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英国人の贈り物(暁英とバード)

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先日河童橋に行く際に上野で降りてバスに乗り換えました。バス停の横は国立西洋美術館です。バスを待つ間近代美術館の建物とロダン等の彫刻国を眺めました。紅葉とブロンズが良くマッチして居ました。近代美術館建物はフランクロイド代表作です。上野の建物の壁には”世界遺産にしよう!”垂れ幕がかかっています。先日は池袋の自由学園明日館を見学しました。目黒の庭園美術館旧朝香宮邸」はフランクロイドに次ぐ(アール・デコ様式の建物です。最近建物内部も見学できるようになったので行きたく思います。NHKの天気予報を見て神宮外苑が紅葉したら出かける事にしましょう。
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これが日本の昭和モダニズム建築をリードしたフランクロイド(米国人)の設計した西洋美術館修学旅行生が集まっていました。
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西洋美術館前庭の「ロダンの考える人」銀杏の黄葉が曳きたてていました。
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これもロダンの作のカレーの市民、ロダンの明治維新の頃の作品です。
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このバスが上野駅公園口から台東区野名所めぐりをする”メグリン”です100円で1日乗車券が300円です。このバスにも西洋美術館を世界遺産に垂れ幕していました。

日本の近代建築はジョサイア・コンドルに始まりました。
19世紀末列強は競って日本に通称開始を迫りました。筆頭は英国です。金融資本・ロスチャイルドは中国を席巻し残された標的は日本でした。生麦事件の被害者であった英国は加害者の薩摩藩を攻撃します(薩英戦争/文久3年7月2日(1863年」同年には下関事件にも遭遇します。薩長両藩は攘夷の無謀さを身をもって知りましたし。英国も幕府を交渉の相手にせず薩長両藩を相手にする事を賢明と判断します。日英の接近は文久3年に始まったと言えましょう。維新政府は近代化のモデルを英国に仰ぎます。明治維新の欧化政策はとりもなおさず英国をモデルとしました。幸いなことに英国からは優秀な人物が派遣されました。その最たる人物がジョサイア・コンドル(銀行員の倅)でした。コンドルは鹿鳴館を建設する事が目的でしたが、工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)で教鞭をとり川鍋暁斎に師事して日本画を学びます(暁英)、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみ、趣味に生きた人でもあった。工部大学校からは辰野金吾(建築)高嶺譲吉(応用化学)片山東熊(迎賓館建築)曽禰 達蔵(建築三菱地所丸の内や慶応大学図書館設計)等が育ちます。また施工工事を担った清水満之助(清水建設の創業者)が育ちました。コンドルは当時の日本人、日本文化を敬愛していたことは幸いでした。日本人妻を娶り和服を着て日本舞踊を踊り畳の上で日本画を描く姿を見て多くの人が驚くと同時にコンドルを敬愛した事でしょう。
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これは三菱地所丸の内にあった三菱1号館でコンドルの弟子曽禰 達蔵の作品でしたが丸の内再開発で昭和43年取り壊されました。慶応図書館にデザインが似ています。

そんなコンドルを川鍋暁斎は日記に描いています。
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画鬼と呼ばれた川鍋暁斎の釈迦涅槃図。出典(川鍋暁斎の書画会思文閣)
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川鍋暁斎の絵日記に描かれた書画会右下で必死に描いているのが暁斎です。出典は上と同じ
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絵を描くコンドル(暁英)出典前記暁斎絵日記


ぴょばれたそんな英国人御気風を伝える人物がいます。「日本奥地紀行」を書いた「イザベラ バード」です。バードは英国ヨークシャーの牧師の娘に産まれました。幼児体験が牧歌的景色を好ませたのかも知れません。
日本人女性がヨークシャーや嵐が丘が好きなようにバードは陸奥の美しさを認め理想郷と激賞したのでした。バードは朝鮮も旅行しており「ソウルこそこの世で一番不潔な町」と非難しているのに比べて日本を偏愛しているようにも聞こえます。でも、日本女性の洋装を次のように否定している所を見ると批評家として一流の人物であり文化人類学者であったと思われます。
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イザベラ・バードの描く日本奥地紀行の挿絵日光金谷ホテルの前身?
『日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである』。また「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、(『以下省略)、なおアイヌ人については「未開人のなかで最も獰猛」そうであるが、話すと明るい微笑にあふれると書いています。
コンドルとバードを見ていると日本は優れた人物に恵まれた僥倖を痛感します。


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無性に飲みたい縄文珈琲

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野暮用があって千葉房総の白子海岸に出かけました。用事は10時過ぎには終えたのでしたが。朝が早かった事もあって珈琲が飲みたくなりました。そこでかねて調べおいた海岸に近いカフェ・ベーカリーのパンセに行きました。
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団栗も栃の実も同じブナ科の木の実です。良く水に晒して灰汁や苦みを取り除く事から食料になります。どちらも飢饉のときには大切な食糧になります救荒作物です。
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これが白子海岸中里のパンカフェのパンセです。
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落ち着いた室内にガンジス川等の写真が掲示されています。
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棚には団栗の実と雑穀が瓶に入れられていました。私はこの団栗を見て焙煎して縄文珈琲を飲ませてほしい思ったのでした


白木の洒落たお店です。木枠の窓からはテニスコートが眺められます。天井からは梟の夫婦が見下ろしています。
棚に目をやると団栗がボトルに詰まっています。
私はかねて縄文クッキーは食べていますので、次はどうしても縄文珈琲を飲みたいと思って居ました。
縄文珈琲は団栗を焙煎して沸かすのです。
私の知識では珈琲の樹も椎の木(団栗が実る)も照葉樹で同じ仲間だと思って居ました。だから、団栗も珈琲に焙煎できる筈なんです。
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珈琲も美味しいしパンも良かったのでしたが団栗の珈琲が飲みたくなると私は収まりません。
NHKの朝の連ドラ(ご馳走さん)で戦時中珈琲豆が無いのでタンポポの根を使っていました。あの時も”どうして団栗を使わないのか?不満でした。
そこで店主に訊きました。
”この団栗は珈琲に焙煎するの?”すると店主は不快そうに言い放ちます。
”珈琲は珈琲の豆を使うんだよ団栗なんか珈琲にならないよ!”
そこで私は持論を述べました。
”わたしの直感では珈琲の樹も椎樫の木も親類なので。団栗は屹度珈琲に似ていると思うのですよ。各地の縄文遺跡を巡る度に縄文クッキーと縄文珈琲を飲みたくて仕方ないのですよ・・・・。今度トライしてみませんか?”
店主と云っても私の倅程の年輩でしたが私の話は上の空で無心にパンを捏ねています。
ワイフはパンをアレコレ求めています。
私は
(自分は地縁があるので度々白子の中里に来るんで、是非縄文珈琲を阿成功させておいてよ・・・。」
依頼してお店を後にしました。
家に戻ってインターネットで縄文クッキー縄文珈琲を検索した処沢山の人が挑戦して居る事を知りました。とりわけ料理サイトのクックパッドには詳細が載っていました。ご同輩も観てください。
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これはクックパッドの団栗を焙煎して轢いたもの、ぜひとも飲んでみたいものです。出典ともhttp://cookpad.com/recipe/2411708

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自然に調和した館林美術館

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船越桂さんの彫刻展を観に館林の館林美術館に行きました。
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館林と云えば文福茶釜駅前で狸さんが迎えてくださいます。
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館林はマンホールの蓋も文福茶釜です。

私は館林には縁が深いのです。先ずは分福茶釜で有名な茂林寺さんが親戚であった事。そして実兄の赴任地が館林税務署であった事から何日も官舎を拠点に近隣を廻りました。
印象は冬はとてつもなく寒い処だな記憶でした。朝目覚めると顔がこわばっている感じがしました。加えて夏は暑いし。。雷が良く落ちる過酷な自然を実感する群馬県館林でした。お嬢様の雰囲気の残る兄嫁が気の毒に思えました
多々良川の川沿いに白鳥の飛来地として有名な多々良沼があります。
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白鳥の飛来する事で有名な多々良沼館林美術館はその近くにあり、自然との調和を第一義に造られました。「人間と自然との理想の関係を文福茶釜に見つけてその理念を形にした美術館でした。写真出典ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E3%80%85%E8%89%AF%E6%B2%BC

その湿原に2000年竣工したのが群馬県立館林美術館でした。設計したのは南青山の第一工房(高橋一代表)。美術館のテーマは「自然と人間」でした。多々良沼一帯は調節池として保存されていたのでしたが、洪水対策と併せて一帯を自然公園都市公園として再開発するその目玉が群馬県立館林美術館だったのでしょう。
イメージとすればパリの西北にプロバンスがあり第一次世界大戦に懲りた芸術家が芸術活動の拠点を田園地帯に移したことをイメージして。美術館を建設、美術館の目玉にポンポンを指名したのでしょう。
同美術館の常設がプロバンスの。牧歌的な風景の中で鑑賞できる美術館、ポンポンのプロバンスでのアトリエを併設しました。
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ポンポンのオブジェが出迎えてくれる館林美術館
建物の中と外との調和は日本建築の永遠のテーマですから館林美術館は赤松やプラタナスの小路を辿るエントランスから良い美術品に接する準備をしているようです。森の小路には彫刻が点々と設置されています。しかし、群馬県がコレクションしたポンポンの作品はポンポンの死後に鋳造したものが大半でそうした行為を、ポンポンが遺言で禁じていた事から問題となってしまいました。死後鋳造の模造品とは解っていても常設展示場のポンポンは動物のフォルムが単純化されていて温もりがあります。熊谷守一を彫刻にしたような作品が並んでいます。
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右側の堰堤の西側が多々良川でその下流「南)に多々良沼がある立地です。一体が長良川遊水地と同じ雨水のダム機能を持たされていると思われます。夏には白い蓮が咲き冬にはシベリアから白鳥が飛来する美しい田園です。茶色の丸い建物が常設展示場です。橋の下に枯れ蓮が見えます
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館林美術館の西側は田圃で刈り入れも終わり藁が積んでありました。白鳥は田圃の落穂を餌にしていることでしょう。
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館林と云えば文福茶釜に次いで有名なのが躑躅です。健気に?狂い咲きか戻り咲きか?咲いていました。

群馬県が何故ポンポンに着目したかと云えば、舘林は文福茶釜の茂林寺で茂林寺と云えば狸で狸と云えば腹太鼓でポンポンなんだそうです。安易な発想が狸に化かされたように死後模造品をコレクションしてしまったようです。
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ガラスをふんだんに使った美術館で温室の様な温かさでした。
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これがプロバンスのポンポンのアトリエを模して建てたアトリエこの日は室内を船越桂のアトリエにチェンジしてありました。手前の樹林は桂です此処に高砂百合が自生しているそうです。職員に木を確認したのでしたがそこまでは解らないと云う返事でした。
は美術館の建物の周囲は田圃です。田圃には点々と収穫を終えた藁が積み上げられていました。この田圃に散っている落穂も屹度白鳥の食べ物になっているのでしょう多々良川の堰堤に登れば北に日光の山脈が見渡せます。何れも冠雪して光り輝いて見えます。川面には真っ黒な水鳥が遊んでいます。アヒル程度の体型で黒い羽銀色の嘴屹度バンでしょう・期待の白鳥は多々良沼まで降りなければ観察できないようです。周囲の景色に調和した良い美術館です。次は蓮が咲いて桂が青葉の季節に来ましょう。
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アトリエから桂の樹林越に西を観る夕焼けを観たいものです。
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群馬県立館林美術館のエントランス玉石を敷いて池にした進入路は上野の法隆寺館(京都国立博物館や土門拳記念館を設計した丹下健三の弟子)を想わせます。
経緯は別にして群馬県立館林美術館素晴らしい美術館です、此処で船越桂氏の展覧会を見学しました明日は同氏の事を書きます。

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船越桂さんの彫刻

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戦後日本の彫刻界は二人の巨人がリードしました。一人が佐藤忠良でもう一人が船越保武でした。
佐藤はロダンを想わせるギリシャ風の伝統的な彫刻を得意とし、て船越はどちらかと云えば静謐で崇高な精神世界の表現を得意にしました。佐藤が動的でギリシャ・ローマ風なのに対し船越は静的で仏像を想わせました。
対照的な二人でしたがの出発点は終戦であって共通して居ました。佐藤忠良は宮城県に生まれ、少年期を北海道夕張で過ごしました。ロダン、マイヨール、デスピオ等新しい生命主義の作品に惹かれて彫刻家を志し、東京美術学校彫刻科に進みます。卒業の年に、本郷新、柳原義達、舟越保武らととも新制作派協会彫刻部を創立しました。戦争によって一時制作を中断されますが、シベリア抑留から帰還直後『群馬の人』を発表しました。長い間イメージを暖めていたというこの頭像は、日本人固有の体質を表現した秀作として多くの批評家の賛辞を得ました。佐藤の彫像は明治期に西洋から移入された近代美術の手法を、初めて日本の風土の中に消化したモニュメントと評価されたのでした。
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佐藤忠良の出世作「群馬の人」骨格のしっかりした縄文人の様な風貌は伝統的なギリシャ彫刻の技法で日本人を彫刻したもので群馬人萩原朔太郎をイメージさせました。佐藤忠良の作品は日生劇場前の舗道に展示されています。日本生命のメセナ活動の一つです。
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舟越 保武 の「聖セシリア」諫早石(砂岩)の温かさを活かした聖人の美しさ崇高さを遺憾なく表現している保武氏の作品中私が最も好きな作品です。単身赴任中博多福岡美術館で観ました。代表作「原の城」を含めて岩手県立美術館に所蔵されています。

一方船越保武は岩手岩手県二戸郡一戸町に生まれ盛岡中学校に進学します。『ロダンの言葉』(高村光太郎訳)を読んで彫刻家を志しました。東京美術学校彫刻科塑像部で佐藤忠良と知己になります。忠良とは終生の友情を培うことになり、二人は戦後の日本彫刻界を牽引して行きます。卒業後、独学で石彫をはじめましたが1950年、長男が生まれて間もなく急死したのを機に、自らも洗礼を受けてカトリックに帰依、キリスト教やキリシタン受難をの受難を題材とした制作が増えます。数多くの作品中長崎の原爆慰霊塔に近い26聖人像は戦争によって数多くの肉親を失った日本人の喪失感を埋めて平和国家として進もうとした戦後のモニュメントになりました。もう一つの田沢湖のたつこ像は湖に映った姿が山の姫神を思わせます。
船越保武は6人の子供に恵まれました。長男を失い、次男には桂三男には直木と名付けました。
盛岡で桂と云えば古刹天台寺の観音菩薩像でしょう。そして直木とは槇の事でしょう。どちらも神木の木です。

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此方が岩手の天台寺観音像桂の鉈彫りとして有名です。
二人の息子は父と同じ彫刻家を志します。違いがあるとすれば父が素材を石にしたのに対し子供達は素材を木にしたことくらいです。
それにしても大彫刻家の息子が彫刻家になるのは大変な覚悟が必要な事でしょう。
誰しもが船越保武の息子としてみるからです。作品は保武氏の作品と比較して観られます。息子たちのライバルは初めから偉大な保武氏なのですから大変です。美人の娘が美人である事び歌姫の娘が美声である事は稀です。神は小賢しい人間の「優生保護法」を叱責するように親は天才子は凡庸に産まれさせます。努力の尊さを知らしめる為でした。
保武氏の名声が桂氏の方向を決めてしまいます。
函館のトラピスチヌ修道院が聖母子像を保武氏に製作依頼してきたのでした。
仲介した人がこう述べます。
「保武氏は素材を石にされておいでです。でもどうしても木を素材にしたいのでしたら御子息に桂氏もおいでです。」
そんな経緯があって桂氏の処女作がに架る聖母子像になったのでした(出典」日本テレビブラブラ美術館)。
世界中に聖母子像は数多くあります。マリア様が幼いキリストを抱き上げている像です。
桂氏は伝統的な仏像製作の技法に従って製作されます。マリア様の眼は玉眼陥入によって
そして。マリア像を彫りあげて次にキリスト像を彫りあげ抱かせました。マリア様の両の腕の間にスッポリキリスト様が収まる空間を用意しました。仏像での寄木細工の技法でした。
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函館のトラピスチヌ修道院の依頼で聖母子像を彫像したのが船越桂氏の原点でした。その偶然が静謐なキリスト教世界の所像を彫らせ人間の内面を見詰めて原罪への旅を進めさせたのでした
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トラピスチヌ修道院の壁に収められた聖母子像出典(日本テレビブラブラ美術館)
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船越桂氏の原点になったトラピスチヌ修道院の聖母子像『出典は画面上に映っています)



聖母子像の製作は日常生活での親子の関係を想わせたのでしょう。岩手で親子と云えば自ずと姫神『山の神)と子供の関係に関心が移ります。遠野物語(柳田国男)の『おしら様』も山の神で豊穣を司る姫神です。
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陸奥で一般的なおしら様『出典みずkじしげる日本妖怪図鑑』
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吾妻渓谷の慈母観音像。聖母子像を思わせます。
桂氏は聖母子像製作の過程で女性の腕に抱えた親子像に閃きを感じ親子像を制作更に山の神や森に関心が広がります。
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 親子像
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母親の体は森に変わっています。森は神秘であり豊穣な処ですから・・・・・。陸奥の人々のルーツは鬱蒼と桂やブナが生い茂った森です。
自然に「優しさ酷さが」あるように人間にも「善悪・正邪」の二面性があります。桂氏の関心はこの逆転する二面性に関心が集中します。それが「私の内なるスフィンクス」というテーマになりました。
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ギリシャ神話におけるスフィンクスは、ライオンの身体、美しい人間の女性の顔と乳房のある胸、鷲の翼を持つ怪物でしたで子供をさらう怪物であり、また、戦いにおいての死を見守る存在でありました。神話では旅人に「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か」という謎かけをして答えられなければ者を食べていた。(答えは人間でした)人間の生死と人間の二面性に係る怪物だったのでした。
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戦争を観るスフィンクス。右の像は悲しい顔をして見下ろしています。左の像は意識して眼をそらしているかのようです。どちらの像の眼も玉眼で上半身は瑞々しい乳房と柔らかな肌の感触がありますでも右の像は股間に男性が刻まれています。
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人間の内なる二面性は狂気の世界大戦を二度も行った人間の愚かさを痛感して始まった現代人の原罪でありましょう。この狂気を制御する倫理か宗教を知らない限り人間は滅亡に進行する事でしょう。
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此方は飛騨千光寺の両面宿儺像円空作二面性と聞くとこの像を想い出します。
人間の内なる二面性の追求は実存哲学者のキュリケゴールの「死に至る病」を思わせます。哲学は難解ですから私の様な凡人は船越桂氏の行き先を見守る事にしたいと思います。
父保武氏の高みから出発して、桂氏はドンドン人間の原点に迫っているようです。将来や未来に向かうのではなく古代や先史時代に向かっているように見えます。人間が立つようになって最初に使った道具は石器で次は木器そして土器を発明して食料の範囲が大きく広がりました。船越保武氏が石を素材に彫刻をしたように桂氏は木を素材に彫刻をされています。保武氏が戦争を見詰めて平和やキリスト教精神の高みに駆け上ったのに対し息子の桂氏は人間の原罪を見据えて古代に逆走しようとされている様に見えます。
先の大戦で多くの人は立ち止まって黙してしまいました。結果は悲惨な事実に遭遇したのでした。立ち止まることなく時代の先に向かって突っ走るのか昔に向かって行くのかベクトルは二つしかありません。
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月の降る森、青い修道院の上に豊かな女体が立っています。月は青い森を意味しているのか臨月を意味しているのか解りませんが・・・命が始まりである事に間違いありません。そして人類は森で産まれた事も今では常識です。

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この意匠(臨月を想わせる大きなお腹、後ろの手)は偶然に思いついた、と云われておいででしたが。総ての始まりはこの大きなお腹に宿った命である事。そして命は一人では出来ず正反する男女の交わりで生まれる事は明らかです。
充実した桂氏の業績を観て、多少疲れました。
私は監視員に訊いてみました
「一日中怪物のようなスフィンクスに囲まれて気が狂いそうになりませんか?」
そうしたら件の監視員はこう答えました。
「私達は専門ですから一日中観ていても大丈夫です。それよりお客さん疲れたようで大丈夫ですか?」

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検番のあった街館林

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群馬県立館林美術館で船越桂氏の彫刻を鑑賞し館林駅前に戻りました。陽も大分傾きましたが、まだ夕暮れまで一時あるようですし、もう少し館林を満喫したいと思いました。観れば液横の露地に「歴史の道」の表示板が立っています。案内板には歴史の道のポイントが表示されています。インパクトのあった建物が「館林検番」です。私はワイフと共に石畳の細道を進みました。角に団子屋があります。草餅団子を求めて出かけます。小腹が空いたらお団子を食べる作戦です。天神様の前に出ます。細道は一段と細くなり。板塀のうえには熟柿がたわわに実っています。私達が通るとムクドリが一斉に飛び立ちました。今年は林檎は充分楽しんだのですが、柿はまだ食べ残した感があります。ムクドリさんも柿を一気に食べ尽くさないで楽しんだら良さそうなものです。
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これが歴史の道の案内板
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天神様脇の露地の上の熟柿ムクドリが群れていたのですがレンズを向けると一斉に飛び去ってしまいました。
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検番に近い外池商店(酒屋さん)しっかりした出桁作り(出し桁作り)の商家でした。

観光案内所で貰った地図を片手に露地を右左に折れて古民家を探しながら巡ります。屹度半世紀前はこの民家から芸子さんがいそいそと検番に向かった事でしょう。ワイフは木戸の小粋な意匠を観ながら嬉しそうです。
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これが旧二葉検番組合事務所唐破のデザインは極楽の楽しみを提供してくれそうです。
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これが玄関ガラス戸に顔を押しつけて覘いた上り框右に小部屋があってこれからお座敷に向かう芸子さんを確認して(お座敷を確認する)火打石をカチッと叩いて送った事でしょう。強面の女将さんと小股が切れてうなじの綺麗なお姉さんがいそいそと出かけていたことでしょう。
ところで館林に何で検番が在ったのか疑問です。
今でも検番が力を持っている町と云えば金沢に博多に大阪位でしょう。神奈川県では横浜にはもうありません。熱海や伊東にはあるでしょうが静岡県です。
湯本(箱根)には残っているだろう・・・・!検索すればありました『八津女』やつめ という置屋さんがフェイスブックを載せていました。https://th-th.facebook.com/hakone.yatsume9010/
館林の検番は館林がモスリン(綿糸や羊毛を毛糸を 平織りにした薄地の織物のこと、その ふんわりとした風合が特長で襦袢や肌着に好まれました)で栄えた時代が在ったからでした。
モスリン事務所は明治時代の疑似洋風建築で一度は訪れたかったのでしたが私の脚ではもう2キロ歩く事は不可能と判断し検番前から折り返して駅に向かいました。
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これが館林にあった旧上毛モスリン事務所建物明治43年に竣工した疑似洋風建築ですが尺貫法に基づいて建てられているそうです。竹久夢二の描く女性の襦袢や子供のリンズが館林の工場で折られていたと思うと嬉しくなります。モスリンは次に詳しいです。http://matome.naver.jp/odai/2142387386645205501/2142390919593793403
モスリンが人気で二葉検番が賑わった時代に想いを馳せて私達は駅に向かいました。駅前大通りの角に青竜神社が祀られていました。小さな神社ですが井戸は立派で龍の口から清水が吐き出されています。夏には此処で一服する人が多い事でしょう。案内を観ると館林宰相綱吉(5代将軍徳川綱吉)と桂昌院の案内が為されていました。そうです。桂昌院と云えば江戸のシンデレラガール「八百屋のお玉」の事です。
京都の北に今宮神社があります。桂昌院(お玉)はこの神社の近くで八百屋の娘として生まれ、なんと天下の将軍家光と結ばれた日本のシンデレラです。
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 桂昌院の図/京都善峯寺所蔵ウキペディア
家光には成人した3人の男子のうち、長男・家綱が次の4代将軍となり、三男・綱重は甲府藩主に4男・綱吉は館林藩主にそれぞれ封じられてしまいます。両藩はともに25万石を領し、甲府宰相・館林宰相と呼ばれて御三家にに次ぐ高い家格を持っていました元来4代将軍家綱は病弱であった事から両藩主は次の将軍の控えとして見らsれていました。実際その家綱が子をなさずに死ぬと、甲府綱重は早世していたので、5代将軍となったのは館林綱吉だった。そしてその綱吉も男子なく死ぬと、6代将軍となったのは綱重の子である甲府綱豊(家宣)だったのでした。その綱吉の生母が桂昌院だったわけで。シンデレラガールお玉は八百屋の娘から将軍の愛妾になり更に5代将軍の生母に駆け上がった訳で正に”玉の輿”に乗った大出世だったのでした。
そんな次第で京都の今宮神社は玉の輿に乗りたい良くボケ娘の参詣が止みません。
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これが青竜神社です。お玉(桂昌院)の夢に美しい娘が出てきて青竜に化した(青竜権現)その上其処から清水が湧き出した事からその場所(福寿院境内)に神社を建立して寄進した事に始まります。
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これは東武館林駅の東にある龍の井広場日本の銀杏の木の間に井戸があります。此処は(福寿院/廃寺)の境内だった場所で(福寿院には幾つも井戸が在ったのでしょう。私達はこの井戸から時計回りで元福寿院西端の青竜の井戸を廻って戻ってきたことになります。
今回は時間と体力の制限から草餅団子を駅のベンチで食べて帰路に就きました。館林は奥行きの深い街のようです今回は正田家の文化財は観ていません。車窓から日清製粉の工場や正田醤油の工場を眺めただけで、人気のうどんも未賞味でした又出直して来いと云う事でしょう。館林は体を鍛えて再訪したい街です。

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白子の樹齢800年の羅漢槇

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長崎26聖人像を彫刻した船越保武氏は次男の名を桂と三男を直木とられました。余程木に愛着がおありだったのでしょう。桂は木偏に「佳い」と書きます。直木と名付ける時先ず「槇」の名を想われた事でしょう木偏に直と書いて槇だからです。槇はその姿も一番ですし、樹の香りや肌触りも最高です槇の湯風呂は最高で滅多に浸かれません。鎌倉の浄智寺のお庭には高野槇の大木が聳えています孤高な姿は弘法太子を見習えと云っているようです。
一般に観られる槇は犬槇(いぬまき)で庭木や垣根に使われます。犬槇の葉が密生しているのが羅漢槇です。名前からしても羅漢さんのようなの中国的な槇の意味でしょう。箱根湯本の早雲寺の北条早雲の墓地には巨大な犬槇が自生していて今頃は地面が槇の実で覆われていることでしょう。

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鎌倉浄智寺の高野槇以前次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47227679.html
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これが箱根湯本の早雲寺の犬槇今頃は墓地全体に実を撒き散らします。槇の実は赤い実と青い実がお団子のように付いています。
關東では立派な屋敷には羅漢槇や高野槇をシンボルにして垣根を犬槇で囲うのが一般的です。槇の木は手入れが大変でお屋敷を守るには大変な負担になります。
千葉県は都の後背地ですから植木屋さんは競って槇の木を植えています。
千葉と云っても房総の白子でも槇の木は大切にされています。
白子で用事を済ませて食事する事にしました。
久しぶりに槇の木亭(http://tabelog.com/chiba/A1205/A120504/12004205/」に行く事にしました。
槇の木亭なネーミングの由来になった樹齢800年県の天然記念物の羅漢槇があるのです。勿論周囲は犬槇の垣根が囲っています。丁寧に刈り込んだ槇の垣根は正装の髪型のように改まった感じがして良いものです。
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これが千葉白子町の槇の木亭のシンボル樹齢800年と云われる羅漢槇奥に隠れいているのがオーナーの屋敷です。


羅漢槇は相変わらず良く手入れされています。この秋に刈りこんだのでしょう。強く刈り込まれた枝先には新芽が伸びています。新芽は鶯色で羅漢槇の古い葉は濃い緑色です。緑のコントラストが鮮やかです。
でも手入れが為されていることは槇の木亭の運営が順調な事の証でしょう。
喜ばしい事です。店主は初代槇の木亭のお孫さんで前回もお店に出ていましたしっかり者で女将さん姿も板についています。
羅漢槇の根元には句碑が立っていました。
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羅漢槙 泰然として 是に在り根    (富本憲吉)

富本憲吉と云えば奈良の生駒に窯を持っていた明治の陶器人です。
琳派風の陶器を復興しました。第一次世界大戦後産業革命によって大量生産された製品の味気なさを反省して生活と芸術を一致させようとし運動(モリスがリーダー)が盛んになります折しも我が国は大正デモクラシーでバーナードリーチが来日し柳宗悦等と共に民芸運動をおこします。千葉県我孫子の柳宗悦邸内に窯が 築かれ、そこで河合寛次郎濱田庄司らと共に富本憲吉が揃います。でしたから富本憲吉が白子まで足を延ばした事情は想像できることです。羅漢槇の泰然とした姿は屹度富本憲吉の自負心と通じるものがったのでしょう。柳が指導した民芸運動はモリスの主張したアール・デコ運動の日本版であったようです。フランスでアール・デコと呼ばれた生活雑器は日本人が伝統の民芸を見直す気運になりました。
富本憲吉は人物であった事もあり日本民芸館の第二代の館長になって日本の民芸運動を指導します。
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色絵四弁花更紗模様 六角飾筥 かざりばこ1945年 奈良県立美術館/琳派風の名作です重文出典同美術館のホームページhttp://www.pref.nara.jp/25786.htm


女将さんの話では。東京で事業を成功したおじい様が白子に来てこの羅漢槇を一目見て見入られてしまい槇の木の一帯を買収して屋敷を構えて事業を起こしたのだそうです。
その時の心構えを富士山に託した句が屋敷に立っていました。
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富士は天の盛り塩不退転   とした初代槇の木亭の句碑
ところで肝心のお味ですが。初代はアジア風ハワイ風がお好きだったそうで。アジアンテーストの民家を模して新築し、割烹料理活魚料理は母屋の近くに和風で建てられています。
白子は茂原の生活圏ですが肝心の茂原も最近は閑散としています。レストラン業も楽ではないと思うのですが賑わっているようです。女将の健康が続く限り大丈夫でしょう。

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槇の木亭の内部
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槇の木亭の煮込みハンバーグ定食1200円ボリューム充分ルーが美味しかったです
お庭には季節遅れの赤蜻蛉が木枯しに逆らって泳いでいました。
色々な赤蜻蛉が居て興趣が尽きないものです。
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満天星の枝先に止まった赤蜻蛉満天星は既に蕾を膨らませていました。
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何度も危険な目に遭遇して翅も傷んだ赤蜻蛉これで木枯しに向かって飛ぶのは大変です。
庭もお値段の内、グルっとお庭を鑑賞して改めて羅漢槇の根元を観れば。良い土がお布団の様に敷かれて羅漢槇の根元を覆っています。この分なら1000年も長生きするのは太鼓判でしょう・・・。
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羅漢槇の根元の土はフカフカです。これなら大丈夫です。

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飢饉の記憶

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今ではもう忘れられたドイツの社会学者エンゲルスですがエンゲル係数と云えば高校で教わりました。家計に占める飲食費の割合です。食費は生命を維持することから節約する事は困難な訳で、エンゲル係数が高いほど生活水準は低いとされます/エンゲルスの法則。戦後はエンゲル係数が50%を超えていたものがその後の経済成長に伴ってほぼ一貫してエンゲル係数は低下して来たものの近年上昇が続いて韓国をも下回る(エンゲル係数は高い)水準になっています。

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日経新聞電子版によるエンゲル係数の推移、近年エンゲル係数が上昇し生活水準が悪化してきている事を示しています。
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各国別エンゲル係数日本はシンガポールや米国など先進国に遥かに置き去られ中進国にランクされています。出典等は注記に記されています。

  
【飢餓につ着いて】
最近、「狼の護符」を読みました。昭和30年代までは今の多摩ニュータウンの田園には御岳信仰が盛んで太占(ふとまた/古代の占い鹿等の大腿骨を焼いて其処に生じた割れ目で何を何時頃植えたら良いか占う青梅御岳神社ホームページhttp://musashimitakejinja.jp/jinja-hp_025.htm)が実施されていたことを知りました。
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これは信貴山縁起絵巻です。信貴山中興の祖「命蓮」の神通力で米俵が宙を飛んで山崎長者の蔵から信貴山に逃げ込んだ貧者の元に飛んできた話で今風に云えば「打ち壊し」でしょう

古代から近世までズット飢饉は最も恐ろしい事でした。だから”何を何時種蒔きすれば飢餓しなくて済むのか?”は最大関心事でした。間違えれば飢餓に陥り人が人を喰う惨状が露呈されます。”祭りごと”は庶民が餓えない様にすることであったのでしょう。古事記には仁徳天皇が屋敷(御所)を修築しないで3年の間税を賦課しなかったそうです・・・民の竈から煙が立つのを確認して屋敷の修復をしました。股天平時代には山の上憶良(地方官吏)による貧窮問答歌も歌われました。
【飢饉回避こそが仁政である事】
偶然かも知れませんが江戸時代も仁徳天皇の故事と同じで、3年間隔で飢饉になったのだそうです。
私は4年ほど前山形の湯殿山に即身仏を拝観に出かけました。寒河江川に沿った50里街道には「義民の碑」や「飢饉供養碑」が立っています。
この辺りでは再三飢饉が発生して人が人を喰う惨状が現出したようです。
即身仏を理解するためにはこうした飢饉の跡を確認することが大事だと思ったのでした。
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湯殿山山麓の中蓮寺の即身仏鉄門海上人。森敦さんの月山(第70回芥川賞(昭和48年)はこの即身仏を素材にされました。今年もカメムシが発生してどぶろくを作っていることでしょう。鉄門海上人は田畑を開墾し50里街道を整備した社会事業家でしたが最期は即身仏になって逝ったのでした。
菅江真澄は、天明の飢饉で人口が半減した津軽藩から仙台まで引き返したが、再び北上し、蝦夷地4年・下北2年・津軽4年の後、深浦から船で送られて秋田に落ち着きます更に東北各地を旅して記録を残し、1829年に角館に没します。記録には飢餓に窮した人は先ず家畜を食べて次には身内を殺して食べたと記しています。東北では冷夏になる判断を誤れば米が不作になり、その対策として冷害に強い稗や蕎麦等の雑穀や里芋などの野菜を育てておくことが賢明だったのでしょう。政治家はそうした判断を適切に実施する事が求められたのでした。
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これが太占(ふとまた)です鹿の肩甲骨を焼いて出来た裂け目で神意を判断します。裂け目で米作の吉兆の他雑穀を撒く時期などを占いました。出典(狼の護符)
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『飢饉 /飢えと食の日本史』(菊池勇夫 集英社)のに『天保荒侵伝』/国会図書館」の挿絵人間の腕を喰っている者鼻をツマミながら躊躇している者は罪の意識にさいなまれているからでしょうか?菅江真澄は地道にこうした言い伝えを書きとどめて「こうは成りたくないし為政者はこうならないように経世済民に勤めなくてはいけない」言いたかったのでした。
【修羅と羅刹】
幕末維新になっても飢饉が多発したようです。維新政府は田畑の売買も自由にしていました。昭和5年(1930)から昭和9年にかけて東北地方は「やませ」と呼ばれた冷害に遭遇しました。それは自然災害だったのでしたが。第一次世界大戦後のロシア革命によって世界的に食料不足の不安感が高まります。すると我が国内では米の買い占めが発生します。これが昭和東北大飢饉でした。ロシアの革命思想は日本にも伝播して居ました。
東北の飢饉に際して富山で打ち壊し(米騒動)が勃発すると全国に波及します。東北の小作人は故国を見捨てて満州の開拓に駆り出されます。
飢饉の不安は第二次世界大戦の背景となったのでした。
今エンゲル係数は高止まりして貧富の差が社会不安を大きくしています。
更に今次のA、T、T、です。食料自給率は世界最低水準になる事でしょう。
食料の海外依存率は一層高まることでしょう。第二次世界大戦直後の日本人は我慢強かったのですが今は違います。誰もが食べたいコシヒカリは牛様が食べ人間はパラパラの外米や黄色い古米を食べろという事に我慢できなくなるかもしれません。食料の国内自給率を低くすることは飢饉の対応力を削ぐ事になります。
中世の絵巻物に地獄草子や餓鬼草子があります。どちらも飢饉に瀕して人間のとった様相を絵にしたものでしょう。地獄は飢餓に瀕した様相で飢餓の恐怖は戦争を引き起こします。戦争を修羅と呼び人が人を喰う様相を羅刹(らせつ)と呼び恐れたのでした。政治は修羅や羅刹を遠ざけて万人が幸せな生活をエンジョイできるようにすべきものです。
【軽減税率の評価】
新聞紙上で観る限り公明党の主張「軽減税率」は認められそうです。
公明党が創価学会を母体にした組織である限り軽減税率の看板は外せないでしょう。次の関心事は食は命の糧だから軽減税率が適用されるのならば知は文化の糧だから新聞や雑誌にも軽減税率を適用すべきだ・・・・そんな主張でしょう。新聞や雑誌と云っても様々です。何処で線引きをするか、議論も起きる事でしょう当時と同水準だという。
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読売新聞、社説では飽き足らないのかインテリを登場させ新聞書籍に軽減税率適用のキャンペーンを続けています。



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南部坂の風景

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船越桂氏の彫刻を観たらお父様の船越保武さんの作品を観たくなりワイフを誘って麻布の有栖川公園に出かけました。この街には苦い思い出があります。と云うのは此処に私の勤めた長銀の迎賓館が在ったのです。
長銀破たんの遠因はこの街に迎賓館を建立した頃に既に目立っていたのでした。当時世情は既にバブルと指摘され株価も見る見る4万円台に迫っていました。迎賓館に向かう社用車の室内で常務はご機嫌で居られました。”今日も株価が上昇したので銀行の含み益が2兆円、自己資本に匹敵する含み益が出来たことになりました。米国風の自己資本比率は倍増したことになります。接待会場を自分で作れば接待費を外部流出しなくて済みますし、お座敷にお招きした気持にもなれます。迎賓館を建てた気の緩みは内幸町に本店を建築し、果ては系列ノンバンクのバブル融資を産み本丸の転覆を誘導したのだと思います。
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有栖川記念公園は有栖川野宮威仁親王のお屋敷が昭和9年に一般開放されてできた公園です
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有栖川公園の池撮影日は12月1日でしたから今週末は紅葉が一層進んだことでしょう。
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有栖川公園は森が深く都心でありながら野鳥が棲んでいる森なのです。
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此方は浅倉響子さんの作品「新聞少年像僕は少年新聞や、軽くしごけば新聞のインキがプン匂います大事に抱えて走る時マラソン選手のようでしょう・・・。”
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此方が船越保武さんの「笛を吹く少年像」笛を吹く少年と云えばマネの横笛を吹く少年を思い出します。船越さんは少年と云うより青年の姿です。夭折した長男の冥福を祈ったものでしょうか?盛岡で生まれ逝った長男でしたから、此処南部藩のしもやしきが相応しかったのでしょう。
麻布は坂の多い街です。広尾の駅から南部坂に向かって坂を登れば有栖川公園の入り口に就き当ります。
有栖川公園は江戸時代盛岡南部藩の下屋敷でした。明治29年(1896年)有栖川野宮威仁親王の新邸用地になり昭和9年(1934)に東京都に下賜され記念公園として一般開放されたのでした。
南部坂には播州浅野家の下屋敷も在ったのでした。、元禄15年1702年12月14日赤穂浪士は吉良邸に討ち入ります。その前夜は大雪だったそうです。大石内蔵助は主君浅野内匠頭の未亡人瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台として有名です。中心蔵のサビの名場面です。明日未明の討ち入り決行を伝え、同士の連判状を内匠頭の霊前に供えるのが目的でしたが、吉良の密偵の影にそれもならず、「東下りの旅日記」と偽って連判状を霊前に供えて、と断腸の思いで偽りを伝えて大石は南部坂を下って行きました。怒りに席を立つ未亡人でしたが、降りしきる雪に今生の思いを大石の背中を見送ります。やがて討ち入り成功の報を受けて、大石の志を悟り短慮を悔いる未亡人。討ち入りの場面を曳きたてるサビの名場面でした。恐らくここを飛ばして忠臣蔵という物語は成り立たないだろうと思えるほどの完成された情景でありました。
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右側が有栖川記念公園です。南部坂を挟んで南側の黒い建物がドイツ大使館です。南部坂は急な坂で半身麻痺の私にはハードでした。未だ3時なのでしたが秋の日はつるべ落としでもう夕闇が迫っていました。

  南部坂は急な坂です。
私は転んだらあ”一巻のお終い”ゆっくりゆっくり坂を下ります。乳母車の親子が私を追い抜いて行きます。
南部坂の西側はドイツ大使館です。コンクリートの擁壁にドイツ大使館のメッセージが描かれています。
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急な南部坂を乳母車を引いた親子が追い越して行きました。ドイツ大使館の壁には大使館のメッセージが丁寧に描かれていました。
古典学派の作曲家大学文化的なメッセージが大半です。そしてベルリンの壁崩壊の事件が描かれています。
足元を気配りしながら壁絵を観ながら坂を下ります。
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古典派作曲家の壁絵。そう言えばドイツの文化的貢献の第一は音楽でしょう。納得です。
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次は大学です。日本は医学工作機械を始め社会学などもドイツの恩恵に浴してきました。この壁絵も納得です。
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次の壁絵はベルリンの壁崩壊です。これで冷戦は終止符を打ち地球戦争のリスクは減少し北は解放されました。
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最期の壁絵は自然と文化でした。美しい自然に調和した文化其れは日本のテーマでもあります。
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これは大使館が余白として残した壁でしょう。落書きで汚されていました。「悪貨は良貨を駆逐する」グレシャムの法則。文化も雑な文化が凌駕するようです。油断は禁物です。

坂を下ればナチュラルハウスと云うスーパーがあります。外交官やその家族を得意とするような品揃えです。歩き疲れた私達はこのスーパーの人隅にある31アイスクリームに入りました。青い目のお嬢さんが私達を見つけて”自分もアイスが食べたいよ”お母さんにおねだりします。青い目の女の子は何故あんなに可愛いのか不思議に思いました。
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31アイスクリームで一休みして南部坂を後にしました。


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朝香邸新館の妙

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12月1日東京の紅葉を観たいと思って白金の東京都庭園美術館に出かけました。前回見学したのは10年前当時は朝香邸新館(プリンスホテルが使用していた)に耐震性問題が発生して建て直しの最中でした。従ってお庭を見学庭に配置された彫刻やオブジェを観て帰りました。今年の春朝香邸旧館が重文指定を受け一般公開が始まっていましたので来たい来たいと思って居ました。しかし日本庭園のお茶室等も重文の指定を受けたようで。日本庭園は工事中でした。
私達は余程朝香邸とは縁遠いのかも知れません。工事の進捗状況を見れば来春の桜の季節には庭も建物も全部心行くまで鑑賞できるかもしれません。
【朝香の宮邸の重要文化財評価の根拠】
朝香宮(あさかのみや)は、明治後期、久邇宮朝彦親王の第8皇子である鳩彦王(やすひこおう)が創設した宮家でした。鳩彦王は明治天皇のの第8皇女充子(のぶ子)内親王と結婚,陸軍大学校を経て大正11年(1922年)フランスに留学しました。当時のフランスはシトロエンが建築したエッフェル塔をシンボルにしたパリ万国博覧会 (1925年)が開催されていました。総じて云えば産業革命の成果として量産された粗悪な生活雑貨に対する批判から、精巧で官能的な装飾芸術やデザインが評価されていました。そんな装飾的なデザインをアール・デコ(Art Deco)というと言い表しました。
青年鳩彦王はアール・デコの虜になったものと思われます。鳩彦王は日本に帰国するとフランス風のアール・デコで装飾された自邸を建築したのでした。
朝香の宮ご家族は皇室離脱された1947年までこの白金台に住まわれました。その後は吉田茂の首相公邸になり(1954年まで)迎賓館として利用されていましたが1981年赤坂離宮が整備され離宮が迎賓館として利用されることになると1983年東京都に移され庭園美術館として一般公開されたのでした。そして今年我国を代表するアール・デコ建築である事が評価され重要文化財の指定を受けたのでした。
アールデコが装飾装身具に秀でていた伝統からでしょう。今次はオットー・クランツリの作品を展示して居ました。
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洋風庭園から見た朝香邸の旧館(重要文化財)
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朝香邸玄関のモザイクタイル(アンリ・ルバン)とガラスの扉(ルネ・ラリック」有翼の女性像は繊細で美しいのですが惜しい事に罅が入ってししまっていました。


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当日はオットー・クランツリのアクセサリーを展示して居ました。年明けはガレです
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二階から自然光を取り入れるために装飾硝子を嵌めていました。

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居間の段防具の覆いまでがアール・デコで飾られていました
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1階から二階への階段の照明。落ち着いた色調で統一されていました
ところで私が感心したのは新館の建物です。
旧館は宮内庁の匠が丹精込めて建築したのですから感服する出来栄えであるのは当然です。難しいのは新館の設計です。旧館の文化的価値を損なわず、できればその輝きを増して欲しいものです。旧館は屋敷の主人の好みを満足させれば良いのですしお金は自由だったでしょう。設計も建築も易しかったと思います。ところが新館はそうは言えません。旧館の輝きを増したうえで美術館としての機能を補足しなければなりません。こんな難しい仕事を受け持つ人は凡人ではありません。私が感心したのは旧館から新館への通路です。ガラスの通路になっていました。ガラスを通して差し込む光が壁や床に文様を落としています。時間によってはプリズム効果で虹が出るのかも知れません。旧館の落ち着いた上品な雰囲気を損なわずに新館の展示場に誘導してくれます。新館には展示場とトイレや喫茶店ミュージアムショップが用意されていました。
杉本博司氏のアドバイスによって久米設計事務所がデザインしたのでした。
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手前が旧館向こうが新館通路をガラスが囲っています。三保谷硝子のガラスが両者を繋いでいました。
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これが新館です。喫茶室が見えます。
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これは新館のミュージアムショップです。クランツのアクセサリーが売られていました。
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これは洗面所。トイレも良かったです。
今週末が紅葉も最高でしょう。

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紅葉の箱根登山鉄道の素晴らしさ

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テレビで横浜三溪園の紅葉も見頃になった、報道していました。
私は今年は未だ紅葉を観ていません。
何処に行こうか?ワイフと相談の結果、箱根に行く事にしました。12月5日土曜日、東海道線で小田原に向かいます。
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JR改札口には巨大な小田原提灯がぶら下がっていました。最乗寺さんの雲水さんが「歳末助け合い」を兼ねた托鉢をしておいででした。
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箱根登山鉄道の案内図。左端に小田原が隠れています。大平台駅の前後にスイッチバックが在って急な傾斜をグングンとの登って行きます。傾斜角80度は世界2位だそうです。今日は宮の下まで行って紅葉刈とランチの予定です。
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箱根登山鉄道は一気に観光客が押し寄せ大混雑でした。写真は大平平駅でスイッチバックする為対向車待ちの間に写したもの。運転手と車掌が交代しました。この駅からの見晴らしは最高でした。
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大平台駅での待ち合わせは最高のビューです。左下の橋が箱根登山鉄道の早川渓谷を渡る鉄橋(出山鉄橋登録有形文化財)深さ43m・幅60mの峡谷を渡した日本最古の鉄橋です。


それにしても。箱根登山鉄道を計画したのは明治21年、三井物産の創立者である益田 孝氏(一般に雅号貪翁で呼ばれます)既に小田原早川口で別荘開拓を終えていた益田貪翁はスイスアルプスの観光開発に刺激され強羅の開発に着手します。強羅は大涌谷も近い温泉地でしたし。台地で見晴らすも開けている観光開発の目玉でした。問題は天下の剣と歌われた峡谷の深さと高さでした。アルプスは氷河が削った渓谷ですから。幾ら谷が深くても尾根道はなだらかでした。早川の渓谷を渡すために巨大なトラス構造の橋にする必要がありました。
幾つもの英知と情熱と努力の成果として箱根登山鉄道だったのでした。
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出川鉄橋の写真、台風による出水にも関東大震災にもこのトラスを積み上げた橋は壊れませんでした。写真出典:ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%A9%8B%E6%A2%81_(%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E7%99%BB%E5%B1%B1%E9%89%84%E9%81%93%E9%89%84%E9%81%93%E7%B7%9A)

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箱根登山鉄道は急峻な渓谷を上下する事に加えて直径30メートルの急なカーブを曲がります。乗る私達は楽しくても工事をして又メンテをする人も大変です。線路脇には紫陽花が植えられていますので初夏の紫陽花電車も人気です。写真では車両は空いていますがこれは午後1時頃の下りの車両です。登りの車両は混雑が続いていました。
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宮ノ下駅。駅舎も線路も花が絶えないのが箱根登山鉄道です。写真はベコニアですが秋海棠もまだ咲いていました。
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箱根登山鉄道宮ノ下駅の法面に植えられた紫陽花。もう枯れてしまいましたが瑞々しかった面影を残しています。
10時半箱根湯本で登山鉄道に乗り換えて、最初の目的地は。宮ノ下温泉です。大涌谷の噴火警戒レベルも1に下げられたので観光客もドット箱根に向かったのでしょう。登山鉄道は乗車率200%の混雑です。私は電車のドアを握って車窓から景色を眺めます。
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塔ノ沢駅のホームには銭荒井弁天が祀られています。

湯の道街道は渋滞して一向に動きそうな様子はありません。湯本は竹下通りの様な混雑です。箱根の人達の笑顔が見えるようです。何時もは車ですが今日は登山電車です。気色も違うし気持ちもゆとりがあります。塔ノ沢のホームには「銭荒井弁天」が祀られている事も知りました。外輪山の中腹にはお堂の甍が見渡せます。位置からして阿弥陀寺のお堂でしょう。
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大平台駅からの眺め眼の下が大平台の温泉街その下に塔ノ沢の温泉が続いています。右上方には相模湾が望めます。
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箱根登山鉄道は紅葉と急峻な上下の坂道である事から変化が大きく楽しいものがあります車では観れない箱根を楽しめます。これは帰路の社内風景です。

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大平台のスイッチバック。困難だった強羅開発の知恵を留めています。紅葉も楽しめます。

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大平台駅からの眺望。向かいの山が箱根外輪山明星ヶ岳-明神ヶ岳-矢倉沢峠-林道-金時山と続きます。阿弥陀寺は右上に見える甍の辺りです。円空の先人である弾誓上人が開いたお寺で京都の古知谷(こちだに)阿弥陀寺の末寺で塔ノ沢で亡くなられた皇女和宮の葬儀が行われたお寺さんです。円空への関心から私は何度かこのお寺に登りました。大平台から見ると見事に紅葉しているようです。


箱根登山鉄道は先人が困難を克服して開いた鉄道です。四季を通じて季節を満喫できることに加えて歴史や美術に富んでいます。食べ物は美味しいし。翅登山鉄道自体も駅員保線区員全員が鉄路を大切にしています。
温泉もあって私の欲求を万遍無く満たしてくれます。今日のお昼は宮ノ下で自然薯の御蕎麦を予定しています。噴火危険レベルも1に下げられて観光客も戻ってきたようです。先ずは良かった良かったです。

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宮ノ下の紅葉

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箱根登山鉄道の宮ノ下駅で降りて、紫陽花坂を下ります。今日最初の目的地は富士屋ホテルです。
私が銀行員だった時代は富士屋ホテルは国際興業の旗艦ホテルでしたが、国際航業自体は軍需省に出入りして蓄財した小佐野賢治氏が一代で立ち上げた総合観光企業でありました。
小佐野賢治氏の手腕に依り各地の一流ホテルを傘下に収めましたが、しかし同社が佐川急便事件で地検の家宅捜査を受けた頃から風向きが変わり。巨大な有利子負債に世間の厳しい目が向けられました。米国投資ファンドサーベラスに買収され資産の切り売りが進められます。
帝国ホテル株を三井不動産に売却)、浜松町の遊休地(2013年日本生命保険に売却、800億)や八重洲富士屋ホテルを住友不動産に売却します。売却代金をを以って、サーベラスの保有株を買い戻してようやく禿鷹ファンドの呪縛から解き放されます。
宮ノ下富士屋ホテルは売却しなかった資産で、富士屋ホテルチェーンの看板であり続けています。ところで、宮下の富士屋ホテルですがこのホテルにも歴史があります。
話は横浜開港1858年(安政5年)に遡ります。幕府は修好条約に従って神奈川村を開港したのでしたが色々不都合でした。そこで横浜の高島に港を埋め立てます(高島港)。港が出来たら次に欲しいのは遊郭です。江戸時代の常識では栄えた港は必ず遊郭が在ったのでした。遊郭の手本として長崎の丸山が手本にされました。
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高島町にあった岩亀楼の写真(神風楼とプリントされているのは昭和に名が変わったもの。1階が見世で二階が遊女の個室です岩亀のあった辺りは今では銭湯が残って居たり岩亀稲荷が残っている程度で何もありません。地元の人に訊けばММ21が出来て三菱重工が転居してしまったので街の灯が消えたと言っておいででした。

そうして港崎遊郭(代表が「岩亀楼」が建設されました。岩亀楼は岩槻の資産家・山口粂蔵が建てたものでしたが経営は養子山口仙之助(明治11年慶応義塾卒)に継承されます。山口仙之助は岩亀楼の支配人も経験した苦労人でしたから外国人専門の遊郭のコンセプトは外国人専門のホテルコンセプトに継承されました箱根の塔ノ沢は谷の底でしたが、暫く登れば熊野神社で眺望も開けます。山口仙之助は塔ノ沢から宮ノ下まで人力車を通す道を開きます。
そして宮の下に外国人専門のホテルを開いたのでした。日本人専門の旅館「奈良屋」と共に箱根を代表する宿になって今日まで人気を博します。ですから富士屋ホテルは大きな唐破風を備えた玄関口、竜宮城を想わせる見世風の格子戸など遊郭を想わせるデザインです。
富士屋ホテルは紅葉に囲まれています。竜宮城が赤い壁であるのは女性の肌の色が一番綺麗に見えるからでしょう。富士屋ホテルは女性が輝いて見えるように工夫が為されているのです。
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宮ノ下セピア通りを登ると富士屋ホテルが見えてきます。

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富士屋ホテルは紅葉に囲まれています上層階は遊女の個室を想わせるデザインです。
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1階玄関は唐破風2階以上には朱色の欄干に個窓がついて如何にも遊郭の個室を想わせるデザインです。地上の竜宮城をデザインして外国人を誘致しようとしたのでしょう。
当初予定通り蕎麦屋さんに入りました。富士屋ホテルとシチュウパンで有名な渡辺ベーカリーの中間に箱根蕎麦の暖簾が懸っています。其処が箱根蕎麦の曾我蕎麦です。看板は自然薯蕎麦です。1階は駐車場です。1階を蕎麦屋に改装するより駐車場の方が稼ぎが良いのでしょう。2階に登れば眼の下がセピア通りで箱根駅伝が走ります。宮ノ下から小涌園までは急な登り坂である事に加えて曲がりくねっていますから見物の絶交ポイントです。店主にすると2階だけで営業する方が有益なのでしょう。箱根の自然薯では山薬が有名ですし小田急の箱根蕎麦も行けそうです。でも、コスパを考えれば曾我の屋が選択されました。
自然薯蕎麦は冷麺なので温かいカレー南蛮を注文しましたワイフは自然薯蕎麦を美味そうに食べています。
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これが曾我の屋のカレー南蛮向かいが自然薯蕎麦箱根の寄木細工のお盆に乗って出されまあした。南蛮と云っても矢鱈に茸が多いカレーでした。勿論美味しく体も温まりました。


次の目的地は益田鈍翁の開発した板橋別荘地にある老欅荘です再び登山鉄道宮ノ下駅に戻るには紫陽花坂を登らなければなりません。幸いなことに坂の右に手摺が付いています。手摺を握ってコンクリートに刻まれた馬蹄の跡を見詰めながら登ります。坂の途中には茶店が軒を連ねています。喫茶店の奈良屋さんは足湯を設備して居ました。外人さんが足湯を占拠して珈琲にケーキをエンジョイしています。足湯は「フットバス」。焼き芋は「ローストスィートポテト」と云うのを初めて知りました。
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喫茶店奈良屋さんはテラスに足湯を設備して此処で喫茶ケーキのサービスをして人気でした珈琲は370円とリーズナブルでした。
私達は宮ノ下駅で切符を求め電車が来るまで宮ノ下駅前の「森飯」に入って、甘酒(100円を飲むむ事にしました。止まり木のような椅子に座ると目の前の嵌め殺しのガラス窓です。窓の外はまだ青い楓です。親切なお姉さんが甘酒を運んで来て「お熱いので気をつけて底になると生姜が濃くなるのでお気を付けください」言ってくれました.青楓の梢を渡って来る小鳥がいます。何が飛んで来たかと思えばコゲラです。今が求愛の最中のようです。お隣の止まり木のペアもコゲラを見詰めて居ます。私達にもあんな季節がありました。
季節は人間にもコゲラにも平等に巡って来ます。人間の為だけにあるなんて思うのは驕りの他何物でもありません。箱根は何時来ても楽しい処です。今週末は湯本から小田原市街に紅葉は下りて来ることでしょう。
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宮の下駅前の食堂「森飯」の止まり木目の前は青楓でした梢にコゲラ(小さいキツツキ)が求愛中で追いかけっこして居ました。

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宮ノ下駅の眺め箱根のお月様の饅頭http://www.hakoneyumoto.com/shopping/31はこれから向かう板橋に工場があります。

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耳庵の老欅荘

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宮ノ下から紅葉を探しに板橋の松永記念館に向かいました。小田急板橋駅を降りると赤い幟が並んで立っています。幟には「秋葉山火防祭」と白抜きされています。明日(12月6日」は板橋町では秋葉山量覚院」で 火防 ( ひぶせ ) 祭」が執り行われるのです。昔は何処の家でも台所に秋葉山の狼の護符が貼られていました。火は闇(陰)から光を照らして陽に導いてくれます。生の食料を煮炊きして食べられる状態にしてくれます。火を通すことで食中毒から免れる事も出来る尊い神秘な手段です。でも使い方を誤れば火事になって財も命も一瞬にして失います。そこで火を司る神を秋葉山に祀ったのでした。秋葉原(あきはばら)は(秋葉神社の原っぱの意味ですから(あきばはら)正しいのです。江戸っ子の舌が短いので(あきはばら)と訛っているのです。
益田貪翁は板橋丘陵の南東斜面を別荘地に開発しました。そして時の政財界人の別荘サロンンにしました。
東京から見れば最初に金沢八景(伊藤博文等が進出)次いで大磯、そして小田原板橋に避寒地として別荘が開発されたのでした。貪翁の「掃雲台」こそ強羅公園に移築されてしまいましたが。板橋には素晴らしい別荘が今も遺されています。山形有朋の「古希庵」大倉喜八郎の「共寿亭/割烹山月」黒田長成の「清閑亭」等がそれで、数寄屋造りの建物を見学できます。強羅公園の益田貪翁の茶室は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45075968.html
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松永記念館の園地池の周囲に茶室が在って回遊できるようになっています。遠くの丘陵が借景になっています。古希庵等はこの丘陵に点在しています。
紅葉の向こう「北」が香林寺で背中(南)が火伏の寺「秋葉山量覚院」になります。紅葉の下にある石橋と石灯籠が庭の中心でどちらも奈良の長岳寺から移設したものです。
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上段写真の右端にある茶室葉雨庵(たにし庵)野崎廣太の茶室を移設したモノ後述する老欅共々国の登録有形文化財です。現在は入園無料です。小田原市は痩せ我慢で頑張っています。そんな努力が茶花は職員に庭の草花を活けさせ、障子が破れれは継ぎ接ぎさせているようです。こうして見ると継ぎ接ぎの障子が返って美しいと感じます。電力王松永耳庵も苦笑いで障子を観ておいででしょう。右は春日蟷螂。にじり口の草履を脱ぐ用の踏み石に置かれた関守石(せきもりいし)は早川の川原にある安山岩のようです。
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池から老欅荘に向かうと正面に欅の大木が迫って来ま左端に見えまする大木です。
戦前は「電力王」と呼ばれた松永耳庵が出現したかと思いつつ欅の大木を見上げます。
松永安左衛門は飽く迄開戦に反対し、”テロリストに命を狙われている”と忠告されてやむをえず引退させられ抵抗”耳庵”と名乗り茶人として余生を過ごします。その頑固一徹なな姿勢がこの大木に乗り移ったのかように思えます。
私はリハビリが進んだとはいえ左脚は弱いのです。少しでもよろければお池に嵌ってしまいます。慎重に石段を登ります。さて今日のハイライト老欅荘の紅葉の色づき具合が気にかかります。
欅の葉はもう散ってしまい枯れ木です。紅葉も遅かったかもしれません。でも池から10メートルほど高い位置にある老欅荘は紅葉に囲まれていました。
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老欅荘の築地越しに欅の大木を見下ろす。この築地は耳翁がデザインされたものだそうですが緩やかに曲がりくねった姿はたおやかで京都高尾の高山寺のそれを思わせます。この塩葺き瓦の上に散紅葉が重なります。
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この歪んだ築地も耳庵のデザインだそうです。高山寺を髣髴させます。

【耳庵と戦争】
老欅荘を営んだ松永耳庵について説明します。松永安左衛門は長崎の孤島壱岐の生まれです。盟友の
益田貪翁は佐渡の相川の生まれでしたから二人は逆境で育ち反骨の武士であった事は共通していたのでしょう。慶応義塾に進学し福沢諭吉の眼に止まります。日銀に就職、福沢桃介と丸三商会を創業します石炭の販売で成功します(1901年27歳)。1909年(35歳」で福博電気軌道(福岡の路面電車で後の西鉄の前身になる)。
同社は電力事業に重心を移し関西電力(1921年47歳)設立します。関西電力はし九州電灯鉄道を合併し東邦電力になります(1922年48歳)。東邦電力は本社を東京に移転1925年(51歳)で東京電力を設立します。何れの電力事業においても松永安左衛門はナンバー2で福沢が表に立ちました。松永安左衛門が表に立ったのは昭和3年(1928年54歳)の時でした東邦電力の社長に就任します。
このころから我国の世相は一変してきました。国は国家総動員法を通し、更に電力事業の重要性を鑑み国の管理下に置こうとします。こうした動きにリベラリストの松永安左衛門は真っ向反対します。「電力統制私見」を発表し、民間主導の電力会社再編を主張します。今見れば松永安左衛門の主張は正論なのですが思わぬ舌禍事件を引き起こします。講演会の席上で軍閥に追随する官僚達を「人間のクズ」と発言しました(1937年)。これらの言動は「天皇の勅命をいただいているものへの最大な侮辱」と大問題になり松永は新聞に謝罪広告を掲載して引退させられてしまいます。益田貪翁は松永の心中が良く解っていたのでしょう。自らの茶会に松永を誘いました。
伴う東邦電力の解散(194268歳)を期に松永は引退し、以後所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日を過ごします。同時に益田貪翁の誘いに従って小田原板橋に老欅荘の建設に着手します。(当初は15坪現在は45坪)。松永の評価は高く今年の秋NHKでは「経世済民の男松永安左衛門」http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/write.htmlとしてドラマ放映して居ました。
戦後GHQによる占領政策上、日本発送電会社の民営化が課題になると、松永安左衛門は電気事業再編成審議会会長に選出された現在の様な民営に依る9電力会社への事業再編による分割民営化(九電力体制)を実現しました。
今泉下の松永安左衛門は云っておられるでしょう「原発事故あれは何だ?官僚の甘言に騙されて原発なんて玩具を作るから・・・・。矢張り官僚は人間の屑だ。政治は経世済民だと言っておいたのに官僚のミスリードで財界は「経世斉企業」に堕している。と
そう言えば今日は開戦の日です。
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老欅荘の主室
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主室の床の間の投げ入れ。素材は庭木ばかりでもう正月モードでした。左端に松永安左衛門の写真が置かれています。

ところで耳庵の名ですが。何故松永安左衛門が耳庵と名乗ったのか、其処にも反骨がうかがわれると思います。一般的には」論語に依った解釈でしょう。
論語には15歳を志学(しがく) 30歳を而立じりつ 40歳を不惑(ふわく ) 50歳を知名(ちめい 60歳を耳順(じじゅん)と云います。呼ぶと言います。60代で引退に追い込まれた不本意であるが・・・・テロリストに狙われているというのならばそんな雑音にも耳を傾けて遣ろうじゃないか!そんな気持ちで耳庵と名乗ったのでしょう。屹度翁は庚申塔の猿の様な気持ちだったことでしょう。
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庚申塔の三猿は眼を塞いだ猿耳を塞いだ猿そして口を閉じた猿の三匹ですがこのお猿さんは頭を地中に埋めてしまっています。こうすれば嫌なモノを観なくて済むし、聞かなくて済みます。時鳥は血を吐いても啼き続けると言います。正論を吐いても殺されるだけだと悟った時耳庵さんは土の中で”官僚の馬鹿野郎”軍閥の阿呆!日本をどうする気だ”叫びたかったのでしょう。(写真は鎌倉常楽寺)

明日はお隣の秋葉山量覚院を書きます。

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小田原秋葉山量覚院の秋景

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松永記念館老欅荘の南が秋葉山量覚院です。明日(12月7日)は「火防 ( ひぶせ ) 祭」との事あちこちに貼られたポスターに案内されています。ポスターには山伏による「火渡り神事」も執り行われる様子、首都圏では「品川寺」や高尾山で盛大に執り行われていますから馴染みもありますが神奈川県では此処だけのような気がしますし。秋葉山の名がついたお寺であれば尚更です。明日の3時から始まるというので出直したい気にもなりますが、このままパスしては神罰を受けるかもしれない・・・、思いなおして秋葉山に登りました。お寺の入り口は板橋の資産家内野氏の邸宅が構えています。
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板橋の旧街道に面した下田豆腐店に貼られた「火防祭」のポスター。

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就き当りが秋葉山量覚院右のお屋敷が地元の資産家(内野醤油)の内野露地の脇には朱染めり白抜きの幟が立っていました。

火は古代人にとって神秘だった事でしょう。火は夜の闇を照らしてくれますし。寒い時には暖を提供してくれます。生では食べられないお米も火で煮るか蒸せば美味しく食べられます。火が無ければ人間は生きて行けません。でも火は気難しくて扱いを誤てば命取りになります。屹度焼畑時代に火の扱いを誤って命を落とした人が多かったのでしょう。日本人の母のイザナミは迦具土神/かぐつち)を産んだために陰部に火傷を負って死んでしまいます。この迦具土神は秋葉神です。一般に迦具土神は白狐の背に乗った烏天狗で表されます。勿論背中に大きな火焔を背負っています。我が生家の土間の竈の壁にも迦具土神の護符が貼られていました。
火祭りは正月明け(高尾山薬王院は3月8日)と思って居ましたが最近は消防署の期待を受けて防火運動に合わせて実施され火伏の字も何時の間にか火防と書いて無理に「ひぶせ」と読ませているようです。火伏の方が意味が良く解ると思うのですが・・・・・。
量覚院の境内はお祭りの準備で忙しくしておいででした。
住職さんは見事な大根を二本ブル下げて祭壇に供えておいでです。寺男たちは散り敷いた落ち葉を掻き集めてい舞明日。でも落ち葉には銀杏が混じっているので掃き難く作業は捗りません。大黒さんが魔法瓶に煎餅をお盆に山盛りにして運んできました。
ソロソロ休憩してくださいな・・・・。尊ア雰囲気です。
普段はクレヨン保育園の園児が走り回る境内で明日は怖い怖い山伏さんが火渡りの神事を実施するのです。

これから三溪園に出かけます帰宅後このブログは完成させます。


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彩りの三溪園で結婚写真を撮る

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結婚写真は人生の華になる記念写真です。分不相応な結婚式をあげさせていただいた、我が夫婦も大切にアルバムを残しています。新婚旅行の写真は私がとったものなので褪色も目立ってしまいましたが、流石にプロの写した写真はワイフの瑞々しさは変わりません。でも、写真は何れも結婚式場,被露宴会場ばかりです。屋外写真が在ったら良かったのに思うものです。
もう20年も前の事です。ソウルに旅をして博物館(当時は朝鮮総督府の建物その後取り壊されて新しく現在の建物になりました)の前庭に沢山の新婚さんがたむろして結婚記念写真を撮っていました。これを「前撮り」といって韓国では習慣になっているのだそうです。
自分達が大切にする記念写真ですから、一番綺麗な場所で撮りたいのが偽らざる心情でしょう。韓国人の合理性を感じました。
そんな合理性を日本人が真似しない筈ありません。世界の観光地にカメラマン同行で屋外記念結婚写真を撮るのです。
横浜でジミ婚をあげて記念写真は大桟橋に停留した豪華客船をバックに撮影したり三溪園のお庭で撮影するのが流行りのようです。インターネットで調べると撮影料プリント代込みで4万円が相場のようです。「前撮り・横浜」で検索すると三溪園での撮影を得意とするスタジオが6社も出てきます。
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これはハービスのホープページhttp://www.la-viephoto.com/blog/index.phpから転載したものです。写真スタジオでは「結婚衣装+着付+スタジオ写真」で15万円程度で三溪園などの名勝地での前撮り写真をオプション(5千程度から)を付けるのが常識のようです。

12月9日天気も最高でしたので急遽三溪園に出かけました。この私達にとっては、秋最期の紅葉です。昨年の今頃は自宅に戻ったと言っても出かける事は叶わず来年は紅葉狩りに出かけたいと枕を濡らしていました。僅か一度倅が運転してくれて遊行寺や日吉の銀杏を観ただけでした。想い起せば計画通りリハビリが進捗して。館林や箱根の紅葉を観てきたことになります。
横浜市民にとっては紅葉と云えば先ずもって三溪園です。池がある事伝統的な数寄屋建築がある事。自然と人工が調和して居る事から贅沢な紅葉狩りが出来ます。
昨日までに案内した益田鈍翁、松永耳庵そして原三溪の三人を「近代の三茶人」と呼びます。三人に共通する事がありました。鈍翁は三井物産を創業したこと耳庵は電力王と呼ばれた事原三溪は絹糸業で財を為した事、何れも実業で大成功を収めた人物で、その財を以って一流の美術コレクターでもありました。原三溪は美術コレクターであるだけに留まらず。下村寒山を始め若い画家を養い面倒を看ましたし、自身も絵筆をとったのでした。元来スケールが大きなリベラリストでしたから。4畳半の茶室に閉じ籠ってわけにはゆか大きな広間を茶室にして沢山の人を招いてお茶会を始めました。千利休のお茶室は4畳半で、明日にも戦場の露に消えるかもしれない武士が一時抹茶を回し飲みする事によって死の覚悟を固めたのでしょうが。大正デモクラシーを体験した実業家は農家の囲炉裏端に集まって実業や経世済民を論じ美の世界に遊んでリベラリストの自由を満喫し合ったのでしょう。そう想うと三溪園の数寄屋建築も雄大な本牧の風景も格別な味が在ったのでしょう。大和長岳寺の石橋も明日香の古墳の石棺も東大寺大仏殿の礎石も金に糸目をつけない成金のコレクションの様に見えますが、リベラリストたちにとっては石造物を観る事によって、限りある命(有機化合物)無限な石(無機化合物)の鮮やかなコントラストを身近に置きたかったのでしょう。
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破蓮の向こうに三重塔。この塔は南山城笠置に在った旧燈明寺の塔を移築したものです。心持浄瑠璃寺や岩船寺の三重の塔に似た姿に見えるのは同郷同時代だからでしょう。
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夏には蓮花越に眺める三重塔が人気ですが今は山茶花越です。
この季節三溪園の重要文化財は公開しています。数年前までは玄関から入室できましたが今年も縁側から覗いてみるだけです。私の様に杖を突いて歩く参観者にとっては文化財を杖で傷めたら大変です。庭先から覗き見るだけで充分に満足です。
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三溪園の秋のハイライト聴秋閣二階の小部屋は銀閣寺と同じような仏間でしょう。足利義政はこの仏間から月を眺め徳川家光はこの小部屋に坐して秋の気配を耳で聴いたのでしょう。因みに聴秋閣のネーミングは原三渓によるものです。

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聴秋閣のこけら葺きの屋根越しに三重の塔を眺める三溪園の秋を代表するアングルです。
三溪園を満喫して内苑から外苑に出ました。もうじきお昼です。すると後から後から次々に前撮りの新婚さんがタクシーで乗り付けて来ました昔は、嫁入り行列を眺めるのが楽しみでした。此処で日向ぼっこをしていたら何組の新婚夫婦が観られるのか飽きないようです。ワイフは”秋には赤い打掛より白無垢の打掛の方が映えるわね・・・なんて言っています。私は白無垢綿帽子のワイフの姿を想い出しました。今日は風も無いし小春日和の字の通りのうららかな日です。もうすこし陽向ボッコをする事にしましょう。
腹が空いてきたのでバスに乗って中華街に向かいました。
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白無垢の打掛のお嫁さん。やっぱし結婚式の華はお嫁さんです。紅葉の季節には紅葉と喧嘩しない淡い色か白無垢が良いようです。カメラマンと反射板を持って撮影隊も大変です。もう前撮りは結婚式の文化として定着したようです。韓国発信の東アジアの風俗文化と云えましょう。

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地母神の広がり(中華街のチャイ・ハネ)

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中華街の正門(北門)から入った処にチベットの民芸品店があるのです。
確か「民芸の箱舟」と看板が架っていて、土壁には巨大な陽物(男性自身)が描かれていたのです。日本流で云えば道祖神です。店に入ると陽物の民芸品が並んでいました。陸奥のこけしが陽物の感覚でツイツイ笑ってしまった記憶があります。今年NHKで壇蜜さんをチベットに連れて行き生死、輪廻を考える番組がありました。
壇蜜さんがチベットの農家の壁に描かれている陽物を観る場面が期待されたのでしたが、ディレクターは其処まではサービスしてくれませんでした。陽物を呪術で済ませてしまっていました。以来私は中華街の民芸品屋「民芸の方(はこぶね)」にもう一度行きたい、思って居たのでした。
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これが現在の中華街にある民芸品店”チャイ・ハネ”の正面ソコソコの賑いであるようです。
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これが中華街の民芸品店の壁です、10年前は陽物が幾つも描かれていて人目を惹くモノでありました。
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これがチベットの民家、壁に立派な陽物が描かれています陽物は厄除け招福の呪物と考えられていたと考えます。勿論大地に地母神がいて陽物との協業によって子孫が繁栄すると信じたと思うのです。

壁には陽物は描かれていません。店内にも陽物こけしは商っていません。
私は店長に尋ねてみました。美人の店長は変な親爺の質問にも丁寧に答えてくれました。
「確かに陽物を気紅描いて陽物民芸品を多く商っていたのですが。売れないので閉まってしまいました。」
その結果現在の様な羊毛の小物を多く商っています。
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これは茅ヶ崎小和田の道祖神陽物の前面に双体の段女神を浮き彫りしています。
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これは陽物のお守りこれをキーホルダーや帯留め根付けにしたら趣味悪いとか変態と呼ばれてしまいます。チャイ・ハネの陽物が売れなかったのも致し方ありません。せめてこけしや天狗、ヒョットコ位にオブラートにしておけば売れたのでしょうが・・・・。
「母なる大地」と云います。日本の最高神は天照大神でありキリスト教世界でも女性中心の社会でした。キリストは男性でしたが、キリスト教はそれ以前からあった地母神をマリア様と呼び、地母神の上にキリストをオンしてできたと思うのです。人類はその創世から女性ファーストであったと確信します。
東南アジアの呪物を観ると大半が女性ですし、地母神たる女性神を第一に考えると座りが良いのです。
”地母神が治める母系社会に狩猟をする男性が入ってきた”と考えます。
店長は説明してくれました。
店名の「チャイ・ハネhttp://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%8D」はトルコ語で人の集まる広場と云った意味だそうです。トルコの広場にある民芸品店を日本の盛り場に展開するのが事業コンセプトでしょう。店内は薄暗いし、中近東の胡椒の香りが充満しています一番に目立つのが象の姿をしたガネーシャ像ですガネーシャは日本に渡って歓喜天になったと考えられる現世利益の福徳の神です。土曜日拝観した小田原の秋葉山量覚院さんも歓喜天を併せて祀っておいででした。壇蜜さんのチベット旅行も仏陀と女神の抱擁像を見詰めて居ました釈迦出現以前から地母神は厚く信仰され男神(陽物)との協業の成果として命が始まり輪廻が転がりはじめる考えたことでしょう。輪廻の輪から離脱するのが幸福か輪廻の為すがままにするのが幸せか?難しい問題の様に思われます。新石器時代の方が幸せかもしれません。そう想ってガネーシャを観ると豊満な肉体で餓える心配も無かったように胸は豊満で下腹部は数人の子供を宿している様に膨らんでいました。
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これがチャイ・ハネ店内のガネーシャ像大小たくさん売られていました。この像が歓喜天です。歓喜天が無ければ命の循環は始まりません。象の威容が地母神が転じて大きな象に転じたと考えます。
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ガネーシャと観音像
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地母神は多産です
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チベットは蛙だ梟だと日本の招福グッズのルーツなのでしょう馴染みのグッズが所狭しと並んでいました。
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これは絵得体の知れない壺です。女性の体ですからこの壺に穀物を入れて調味料(醤油)や酒を醸造(醗酵)させるものかもしれません。何れにしてもこれは名にする用具かな?考えながら観るのは楽しいものです。

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今が旬の上海蟹だけれど・・・・

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チャイ・ハネでガネーシャ(歓喜天のルーツ)を観てソロソロランチにしようと・・・・、街を歩きました。未だ12時前ですから観光客はまばらです。学生の姿が目立ちます。
店先には上海蟹の看板が目につきますhttp://www.chinatown.or.jp/event/event/201409_01/2014_food_festival_03/。そうです、上海蟹は今が旬なのです。
上海蟹は支那藻屑蟹の事で、主として淡水で生活していますが繁殖時期になると揚子江を下って河口の汽水域に出て産卵します。草食性で田圃で草を食んで体力を充実させ、上海の近海で産卵します。そんな次第で秋から冬にかけてが旬になるのです。鮭は産卵のために河を登りますが蟹は川を下るのです。
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揚子江河口部での上海蟹の漁場風景、美しい景色ですが此処に生息する蟹に蓄積した重金属が何れ問題になると懸念するのです。
中国は広くて北京では狗(犬)が、臨海部では蟹が旬なのです。
その北京では連日PМ2.5が問題になって報道されています。

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今が旬の上海蟹、写真は中華街の萬珍樓本店http://blog.goo.ne.jp/santamonicagirl/e/4445dceae8bb133a1ed8fccfe120681e
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PМ2.5で翳んでしまった北京の街これでもオレンジ警報で翌日は赤色警報になってしまいました写真出典毎日新聞デジタル版http://mainichi.jp/articles/20151205/ddl/k32/020/445000c
総じて甘々の日本の環境基準を20倍も越えた大気環境なのですから既に人間の生きられる環境ではないようです。折しもパリではコップ21世界の耳目は中国に注がれいます。
中国は世界の人口の2割余りを擁しています。しかし農地は世界の1割に満たないのです。既に世界水準を遥かにに越えた人口過密なのですからこのまま経済成長が続く事は考えられません。
食料増産に成功しなければ自律的な成長は不可能です。食糧増産の為に農薬を使い化学肥料も使いました。更にヨウ化銀をロケットに載せて空に放って雨を降らせようとしています。天に唾する行為だと思うのです。
私は親中派ですから再三中国に出かけました。
30年前広州で夕焼けを眺めました。前日桂林で山脈に没する太陽を眺めて感動したので広州のホテルから地平線の彼方に沈む太陽を期待して待ちました。ところが太陽は地平線の少し上に靡いている黒雲の中に消えてしまいました。その黒雲はスモッグだったのでした。地平線から視線を近くの田畑にクローズアップすると、驚く事がありました。田畑に肥桶を出して播いている光景もありましたが既に農薬や化学肥料を撒いていました。中国の河川の汚れは眼を覆うものがありました。生活雑排物が河川を汚して悪臭を放っていたのでした。こんなによごれた大地で栽培された野菜は食べたくない思ったのでした。
個人が水や大地を穢す事に無頓着なのですから企業は産業廃棄物の投棄は無茶苦茶です。河川にカド二ウムやヒ素を始め重金属を廃棄してしまいます。一度大地に浸みこんだ重金属は容易には洗浄出来ません。何れ中国野菜や穀物の残留農薬以上に保有重金属が問題になる事でしょう。中国国内では既に癌が異常に多く発生している村落「癌症村」が発生していると聞きます。(この件は次のブログがリアルです写真は怖くて正視できませんhttp://matome.naver.jp/odai/2136175418093346201
想い起してみましょう。
日本でも40年代昭和光化学スモッグが問題になり自動車の排気ガス問題や工場の煤煙規制が問題になりました。既に30年代にはイタイイタイ病や水俣の水銀中毒問題などで海の汚れは指摘されていました。
現在中国で耳目を集めているのは大気汚染問題ですが次は大地の汚染その次は海の汚染と問題は顕在化する事でしょう。その何れもがグローバル時代の成長を阻害してしまいます。
一つしかない地球を人間だけが占有する事は許されません。
まして現在の勝組みの人だけが衣食住する事も許されない事です。その為の英知は縄文時代にあるように思うのです。その思想を言葉に変えたのが安藤昌益の”自然真営道”でありましょう。
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安藤昌益は大舘に産まれ八戸で活動したお医者さん。博識な漢方医で長崎で蘭学も学んだが明暦の飢饉に際し医学の無力を痛感し(病気よりも餓死する人が多かった)、自然のキャパよりも増えた人間の数や人間の贅沢な生き方こそ問題であると必要を考えました槇さんは漢方や古代の医術(医心方)に詳しく安藤昌益を評価して研究されておいでです。
人間は自然の一員として外部環境の許された範囲内で生活する事が理に適っているのです。
大気も水も大地も海も汚さない穢さない範囲内で慎ましく他の生物と一緒に呼吸し水を飲み自己の命を持続するに必要な範囲内で摂食する事が自然の理に適っているのでしょう。
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中華街の萬珍樓本店の前を行く春節の雑技団。春節を迎えれば横浜も春がもうじきになります。


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妖怪街道53次の面白さ

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水木しげるさんが亡くなられました。昨日は朝からNHKが特番を報じていました。朝ドラの実績もあるので已むを得ませんが肝心の”妖怪”への関心が薄いのが残念です。
妖怪の草分けと云えば先ずもって東洋大学を開学した井上円了です。
新潟の長岡用学校を卒業した井上円了は東大の哲学科に進学します東大で西田幾多郎等と知り合います。
「諸学の基礎は哲学にあり」とした信念から東洋大学を開きます。明治20年
円了は妖怪学を提言します。妖怪を科学した柳田国男などをズット先行したのでした。円了の妖怪を科学しようとした提言は次のようなモノでした。
【妖怪の分類】
①「真怪」:当時の科学では解明できない妖怪のこと
②「仮怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪のこと
誤怪」、人間のを誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪のこと
④「偽怪」「人が人為的に引き起こした妖怪の事をと
例えば仮怪を研究することは自然科学を解明することであり、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えに至りました。
円了の屋敷のあった中野の井哲学堂公園にはろくろ首等が置かれています。近くの深大寺門前には鬼太郎茶屋もあります。何れも紅葉の名所でもあり、この週末は大賑わいして居る事でしょう。http://www.youkai.co.jp/index.php/category/chaya
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深大寺門前にある鬼太郎茶屋入るだけでも楽しいものがあります。哲学堂公園と合わせれば一寸した妖怪ツアーです。写真出典鬼太郎茶屋(ホームページは本文中に記述)
民俗学や文化人類学が進歩し自然科学も併せて妖怪を科学する事は井上円了以来ズット続いています。
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”妖怪を科学する”は円了の提言ですが最近は妖怪を怖れたのも考え付いたのも人間なので人間を科学する素材に妖怪が分析されているようです。
ところで気になる事があります。新聞に東洋大学の学生募集広告が目立っている事です。先日の出雲マラソンで本命の青学を破って東洋大学が優勝した翌日の広告も読売の全面を使って出ていました”東洋大学と云えばマラソンとお思いかもしれませんが国際人を育てる大学です”そんな主張で国際学部を前面に押した広告でした。先日ネットで観ていると次のような相談が出ていました。
”明治学院大学と東洋大学に合格したのだけれどどちらに行こうか?迷っています”その解答は総じて
1、明治学院大学は横浜の戸塚と云う田舎にある東洋大学は都心にある
2、アセアンの重要性が増しています就職を考えれば東洋大学は伸びていますよ
そんなアドバイスです。プロテスタント系の大学と東洋哲学をベースにした大学を同時に受験するのも良く解りませんが。大事な事は自身の関心なのでしょうが・・・・。明治学院大学は私の町内に立地しています。学生は総じて地味で真面目で楽しそうに遣っているのですが・・・・・。
もう30年も前でしたが東洋大学がイメージキャラクターにムーミンを採用した事がありました
「何でムーミンなの?河童じゃないの?」
私ならずとも泉下の円了先生もいぶかしく思われた事でしょう。ムーミンに代わって駅伝が東洋大学の広告塔になったようです。
ところで、妖怪を身近にしたのは何といっても水木しげるさんです。私は石仏に攣れられて妖怪に引っ張れてきました。奪衣婆さんも妖怪です。縄文時代人の怖がった霊が地獄思想の浸透に伴って山姥から奪衣婆に模様替えしたと解釈しました.雪女も寒さや大雪への恐怖心から山姥を美しい雪女に転じさせました。河童やろくろ首は近世の矛盾に満ち溢れた社会に置いてみると納得できるような気がします。近世になって個の自覚が増してくる一方貧困や社会矛盾の克服を横の団結(講とか結い)と相克した結果妖怪が出来たと考えます。
水木しげるの「妖怪道五三継」を読みました。字の通り広重の東海道53継をパロディーにした漫画ですその中でお茶屋を案内してみます。先ず第一が東海道5番宿の戸塚です戸塚は「あの世の別れ道」として描かれています。「米屋」という名の茶屋風景です。
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これが水木しげるさんの戸塚宿の図柏尾川の畔の橋(吉倉橋]を描いておいでです「米屋」の看板は「化け屋」になっています茶屋の講中札は水木さんの本名「武良」になったり冗談が目立ちます橋の上に居る禿げ頭は「手の眼」と云う妖怪です盲人(按摩)を殺すと7代祟ると云われましたがこの妖怪は掌にある眼でもって仇を探し回ると云われました、鬼太郎と目玉親爺と鼠男はは茶屋で御神酒徳利で一服しています。此処で左折すれば鎌倉の縁切り寺に向かいます。
広重の原画は次の通りです。
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こちらが広重の描いた戸塚宿「こめ屋」です。
次の茶屋風景は駿河の国の毬子宿です20番「妖怪茶屋」と案内しています先に原画を観て戴きます。
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これが毬子のトロロ茶屋で現在存続する人気店です。店内には博物館の様に陳列されています。自然薯を摺ったとろろ飯は栄養価が高く峠越しの疲労回復と鋭気を養うのに有効だったと思われます。
毬子宿は打津谷峠(日本坂トンネルが通る)手前の茶屋で名物が自然薯をすりおろしたとろろ飯です広重もこのトロロの茶屋を描いています
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鬼太郎と鼠男は打津谷峠を前にして名物のトロロい飯を食べようと茶屋に入ります。ところがこの茶屋は既に妖怪に乗っ取られていたのでした。鼠男が看板の「首長屋」の名の謂れを聞くと女将は「それは私の事よ」と言うなり首がスリ・スリと伸びて行くのでした(ろくろ首。旅人は「君子危うきに近寄らず」言わんばかりに鬼太郎たちを脇眼に見ながら夕暮れの中峠を急いでゆきました。

峠をの南は夜泣き石で有名な「小夜の中山です。
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小夜の中山は妖怪だらけでした夜泣き石にカシャボが依り沿っていますし鬼熊が坂上から転げ落ちて来ます。鬼熊は木曾谷の妖怪で里に下りてきて家畜をさらってゆく妖怪です。白蔵主「はくそうず」狐が僧侶に化けて住職を務めていた伝説)
次の茶屋は袋井です。
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袋井は27番目の茶屋で京都と江戸の丁度中間に在った茶屋です。一面の田畑の中にポツンと井戸が在ったので袋井と呼んだそうです榎の大樹の下に茶屋があって駕籠かきは煙草の火を借りて旅人も縁台で休んでいます。
この袋井を水木さんは次のようにパロディーします。
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宿場場外れの長閑な田園の中で井戸があってお茶屋があります。稼ぎ上手の夜行(一つ目)は道路も真ん中に狸の茶釜を出して茶会を催そうとしています。怖ろしい(わいら)が騙された人間を喰おうと遣って来ました。榎の枝には水木さんのお嬢さん/水木悦子さんが眺めていましたが恐ろしさの余り枝から落ちそうになってしまいました」白坊主も飛んできました。駕籠担きは白坊主に気付いて恐ろしさの余り顎が外れてしまいました。榎の大木の脇には卒塔婆が立っています。今まで此処の茶会で命を落とした旅人の霊が祀られているのでしょう。

私は来年の花菖蒲の咲く頃小夜の中山から袋井蒲原辺りを旅行します。今から楽しみです。


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ウクライナのクリスマス(山手のクリスマス)

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中華街でランチした私達は元町に出て潮汲み坂を登って山手通りに出ました。山手通りを西に向かってイタリア山にある「外交官の家」が目的地です。フエリス女学院で工事中です以前はグランドだった空地に鉄筋建築中です。此処は地盤も堅固なので杭問題の懸念は無さそうです。加えてゼネコンは竹中工務店です。流石にフェリスは一流が好きなようです。尾根を東に越えればフェリス10号館です。フランク・ライトは帝国ホテルを設計し池袋自由学園をその折に池袋で自由学園を設計しました。アールデコ建築で有名です。ライトの設計思想は折からの昭和モダニズム建築となり、レーモンド設計事務所になり各地の教会や学校博物館になって存続しています。
私の住む横浜市戸塚区にも住友家別荘があって国の重要文化財だったのですが。横浜市が引き継いだ途端に焼失してしまいました。http://rolingwest.exblog.jp/tags/に写真がが出ています。また、鎌倉神奈川県立博物館(八幡宮境内)も壊されることが決まったようです。八幡宮と県との借地契約が打ち切りになるに際し、更地で返還するのです。朝日新聞記事はhttp://www.asahi.com/articles/ASH9B64N0H9BULOB01X.htmです。
私は今日はワイフが一緒なので”不審に思われずにフェリス10号館に入れそうだ…”思ったのですが急な坂道の上り下りに悲鳴を上げていたので諦めて真っ直ぐイタリア山に向かいました。
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潮汲み坂を登り切れば山手通りです。フェリスの掲示板にはクリスマスコンサートの案内が貼られていましたこの角のグランを潰して建物(体育館?)を建築中でした

フェリスの丘から見れば地蔵谷を越えた向こうのおかがイタリア山です。銀杏の黄葉とメタセコイアの狐色に染まっています。
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フェリスのある丘から谷戸の向こうにイタリア山を望む。銀杏やメタセコイアが染まっていました。アソコまで未だ歩くのか想うと気が遠くなりました。女子学生以上に叔父さんはアップダウンに弱いのです。この坂を私の友達は大根坂と呼んでいました。フェリスの生徒さんは大根足で有名なのだそうです。

今日は平日なのに外交官の家は混雑しています。早速お茶をして休憩しようと思いましたが喫茶コーナーは満席です。先にクリスマスの飾りを見学しました。昨日朝のNHKテレビで「外交官の家のクリスマス」を放映したのです。テレビの効果もあっての混雑なのでしょう。
テレビに映った叔母様が飾ったようで、その人が案内してくれました。
これは、ウクライナのクリスマスイブの食卓を再現したものだそうです。
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食卓に飾られたクリスマスの晩餐何といっても藁のお飾りが気になります。中央の藁飾りはジドゥフという祖霊を迎えるオブジェで(憑代)です。ウクライナでは麦藁で作るのだそうですが稲わらで作ったのだそうです。

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ウクライナ民家のクリスマスの晩餐テーブルウクライナはヨーロッパの穀倉地帯ですから穀物中心の晩餐のようです。七面鳥や羊肉などの肉食は見当たりません、一方、餃子等粉料理が、パイが目立ちます。左手前は雑穀と小豆をお粥に焚いています(7草粥)。中央の白いのは餃子です。ワイングラスを屠蘇にしてお箸を置けば日本の7草粥と同じです。
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お神輿には稲穂を咥えた鳳凰がいて祖霊の憑代になります。ウクライナのクリスマスの食卓を飾るジドゥフは馬に乗ったお爺さん(祖霊)を模ったものだそうで、祖先を迎えて子孫の繁栄を共々予祝した行事と思われます。

食卓に置かれたナプキンはトルコ風の幾何学模様です。陶器には模様も無くてシンプルで一見益子焼きか常滑焼の質感です。
ウクライナのクリスマスは1月6日だそうです。日本なら七草粥の日です。神棚に奉げた鏡餅を割って七草と一緒にお粥を焚いて家族で食べます。鏡餅に宿した命(祖霊が届けてくれる)を体内に入れて新年の多幸を祈ります。そのつもりで食卓を観れば五穀粥もありますし餃子もあります。この食卓は多国籍です。
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暖炉の上にはキリストとマリア様のイコン画を飾ってあります。織物の柄は幾何学模様でトルコやイスラム文化を感じます。

ウクライナは肉食文化と草食文化の交錯した処でしたから蒙古帝国の時代から戦争が絶えず文化が交じり合ってきました。何といってもジンギスカンが騎馬を駆使し、羊を連れてユーラシアに跨る大帝国を作った事に由来するのでしょう。
戦争に勝つには騎馬と鋭い武器が必要でしたが、武器以上に大切なのは食糧でした。羊を飼っていた蒙古民族にとっては食料を連れて戦線に臨んだようなもので、羊を料理すれば蛋白も内臓からミネラル(塩など)も取れました。
農耕民族だった中国も狩猟民族だったゲルマン国家も蒙古にとっては敵では無かったのでしょう。
東西の中間点だったウクライナでしたから麦と米が入れ替わっただけで農耕文化と牧畜文化が折衷したのでした。結果的にクリスマスも牧畜文化と農耕文化が入り混じりました。
牧畜文化は太陽暦です、農耕文化は太陰暦です。日本と同じだ想う処が多々あるのは自然な事です。
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応接室に飾られたクリスマスツリー右下足元に藁馬が置かれています。卵の飾りが多いのも豊穣と子孫繁栄を祈るもののようです。ロシアのマトリョーシカ(卵の形をした玩具人形)も卵に宿した命に期待する呪術に由来します。
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クリスマスツリーの足元の藁馬
ウクライナでは基本的には太陰暦でクリスマスもロシア正教に依っていて旧暦で実施されるようです。ですから日本で鏡餅を供えて新年の豊作を祈願するように麦で作ったオブジェを食卓に飾ったのでしょう。
麦藁が手配できなかったので稲藁でおびじぇを作ったそうです。一見するとお神輿を飾る稲穂を思い出します。クリスマスツリーと足元には藁馬が置かれています。
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これが軽井沢に近い小田井宿の諏訪神社の小正月の祭り藁馬を町内を牽いて回ります。祖霊が村を廻るのです。横浜ではお馬流し(本牧神社)といって漁港から藁で作った馬を海に流します。同じような祖霊に祈願した予祝行事です。出典は長野県のお祭りカレンダーhttp://www.tabinet-jp.com/event/event.htm)
中山道御代田宿の諏訪神社小田井町に奉納されていた藁馬と同じです。
実際にウクライナでこんな藁馬が作られているのか尋ねてみると違いました。
件の伯母さんが言うには
「日本もウクライナも良く似ているでしょう。その事実を知らしめるために藁馬を作って飾ったのだ」
そうです。そのつもりで観るとクリスマスツリーに沢山の玉飾りが吊るされていました。玉は卵です。卵は命の宿るモノです。卵を飾るのは新年の豊作と家族の繁栄を祈るものです。こんな気持ちは日本もウクライナも同じです。ウクライナは地政学上の位置が不幸して今も戦火が絶えませんが。クリスマスツリーの祈りの様に豊穣で幸せな家族の国になって欲しいものです暖炉の上に祀られたイコン画もそんな心を見守っているようです。
ようやく混雑も収まってきたようなので喫茶室で一服してかsらお庭に出ました。庭にはもうエリカの花が咲き誇っていました。冬至は未だですが、春はもう準備しているようです。
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夕暮れの外交官の家
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外交官の家のエリカの花は今が盛りです。バックがメタセコイアの秋色で春と秋が交錯しているような気がします。
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外交官の家のお隣はグラフ18番館。以前なら立ち寄ったのでしたがウクライナのクリスマスを観たので満足して帰ることにしました。


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色々な道祖神の後背

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私が最後に勝手気儘な石仏行脚をしたのは3年前でした。ワイフを補助席に乗せて奥浜名湖から鳳来寺を越えて足助の香嵐渓に向かいました。丁度今頃で。紅葉は散ってしまっていましたが、路傍の馬頭観音も道祖神も落ち葉に埋もれていました。昨日(12月14日)はお天気も悪くベッドで仰向けになって我が庭の紅葉を眺めて道祖神行脚を想い出して過しました。
芭蕉翁は道祖神の招きで陸奥旅行に旅立ったのしたが、私は道祖神巡りの為にリハビリを急がねばなりません。
瞼に道祖神の姿が浮かんできます。暫く道祖神を思い出していたら、気付く事がありました。道祖神の後背が多様である事です。
道祖神が彫られたのは江戸時代の事、専門の石工集団が各地に旅だって彫って回ったのでした。高遠や湯河原の石工が有名だったようですが。彼等は注文に従って観音像や地蔵さんも彫りました。仏像は大半が後背が付いてい舞明日。後背は仏像の荘厳さを増す効果と仏の慈愛(期待役割)を示していたのでしょう。円後背は太陽や月の眩しい光を表現し、舟形後背は衆生を載せて浄土に運んでくれることを意味していたのでしょう。石仏を彫る時必ずデザインされた後背でしたから、道祖神の場合にも用意されたのでした。
【模倣呪術】
人類学者のJ.G.フレーザーは文明の初期段階において呪術が盛行していること、そして呪術には模倣呪術(imitative magi/chomeopathic magic)と感染呪術) contagious magic)とに分けました。模倣呪術は,類似の姿や行為をする事で同じような効果を実現しようとするモノでした。(金枝編)
縄文土器の模様に蛇を付けたのは土器に汲んだ水が腐らない様に祈願した事、貯蔵した団栗の実を鼠が食べない様にする事等を祈ったと考えられます。
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縄文土器に装飾された蛇の意匠は貯蔵した水や木の実を保存するための呪術でありました。

先日山の手の外交官の家でのクリスマスツリーを観ました。樅の木には沢山のカラフルな「イースター・エッグ」が吊り下げられていました。イースターエッグとは正教会の習慣で復活祭において卵をデザインしたプレゼントを贈るモノです。
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これがイースターエッグです。卵の形をしたお菓子や容器を作って中にプレゼントを収めます。卵が命の源で復活をイメージさせる模倣呪術であると考えられます。
ところで鳥や蛇は卵の殻を破って逞しく出現します。これに似たものが繭玉でしょう。小正月にはお餅で作った繭玉をどんと焼きの火で焼いて食べます。これもイースターエッグの様な習俗です。また養蚕業の盛んだった笛吹川流域の道祖神は丸い川原石です。これも繭玉が川原石に似て居る事から始まった模倣呪術でしょう。
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秩父往還の塩山に祀られている道祖神は円い川原石です。命の源卵に似て居る事から模倣呪術にされたものと思います、向こうの山【大菩薩峠】を越えれば秩父の三峰山です。

【道祖神の円後背】
道祖神の後背デザインで一番多いのは円形です。仏像なら太陽や月を後背にしたと考えるのですが。道祖神ですからこれは卵と考えるのが自然でしょう。卵の殻を破ってヒヨコや蛇が産まれるように夫婦の間で元気な命を授かるように祈願したと考えます。
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安曇野穂高町中村土手の王朝風道祖神。自然石に丸く彫を削り夫婦神を浮き彫りしています。
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長野県彫金村の道祖神(善光寺街道)男神が高い位置にあって女神がお酒を注いでいます天保4年1833年作です。
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上田別所温泉野倉の双体道祖神も見事な円後背です。
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これは安曇野穂高村の道祖神見事な円形後背です。穂高の道祖神は次に書いたことがあります。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47331121.html

【桃の後背】
桃の実から産まれたのが鬼退治をする桃太郎です。桃太郎の様な子供を授かりたいと願って桃を後背にしたものと考えます。
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これは中山道洗馬の道祖神桃の実を模った後背です。桃は桃太郎でありイザナギが黄泉の国から逃げる時難を逃れる為に投げたモノです。
【扇面後背】
後背の中には扇を模ったものがあります。今でも扇は日本の人気の工芸品です。扇は漢字で奈良時代中国から団扇(うちわ)が伝わると日本人は直ぐに折り畳み式に工夫して檜扇にしました。団扇はビロウの葉っぱを乾かして使っていたのでしたが平安時代に折り畳み式にしてその表面に絵を描き工芸品に仕立てたのでした。基本的には巫女が手招きする形を模したモノでしたから手と同じ五本指でした。タイやジャワの民俗舞踊のお嬢さんの手の仕草は巫女さんが神の降臨を合図する仕草と思います。そう想うと日本舞踊の手の動きも巫女さんを思い起こします。那須与一は屋島の戦いで平家の挑発に乗っての舟に立てられた扇を打ち落とします。扇は平家の魂(神)ですから源氏の矢が扇を打ち落とした事は。源氏の勝利が神意であることを示しました。扇は神の形であると信じられていたのです。
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檜扇平安時代後期、厳島神社蔵。扇を形作る檜の薄板全てに胡粉を塗って、さらに雲母を塗り、金銀の箔を散らして絵を描かれています。出典ウィキペディア
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野麦街道梓川村の扇面道祖神。梓川流域に多い相体道祖神ですが上流では扇面が多く下流の安曇に行くと円形後背が目立つようになります。


【鳥居後背道祖神】
鳥居は此処からは神域を示す結界のサインです。鳥居を浮き彫りしてその枠の中に神像を浮き彫りするモノも目立ちます。鳥居はまるで歌舞伎の舞台の様に見えます。
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安曇野穂高村で拝んだ鳥居後背の道祖神
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これも安曇野穂高村の鳥居後背の道祖神修学旅行の生徒さんは恋愛成就祈願かな・・・・・?


道祖神は素朴な庶民の願を叶えてくれる神様です。素朴である事は模呪術であることを意味しています。私達は呪術を否定する事を学び、キリスト教も仏教も形而上学的な神学を尊んで呪術を蔑み時に法律で禁止してきました。でも呪術が形になったものを観ていると人間は石器時代も現代もあんまり変わっていないと思います。丸い形を好む民俗は戦争を忌避する生き方を知っていますし。鳥居を重んじる民族は他国を占領しようと思いませんし、環境を大切にします。

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土偶は白魔術?それとも黒魔術?

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昨日は道祖神の後背を書きました。何時もブログを書いた後しばらくの間はその内容について反証します。今回も”道祖神の円後背は卵か鏡だろうと”と推測したものの本当か?再疑問を呈していました。ならば子孫の繁栄を祈るもので、J.G.フレーザーの分類に依れば白魔術【white magic 】です、若しかしたら怨敵に危害を期待する黒魔術【black magic】かも知れません。
私の好きな土偶にも白魔術黒魔術相反する解釈があります。
土偶は主として縄文遺跡から発掘されている人形です。
先ず想い出すのは茅野から蓼科山山麓に登った処にある尖り石遺跡から出土した縄文ビーナスです。
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これが縄文ビーナス【国宝】です。豊かな胸膨らんだお腹安産から子孫繁栄を祈願する模倣呪術所謂白魔術です。
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立位出産の土偶、安産を祈る白魔術です(青森の三内丸山遺跡出土の模倣品)

一方で山梨の笛吹川河岸段丘にある釈迦堂遺跡を始め多くの縄文遺跡で出土する土偶は大半が一部破損しています。一見して故意に壊したように思えます。「故意に体の一部を破損させている」事を根拠に黒魔術とする意見もあります。黒魔術とは怨敵等に不幸が在って欲しいとする行為です。藁人形に丑三つ時に五寸釘を打って怨敵を呪い殺すような不幸を祈願する行為です。今年は青森県で次の土偶が発見されました。
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土偶は白魔術なのか黒魔術なのか正反対の解釈ですが、どちらも説得力があるところがロマンです。白魔術黒魔術の分類はフレーザーがしたこと日本の土偶に無理に当て嵌める必要はありません。でも縄文時代の前半は良い共同体で後半になると縄文村も原始共同体から複雑な利害関係を生じ呪い殺そうとするような怖い呪術も出現したのでしょう。
ところで次の写真は平城宮跡からら出土した人形です。薄い木の板を使って人形にしています。×が書かれて居たり斜線が描かれているのは殺したい切り刻みたいそんな怨念の表現でしょう。これは黒魔術です。ところでその下の段の写真は同じ様なモノでも円空が彫った木端仏です。
これは良い事を自らに祈願するに際して本尊(観音や地蔵)に祈ってその分身として木端仏を持ち帰りもう一体同じような木端仏を自作して御礼詣でした習俗の成果として岐阜の浪子観音寺や恐山の圓通寺に残されたものです。円空の木端仏は白魔術です。
同じ様な造形でも正反対の解釈が可能な処が面白いというか不思議です。
問題は自分の内を観るか外を観るか。しして自分の幸福を願うか他人の不幸を願うかの違いです。出来れば白魔術にありたいものです。勿論私は縄文ビーナスと円空の木端仏が好きです。そうありたいと思って居ます。
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平城宮跡から出土した呪詛人形

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