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仮屋宿のマリア観音像

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5月27日私は伊藤君の南軽井沢の別荘に向かいました。今月初めに久能山に旅して以来のお出かけです。
戸塚駅まではワイフに送ってもらい戸塚駅にホームで親友の富田君に引き継いで貰い横浜線で八王子八王子から軽井沢までは同じ仲間の両角君のくるまで東関道・関越道・長野道を走ります。実はこのコースは2年前にも行ったのでした。伊藤君は一年の過半を軽井沢で過し週末は都心に戻っています。昨年からは別荘近くに農地を借りて野菜造りも精出しているとの事二日前の冷え込みで折角植えた茄子も胡瓜もやられてしまって萎れてしまったようで、「同君から野菜造りは水遣りを朝にした方が良いか夕方の方が良いか訊かれました。
私のアドバイスは一日1回なら夕方は避けた方が良い。やるなら朝でしょう。夏になれば野菜は水が欲しいし一方で水を遣りすぎれば根が蒸れてしまい根腐れを引き起こすので。野菜の表情を見ながら遣りすぎず少なすぎずに適量遣る事でしょう。昆夕方水遣りをすると。根が急激に冷えるので避けた方が良いでしょう。でも此処は朝方露が降りるので風土が朝の水遣りをしているようなもので野菜造りは上手に出来ると思いますよ・・・・・。
翌朝伊藤君は自転車にのって畑に出かけました。小川の水を汲んでやったんだそうです。何れ伊藤君の別荘では手作り野菜を食卓に供されることでしょう。
旧信越線の軽井沢中軽井沢駅が図書館に改造されたのだそうです。伊藤君は図書館に頻繁に出入りして読書三昧のようです。蔵書の多くは寄贈されたもので。別荘族が愛読された書物が多く、特に植物や歴史物が多いようで石仏照会したものも多いようです。伊藤君は読書して実査して私達を導いてくれます。2年前も「軽井沢のマリア観音を確認しようとして4人で軽井沢鳥井原を探し回りました。旧家に訪れて「この近くに在るはずのマリア観音をご存知ありませんか?」訊いて廻りました。
家人は「マリア観音て何ですか?」訊き返されます。
その都度マリア観音を説明しましたが多くが当所に多い馬頭観音だったりして目指したマリア観音は見つかりませんでした。
その年の晩秋伊藤君から便りがありました。草が枯れたのでマリア漢音が見つかった。自分達が探した時は草に埋もれていて見つからなかったものでやっぱり本に書かれていた位置に祀られていたのでした。その時は先輩の滝口夫人から写真も送られてきたのでこのブログにもアップしました。(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48297194.html)
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2年前秋のマリア観音像
私達は前来た場所に又来ました。今日はジェーマンアイリスが道端に咲き誇っています。畑にはひなげしが群れ咲いて居ます。
伊藤君は葱畑の脇を歩いて行きます。ひなげし畑の隅に新しい墓石が並んでいます。この畑の所有者一族の埋め墓なのでしょう。軽井沢は戦前までは両墓制が一般的で畑の脇に遺体を埋めて菩提寺にはお参りする為のお墓を用意しました。横浜の戸塚でも葬式はお寺で行い畑の埋め墓で土葬をしていました。
軽井沢でも最近は火葬が一般化してお寺の参り墓に火葬して骨壺を埋葬するようになったのでしょう。そんな次第でこの埋め墓もいずれは消えてしまう運命にあるのでしょう。埋め墓に一本立派なイチイの樹があります。その下に石仏が一基祀られています。
智拳印を結んだ「 金剛界の大日如来」でありましょう。「マリア観音」の名は『胸の前で、左手を こぶしに握って人さし指だけ立て、それを右手で握る印」がマリア様に祈る姿を想わせたので直感的にマリア観音と名付けたのでしょう。この直感はあながち間違いではなくキリシタンは神「デウス」を大日と訳しました。日本人は一神教に馴染みが無かったのでデウスを大日如来とイメージしたのでした。
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ジャーマンアイリスが畑の縁を彩っていました。
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雛罌粟畑の向こうに家が建ちましたその手前のイチイの樹の下にポツンとマリア観音が祀られて居、マス向こうの山は離れ山で家は国道『17号線)に面しています。この花は国道に面したスーパー鶴屋等で売られるのでしょう。
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篤信の両角君はマリア観音の草むしりをして吹き飛ばされた注連縄や幣を結び変えてやりました。

伊藤君はマリア観音を案内して「もう一基素晴らしいマリア観音を見つけたので行こう」誘ってくれました。
3時に風呂に入ってそのもう一基のマリア観音に向かいました。場所は軽井沢の西仮屋宿です。追分宿軽井沢宿の本陣が満杯であった場合に使われたのがその中間にあった仮屋宿でした。その脇小山の上に矢張りイチイの大木があってマリア観音はその樹下で智拳印を結んでいられました。
注連縄には奇妙な白い泡が付いています。イチイの樹の上から雨蛙の啼き声が降って来ます。雨蛙は雨を呼ぶと言われます・雨蛙が梅雨前線を呼んでいるような嫌な予感がします。
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イチイの大木の樹下に祀られたマリア観音像感音の前には百合「笹ユリ?」が伸びていました手前の注連縄の結び目には白い泡が付いていました。これは雨蛙の卵でこの泡の中で雨蛙が育ちます。
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雑草に点々と白い泡がありますがこの泡の中雨蛙の卵が産まれています。
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これが雨蛙です。向こうの石仏は馬頭観音です

周囲を見回すと雨蛙の卵は沢山見つけられました。
雨蛙の卵を見たからではないのですが今日一日の疲れでソフトクリームを食べたくなりました。
伊藤君は「今日はみかどの本店で食べよう」誘ってくれました。旧軽銀座に向かいます。
軽井沢聖パウロカトリック教会に向かいました。(http://www.karuizawa-stpaul.org/)
教会の正面にマリア様が祀られていますし。お庭にもイエス様を抱いたマリア像が祀らています。
此方は新しい感覚で彫られたマリア像です。百合の芽も育っています。もう1カ月も経てば見事なマリアリリーが咲く事でしょう。
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軽井沢聖パウロカトリック教会の棟正面にはマリア像が立っておいでです。筆者の感覚では黒いマリア像にして周囲の壁を白い漆喰で固めたのは少し気が懸ります。
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此方はお庭に祀られたマリア像白い御影石と民芸風のマリア様が美しいと思いました。
私達は重い扉を押し開いで聖堂に入りました。瞑目して座ります目の前にマリアン・リリーが活けられています。
マリア様もキリスト教も日本の風土に定着してきたことを実感します
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軽井沢聖パウロカトリック教会の祭壇はマリアリリーで飾られていました。
中国人観光客の一団が教会に集まって来ました。
ガイドが案内します。
「此処で解散1時間は自由行動にします。教会前の(チャーチモールに向こうが銀座通りです。1時間後に此処に戻って下さい」
そんなことを言ったのでしょう。中国語は日本人お感覚では棘棘しています。加えて静寂を破られてしまいました。
私達はパンとワインを買い込んで別荘に戻る事にしました。伊藤君の日頃の努力のお蔭で石仏行脚がスムーズにスタートしました。


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吾妻路の抱擁道祖神を考える

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5月27日夜軽井沢の山菜を肴に酒が進みました。伊藤君がふるさと納税の御礼に取得した鳥取の清酒が口当たり良かったのでした。最期はシジミ汁を戴いて。話題は明日からの行程を協議します。私は「甲州街道を下り碓氷宿安中宿を見て回り、月夜野で宿をとる」案を提案、伊藤君は中之条町の道祖神を巡ろうと提案します。2年前一度吾妻渓谷に沿って道祖神を見て回ったのでしたが、その時の興味が持続していたのでしょう。
道祖神好きは両角君も富田君も同じです。新島穣の生家や安中教会案は道祖神の魅力には及ばず却下されてしまいました。そんな次第で、今日から吾妻街道沿いの石仏を案内します。
【高遠石工】
私の学生の頃でした。本屋の棚に曽根原駿吉郎氏の著作「貞次の石仏」を見つけて購入しました。同著は桜で有名な高遠に守屋貞次という石工の棟梁が出現し石工集団を組織して。高遠から全国を巡って石仏石神を彫像して回ったというのでした。
高遠の天竜川を挟んだ西向かいには駒ヶ根光前寺があります。光前寺の石仏群は善光寺詣でをした善男善女の口を介して全国に広まった事でしょう。善光寺さんの石仏を彫った高遠の石工に彫ってもらいたい需要は全国に在った事でしょう。
貞次の石仏は越後魚沼にもその手前の三国峠の東麓の月夜野水上に広がります。
曽根原駿吉郎氏の仕事も高遠石工に導かれて「太郎兵衛の石仏」に更に「木喰百道」に広がって行きます。
貞次の石仏を読んだ人から「我が村にも高遠石工の石仏がある。我家のお墓は高遠石工の作のようだ」報告が集中していたのでした。
曽根原駿吉郎氏は安曇野の穂高に住んでいました。同氏は安曇野の道祖神が好きだったので。同地に転居していたのでしょう。安曇野の道祖神は自ずから塩田平を経て上州に伝播しました。松本平には道祖神が多いのですが、それらは江戸中期以降に造立されていて、大半は高遠藩の石工の手によるものだそうです。財政的に厳しかった高遠藩では石工に旅稼ぎを奨励していて、彼らは近隣の松本平に足を運び各地で道祖神を彫ったそうです(参考文献:「道祖神」(参考文献:「道祖神」曽根原駿吉郎氏・降旗勝次編/鹿島出版会 昭和50年発行)
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曽根原駿吉郎氏著「太郎兵衛の石仏、雪国越後の魚沼で3千体の石仏を彫った高遠石工の業績を追った力作でした。貞冶の石仏・太郎兵衛の石仏の著作が読者の共感を呼び高遠石工の上州での業績を調査するきっかけになりました。
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越後六日町の太郎兵衛の石仏(墓標地蔵尊)出典:同著

前書で曽根原駿吉郎氏は道祖神の分布は松本平を起点として甲州、上州さらに駿州などにも伸びていて、これらのエリアが高遠の石工の行動範囲と重なると指摘しています。
江戸時代末期木喰上人は高遠石工の足跡を追う様に上州から越後に入ります。
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上州月夜野に参詣した溺霊供養堂にある貞冶の宝篋印塔。貞冶は守屋貞冶の意味ではなく貞冶年間(南北朝時代14世紀前半)の意味でした。でも17世紀に高遠の石工がこの地で活躍した事は間違いないようです。

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凝灰岩の宝篋印塔は大切な角を破損していました、押し当ててみたり雑草を毟って戻りました。








【童守神】
一般的に道祖神のルーツは古事記に遡ると言われています。伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神を産み、それが元で死んで黄泉の国へ逝かれたのを、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が会たさに後を追い醜い死体に驚き逃げ帰る。この時に追いかけてきた伊弉冉尊を防ぐため、黄泉比良坂(よもつひらさか)に大きな石を置いて道を塞いだ。この大石を塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)と言って、塞の神(道祖神)の事であるとします。一般に村境や峠、辻や橋のたもと等で、外部から村に悪疫・悪神が侵入するのを防ぐ役です。
また一方で、天孫降臨の際に出会った天宇受売命(あめのうずめのみこと)と猿田彦命(さるたひこのみこと)はこれが縁となって結婚し、そして二人は一緒に道祖神になったと言われています。ですから道祖神の形態は男女の二神を形作る事が多いのです。(双体道祖神)高遠石工は安曇野では男女二神が連れ添って微笑ましい姿で刻まれています。千曲川沿い塩田平でも仲睦まじく二神は手を握ったり結びの盃を酌み交わしていますが、上州に至ると一変しします。手を握ったのでは物足りないと言わんばかりに抱き合ったり、横臥したりしています。塩田平から上州に至る道は中山道が表街道で裏街道が「吾妻街道」になります。吾妻の名は古事記の日本武尊が東征に進んだ道です。吾妻川が利根川本流に合流する東には日本武尊を祀った武尊神社(ほたか神社)があります。
安曇野では道祖神祭りの主役は子供です道祖神を綺麗に装い、三九郎焼きどんと焼きの火を付けます。ですから道祖神とは書かずに童守神と書くと思っています。こんな考えを強くしたのが江戸時代再三猛威を振るった疱瘡の流行でした。「遠くの村でコロリ(疱瘡)が流行り始めた」噂が流れて来ます。コロリは先ず子供に移ります。朝元気に庭で遊んでいた子供が夕方にはコロリと死んでしまうそんな恐ろしい病気がコロリの語源でした。コロリから子供を守ってくれるのが道祖神でした。
吾妻渓谷に入ると道祖神は疱瘡神の役割が色濃くなります。男女二神が睦んでいる姿が何故コロリに効果があると思ったのかその訳は解りません。コロリの厄病がこんなに仲睦まじいのでは子供を殺してもまたすぐに子供が産まれて来ると考えて厄病が避けて通ると思ったのでしょうか?
中之条町が日本武尊の通った道であった事ともう一つ重要な事は草津温泉の入り口に在った事でした。草津温泉は乾癬(皮膚病)に効果がありました。乾癬の症状も疱瘡の症状も赤い湿疹が出るので似ていたのでした。
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        埼玉の見沼の薬師堂に祀られた疱瘡神(円空作)
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上州中之条六合(くみ)の双体道祖神、道祖神の周囲に飾られたこけしのような木像は疱瘡神の意味でしょう。
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上州中之条六合(くみ)荷付場道祖神の双体道祖の近くに在る観音堂この辺りで「男はつらいよ最終回/ハイビスカスの花」の撮影が行われたそうです。渥美清さんも浅丘るり子さんも子の道祖神を拝んだことでしょう。
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モデルになった天宇受売命(あめのうずめのみこと)と猿田彦命(さるたひこのみこと)も赤面してしまいそうな抱擁双体道祖神像。天宇受売命の太腿も立派だし、猿田彦命の一物も袴から飛び出しておいでです。


之条六合(くみ)荷付場道祖神の双体道祖のコピーが多く出現しています。
下の写真もそんな一体です。
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此方はロマンチック街道(吾妻街道国道145号線)岩島に在る個所有の道祖神前記の付場道祖神の双体道祖のコピーと思われます。
高遠石工は貧乏だったから石仏彫の為に出稼ぎせざるを得ませんでした。文化は貧乏な人が産んで育てて来ました。
私が高遠石工が名石仏も遺した事に畏敬の念を禁じ得ません。私の人生も第4コーナー何を残せるのか自問自答します。多くの人がそうしてきたことでしょう。その問の答えは「子を残した孫を残した」と思う事でしょう。小林一茶が俳句と子を残したように…、名も無い高遠の石工は特長のある人間臭すぎる道祖神を残しました。
今日子孫さえも残さない人が増えて来ました。折角開拓した農地だったのに草深くなり猪や鹿に取り返されて田の神は撤去し山の神が微笑んでいるようです。豊かになるのは誰も嫌いではありませんが何の為に豊かになりたいのか忘れてしまうととんでもないシッペ返しが待っているようです。


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「忍ぶ恋」こそ勝りたれ

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伊藤君がノートpcをやめてタブレットを購入しました。私達の石仏行脚には強い武器が出来た事になりました、先ずは、石仏データベースを開きます。http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C+%E4%B8%AD%E4%B9%8B%E6%9D%A1%E7%94%BA%E3%81%AE%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9E&oq=&ei=UTF-8&xargs=5&b=201.たくさんの石仏の写真の中から目的の石仏を選択して後はタブレット端末の画面を確認しながら・・・。只管マップと実際の位置を確認しながら石仏を目指します。
今回の目標は「群馬県吾妻渓谷の双体道祖神」ですから探し当てるのが難儀です。馬頭観音や地蔵尊庚申塔なら祀られている場所は大抵が道路端です。村境の分岐点やお堂等に祀られていることが多いので車で近くまで行けます。
でも双体道祖神は尾根や峠に在ります。何といっても「塞の神」という程ですから村境の尾根に在ったりします。村外れ(塞)を忍耐強く探し回らなくてはなりません。車で村外れの峠道辺り迄行って後は手分けして探すほかありません。峠には猪や鹿対策のネットやフェンス高圧電線が張り巡らされています。鹿や猪は村の農作物や果樹を食い荒らす厄病のような存在なのです。昨今は鹿や猪が過疎になった村に逆襲しているような気配です。猪の囮に触れないように注意しながら道祖神を探します。
私達は群馬の道祖神でも特に有名な「長平の双体道祖神」を目標にします。村の作成した道祖神巡りでは1番になっています。
場所は赤岩集落から赤岩川を遡って花敷温泉を経て更にずっと奥です。赤岩集落は蚕農家が集積していることから「伝統的民家群の指定が為されているのです。
加えて幕末には此処の富豪の家に高野長英が潜伏していたことから話題になっているようです。
「赤岩集落」の名の謂れは直ぐに解りました。大きな赤い岩がある訳でもありません。
川底に転がっている石がどれも赤いのです。上流に鉄分を多く含んだ石や土が在るのでしょう。
それが流されて河底を赤くしているのです。まるで大怪我をした大蛇が抜けた跡の様に川底が朱色になってうねっています。
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此処が中条村六合(くに)赤岩の民家群各家が二階建てで二階が蚕の育成室でありました。蚕部屋の片隅に高野長英は潜んでいたのでしょう。
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群馬県中条町六合(くに)の道の駅に案内された道祖神案内。中条町の道祖神は抱擁道祖神である事が特長で村おこしに道祖神を活かそうとしています。番号をつけて案内していますがこれだけを一日で巡るのは困難です。1番がこれから案内する「長平道祖神」でその右13番が昨日案内した「荷付け場道祖神」です。道の駅で案内人を紹介してくれると助かるのですが一つ一つ探し当てるのは大変です。
ところで各道祖神にはスタンプも用意されているのですが、インクが乾いていて使えません。行く人はスタンプ台を用意した方が良いのです。
6合で(くに」と読みます。6つの部落が合併してできたので6合と書いて「くに」と呼んだのだそうです。古事記に「天地四方を合せて6合(くに)を為すと表現があって、国の大和言葉が「くに」であったのだそうです。流石に日本武尊の故事が色濃い地域で平成の町村合併後に使用する名前に太古の言葉を使うとは地名にも凝っています。
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各道祖神には道祖神をイラストしたスタンプを設置していますでもスタンプマット自体が乾いてしまっているので使えません、持参するのが賢明です
細い道は花敷き温泉に続き更に渓流に沿って昇ると「尻焼き温泉」に出ます此処は川床の温泉があって赤い岩の上に腰掛けて温泉に浸かっていると。お尻が猿のように赤く染まってしまうのでこんな妙な名がついているのかもしれません。林道を進むと突然に5戸程の集落に出ます「長平」の案内があります。一度行き過ぎてしまいましたが戻って探すと草叢に埋もれて「道祖神」の案内が立っていました。その登り道だけにマーガレットが群生して咲いて居ます。
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長平の道祖神には林道を折れて尾根に向けて細道を登って行きます。道端にはマーガレットが群生して咲いて居ました。この急な道を100m程登ると尾根に出て其処に道祖神が佇んでいます。赤いリボンは道の境を明示したもので。測量に使用したもののようです。道祖神巡りをし易いように道の整備を計画しているのかもしれません。
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これが長平の双体道祖神。尾根道にあります。男女の神様の表情も素晴らしいのですが台座にデザインされた(桔梗/朝顔)が意味深です。
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男神は烏帽子をかぶった正装で恥ずかしがる女神を扇子で隠しています。それでいて左手を女神の肩に回して強く抱いています。女神は両手を男神の膝の上に回して組んでいます。女神は伏し眼で心なしか何か呟いておいでの様に見えます。凝灰岩の表面に黄色い苔が生していい雰囲気です。この道祖神は造立年, 弘化3年(1846)と刻まれています。「蛮社の獄」は1839年ですからその直後にこの像が造立したことになります。高野長英「戊戌夢物語」(渡辺崋山(慎機論)等がモリソン号事件の幕府対応を批判して、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けたのでした。

私は左半身が不随意ですのでこの急な坂道を登るのは危険です。意識して前傾して指先に力を込めて進みました。坂道で後にひっくりかえったら大変です富田君が私の後ろに回って腰を押してくれています。坂道を下って降りるときは一層危険です。富田君と両角君が綿足の前後を固めて転びそうなら支えようと身構えて進んでくれます。そんな尊い体験を経て願望の道祖神を巡るのでした。
道祖神の手前に都忘れが咲いて居ました更にその先にはそして海老根も咲きだして居ました。
長平の集落の人がマーガレットにあわせて育てているのでしょう。こんな不便なところに住んでいる人の心の優しさを想いました。
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尾根道には都忘れや海老根(写真)が咲いて居ました
【忍ぶ恋】
長平の道祖神は抱擁道祖神の中に在って一番に美しく文学的でもあります。像を見ていると平兼盛の歌を想いだしました。(拾遺集40番)
しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は
              ものや思ふと 人の問ふまで
「忍ぶ恋」こそ一番です。これは昔も今も変わらないと思います。昨今の若い人は「忍ぶ恋」の感動を知らないので、直ぐに欲望に身を任せてしまいがちです。忍ぶ恋に耐えられないので恋文を和歌に託しました。忍ぶからこそ愛は強く深まり熱く燃えたものでしょう。言の葉に愛情を託したから文学が深化しました。一方、忍ぶ恋は能に歌舞伎の本質にも通じました。
世阿弥は「秘してこそ花」と表現し近松門左衛門は虚実皮膜論として『ウソ(虚)とホント(実)の間に こそ、歌舞伎の醍醐味がある』と説きました。即物的に表現したのでは想像する余地も無いし美しくも無い、という事でしょう。
抱擁道祖神でも昨日案内した荷付場道祖神は直截的な愛の表現で少しエロ・グロの匂いがします。
エロでもグロでも愛の表現は開放的である方が良いというのが昨今の風潮でしょうが、「忍ぶ恋」を知らなければまだ子供の恋です。世阿弥も近松も知らないなんてをつまらないものであると評すべきでしょう。
車内で議論が湧きました。「朝顔と後朝/きりぎぬ」の関係です。
長平道祖神の台座の朝顔『桔梗』は女神が心も体も開いた事を暗示していると解釈したからです。
「後朝」とは、恋人が共に夜を 過ごした後の朝のことで、共寝していた男女がそれぞれの衣を着て 別れること。です。お別れの合図が朝顔が花開く事です。朝顔が花開けば別れければなりません。その時こそ愛おしさが最高潮に達する時でしょう。こんな解釈が初老の親爺4人が出した解答です。流石に絵島生島を生んだ高遠の石工の作品です。伝統を汲んで意味深というか花のある表現です。(この長平道祖神が高遠石工の作であるといった確証はありませんがこの辺りには高遠石工の作が多く残されています。(この件については次のブログにも報告されています。http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/ea23d2c15a185260e7eefce2c11dcf63)
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沼田川場村吉祥寺の双体道祖神手前の赤い花は珊瑚草こんなお地蔵様二体が道祖神の初期形態でした。(神奈川県足柄山付近)


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八場の石仏パビリオンの愚挙

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5月28日の宿は上州月夜の温泉です。吾妻川に沿って山を下ります。この道は2年前にも伊藤君らと通りました。その時の狙いは抱擁道祖神巡りでした。その時はタブレット端末も無いのでパソコンからプリントアウトした地図や写真を片手に村の人に聞いて回りました。そして歩き疲れた体を川原湯温泉に浸かりました。その時は渓谷沿いの旧道を通りましたが今日はちがいます。八場ダムの堰堤を通る計画道路(新設)を通ります。
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これが八場ダム堰堤近くに作られた三つ堂の石仏パビリオンです。これは湖底に沈む運命ににあった石仏をこの場所に集めて展示したものだそうです。請け負った業者は東京ディズニーランドのパビリオンを請け負った業者でした。フェリーポートを用意してこの位置まで石仏を運んで石窟はスプラッシュマウンテンを作った要領で作ったのだそうです。ですから石窟に見えるところは実際は張子の岩や吹付コンクリートで塗料を凝灰岩風に塗って仕上げたものです。所々塗料が垂れて縦の筋が出来ていますし。中心に位置している馬頭観音には意図的な臙脂色の着色が為されています。石仏は人間が想いをこめて彫り、あとは自然が造形して出来上がる人為と自然の合作です。こんな人間のの驕りを証明するパビリオンに30億円もかけたのは怒りに震えます。今日はこの石仏パビリオンの「愚」を指摘します。
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これが石仏群の中心に位置している馬頭観音です。観音の衣文に点々と臙脂色が散っていて一見美しいのですが、実際は岩の色ではなく意図的に塗ったものです。受託業者はこの意匠が気に入ったのでしょう。この他にもう1体同じ意匠の着色がありました。
この観音に疑問を抱いて石窟の岩を叩いてみると鉱物質ではなく張子の音がしました。八場ダムは自然の景観を破壊し。村民の先祖や神仏を尊ぶ心も踏みにじっています。八場村が「八墓村」に聞こえたのはこのせいだったかも知れません。

渓谷を渡る巨大な橋が目を奪います。堰堤には谷底に住んでいた住人が移転してきています。新設住宅と言ってもどれも震災の復興住宅のような味気ない建物です。川原湯温泉で温泉宿を営んでいた人は未だ移転を済ませていないようです。吾妻川の川原の露天風呂には若山牧水や芭蕉の愛した面影が残っていて今でもお客が付いているのでしょう。巨大橋の橋脚に予定水位が記されています。私達はその標の位置まで青い水が湛えられている景色を想像します。荘川沿いの御母衣ダムの景色がダブって見えてきます。御母衣ダムの上州版がもうじき実現するのでしょう。2年前の石仏行脚中々見つけられなくては大変でした。不動尊堂も湖底に沈まないように堰堤の高さに移転しています。
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これが2007年当時の三つ堂石仏群写真はこの移転問題を批判した市民ネットのブログから拝借(http://s35.gunmablog.net/e179490.html)
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中央が八場大橋中央の谷底に吾妻川(利根川の支流)が流れていて、向かいの谷底に川原湯温泉があります。堰堤の周囲南北に周遊道路が新設されています。新築の住宅はダム湖に沈む村の人が移転して来たものです。手前のお墓群も同様に湖底に沈む運命に在ったものでした。
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「道の駅」八場に立ち寄りました。観光客向けに用意された施設で農産物売場に山菜蕎麦等の飲食店、足湯施設などがあります。第一には景色が良いのです。でも複雑な事情が良く解ります。施設中央に観光案内所があります。でも壁には沢山のポスターや現在(湖に沈む前)の写真が貼られ鄙びた温泉の風情をPRしています。村民の心情は「故郷を捨てたくない」ことなのです。一時の大金を手にするより日本武尊の上代に遡る歴史を選択したいのでしょう。しかし行政はお金で村民の横面を張り倒して墓を掘り起し神仏を堰堤脇に新設したパビリオンに移転展示観光客を呼ぼうとしているのです。私達のような石仏愛好者は石仏が素朴で美しいから行脚するのではありません。人為(石仏)と自然の調和が織りなす光景こそ「真実の癒し安らぎがある」事を感づいているので苦労を押して「石仏巡礼」をするのです。石仏パビリオンは「石仏巡礼」の対極にある愚挙です。
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「道の駅八場」の足湯橋は八場大橋対岸の大岩の踊り場に不動堂が新築移転されています。
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吾妻川渓谷(湖の底に沈む)には鄙びた温泉情緒が残っていて今も人気があるようです
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現在の三つ堂石仏群石窟は岩場にコンクリートを吹き付け張子を造作して着色したものです。私達は態々上州の山奥にまでいいって騙しを拝観する積りはありません「バカにしないで下さい」このパビリオンが八場村の八墓にならない事を望みますが。先に掲載した旧三つ堂石仏群に比べて不自然さが際立っています。こんな庇のような石窟は自然界にはあり得ません。
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三つ堂には石仏群の他に墓標も多く移転しています。此処は両墓制が残っていて三つ堂は参り墓の墓標を集めているのです。
両墓制とは遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制習俗です。埋墓には遺体を土葬して木製の卒塔婆を建てますが遺体も卒塔婆と同じペースで腐食して土に還元します。一方参り墓は火葬が普及してくると出現した墓制で火葬して遺骨を寺院などの墓に埋めました。吾妻地方は典型的な山村ですから近時まで埋め墓(住居に近い)と参り墓(お寺の境内)の二つがありました。お堂の手前の先端の丸い卵塔は僧の墓角柱や祠や石仏は一般人の墓で一番立派な宝篋印塔は庄屋など支配階級の墓でしょう。

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味噌舐め奪衣婆の尊さ

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今回親友4人との石仏巡礼ですが、最初が隠れキリシタンのマリア観音像、次いで吾妻路の抱擁双体道祖神、最後はこれから案内する「味噌舐め奪衣婆です。考えてみれば何れの石仏もマイナーなもので。一般に言えば初老の爺さんが道行く人に「この辺に味噌舐め奪衣婆さんは居ませんか?」訊いて回っている光景は尋常とは思えません。もう病気に近いのかもしれません。
「お前は何故石仏を見て回るのか?」と訊かれれば、「人間に対する好奇心が強いのでそうさせるのです」答えるほかありません。道祖神も奪衣婆も基本となる信仰概要は一つですが、石仏造形になると地方によって変わっているのです。同じ道祖神奪衣婆でありながら、裸の胸に垂れ下がった垂乳根が異なるのです。
十王像の中核は閻魔大王で間違いないのですが一番人気は10人の裁判官に仕える位置に居る奪衣婆です。何処の十王像にあっても奪衣婆は地獄の入り口の能吏のようにして亡者を迎えてくれています。人間は死ぬと白い死に装束に着替えて手甲脚絆に履き替えて黄泉に向かって旅立ちます。そして三途の川に辿り着きます。川の淵に渡し船があります。船賃は6文です。船着き場に居る婆さんが奪衣婆です。6文を持っていなければ裸になって自力で川を渡らなくてはなりません。奪衣婆が着物を剥ぐと。ペアの懸衣翁が素早く衣服を柳の枝に懸けます。罪行が深いと枝が大きく反り返ります。地獄の審判の予備審査のようなものです。

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此方が松本牛伏寺の奪衣婆像。地獄の三途の川のた畔で亡者を待ち受け着物を剥いで着物の重さで生前の罪業を判断する怖い怖いお婆さんであることが基本です。
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此方は自由が丘に近い九品仏浄真寺の奪衣婆像です。
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これは地獄草子に描かれた奪衣婆像です。着物を剥いでペアの懸衣翁(老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の悪行現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされます。

【沼田天桂の奪衣婆像】
沼田の天桂寺は沼田真田3万石の菩提寺です。境内の其処此処に6文銭の家紋が目立ちます。6文銭の旗頭は「死を覚悟して戦う姿勢を示しています。窮鼠猫を噛む喩えに在る通り死を覚悟して挑んでくる真田の兵はおそれられたのでしょう。
真田家墓地の入り口近くに奪衣婆と懸衣翁のペアが祀られていました。お驚く程の量のお味噌が口にベッタと付いています。
これが味噌舐め奪衣婆【味噌舐め婆】です。何故沼田地方だけに味噌舐めの習俗が残されているのか?不思議です。
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子安観音像の授乳の様子を見せて戴きました。罰当たりをお許しください。それにしてもご立派な垂乳根でいらっしゃいました。
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此方は沼田市材木町天桂寺(沼田真田家の菩提寺)の奪衣婆 左)懸衣翁(右)のペア像。この地方だけに固有の味噌舐めをしています。私達は参拝者に味噌を付ける意味やご利益を聞いたのですが誰も知りませんでした。既に信仰は薄くなっているようです。
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私達は奪衣婆さんの垂乳根を拝みたいと思って赤いゆだれ掛け(腹巻?)をめくったのですが硬く着せられていてめくれませんでした。私と同じように垂乳根を拝みたいと思う人が多いのでわざときつくゆだれ掛けを巻いて居られるようです。

私達は味噌舐め奪衣婆の脇で参拝者を待ちうけました。味噌を口に付けるのは何時か?どんなご利益があるのか?天桂寺以外にも同じような石仏は無いか?そんな質問を用意したのですが。誰も答えてくれませんでした。今は信仰も関心も薄れてしまっているようです。今日はこの後川場町の博物館にも行くし桂昌寺や吉祥寺にも行くのでそちらで訊く事にしよう。想って立ち去る事にしました。
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川場村桂昌寺墓地の奪衣婆像干し柿のような垂乳根が良いんです。
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桂昌寺(川場村)本堂前の庭の奪衣婆懸衣翁のペア黒松がまるで懸衣樹のように見えます。この寺には歌人江口きちさんの墓がありますので近々このブログで紹介します。
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此方は川場村吉祥寺庭園の奪衣婆像咲いて居るのはコマクサ(園芸用本来は高山植物のスターです)

味噌舐め脱衣婆は尾瀬沼から流れ出す片品川の河岸段丘に目立ちます。
私は車の中で今まで拝観してきた味噌舐め石仏を想いだし。味噌舐め奪衣婆の信仰を考え続けました。全国各地で観たのは「味噌舐め地蔵」でした。奈良松尾の矢田寺では有名な味噌舐め地蔵尊が祀られています。子供の食欲が減退し胃腸病にかかると矢田のお地蔵様に回復を祈ります。祈願の効果があって健康になったらお礼にお地蔵様のお口にお味噌を奉げるのです。先月吉野の蔵王権現金峯山寺の門前の歯痛地蔵尊でも似た信仰が記されていました。歯に始まり胃腸まで消化系の病気の快癒御礼に地蔵尊の口に味噌を塗るのは良く見かけました。でも奪衣婆は此処片品川流域でしか見たことはありません。
吉祥寺の奪衣婆像に説明が書かれていました。
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吉祥寺の奪衣婆像に書かれた味噌舐め供養の案内。

内には極楽往生を願う為に地獄の裁判官閻魔大王と世話係の奪衣婆に味噌を奉げたと書かれていましたが。態々口にベッタと味噌を塗る行為にはもっと素朴な生活感の強い願いが込められていたように思います諺にも「味噌を付ける」とか「手前味噌」とか、「かかあ(着物)質に入れても、味噌を煮ろ」 「五割の金を借りても、味噌造れ」 「味噌買う家は、蔵立たぬ」などには、味噌には生き抜く事への執念が感じられますし。味噌を塗られた奪衣婆には強い呪術を感じます子供の頃捻挫をしても患部に味噌を塗られました。
私は極楽往生の祈願というより。産まれて来る子供(子孫)が喰う事に苦労しないように願いが込められている考えるのです。子供を抱いて乳を含ませている姿程「命」の大切さを感じる姿はありません。奪衣婆は垂乳根でなくては様になりません。垂れさがった乳は新しい命を育んだ証拠です、授乳が済んだら次は離乳食です。離乳食は味噌のようです。
私の祖母は大きな乳を誇っていました。お風呂から出ると胸をはだけてちゃぶ台に座りました。私が嫌な顔をすると垂れた乳を肩に懸ける動作をしてこのお乳のお蔭でお父さんが育ってお前が産まれたんだよ誇っていました。
更に沼田の話も良くしました。
私は4月に産まれたのでしたが。お寺の乳児ですから本堂の片隅に置かれていたのだそうです。
その頃沼田のお寺に嫁い伯母が里帰りしていたのだそうです。
叔母は学校の教師をして居ながら沼田のお寺に嫁いだものの何か事情があったのでしょう里帰りしていたのだそうです。そんな時じゃが芋を食べて食あたりになって死んでしまったのだそうです。死の床で「赤ちゃんを隅に置いてはいけないよ。鼠に齧られない様に部屋の真ん中に置きなさい」言っていたのだそうです。
だから「お前は叔母様の生まれ代わりだから叔母様が守ってくれるよ」再三言われたものでした。こうして奪衣婆巡りをしていると私の知らない伯母の無念が思いやられます。そしてやっぱり奪衣婆は新しく産まれて来る命の成長を祈願するものなのだと確信するのです
昔は胸を出して授乳する母親の姿を見る事が多々ありました。子供心にも母親の尊さ美しさを感じたものです。最近は哺乳瓶も良く出来てそんな光景は見られません。女性は母性よりも女であることを意識しているようです。
乳癌の多発は授乳をしなくなったのが原因かもしれません。
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八場三つ堂の奪衣婆像、小さな乳房では有難味がありません。

子安観音は聖女です。でも奪衣婆は怖い怖い悪女鬼女です。私は人間は誰もが善人で外部環境次第では悪人になると思っています。紅葉が梢を離れてヒラヒラ散って地上に落ちた時表なら善人で極楽往生できるのだと思います。でも地上に落ちた時風などの外部環境次第では裏向きになってしまいます。この時には悪人と評価され地獄に落ちるのだと思います。信仰とはこの外部の環境(偶然性)を心の内で必然性にチェンジする作業(修行)だと思います。作業(修行)が進むと命の秘密が理解できるのではないでしょうか?今回の石仏行脚は最初が抱擁道祖神で命が産まれます。最後が奪衣婆で命のエンディングになりました。これも偶然でしたが私が心の中で運命的なもの(必然性)が在るのだと思えば信仰になるのでしょう。



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石仏に観る乳母と姥

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昨日は尾瀬から流れる片品川流域に特徴的な味噌舐め奪衣婆さんを紹介しました。もう少し奪衣婆を説明したいと思います。
日本の女性神は世界の女性神と同様に「聖母神」と夜叉のように怖ろしい「鬼子母神」がありました。仏教で説く鬼子母神はインドの夜叉で500人もの子戸をを持つ母親でありながら末娘を溺愛し、人間の子供をさらってその肉を末娘に食わせる鬼女でしたが、お釈迦様が子を失った母親の嘆きを聞いて、鬼女の末娘を隠してしまわれます。鬼女は「末娘を返せ」とお釈迦様に迫ります。
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           鎌倉上行寺(鎌倉 瘡守稲荷かさもりいなり)の鬼子母神像
お釈迦様は鬼女に説きます。「お前は500人も子供がいながら一人を失うと斯くも嘆き悲しむ。お前の為に子供を失った母達の嘆きの深さが解るか?」諭されて鬼女は心を改め子供を守る「鬼子母神」に変身します。
山に住む鬼女が鬼子母神にという聖母に変身したのはお釈迦様の与えた機縁を活かしたのでした。
私は、鬼女の儘で一生を終えるか聖母になるかは葉の裏表のようなものの様に思います。
【日本の聖女の系譜】
我国には仏教伝来前から聖母と鬼女両極端の母神が併存していました。というのは山の神【山姥】が里に降りるとき時に聖女になり時に鬼女になったのでした。
鬼女の代表は福島の「安達が原の鬼婆」でしょう。一方
聖母の代表は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。吉野の水分神社の神様も薬師寺の神宮皇后像もこうした聖母像です。
仏教が伝来し仏像を視ると日本人はこうした聖母像を相次いで彫りました。
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吉野水分神社の豊玉姫命、日本の聖母像の典型でした。孫が神武天皇で神を産んだ「安産の神」そして農耕に大切な水(雨)を司る農耕の神として信仰されました。

最初の母神は「伊邪那美/イザナミ」です。伊耶那岐/イザナギ)と結ばれ神々を産みます。同時に日本列島の「国産み」を行った大地母神でもあります。しかし伊邪那美/イザナミは火の神(カグツチ)を産んだとき陰部に火傷をしたのが発端で死んでしまいます。伊邪那美/イザナミは夫の伊耶那岐/イザナギに自分の遺体を視ない様に約束させますが、伊耶那岐/イザナギは妻が恋しいばかり黄泉の国に赴き妻の腐乱した遺体を見てしまい。黄泉から逃げ戻ります。伊邪那美/イザナミは怒り狂い夫を追いかけて捕まえます。そして宣言します。「これから私はお前の子供達を1000人/1日」殺すことにしよう」すると、伊耶那岐/イザナギはこう反論します.「私は1500戸の産屋を建てることにする」以来子供は1500人産まれても1000人は死んでしまうそれが神々が決めた事なんだといった諦観が出来たのでした。産屋とは- 喪屋,他屋 (月経小屋) などとともに穢れた者を社会的に隔離する小屋の一つで,出産時の女性を隔離するため の小屋。産屋には2種類あり,出産の場となるとともに産後しばらく家族とは別に生活 する 家の事です。産屋は出産にはお湯が欠かせないので竃と水が近くにある「川場」に建てられる事が多かったのでした。ですから片品川の畔「川場村」の語源は此処に「産屋」が在ったからではないのかしら?」思った次第です。温泉が湧出する川原は産屋に最適でしょう。そんな川場に多く奪衣婆が祀られているのですから産屋で繰り広げられる「死と再生」のドラマが三途の川の奪衣婆を「産屋の御産婆」に変えていったように推測するのです。
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「伊邪那美/イザナミ」です。伊耶那岐/イザナギの夫婦神は道祖神の祖形です。群馬県の中之条村の夫婦道祖神、これは夫婦の結縁型です。
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同じく群馬県中之条村の抱擁道祖神。健康な夫婦の交わりと疱瘡をはじめとした厄病を防ぐ神と信じられていました。でくの坊は疱瘡除けで前述上行寺の鬼子母神と同じ霊験があるのでしょう。


更に付言すれば奪衣婆が亡者の着物を剥いで素っ裸にする行為が怖ろしくなく有難い行為に思えてくるのです。「死んでからは地獄の責め苦に逢う事になる」思えば恐ろしいのですが1000人死んでも1500人は生まれ変わる「再生」に視点を置けば裸にされるのは嬉しい事に思えてきます。
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月夜野・矢瀬遺跡(つきよの・やぜいせき)右側の竪穴住居には縄文時代の生活振りが再現されていました。竈が在って産屋はもっと川沿いに小屋が在ったのでしょう。近世になるとこの辺りは養蚕業が盛んでしたので出産した母親の休養の意味でも産屋は重宝したものでしょう。

私達人間は悪事を働かなくては生きられません。悲しいけれど避ける事は出来ません。
例えば、牛さんを愛して育てるのは善行ですがその牛さんを殺して食べねば生きられません。それは葉っぱの裏表の役割に似ています。葉っぱの表は炭酸同化作業をしています。でも裏側は呼吸作業をしています。裏表の作業があって初めて命のバランスが保たれているのです。
人間は悪行を働く事で命を永らえています。悪事を働く程逞しく生きてきたことになります。だから衣服は悪事で汚れて重くなっています。奪衣婆さんはその悪事で汚れて重くなった衣服を脱がせて産まれたままのスッポンポンの状態にしてくれるのです。そして若しかしたら1対1.5の確率で産まれ代われるのです。奪衣婆さんが尊いものに思えてきます。
大体本当の聖女なんて信じがたいし魅力に欠けます。一寸目は聖女のようですが命を子供を育てる為には手を血で悪で染めるくらいの度胸があって然るべきだし、その方が魅力があるものです。
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此方は群馬県長野原町雲林寺の慈母観音像雲林寺は今回のツアーでは行けませんでしたが次回はこのモダンアートのような慈母観音を拝観したいものです。(出典「石仏石神を旅する」JTBパブリッシングを複写)釘隠しのように丸い乳房とでくの坊のような乳児がアート感覚です。丹塗り(漆?)も印象的ですこの観音は浅間山の噴火で亡くなった人を弔うものと聞きます。
西欧社会でも聖女と鬼女が並んで残されています。
聖女のイメージを追求すると観音もマリ様のイメージに重なって来ます。その場合「隠れキリシタン」と呼ばれたりするのでしょう。聖女への憧れは世界的に不変なのでしょう。雲林寺の慈母観音がキュビズムやシュールなの印象を与えるのもアートの普遍性に根差しているからでしょう。
奪衣婆さんの垂乳根が愛しく尊いものに思われてくるのです。もう鎌倉長谷寺の奪衣婆さんのお乳が垂れていないなんて文句を言う事は慎みましょう。
垂乳根は乳母をイメージさせますし。時に出産前後の母体を守る産婆を髣髴させます。
姥は老いた女と書きます。娘は良い女と書きます。中国人がもう少し利口なら娘は女扁に若いと書いたことでしょう。姥は山姥だったり山女郎(鏡花の高野聖等に出てくる)してどれも人を食う鬼女です。一方乳母は金時山の金時娘(金太郎の母親)のように逞しい子供を育てる肝っ玉母さんです。屹度豊かな乳をしていて歳に応じて垂れ下がっていたことでしょう。そう思うと、歳なのに垂れていない乳は不自然に思うのです。噴水より滝の方が癒されるものです。姥より乳母が好きです。
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此方が鎌倉長谷寺の奪衣婆さん。お乳が垂れていないのが不満でした。勿論新作の石仏です。これは奪衣姥です。



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軽井沢離山の馬頭観音の矛盾

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群馬県の吾妻川に沿って石仏巡礼をした記憶は軽井沢のマリア観音に始まり中之条町の抱擁道祖神、更に片品川川場村の味噌舐め奪衣婆に辿り着きました。今日は旅の最初に戻って軽井沢の馬頭観音を紹介します。
上州は明治維新になって群馬県と名付けられます。上野とか赤城とか榛名とか名づけずに馬が群れているという名は思い切ったものでした。馬が付きそうな県とすれば古代の馬の産地だった長野県や騎馬軍団で怖れられた山梨やチャグチャグ馬っ子で有名な岩手県等が考えられますが、それらには馬も牧場を想わす一字もありません。
群馬県に入るには碓氷峠(中山道)か三国峠(三国街道)を越えなくてはなりません。馬が重要な手段であったのでした。その為でしょう。群馬県には馬頭観音が目立つのです。江戸時代馬は流通手段であると同時に、田圃の土起こしを行う、生産手段でした。中世500万人程度だった人口を近世3000万人まで増やせられた要因は馬を活用した事に在ると思うのです。
優秀な馬の存在は一家の貧富を決定する程重要だったのでしょう。従って馬は大切にされ馬の守護神馬頭観音は篤く祀られたのでした。
今回一緒に旅した仲間とは2年前も馬頭観音巡りをしました中山道海野宿東御村を越えて湯の丸高原に向かう街道には百観音が祀られています。百観音は湯の丸を越えて鹿沢温泉にむかう湯治客の安全を祈願して祀られた「村おこし石仏群」でした。地蔵峠を越せばもう群馬県の妻恋村ですから日本武尊もこの道を通って東征に及んだものでしょう。
その50番目が巨大な馬頭観音でした。2年前もオレンジ色の蓮華躑躅が馬頭観音像を彩っていました。
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これが海野宿から鹿沢音声ンに行く街道に祀られた百観音中の50番観音馬頭観音像。左の大樹は槐の大木で弘法大師の杖が根を出して自生した言い伝えがあります。
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これは鹿沢温泉街道の馬頭観音の上半身です。大作だと思います。

伊藤君は私達を案内してくれます。場所は中軽井沢駅の東側別荘地の中です。樹の梢越しには軽井沢の目印「離れ山」の頂が見えます。別荘地は野澤組のもののようです。案内板には野澤組が篤信で「碓氷峠の群馬県側にあった馬頭観音を此処に遷座してお祀りしている」書かれていました。
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これが中軽井沢馬頭観音像です。全身丸彫りの強大な力作です。野澤組軽井沢山荘の門前に遷座して在ります。
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馬頭観音の頭部正面憤怒相は意外と穏やかです。左右のお顔は野風僧を思わす餓鬼大将のようなお顔です。イチイの樹を背景に立っておいでです。
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馬頭観音像は野澤組の軽井沢山荘の門に在ります。野澤組とは?私は地元の土建屋と直感しました、工事受託地に馬頭観音があったので仕方なく自社地に遷座して祀ったのだろうと想像したのでしたがネットで調べると群馬県にある畜産会社と判明しました。畜産会社だから馬の守護神を祀っているのでしょうがhttp://www.nosawa.co.jp/blog/2011/08/post-1.htmlhttp:。//www.nosawa.co.jp/company/。冷静に考えるとこれは窃盗行為です。本来この馬頭観音像は碓氷峠の寒村の所有でありましょう。それを自分の庭に持ち去るとは言語道断です。ところでこの山荘ですが桂太郎氏の軽井沢別荘を移築したものだそうです。
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馬頭観音の見事なたてがみ人間の三面の上に立派な馬顔が乗っています。

ところで軽井沢町の教育委員会作成の案内板にはこの立派な馬頭観音像は碓氷峠の北側の二手箸の袂に祀られていたと在ります。それが現在野澤組の自社地の門に在るのです。本来石仏は祀られていた場所に在るのが自然であるのに幾ら言い訳しても自社地に在っては不自然ですし、美しいとは思えません。野澤組が如何に言い訳してもこうした行為は神仏に唾する行為です。早期に本来祀られていた場所に返還して祠でも建てるべきであります。野澤組が現在も畜産業で業績を上げているのならば。罰を受ける前に馬頭観音は遷座すべきだと思います。今回の石仏巡礼ツアーでも本来あるべき道祖神が無くなっていました。多分盗難されたのでしょう。


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これが馬頭観音の案内本来群馬県に在った馬頭観音が現在は長野県軽井沢町に在るのは不可思議です。

石仏が一番美しいのは現在も信仰する人がいる事です。共同体が存続していて共同体の成員が今日も朝晩お詣りしている、そんな光景が一番美しいし、石仏も快い事でしょう。
昨日迄書いていた味噌舐め奪衣婆もそうですし。京都の地蔵盆のお地蔵様も子供達に囲まれていてこそ美しいし、お地蔵様もお喜びでしょう。
2年前足助を旅した時偶然見つけた馬頭観音は見事でした。私の生活圏では江の島道の馬頭観音にはいつも人参が供えられています。一遍遊行堂の近くです。
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愛知県足助の馬頭観音像善光寺道を見下ろす位置に巨大な馬頭観音が祀られていました。この村の人は柿の実も鳥や獣の為に残してあげる優しい一揃いでした。バス停には文庫本の貸し出しや新聞ポストが集まっていまあした。まだ共同体がワークしている事が察せられたのでした。

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蜥蜴食らうか時鳥(川場村吉祥寺)

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奪衣婆を探しして私達は川場村の吉祥寺を詣でました。
春セミが時雨の様に鳴きやみません。石畳に「落し文」を見つけて梢を見上げました。雨蛙と春ゼミの啼き声を圧するかのように時鳥が啼き出しました。今夏初めて聞く時鳥です。流石に吉祥寺吉祥が重なって迎えてくれました。
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地面に散らされた「落し文」ポケットに入れてワイフへのお土産に持ち帰りました。
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川場村吉祥寺山門(重文)建長寺の末寺のこ古刹は花の寺としても有名で、期待した水芭蕉や座禅草の花は既に終わっていましたが九輪草が盛りでした。「花と石仏」が絶妙のバランスで眺められました。
池の水芭蕉は既に終わっていましたが九輪草は今が盛りで菖蒲も咲き始めていました。総じて樹木も大きく建物も大きいので反日蔭の植物が多いようです。九輪草さんの次は私よ云わんばかりに時鳥や萩が芽吹いていました。この古刹は和の花を育てて石仏の美しさを顕正しているのです。
釈迦堂の前に如意輪観音が物思いに沈んでおいでです。観音様の目の前には露草の花が咲いて居ます。でも如意輪さんのお肩に何かが蠢いています。そう褐色の肌で鱗が無気味な蜥蜴です。
私は傍らの富田君に指さしして蜥蜴を示しました。未だ早朝なので蜥蜴は観音様の肩で暖を取っているのでしょう。充分に体が温まったら朝の狩猟に出かけるのです。蜥蜴君の食べ物は春ゼミや雨蛙で古刹は蜥蜴の餌場としては絶好です。
私は榎本其角の句を想いだしました。
その声で蜥蜴食らうか時鳥
声裳姿も美しい時鳥が蜥蜴を食らうのか?と吟じたもので「人や動物は見かけによらないもので、外見と中身が異なり驚かされる」と喩えられています。「蛇食うと聞けば恐ろし雉子の声」 も同じ趣旨の句です。『外見は菩薩でも心(真実)は夜叉である』という指摘は人間世界でも一面の真実です。
しかし、私は『外見夜叉でも心(真実)は菩薩(聖女)』を奪衣婆にみてきました。『鬼面仏心」こそ奪衣婆の真骨頂です。不細工な女性ほど心優しい事は浅薄な私の女性遍歴の中で得た知識です。
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水芭蕉の池の畔に珊瑚草が咲いて道祖神が夢見ておいででした。
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九輪草の向こうには如意輪観音が
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紅色の中で一株白い九輪草が咲いて居ました。九輪草は桜草の仲間なので交雑が進み易くピンクこそありませんでしたが紅白斑の九輪草も多く楽しめました。
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紫露草の花陰で物思いに沈んだような如意輪様その左のお肩の上に蜥蜴が現われました。
私達は蜥蜴を確認してから方丈庭園に廻りました。約一時間方丈庭園を鑑賞して又この場所に戻ると蜥蜴君は未だ如意輪さんの肩の上で暖を取っていました。蜥蜴君は耳が無いので時鳥の啼き声に気付かないのでしょう。安心しきって日向に居ると命を粗末にすることになりますよ。教えてあげようと思うのですが此処が好きで離れ難いようです。
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レンズを近づけても一向に動じない蜥蜴君。擬宝珠の葉陰が棲家なのでしょう。
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菖蒲が咲き始めていました。新しい五〇〇羅漢さんが池の菖蒲を眺めて居ました。山門上には五〇〇羅漢が祀られているのですが私は麻痺しているので重文の山門楼上には。登れませんでした。「また来いや!次回は奥さん同伴で」羅漢さんから声を掛けられた気がしました。家に帰るとワイフが私の汚したズボンをチェックしてポケットの「落し文」をみつけました。萎れた葉の筒を見つけてワイフは「何よこれ?」言います。
私は「この葉っぱは、私のラブレター」言えば「もう少しいいものを下さいな!」注文を付けられました。
処で吉祥寺の方丈庭園では久々に笹ユリを視ました。笹ユリが自生するお寺は魅力です。


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沼田の義民「磔茂左衛門」

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上州の石仏を見ると抱擁道祖神にしても味噌舐奪衣婆にしても人間臭さが際立っていますこんな土地には往々にして素晴らしい民話や義民伝説が残っているものです。私達は沼田の義民「磔茂左衛門」を確かめるべく。利根川の月夜野橋を渡って西岸に在る茂左衛門地蔵尊千日堂に向かいました。本堂の右に集会室があって机とパイプ椅子が並んでいます。壁には歌留多状の絵と説明が貼られています。「磔茂左衛門」の伝説を絵本か紙芝居状にして説明したもののようです。沼田の小学生は屹度遠足になると此処千日堂に登って故郷の義民の話を聞いて。目の前の赤城山野利根川を視て故郷愛を育んでいるのでしょう。私達が本堂に入りアッチコッチを見回していると寺族の方が集会室でビデオを見るように奨めて下さいました。先ずはビデオの要約を案内します
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利根川の西岸高台に磔茂左衛門の霊を祀った千日堂が本堂を背にした位置に利根川が流れていてその川岸に処刑場の碑が立っています。
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本堂の横に広い集会場があって磔茂左衛門のビデオを見ながら故郷の英雄の一生を説明して貰えます。

茂左衛門の処刑執行は留められましたが赦免状の届くのが遅く既に刑は執行されてしまいました。農民は磔茂左衛門の首を奪い返して千日堂を建てて茂左衛門の霊を慰めました。【磔茂左衛門」の義民騒動話は1662年沼田藩の藩主真田信利が沼田真田藩の独立に始まります。父真田信行(昌幸の子)が死ぬと上田真田藩は次男信利に沼田の自領を分家独立させます。真田信利は上田真田藩(10万石)に追いつけ追い越せを目標に新田の開発税率の改悪に精を出します。信利の悪政に対して農民の反発が強まっていました。
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新領主の真田信利は新田開発河川改修に熱心で厳しく検地を実施しました。
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一方で伊賀枡と呼ばれた大きな枡を使って年貢の取り立てを実施しました。伊賀とは忍者の事で「インチキ」の意味でしょう。
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茂左衛門の処刑執行は留められましたが赦免状の届くのが遅く既に刑は執行されてしまいました。農民は磔茂左衛門の首を奪い返して千日堂を建てて茂左衛門の霊を慰めました。
月夜野の杉木茂左衛門(すぎきもざえもん)は知恵者で真田信利の苛政を時の将軍徳川綱吉に直訴しようとします。当時上野寛永寺の改築の為沼田では材木を切り出して上野に送っていました。その寛永寺改築の用材に将軍宛の直訴状を紛れ入れます。茂左衛門の目論見通り直訴状は上野寛永寺管主を経て綱吉の眼に触れます。しかし、直訴自体が御法度でしたので茂左衛門は磔の刑が執行されます。綱吉は「生類憐みの制」を執行した人物。茂左衛門の磔刑の執行を想い留めます。しかし処刑執行停止の命令が届くのが遅く、茂左衛門の首は利根川の川原に晒されてしまいました。沼田真田藩は改易されて、農民は圧政から解き放たれました。農民は茂左衛門を千日堂に祀って謝意を伝えます。沼田真田藩の騒動は利根川を下って近世には佐倉宗吾の伝説を生んだとも考えられます。
明治時代には磔茂左衛門は戯曲等に取り上げられ人気が沸騰し上州では萩原 朔太郎同様に知らぬ人もいない人物になりました。
沼田の街には「真田一族を大河ドラマに」幟旗が林立していました。
さぞかし、真田信行は評判悪かろう思って訊くとそれほどではありませんでした。「真田信行は悪人萩磔茂左衛門は善人」そんな単純な線引きは為されていないようです。悪いのは貧困であった事。真田信行の圧政は貧困の一面で磔茂左衛門の抵抗は致しかたなかった事とでも受け止められているのでしょう。
集会場の壁には二人の絵が貼られていました。一人は明治の毒婦と云われた「高橋お伝」もう一人は「戯曲にもなった「白小屋お駒」でした。二人とも絶世の美人で美人であることが災いを招き処刑された薄幸の人です。人は外部要因で時に義人として尊敬され時に天下の毒婦として軽蔑されるのです。
その構図は奪衣婆が地獄の刑の執行人として怖い存在(鬼婆)であると同時に地獄で再生の導きをしてくれる慈母(聖女)であるのと似ているようです。明日は高橋お伝と白小屋お駒の話を致します。上州は聖女い毒婦が共存している事でも楽しい土地だと思うのです。
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月夜野橋。お天気なら谷川岳が望めるそうです。黄色い橋脚は興醒めですが道幅が狭隘なので致仕方無いのでしょう。
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利根川の月夜の橋周辺に集まっている磔茂左衛門の史蹟



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奪衣婆に急ぐ高橋お伝

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昨日は磔茂左衛門地の史蹟を千日堂に訪ねて事を記しました。もう一つ沼田には有名な故事が残されています。此処は明治の毒婦「高橋おでん」の出身地なのです。市内を走ると「高橋」姓が目立ちます。焼き鳥屋さんも時計屋さんも蒲団屋さんも看板は高橋です。橋が多い街です「から高橋」が多いの納得です。千日堂の集会場の壁にも「高橋お伝」と「白小屋駒子」の絵が懸っていました。沼田の小学生が此処に来て磔茂左衛門地の記憶を学んで、その隣に罹っている「高橋おでん」や「白小屋駒子」の絵も見れば興味は毒婦に集中する事でしょう。子供も大人も偉人の伝説より「悪人」「毒婦」の話の方に惹かれるものです。お伝も駒子も美女です。美女が曳きたてられ.惨殺の刑が執行されたとなると「何で美しいのに悪い事をしたの?」「何で惨い惨殺されたの?」興味が湧くものです。
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千日堂の集会場に貼られた明治の毒婦「高橋お伝」の図。オ伝の脇に居るのはヤクザ者の市太郎イメージ 2
此方は「白小屋お駒」の図。沼田は江戸中期の「お駒」明治維新の「お伝」二人の悪女を輩出した訳で、何れも人気の浄瑠璃等戯曲になっています。享保11年(1726年)江戸市中を震撼させたに発生した「白子屋事件」が発生しました。大岡忠助は審議の上主犯として「お駒」を市中引き回しの上獄門に処した。絵は「引廻しの光景で、江戸市民は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に押し掛けました。裸馬に乗せられた「お駒/享年23歳」は白無垢の襦袢に黄八丈の小袖を着て水晶の数珠を首に懸けています。そして静かに経文を唱えていたという事でした(河竹黙阿弥歌舞伎『梅雨小袖昔八丈』お駒は日本橋随一の美女として有名でありましたが。事件の経過は次の通りです。
日本橋の材木商白小屋の主(伝七郎/妻お駒)は下女の菊に頸部を切られてしまいます。その真相が調べられます。結果は伝七郎とお駒の夫婦仲が悪かった事から「お駒が菊に犯行を教唆されたと自白します。お駒は主人の伝八郎を嫌い手代の「忠八」と結ばれたいと計画して伝八郎の毒殺なども計画したと自白したのでした。この絵を見ているとふと「天国の駅/吉永小百合主演」を想いだしました。

【高橋お伝の事件】
オ伝は嘉永3年7月に利根郡下牧村【現水上町」に産まれ生後すぐに養子に出されました。慶応2年【1867年】同郷の高橋浪之助と結婚して横浜に転居します。ところが明治5年(1872年)浪之助がらい病が発覚。オ伝は厚く看病に明け暮れます。その後やくざ者の小川市太郎と恋仲になる。市太郎との生活で借財が重なり、古物商の後藤吉蔵に借金の相談をしたところ、愛人になるなら金を貸すと言われる。
明治9年(1876年)8月 吉蔵の申し出を受け入れ、東京・浅草蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で同衾した。しかし、翌日になって吉蔵が突然翻意し、金は貸せないと言い出したため、怒ったお伝は剃刀で喉を切って殺害。財布の中の金を奪って逃走する。
9月9日 強盗殺人容疑で逮捕される。 明治12年(1879年)東京裁判所で死刑判決。市ヶ谷監獄でで死刑執行。8代目山田浅右衛門の弟の弟吉亮により、斬首刑に処された(お伝は日本で最後の斬首) その遺体の一部(性器)は東大医学部に保存されたと言い伝えられるが詳細は不明)墓は小塚原回向院で隣は片岡直次郎鼠小僧次郎吉腕の喜三郎となっています。 処刑の翌日から新聞に掲載され評判になりました。これが後の「毒婦物」の契機となる。明治14年、お伝3回忌のおりに仮名垣魯文の世話で谷中霊園にもお伝の墓が建立された。お伝を素材にした芝居は大当たりが続き有名俳優の墓参りが絶えませんでした。
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錦絵新聞の高橋お伝獄中の図出典:東京大学ライブラリーhttp://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp/detail/13558蕉窓(三島蕉窓)画
映画でも歌舞伎でも高橋お伝の辞世は次と云われていますし。上記の錦絵新聞にも載っています。
     しばらく望みなき世にあらむより渡し いそぐや三津の河守
この辞世はお伝の哀れを想って仮名垣魯文が作ったものと云われています。
三津の河守(みとのかわもり)とは三途の川の番人の意味で奪衣婆の事でしょう。
今回見てきたように水上川場には奪衣婆が数多く祀られていますし、今はまだしも幕末維新には未だ強い信仰が在った事でしょう。
お伝の斬首は上手に行かず凄惨を極めたそうです。お伝は死刑執行人の腕も鈍っていることを知っていたのかもしれません。現世で長い間苦しむより早く来世に行きたい、奪衣婆さんにあって優しい声を掛けて戴きたいと思っていたことでしょう。
「善人尚もて往生を遂ぐいわんや悪人おば」とは歎異抄に出てくる親鸞聖人の教えのエッセンスです。少しばかりの善人は善行を量ねてその功徳で往生したいと思うものです。自力往生を願う癖は他力本願の神髄が解らないものです。この意味で逆説的に親鸞の教えを説いたものが「悪人正機の説」だったのでしょう。「少しでも早く奪衣婆に逢いたいと」急ぐ気持ちは宗教の正道を行くもののように思えます。
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人を憎まず罪を憎む図/悪人の衣服に剣を立てて怨みを想い留めた教え/江の島龍の口龍口寺山門欄間)
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川場村天桂寺の脱衣婆像高橋お伝の故郷は奪衣婆信仰が強いのです。

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上州の啄木「江口きち」女の面影

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私達は川場村歴史民俗資料館に向かいました。川場村の尋常小学校を博物館に転用したものです。(建物は国の有形文化財)
同施設自体トラス構造の素晴らしい建物なのですがその東端に地域の歌人「江口きち」の展示コーナーがあったのでした。私は昔「水上に上州の啄木が居る」訊いた記憶がありました。北上川に石川啄木が産まれたのならば利根川の上流にも啄木が産まれて自然です。
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これが川場村の尋常小学校建物です現在右側が川場村歴史民俗資料館に左端に江口きち展示コーナーがあります。
川場村歴史民俗資料館の展示は充実していました。此処が縄文式弥生式遺跡が出土し、武尊神社や榛名じんじゃが熱く信仰されている事。天狗さんが信じられている事興味深く学びました。でも長い廊下の逆の位置に立っている江口きちさんの写真に招かれて同女の展示コーナーに入り強い衝撃を受けたのでした。其処で。急遽変更してこの後は江口きちさんの墓参りをすることに決めたのでした。
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この写真に引っ張られて私達は江口きちを学びました。
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廊下の展示された農機具や養蚕の道具右手が事務室建物の1階はコンクリート造りでその上部に木造トラス構造の学校が乗っています。
【江口きちの生涯】
江口きち略歴 大正2年(1913)-昭和13年(1938) 
 上州武尊山の麓、利根郡川場村谷地に、父熊吉、母ユワの長女として出生。両親は共に他県の出身で、各地を放浪の果て川場に住み着いたもの。「きち」には流れ者の血筋の疎外感が根強く、きちの厭世観の原因と思われる。兄弘寿は幼時の脳膜炎の後遺症で障害が残り、家族の心配の種であった。きちは表情の無い兄に優しさを見出し、常に面倒を看る一方,下っ端博徒の父は失踪を繰り返し、暴力をふるう。母ユウは三人の子供を抱えて川場尋常小学校の門前に駄菓子屋・飲食店「栃木屋」を一人で切り盛りする。きちは母の苦労を見て、店番をする。潔癖なきちは父を生涯憎悪する。孤独だが負けず嫌いで学業成績は優秀。小学校の担任田村晴子や林卓爾の影響を受け文学に目を開かれる。17歳で沼田に出て郵便局に勤めるが、僅か4ヵ月後に母が脳溢血で急逝。家族を養うため家業を継ぐことになる。母を亡くして直後から厭世観は強まり死を願望するようになり、当時頻発した太宰治や有島育郎芥川龍之介ら文学者の自殺を観察するとりわけ大磯で起きた「坂田山心中事件/慶応の大学生と令嬢の心中事件「天国に結ぶ恋」として話題になった」に少なからず影響を受けたと思われる。文学的には、田村晴子の勧めで河井酔茗・島本久恵夫妻の主宰する文芸誌「女性時代」誌友となり短歌を発表する。双木恵、飯田章子や涼子の筆名で7年足らずの間に1000余首の歌を作る。母の死後、きちの厭世は深まり、25歳で兄を道連れに服毒自殺。死装束は自分で縫った純白のドレスに赤いカーネーションを付けて、辞世の短歌は
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江口きち展示のクライマックスはこの自分で縫った死装束です。胸に飾った赤いカーネーションが少女の純潔を示していじらしいばかりです。
大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけ
睡たらいて夜は明けにけりうつそみに、聽きをさめなる雀鳴き初むを残し、自ら26歳の短い生涯に幕を閉じました辞世の歌二首を便箋に書き残す。後に島本久恵等により遺稿集「武尊の麓」などが刊行されている。
【司修著幽霊】
私は前記死装束に強い感銘を覚えて先人の「江口きち」の調査を確認しました。その中でなるほどと思ったのは前橋出身の小説家「司修氏の幽霊でした。作者は川場村青年に扮し江口きちの良き相談相手幼馴染として自殺願望のあるきちの理解者になってきちの自殺までの揺れ動く心を見詰めて行きます。幼馴染には桂昌寺の娘や旅の芸人に騙されて駆け落ちしてきちに助けを求めた少女(がいたりします。当時の川場村は貧乏で死が生活の隣りあわせであった事が美しい自然の中に描かれています。桂昌寺には最愛の母「ユウ」が眠っていますのできちは度々寺に行きます。そして母の墓の傍に在る「奪衣婆」を眺めます。
慧ちゃん(桂昌寺の娘」のお家にはとっても怖い顔をした奪衣婆がいるでしょう。彼の世の門番よ。幼いころは怖くて近寄れなかったのだけれども母が桂昌寺の墓地に埋まってから願ことをしたり花を奉げたりしていたの不思議なものねえ。墓地に行くと幽霊もお化けも蛇も奪衣婆も怖くなくなってしまっているの…」ときちに云わせていました。
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きち女そして最愛の母ユウのお墓の傍に祀られている奪衣婆像

【桂昌寺の墓】 
私達は川場歴史民俗資料館の江口きちコーナーを出てきちさんのお墓を詣でたいと思い桂昌寺に向かいました。桂昌寺は田圃の中に在りました。私達がお寺の駐車場に入ると直ぐに自転車が走って来ました。自転車は桂昌寺の大黒様【奥様】が乗っておられて
貴方たちは短歌の愛好家ですか?」尋ねられました。私達は「今江口きちさんの展示を見て感動したのでお墓参りをしたいと思ってまいりました。石仏とりわけ当地の奪衣婆を見て回っています」
大黒様は親切な方でお墓にも奪衣婆にも案内してくださいました。大黒様ご自身も短歌をされるようでノートをお持ちでした。
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これが江口きち女が眠っている桂昌寺本堂の裏左手に同女のお墓があります。
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これが江口家の墓手前がきち女の墓で側面に辞世の短歌が刻まれています。中央が父熊吉と母ゆうの墓です。奥は妹たきの墓です。江口きちが世に知られるようになったのは妹夫婦の尽力河井酔茗・島本久恵夫妻の主宰する文芸誌「女性時代」の同人の理解があったからでした。
【恩師の嘆き】
後に私の一番に感銘を受けた事を紹介します。それはきち女の自殺を聞いた恩師の悲みでした。展示コーナーにはきちの才能を早くに見つけだし指導を惜しまなかった先生の寄稿がありました。厭世感が角って自殺願望が制御できなくなったきちでしたが先生方の血涙を流す姿を見た時には後悔しても後悔し尽くせなかったことでしょう。最後にきちの担任だった田村晴子先生の詩を紹介します。
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詩と云い書と云い才色兼備で居られた田村晴子先生の寄稿
きっちゃんの霊前に捧ぐ 田村晴子

あなたの死を知った時の驚き
そして悲しみ惜しさ
涙がとめどなく流れ
三目も四目も泣き通しだった
通勤のゆき帰りに涙をふきふき歩き
電軍にの加ぱ窓に頬を押しつけて泣いた
わたしのわたしのだいじなだいじな
掌中の珠は一瞬に砕け去ってしまった

きっちゃんは清純を愛した
きっちやんは情熟の人だった
きっちゃんはやさしく情深かつた
きっちやんは努力家だった
きっちやんはっっましやかな人だった
きっちゃんは真実ひとすじに生き通した
だからだからだから“
きれいなまま死んでしまった
きっちゃんには死は恵みだつたのか
死は一つだけゆるされた自由であり
歓ぴであり最後のわがままだったのか

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昔は立派な先生が日本中に居たのでした。でも田村先生、一箇所だけ誤りがあります。自殺はキリスト教も仏教も否定しています。人間は動物と同じで一度生を受けたら生を全うしなくては死ねません。それは先生の悲しみが証明しているではありませんか?「あなたの可愛い生徒もあの世で悔やんでいますよ・・・・、奪衣婆の優しさに騙されて私の大切な先生に悲しい想いをさせてしまった・・・。」と「近々自殺する自由」について書きたいと思います。実は川場村で自殺したとしか思えない杉の大木を見つけたのです。


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自殺する大杉

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江口きちさんのお墓を詣でて、私達は又石仏巡礼に戻りました。此処川場村からお隣の片品村は果樹の産地で果樹園農家が目立ちます。もう林檎の花も終わって、青く硬い果実が目につきます。西向き道祖神を見て、更に林檎の樹の下にマリア観音を見て隠れキリシタンの墓を廻ろう…、思っていたのでしたが、腹も減って来ました。そこで果樹園のレストラン「ティア・ツリーhttp://www.tiatree.com/に入りました。
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これが林檎園の中に祀られている西向き道祖神この近くにマリア観音が有名なのですが見つかりませんでした、次のブログをご参照くださいhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%B7%9D%E5%A0%B4%E6%9D%91%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3
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これが果樹園レストランのティアツリー。白い花が付いている果ブルーベリー後ろの杉の森は「厄神社」この鬱蒼と茂った杉の大木に自殺したとしか思えない杉が在ったのです。
私はズット「江口きち」さんの自殺が頭から消えません。26歳の若さで才能が消されてしまったのは残念でなりません。青酸カリをコップに溶いて死の淵に臨んでいたのでしした。しらしら夜が明けて庭の桐(この桐は母が娘の誕生を祝って植樹したもの)の樹の梢では雀が囀りはじめました。また天地が廻り始めて昨日と同じ一日が始まります。きちさんの自殺願望は美しい自然の誘いも在って。もう押しとどめられなかったのでした。時代の空気も自殺を肯定していました。太宰治も有島 武郎も自殺しました。文学の行きづまり「筆を折る」自覚が自殺に短絡したのでしょう。美しく優しい川場村の自然に包まれていると早く土に還って再生したいと思ったのかもしれません。社会思想史学者「丸山真男」氏は世界の神話を基本考察して、「造る」「生む」「なる」の三つの動詞があるとがあると指摘されました。「造る」とは神が人間をつくる」の「造る」です。「生む」は神々が結婚して性行為を営み宇宙が生まれたとする生殖行為です。そして「なる」は自然に内在する神秘の霊力によって宇宙が出来たとするするのが「なる」神話です。日本の神話は「なる」によって出来ています。一方キリスト教は「造る」神話に依っています。丸山氏は「なる神話」が日本人の消極的な姿勢の根本にあると指摘して評価が低いのです。「なる」は「林檎がなる」「桃がなる」のナルであり。林檎を造る」「葡萄を造る」のそれとは自ずと違います。営々とした大自然の活動の成果が林檎や桃が「なる」になるのです。江口きちさんの育った川場村は「なる」文化の地です。時として林檎の樹も枯れてしまいます。林檎の樹に水分が無くなって萎れてしまう事を「死」と呼びます。人間も年齢と共に萎れて行きます。そして死んでしまえば枯れ木になってしまい最後は土に還ってしまいます。更に種が発芽するように、外部環境が揃えば命が生まれます。
私達戦後世代はキリスト教文化の洗礼を受けていますから造る神話の考えが入っています。江口きちさんは「なる神話」に生きた人でしたから自殺を押し留める力が無かったのでしょう。
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レストランのテラス席からは正面に厄神社が見え大杉の森が鬱蒼と茂っています。
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でも大杉の森の田圃寄りの一本が枯れてしまって茶化してしまっています(写真右寄り)筆者はこの大杉は病虫害で枯れ始めたのでも落雷でもなく自殺したものと思っています。
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これで800円のピザランチセットです。

そんなことを考えながら果樹園レストランのティアツリーのテラス席に座りました。 武尊山からやまおろしが吹いてきます。春ゼミと雨蛙の合唱がけたたましく五月蠅く感じます。向こうの厄神社の杉の森が鬱蒼と生い茂っています。
でも大杉の一本田圃寄りの一本だけが赤茶けて枯れています。私は不思議に思ったので主人に訊いて見ました
「神社の大杉が一本だけ枯れているようですが?何故あの一本だけ枯れてしまったのですか?」
でも主人の答えは
「解りませんねえ!杉に寄生虫がついたのでしょうかね?それとも農薬の薬害でもあったのでしょうかね?そんなはずないのですが…)要するに杉の森で一本だけ枯れる理由は思い当たらないようです。
昔植木屋さんから聞いたことがありました。人間だけが自殺する自由があると言いますがそんなことは無い。樹も気が喰わないと自殺してしまうんだよ。移植した先の新しい土が体に合わないと枯れてしまうし、植木の手入れを怠って野放図に伸ばしておいても枯れてしまいます。勿論ヤシや竹は何十年に一度花を咲かせてそのあと集団自殺してしまいます。龍舌蘭も70年に一度花を咲かせると母体は枯れてしまいます。これらは自身は枯れても子孫を残すそんな大義というか大きな目的があるのですが。外部の環境が気に食わないと樹は自死してしまうのです。間伐を怠っても自死してしまうので樹は時々幹を触って下肥をしてやらないといけません。
人間が庇ってやらないと樹は拗ねて自死してしまうというのでした。
その通りだとすると厄神社の大杉は川場村の村民が見向かなくなったので自死してしまったのかもしれません。
栩木屋の庭に植えられた桐も主人の江口きちさんが自殺したので自死してしまったのかもしれません。栩木屋の跡地に建っている星野商店(コンビニ風)には既に桐の樹はありませんでした。
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川場村谷地の交差点左側2軒目が(黄色い建物)星野商店で、此処が栃木屋のあった処でした。、江口きちさんはこのお店の店番をしていました。栃木屋は酒うどんを商うお店で日中は子供達相手に駄菓子を商っていました。バス停に赤い布巾を巻いておくとバスの運転手は栃木屋の店内にバス待ちの生徒が居るので停車したと言われます。きちは母が恋しくなると庭に出て桐の幹を抱いて泣いたと謡っています。
私は川場小学校の田村晴子先生の教室を想い起こししました。生徒は良い子ばかりでオルガンにあわせて「お山の杉の子」を唱和しています。でも学級委員のきちだけは冴えない顔をしています。この子だけは自殺願望という病にかかっているのです



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川場のお土産は「さくらんぼ」

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2泊3日石仏巡礼の旅を満喫しました。ランチも食べたしそろそろ帰り路です。川場の道端に出ている「道祖神巡り」マップの前で何処に行こうか思案しました。冷静に思い起こせば「マリア観音」に行けば良かったのでした「面白石仏群」の表示が目に飛び込んできて。その面白石仏群に向かう事にしました。川場村農産センター(道の駅)を通って川沿いを西(谷川岳)の方に行けば良さそうです。記憶を辿って面白石仏群に向かいました。
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これが川場田園センター(道の駅)大変な賑いでした。
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農とリンゴジュースが売れ筋のようです。

農家の庚申塔の辻にお婆さんが集まって立ち話をしておいでです。お婆さんに訊きました。
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面白石仏群に近い庚申塔此処にお婆ちゃんが集まって立ち話に興じておいででした。
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お婆ちゃんの庭先のサクランボ田植えを終えた田圃が広がっていました。

「面白石仏は、もう少し下って道が曲がる当り小山の上に在りますよ」
お婆さんの屋敷前には小さな畑が在ってその向こうににはサクランボの樹が茂っています。サクランボの実は熟しているのに、誰も採らないのです。雀が群れて食べています。サクランボの実は美味しいのでしょう。でも細い雀の喉をサクランボの実が通るとも思えません。
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此方が面白石仏群。道端から見上げたのでは地蔵尊に如意輪観音が2基。何処が面白いのかまるで解りませんでした。
私達はお婆さんの指示に従って面白石仏群を確認しました。でも何処が面白いのか解りません。ごくありふれた如意輪観音像と地蔵尊です。それでは帰ろうという事で川場村の道の駅に戻る事にしました。川場村のお土産を買うには最適と踏んだのです。
川場村には観光客はまばらだったのでしたが何処から集まって来たのか大勢のお客さんで賑わっていました。でも適当なお土産は見つかりません。お土産は最低で2つ必要です。一つは家族向けもう一つはデーサービス向けです。デーサービスには先月久能山に行った折「追分羊羹」を求めたのでしたがイマイチ不評でした。イチゴ羊羹にすれば良かった」そんな思いが残っていました。
「無理してさがすより面白石仏群のお婆さんの処のサクランボを一枝貰おう」決めました。そこで今来た道を取って返して数分前道を訊いたお婆さんの家に戻って
「畑のサクランボを一枝折って下さいませんか?」おねだりしました。
お婆さんは驚いた様なお顔をされましたが
「お口に会うかねえもう少しすれば温室栽培のサクランボが出回るのだが・・・」
仰いながら一枝もう一枝折って下さいました。私の脳裏には我が家の食卓には花瓶い活けられたサクランボが飾られ、手を伸ばして実を食べるワイフの顔が浮かびます。同様にデーサービスのテーブルにもサクランボが活けられ時に手を伸ばして実を口に運ぶ光景も浮かんできます。お婆ちゃんは笑顔で言われました。伊藤君は絵を描くと言いますし。両角君も富田君も大土産にして満更でもなさそうな顔をしています。各人ビニール袋に分けて持ち帰りました。
雀が美味しいというさくらんぼです。私も美味しくいただきました。私達の「桜の実が熟する時」は遥か昔ですが、各自が家に帰って奪衣婆の話や道祖神の土産話をするには桜の実は良い茶の友でした。
「我が家はリンゴ農家なので秋になったらまたおいでなさいな。川場の林檎は美味しいのですから・・・」言われます。
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土産話の箸休めに最適だったサクランボ
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花瓶に活けて暫く楽しみました

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皐月の名前

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6月になってから街に皐月の花が目立つようになりました。今年は皐月の開花が遅れた一方で紫陽花10日も早く色濃くなりました。花の気持ちは女心の様に捕えがたいもののようです。6月6日(土)ワイフに誘われて横浜の三溪園に出かけました。
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今年は花が小さいように思える三溪園の菖蒲の花
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もう横浜は紫陽花の色も濃くなってきました。
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皐月の空に向けて花を開いた泰山木。この花は「朴ノ木」の仲間で大きく香しい花です。吾妻渓谷でも道祖神の上に咲いて居ました。
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三溪園の鶴松閣で結婚式を挙げたカップル、内苑で記念撮影。素敵なカップルで特にご主人の笑顔がはじけていました。”お幸せに”の意味でお顔をそのまま出させていただきました。ご指示があれば削除いたします。ご主人の袴姿がぎこちないのも良いものです。

今年の花菖蒲は花も小さいし不出来のようです。そろそろ株もつ疲れてきたようです。今年の花が終えたら勢いのある花株に植え替えする事でしょう。泰山木が花の盛りでした。泰山木の花を見ながら綿帽子のお嫁さんが歩いて行きます。綿帽子が泰山木の花のようだと想いながら眺めました。お嫁さんは美しいし婿さんの笑顔が弾けていました。私達にも50年前あんな季節が在りました。
内苑入口で皐月の盆栽展が開催されていました。
盆栽展の主催者が質問に応じてくださいました。盆栽展は横浜の植木屋さんが中心のようですが、横浜の植木職人は総じて栃木の鹿沼市の系譜を汲んでいるのだそうです。日光、鹿沼、大宮、江戸と続く植木職人の系譜が横浜にも及んでいるのでしょう。
私は「暁天」という名が付いた盆栽を指さしてその名の謂れを訊いて見ました。素人目にはオレンジ色の花が暁の空の色を思わせたから、私の直感を確かめてみたかったのでした。ところが意外な答えが返って来ました。「暁天」とは孫の名なんですよ。お孫さんが「暁」ちゃんで、その字を戴いたのですよ。薔薇では恋人の名を新種の薔薇に付けるそんな話をよく聞きますが。盆栽皐月の世界にもそうした習慣が及んで来ているのでしょう。
暁ちゃんの新居の庭にもいずれこの三溪園賞を受賞した皐月が誇らしげに咲く事でしょう。
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これが三溪園賞を受賞した皐月の「暁天」
行天 豊雄(ぎょうてん とよお昭和40年代の実力財務官)大蔵省財務官を想いだす人は稀でしょう。円高が進行してバブルを生んだ時の財務官でした。私は暁天の響きは嫌いですが暁天の光景は好きです。
皐月展主催者はこんなことも云われました
「このクラスの皐月でも昔は展示が終わると家が一軒建つほどに稼いでくれたものでした。」
「展示が終わるころまでには”一枝欲しい”という人が沢山出てきて,花期後の手入れの時期までに総ての小枝が売れてしまったんですよ、この枝先が一枝2万円ですから全部で500枝1000万円位は買い手が付いていたんですよ。」
わたしは昔の世間話を想いだしました。鎌倉の高名なお茶室の露地の植え込みが人気になって剃刀を隠した人に枝を切り取られ、お着物の袖に隠されて困ったとの事でした。有名茶室の庭木の花を自宅の庭でも咲かせたい想いは解りますが。花が咲くたびに心に剃刀の刃が向けられる、そんな嫌な思いをさせられる事でしょう。



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雨蛙と天邪鬼

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我家の紫陽花も色づきました。昨日はデーサービスに持って行くとみんなに喜ばれました。紫陽花もお婆ちゃんい誉められて嬉しそうでした。私のベッドの枕元垣根に沿って紫陽花が植えられています。昨年垣根の青木を伐採したので陽当りが良くなったのが紫陽花が良く咲いた理由のようです。紫陽花の植え込みの方から雨蛙の鳴き声が響いてきます。が鳴いています。「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」賑やかです。
童謡の蛙の歌が聞こえて来るよ!「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」は田圃で殿様カエルが恋人を求めて夜中に 鳴くものと思っていたのでしたが・・・・。こうして聞いていると雨蛙の鳴き声だったようです。雨蛙という程ですから!「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」の鳴き声は「もうじき雨が降るぞ!」雨を呼ぶ鳴き声のようです。
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雨を呼ぶから「雨蛙」です雨蛙と書いてアマガエルと読むのも不思議です。
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我家の紫陽花もデーサービスで飾られて嬉しそうです。
そうです。先日吾妻路を旅行しましたが、その折マリア観音像を詣でた時下草に雨蛙の卵が在りました。月夜野には森青ガエル(天然記念物)の自生地も在ったのでしたが素通りしてしまいました。梢や草叢に産卵する蛙は雨が降りそうな気配になったら鳴きだして恋人を呼ぶのでしょう。だから!「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」は転換すれば「もうじき雨が降り出すから僕のお嫁さんは早くおいでよ!」と誘っているのでしょう。
【雨蛙の伝説】
雨蛙の鳴き声を聞いていると岐阜県の伝説を想いだします。
あるところに雨蛙(あまがえる)の親子がいました。
 親蛙(おやがえる)は子蛙(こがえる)を大事に育てたが、子蛙はちっとも親蛙の言うことを聞きません。
 親蛙が、暑い日に、
 「今日は暑いなあ」
といえば、子蛙は、
 「今日は寒いなあ」
といい、
 「山へ行け」
というと、
 「川へ行く」有様でした。子ガエルはとんで、もない「天邪鬼」なのでした。
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なんでもかんでも親蛙の言う事の反対ばかりをする子蛙でした」。子ガエルは筋金入りの「天邪鬼」なのでした。  
    ある時、親蛙は重い病気にかかってしまいました。
 いよいよ死にそうになったときに、親蛙は、
 <死んだら私を山にう埋めて貰いたいと思ったのでしたが、今までいくら言うても反対のことばかりする子だから『山にうめてくれ』と言うと、川の傍に埋めるだろう。だから『川の傍に埋めて欲しい』と言えば、きっと山に埋めるに違いない>
と考えたのでした。  
 そして子蛙を枕元(まくらもと)に呼んで、
 「おれが死んだら、川の傍に埋めて、墓をたててくれ」
と言うと、子蛙は、やっと目が醒めて、
 <ああ、おれは、今までなんでもかんでも親の言う事の反対ばかりをしてきて申し分けなかった。親が死ぬときに『川のそばにうめてくれ』と言うたから、せめてひとつぐらい言う通りにしよう>
と思うて、泣きながら、親蛙を川のそばにうめて、墓をたてた。
 ところが、川の傍でしたから、雨が降ると大水が出て、親蛙の墓が流されそうになってしまいました。
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この愛くるしい蛙の顔に弱いのです。

  それで雨蛙は、今でも雨の前になると、
 「親が流れる。親が流れる」
というて、!「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」と鳴いているんだと。
  だから"雨蛙が鳴くと雨が降(ふ)る"というんだよ。
私は叔父が岐阜県中津川市の宗泉寺の住職をしていたので。岐阜県には川で流された人の葬儀を何度も経験していました。だから木曾では雨蛙の鳴き声には神経を張っていてそれがこんな民話を伝えてきたのでしょう。
雨蛙の剽軽な顔を見ていると。仏像に彫られた「天邪鬼」を想いだします。
そうです。庚申塔の青面金剛の足に踏みつけられて苦しそうに蠢いている醜い天邪鬼です。
雨蛙は天邪鬼に通じるものがあります。

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   これが天邪鬼です。青面金剛に背中を踏まれて地に伏している可哀想な天邪鬼は雨蛙を思わせるのは語感に依るだけではありません。    雨蛙は皮膚が濡れていないと死んでしまいます大切な皮膚を守るために粘液を出しています。その粘液に毒性が強いのです。だから本来無毒の蛇も蛙を食べて毒を唾液腺に蓄積します。子供を連れて柏尾川に遊びに行くと子供達は蛙を捕まえて遊んでいます。蛙を掴んだ手で眼を触ると失明してしまいます。理由は毒性のある蛙の皮膚の粘液が眼を失わせてしまうのです。このことも婆ちゃんから教わりました。
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万事窮した「山かがしに吞まれそうな雨蛙この後雨蛙は両の手で枯草を掴んで吞まれまいと足掻きました。私はその凄惨な光景を見詰めていたのでしたが。山かがしは私の気配を察知して雨蛙を放して草薮に消えてゆきました。(撮影鎌倉の広町緑地の棚田で)

今年は国立博物館に特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」を見学に行く予定にしていたのでしたが大変な混雑だそうで断念しました。鳥獣戯画は動物の姿を借りて人間や社会をを比喩描写したものでしょう。狐や猿が悪役を演じているのは私達人間感覚に通じるものがあるので別段不思議ではありません。ところが兎も悪役で蛙が善役に描かれている理由が解りません。高山寺も月の名所です。)お月様は兎が棲んでいる天国です。その兎が悪役で蛙が善役なのが不思議でなりません。
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高山寺鳥獣戯画では兎は悪役で蛙が善役です。日本人感覚では逆の様に思います。何故だかズット考えています。高山寺は奈良の室生寺の様に水分の霊地であったから水(稲作)を呼ぶ蛙が大切に想われていたからでしょうか?写真は国立博物館のホームページを転載しましたhttp://www.huffingtonpost.jp/2014/12/07/chojugiga-tokyo_n_6285464.html


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日吉銀杏の老後対策

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宮本輝さん作品はサラリーマン時代愛読しました。「錦繍」の蔵王山の情景描写からど坪に嵌って次々と読んだものでした。同氏に随筆集「命の姿」がある事を知り、市図書館に申し込んでおいたところようやく私の番が巡って来て、一気にを読みました。
同書は小林秀雄の「モーツアルト中の次の言葉に刺激感化されて書いたものであることと記されていましたし。随筆自体がその体験記の体裁を為していました。ベートーベンは逆境に打ち克ったとと指摘したうえで命の力は外的偶然をやがて内的必然と観じる能力が備わっているものだ。この思想は宗教的である。モーツアルトの環境がもし善かったらという疑問はのは若しもモーツアルトの精神がもっと善人であったらという程度の愚問である。
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宮本輝さんの随筆「命の姿」作家の体験記の体裁をとっていましたが執筆の動機は小林秀雄のモーツアルトでした。そこで私は小林秀雄を改めて読んでみました。

私にとっては宮本輝氏の文章は簡明であり読みやすくイメージも湧いてきます。一方小林秀雄氏の文章は簡明に見えても内容は理解が困難で言葉が幾つも喉に刺さった骨のようで、一向に読書が捗りません。受験時代の現代文を読んでいるようで、気分が優れません。私の作家を分類する座標軸上で宮本輝さんは一番に読み易く想像力を活性化させてくれるのですが、小林秀雄氏は一番い読み難く想像力は死んでしまい脳の一番不活発な論理的な洞察力を要する嫌いな作家であります。
でも、そんなプラス評価の宮本輝氏を参らせる言葉がシャワーの様に噴出させるのですから小林秀雄は偉大です。
そんな次第で。私はモーツアルトも借りて読み終えました。私は総じて漢字でものを考えるタイプですから音楽はからきし理解できません。音学は漢字の逆の位置にある文化でしょう。音楽を漢字で理解すること自体が無謀な事のようです。でも小林秀雄氏は漢字で天才作曲家モーツアルトを説明したのでした。そのキーワードが「外的偶然を内的必然に感じる宗教的理解」だというのです。私に当てはめてみればお寺の三男に生まれた偶然もカソリックの学校に学んだことも外的な偶然でこの偶然を私の心が必然であったと理解した時に宗教的な解釈が可能になるという事です。私が健康的で骨格の頑丈な母が生んでくれたのに、晩年になり病気がちな事も脳梗塞を発症した事運が悪かったと思うのではなく内的必然が為した事実だと受容した時に宗教的な安心立命が得られるという事でしょう。
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小林秀雄氏の代表作の文庫モーツアルトを始め実朝西行「無常ということ」が揃っています。こんなに薄くて内容の重たい本は他にないでしょう。

6月13日私は慶応大学日吉キャンバスに向かいました。午後2じから日本文化研究会のTさんのレポート「何故格差が生まれるのか/ピケティー(21世紀の資本」を聴きに行くのが目的です。Tさんは開銀の調査部長を経て現在は中央大学などで教鞭をとる理理論にも実学にも強い学者です。今日は現役学生も参加して盛り上がりそうです。
日吉の駅を降りて慶応大学の記念館への意登り道を歩いていて気づきました。どの銀杏の樹も鬱蒼と青葉を茂らせています。
日吉のキャンバスが竣工したのは1934年(昭和9年)福澤諭吉誕生100年の事業でしたからこの銀杏は今年で80歳(傘寿」になります。もう堂々とした風格です。でもどの幹も地上2メート路ほどの高さから地面まで黒々としています。まるで樹皮を焼いたように見えます。手で触ってみると炭化しているのでもないしペンキを塗ったものでもないようです。
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慶応大学日吉キャンパスの銀杏並木。幹の人間の背丈辺りの処から地表に懸けて黒々しています。
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銀杏の緑は癒しであると同時に火災対策です。銀杏の木は防火効果が大きいので寺社には欠かせません。
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銀杏の幹には黒々とした筋が付いていました。


大切な日吉キャンパスのランドマークツリーです。塾監局の職員に尋ねると幹の黒々とし手いるのは植栽の管理会社のしたもので悪戯で放火されたのでもないし、毛虫が湧いたわけでもない。銀杏も大樹になったので将来を見越して樹の髄を健康に堅牢にするための予防措置だという事でした。
云われてみれば想いだすのは2003年3月の事でした。神奈川県下最長寿鎌倉八幡宮の大銀杏が倒れました。倒壊した幹を見て皆が驚嘆の声を発しました。7メートもある幹回りでしたが髄は空洞で幹と思っていたのは樹皮だけだったのでした。日吉の銀杏も同じ轍を踏まない様に早目早目に予防措置が大切だという事でしょう。
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2003年3月に倒壊した鶴岡八幡宮の大銀杏、樹の髄が腐って空洞になっていましたから倒壊したのは無理からぬことでした。
夜6時既に暗闇になり始めた日吉キャンバスを後にしました。
涼しい風が熱した頭を冷やしてくれます。もう50年も前にも同じような時刻に皆で帰宅しようとしていました。
あの頃は若くて命に漲っていました。命の「い」は息をするの「い」です。人間が生きているか死んでしまったか判断する時万葉時代も今も息をしているか否かで判断しました。命の「ち」は血液の「ち」です。「命」は「息をして熱い血が体中を巡っている」意味です、それを中国人が心臓の形象文字を考え着いたので命の機能(大和言葉)よりも形が重んじられてしまいました。
銀杏の木も皮膚で呼吸をしています。皮膚は生きていても髄(水分や養分が通る)が腐ってしまいやすいのでしょう。銀杏も歳と共に動脈硬化しやすいのです。
日本の国も戦後70年、銀杏より10年遅れです。格差の拡大も心配ですが。もっと心配な事があります。財政赤字の野放図な拡大です。私達は昭和80年代円高株高で浮かれました浮かれて堅実を標榜していた三菱地所でさえロックフェラービルを始め世界中の不動産を強い円で買い漁りました。私の勤めた長銀もバブル競争に先行して自由競争・古典的な自由経済の先陣を切っていました。
今再び円安の気配です。通貨の乱高下の度毎に財を成す人(組織」と身を削る人(組織)が在ります。矛盾は財政赤字を拡大させます。日銀も政府の言いなりで赤字国債を引き受け続けています。いずれこの病は八幡宮の大銀杏の様に倒壊する事でしょう。その時人々は毎年の稼ぎ(GNP)の2倍も3倍も借金が在った事を指摘する事でしょう。
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Tさんのレポートとピケティー




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Tさんのレポート風景
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格差が広がっている事実は共通認識です太平洋戦争は拡大してきた格差を小さくしましたが昨今は改めて中間層が消滅する事で格差が拡大
が目立ってきています。富の不平等を是正するのが税制であり福祉であるのですが、国は成長が格差問題を解消すると説明しています。
日本の御用学者にはどんな社会を目標にするのか視座が破損しています。アダムスミスの古典経済学の時代は
「自由」「平等」「博愛」の共通する価値観が在りましたが今はそうした価値観も薄くなってしまいました。アダムスミスが「神の手」と表現したのは
「日本国がどんな社会を目標にするかという事でしょう。

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茜草咲く

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梅雨に入ると紫の花が目立ち始めます。青かった紫陽花も朱が入り紫に変わります。栴檀の花も紫色です。来年の今頃は仲間と奥浜名湖を旅する予定ですが、浜名湖の湖岸は栴檀の並木が在って。花から花に青筋揚羽蝶が飛び回ります。初夏の蝶(青筋揚羽)は栴檀が食樹(幼虫が食べる葉を茂らせる樹)なのです。紫の花が気になる季節ですが、なんといっても一番なのは「茜草/あかね」です。鎌倉広町緑地の畑では茜草を育てています。今年は観に行くのは無理なので想いを飛ばすだけです。屹度今頃は群れ咲いて居る事でしょう。
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これが茜草の花です。(撮影鎌倉広町緑地)この草の根っこを干して、椿の灰を加えて紫の染料を抽出します。
茜草に思いやると。額田の大王の歌を想いだします。茜は「ぢ」の薬にもなります。ひさや大黒堂は昔から茜を使った痔ろう薬のメーカーです。
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今日の話題は額田大王です。絵は安田 靫彦(やすだ ゆきひこ)画伯の飛鳥の額田大王像、大和三山と白い裳(スカート)の額田大王の爽やかさが浸みる名画です。
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ソロソロ咲き出したかな?栴檀の花。栴檀の花をあしらったブラウスなんてお洒落です。自由が丘夫人に行けば見つかるかな?
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
この歌が歌われたのは近江国蒲生の野に天智天皇を中心にして廷臣官女が集まった祝いの席で、額田の大王が歌いました。贈歌された大海人皇子は次のように返したと云われます。
紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)
歌の意味は次のようなものでしょう。
貴方(大海人皇子)はあからさまに私に向かって袖を振ったりして野守(薬草園の番人天智天皇の意味)に見つかってしまいますよ。恥ずかしいじゃないの・・・。
額田の大王は大海人皇子の恋人でした。大海人皇子は次のように歌で答えたのでした。紫草のように麗しい貴方をどうして憎く想えましょうか。今は人妻になった貴方ですから一層恋しくてならないのですよ。
この二首は高校の古典の授業でも勉強し万葉集白眉の歌と記憶しています。
日本書紀では668年5月5日となっています。
でもニキビの消えない当時の意私には天皇の奥様(皇后)と皇太子が取り交わす「愛の歌」は重すぎました。教えてくれたのは池田弥三郎先生でした。この歌は宴会の席での「戯れ唄であろう」解釈されたのでした。
私達は中世近世に完成した倫理観社会観の下で育っていますから。人妻に恋歌を送ったり人妻が若い男性に思わせぶりな仕草をする事はタブーです。でも古代は二人の男性に愛されたり、兄弟姉妹の結婚も認められていました。(父が同じでも母が違えば結婚は許されていました。)
一般に額田の大王は蘇我の石川麻呂の娘と云われています。大化の改新を経て中大兄皇子(天智天皇)は曽我の石川麻呂を攻めて滅ぼします。天智天皇は同盟国「任那に助勢して朝鮮半島に出兵します。この時戦いに向かう天智天皇を見送った歌が次でした。
『熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな』
熟田津で船に乗ろうと待っていると、月も潮も良くなったので、さあ!今漕ぎ出そう!」一見、男の人が作ったようなこの力強い船出の歌を、額田の大王は状況に応じて「場」を読んだ歌が得意だったようです。
その九州行きの船の中で中大兄皇子もこんな歌よんでます。
『香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき』
神話の中で大和三山の香具山(男神)が畝傍山(女神)を愛し、耳成山(男神)と取り合いになったって話があるじゃないか「神代の昔から男は女をめぐって争うんだから今もそうだってしかたがないじゃん」私が弟の大海人皇子と麗しい額田の大王を争うのは自然な事なのだよ・・・・。
若しかしたら天智天皇は「私が朝鮮半島で戦死したら弟の大海人皇子に麗しい額田の大王を預けたい。そんなメッセージだったのかもの知れません。
今NHKテレビで癌患者が「奥さんの婿さんを探す」話を放映しているようですが。先の大戦で、出陣する兵隊さんが弟に「自分が戦死したら妻と子供を頼む」なんて言っていたかもしれません。
一方額田の大王(後の持統天皇)は自らを模された天の香具山を次のように歌っています。
春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の 
    (ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)。
又次のように思わせぶりな歌も遺しています。天智天武日本の古代律令国家の礎を築いた天皇二人を手球にした美女のエロスが漂います。
君待つと我が恋ひ居れば我が屋戸のすだれ動かし秋の風吹く
すだれを揺らして訪れてきたのは天智天皇でしょうか大海人皇子でしょうか?

梅雨が明ければ持統天皇の歌の通りの香具山が観られる事でしょう。
先日NHKテレビの「ヒストリア」で額田大王を放送しました。
額田の大王は大海人皇子を愛しています。額田大王は娘婿(大友皇子死後弘文天皇)を敵にして大海人皇子を激励します。大海人皇子の軍は伊勢神宮に立ち寄ると天照大神が額田の大王に降りて大海人皇子軍は勢いづきます。壬申の乱を制した大海人皇子は天武天皇として即位し飛鳥浄御原に遷都します。続いて長安に倣って藤原京の造営に着手します。
古代最大の内乱「壬申の乱」沢山の血を流しました。ブルー(藍)じ血(朱)を混ぜれば紫(茜)になります。
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此方は興福寺に残る「仏頭」この清々しいお顔は一般に山田寺のご本尊(薬師如来)です。
蘇我石川麻呂『額田の大王の父』は山田寺建立をしますが、中大兄皇子の派遣した軍に攻め込まれます。石川麻呂は建築中の山田寺の仏殿にて自害して果てます。最期にこう述べたと伝えられます。「自分は無実です。だが君『中大兄皇子』を恨んだりしない私は死んでも君の忠臣であると言い残して649年に自害します。額田大王には父の生きざまを見て腹が据わった核心を見抜こうとする力や歴史に名を残そうとする姿勢が在ったのでしょう。
因みに興福寺の僧が立派な山田寺の要丈六の薬師如来を奪おうとしてその頭部だけを奪取して興福寺の床下に閉まってきたというのでした。
先日放映されたNHKのヒストリア「鸕野讃良皇女 うののさららのひめみ」の話を続けます。
「さららのひめみこ」は素晴らしい響きです。「笹の葉さらさら」を思わせます。一般に讃良(さらら)は姫の出生地河内の地名の事でしょう。問題は鸕野のです。鵜は真っ黒い鳥です。黄泉の国から飛んで来る真っ黒い鵜です。誰が父母であるのか?良く解らないから鵜野と付けたのではないでしょうか。でも聡明な父に育てられた頭脳明晰な美人でありました。宮中に出ても一際目立ったことでしょう。それに父は名門蘇我氏の左派石川麻呂です。男達は放っておきません。先ず大海人皇子が言い寄ります。二人は子をなします。
先の相聞歌では額田の大王の夫は天智天皇でて大海人皇子は恋人という事になっています。
ところが同のヒストリアでは天智天皇は額田の大王の父になっていました。劇画の里中満知子さんの「天上の虹」でそう扱われていたからでした。日本中の歴史学者や絵画は額田の大王の出自について研究をされています。その動機は先の額田の大王の歌が秀逸で日本人のロマンを掻きたててくれるからです。NHKは時代考証や研究の蓄積よりも人気や風潮に流され過ぎている様に思います。劇画や漫画を軽視するつもりはありませんが、あまりに軽軽であるように思います。池田弥三郎先生の歯ぎしりが響いて来るようです。
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平山郁夫画伯の藤原京の図藤原京は天武持統二人の天皇の合作でした。藤原京跡も保存されもうじき一面に布袋草のブルーの花が咲きだすことでしょう。
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NHKテレビヒストリアの画面。藤原京の都市計画が長安を模した理想とした都市計画の実践であり律令制国家で成立であった事は異論は無い迄もせめて「平城京にも匹敵した大きさ」とか言って平安京をも上回る大きさと指摘されると時代考証の正確さに疑問が生じます。この件も含めてNHKには批判が集中していることでしょう。平山郁夫さんの絵では藤原京は大和三山の内側ですがこの画面では大和三山も含んで桜井や山田寺跡まで藤原京になっています。昨今のNHKの歴史認識は韓国ドラマ並に大雑把になったようです。
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明日香の天武持統天皇陵。夫婦が合葬されています。天武天皇は棺(土葬)ですが持統天皇は火葬され(日本最初の火葬)銅製の壺にお骨がおさまっています。火葬は煙になって魂が天の昇るというニュアンスがあるので持統天皇は僧侶の様に火葬を選択されたのかもしれません。NHKテレビでは藤原京の大極殿と朱雀大路を結んだ延長線上に天武持統陵があるので、持統天皇は夫の墓の方角を見詰めていたのだろう、と推測していました。筆者は壬申の乱蜂起した吉野宮滝を今春訪れ次に書いたばかりです。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893298.html?p=4
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NHKのヒストリア鵜野讃良皇女(うのささらのひめみこ)は里中満知子さんの「天上の虹」を紹介したものでひすとりアと自称するには時代検証が不足しています。NHKにとっては歴史はドラマ(ロマン)であって社会科学ではないようです。表題を態々『鵜野讃良皇女』と言って歴史的な考察を紹介する風でなく一般に膾炙している「額田の大王」にすべきでした。筆者は大河ドラマ「花燃ゆ」の考証にも不満を抱きながらワイフにチャンネルをとられて仕方なく見ています。NHKの幼児化は止め処が無いように懸念されます。
うののさららのひめみこ
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万葉の紫陽花

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昨日はテレビも新聞も鎌倉の紫陽花が映っていました。この季節鎌倉の紫陽花見物は土用の鰻のような慣習になっているようです。写メールで「今明月院に居ます」と打てば「今私はブルーなの・・・」メッセージなのかも知れません。男性は機敏に反応しないと駄目の烙印を押されてしまいそうです。
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明月院の紫陽花明月院ブルーとも言われる水色『涙色』と鎌倉石の丸みを帯びた石段が調和しています。連日この静寂を人波が埋めている事でしょう。
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ホワイトからブルーへグラデーションも”乙女心の移ろい”思わせますを。
万葉人は紫陽花をどのように見ていたのか気になったので先輩からプレゼントされた「万葉花」を見てみました。すると予想に反して『額紫陽花」が出ていました。奈良の紫陽花の名所と言えば矢田寺の姫紫陽花が有名ですから。万葉の紫陽花も姫紫陽花と思っていたのです。
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矢富夫氏の万葉花の「紫陽花」立花諸兄の歌と額紫陽花が載っていました。
改めて作者の橘諸兄とこの歌が出来た背景を調べてみました。
【橘諸兄】
天武13年(684年~天平勝宝9年757年)奈良時代の皇族・公卿葛城王と呼ばれていたが臣籍に降下して以来橘朝臣姓を名乗り一般に『橘諸兄』と呼ばれた。天平9年天然痘が大流行して藤原4家のリーダーが次々に死んでしまうと天平10年(738年)には右大臣に就任し、吉備真備を抜擢しブレーンにして聖武天皇を補佐する立場になった。父は藤原不比等で妹が光明皇后であり。臣籍としては最高実力者であった。諸兄の没後間もない同年5月に、息子の奈良麻呂は謀反を起こし獄死している。
あぢさゐの八重咲くごとく(や)つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ万20-4448)
【通釈】紫陽花の花が八重に咲くように、御代八代も何代も、健勝でいらしてください、そして花を眺めては貴方を思い出しましょう。
【背景】天平勝宝七歳(755)5月、丹比国人(左大臣多治比嶋の孫)邸での宴に招かれ、紫陽花に寄せて詠んだ歌。宴の主人である国人の長寿をお祝いした歌です。私達は紫陽花と言えば「移ろい易い花の象徴ですから。貴方の御長寿繁栄を末永く願います。庭に咲く紫陽花の様に・・・」と言われたら興醒めです。庭の松の様にと云われれば納得ですが・・・・。でもこの宴席で上皇誹謗の言辞を糾され失脚する。引退を余儀なくされ実権は藤原仲麻呂に移ってしまいました。
紫陽花に喩えるべきは上席の左大臣丹比国人ではなく諸兄自分自身だったのかもしれません。
この歌を詠むと伊勢大輔の次の歌を想いだします。
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬる かな (伊勢大輔(61番) 『詞花集』春・29)
伊勢大輔の歌は新古今の時代の歌ですから伊勢大輔が橘諸兄の歌を重ねた(本歌取り下)事になります。
いにしえの」の歌は奈良から献上された八重桜を受け取る役目を、伊勢大輔が道長に命ぜられて即興で歌ったとされていますが。誰もが橘諸兄の境涯を知っていたでしょうから。よく言われる様に満場の喝采を浴びたとは思えません。こうした移ろい易さが無常観として時代空気を席巻していたのでしょうか?
紫陽花が人間の栄華の移ろい易さを象徴している。感慨を以って眺めて居るのは石仏のようです。今日の最後に紫陽花を眺める石仏を載せておきます。
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葉山新善光寺このお寺の紫陽花は赤紫です。
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葉山新善光寺の如意輪観音像
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ご存知明月院の花想い地蔵尊


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国旗国歌を掲揚しない自由

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テレビニュースに下村博文・文部科学相が映りました、86もある国立大学の学長を集めて「入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請した」との事でした各学長ともいんたっビューに応じて困惑しながらも「大学に持ち帰って対応を合議する」との事でした。
大相撲の表彰式やサッカーのワールドカップでは観客は要請されなくて起立して国歌を斉唱します。そんな”大学の立ち居振る舞いまで思う様にしたいのか!”若干の憤慨を持ってニュースを聞きました。
今年のも4月月8日に安倍晋三首相は参院予算委員会で、『国立大学の入学式や卒業式における国旗掲揚・国歌斉唱に関して「改正教育基本法の方針にのっとり、正しく実施されるべきではないか』発言していましたから。その後2箇月経て文部大臣が動いたのでしょう。
若しも日本の国が攻められたら日本国民は防衛に向けて立ち上がるでしょう。元寇でも下関戦争でも武士は武器を持って戦いました、農民は台場(防塁)」を築きました。家族の命を守る為に戦うのは自然な事です。国歌を斉唱しなくても国旗を掲揚しなくても、攻められれば防衛の為に立ち上がるものです。なのに態々「国家を唄え国旗を掲揚ぢろ」と命じる事に違和感を覚えます。
大学は義務教育機関ではありません。国の最高の知的殿堂であり。教育機関です。その期待を果たすためには「「学問の自由」な環境こそ大切だと思います。現在欧米の大学がイスラムの研究をする事は国民の期待に反するかもしれません。でもイスラム社会や宗教の研究はみらいを切り開く期待があります。大学は何をどのように研究しても自由でなくては期待役割を果たせないと思われます。
先日NHKのニュースで慶応大学に田図書館前庭に「回天」が展示されたといったニュースんが映っていました。回天とは人間魚雷の事です。昭和16年学徒出陣で戦争の前線に送られた大学生は人間魚雷に入って敵艦に突入したのでした。慶応大学は今年戦争に反対できなかった事実を悔やんで「慶応義塾の昭和20年」を上梓しました。
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今年慶応大学は「た戦争に反対しなかった事実」総括して上記を上梓しました。
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これが人間魚雷です。学徒出陣として徴兵された学生はこのドラム缶に押し込まれて火薬を抱いて敵艦に突っ込んだのでした。家族を残して命を散らした先人の無念が偲ばれます。
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これは建長寺正統院に眠る「人雷戦士」の墓のモニュメント筆者は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/33768690.html
下村文部大臣の昨日の発言が今朝の読売新聞ではどのように書かれているか確認しました。
先ずコラムにはコントラバスを例にして書いていました。今の教育行政はGNPの拡大に効果が甚大な(医学や電子工学等)が期待されていて直接的な効果が認めがたい人文科学は軽視されているが、オーケストラが主メロディーを奏でるバイオリンだけでは駄目で通奏低音を奏でるコントラバスこそ大事であるように、人文科学こそ大切だ皮肉っていました。社説も同様な視点で文部省はGNPに貢献する大学に助成金を厚くして基礎学問や人文科学に熱心な大学には助成金を薄くするようさじ加減をする事を懸念していました。
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今朝の読売新聞の社説下村文部大臣を名指しで批判してこそいませんでしたが、人文科学を大事にしろとの指摘は日本の現状を良く指摘していると思われます。GNPに貢献した研究に予算を付けるといった姿勢がの小保方晴子さん事件を引き起こしたと思います。

私は漱石を想いだしました。腕白坊主「坊ちゃん」は青年になって東大に通い始めます。名前は「三四郎」物理学教室で淡い恋をします。三四郎は社会人になります。1日中、本を読んだり音楽を聴いたり絵を観たりする。芸術に親しむ日々を鬱々として過ごします。
気になる女性が孤独で過していると聞きます。と言って就職するわけでもなく、女性に接近して家庭を作る気にもなりません。冗長な時間だけが過ぎて行きます。
漱石は「それから」の続きを「門」に描きます。『門』は、かつて親友から女を奪った男が、崖の下に建っている家で、親友から奪った女を妻として、隠遁するように静かに暮らしていまっす。どうしても後ろ向きに生きることになってしまっています。主人公は突然に思い立って妻には告げずに円覚寺に参禅し始めます。円覚寺の門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、敲いても歌てくれません。「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞こえただけでありました。漱石は近代日本人の原点を描いたと思っています。東大の物理学研究室の秀才には飽き足らず人間の心はアッチコッチに彷徨います。近代人は欧米の知識や学問に満足できずに、和・洋往ったり来たりします。

もう数年前ミャンマーの軍事政権に反対する青年僧侶がテレビに映っていました。
仏教国ミャンマーですから街中に托鉢する僧侶がいました。人々は僧侶の鉢に食べ物やお金を入れて手を合せます。善行が自分の未来を幸福にしてくれると確信しているのです。でも兵隊さんが目の前を通ると鉢は伏せてしまいました。「貴方の喜捨は受けません」の意思表示でしょう。僧侶に喜捨を拒否されたその屈辱は如何許り大きかった事でしょう。日本人はGNPばかり気にしていると、『日本のОDAは受けません。私には誰から喜捨を受けるか選択する権利があるのです』言われそうな心配が頭をよぎります。
人文科学こそが学問のそして人間の基本だと思うのです。


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自利・利他の実践

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先週慶応大学にセミナーに参加してから1週間になります。以来ずっと考えて来ました。昨日もラジオでは国会中継を流していました。安倍首相が「既に世界は荒んでいて自国は自分で守らなければならない」時局に来ている、だから集団的自衛体制を用意しなくてはならない、主張します。自説をラジオやテレビを通してリスナーに向けて喋りますが民主党岡田代表の質問には噛みあいません。2時間も同じ主張を聞かされるとリノール酸の浮いたラーメンを食わされるようで気持ち悪くなってきました。
ふと思いつきました。この噛みあわないのは「自利」と「利他」の違いではないのかな?思ったのです。
経済学はアダムスミスの「国富論」に始まりました。その前提は総ての人間は自分自身の利益が極大になるように行動する」のでした。小学生も知っています。総ての個人が自分の快楽や富が極大になるように行動すれば(すなわち自利に徹すれば)学級破壊になるし、喧嘩になります。大人が自利に徹すれば社会は貧富の格差が生じるし戦争にもなります。古典派経済学のスタート自体に間違いがあるのです。日本は先の大戦前後でアジアアフリカ諸国から歓迎された事がありました。国際連盟に牧野外相が、「人種的差別撤廃提案」を提案した時でした。米英は日本案に反対し撤廃されました。当時日本人はカリフォルニアに移植し強い差別に苦しんでいたのでした。日本は以来孤立化の道に進みました昭和天皇も国際連盟脱退の経緯をこの件を踏まえて残念であったと独白しておいでです。近代はフランス革命の思想「自由・平等」と併せて「博愛」の三本足の上にスタートしました。「自由・平等」は自利の精神ですが「博愛」は利他の精神に負っています。「誰もが自由平等を主張すれば「歪」が生じ戦争になります。自利の歪を是正するのが利他の精神なのでしょう。こんな自明な指摘は最澄もしています。
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托鉢行は自利・利他の実践行為です。(後述ミャンマーから)
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湯殿山注蓮寺の即身仏「鉄門海上人」は自利・利他の菩薩行の現れです。究極の菩薩行は自らが仏になった衆生に利する事でした。自利の為の経済行為の蓄積がGNPなのですから。利他の行為はアカウント不能なのです。GNP一辺倒の政策は利他の精神の外に在ると思うのですピケティーの経済論の対岸に在るのは衆生(一般大衆)の公正公平な幸福感をカウントする財政論だと思うのです筆者はGNPに変わってグロス国民ハッピネスというか国民が利他の善行を積んだグロスを積算する作業が必要だと思うのです。例えば日本で最大の事業は間違いなく東大寺大仏開眼だと思うのですが。同行為はボランタリーで実施されたのでGNPには計測不可能なのです。


「自利とは利他をいふ」
利他を実践すればいつかは自分の利益になるではなく
「利他の実践がそのまま自分の幸せなのだ」と説いておいでです。
仏教は利他の実践を通して社会を良くするし、
自利の行為(悪行)は地獄に堕し、善行は(天国)昇る、と説きました。
 我が国が自利に没頭すればアジアアフリカ諸国を失望させるし、軽蔑されることでしょう。

ホルムズ海峡の海底に沈んでいる機雷を掃海すると言えば自衛隊の出動が認められると主張するのは自利の発想です。何しろ海峡封鎖されれば日本は超円安に陥るのです。一方海峡の周辺は政情不安定でイスラム諸国とアラブ諸国が一触即発の緊張関係にあります。全員が自利の行為に走っていれば、自衛隊の参加は日本の自衛の範疇に収まらず本格戦争に巻き込まれる危険も大きいでしょう。天皇に統帥権(軍隊指揮権)が在った時代でさえ、軍隊は独走して中国大陸の奥深く毛沢東を追い込みました。現在の様に自衛隊の指揮権が不明瞭な状態では自衛隊のシビリアンコントロールは覚束ないとおもうのです。
イスラム世界では日本に親しみを覚えてくれていた良いポジションだったものが、やっぱり日本も米英の一員だったのか失望をきたすことでしょう。
私は日本は自利の精神も解るが利他の精神こそ大切にしてきた国家であるといったポジションを大切にして。自利の文化の行き過ぎを是正する位置に居続けるべきだと思うのです。それが最澄の「自利とは利他を言う」事になると思うのです。少なくとも戦争リスクは避けられるでしょう。
かねてビルマ(ミャンマー)を見たいと思っていました。其処で乃南アサさんの「ミャンマー」を読みました、その文中に利他の行為を確認して清々しい気持ちになりました。
之南さんとお友達はミャンマーの市場を歩き回ります。そして運悪くスニーカーで牛の糞を踏んでしまいます。スニーカーは牛糞に汚れてしまいました。汚いし臭いし旅行のルンルン気分は消沈してしまいました。ところが市場で働いていた叔母さんが二人の難儀している様子を目ざとく見つけてスニーカーにくっ付いた牛糞を削ぎ落して洗ってくれたのでした。乃南さんらはお礼にサクマドロップをあげました。市場中の伯母さん達の頬がサクマドロップで膨らみました。牛糞を削ぎ落してスニーカーを洗ってくれた叔母さんは特段意識はされい些細な善意だったのでしょうがその行為が市場の伯母さん達にとってドロップを舐める結果になりました。この部分では無意識な善意が利他の行為になったのでした。
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乃南アサさんのミャンマー副題に失われたアジアのふるさと」と書いておいでですが私には「失いたくない日本の心」のように読めたのでした。私はアジアのふるさとの精神は最澄さんの自利・利他の世界観宗教観だと思います。
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ミャンマーのグラビア写真。市場には対面販売のお店が並んで牛が繋がれています。乃南さんらは牛糞を踏んで難儀してしまいましたがお店の伯母さんの善意で助かりました。
ところでミャンマーの表紙の写真を見て何か思い出しませんか。写真はミャンマーの少年托鉢僧です。私はこの顔は何処かで観た記憶があるおもいました。それは興福寺の阿修羅像です。
次回は興福寺の阿修羅像のモデルについて書いてみます。
阿修羅像は多分日本人が一番好きなお顔の仏像だと思います。時代は聖武天皇と光明皇后が活躍した時代です。阿修羅像は釈迦如来を守護する戦いの神様ですがそのお顔は憂愁を帯びた青年の顔です。そのお顔のモデルは誰だったのかロマンです。
日本の国は戦後一心に坂道を登って来ました。そろそろ峠のようです。これからは下り坂を転げ落ちるのではなく自利から利他の菩薩行に転じる意識が大切だと思います。日本人お利他の行為(例えばボランティアやОDA)が誤解されない様に配慮が必要です。私は世界にも稀な利他の国菩薩行の国だから、世界にも稀な平和憲法を持っている国でありたいと思うのです。創価学会の人達もそのように思っていると確信しているのですが・・・。


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