先日河童橋に行く際に上野で降りてバスに乗り換えました。バス停の横は国立西洋美術館です。バスを待つ間近代美術館の建物とロダン等の彫刻国を眺めました。紅葉とブロンズが良くマッチして居ました。近代美術館建物はフランクロイド代表作です。上野の建物の壁には”世界遺産にしよう!”垂れ幕がかかっています。先日は池袋の自由学園明日館を見学しました。目黒の庭園美術館旧朝香宮邸」はフランクロイドに次ぐ(アール・デコ様式の建物です。最近建物内部も見学できるようになったので行きたく思います。NHKの天気予報を見て神宮外苑が紅葉したら出かける事にしましょう。
これが日本の昭和モダニズム建築をリードしたフランクロイド(米国人)の設計した西洋美術館修学旅行生が集まっていました。
西洋美術館前庭の「ロダンの考える人」銀杏の黄葉が曳きたてていました。
これもロダンの作のカレーの市民、ロダンの明治維新の頃の作品です。
このバスが上野駅公園口から台東区野名所めぐりをする”メグリン”です100円で1日乗車券が300円です。このバスにも西洋美術館を世界遺産に垂れ幕していました。
日本の近代建築はジョサイア・コンドルに始まりました。
19世紀末列強は競って日本に通称開始を迫りました。筆頭は英国です。金融資本・ロスチャイルドは中国を席巻し、残された標的は日本でした。生麦事件の被害者であった英国は加害者の薩摩藩を攻撃します(薩英戦争/文久3年7月2日(1863年」同年には下関事件にも遭遇します。薩長両藩は攘夷の無謀さを身をもって知りましたし。英国も幕府を交渉の相手にせず薩長両藩を相手にする事を賢明と判断します。日英の接近は文久3年に始まったと言えましょう。維新政府は近代化のモデルを英国に仰ぎます。明治維新の欧化政策はとりもなおさず英国をモデルとしました。幸いなことに英国からは優秀な人物が派遣されました。その最たる人物がジョサイア・コンドル(銀行員の倅)でした。コンドルは鹿鳴館を建設する事が目的でしたが、工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)で教鞭をとり川鍋暁斎に師事して日本画を学びます(暁英)、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみ、趣味に生きた人でもあった。工部大学校からは辰野金吾(建築)高嶺譲吉(応用化学)片山東熊(迎賓館建築)曽禰 達蔵(建築三菱地所丸の内や慶応大学図書館設計)等が育ちます。また施工工事を担った清水満之助(清水建設の創業者)が育ちました。コンドルは当時の日本人、日本文化を敬愛していたことは幸いでした。日本人妻を娶り和服を着て日本舞踊を踊り畳の上で日本画を描く姿を見て多くの人が驚くと同時にコンドルを敬愛した事でしょう。
これは三菱地所丸の内にあった三菱1号館でコンドルの弟子曽禰 達蔵の作品でしたが丸の内再開発で昭和43年取り壊されました。慶応図書館にデザインが似ています。
そんなコンドルを川鍋暁斎は日記に描いています。
画鬼と呼ばれた川鍋暁斎の釈迦涅槃図。出典(川鍋暁斎の書画会思文閣)
川鍋暁斎の絵日記に描かれた書画会右下で必死に描いているのが暁斎です。出典は上と同じ
絵を描くコンドル(暁英)出典前記暁斎絵日記
ぴょばれたそんな英国人御気風を伝える人物がいます。「日本奥地紀行」を書いた「イザベラ バード」です。バードは英国ヨークシャーの牧師の娘に産まれました。幼児体験が牧歌的景色を好ませたのかも知れません。
日本人女性がヨークシャーや嵐が丘が好きなようにバードは陸奥の美しさを認め理想郷と激賞したのでした。バードは朝鮮も旅行しており「ソウルこそこの世で一番不潔な町」と非難しているのに比べて日本を偏愛しているようにも聞こえます。でも、日本女性の洋装を次のように否定している所を見ると批評家として一流の人物であり文化人類学者であったと思われます。
イザベラ・バードの描く日本奥地紀行の挿絵日光金谷ホテルの前身?
『日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである』。また「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、(『以下省略)、なおアイヌ人については「未開人のなかで最も獰猛」そうであるが、話すと明るい微笑にあふれると書いています。
コンドルとバードを見ていると日本は優れた人物に恵まれた僥倖を痛感します。
応援クリックお願いします。
↓