした。途中五個荘椎葉村で有名)民家(の山村を歩きます。
「分け入っても分け入っても青い山」
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秋山巌さんの作品
五個荘、馬見原、から高千穂に向かいます。行方が決まっているのではありません。黒い法衣を着て鉄鉢を持ち、農家の軒先に立ってお経を風呪して、乞食しながら浮草のごとく、流れる雲のごとく大自然に任せて行けるとこまで歩いて行く日課です。
食べられなくなったら潔く死のう、これが山頭火の心意気だったのでしょう。
一日歩けば頭汰袋の底には小銭が溜まっています。小銭を数えて木賃宿に泊まりました。
宿の文机の脇にはお酒が少々。そして旅日記を綴ります。ほろ酔い気分で宿で友人や別れた奥さんに葉書を書きます。葉書を受け取った友人は、山頭火が次にどこに向かうか承知しました。そして向かった先では別の友人が歓迎してくれましたし、郵便局に為替で生活費の支援してくれていました。
そんな次第で、40代でありながらも旅を続ける事が出来たのでした。椎葉村は蝉しぐれでした。木賃宿で突然に旅日記を燃やしてしまいます。俳句が生きが居であった山頭火は旅日記を綴る自分に何処か未練がましさを感じたのでしょう・。
 
かなかな啼いてひとりである
ひとすじのみずをひき一つ家の
秋焼き捨てて日記の灰もこれだけか
 
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河合玉堂氏の「彩雨」山頭火の句のイメージです。
 
托鉢していると様々な人の喜捨を受ける事になりました。
ある農家では奥から老婆が腰を曲げて出てきて報謝してくれました。
老婆を見ると山頭火は世話になった祖母を想い出します。父の放漫で大種田家は没落してしまっても、祖母だけは正一を引き受けてくれたのでした。祖母の厚恩に対して自分は何も報いていない。ただ肉親を心配させて悩ましただけである、思うと情けなくなってしまいます。何のために毎日日記を綴っているのか解らくなってしまいます。自分は「俳句にだけ命を懸けているので言い訳のような日記は焼き去ってしまいもっと身軽になろう」、思ったのでしょう。そこで、焚いてしまったら、灰が少しだけ残ったのでした。自分の行乞(托鉢行)もこの程度に軽いものであった、自省するのでした。
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山頭火は旅日記を焼いてしまいます。心の重みも落してしまいタイ、そんな気持ちだったのでしょう。
 
高千穂から豊後にかけて、は温泉が沢山あります。山頭火の足は竹田(子守唄で有名)から湯の腹温泉、更に由布院温泉に向かいます。温泉に入って疲れた両足を投げ出して、全身を温めますそして焼酎で身体を中から温めます。更に胸の奥まで大気を吸って、温泉水が胃腸に効くと聞いて腹一杯温泉を飲みます。大自然に身を任せて句作に励みます。
自分の作品は数多くの友人そして恩師の萩原井泉水先生、後輩のライバル尾崎放哉が期待している、確信しているのです。彼等に読んでもらいたい、そうして句作に埋没したのでしょう。
子供達が山頭火の後を着いてきました。大きな傘を被った禅僧姿が子供達には興味があったのでしょう。更に暫く行くとお寺参りのお婆さんにすれ違いました。行きずりにお婆さんは鉄鉢に2銭を投じて呉れました。みれば2銭の一枚は白銅貨[5銭)でした。山頭火は老婆を呼びとめて白銅貨をお返ししました。山頭火は人々の報謝を喜んで受ければ受ければ良いだけで、托鉢行は老婆の仏心、自分の仏性を呼び覚ませば良いだけで食べる為だけではないのですから。何時しか、山頭火は乞食から行乞(托鉢)様になってきました。谷川に映る自分の顔が何時の間にか「良い顔」になって来たのに気づいてにんまり致します。
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豊後路は柿が名物です。山頭火は時雨を避けながら柿を齧りつつ、」托鉢のの足を速めた事でしょう。
 
投げ与えられた一銭の光だ
馬に踏みにじる草は花盛り
ゆっくりと歩こう萩がこぼれる
 
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豊後路は温泉も酒も焼酎も人情も豊かな土地でしたから山頭火の托鉢行の目的地としては最適でした。写真は山移集落の酒屋さん(ほのぼの茶屋兼営
 
都城から高岡に向かいました。
朝8時に宿を立ったのでしたが悪寒がしてきます。
お堂を見つけてその板敷の上で寝転んでいると
童に呼び起こされます。
童はこの上でお休みなさい。言って茣蓙を敷いてくれました。
悪夢のような時間が2時間ほど経過して目が覚めました。
周囲を見回しても童の姿はもう見えません
 
大地冷え冷えとして熱のある体を任す
このまま死んでしまうかもしれない土に寝る
少し元気になったのでの軒から軒に行乞しながら回ります
ある家ではお婆さんが山頭火の読む修証義(道元の教えの真髄を説いたお経)を読みました。お婆さんは山頭火の読むお経に聞き入るばかりで、断りもしなければ喜捨もしてくれません。次いで山頭火は観音経を読み始めます。ようやくお婆さんは鉄蜂に1銭を投じてくれました。1時間お経を読んでいたので、山頭火の熱は完全に引いて建興を回復していたのでした。山頭火は漢音様のご利益と直感したのでした。
山頭火は早めに托鉢を打ち切りお風呂に入って寝る事にしました。勿論お酒でほろ酔いになって・・・。そして書き綴ります。
歩かない日は寂しい
飲まない日は寂しい
作らない日は寂しい
山頭火は天涯孤独でした寂しいのは当然です。でもこの言葉の裏を返せば「一人で無心に歩き、一人で飲んでいる事、一人で句作に励んでいれば・・・・、と寂しくないと解ります。山頭火は無心になる事で寂しさを忘れる事が出来たのでした。
そして山頭火はこの秋の旅の白眉「耶馬渓」に入って行きます。明日は耶馬渓の山頭火を書いてみます。
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五箇荘から豊後に懸けては温泉が無数にありました。温泉に入って地酒を飲みほろ酔いで句作に励むのが生きがいでありましたし徹する事で、修行であったのでしょう。(写真はの共同湯/湯の壺)

山頭火 耶馬渓を行く②

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昨日は山頭火が熊本を出て阿蘇山を越えて五箇荘、都城から竹田更に由布院に向かうまでを綴りました。今頃は紅葉に染まり始めた頃でしょう。
今回も山頭火の日記に従って私は紅葉を愛でながら托鉢行のお供をさせて戴く事にしましょう。
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紅葉に埋もれる羅漢像(山頭火のイメージ)撮影場所箱根仙石原長安寺
 
竹田の峠道(三国峠)を越えて三重に向かいます。山道は10里も続きます。道々は萩が茂りススキが光っていました、峠の石に腰を下ろして祖母山を眺めながら一杯飲みます。山を見ながら、漬物を肴にして一杯もう一杯お酒がすすみました。麓の方に藁ぶき農家が一軒見えます。日の丸を傾けています。そう今日は明治節(11月3日、明治天皇のお誕生日)だったのです。
しぐるるや道は一すじ
腰掛ける岩も覚えている
飯のうまさを一人かみしめて 最後の一粒を味わう
山の一つ家も今日の旗を立て
枯草に残る日の色はかなし
くれてなお耕す人の影濃く
軒も傾いたまま住んでいる
 
自分ながら托鉢する自分の顔が良くなるのを感じて嬉しく思居ました。
自分のような横着者が戴いた金と米で宿で泊まって寝れて旅を続けられるのは、着ている袈裟の功徳と住人の仏心のお蔭であり、一人合掌をするのでした。
歩いて旅して貰って食べてこそご飯の味も一入美味しい。一粒も粗末にしない。
今日の托鉢も良かった、日記を書いていると清らかな水音が聞こえてきました。
夜をこめて水が流れる秋の宿
窓からは澄み切った月の光が差し込んできます。何という清明さであろうか、好きな温泉に浸かって月見をする事にしました。
暁の湯が私一人 温めてくれる
隣の湯船から男女の声が聞こえてきました。
壁を隔てて湯の中の男女さざめきあう
托鉢が様になってきた山頭火ですが、まだまだ悟りには程遠いようです。
 
旅をしていると子供達が
「ホイトウ(禅僧への差別用語乞食坊主の意味)が来たぞ」と言って傘の中を覘いて行きます。
ある店の前あに前に立ちました。すると女子の童が出てきてこう言います。
「今留守です、母ちゃんが留守だと言え、と言ってたの・・・・・」
子供は正直であり、それは自然なので文句は言えない。しかし嘘を教える母親には疑問を持った
貧しい人は貧しさに徹する
愚かな人はその愚かさに徹する
持って生まれた性情を尽くす。其処に人生があって、
人生の意味も味もあると思うのでした。(良寛さんの名も大愚でした)
 
ホイトウと呼ばれる村の時雨かな
手鼻かんでは山を見ている
しっとりと濡れて岩も私も
剃りたての頭にぞんぶん火の光り
法衣吹きまくるはまさに秋風
秋風の旅人になりきっている
 
川原に下りて法衣を洗って干してお来ました、宿に戻って
井泉水先生の著「旅人芭蕉」を読んでいたら突然時雨が降り出しました。慌てて外に出ると、宿の娘さんが川原に出て干し物を持ってきてくれました。
しぐるるや人の情けに涙ぐむ
11月12日宿の敷居に腰掛けて草履を穿く
黙って今日の草履穿くと
の旧作を想い浮かべていると、その草履が妙に足に冷たい事に気づきました。もう冬なんだ気付きました。寒そうな雲が由布岳から下りて来ています。由布院の湯壺で筑後屋という旅館に泊まりました。湯量の多い温泉で湯の流れで水車まで動かしている家があるので驚かされました。
此処の宿は実に親切でありました。山頭火は早速に内湯に浸かって句作に耽りました。
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湯量の多い由布院の湯壺金鱗湖山頭火はこの畔で一泊したのでした。
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由布院湯壺の内湯水車や野菜の洗い場が目につきます。
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玖珠は民話の里として有名ですが山頭火は何故か冷たく扱われます。川を渡って森町奥耶馬溪に行くとあたたく遇されました。冷たくされても優しくされても仏恩と感謝するのでした。
 
山頭火は垢に汚れた法衣に感謝しながら渓流で洗います。
洗うとそのまま河原の石に干す
寝たいだけ寝たからだ湯に伸ばす
 
由布院から西の玖珠町に向かいました
「乞食坊主 商売の邪魔になる早く行け」
「朝から乞食坊主が来る演技悪いお帰り お帰り」
と粗末に扱われる。
これも仏の慈悲と思って観音経を風呪しながら歩くところが川を渡って森町に入ると一変して人々の情けが深いのに驚きました。
総ての家が悦んで喜捨してくれるのでした、お蔭で2時過ぎには頭汰袋が一杯になり首が重たくなってしまった。
 
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奥耶馬溪の茶屋街
この辺りは妙に作り酒屋が多い街で鼻から脳天に匂いが達して、飲まずにはいられなくなる。酒屋の店先に腰掛けさせて戴いて、1号枡の角からグイグイと飲みながら3軒を梯子した。すっかりいい気分になって岩の上に腰掛けました。
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奥耶馬溪の茶店街(山頭火は大岩の上に腰掛けて弁当を食べたのでした。橋が壊れているのは台風の被害です。
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新聞に浜口雄幸首相が狙撃された出ている。毎日風呪している修証義の教えが身に染みて思われるのでした。
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耶馬渓羅漢寺からの眺望渓谷の奥が奥耶馬溪で玖珠に続きます。(山頭火は羅漢寺(曹洞宗)には詣でず列車に乗って中津川に沿って下って中津に出て福沢先生生家に向かいました。
 
無常忽ちに到る時は国王大臣親昵従僕妻子珍宝助けくる無しただ一人黄泉に赴くのみなり己に従いゆくは善悪業等のみなり」首相も一人で黄泉に旅立ったか
やがて死ぬ気色は見えず夕蛍
さりながら人は何れも春の雪
山頭火は自分の前に横たわる「死」を予感しひしと見詰めたのでした。
托鉢行に徹しながら次第に宗教的に深みを探求して行くのでした。
11月15日いよいよ秋深し憧れの耶馬渓を下る日になった。お天気も草履の具合も良い
托鉢の事も忘れてただ山を観て紅葉を観て楽しんだ。笠も脱いで無心に山を見た。
 
鉄鉢に散りくる紅葉を受けた
山を観る今日一日は笠をかぶらず
今日の弁当は岩の上にて
藪で赤いのは烏瓜
 
 
 
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習字の授業参観

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政府が「和紙」をユネスコの文化遺産に登録申請し、11月にも指定される見込みだそうだ。
考えてみれば和食が指定されているのだし、和紙は日本の書画だけでは無く西洋の古文書の補修にも使われている素材であるのだから、ユネスコに登録されて当然な技術でありましょう。和紙が登録されれば日本刀(鍛造技術)等も検討されるでしょうし、ユネスコの無形文化遺産は日本の匠技術、伝統技術のオンパレードになってしまい、改めて「技術立国日本」が陽の目を見る事でしょう。秩父の小川町(細川紙)も盛り上がっていることでしょう。
 
10月24日(土)私は東戸塚小学校の授業参観に参加しました。孫の授業を見に行ったわけでは無く同校の評議員である事から今年の第2回評議会も行われ、同時に授業を参観する機会があるのです。
家内に連れ添ってもらい3年生の教室を参観して回りました。
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オープンスクール、筆者は小学校の評議員ですので、評議員会と授業参観に出席しました。(横浜市立東戸塚小学校)
 
3年生から習字の授業が始まるようで、廊下には藩士に作品が並んでいました。
机の正面に半紙を置き、机の左にお手本を置いて、右手に硯を置いて、背筋をピンと立てて、筆を動かします。私は家内に囁きます。
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筆者は3年生の習字の授業を参観しました。美しいし姿勢で半紙縫向かう生徒さん。家内も60年前はこんな風だったことでしょう。
 
「素晴らしい姿勢で良いね、でも筆の持ち方はあれでいいのだろうか?」
私の感覚では右手の三本指(親指人差し指、薬指)で軽く摘む感じです。中には掴むように握っている子もいます。
先生が筆の持ち方をどう指導されるか興味を持って観察していました。先生はお二人いられます、一人はクラス担任でもう一人は生徒さんを見て回っておいでです。どうもこの人が専門の先生のような気がします。
教室には大きなテレビがあって、基本的な指導はビデオで行われたようです。
もう一点気になったのは硯はあっても、墨は無くて、全員が墨汁を使って、墨汁を硯にとって、硯で筆に墨汁を含ませ、筆先を揃えている事でした。
 
墨を硯で擂る動作が無いのです。習字は墨をすっている間に気を整えて、どのように書くのか想を練るものと思っていました。ですから、子供達の習字は、準備も無く、突然に本番に入るようなものです。
私は奈良の墨職人や筆職人が苦委が虫を噛むような顔が思い浮びました。
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奈良の墨(古梅園重要文化財400年を超す歴史があります。)
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奈良街で筆を商う一心堂
墨汁で書かれた作品ばかりですから、どれも真っ黒です。打ち込みの力も跳ねの勢いも、運筆のスピード感も作品からは伝わって来ません。子供達も墨の濃淡の面白味に気付く事も、「墨に五彩あり」を実感する事も無いと思われます。
何の事はありませんこれなら「ペン字」か「鉛筆字」の訓練をした方が有効なような気がします。
そこで、帰り際に副校長先生にそんな疑問をぶつけてみました。そのお答えは次のようなものでした。
①習字の授業に先生が二人いますが、クラス担任の他の一人は習字の指導員では無くて、生徒が墨で悪戯(他の生徒の洋服を汚したり)しないように見回っているのです。
②墨汁を使って墨を擂らないのは、準備時間を節約する為です、筆を運び時間が充分に取れます。それに墨汁にすれば公平です。(墨の良し悪しが作品に出ない)。
私はもう一人の先生(補助員)なら十分期待役割が生徒の悪戯排除であるのなら、「習字の基本を教えられるような父兄が卒業生家族に沢山いるのに・・・」想いました。私の仲間や先輩には大きな書道展で受賞歴のある人が何人もいます。情熱と愛情を持って習字の楽しさを教えてあげられることでしょう。
今国会では来年度予算の審議中です。先週の木曜日には1.8万人教員の削減計画が審議されていました。
財務省の意見は「生徒数が減っているから擧委員数も減って然るべきだ・・・」それが1.8万院削減だ。言って居ます。
想い起して見れば生徒が使っているるお手本はどれも黒一色の印刷物です。
個性が叫ばれている時代に無個性です。数種類お手本を用意しといて好きなお手本を選ばせる…など個性を伸ばす工夫があっても良いような気がします。
書道展を見ているとこの人に習いたい思う事が時々あるものです。個性はお手本選びから始まるような気がします。
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昨年の授業参観では給食を生徒さんと一緒しました。中央が筆者です。                                    
 
一方文部省は35人学級を30人にする必要を説いています。財務省は鋭く指摘します。
「35人学級を30人にしたら成績の向上はありましたか?無いのなら35人で充分でしょう。
私は思います。
習字も挨拶も(道徳の範疇」も父兄や家族が教える事が可能です。というよりは父兄や家族がボランタリーで参加する事でより効果が上がるものでは無いでしょうか?
今校長室に葉我が町内で校長に頼んでおいた祭り団扇が置かれています。
大きな団扇に校長先生に揮毫を頼んでいるんです。校長先生は「子供は宝/倉田町内会」と書いてくださるそうです。
校長先生は半世紀前の学習を想いだしておいででしょう、習字の基本を・・・・・。
 
和紙のユネスコ指定は嬉しい事ですが、この機会に筆も墨も大切な役割がありました。に学校教育の場も見直して伝統産業を存続させる意味でも習字の一連の動作を見直して欲しいものです。
 
 
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山頭火耶馬渓を行く③

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山頭火のお決まりは真っ黒い法衣を着て、大きな笠を被って風に吹かれながら、頭汰袋を首から下げて、ひたすらに歩を進める姿です。鉄鉢(托鉢での喜捨を入れて戴く)をギターに代えたら、ボブ・ディランのように見えたかもしれません。私の学生時代、米国にヒッピーが目立ちました。山頭火がヒッピーに少なからず影響を与えたと思います。男子学生には「動」の山頭火が人気で、女子学生には「静」の尾崎放哉が人気でした。
耶馬渓の紅葉に見惚れて、山頭火は笠を脱いで歩き続けました。
耶馬渓の中心は何といっても羅漢寺(曹洞宗」です。同門の山頭火が羅漢寺の石仏群をどのように詠んだか少なからず興味があります。でも、山頭火は羅漢寺は詣でませんでした。更に残念というか、不思議なのは青の洞門も歩かずに、汽車に乗って中津に行ってしまったのでした。
何と言っても耶馬渓の名勝は「青の洞門※」でありますし、「恩讐の彼方に」は山頭火も知っていたでしょうし・・・。
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羅漢寺からの耶馬渓の眺望、山頭火は渓流沿いに歩くだけでしたからこんな眺望を観ないで通り過ぎてしまったのでしょう。
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羅漢寺の羅漢像この羅漢さんは親子家族のようです。山頭火は常に7歳の時に自殺されたお母さんのお位牌を携行されていた程に恩愛の情が強かったのでしたからこの羅漢を見て欲しかったと思います
 
※青の洞門は諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、断崖絶壁の隘路で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全なトンネルを通そうと托鉢勧進して掘削した話。菊池寛が「恩讐の彼方に」に書き、尋常小学校の教科書に載せられたので有名でありました。
山頭火にとっては禅海和尚は同門先人でありますから、その羅漢寺やにもの墓を詣でるのが普通です。私は山頭火は避けて通ったように感じます。
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広重の耶馬渓「羅漢寺下道/青の洞門図」山国川に沿って断崖が続いています。断崖の上を歩いていた旅人が落下して落命していたことから禅海和尚が羅漢寺に逗留してトンネルを掘ったのでした、。日本最初の社会事業で、江戸時代の土木遺産です。絵は広重の60州名所図。
 
目立つことを避けて、ひたすら具に徹し、風に吹かれて風雲流水のごとく歩き続ける事に生甲斐を求めた山頭火にとっては社会事業を命がけで完成させた禅海は眩しくて他の世界に居た人のように、見えた様に想像しました。
そんな気持ちは中津で次のように吟じています。
名僧の面かぶる聾と焦るより、ホイトウ坊主が本当なる蘭。(ホイトウは前掲乞食坊主の差別用語。
自分は禅海おしょうのように名僧のふりをするよりも乞食坊主のままでいる方が本当である…)
そんな素直でない山頭火の性質は「良寛和尚」の国上山5合庵を詣でた時に見えました。5合庵の縁側でバット(タバコ)をくゆらせながら、作句しますが。海の向こうの佐渡の事砂の事を吟じるばかりで、自分と境涯の似ている良寛さんを視るようで視ていませんでした。
 
中津では俳友の「松垣昧昧」氏のお宅に泊めて貰います。
またあえた山茶花も咲いている
布団も大きくてゆっくり寝られました。木賃宿の布団は小さいので足が冷えてしまい充分に寝られなかったのでした。
布団長く夜も長く寝させていただいて
山頭火を良く知る松垣さんのしたしい心遣いに山頭火は安眠させていただきました。
寝酒したしく置いてありました。
中津では福沢先生の旧宅を訪れて2句を得ました。
土蔵の傍の柚子の実も
ススキの一株も植えてある
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福沢先生旧宅
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座敷の向こう庭先には柚子が実っていました。一般に大分ではカボスが目立つのですが。
 
中津から海岸沿いを宇の島を経て門司に出ました。
門司では俳友の「久保源三郎氏」のお宅に泊めて貰います
門司まで来ると海峡を渡れば故郷の山口です。
山頭火は下関に渡ります。
故郷の言葉になった街に来た
山口弁を懐かしく聞きました。そうです。九州の言葉と山口の言葉は随分違うのでした。
下関の下流街を歩きました。
若いころはこの街を酔って歩いたものでした。カフェの女給をからかったり芸者遊びで浮かれたのも今となっては遠い昔話です
床屋の店先で立ち止ってお経をよみました。見れば、向こうに変な乞食坊主がコッチを見ています。
ああ、自分お顔だ、気付きました。
それは自分の顔だった鏡冷たく
お経届かないジャズの騒音
はじかれた菊の見事さよ
 (注:)はじかれるとは山口便で「断れる」の意味、喜捨を断れたの意味です。
更けて博打うつ声
如何にも下関らしい暗い初冬の景色です。
下関まで来た山頭火でしたが、故郷に戻るわけでは無く踵を返してまた関門海峡を渡って
八幡に向かいます。
八幡にも俳友が沢山いるのです
しぐるるやあんたの家を訪ねあてた
鯣( するめ)かみしめて昔を話す
 
山頭火が踵を返したのは、
の目的はこの旅の出発熊本に戻って義庵和尚に挨拶する事でした。
 
義庵和尚は弟子に向かって言われます
「そうか、そうかあれからもう6年もたったのか九州を一回り托鉢して来たのか。良い修行が出来たようであるな」
降ったり照ったり死に場所を探す。
義庵和尚の好意で山頭火は植木に小庵を結びました。山頭火は三八九居(さんぱく)と名付けカリ版で三八九という句集を発刊します。しかしここでも山頭火は落ち着けずに再び果知れぬ旅に出ます。
やっと見つけた寝床の夢も
 
 
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試験農場の冬薔薇

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毎日山頭火の短歌を読んでいたら、突然に冬薔薇を観たくなりました。家内と倅を誘って、藤沢の北部六会にある日本大学の生物資源学部の薔薇園に出かける事にしました。
私は久々の外出です。マイカーの窓からは冬桜の花が確認できます。
この10月の遅い台風で葉を飛ばされた桜が吃驚して花を咲かせているのでしょう。
今咲いて半年後に咲かせるのでは身も細る事でしょう。植物は健気なものです。
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横浜市小雀町の冬桜
日大ではの「生物資源学部」と呼んでいます。一般には農学部とか畜産学部と呼ばれるのでしょう、この名には時代を先取りしようとする意欲が現われているようです。学外で素人の私が来てもいつでも新しい発見があります。キャンバス内の博物館では単位面積当たりのコメと麦の生産効率の違いを展示していまっす。
米の方が麦の10倍以上も生産効率が良いのですが、何故かと言えば水田がプランクトンを効率的に養殖しているからです。水田では食物連鎖のスタートであるプランクトンの生産効率の良いので、優秀な穀物になっていて、瑞穂の国日本の発展を支えてきたのでしょう。
 
そんな疑問をビジュアルに説明してくれます。
そして何よりも私を惹きつけるのはキャンバスでは学生が楽しげに、「体験」と「実践」をかさねているのです。
大学に通う事が自己研鑽であり、恋愛もありで、羨ましいばかりです。
学生が育てている盆栽も見事ですが。蕎麦やトウモロコシトマトに南瓜等の野菜や穀物も種の育成をしています。どんな新種が出来ているのか見るのも楽しいのですが。
学生たちが栽培した花を収穫して、小田急線の駅売店に出荷する姿を見る事も楽しいものがあります。教育は新種を育種する事から、販売して資金を回収するところまで。な広がりがあるようです。
薔薇の育種場は薔薇園では一年中咲いていますいつも学生たちが待ち合わせしています。
薔薇は春夏が花が大きくて見事です、
一方冬薔薇は花も小さく花弁の縁が霜で焼けてしまうので見栄えも悪くなってしまいます。
見栄えこそ劣りますが、香りが強いのです。真っ青空を背に凛として咲き続ける姿は崇高に輝いて見えます。萎れる花の傍には赤い種が結実しています。
夏薔薇が結婚前の女性なら、冬薔薇は子育てを終えて天に召される母親のような逞しさや崇高さがあります。
その逞しさの現われが強い薫りなのでしょう。
私達夫婦もそろそろ冬薔薇の良さを実感する年齢になって来たようです。
そんな次第で、日大の試験農場の薔薇園に出かける事にしました。
試験農場の薔薇は剪定も終わっていますし、除虫も追肥もされています。もう冬支度は終わった様に見えます。今年の学生たちのフィールドサイエンス実習も終了したようです。
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此処が日大藤沢キャンバスの薔薇園此処で育種と近隣の農場で栽培実習が行われています。薔薇園は学外の人も自由に出入り出来て学生の実習風景を見る事が出来ます。ヒマヤラ杉の向こうの建物にのが校舎です。。見ての通り剪定も終わり除虫追肥も終えて地面は黒いビニールで覆われています。学生たちは噴水の前で待ち合わせています。
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篝火と名付けられた緋色の薔薇、青空を背景に凛として咲いて匂っていました。
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白いバラこそ冬薔薇(ふゆそうび)の名に相応しいと思います。
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黄色い薔薇ゴールドクローネ(ドイツ)京成薔薇園で育種したもの入院中娘から貰ったのがこの黄色い薔薇でした。黄色い薔薇が一番に寒さに強そうに見えました。赤薔薇はフランスなら白バラはイギリスで黄色薔薇はドイツでしょうか?
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花が散れば薔薇も種を残します。簪のような赤い実です。
 
家内は屈んで散った薔薇の花弁を拾います。家に持ち帰って部屋中をこの香りで満たそうとする作戦のようですでも、吾午前中に学生さんがお掃除を終えたようで、花弁は殆ど落ちていません。家内の手にしたビニール袋は空いたままです。
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薔薇園の中央に泉があって、周囲はベンチが置かれています。此処で学生は待ち合わせです。
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薔薇園でダンスに興じる学生さん、如何にも青春している感じです。そお、11月1日から3日間は大学祭です。
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バラの花びらを拾う家内、学生さんのお掃除が行き届いているので花弁の収集ははかどりません。木枯らしの吹いた翌朝が良さそうです。白薔薇は「初恋」という名です。
黒土の上に散り敷く冬薔薇、来る歳も彩やに咲くらん
北風に散り始めし冬薔薇、持ちかえらんむ屈みし妹に冬陽射したり
白薔薇の名は初恋という 無心なりに拾い続ける妹は知るか知らずか
 
来春、春薔薇の咲く頃には自分の足で自由に園内を歩き回りたいものです、
 
 
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イギリス風のベーカリーレストラン「メルシー」

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冬薔薇も観たらランチです。国道467沿線(江の島道)には沢山のドライブインが並んでいますから食べるのも楽しみです一駅先の長後まで行けばベトナムやインドレストランも目立ちます。小田急線沿線はエスニック系が多いのです。
でも、薔薇を見た後ですから、イギリスパンのベーカリーレストラン矢島に行く事にしました。此処は昨年もハロー・ウィンの頃に来ていますので我が家族は常連さんです。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47593033.htmlに書きました。
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以前はベーカリーレストラン矢嶋でしたがオーナーも看板も「メルシー」に変わったレストラン
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メルシーの売りはイギリス風の山形の小麦粉の味の濃いパンです。水っぽく柔らかい山崎パンに飽きたらイギリスパンを食べたくなります。お店の道路側はパン売り場になっていて時々来店があります。
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店番は大きな熊さんのぬいぐるみです。
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メルシーにはケーキは無くなりましたがデニッシュ(菓子パン)は案内されています。手前アンクロ250円
 
雰囲気が何処か違っています。看板が「メルシー」に書き換えてあるのです。メニューも(値段も)変わっていますし、。お代りパン取り放題のスタイルもケーキも止めてしまったようです。
訊けばオーナーが変ったそうです。前の矢島さんは50代の夫婦に二人の娘がお手伝いしていました。山小屋風の建物も雰囲気があったので、残念な気がします。
聴いても居ないのに、ホストはべらべら喋ります。現在のオーナーは矢島さんのお父様だそうで、矢島さん家族は此処に住んでいるものの、小田急線の何処か小さなお店に引っ越したんだそうです。
何だ業績不振に端を発して、親子の間でもめごとがあったようです。肉親間のもめごとほど傷つく事はありません。
時にお店はハローウィンのお祭りで楽しげです。私は家族の会話を楽しみにレストランに寄ったのであり、もめごとを訊かされるのは嫌なものです。
 
ところで、今週末の日文研セミナーは西洋史学科2年生の河野さんのプレゼンでテーマは「アイスランドと日本の民間伝承におけるつながり」です。
古代末期ヨーロッパ大陸北部にはゲルマン人が浸入し先住民族ケルト人は追い出されます。
ゲルマン人は森を切り開き畑や牧草地に一変させます。更に南からはローマ人がキリスト教の合理性を伴って遣って来ました。ケルト人は止むを得ず森の最深部や島に追いやられてしまいます。
ケルト人の信仰は民話や伝説時に「魔女」になって潜んでしまいます。
ヨーロッパ大陸北部には古代からケルト人が棲んでいましたが、
 
魔女伝説もハローウィンもその残滓です。日本でも同じような類型の民話や妖怪が多く残されています。長野松代の虫倉山の「山姥」も相模金時山の「山姥」も山中に追い込まれた先住民でした。その子が英雄に育ちます。ケルト人も森で生活する中でヘンデルとグレーデルや白雪姫の伝説を伝えました。三輪山の大蛇(神)と娘との異種結婚譚もケルトの巨人譚(ジャックと豆の木)も二つの民族に共通する伝説です。学生達は「ハリーポッター」も「もののけ姫」も愉しみながら両者に共通する事に感づいて。そこから、ところから文化人類学や文化民俗学に興味を引くのでしょう。11月1日は優勝がかかった早慶戦です。神宮球場にも行かずに友人の発表を聞いている学生たちにエールを送る意味で、私もセミナーに参加する積りです。私の準備(隠れキリシタン」も略終わりましたし・・・・。自分お発表を学生さんに聞いて欲しい思えば学生さんの発表を傾聴するのも礼儀です。
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ハローウィンで盛り上がり中です。
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此方がシーフードカレーセットで1260円でした。
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ハンバーグランチパンのお代り付きで1360円でした。
 
「メルシー」のお味は以前と大同小異で問題は無いようですが、親子のトラブルと聴くと現実につまされて、もう行きたくなくなりました。
 
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ハローウインと諏訪大社

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今日は日文研セミナーに出席して「アイスランドと日本の民話の共通性の発表を聞く積りでいたのですが。私のメイルの確認間違いで、実は昨日(10月31日)に終わっていたのでした。学生さんが研究してきた表題をお借りして、「私ならこんなレポートをするの」話してみたいと思います。
【ケルト人】
古代末期ヨーロッパ大陸には大混乱していました。先住民はケルト人、森の民でした。其処に東からゲルマン民族が移動してきました。南からはローマ人がアルプスを越えて遣って来ました。
武力に秀でたゲルマン人は王国を樹立します。同時にローマ人はキリスト教を伝えました。
森の民は武力と文化の両面で激しく追いやられます。ケルト人は島や森の最深部に隠れてしまいます。
ケルト人の暦では1年は10か月で10月31日が大晦日で、新年は11月1日に始まっていました。
10月31日は死者の魂が戻って来る日でありました。
ケルト人はその死霊の魂が地上に戻って来る日にお祭りをして、新年の豊穣も祈願していました。日本の「新嘗祭」のような行事であったのでした。同時に10月31日はキリスト教の「万聖節」の前夜祭です。万聖節は亡き聖人たちを祭るカトリックの行事でした。教会が千住民の伝承を利用したと考えるのが自然でしょう。
子供達はお化けの格好をして家々を回りドアを叩いて、「Trick or Treat?」(お菓子をくれないとイタズラしちゃうぞ)と言います。お菓子を求める様子はヘンデルとグレーテル【グリム童話】のお菓子の家を髣髴させます。
死者の霊の道案内したものが南瓜のランタンでした。日本の迎え火や盆提灯に相当したと考えて良いでしょう。
 
【エデンの園】
旧約聖書は紀元1世紀頃に編纂されたと言われています。ならば、ケルト人の言い伝えは聖書に影響を少なからず与えたと推測されます。
「創世記」のエデンの園の記述もその一つでしょう。神は先ず光を用意されました。そして昼と夜を分けました。次に土をこねて息吹を吹き込み人間【アダム】を、次にアダムのあばら骨を取って女性【イブ】を作りました。二人はエデンの園で楽園生活を始めていました。
エデンの園の中央には転移も届きそうな大樹がありました。イブは大樹の樹下で悪賢い蛇の誘いを受けます。蛇はイブに語りかけました。
「その実を食べてみよ」。
イブは「神からそのの中央の木の実を食べると死ぬと戒められたので食べない」とはねつけましたが蛇は更に食べるようそそのかします。
「その実を食べると善悪の知識がついて神のようになれるので。神が食べないように戒めたのだろうよ・・・!」
イブは誘惑に逆らえず林檎の実を食べてしまいます。夫のアダムも林檎を食べました。でも、呑み込まずに吐いてしまったので死ぬことはありませんでした。
こうして、神の戒めを破ったアダムとイブはエデンの園を追放されて、苦行の生活を強いられたのでした。
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 創世記エデンの園の記述はケルト人の民話が起源のように推測します。世界樹ノ樹下で人類の善悪はスタートしました。
 
【異類婚姻譚(いるいこんいんたん)】
人間が動物と結婚する伝説です。日本には「鶴女房」や「雪女」が知られています。広義には三輪山の神(大物主大神)も含まれるでしょう。一方ケルト人の民話にも動物と結婚する話は数多くあります。「白雪姫」も「赤ずきん」お「眠りの森の美女)も「シンデレラ」も動物と人間が結婚します。ケルト人の話は動物が王子様になって女性(人間)に幸福をもたらしてくれますが、日本の場合は人(女性)に動物(為政者)が忍び寄ってきて夫婦になり子孫を宿します。この違いは日本の古代が母系社会であったのに対しケルト人社会は父系社会だったのでしょう。
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奈良の三輪山大和三山から見ると紺山頂から太陽が昇ります。太陽信仰の民が進出してくると、先住民族「山の民」と混じります。その方法として山の民の姫(蛇)と農耕民との結婚に進展し権威と調和を果たしたと考えられます。大和朝廷の端蟻と考える説が強くその証拠に三輪山と平野との中間に「箸墓」や「崇神天皇陵」が並んでいます。同様な例が長野の松代や太宰府にもお確認できます。
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三輪の大神神社のご神体葉お山でお使いは蛇です。
娘に毎晩忍んで来る青年の袂に赤い糸を縫いつけえおいたところ、赤い糸はお山の大岩の処で消えていました。娘は山の民の子を身ごもり。その権威と武力を譲られ大和朝廷を築いたお考えっれます。
【山姥と魔女】
御柱で有名な諏訪大社は神奈川でも沢山の末社を抱えています。一つは戦いの神様ですから武士が栄えた関東地方に末社が多いのでしょう。もう一つの理由は豊穣の神様だからです。
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藤沢の諏訪神社の祭礼も基本的には豊穣祈願祭です。諏訪神社の祭神は蛇でした。「山の神」です。
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金時山の山姥の子が雷神の子を宿して産まれたのが金太郎でした。山姥や雷神の権威が金太郎の武勇の根拠とされたのでした。
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大山参道い立った御柱。私はこの橋らを見るたびに「ジャックと豆の木」を想い出します。御柱は神の依代であると同時に、天上から地上に神が下りてくる梯子のような摸おと思います。ジャックを追った鬼は山の民の大男と思います。鬼は鼻が効くのでした。
 
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横浜洋館のハローウィン南瓜は提灯にして、死者を案内する灯りにします。
 
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 諏訪大社の新嘗祭神前に農作物が並びました。諏訪大社の新嘗祭は次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/28602728.html
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 出雲と諏訪の神様は大蛇が神様です。大蛇は山の民のシンボルと考えます。
日本の神話は山の民(諏訪大社等)を里の民(大和朝廷)が統一するプロセスです。でも特徴的なのは武力による対立的な平定ではなく、結婚や協議に依る平和的統一(同和)えした。一方、よーろっぱの伝説からは知(理性)を重んじて無知を滅ぼす対立的統一が色濃いように思います。大概無知な者(悪魔やサタンや魔女)は殺されてしまって平和が訪れます。
 
 
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日本産のシシャモを食べたい

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テレビでは伊豆諸島で珊瑚漁をしている中国漁船を写しています。
深海の珊瑚は堅いし、宝石の美しさがあってそんな珊瑚を求めて日本の領海まで採取に来ているとの事。
警察官は島に行って彼らが上陸しないように警戒している様子です。管轄は海上保安庁か自衛隊なのでしょうが。間にを考えてか、彼等盗人のしたい放題です。まさか阿倍内閣は「自衛権の議論を喚起して集団的自衛権を通そうとする目論見」があるからでしょうか?
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伊豆沖で珊瑚を密漁する中国漁船(読売新聞) 
寒くなって青菜が美味しい季節になって来ました。
中国の屋台では今頃は雪里菜の塩炒めが美味しく食べられることでしょう。最近は「セリボン」なんてハイカラな名が付いていますがニッポンの水菜と野沢菜に似た中国野菜です。私は雪の積もった里で食べる青菜と書く名前が好きです。想いは野沢菜や野沢菜漬けに通じるものがあります。
ソロソロ今年も通販で野沢菜づけを求める事にしましょうか?
家内を誘って藤沢の農協野菜売り場「ワイワイ市場」に出かけました。私のお目当ては雪里菜(セリボン)を探したのですが見当たりません。芥子菜はあるのですが、肝心の雪里菜は並んでいません。藤沢では駄目で鎌倉に行かなければいけないようです。仕方ないので「私を食べて」訴えていた。里芋とアヤメ蕪を求めて帰りました。
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里芋の美味しい季節でもあります。
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寒くなると蕪が美味しく、菜も根も食べられるところが魅力です。
 
野菜が駄目なら魚屋に出かける事にしよう。
お目当てはシジミと、シシャモです。寒くなると体がシジミやとシシャモを欲するのです。
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今が旬の国産シシャモ北海道の苫小牧を日高に向けて走ると直に鵡川を越えます。このかわに遡上してくるのが本場のシシャモです。アイヌの民話「神が飢饉に苦しむ民を憐れんで柳の葉を川に流したのがシシャモだと言います。本土では三途の川の畔に柳の大樹があると言います。両者が混じった伝説かも知れません。通販では大凡1本100円で求める事が出来ます。絶滅危惧種ですから貴重です。私のような庶民が口にできるのは樺太シシャモで大概がカナダ産です。
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魚屋の店先で今が美味しいのよ!訴える太刀魚。(近海もの)
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一般に売られているカナダ産の樺太シシャモ(カナダシシャモと呼ばないのは北方領土に未練を残しているから?)
 
何時もの魚屋さんでは先ずカレイと太刀魚に睨まれます。「私が美味しいよ鵡川産のシシャモなんてこんな魚屋にはないよ、横浜まで行かなければ」言っているようです。
「シシャモの焼き物に芋煮汁」私の今晩御献立希望は無残に打ち砕かれて「鯨の刺身に里芋汁」にランクダウンです。
でも鯨も里芋も美味しく、滋養があるので、私の体は歓迎してくれています。
当面は季節を食べながら良く寝て体力回復が目標です。
今週は7日に館山にお魚を食べに出かけて、9日(土」には日文研セミナーでレポートする予定ですから気合を入れているのです。
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色々迷った挙句に、鯨で一番おいしい尾の部分のお刺身(生姜を下して食べる)と鯵の酢のものに芋煮汁(水団入り)に落ち着いた今晩の夕餉
昨晩の夕食は色々迷った挙句に鯨の刺身に芋煮汁(山形風)に落ち着きました。
あれも食べたいこれも食べたい私に家内は
「食べ物は自己責任ですよ」「二度目に脳梗塞を発症したら私はもう知りませんよ」介護放棄を宣言しています。
幸い日本には四季があります。目で鼻でそして舌で楽しみながら体力気力を充実させて行く積りです。
夕餉の終わりに呟きました。「
鯨は美味しいけどこれは南氷洋の鯨かな?だとしたら、中国漁船を批難出来ないな!グリンピースに言って攻撃対象を日本の捕鯨船から中国の珊瑚密漁船に移して欲しいものだ。」 
 
 
 
 
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